この日、蝶屋敷の病室はケガ人でベッドが埋まっていた。
というのも、病室に運ばれた者は討伐隊の構成員であり、先日現れた十二鬼月の一角「下弦の鬼」に匹敵する力を持つ鬼と交戦したのだ。討伐は見事成功し、死者も出ずに終わったため上々の成果と言えるが、隊士のほとんどが負傷する事態となったのだ。
「ふう……」
「皆、お疲れ様」
しのぶとカナエはイスに腰掛け、一呼吸置いた。
野戦病院と化していた蝶屋敷も、処置を全て終えたことで落ち着きを取り戻し、ようやく息がつけるようになった。これであとは経過観察で十分だろう。
「花柱様……」
「ありがとうございます……」
「いいのよ。これが私の仕事だもの」
負傷した隊士達を労うカナエ。
すると、そこへ扉を開けて新戸が鍋を持って現れた。
「カナエ、しのぶ。甘酒作りすぎたから飲んでくんね?」
「新戸さん、またあなた勝手に厨房で……」
「仕方ないだろ、飲みたくなったんだから。それに材料は自分で買ったからいいだろ別に」
細かいこと気にすんなと言いつつ、新戸は鍋を机に乗せて蓋を開けた。
甘い香りが病室に漂い、その中にお酒の匂いも混じっている。米麹ではなく酒粕で作ったようだ。
その直後、紫色の瞳をした少女がお盆で人数分のコップを持ってやってきた。
「どうぞ」
「おっ、ありがとなカナヲ」
新戸は少女に感謝の言葉を掛ける。
名は、
「それにしてもカナヲは偉いな~。そこのガサツな妹と違う」
「何ですって? もう一度言ってみなさいクズ野郎」
「あ、すまん。心の声が漏れちった」
「正直でよろしい。あとで内臓を引き摺り出してあげましょう」
新戸に対して恐ろしいくらい美しい笑顔を向けるしのぶに、一同は顔面蒼白。
しかしカナエは荒ぶる妹を甘酒を片手に宥めた。
「コラコラ、そういう品の無い言葉はカナヲの教育に悪いからやめなさい。それよりも新戸さんの甘酒美味しそうだから一緒に飲みましょ♪」
「姉さん! それ
「しのぶ、お前さっきのヤツ根に持ってんの?」
おたまでコップに掬い、一気に飲み下すしのぶ。
数秒経ってから、驚きを隠せない表情で呟いた。
「お、美味しい……! 何であんなどうしようもない人から、こんな優しい味が作れるの……!?」
「しのぶ、どういうことそれ?」
新戸がジト目でしのぶを睨みつける。
その間にもカナエは隊士達に甘酒を配る。
「……うまっ」
「何って言うか……おふくろの味?」
「鬼がおふくろの味を生み出せるって理解不能なんだけど」
隊士からの評判は上々。
カナエはすでに三杯目に突入していた。
「体が温まるわ~……誰に教わったの?」
「う~ん……多分母さんに教わったんじゃねェかなァ。いや、父さんだったかな……でも兄さん二人もいたし……誰だっけ? 別にいいけど」
甘酒をグイッと煽る新戸に、カナエ達は哀しそうに見つめた。
新戸は人間時代の記憶や人格はそのままハッキリと残っている鬼である。しかし鬼となった代償か、家族の顔と名前は憶えていても、家族とどこで何をしたのかという過去の記憶――思い出はほとんど残っていないのだ。
そんな彼だが、やはり元が人間であるからか、身体に染みついたモノはハッキリ残っていた。甘酒の作り方と味もその一つで、母親から教わりよく自分で作り飲んでいたのだ。当の本人は鬼となった影響でほとんど忘れているが。
(愛する人達も、その思い出も失っているのよね……)
一夜にして鬼舞辻無惨によって家族を失い、鬼にされた小守新戸。
自堕落な日々を過ごしているとはいえ、その身にかつて起こった悲しい出来事を抱える彼に、カナエは悲しそうな表情を浮かべる。断片的にも残っているのが不幸中の幸いだろう。
「それにしても、今日ヤケにケガ人多くね?」
「ええ。実は彼ら〝下弦級〟の鬼と交戦したの。誰も死ななかったからよかったけど、皆ケガしちゃって……」
「あったり前だ。敵のこと何も知らねェまま
新戸の言葉に、病室にいた全ての者が生唾を飲んだ。
汚いズルいは負け犬の遠吠え、反則行為も立派な戦術、騙し討ちこそ完全勝利の近道……それが新戸の鬼との戦い方である。鬼という人外に人間の常識や良識は通じないからこそ、汚い手段を用いるのだ。
そしてほぼ全ての鬼が、本能的に己自身を過信している。中には理知的で冷静沈着な強者もいるが、大抵の鬼は生物として反則的な体質を有するために慢心する傾向にある。新戸が
「鬼殺隊は
『……!』
「まあ、鬼の俺の言葉なんぞ聴く義理はねェだろうけどな」
ただ己を鍛えて強くなるだけでは強力な鬼は倒せない。
そう示唆する新戸に、隊士達は顔を見合わせた。
すると、開いていた窓の枠に一羽の鎹鴉が降り立った。
「やあ新戸。ちょうどいいところに」
(お館様の鎹鴉!?)
