師匠は一旦休みのようです
「ソーン!」
辛うじて耳に入った相棒の言葉に、咄嗟に剣を掲げて防御姿勢を取る。その直後、身体がバラバラになりそうな衝撃が俺を襲う。
枯れ葉のように容易く吹き飛ばされた俺は、そのまま背後にあった木に叩きつけられた。
「かっ……!?」
肺から空気が押し出され、意識が飛びそうになるが歯を食いしばって堪える。ここで俺が意識を飛ばしちゃ、リミィを誰が守るってんだ!
「生きてる!?」
「あ、ったり前だろ!」
リミィの声にそう返すと、俺は身体が痛みに悲鳴を上げるのを無視して飛び出す。俺を吹っ飛ばしてくれやがった竜は金色の片目を細めてこちらを憎々し気に睨みつけている。
「へっ、しぶといコバエだってか? こんなもんで殺せると思うなよ」
師匠によって中途から切断された竜の尻尾からは既に出血が止まっていた。俺の剣は生憎と師匠のと比べて笑えるくらいに弱い。リミィの援護を受けた最初の一撃を除いて、俺だけじゃ一太刀であの竜の硬い鱗を斬り裂くことは叶わなかった。
「リミィ! 頼むぞ!」
「言われなくても!」
リミィに援護を頼み、俺は再び竜へと吶喊する。狙うは奴の潰された視野、左目側だ。走る俺と並走するように、火で形作られた矢がこれ見よがしに竜の右目側の視野にずらりと並ぶ。リミィはやっぱり魔法の天才だ。ここまで早く魔法を展開できる魔法使いを、俺は知らない。
火矢に気を取られた、いや事実として俺よりも脅威だと分かるそれに、竜の注意は逸れる。当然だ、独力じゃ自分の鱗をまともに貫通出来ない剣士と、明確に自身を殺しうる魔法を前にして、どちらを優先するだろう。だから竜は魔法を視野に捉え、防御姿勢を取る。俺はその顎下に潜り込み、渾身の力を込めて剣を竜の身へと走らせるが、俺の剣は硬質な音を立てて鱗をいくつか剥ぎ取るだけに留まった。
「チィッ!!」
「気を付けて!」
思わず出た舌打ちに、リミィの注意が飛ぶ。俺の剣が痒かったのか、竜が頭を地面目掛けて振り下ろしてきたからだ。だがその頃には俺は竜の顎下から抜け出してリミィの前にまで戻っている。一撃でダメージを与えられないことなど織り込み済みだ。俺が距離を取ってすぐに派手な爆発が竜の顔周辺で起こる。リミィの魔法が炸裂したんだろう。
「思ったより頑丈ね……ソーンの剣が通じないなんて思いもしなかったわ」
「師匠に比べたら俺の剣なんて鈍らも良いところだからな。だけど、諦めたりしねぇ」
なにせ俺がコイツを倒せれば、師匠は旨い酒が飲めるらしいからな。親孝行するのも悪かない。
「あなたが諦める所なんて見たこと無いわよ。私はまだまだいけるわ」
「助かる!」
まだ爆煙が竜の顔を覆っている間にまた距離を詰めていく。その後ろから、リミィが俺の剣に向けて魔法を飛ばす。リミィの得意とする火の魔法だ。俺はリミィの火を斬り払うように剣を振れば、火はそのまま俺の剣に纏わりつく。不思議と熱さを感じない魔法の火だ。
「もう一発、喰らいやがれ!」
爆煙が晴れて姿を見せ始めた竜の顔目掛けて、火を纏った俺の剣が振り下ろされる。生憎ともう片方の目は外しちまったが、それでも奴の顔に真っ赤な傷を作ることに成功した。
「■■■■ッ!」
鼓膜どころか全身が震えるような咆哮。音圧と竜の呼気で俺の身体は後方に押し出される。
「馬鹿でかい声だなぁオイ!」
だがそこまで吠えるということはしっかりダメージを与えられたということだ。リミィとタイミングを合わせる必要があるうえ、ここまで明確な隙を中々生み出せないから乱発は出来ないが、それでもこれを繰り返せば竜を倒し切ることが出来る。
そう考えたことが悪かった。そのつもりが無くとも、俺の緊張は僅かに緩んだ。それによって奴の次の行動への対応が一瞬遅れる。その遅れは、今この場では致命的だ。
「■■ッ!」
何かが聞こえた、かと思えば、俺の身体は呆気なく吹っ飛ばされていた。半ばから切断された尾が俺の死角から振り切られ、俺の身体を強かに打ち据えたのだと、どこか冷静な自分が観察していた。なるほど、あの馬鹿でかい声のせいでリミィの注意が聞こえなかった。あの野郎、意外に頭使ってやがる。
