さて、エルフの爺さんが立てこもっていた樹から意気揚々と飛び出した俺は、嬉々として剣を振り回して迫りくる大蜘蛛共を薙ぎ倒していく。
フハハハハハ! エルフ美少女がこの世界にもいると分かった俺は無敵だぞ! 蜘蛛如きが止められるわけが無かろう!
次から次に押し寄せる蜘蛛だけども、所詮は蜘蛛だ。わさわさと動いて気持ち悪いことこの上ないが虫モチーフの魔物で強いというからにはせめて人間を遥かに超えるサイズで出て来なくてはなぁ!
にしても非常に今日は調子が良い。一振りで二、三匹は始末出来る。そういや山越えてからこっち、リミィを担いでいたお陰かロクシスに化けてるゴブリン以外は相手にする機会が無かった。ノックスから貰った剣が血を啜りたくてウズウズしているというのは俺の思い込みでは無かったらしい。血を吸う度に鋭さを増す魔剣とは、ノックスのプレゼントはとことんまで有能だな。
蜘蛛共は俺を厄介な駆除業者だと認識したのか、四方から俺を囲んで口元の鋏をジャキジャキと鳴らしているが、そんなもの今の俺の剣の前じゃ威嚇にもなりゃしない。蜘蛛共に躍りかかってはズバズバと斬っていく。さっきまで相手にしてたのが斬り応えもクソもない霧だったから手応えある敵を斬れてご満悦である。
とはいえ数が多いのも事実。そろそろ弟子達も降りてきてるだろうし、ちょっとは手伝ってくれても良いのよ? という意味も込めて大樹の方に視線をやれば、エルフの爺さんを支えながら降りて来たライネルと目が合った。俺が「そろそろ良い感じに手伝いに来てくれても良いよ!」と目に力を籠めて合図を送れば、ライネルは心得たとばかりに力強く頷いてくれた。よし、これでサクサク駆除が進むぞ。
そう思って安心してザクザクと蜘蛛共を駆除していたのだが、おかしいな。一向にこっちに向かって来る蜘蛛共が減らないぞ? いや、もともと数が多かったんだとしてもだ。ライネルにソーン、ノックス、ローエン、コルンもいるし、何より範囲攻撃持ちのリミィがいるじゃないか。一発どでかい花火を打ち上げて数を減らしてくれても良い頃合いでしょ。
不思議に思った俺がチラリとさりげなく大樹の方を盗み見てみれば、なんと弟子達、あの老エルフと一緒に暢気に俺を観戦してやがる! なんで手伝ってくれないのぉ!? ライネルさっきめっちゃ分かってるって言わんばかりに頷いてたじゃあん!
あ、そういうことか。たかが蜘蛛如き、クソ雑魚である俺でも楽勝なんだから魔王が控えてる俺の手を煩わせるなってことですね。エルフの美少女に会えるかもしれないという期待にまんまと踊らされて蜘蛛駆除に張り切って乗り出した俺が悪い? そう言われたら何も言い返せないじゃないか!
こうなったら後ろで高みの見物してる弟子共の前でクッソ余裕で殲滅出来ましたが何か? お前らが手伝ってくれたらもっと余裕でしたけどね? みたいな感じを出してちょっと当て擦ってやる!
そうと決まればこの蜘蛛共をさっさと殺し尽くさねば。エルフ美少女に会うための贄になーれ!
ということで弟子共に師匠(仮)はこれだけ頑張ってるんだぞと見せつけるためにも先ほどよりも俄然剣を振るのに熱が入る。蜘蛛程度をいくら斬ったところで自慢にはならないが、気が付けば一振りで四、五匹は巻き込めるようになってきた。やだ、俺のやる気をこの剣が理解してくれてる? そのうち喋ったりしない、この剣? 出来ればお姉さま系のボイスでお願いします。剣に宿った系ヒロインとかいない? そろそろ俺にも一人くらいはヒロインが出来ても良いと思わない? ダメ?