首元に紫色の飾り紐を巻いた鎹鴉に、新戸以外は仰天する。
「……耀哉、何の用? 俺今日は働く気はないから」
(いつもそうだろうが!!)
毎日ダラダラと自由に過ごす男のセリフではない。
最近は鬼殺隊の歴史上類を見ない成果を上げたようだが、それを踏まえてもほとんど働かない奴が自分のことを棚に上げる言動に、隊士達は怒りが湧くのを覚えた。
「今日は煉獄家に少しおつかいにいってもらいたくてね」
「大方の予想はつくよ。どうせ槇寿郎のことだろ? 剣捨てといて柱のままでいるバカをどうにかしろってか」
「……やってくれるかい?」
「だから耀哉が行けばいいじゃん。お前まだ墓参りできるだろうが」
新戸と鎹鴉は論戦を繰り広げる。
一度働かないと決めた新戸は、梃子でも動かない。これは長い戦いになりそうだとカナエは苦笑いするが――
「……わーったよ、
(折れた!?)
「労働ハ敵」と仕込み杖の刀身に彫る程、働くことを拒む新戸が早々に妥協した。
しかし新戸のズボラな性格や振る舞いを知る中堅隊士達は、それはそれで不気味だと震え上がっていた。
「……あまり意地悪をしないようにね」
「心配すんなって。そこは弁えてるから」
(……全く信用できない……)
鎹鴉の忠告に新戸は心配無用だと伝えるが、その顔はゲスい笑みを浮かべている。
明らかに意図的にやらかす気満々な新戸に、一同は不安を募らせるのだった。
*
その日の夜。
新戸は煉獄家の屋敷の門へ辿り着いた。
ちなみに今の彼の姿は、訳あって女の姿である。
「おーい、槇寿郎死んでるー? おーい」
新戸は門を叩くが、返事が来ない。
それなりに大きな声で言ったのだが、煉獄家からの反応は無い。
新戸はスネをかじる身だが、客人が来れば一応は反応する。それすらもないということは――
「あ~……これは〝重症〟だな」
そう言うや否や、新戸は一気に跳び上がり、塀を乗り越えた。
すると新戸の鼻が、香ばしい匂いを捉えた。
「何だよ、誰かいるんじゃん……しかも
新戸は酒に合いそうな匂いに惹かれ、軽やかな足取りで匂いのする厨房へと向かって行った。
その日も煉獄家次男・
母・
自分にも兄の
――どうやったら、どう声を掛けたら、立ち直ってくれるだろうか。
「父上……」
「ここからだな? つまみの匂いは」
聞いたことの無い女性の声に、千寿郎はビクリと肩を震わせる。
すぐさま振り返って、凍りついた。
(な、なぜここに鬼が!?)
そこにいたのは、風変わりな出で立ちの鬼だった。
詰襟の上に紫の着物を尻端折りで着用し、その上に羽織を被った鬼殺隊の隊士を思わせる服装。腰まで伸びた髪と詰襟の下でも存在感を露わにする胸部から、女性であることが伺えた。何よりも目に入るのが、鬼特有の鋭い瞳だ。
なぜ鬼が屋敷に忍び込めたのか、一体何をしに来たのか、頭の中でグルグルと周り混乱してしまう。
(――落ち着け、千寿郎。父上が来るまで引き止めねば!)
包丁を静かに置き、鬼と向き合う。
鬼は壁に凭れると懐から煙草を一本取り出すと、マッチで火を点け吹かし始めた。
「いやあ、夜中に悪いね。ついついイイ匂いに惹かれちまったもんで」
「……鬼が、我が家に一体何の用ですか」
「おめェの親父にな。
不敵に笑う女の鬼だが、その砕けた口調は男。
邪気は一切感じ取れず、その目つきも獲物を見るというより親しい者に向ける優しい目つき。
声と口調の不一致と、敵意の無い態度に、千寿郎は不思議そうに見つめる。
ドタドタドタドタ! バンッ!!