俺の身体は、受け身を取ることも出来ないまま先ほどの焼き直しのように木へと叩きつけられる。たださっきと違うのは、今度は呻き声すら出せないほどの痛みと衝撃が俺を襲ったことだ。背中だけじゃなく頭もぶつけたせいか、視界がぼやけ、身体から力が抜ける。しまった、魔物との戦いでこんな体たらくを晒すなんて。遠くでリミィが何か叫んでいるようだが、その声もどこか反響していて俺の頭の中で意味を為してはくれなかった。
竜が俺をギラギラとした目で睨みつけている。ああ、良かった。これでリミィを狙うんじゃなく、まだ俺から狙うのなら、ノックスやロクシス達が追いついてくる時間が稼げるかもしれない。らしくも無いことに、俺の心はここで死ぬことを半ば受け入れているように動じていなかった。
師匠と再会し、旅をして、そして師匠の道を切り拓いて死ぬ。なんだ、俺にしちゃ上等な死にざまじゃないか。あのまま、スラムで朽ち果てるだけだった俺に比べたら、願うべくもない死にざまだ。
そのまま俺は目を閉じようとして、脳天を殴られたような衝撃に目を白黒させた。
「スラム街でのたれ死ぬだけの人生で満足か? 違うだろう。違うからこそ、お前は俺に向かってきた。なら俺についてこい。お前に生きる術を、生きる道を、運命を教えてやる。……その前に飯だな、飯。そんな貧相な身体じゃ、なーんにも出来ねぇ」
気が付けば、目の前には今よりもずっと若い師匠の姿。これは、走馬灯ってやつか。俺にとって一番大事な日の思い出。それが人生最後に見る光景なのだとしたら、なんて贅沢な話だ。
「お前は俺が剣を持っているのを見ても財布をスろうと向かって来た。やけっぱちかもしれないが、死にそうな時でも怖い相手に立ち向かえる。お前には才能がある」
財布を盗もうとしたクソガキの俺を連れ去ったかと思えば食事を用意し、よく分からないことを言って弟子に勧誘してきた師匠。最初は詐欺師だと思った。俺を手下にして危険なことをさせるのだろうと警戒した。
「お前には強くなってもらう。騙されたと思って俺から剣を習ってみろ。俺の修行で死ぬのも飢えて死ぬのも変わらねえだろう?」
半ば投げやりな気持ちで申し出を受けた俺を待っていたのは、文字通り死ぬほど辛い修行の日々。それでも死ななかったのは師匠の眼力の成せる技だ。それでも逃げなかったのは、俺の心が師匠に奪われていたからだ。
「教えられることは全て教えた。後はお前次第だ。これは俺からのプレゼントだ。お前の勇名が轟くのを楽しみにしてるぜ」
枕元に残された手紙。その文面を何度読み返しただろう。その筆跡まで完璧に模倣できるくらいに目に焼き付けた。そうだ、俺は、師匠に楽しみにしていると言われたんだ。
「ソォォォン!!!」
その時、俺の走馬灯を吹き飛ばすような大音声が俺の鼓膜を震わせた。その声には聞き覚えがある。その声は、どんな荒波でも、どんな嵐の中でも船に乗る人間全員の耳に届くような声だ。
「俺達の兄弟子に舐めた真似してくれやがったなぁ!」
その声と共にガツン、と何かがぶつかる音。そして、竜の苛立たし気な唸り声が響く。
「無事か!? 俺の声が分かるか!」
そして俺は誰かに肩を担がれていた。ああ、この声もよく覚えている。俺達を後ろから支えてくれる、兄貴分のような男の声だ。自分も騎士団を率いる立場の人間のくせに、俺をクランの中心だと言って憚らない気持ちの良い男の声だ。
「ソーン、しっかりして!」
リミィの声で、俺の意識はぼんやりとした微睡みからようやく現実へと帰ってくる。そんな俺の前には、ロクシスとローエンが、弟弟子達が立っていた。
「……生きてると思ってたぞ、ロクシス」
「当然だ。あんな小鬼共にやられるような軟な男は、海の男にゃいねぇ」
「俺とロクシスが先行したんです。ちょうど良いタイミングで来れたみたいですね」
身体に力が戻りはじめ、ローエンの支え無しでも立てるようになる。右手を見下ろせば、剣を手放してはいないようだ。むしろ、掌に少し血が滲むほどに柄を握り締めていた。