噛みつこうと飛び掛かって来た蜘蛛を躱して袈裟切り。糸を吐いてきた数匹の蜘蛛を飛び越えて背後に回って横薙ぎに一閃。四方から囲んでこっちの動きを制限し、一斉に飛び掛かって来ようものならちょっと飛び上がってまとめて串刺しにする。雑魚魔物相手に無双して俺強いごっこを楽しんでいると、気が付けば辺りは蜘蛛の体液で地面が紫色にすっかり変色しており、俺の周りを埋め尽くさんばかりにいた蜘蛛共も数える程度に数を減らしてしまっていた。これで俺のレベルも5くらいには上がっただろうか。
残りの蜘蛛もあっさりと始末すると、俺は弟子達に向き直る。どうだ、お前らのクソ雑魚師匠はそれでも同じくらいのクソ雑魚魔物に対しては無双できる程度にレベル上がってるんだぞ。ちゃんと見てた?
そう聞くと弟子達はうんうんと頷く。よし、これでしばらくサボってた分はチャラということで。後はエルフの爺さんに生き残りのエルフがどこにいるか聞き出してサクッとライネルに魔王を討伐してもらって終わりだな!
そんな風に暢気に考えていると、俺の背後からズシンズシンと地響き。おっとぉ、嫌な予感がしてきましたよ? 心なしか俺の前にいる弟子達が俺の後ろ、しかも頭を越えて上の方に視線を向けている。あ、これはボスがやって来たパターンですね。しかも割と結構近いところにポップしたというところか。落ち着け、こういうときは相手を刺激してはいけない。騒いだりせず、静かに行動するんだ。あ、俺の仕事はここまでなんで、後は弟子に任せますね? ローエン、君の出番だよ。
俺が指名するとローエンは一瞬目を見開くと、すぐに好戦的な笑みを浮かべて力強く頷いた。君、俺に指名されないと思って一瞬ビビったな? 馬鹿め、ライネルやソーンはこの先に更に強いボスを担当してもらうんだからこういう露払いは君の役目に決まってるでしょ! というか俺が蜘蛛の大群蹴散らしたんだからそろそろ交代でも良いじゃん!
ということでローエンを前線に、ノックスに援護するように言う。俺? 俺はさっき働いたからちょっと休憩で。俺がさっきまで剣振ってたの見たでしょ!
俺がそう言うとローエンもノックスも納得してくれたのか、剣を構えて前に出てくれる。俺はそこでようやく背後を振り返ってどんな化け物が来たのかと見てみれば、そこにいたのは俺の頭を遥かに超える高さに並んだ八つの眼。あ、そこで転がっている皆さんのお母様だったりします? いや、違うんですよ、おたくの不良息子だか不良娘だか分からないんですけどお子さんたちがですね? すんごいハッスルしてこっちに向かって来るものだからこっちだって正当防衛するしか無いというかですね? いやホントに出来ればこっちだって戦いたくなかったんですよ。でも戦わなければ生き残れないどころか、オレ、オマエ、マルカジリみたいな勢いで来られたら応戦せざるを得ないじゃないですか。
お子さんを無残なオブジェにされた恨みからかそれともお腹が空いているのかは分からないけれど俺の頭ぐらいの高さでジョキジョキと鳴らされるご立派な口元の鋏。鋏の先端から滴ってるその透明な液体は涎なんですかね? それとも毒だったりします? どっちにしてもノーサンキューで。
じゃ、後はよろしく頼むよローエン君。俺は後ろで観戦してるから。
一頻り言い訳を並べるだけ並べた俺は相手を刺激しないようにかつ可能な限りの素早さで振り向くとライネルの横まで下がる。え? ローエンとノックスだけで大丈夫か? どうだろうね、危なくなったらそこの爺さんとリミィの魔法で助けてあげたら良いんじゃない?
そう言うとライネルは「マジかよコイツ」と言いたげな目でこっちを見てきた。仕方ないじゃん! 俺だって蜘蛛の大群相手に無双ごっこ楽しんでたら親御さんが出て来るなんて思いもしなかったんだから!
