――足裏が荒々しく地面を叩く。震脚じみた踏み込みによる風圧すら押し寄せる肉薄。振るわれる太刀筋は
ふいごのごとく喉を震わせるヒュウヒュウという呼気の音。鍛え上げられた腹膜が肺を激しく伸縮させ、取り込んだ酸素が全身を活性する。バクバクと銅鑼を鳴らすかのように心臓は動悸し、血流の流れすら常人から逸脱した速さ。
前々から思ってたんだけどさ。
「常中ってズルくない?」
返答は言葉ではなく容赦のない斬撃で帰ってきた。師としてはもう少し手心を加えて欲しい。こっち竹刀やぞ。
無防備に喰らってやるのも癪なので全部受け流すことにする。流して絡めて押し込めて、癖はとっくに把握してるから足運びをどこに持っていくかも予想できる。伸ばした足を狙って側面から蹴り飛ばして重心を崩し、背中側に回り込んで襟首を掴んだらはいおしまい。さあ独楽のように回りながら引き倒れるのだ。
「――――ッ!」
――と思ったら。こやつ背筋だけで地面を跳ねおった。
くるくると錐揉みしながら倒れた真菰はゴム毬のような動きで跳ね起きた。そのまま勢いに任せて正中線を斬るように、
前転と同時に放たれた空中からの斬り下ろし。
まるでどこぞで見たネズミ花火みたいだなぁ、なんて感想を抱いた。刀身から溢れ出る水のエフェクトとかまさにそれではあるまいか。
流す必要は特にない。むしろ打ち返して崩した方がペースを握れると判断する。所詮仰向けの態勢から背筋と50キロもない自重からくる落下エネルギーなど知れたもの。
適当にかちあげて木刀ごとはね飛ばし……って重い重い重い……!?
「これだからトンデモ武術は……!」
悪態ひとつ。やたら回転が速い上に剣圧が重すぎる。一体どんな背筋の使い方してるのやら。
このまま強引に押し返すのはできないこともないが、それでは教練にならない。というわけで
「…………っ!?」
空中で態勢を崩す真菰。空を切りかける木刀、驚きに目を剥く真菰の顔が清々しい。
膝を崩し、落とした腰。背中から倒れ込むように仰け反り、跳ね上げた右脚を間に挟んだ。足裏はぴたりと真菰の腹に。
「ちゃんと受け身は取るように」
「ちょ――!?」
変則巴投げの出来上がりである。ポーンと毬のように投げ飛ばされた真菰は五メートルほど宙を舞い、背中から地面に叩き落とされた。
常人なら悶絶必至なセメント投げである。しかし彼女は器用に背中を丸めて衝撃を殺すと、手足を丸めて綺麗に立ち上がってみせた。振り返って真菰は不平も露わな顔つきで私を見る。
「……今回は技のひとつも無しですか」
「膨れるんじゃない。というか、そうポンポン撃っていいものじゃないんです。出し惜しみくらいさせなさい」
「ズルい。私はいつも全力でかかってるのに、師匠は手抜きだもの」
「何が手抜きか。それにズルいのは真菰の方でしょう。なんなんだ呼吸とか常中とか意味不明な技術は。一年やって全然身につかないんですけど?」
本当にふざけた技術だと思う。見取りが得意な私がここまで手こずるとは。
大体何なんだ常中って。呼吸に寄る負荷を四六時中寝る間に至るまでかけ続けることによって身体を強化し続ける……ってそれこそ理解不能なんですが。
聞いただけなら似非科学乙とばかりに歯牙にもかけなかったのだが、実際目の前に実例が転がっているのだから始末に負えない。
――この一年、真菰の成長率は目を見張るものがある。最終選別のときとはもはや別人だ。特に常中を習得してから伸びしろが目に見えて広がった。
今でこそ余裕をもって捌いていられるが、あと数年もしないうちに私も本気でかからなければならないほどに成長するだろう。
本当に訳が分からない。フェレスの加護も無しにどうしてこんなに成長できるの? 今の彼女はイススィール時代で言うなら、湖畔の辺りでカワセミと死闘を繰り広げていた頃の私に匹敵するのではなかろうか。
……今大したことないとか思ったやろ? そのカワセミ、人間一人軽く丸呑みにできるくらいデカいんだぜ? 蘇生なんて上等な魔法もアイテムもないイススィール冒険者たちの多くがそこで斃れていった。
……まぁ、その後に巡った廟塔やら灰城やらの攻略にはそれぞれ十年かけたわけですが。
「――――とにかく。病み上がりにしては上々の仕上がりです。不調がないか確認したら蝶屋敷に戻りましょう」
私がそう言うと、真菰は渋々といった様子で木刀を納めた。
まだ入院してから二週間しかたってない。というかまだ療養中のはずなのにもう鍛錬に精を出すとは、感心した話である。
「――筋力のない隊士?」
蝶屋敷への帰路にて、真菰からひとりの隊士について相談を受けた。