なんだ、諦めていたのは俺の頭だけで、俺の身体は、師匠との修行を耐え、鍛錬を続けた俺の身体は生きることをちっとも諦めてなかったんだ。そう思うと、不思議と笑いが込み上げてきた。
「……ハッ、俺としたことが、弱気の虫にやられてたのかもな」
いつだって自信に満ちて、クランの先頭に立って引っ張っていく。長兄としての、師匠の一番弟子の俺はそうだったはずだ。たかが重たい一撃を喰らったくらいで、そんな姿をブレさせるだなんて情けない。
「行けるか?」
「まだダメージが残っているでしょう」
ロクシスとローエンがそう言って気づかわしげにこちらを窺っているが、俺はそれにいつも通りの笑みを浮かべて返す。
「誰に言ってんだ。行けるに決まってんだろ!」
俺はその言葉と共に両足でしっかりと大地を踏みしめ、一度大きく深呼吸する。力が入り過ぎて柄が痛いくらいに食い込んでいる手を緩め、そして握り直す。浅い呼吸を繰り返し、全身に意識を張り巡らせていく。
師匠の剣は、周囲の魔力を自身の剣に纏わせて斬る。
そんな剣、俺との修行の時には終ぞ見たことが無かった。師匠の剣は、俺にとってはずっと違うものだった。
アルシェ、ノルンの二人と会ってから、師匠との修行を互いに教え合う中で俺は師匠が俺なんかよりもずっと先を行っていることを知った。冒険者として腕を上げ、少しは追いつけたと思っていた背中は、気が付けば見えないくらいに遠くまで行ってしまっていた。
ノックス、ローエンと出会い、クランを立ち上げてから、師匠の剣は一太刀で魔物を倒すに至ることを知った。俺の想像が現実となったことを知った。
シャーレイとの語り合いで師匠の教えを他人にも授けられるほどに理解した人間が出たことを知った。師匠の最初の弟子として、俺に出来ていることは何だ? 俺の悩みは深くなった。俺にあるのは、人よりも多少は長い魔物との戦闘経験くらいだ。これに胡坐をかいていては俺の剣は他の弟子の足下にも及ばなくなる。
ロクシスと酒を酌み交わし、師匠の人としての大きさを知った。ただ剣だけに邁進していた俺じゃ、師匠のように誰かを救うことは出来ないんじゃないか。
ライネルとの立ち合いで、師匠が理想とした剣の一端を見た。師匠が唯一認めた弟子に思うところが無かったわけじゃない。だが、俺は師匠の最初の弟子として、最初に剣理に触れた人間として、張らなきゃならない意地があった。
弟弟子は皆俺よりも才能があった。俺には無い才能を持っていた。俺じゃ届かない高みにいた。だが、それでも俺は師匠の一番弟子だ。誰よりも師匠を追いかけ続け、その剣に近づこうとし続けた。
「知っている。だからお前達はここに来た。そうだろう?」
あの言葉が、師匠と再会したその時に貰った言葉が、俺達に、俺にとってどれほどの意味を持っていることか。俺の目指した理想は、俺が身に付けた剣は、他の弟子達と錬磨し続けた理は、確かに師匠が認めるものだった。
「刃が通らない?」
いつか、師匠が俺に言った言葉が自然と俺の口から出る。
「そりゃ違う。刃の通し方さえ正しけりゃ通るのさ……!」
俺の剣が少し軽くなったような気がする。俺には魔力の才能が無いから、どんな理屈で師匠や俺が魔物を斬っているのかは分からない。
リミィには、「剣の周りに渦巻く魔力の奔流が見える。これで魔力を扱う才能が無いなんて悪い冗談よ」とかつて言われたが、本当に分からないんだから仕方ない。
「ロクシス、ローエン、悪いが援護を頼む」
「任せな!」
「元よりそのつもりだ!」
だが、これで魔物が斬れるならそれでいい。竜がこちらを脅威と認識し、金色の眼光が俺を鋭く射貫く。それを真っ向から睨み返し、俺はこれ見よがしに剣を掲げる。狙うは先程の斬撃で赤く焼けた竜の顔。
ロクシスとローエンの頼もしい返事を聞き、俺の足取りは迷いなく、竜へと駆ける。
「悪いがそろそろ先に進ませてもらう!」
俺に噛みつこうとその首を伸ばした竜に正面から立ち向かう。このまま突っ込めば間違いなく俺が剣を振るう前に奴の胃袋に俺が収まっちまうが、俺にはこの世で最高の魔法使いの相棒がいる。