心の中で情けない自己弁護をしていると、なんと蜘蛛の化け物は俺に向かって糸を吐いて来やがった! 目の前にローエンとノックスがいるでしょ! なんでこっちに向かって攻撃してくるの! 子ども達の仇なんだから当然? そう言われたらぐうの音も出ないな! だけどあの馬鹿でかい身体から繰り出される攻撃ならともかく、ただの蜘蛛の糸程度ならノックスから貰った剣の敵じゃない。こっちに飛んで来た糸の塊をスパっと両断する。ほらローエン、隙が出来たぞ!
俺が激を飛ばすとローエンはハッと我に返ったように蜘蛛に向かっていく。そういや初めて会った時から君はそうやって俺に向かって魔物をけしかけようとしてきたよね? 何なの? うっかりさんなの? うっかりおじさんなのか、君は。
そんな風に言ったけれど、ローエンとノックスは見事な連携で大蜘蛛を翻弄していく。良く研がれた名刀のような爪がついた八本の足と鋏を操る大蜘蛛に対し、ローエンが防御を、ノックスが攻撃と役割を分けて着実にダメージを与えていく。身体がデカいだけに頑丈さもさっきまでの蜘蛛とは全然違うのか、斬り落とせてはいないもののそれでも傷をつけ続け、遂には前足を一本斬ることに成功した。良いぞ良いぞ、チクチク戦法はどんな敵にも有効だからな。その調子だもっとやれ!
そういや俺とライネルの後ろでコルンに支えられてるエルフの爺さんとリミィはさっきから何を話し込んでるの? なんか話してるのは聞こえるけど内容までは聞き取れないからすっごい気になるんですけど? あの二人も頑張ってるけどそろそろ魔法で助けてやってよ。エルフなんだから魔法得意なんじゃないの? 魔物怖いかもしれんけどライネルとかソーンが守ってくれてる上に前線をローエンとノックスが支えてるんだから絶対に安全でしょ。ビビってないで援護してやって欲しい。じゃないと子蜘蛛倒した程度で堂々と休んでる俺がそろそろ囮として駆り出されるかもしれないだろ! 別に囮になってあげても良いけどそれで死んだら気まずくて後悔する程度には痛がって死んでやるからな!
そう言うと、エルフの爺さんはさっきまでの焦点のはっきりしなかった視線はどこへやら、目が零れ落ちんばかりに大きく見開いて俺の顔を覗き込んでくる。え、何ですか。とうとう弟子だけじゃなくて高齢者までバリバリ働かせようとしてるってドン引きされてる?
「恐怖……、それに打ち克つものが勇者。銀の剣よ……」
なんでコイツは未だに俺のことを勇者なんて勘違いしてるんですかね? そろそろ本物の勇者であるライネルが怒っちゃうんじゃないの? 横にいるライネルの顔見れないもん。これ以上誤解され続けたままだと本格的にライネルに斬られそうなのでちゃんと俺は勇者なんかじゃないよって否定しておく。勇者じゃなくても(クソ雑魚)魔物くらい倒せるんだから、魔法が使える爺さんなんてよっぽど強い魔物を倒せるに決まってんでしょうが。今までビビってた分もぶちかましてみなさいよ。
「そう、そうか……。逃げ続けたワシが……、僕が……!」
そう言うと爺さんは落ち窪んだ目から滝のように涙を流し始めた。いや怖いよ! 爺さんが急に泣き出すとかちょっとホラーだよ!
涙を流しながら爺さんが枯れ木みたいな腕を大樹の樹皮に当てると、大樹の幹がぐにゃりと粘土みたいに形を変えて爺さんの手に収まるサイズの捩じれた杖に変化する。なにそれ、めっちゃカッコいいんですけど。今のだけで俺のエルフの爺さんに対する評価は鰻登りである。
「霧に逃げ込んだ僕はもう血を分けた兄弟の顔すら分からなくなる時を過ごしたけれど……、それでも、今ここで立つ意味があるとするのなら」
そして捩じれた杖を両手に捧げ持って大蜘蛛へと向ける。急に元気になってるよこの爺さん。何なら一人称も若返っちゃったよ。どうしたの、久々に魔法を打つからテンション上がっちゃってるの?