なんでも、鬼殺隊最高幹部のひとりである花柱、その継子はその小柄さゆえに鬼の頸を斬ることができず、代わりに鬼を殺す毒を開発して鬼殺に用いることを目指しているという。そこまでして鬼を殺したいのか。身内を鬼に殺されたわけでもない私には解からない気持ち……というかぶっちゃけその殺意の高さにドン引きものなのですが。
しかしその隊士、路線変更を果たそうと励んでいる今でさえ、鬼の頸を斬るというわかりやすい鬼殺に未練があるようで、体格の似ている真菰に相談してきたのだとか。
「鬼の頸が斬れなかった時の気持ち、私もわかるから……」
最終選別で手鬼の頸が硬すぎて歯が立たなかった真菰が遠い目をして言う。トテトテと軽い足音を立てながら歩く彼女の右手には私謹製のビーフジャーキーがあった。
「しかし、そんなにこだわることなんですかね? 話を聞く限りではその隊士は常中とやらを会得しているんでしょう? だったら遠からず斬れるようになるのでは?」
「斬れるようになるまでどれくらいかかると思います? 五年? 十年? ……そんなの、しのぶちゃんは待てないと思うなぁ」
堪え性がない、と一蹴することは容易い。剣士なんて職業、大成するには長い間の鍛錬を要するからだ。肉体の全盛期を通り過ぎた30代からが本番、と冗談混じりに発言する人もいるほどに。
しかし鬼殺隊にはその時間があまりにも短い。どこぞの調査兵団のごとく多くの剣士が三年から五年で命を落とし、三十路を越えられるものは少ない。十年以上を研鑽に当てられる人間は才能と運に恵まれた一握りでしかないのだ。明日死ぬかもしれない人間に、五年後は強くなっているから我慢しろ、などとのたまうのは確かに考えなしだろう。
そして残念なことに、当のしのぶ隊士は肝心の才能に恵まれていないようだ。
「それに、才能がないのとは違うんですよ」
もぐもぐとジャーキーを齧りながら真菰が言う。
「しのぶちゃん、突きの威力はすごいんです。多分鱗滝さんにも負けてないくらい」
「ほう。とすると、伸びる筋力の方向性が違うのかな?」
短距離走と長距離走で必要とされる筋肉の種類が違うように、しのぶ隊士の筋肉は剣を振るうのに向かないようだ。いくら
それとも技の性質? イススィール風に言うなら突き技にだけスピードチャージが適用されているとか? あそこじゃ速度特化の冒険者は刀なんて使わないからなぁ。銃とか弓とか暗器とかカードとか、搦め手を重視した戦法をとる人ばかりだった。当然それはパーティを組むことが前提で、基本単独行動な鬼殺隊士には相性が悪い。
常ならば巡り合わせが悪かったと切り捨てるところ。しかし真菰がここまで言う才能を潰してしまうのはもったいないし……でもなぁ、筋力かぁ……
何とかしてあげたいものの、短期間で劇的に筋力を上げる手段なんて――
「――――ん?」
「師匠?」
ふと、何かが脳裏をよぎった。
真菰が怪訝な顔で声をかけてくるが気にしない。思考に没頭し何が引っ掛かったのか記憶に探りを入れる。
劇的な変化……劇的な変化……確かイススィールから持ち帰ってきたものの中に、ちょうどいいものがあったような……
「……よし、これを試してみよう」
「師匠?」
むふふ、これは久々に私の師匠としての面目躍如となるのではなかろうか。なんだか最近真菰から受ける視線が我儘な小学生を見るものに変わってきている気がするし。ちょっと貴重なもので出費が痛いけれど、ここらで一発先達として威厳を示しておくのは悪くない。
真菰に向き直った私は、自信満々な顔つきで大きく頷いた。
「大丈夫――――私にいい考えがある」
ある日の午後のこと。
蝶屋敷にてその日の業務を一通り終えたしのぶは、カナエに呼び出されて屋敷の一室へと向かっていた。
カナエによればなんでも、二人にとって大事な来客があるという。普段は割と適当というか天然気味なあの姉がそこまで言う客、というだけで尋常な事態である。だから常ならぬ予感に、客間に辿り着いたしのぶの胸中は不規則に脈打っていた。
「失礼します――」
軽く咳払いし、改まった口調でふすまを開けると――
「『現世に価値を見出せぬなら、その生に意味は無いッ。フェレスに願いを託す惰弱者ども、虚構とともにここで灰と化せ!』……廃王マフェリアリが玉座より立ち上がり、混沌に揺らぐ剣を引き抜きました。彼を倒さなければ、我々は先に進めない――両者の立場はここに断絶したのです……!」
「どうなっちゃうの? どうなっちゃうの……!?」
「…………!」
なに、この……なに?
