それは紛れもない失態だった。
藤襲山で行われた鬼殺隊の最終選別。それに参加した真菰は、最終日の七日目を目前にして一体の異形の鬼と遭遇した。
本来この山には人を数人程度しか喰らっていない弱小の鬼以外入れられていない。わざわざそういった鬼を選んで生け捕りにしているのだ。だからこの山にいる鬼は血鬼術どころか人型から逸脱してすらいないはずだった。
そんな中出くわした、全身を大量の手で覆った異形の鬼。他の選別参加者を易々と捕らえ、まるで片手間に喰らいながら夜の山を闊歩する。
一目見ただけで討伐は困難だと真菰は悟った。あれを倒すには地力が足りない。単独で倒すには少なくとも最近甲へ階級を上げた無愛想な兄弟子ほどの技量が必要で、無傷で倒すなら自分と同程度の剣士が三人は要る。いまだ成長期の途中で身体のできていない真菰では困難な相手なのだと。
本来ならば、その時点で撤退を選ぶべきだった。
最終選別も佳境の七日目、疲労は蓄積され参加者の生き残りは少ない。実力が近く体力に余裕のある剣士など、そう見つかるはずがない。もはや事態は真菰の手に余っていた。
幸いあの手鬼は腕が多いものの脚の早さは緩慢だ。そして逆に真菰は足に自信があった。逃げに徹すれば夜明けまで距離を離し続けることはできるだろう。
今の真菰に出来ることといえば、どんなに業腹であっても目の前の手鬼を撒いて逃げ、生き残りを集めて怪我人を救助し、守りを固めて夜明けを待つことだ。そして帰還してからこの異常な鬼のことを上役に報告すればいい。
鬼殺の使命は今この瞬間が全てではない。
この試練を終えたあと、一体でも多くの人食い鬼を殺すことこそが本番である。
この選別の要旨は鬼を殺すことではなく、生き残ることなのだから。
そう考えた真菰は、せめてもの意趣返しとして手鬼が剣士を捕まえていた腕のひとつを斬りおとして解放し、その勢いのまま脇目も振らずに逃げ出したのだ。
――――逃げ出した、はずだった。
「見つけたぞ、俺の仔狐。鱗滝ィ……!」
どうして。
どうしてこの鬼が、鱗滝さんのことを知っている……?
逃げられなくなった。たった一言で足が根を張ったように退くことを拒んだ。
鬼の口から明かされた事実。自らを捕らえた元水柱への恨み、目印となってしまった厄除の面、そして――――錆兎。
鱗滝さんの元へ弟子入りして、しばらくもしないうちに最終選別へと発った二人の兄弟子の片割れ。
藤襲山の鬼をほとんど一人で斬り尽し、最後の最後で命を落とした。
戻ってきたのは半ばから折れた刀と、頭を失った血まみれの亡骸。
共に過ごした時間は数カ月にも満たないけれど、それでも彼の人となりを知るには充分で。
口に出したことはないけれど。
家族のように――兄のように、思っていた。
――それは、紛れもない失態だった。
激情に駆られて逃げ道を自ら断ち、配分も考えずに全力で動き続けた。悔しくて悲しくて、涙でぐちゃぐちゃになりながら斬りかかった。
何本も何本も鬼の手を斬りおとし、そのたびに生え変わる腕に徒労ばかり重ね続けて、結局鬼の首に刀が届かないまま先に真菰の方に限界が来た。
息が切れ、目が眩む。独特の呼吸によって底上げされていた身体能力が翳りを見せる。
その隙を手鬼は見逃さず、まるで慣れた作業のように真菰の腕を掴みとった。
「すばしっこかったなァ。前の奴より足が速かった。でもそれだけだった」
「――――ッ」
もう一本の手が真菰の右脚を掴んだ。左腕と右脚、万力のように締め上げられて骨が軋む。せめて悲鳴は聞かせてやらない、そう思って声を噛み殺す。
「罪な奴だよ、鱗滝の野郎は。こォんな女のガキまで死なせちまう。俺のためにわざわざさぁ」
「死ねッ!!!」
「フフ、フフフフフッ。折角だもんなァ、折角の女の弟子だ、丁寧に殺してやりたいよなァ。手足引き千切って、達磨みたいにしてやろうか。手足だけ食っちまって、残りは鱗滝のために残しておいてやろうかァ? 顔は綺麗にしといた方が、きっとアイツも喜ぶだろ?」
べき、と枯れた枝のような音が左腕から上がった。へし折られた、そう考える間もなく激痛で刀を取り落す。
あぁ、終わった。
どこか他人事のように真菰は終わりを受け入れて、それでも悔しさはそのままに視界が滲みきったままで、それでもどうにもならなくて――
「――――先ほどの剣舞、お見事でした」
疾風が奔った。
真菰と手鬼の間を一陣の風が駆け抜け、一拍遅れて手鬼の腕が
「な――」
滑らかな断面を残して切断された手鬼の腕。不意の浮遊感ののち、誰かに抱き留められた。
真菰の身体を軽々と抱きかかえた何者かは、軽やかに大地を蹴って手鬼から距離を取る。
「威力足らず尻すぼみとはいえ、あたかも流水のごとき剣の冴え、水精オンテニフも照覧あれ……あー、いや。アレに見せてもなんだかんだ嫁自慢に行き着いて鬱陶しいことになりそうですね。やはり訂正を」
凛とした声が響いた。
どこかとぼけた口調は女性のもので、異形の鬼を相手する気負いというものが見受けられない。