「ミスティル・ファイラクス・ペントレ」
爺さんが魔法の呪文らしきものを唱えると、大蜘蛛の周りに濃い霧が立ち込め始める。その霧はしかも都合の良いことに大蜘蛛の視界を覆い隠すように大蜘蛛の頭に纏わりつくものだから、ローエンとノックスがここぞとばかりに攻め立てる。防御に専念していたローエンも蜘蛛の足を斬りつけ、二本目の足を斬り飛ばす。大蜘蛛もチクチクとやられて相当頭に来ているのか、滅茶苦茶に足を振り回すのでローエンとノックスが飛び退る。そしてそのタイミングを狙い済ましたかのように、爺さんがゆるりと杖を一度だけ振った。
その瞬間、霧の中から大蜘蛛の紫色の体液が勢いよく噴き出してくる。あ、これ霧の中で結構グロいことになってるやつだ。大蜘蛛は身体を大きくぶるりと一度震わせると、その後土埃を上げて地面に沈んだ。なんでこんなデカい魔物一発で倒せる爺さんが魔物怖いとか言ってるの? おかしくない?
「これで、少しは父祖へ顔向けが出来るだろうか……」
何か後ろで爺さんが呟いてるけどこんなえげつない魔法使う先祖のエルフ怖すぎない? 今から美少女エルフに会うんだって気持ちが萎え始めてるんだけど? 機嫌損ねた瞬間俺もああなるってことじゃないの? 爺さんが特に優秀なんだよね? エルフが皆あんなに物騒な魔法を使うわけじゃないよね? 爺さんの渾身の魔法が炸裂したってことだよね?
剣を携えて蜘蛛の大群へと向かった師匠を追って樹を下りてみれば、師匠は既に蜘蛛共を相手に縦横無尽に剣を振るっていた。
師匠が両手に持つ剣には、魔力の、それも銀の魔力の素養を持つ自分には荒れ狂うほどに渦巻く魔力の奔流が見えていた。そこまででは無くとも、ソーンやノックス、ローエン、コルンにも師匠の剣が纏う尋常ならざる魔力は感じ取れていただろう。
「何、あれ……」
「道標の銀。あれこそ、父祖が只人と手を結んでなお辿り着けなかった頂。かつての我らは、あの光を模倣することしか出来なかった……」
そしてこの中で師匠の異常性を私以上に理解できているとすれば、それは魔力の素養に富むリミィと、長耳族の生き残りである老爺だろう。
老爺の言葉に、僕は自分の掌に視線を落とす。あれこそ、私達人間が本来持つ力。私の持つ勇者の魔力とは、長耳族と只人族が手を結んで魔物に対抗する中で、疑似的にその力を引き出すことに成功した例なのだろう。誰もが師匠のように目覚める訳では無かった。むしろ、勇者の血筋として銀の魔力が伝承されているように、師匠以外にそれを形にしたものはいないのではないだろうか。
「長耳族の隠者よ、教えて欲しい。師匠の振るう剣こそが、銀の魔力と呼ぶべきものなのか」
「我らは樹だった。山に棲む者達は岩だった。只人だけは水だった。器に応じて自らを変じた。身を蝕む気を力と転化し、魔を断つ刃と為す才を持つのは、只人だけだった……」
老爺の言葉は私の質問に答えてくれているのか、あるいは師匠の剣を見て漏れ出た独り言なのか判別がつかない。けれど、その言葉は私の聞きたかったもので間違いなかった。師匠の剣こそが、かつての勇者にすら辿り着けなかった極地なのだと。今私達が目にしているのは最も新しく、そして希望に満ちた神話。魔に脅かされた人類史に終止符を打つ物語だ。
師匠の剣は鋭さを増していく。蜘蛛の魔物を纏めて斬り裂き、その爪先や吐いた糸どころか、斬り裂かれて飛び散る体液すら、師匠の服の裾を掠めることも出来ない。その速さに、目の奥に灼きついて離れない銀色の輝きから、目を離せない。
ぼうっと眺めることしか出来なかった私に、師匠が鋭い視線を送ってくる。その視線に、茹だった頭が冷めた心地がした。見惚れている場合じゃない。師匠は目だけで語っていた。