部屋の中で行われていたのは怪しい寸劇だった。
見覚えのない茶髪の女性が身振り手振りで落語よろしく迫真の演技を見せ、それを見る姉のカナエが手に汗を握って手近なものに抱き着き、当の
意味不明さがもはや頂点に達していた。助けを求めてしのぶが辺りを見渡すと、襖の近くで端然と正座している真菰が曖昧な笑顔をしのぶに向けた。
「ええっと……お疲れ様?」
「『アケロンの岸で、余の飛竜を殺した報いを受けるが良いッ』」
「きゃあああっ!」
「……あの、これ……なに?」
あまりのことに敬語すらすっ飛んだ。
ひとり劇団と化した女性をしのぶが呆然と指差すと、真菰はふっと視線を逸らし、
「…………師匠の……故郷のお伽噺?」
「こんな物騒なお伽噺あるわけないでしょ!」
「『光嫌うズィハ・アタナク、御身を彼岸に』――――おや?」
思わずしのぶが声を荒げたところで、件の女性が振り返った。演技に身が入りすぎて白熱したのか、片膝立ちで腕を振り上げた状態で。というかそのおどろおどろしい声はどこから出てきているのか。
「しのぶ、いいところに! こっちに座って一緒に聞きましょう!」
そして満面の笑顔で傍らの畳を叩くカナエ。絶対にしのぶを呼び出した用件を忘れている。
最後の一人の栗花落カナヲは澄ました顔で黙っているが、ちょっぴり話の続きを聞きたそうにうずうずしているのがしのぶには分かった。
叱るべきか、流されるべきか――天を仰いでみたところで、こうなった姉をどうこうできた記憶はない。
どうせならアオイも呼んで来ようか、などと現実逃避気味に考えながら、しのぶは姉の隣に腰を下ろした。
「――さて、改めて自己紹介を」
廃王マフェリアリがフェレスとやらへの怨嗟を上げながら消滅したところで区切りをつけ、女性はしのぶへと向き直った。
「戌隊士にして、そこの鱗滝真菰の師をしています、白峯相模と申します」
「花柱継子の胡蝶しのぶと申します」
一目見て日本人でないとわかった。あかるい茶髪に彫りの深い顔立ち、異人の顔は見慣れていないので年の頃は若いとしかわからない。ただ、流暢に日本語を操るところからして日本での生活に不便はなさそうだった。
臙脂色の羽織を纏い、堂に入った物腰で畳に正座する姿は良家の子女と名乗っても遜色がないほど。
「カナエもしのぶもお忙しいでしょうし、用件は短めに済ませましょうか」
しのぶが来るまでの僅かな間で打ち解けたのか、臆面もなく二人を呼び捨てにすると、相模は改まった顔つきでしのぶへ語り掛ける。
「――胡蝶しのぶ隊士。あなたは小柄で筋力が足りず、鬼の頸を斬ることができないのを負い目に感じている。そうですね?」
「…………ええ、そうです」
ずばりと切りこまれ、思わず返答に詰まってしまった。カナエとカナヲの心配そうな視線が向けられる。直截すぎる言い草に真菰が咎めるような視線を相模へと向けた。
「師匠、言い過ぎ」
「いいえ、問題を直視しなければ解決策など見つからない。向き合い方によって道はいくらでも分岐するのだから」
真菰の言葉をにべもなく斬り捨てると、相模は鋭い視線でしのぶの顔を覗きこむ。
「――――しのぶ隊士。あなたのその悩みを、私は解決することができる」
「…………ッ」
今、彼女は何と言った。
理解が追いつかないしのぶに、相模は畳み掛けるように言った。
「しかしこれは不可逆な手段だ。だから私は、あなたに問わなければならない。――――あなたに、その覚悟があるのかどうかを」