「させないわよ!」
竜の横面を強かに打ち据えたのは竜の尾と同じくらいの太さの水の鞭。
「邪魔すんじゃねえよ!」
こちらに向かって振るわれる竜の尾を、誰よりも鍛え上げた膂力で上へと弾き飛ばしてくれるロクシス。
「我らが兄弟子の邪魔をしてもらっちゃ困るなぁ!」
悪足掻きとばかりに振るわれる竜の前足。常人では容易く吹き飛ばされてしまうだろうそれを、まともに触れればその部位が吹き飛びかねないそれを、ローエンは剣の腹を滑らせるようにしてあらぬ方向へと逸らす。
俺の前には、リミィの魔法に打たれて無防備に晒された竜の顔だけが残る。
俺達一人じゃ師匠の影を踏むことすら出来やしない。だから、俺達はクランを結成したんだ。
「今なら、俺達にも剣が振るえる!」
そして俺の剣は、竜の顔についた傷を過たず穿ち、その鱗を断ち、表皮を斬り裂く。竜の顔はその半ばから、剣によって断ち切られることになった。
鼻先を完全に失った竜はそのまま地面に倒れ伏し、何度か身体を震わせたかと思うと動かなくなった。俺はと言えば、さっきまでのダメージが一気に来たのか、足から力が抜けて地面に倒れこんじまった。そんな俺をロクシスとローエンが両脇から支えてくれる。
「これで竜殺しか、ソーン。伝説を越えたな」
ローエンがそう言ってニヤリと笑うが、俺は苦笑を返すことしか出来ない。
「足下も覚束ないフラフラの伝説か。情けねえな」
それでも、多少はあの人に顔向けが出来るようになっただろうか。
雲を突かんばかりに天に伸びた大樹は、並んで聳える塔を半ば飲み込んでいる。塔の内壁に添うような螺旋階段は、途中から石造りのものから木の質感へと変貌していた。何者かが造り上げた塔が、大樹に取って代わられている。そこを上っていく私とコルンは、一歩足を踏み出すごとに肩に圧し掛かるような重圧を感じていた。
「……コルン」
「なに」
隣を歩くコルンに目配せをすれば、彼女も襲い来る重圧に顔に玉のような汗を浮かべながら、反応する。
「上にいるものが私が敵う相手とは限らない。そうなったときは……」
「師匠を呼びに戻れって?」
コルンの言葉を肯定するように頷く。最初から負けるつもりで戦いに向かうわけじゃない。それでも、直接を姿を見せてもいないのにここまで重苦しい空気を漂わせている相手が容易にこちらを勝たせてくれるなどと安楽な思考をすることは出来ない。
「師匠は、魔王を倒すならライネルだって言ってた」
けれど、コルンは私の言葉を否定する。
「あの人は、重たい期待を背負わせてくれる……」
最後に師匠に見出され、最も師事した時間も短い。だというのに、他の弟子には無い期待を掛けられている。そのことを誇らしく思い応えたい反面、自分などがそれに値するのかという不安も大きい。
「それに応えるのが勇者だって、師匠は言ってた。私も手伝う」
「……助かります」
頼りになる兄弟子たちは皆、自分とコルン、師匠をここまで辿り着かせるために今も戦ってくれているはずだ。そして師匠もまた、この下で戦っている。あるいはもう決着がついているのかもしれないが。
気が付けば螺旋階段は終わりを告げ、私達の前には朽ち果てかけた黒い石造りの扉が佇んでいた。その扉越しに、これまで以上にこちらを叩き潰そうとするような威圧を感じる。
「……行きましょう。伝説で終えられなかった因縁を清算するときです」
ごくり、と喉が鳴ったのは私か、それともコルンの方かは分からない。もしかしたら両方かもしれない。それでも私の手は重たい音を響かせる扉を押し開け、その奥にいるであろう魔王の姿を、伝説の中にしか聞いたことの無い姿をこの目に捉えていた。
「……あれが」
「魔王……?」
コルンの語尾に疑問符が付く。そう言いたくなるのも分かる。玉座とも呼べない、崩れた壁を侵食した大樹の洞、そこに半ば埋まるような格好で、積み上がった瓦礫に辛うじて腰かけているのだと思えるような様相で、ソレは佇んでいた。