その目に焼き付けろ。お前達が目指す剣理を。
師匠が蜘蛛の魔物を単身で掃討しているのは、私達の負担を考えてのことじゃない。これからの戦いで、皆がこの剣理を目にしておく必要があると考えたからこそ、今ここで師匠は私達に存分に剣を見せつけている。魔力を持つ者の身体を蝕む瘴気を逆に自らの力とし、剣に纏わせて魔物を斬り裂く。それは体内に存在する魔力を放出して魔物を断つ私の紛い物とは違う、真に魔物を断つための理。
そう思って気を引き締めようとしても、私の剣が、銀の魔力がただの紛い物であると思わせるような力強く、美しいその剣閃は私だけでなく、他の弟子達すらも魅了した。
「ソーン、やはりあなたが、師匠が最初に見出したあなたこそが真にあの人の後継者なのでしょうね」
「あんなデタラメな境地に辿り着けるとは思えないけどな。こっちが近づいたと思ったらその倍の速さで先を行ってる」
思わず口を衝いて出た私の呟きに、隣に立つソーンが呆れたようにため息をつく。誰が考えるのだ。身体を蝕む瘴気をこそ力の源とする剣など。師匠はどのようにしてその剣理を見出したのか。魔物を断つ中で偶然見つけ出したのか、それともあの剣こそが師匠の辿り着きたかった極みなのか。
銀が閃くたびに口元の鋏から毒液を滴らせて飛び掛かった蜘蛛の魔物が身体をばらけさせる。
太くしなやかな糸を吐いても師匠の身を捉えることは出来ず、その刀身は遮るものも無いかのように糸の大元を断つ。
四方を囲っても、師匠は一足でその頭上に飛び上がり、重なった蜘蛛を纏めて地面に縫い留めてしまった。
気付けば、蜘蛛の魔物はその数を大きく減じ、いっそ憎悪を感じさせるほどに苛烈に師匠を攻め立てていた魔物達は、たった一人の剣士についに攻めあぐね、怯えているようにも見えた。
そして大樹の根元で動いているのが師匠だけになった頃、その地面は無残な姿になった蜘蛛達の体液でべっとりと汚れていたのだった。その中で、ただ一人いつもと何も変わらぬ様子で、剣にすら一滴の返り血も付けないまま、師匠は戦いを終えて私達の下へと戻って来た。
「見たか、俺の剣を」
そう呟いた師匠に、私達は揃って頷いた。見て、そして脳裏に焼き付けた。私達が目指すべき頂を、人が皆持つ輝きを。
そんな師匠の背後から、僕らの身体ごと震わせるような地響きが鳴ったかと思うと、先ほどの蜘蛛を遥かに上回る大きさの、まさしく大蜘蛛とも呼ぶべき存在が姿を現した。背筋に怖気が走る耳障りな音を立てながら開閉する鋏からはドクドクと透明な毒液を垂らし、八つの眼はどれもが師匠を憎悪の眼差しで睨みつけていた。それは師匠に蹂躙された我が子を思う女王の怒りなのかもしれないし、魔物達が生来持っている人間への憎悪なのかもしれない。
「随分と怒ってるな」
そんな大蜘蛛を前にしても、師匠の様子は普段とまるで変わらない。
「お前達はいつもそうだ。憎しみをぶつけるだけ。それで大人しく人間が滅ぼされてくれるとでも思ったか?」
言葉など通じないだろうに、師匠は淡々と大蜘蛛へと告げる。
「人間を舐めるなよ。お前達が滅ぼそうとしても、俺達は戦い続ける」
それは大蜘蛛だけではない。全ての魔物に、魔王に対する宣戦布告だ。
「ローエン、ノックス。前は任せるぞ」
「っ!? はい!」
師匠に突然名前を呼ばれて肩を跳ねさせたローエンだったが、すぐさま剣を握り直して前に出る。
師匠はそれを見ると私の隣にまで下がって来たので、気になっていたことを問う。
「師匠、どうしてローエンとノックスを? 二人だけであの巨大な魔物を相手にするのは……」
「危ないとでも?」
そう逆に問われて言葉に詰まる。師匠に何か考えがあったとしたら、それを見抜けなかった私が失望されてしまったかもしれない。
「……」