「覚、悟……?」
「鬼の頸を斬る――ただそのためだけに、今ある全てを棄てる覚悟はありますか? 本来手に入れられた幸せな人生を手放せられますか?」
相模の顔を見る。しのぶを見つめ返す彼女の表情はどこまでも真摯で、しかし自らが意地の悪い選択を強いているという苦渋を滲ませていた。
「文字通り、全てです。今までの生活も、これまで積み重ねてきた功績も、女としての価値観も。全てどぶに捨てることになる。――――それでもあなたは、力を望みますか?」
「私は……」
しのぶは逡巡のあと、重々しく頷いた。それ以外の選択を持たなかった。
もとより人生など捨てたも同然。女としての幸せなど、鬼を討つとカナエと誓い合ったあの日から望むべくもないものと成り果てた。何を躊躇うことがあろうか。
それでも思わず怯んでしまったのは相模の仰々しい仕草に対してで、頷いたのは生来の負けん気が首をもたげたというのが大きい。
「……その覚悟、確かに受け止めました」
厳めしく首肯する相模を挑むようににらみつける。散々人のことを煽っておいて、適当なことを言ったらただじゃおかないと。
彼女は何を提案するつもりなのだろうか。寿命を削り筋力を底上げする麻薬の類か。それとも肌が爛れて二目と見られれなくなる薬? 聞けば彼女は呼吸とはまた異なる武術を修めているという。その中での秘術でも披露しようというのか。
警戒心も露わにしのぶが見つめていると、相模は慎重な手つきで懐から何かを取り出した。
白い紙――いや、これは薬包紙だ。何らかの粉末薬。
相模は薬包紙を恭しく机の上に置くと、ずいとしのぶへと押し寄せる。
「これをどうぞ」
「あの、なんですか、これ?」
「『黒いあやしい薬』といいます。さあ、ひと息にどうぞ」
「説明になってませんよ。なんなんですかこの薬」
「性転換薬です」
「せ――――!?」
せいてんかんやく? 男になる薬?
絶句したしのぶをよそに相模は薬の説明を始める。
「効果のほどはイススィールにて実証済みです。副作用は一切ありません。女性を男性に、男性を女性にする、ただそれだけの効能を持つ薬です。あの島では高価ではあれどそう珍しいものではなくてですね、知り合いのエルフなんかは頻繁に服用しては性別限定の装備やスキルを取っていました。嫁までいるのに奇特な馬鹿ですよねホント」
「ちょ……せい……は、え……?」
「これさえ飲めば次の日目覚めたときには貧弱な女性ボディとはおさらばです。手は節くれ立つし背は伸びて骨格もガッチリ、子宮だの卵巣だのも消え失せて代わりにブラブラした立派な逸物がこんにちわ。あなたの歳不相応に豊満な胸の脂肪もあら不思議、筋肉隆々の大胸筋に早変わりという寸法ですよさあさあさあ!」
「ちょ、ちょっと待ってください何ですかやたら圧が――」
「本来この薬は万金積んでも手に入らないんですよ。ここまで完璧な性転換が可能な薬など今後二百年は開発されない。それを先取りしてあなたが使うことができるのです。わかりますかこの奇跡この幸運を!? この提案は真菰がわざわざ私に頼んできて、カナエとしのぶの人柄を見た結果、私がタダで譲っても構わないと気の迷いを起こしたんです。こんな機会は二度とない、その辺り理解したうえで真菰と私に感謝しつつ服用して頂きたい。ささ、ずずいとどうぞ!」
「――――っ!」
言っていることの半分どころか三割すら理解できなかった。
やたら迫力を滲ませて迫りくる
――これを飲めば男になる?