頭の先から爪先まで、金属なのか、樹木なのか判別の付かない真っ黒で鋭利な鎧が覆っているソレは、顔に当たる部分が巨獣の爪で切り付けられたように裂けている。だが、その奥にあるであろう中身は漆黒に覆われ伺い知ることは出来ない。
何より異質なのはその左腕。肩から先が大樹の壁と一体化しているそこは、まるで大樹から栄養を与えられているかのように肩との繋ぎ目からドクドクト脈打っていた。
「…………」
こちらを見ているのかも定かではない。およそ朽ち果てた鎧にしか見えそうにない貧相な容貌。ただ、兜の裂け目はこちらを向いており、私達に突き刺さる殺気はそこまで弱った姿になってなお人知の及ばぬ存在であることをありありと感じさせた。
ギシリ、と音を立ててソレが動いた。瓦礫から立ち上がったソレは大樹と一体化していない右手を掲げた。そこに握られた鉄塊、と呼ぶべき大剣が存在感を増す。人間ではおおよそ持ち上げることすら出来ないであろうそれを、片手で軽々と操るソレは、大樹の幹と一体化した左腕を惜しげも無く斬り飛ばす。
「ッ!」
見ようによっては片腕を自分から失っただけのこと、だがそれは目の前の存在が自由に動けるようになったことを示す。私は右手に銀の剣を咄嗟に顕現させ、コルンも姿勢を低くして耳と尻尾をピンと立てている。いつ、何が起こっても動けるように。
「------」
何を言ったのか、およそそれが言葉だったのかすら分からないが、何かの音が漆黒の裂け目から発された。
その瞬間、自分の背中を走った怖気。半ば本能的に防御の構えを取れば、大砲の弾を喰らったかのような衝撃が私を襲った。
魔王はその場を一歩も動いてなどいない。私達と相手の間には、たとえ奴の持つ鉄塊の如き大剣を以てしても届かない間合いがある。私を襲ったのは、魔王が軽く振った鉄塊によって削られた床の瓦礫。それが礫となって私とコルンを襲っていた。コルンは受けきれないと咄嗟に判断したのか、その場を飛び退いて事なきを得ていた。
「ライネル!」
「大丈夫です! それよりも、来ますよ!」
こちらを案じるコルンに無事だと返事をするや否や、私は弾かれるように魔王に向かって突進する。自分より大きい相手を前にして間合いを開けるのは悪手、であれば何としてでも懐に潜り込む必要がある。
「喰らえッ!」
両手に握った銀の剣が目を焼かんばかりの光を放つ。魔王の胴を薙ぐ様に、自身が籠められる最大の出力で放たれた斬撃はしかし、右手一本で巧に操られた大剣で容易く受け止められた。
「----?」
「何を言っているかは分からずとも、馬鹿にされているのは分かる!」
私の剣を受け止め、掠れた吐息のような音と共にギシリ、と兜が右に微かに傾く。まるで「この程度か?」とこちらを嘲るように。
「相手がライネルだけと思うな!」
その背後を取ったコルンが勢いのまま、魔王の背中を斬りつけるが、幾ばくかの火花を散らすばかりの結果に終わる。
魔王はコルンの攻撃など意に介していないように、私に掛ける圧力を強めていく。魔物に、瘴気を糧とするものに特効を持つと言われている銀の魔力。確かに常人の剣に比べれば魔王にも有効なのかもしれない。だがそれは、あくまでこの存在の前に立って尚勝負の土台に立つための前提条件でしかないのだ。だから魔王は私だけを見ている。コルンは意識する必要が無いと分かっている。
「っ! 私だって……、師匠の弟子なんだ!」
「コルン、無茶は止せ!」
自身を歯牙にもかけない魔王の様子に、コルンが怒りのあまり犬歯を剝き出しにして怒りを露わにする。そして剣を構え直すと、鎧に覆われていない魔王の左肩、大樹の一部へと変貌しているそこへ斬りかかった。
「きゃあ!?」
「コルン!?」
だがそれは愚策だった。肩より先が無いはずのそこは、まるでそこだけが別の意志を持っているように先端が鋭利な鎌になった樹の触手を生やし、コルンへと襲い掛かる。鞭のようにしなるそれに打ち据えられたコルンはあっさりと弾き飛ばされてしまった。