「……今なら、お前達にも剣が振るえるだろう」
剣が振るえる。
その言葉は師匠にとっては字面通りの意味を持つ。師匠が先ほど見せた剣こそ、師匠の剣術と呼ぶべきもの。師匠がこれまで自らの剣術を棒振りと呼んで来たのは、そういうことだったのだ。周囲に漂う魔力を、瘴気すら剣に纏わせ、一刀必断の剣として振るう。それこそが師匠が私達に伝えたかった剣理。そこに至る為の形だけの剣術は文字通りただの棒振りでしか無かったのだ。
大蜘蛛はこちらの言葉を当然理解していないだろう。しかし、師匠が下がったのを見て自身が侮られたと感じたのか、口から大きな糸の塊を師匠目掛けて放った。
「お前の相手は俺じゃねえと言うのに」
当たれば一たまりもない。鋼鉄の砲弾にも匹敵するだろうその糸の塊を、師匠はため息一つ、剣の振り一つで断ち切った。
バラバラと解けていくその糸の一本一本を見れば分かる。あれは船の帆を張るのに使う綱よりも重く、頑丈な糸だ。それが何重にも巻き固められたそれを何の気負いもなく断つ。自身の糸がそのような扱いをされたことは初めてだったのか、大蜘蛛もピタリと動きを止めた。
「動きが止まったぞ」
雑談でもするかのように言葉を掛けられたローエンとノックスは、弾かれた様に大蜘蛛へと斬りかかって行った。大太刀のように研ぎ澄まされた大蜘蛛の爪を何とか掻い潜り、懸命に斬りつけるも、二人の剣はまるで同じ鋼の剣に当たったような硬質な音と共に弾かれる。
「師匠、二人だけで本当に大丈夫なのかよ?」
その様子を見ていたソーンが僕と同じ問いを師匠へと投げかけた。
「あの二人の剣がその程度のものかよ。……見てみろ」
けれど、師匠は何も心配していないようにローエンとノックスを指差す。大蜘蛛が凶悪な顎の鋏で噛みつこうとすれば、ローエンがロクシスに劣らぬ剛力でそれを受け止め、その後ろからノックスが八対ある足の一本へと軽やかに斬りかかる。それを厭うて糸を吐けば、身のこなしが素早いノックスは瞬時に距離を取り、代わってローエンが先ほどまでノックスが斬りつけていた部位に寸分違わず力強い斬撃を繰り出す。
「あれが、俺の最初の剣だ。忘れたか、ソーン」
最初の剣。師匠の言うそれは、長兄であるソーンが師を追う旅の途上で教えてくれたものだ。師の剣は最初から一閃で魔物を断てるほど研ぎ澄まされていたか。長兄であるソーンやアルシェ、ノルンが最初からその剣理を掴めていたのか。それは否だ。ソーンは私やロクシスのように後から弟子になった者にも教えてくれた。師の剣は、昔は今と比べるとまさに師の言う通り棒振りだったのだと。その棒振りで幾度となく魔物の弱い部位を斬り続け、一度の剣閃が二度三度、数え切れないほど重なって魔物を断っていたのだと。
「……ああ、初心を忘れて自惚れてたのかもな」
師匠の言葉に、ソーンは自身を戒めるように重々しく呟いた。師匠と同じ、とまではいかなくとも魔物を斬ることが出来るようになった。そのことで、私達の中にあった僅かな慢心を師匠は見抜いていた。
「正しく剣を通せ。一度でダメなら二度、三度、百度でも」
かつてソーンを通して聞いたその言葉の意味を、私は今ここで初めて理解したのだと思う。
その理解と共に、ローエンとノックスの剣が大蜘蛛の足を一本断ち切ることに成功した。
師匠はそれを見て身を翻すと、後ろでリミィに話しかけられている長耳族の老爺へと歩み寄って行く。
「あの二人を見ただろう。それでもなお動かないままか?」
その言葉は、リミィを黙らせ、老爺の視線を嫌が応にでも師匠へと惹きつけた。
「ワシに、何が出来ると……」
「剣は無くとも魔法があるだろう。動かねば、かつてのようにまた誰か死ぬ」
「ワシが動かずとも……」