夢のような薬ではないか。何を躊躇うことがある――しのぶの脳裏で何かが囁く。
性転換。少なくともしのぶはそのようなことが可能になる術など、それこそ血鬼術以外に知らない。この20世紀初頭の医療技術を用いたところで、適当に性器を切り取るのが関の山。それがまったくのノーリスクで叶うのだ。
何を置いても鬼を狩ると決めたのではないのか。全てを棄ててでもそのために戦うはずではなかったか。命すら惜しくないならば、性別などこだわる価値もない塵芥ではないか――
「…………」
手が伸びる。指先が震え、ごくりと生唾を呑み込んだ。
憎悪という重石の乗った天秤は僅かに、しかし確実に傾こうとしていた。
そして――
「――――え?」
ちょん、と。
しのぶの手が机の上の薬包紙に届こうかという直前、何かがしのぶの袖を引いた。
振り返る。そこにはいつの間にか背後ににじり寄っていたカナヲが、気まずそうな顔でしのぶの袖を掴んでいた。
「……っ、あ……ぅ……」
顔面にびっしりと汗をかき、おどおどと落ち着きなく目が泳いでいる。まるで今にも叱られるのを耐えようとしている子供の仕草。
それでもカナヲは、しのぶの袖をしっかりとつかんで離さなかった。
「カナヲ……」
目の覚める思いだった。今まで何を悩んでいたのか、馬鹿馬鹿しく思えるほどに。
人売りに連れられているのを引き取って以来、これまで自発的に何かをするということがなかったカナヲ。何をするにもカナエかしのぶの指示がなければ動こうともせず、投げた硬貨の裏表に従うようになってようやく自発性を発露しだしたのは最近のこと。。
率先して行ったことが裏目に出るのが恐ろしい、叱られるのが恐ろしい、自分の意志でない『何か』に責任を転嫁しなければ立ち上がることすら覚束ない。
そんな妹が、はじめて効果を投げずにしのぶの袖を引いた。文字通り必死の思いで自らの意志を示したのだ。これに応えない選択などどこにあるというのだろう。
「そうね。ありがとうカナヲ、私が間違ってたわ」
確かに未練はあるけれど、それ以上のものを確かに手に入れたのだ。何を惜しむことがあろうか。
カナヲの手を握り返し、感謝の言葉を告げる。自分はこれからもあなたの姉なのだと。
――――で、
「はい、じゃあこれは要らないわね~」
「えっ」
満面の笑顔でカナエが動いた。
目にも留まらぬ動きで机の上の薬を掠め取り、いつの間にか火をつけていた火鉢の中へ放り込む。
じゅっという何とも言えない音とともに黄色い炎が燃え上がった。
「あ”ぁぁあ”あ”ぁあ”あ”あ”!? 」
響き渡る相模の悲痛な叫び声。かくん、と顎を落とした彼女は役者もかくやという形相で嘆いた。
「なんていうことを! なんていうことを!? 高かったんですよこれ! いくらするかわかりますか、ジャーキー20本分は軽くするんですよ!? 私買ったことないけどさあ!」
「意味の分からない価値換算はやめてください、っていうか買ったことないってどういうことですか!? どうやって手に入れたんです!?」
「卵を割ったら出てきた」
「何の卵よそれ!?」
この人はおとぎの国の住人なのか。一寸法師でも理屈はこねるのになんなんだこの人は。
薬の出所の不明さに脱力するしのぶをよそに、相模はますます興奮して言い立てる。
「ちくしょう、畜生っ! むこうならそんなに珍しくもないしぃ? こっちなら向こうの数倍の値で売れると思って持ってきたのに! こんなのってあんまりだ! かくなる上はこの不気味な黒ポーションで――」
「あーら、手が滑っちゃた~」
「NOOOOO!?」
再び相模が懐から取り出した小瓶をカナエが弾き飛ばす。どす黒い液体が詰まった小瓶は高々と宙を舞い、柱にぶつかって砕け散る。
頬に手を当てて最近話題の絵画のごとき形相で固まる相模。そんな彼女の腕を取ると、カナエは巧みに関節技を仕掛けに入った。
「えっちょっなになにどういうこと? ちょっとカナエ悪ふざけにしては極まり過ぎ――ぃいだだだだ……!?」
「私言ったわよね~? 相模さんも言ったわよね~? 真面目にしのぶの相談に乗ってくれるって。性転換薬なんて、聞いてないんだけど~?」
「わあ、師匠が本気で極まってる」
「おい真菰キマってるのはコレ見てそんな感想しか出ないあなたの頭ぁぁああだだだだ!? ギブギブギブ! イッツジョークプリティジョーク! ほんの悪戯心でしょちゃんと
「そんなの当然割るに決まってるでしょ……ッ!」
それはそれは見事な腕拉ぎじゃったそうな。
おっとり上品な女性の鑑であるカナエがここまで巧みなやわら技を披露するなど、鬼殺隊に入る以前は考えられないことだった。随分違うところに来たんだなぁ、と感慨にふけるしのぶ。
顔を真っ赤にして畳をバンバン叩く相模をよそに、頬を膨らませたカナエはますます背筋に力を入れて――――あ、今みしって音が。