今度は屋敷の奥からガタイのいい男が日輪刀を片手に現れた。槇寿郎だ。
新戸が女の姿になってるせいか、面識のある鬼とは思わず殺意を剥き出しにしており、千寿郎を守るように立った。
「……失せろ、悪鬼」
いつものぶっきらぼうな声ではない、柱時代を彷彿させる圧のある声。
冷たく当たっていたとは思えない、息子を命懸けで護らんとする態度。
今まで見たことも無い父の姿に、千寿郎は声をかけようとするが、それよりも早く鬼が口を開いた。
「え? 〝療治の水〟も持ってきたのに第一声が「失せろ、悪鬼」とかヒドくね?」
ジト目の鬼の言い回しに、槇寿郎はカッと目を見開いた。
見た目は間違いなく女性の鬼。だが、砕けた口調と咥え煙草、そして得物の仕込み杖を見て正体を悟った。
「――まさか貴様、新戸か!?」
「やっと気づいたか。久しぶり。アンタ昔より勘が鈍ってんぞ?」
ビキリと青筋を浮かべる槇寿郎。
心配したのが損だったとでも言わんばかりに、盛大に溜め息を吐いた。
「俺の知る気配でなかったぞ……全く、お前は昔から人騒がせな……!!」
「フヒヒヒ……だけど、息子を護ろうとする親父としての最低限の矜持は失ってなくてよかったよ。煉獄プータローかと思ってたからビックリだわ」
「誰が煉獄プータローだ!!」
「現在進行形でそうじゃん」
ビキビキとさらに青筋を浮かべる槇寿郎に対し、新戸は愉快そうに笑いながら元の男の姿に戻っていく。
女性らしいしなやかさと丸みを帯びた体が、程よく引き締まった青年に。身長は段々と伸びて
あっという間に元の姿に戻った新戸に、千寿郎は驚きを隠せないでいた。
「父上、この方は一体……?」
「先代当主の頃から鬼殺隊にいる、異端の鬼・小守新戸だ。コイツは昔から質が悪くてな……」
新戸に振り回された日々を思い出したのか、槇寿郎は頭を抱えた。
当の本人はイタズラっ子のような無邪気な笑みを浮かべているが。
「そんじゃあ、腹も空いたし飯としますか」
居間に案内された新戸は、槇寿郎と千寿郎と共に夕食を堪能していた。
「プハーッ! やっぱ顔見知りと飲む酒は美味い!!」
ケラケラとほろ酔い気分で笑う新戸は、槇寿郎の徳利に酒を注ぐ。
父と酒を飲む姿は、人の血肉で生きる人喰い鬼のそれとは程遠い。人間と大差ない食性に、千寿郎はクスッと笑みを浮かべた。
「……そんじゃあ、早速本題に入りますか」
新戸は煙草を咥えて火を点け、煉獄家を訪ねた理由を語る。
「実は耀哉からな、お前をどうにかしろって命令受けてんのよ」
「お館様が……だと?」
「そりゃそうだろ。まだ柱を
新戸は煙草の煙で輪っかを作りながら、いつになく真剣な表情で言葉を紡ぐ。
「柱ってのは隊士達をまとめる立場だ。俺は立場上隊士でも柱でもねェが、てめェは違う。柱の中でも古参の部類だし、新米の柱にとっても頼りになる存在なんだ。任務に酒持ち込むのはいいが、剣捨てるんならぶっちゃけ柱辞めてもらった方が鬼殺隊の重荷は減る」
「っ……本当にお前は遠慮を知らんのか」
「ウソ言うよりかはいいと思って」
ニヤニヤ笑う新戸に、槇寿郎は目を逸らす。
「……で、辞めてほしいというのか」
「ただ辞めるのは困るんだよなァ。それだと俺の仕事が増える」
「そこはお前が頑張ればいいだけの話だろうが!! 逃げるな!!」
槇寿郎のごもっともな正論に、千寿郎は苦笑い。
だがそこを譲らないのがチャランポランの小守新戸。正論を意にも介さず話を進める。
「俺は仕事を増やしたくない。そしてアンタには然るべき辞め方をしてもらいたい」
「……復帰しろとは言わんのか」
「復帰したら、瑠火さんが遺した
その言葉に、槇寿郎と千寿郎はハッとなる。
煉獄瑠火……槇寿郎の妻にして千寿郎の母であった、煉獄家の心の支え。彼女を失ってから煉獄家は大きく変わってしまった。煉獄家は、瑠火を失った日から時が止まっているのだ。
新戸はその状況をどうにか打破したいのだ。本音を言えば自分の
楽をするため、スネをかじり続けるためなら、新戸は努力も我慢も惜しまないのだ。
「だからさ、それを一気に解決させるために……炎柱の代、杏寿郎に譲ってくんね?」
ドガァッ!!