「ローエンとノックスが守るだろう。ソーンもライネルも、コルンもリミィもな。だが、俺は死ぬ」
その言葉に老爺だけでなく、私達全員の目が驚きに見開かれた。何故師匠が死ぬのだ。それこそ順番が逆だ。師匠が死ぬ前に、私達が……。
そこまで考えて、私は師匠の思考に思い至った。師匠は私達をその身を呈してでも守り通すつもりだ。魔王との戦いがどれほど厳しいものであっても、師匠はここまで無理やりついて来た私達を守りながら戦い抜こうとしている。だが、そんな考えで勝てる程魔王は甘い相手ではないことなど師も理解している。故に師は自らの命を擲つ覚悟をしている。
「恐怖……、それに打ち克つものが勇者。銀の剣よ……」
「俺は勇者ではない。言っただろう、あれこそが俺の最初の剣だと」
縋るような老爺の言葉を師匠は一蹴した。そして今も尚大蜘蛛と戦い続けるローエンとノックスを指差す。
「ただの人間の剣が、魔物を斬る」
それは一振り一振りを積み上げて来た師匠だからこそ言える言葉だ。ただの人であった頃から、今やこの世界で頂きに立つと言っても過言ではない領域にまで至った師匠だからこそ。
「お前には魔法があるだろう。棒振りよりもよっぽど上等だ」
剣を振るよりも魔物に効果がある武器を持っていながらいつまで恐怖に支配されているのか。
「あれはもう、お前の恐怖する対象じゃないだろう」
師匠の鋭い目が老爺を貫く。その目に籠められた意志の強さに促され、老爺は初めて大蜘蛛を真正面から見据えることになる。そして震える自身の両手に視線を落とした。
「そう、そうか……。逃げ続けたワシが……、僕が……!」
その目から大粒の涙を零しながら、老爺は大樹へとよろよろと近づくとその両手を大樹の幹へと押し当てた。
すると幹はぐにゃりと形を変え、その身の一部を大きく捩じれた杖と化して老人の手へと収まった。老人の魔力と永い時を共に過ごしたこの大樹は、それ自身がもはや彼の身体の一部と言っても良いほどに同化していたのか。
そして私達へと振り返った老爺の顔は、先ほどまでの自信なさげなものから一変していた。
「霧に逃げ込んだ僕はもう血を分けた兄弟の顔すら分からなくなる時を過ごしたけれど……、それでも、今ここで立つ意味があるとするのなら」
その言葉に満足そうに笑みを浮かべた師匠は、老爺と共に大蜘蛛を睨みつける。
「
長耳族が古くから伝える言葉には力が宿る。それはかつて魔法という形で魔物達に抗する術となった。今や只人族の間ではごく一部を除いては失われてしまった力ある言葉による魔法の効果は絶大だ。
霧が粘土のように質量を持って大蜘蛛の頭に纏わりつく。それに大蜘蛛が混乱したのを見計らってローエン達が二本目の足を斬り飛ばした。突如として視界を奪われた大蜘蛛は、滅茶苦茶に残った足を振り回し、足を失った怒りの大きさを示すように霧の中からは顎の鋏が擦れ合うジャキジャキという音が響いてくるが、
「もう、怖れない」
その言葉と共にゆるりと老爺の杖が振るわれると、霧の中から肉に鋼の刃が突き立つような鈍い音が幾度も響き、大蜘蛛の体液が盛大に飛び散って地面を汚した。
そして一度、身体を大きく震わせたかと思うとその巨体は呆気なく地面に沈んだのだった。
「これで、少しは父祖へ顔向けが出来るだろうか……」
たった一度の魔法の行使それ自体はかの老人にとっては大した負担では無かっただろう。ただそれ以上に、魔物に立ち向かう恐怖を乗り越えた精神的な疲労故に、老人は杖を持ったまま地面に崩れ落ちた。
「今この場にお前以上に強い者はいないだろう?」
永い時を経て膨れ上がった恐怖を乗り越えた彼こそ、最も心が強く、勇敢な者だ。
薄く笑いながらそう告げた師匠の言葉に、老人もホッとしたように笑みを浮かべたのだった。