とはいえ、こちらもコルンの心配をしていられる状況ではない。こちらに掛かる圧力は増すばかり、相手は右腕だけだというのに、全身で押し返して何とか保っていた均衡が徐々に破られようとしているのを感じる。
このままではどの道何も出来ずに殺されてしまうだけだと、一か八か身体を捻り、魔王の大剣を身体の横に逸らすようにして拘束から抜け出る。同時に左手を兜の裂け目へと向け、そこから全力で魔力を放つ。それに一瞬怯んだのか、私に掛かる圧力が僅かに緩み、その隙を衝いて距離を取ることに成功した。
「無事ですか?!」
「なん、とか……」
飛ばされたコルンを横目で確認すれば、ダメージはありそうだがまだ立っている。予想外の攻撃に防御が間に合わなかったらしいが、あの触手による攻撃はそこまで大きなダメージにはなっていなかったようだ。
「……魔王」
私とコルンは並んで剣を構えるものの、先ほどのように魔王に向かっていこうと足を踏み出すことが出来ないでいた。今のたった一度の交錯で身に染みて理解してしまった。彼我の力の差を。一度剣を交えるだけで、頭だけでなく本能で分からされてしまう、魔王に勝つことが不可能だと。
「ライネル……」
「情けなくなりますよ。師匠にここまで期待を掛けられた自分が」
たった一度、そう、たった一度だけだ。一合斬り結んだだけだというのに、目の前の相手を打倒するイメージが湧かなくなった。
辛うじて言葉にはしなかったものの、自分で自分を殺してしまいたくなるような邪推まで頭を過る程に。
自分は、師匠に捨て駒にされたんじゃないか。
魔王はあまりにも強大だ。私を先にぶつけ、多少なりとも消耗させたところで、師匠が魔王を討ち取る心づもりなのでは無いか。
そんな訳が無いのに、自分では到底敵わない相手を前にして、腹の底に隠してきた悲観主義がここぞとばかりに顔を覗かせている。
剣を構えたまま、一歩を踏み出せないのはそんな弱気が心を侵食している証拠だ。あれほどまでに、自分を信じてくれた師匠を何故今更疑うのか。自分が今まで信じていたものを、ここに来て急に信じられなくなる。どう考えても目の前の存在の、瘴気の影響を受けているのだと頭では分かっている。けれどそれを振り払えない弱い心が、私の身体を縛り付けた。
動きを見せない私とコルンを煽るように、魔王はギシリ、ギシリと兜をゆっくりと左右に振る。「どうした? 掛かって来ないのか?」と嘲るように。
「---
その時、これまで意味を為さなかった魔王の掠れたような吐息に、別の音が混じったように聞こえた。
「
金属同士が擦れるような耳障りな音。人間が意味の汲み取れぬ騒音でしかないはずのそれに、私とコルンは何故か魔王の言葉が頭に直接響いてきたような気がした。
最も信用ならない敵から告げられたその宣言は、私達のことなど欠片も理解していないはずの存在が告げた根拠の無い、一笑に付すべき戯言は、どんな言葉よりも重く私とコルンの心に打ち込まれた。
「ふ、ざけるな……」
私の隣から怒りに震える声がした。
「お前が、師匠を語るなッ!」
本来、私も共に怒るべきであったのに、私の足は地に縫い付けられたまま。魔王へと剣を片手に吶喊するコルンを呆然と見つめることしか出来なかった。
「
コルンの、只人を凌駕する犬人族の膂力は、たとえ女といえど冒険者の男すら歯牙に掛けない程の力だ。それほどの力で振るわれる剣を、嘲笑うように魔王はコルンを大剣でひと撫でするだけで弾き飛ばし、壁の瓦礫に埋めてしまう。
「
そうして私に向き直った黒い裂け目は、そこから耳障りな音を、何故か私の頭の中で意味を為す言葉を発する。
いつしか、魔王の左肩からは先端が鋭利な鎌となった触手の他、ざらりとした質感の腕が生えていた。それだけではない。周囲の大樹の壁から、魔王と瓜二つの姿形をした写し身が姿を現す。私を四方から追い詰めるように四体に増えた魔王。
「
周囲を反響する音が、私の鼓膜を引っ掻き、頭を内側から揺さぶる。
私の右手に生まれていた銀の剣は、気が付けばその輝きを失い、ついには周囲の空気に溶けるように消えて行った。
私は、師匠の為の捨て駒にすらなれなかったのか……。