刹那、新戸の顔面に拳が叩き込まれた。
そのまま庭まで吹き飛ばされ、塀の壁に激突する。
「ち、父上っ!? 何を!?」
「ペッ……おいおい、いきなりどうした? 俺の顔に虫でも留まってたか」
新戸は痛がる素振りをしつつ立ち上がる。
視線の先には、鬼の形相をした槇寿郎が。
「杏寿郎に炎柱を継げだと!? くだらん!! 炎柱は俺の代で終わりなんだ、大した才能も無い愚息に夢を見させるな!!! 所詮犬死するだけだ!!!」
ビリビリと空気を震わせる程の怒声と罵倒。
新戸一人に向けられる強烈な威圧感と殺気は、彼が炎柱たる者である証拠。しかも先程の豪拳は全集中の呼吸を用いて放った一撃。殺意は無かったが、殴り殺す勢いではあった。
いつになく激昂する父親に、千寿郎は身震いする。
だが殴られた新戸は、何かを確信したのか不敵な笑みを浮かべていた。
「息子の杏寿郎まで死なせたかねェってことはよーくわかったよ」
「っ!!」
その言葉に、槇寿郎は目に見える程に動揺した。
新戸は遠慮を知らない。自分が思っていることを、その場の空気を考えずそのまま口に出す。そんな彼の言葉は時に本質や核心を突き、人の心に刺さることもある。
槇寿郎が息子達に冷たくなり剣術の指南もやめたのは、死なせたくないという想いがあるからだと新戸は判断したのだ。そしてそれは見事に的中した。
その上で、新戸は忠告した。
「――だがな、人間の歩みは止まらねェ。杏寿郎は〝熱〟を帯びてた頃のてめェを見て育っちまったんだ。てめェが
「っ……!」
「自分が炎柱になれば父上も情熱を取り戻すだろうとか考えてたら、お前が何を思ってどう言おうが、杏寿郎は止まらねェよ。鬼狩りになった時点で手遅れかもしれねェけどな」
槇寿郎は拳を強く握り締める。
――よりにもよって、鬼のお前に言われるとはな。
人間ではなく怠惰を貪る、腐れ縁のダメ鬼に見透かされたことに槇寿郎は舌打ちをした。
「……どうやら、貴様はどうしても杏寿郎を柱にさせたいらしいな」
「柱が足りねェってことは、俺に面倒な仕事がいっぱい回るって意味だからな」
「……引く気はないのか、クズめ」
「
庭に降り立ち、酒瓶を飲み干して投げ捨てる槇寿郎。
立ち上がり、着物に付いた汚れを払う新戸。
険しい表情の鬼狩りと、あくどい笑みを絶やさない鬼が対峙し、そして――
「炎柱を舐めるなァ!!」
「飲んだくれの亭主なんざこれっぽっちも怖くねェよ!!」
完全に酒が入った二人は、盛大な殴り合いを繰り広げたのだった。
*
一週間後、産屋敷邸。
曇り空の下、当主の耀哉はいつになく元気そうであった。
「槇寿郎、よく戻ってきてくれたね。杏寿郎がその羽織を纏えるまでの間、よろしく頼むよ」
「はい。御心配をおかけいたしました」
槇寿郎の言葉に、集結した柱達も安堵の笑みを溢した。
煉獄家の庭で勃発した、新戸と槇寿郎の壮絶な殴り合い。殴って、殴られて、ぶつかり合った結果、新戸が殴り合いを制して槇寿郎の現場復帰となったのだ。古参の柱が立ち直ったことで、鬼殺隊の士気も上がることだろう。
ただし条件付きである。それは「長男・煉獄杏寿郎が炎柱を継ぐに相応しい強さを得るまで」という期限付きの復帰。そもそも柱を辞める腹積もりだった槇寿郎は、杏寿郎が柱の選定基準である「階級が甲で、十二鬼月を倒すか鬼を五十体倒すか」を成し遂げれば代を譲ると決めたのだ。
「新戸、ありがとう。何と礼を言うべきか」
「耀哉、俺は自分が楽になるための努力は惜しまないぜ」
「小守……今の一言で全部台無しだぞ」
本音ダダ漏れの新戸に、悲鳴嶼は冷たいツッコミを入れた。
新戸は自分が楽をしたい欲を優先し、人間であれば絶対に気にするであろう周りからの評判や期待など「煩わしいから応える義理は無い」と考えている。言い変えれば「楽をするため・スネをかじり続けるためなら何でもする」という意味でもあるのだが……いかんせんズボラさに定評のあるチャランポランなので、色々とアレである。
「……とりあえず槇寿郎、任務中は断酒しようか」
「御意」
「そうだぜ。酒に呑まれてあっちの世界へ逝っちゃったなんざ笑えねェからマジで」
「貴様にだけは言われたくないわァ!!」
自分のことを棚に上げる新戸に、槇寿郎は障子が震える程の怒声を放つのだった。
【ダメ鬼コソコソ噂話】
女の体になった新戸は、筋力と血鬼術の威力が落ちる反面、体の柔軟性がよくなる。ただし酒に若干酔いやすくなる。
なお、胸の大きさは甘露寺と同じ。