真菰の膝を支える腕の先には、ひと振りの長い打刀が無機質な輝きを放っていた。
「あなたは……」
「横入りは無粋ゆえ見に徹していましたが、しかし年端もいかない娘がなぶり殺しにされるのも見過ごしがたい。差し出がましいですが眼福の謝礼に助太刀申し上げましょう」
臙脂の着物に紺の袴、そして腰に差した打刀。
明治も終わりの世にあっていささか時代がかった恰好の女は、しかし顔立ちは日本人というには違和感があった。彫りが深い目鼻立ちに、明るい茶髪を後ろに纏め、青みがかった瞳は茫洋と手鬼を捉えている。
「なんだァ? お前、何なんだァ……!?」
手鬼が怒鳴った。
「俺の獲物だぞ!? 俺が殺すって決めてる狐面だぞ!? なに邪魔してるんだお前ェ!?」
「――――」
あまりの大声にびりびりと空気が振動する。うぞうぞと全身に生える腕を蠢かせて怒りを露わにする手鬼を尻目に、女は気圧された様子もなく真菰の身体を地面に下ろした。
「骨折は痛みますか?」
「あ、えっと……」
「どうにか手当てしたいところですが、あいにく添え木も手拭いも手元にない。後で適当な骨でも拾っておきましょう」
「無視してんじゃぁ――――!」
振り下ろす。一抱え以上に肥大した片腕、背中を向けた彼女に向けて容赦なく。
真菰はそれを見ながら何もできずに、一瞬後彼女の頭が砕け散るさまから目を逸らして、
「ねェエエエエ!!!」
「くどい」
しゃらん、と太刀風が空を切った。
ろくに相手を見もせずに振り向きざまに薙ぎ払った斬撃は、吸い込まれたように肘から先を切断する。
「あぁぁあああ!?」
「そこのモンジャラ、勝手に話に割り込むな」
また斬りやがったなこのアマ畜生、と罵声を上げる手鬼に向き直り、女は聞き覚えのない呼び名で吐き捨てる。
「ただでさえ愛嬌も何もない風体でぎゃあぎゃあと。
「トレ……なんだァ? なに言ってるんだお前キチガイか……!?」
「――――あ゛ァ?」
ビキ、と音を立てて女の額に青筋が浮いた。あとものすごいドスの利いた声が聞こえた。
女は深く深呼吸を繰り返し、精神を落ち着かせようと試みる。ぶつぶつと何やら意味不明な独り言が背後の真菰の耳に聞こえてきた。
「…………ビークール、イッツクール……大丈夫私は冷静。いきなり一人芝居を始めてないし電波も受け取ってない。受け取ったまんじゅうを地面に叩きつけたことも、ましてやボス戦前にカレーを食べたこともない。そんな私は紛れもなく常識人、いたって普通の――」
「意味わかんねえんだよエセ南蛮女ァ! 頭にクソでも詰まってるのかァ!?」
「よし、殺そう」
刹那、女の姿が掻き消えた。
目に自信のあった真菰ですら見逃す瞬足の肉薄。気付いたときには女は手鬼の懐へもぐりこみ、手にした打刀は担ぎ八相へ。
ヒョウ、と鋭く漏れる吐息。腰を捻じるように大きく振り被った女の剣は、残像を霞ませて消え去り、
「ガ――――!?」
力士四人分もあろうかと言う手鬼の巨体が、まるで冗談のように吹き飛んだ。
細い木々を薙ぎ倒してようやく止まる鬼の体躯、その胴体には深々と斜めに刻まれた斬撃痕――それが
防御のためだろう胴体を覆っていた無数の腕がぼとぼとと音を立てて落ちる。同時に切断面から噴き上がった赤黒い血が地面を毒々しく染め上げた。
「……むう?」
袈裟切りに振り下ろした刀をそのままに残心を示す女。僅かに跳ね上げた片眉、訝しげに細めた目は自らが斬り飛ばした手鬼を見つめた。
通常ならば会心の剣戟。これが人間ならば間違いなく即死ものの豪剣である。――――人間ならば。
しかし相手は人外たる鬼の化け物。日光を浴びせるか日輪刀で首を刎ねる以外に倒す術はない。
「舐めるなァアアアアア!!」
跳ね起きた手鬼が爆発したように四方八方へ腕を伸ばした。
ビラビラした細い腕が百本以上、空へ伸び木々の間を縫い女を拘束せんと殺到し、隆々たる怪腕が固い拳を形作り小腕の後を追うように射出される。
完全に囲まれた。前後左右上空に至るまで女の周囲を埋め尽くす手鬼の腕、腕、腕、腕。
躱せるはずがない。防げる道理などない。逃げ場などない。
百人が百死に墜ちる絶死の檻。捕らわれた人間はあえなく手足を引き千切られ怪腕に胴を握り潰される、それが見え透いた結末だ。
――――だが、しかし。
だが、しかし。真菰は不思議に思う。
――――どうして自分の目は、直後に起きるであろう悲惨な光景から、目が離せないのだろう……?
予感があった。不思議と奇妙な確信があった。
「――――幾重にも舞い」
殺到する腕。迫りくる死。
女はいっそ軽やかに歩を前に進めた。不意に響いた祝詞のようにも聞こえる声は、彼女の喉を震わせるものか。
「――――夢知らぬ骸築く」
女が構えた。
大きく足を引き、引き絞るように刀を構える。切っ先が緩やかに弧を描き、月の白い光を冴え冴えと写し返した。
そして――
「――これが、奥義……ッ!」
刹那。
冬の藤襲山に、季節外れの桜が咲いた。