或る梅雨明けの夕暮れ、日が伸び夏を実感する都市に矢車は横たわっていた。生温かくぬかるんだ水溜まりに左半身を浸し、着ている黒の襤褸は悪臭を漂わせ、半開きの口は時折なにかを呟く。空気のような言葉が渋谷の殷賑に吸われ、しかし視線だけがこの男に注がれる。この辺りで事件が起きていたら、間違いなく事情聴取されるだろう。
「なぁ……結局……」
行き交う雑踏と往来する自動車の音に、義弟を呼ぶ声がかき消された。
「……誰も笑わなかったよなぁ」
喉を擦り減らして、胸中の摩耗した意思を掻き出す。今の矢車はアスファルトに染みた水溜まりに溺れているのだ。だから、泥水のような言葉の羅列を吐き出さなくてはならなかった。
「笑ってくれなかった、よなぁ……」
高架下の陰り、道路の脇にある剥き出しの苔、棄てられたコンビニの袋、その中の空の容器、蟻の行列、……
蟻の行列。
「誰も俺を止めなかったよなぁ」
武骨の手を動かすと沈殿していた土が舞った。それが面白くて、雨水を子猫のように想って撫でる。矢車は愛に満ち、愛に飢えた男だった。
「ああ……勝負の続きだ天道ぉ……」
あの時、料理対決を仕掛けられて素直に待っていたな──
約束の相手は、彼がこの世で最初に嫉妬した、太陽神の寵児だった。
憤りと愛は繋がっている。矢車は、天道に放っておかれたのを身をもって知っている。だから、もう永遠に待つ事しかできない。あの時間は戻ってこない。あの時に対決するのは一生できない。
「食わして、やりたかった」
兄弟に、麻婆豆腐を食わしてやりたかった。
「…………」
そう言いそびれて、ああ、もう夏なのか、スズメバチを見かける頃だなと口の中で数度復唱して、それからいずれ自分のもとに、再び蜂が峻烈な針を携えてやってくるのを想像した。
「ライダー……スティング、く、く、はは、あ」
津々浦々を探してもこれほど自嘲げな笑いを洩らす人間はいないだろう、そうナルシストに考えながら、寝返りをうって仰向けになった。天井では、快速電車が車輪を響かしている。
世間が自分だけを置き去りにしているのは不服だった。十三年間何も変わらなかった日々を恥辱に思い、頭がかあっとなって叫ぶ。
「…………影山ァ!!」
おもむろに矢車は翡翠に光るネックレスを取り出し、それを今度は大仰に引き千切って側溝に投げ捨てた。そこを通り過ぎた若いカップル一組が、小走りになりながら顔を見合わせて目を丸くしていた。
「お前も一緒に待ってろよぉ」
眠っているみたいな笑顔で矢車想は、右手で腰を叩いてより愉快に哄笑した。毎回、彼はそうやって、「俺が笑えているうちに世界が消えればいい」と心底から祈っていたが、それは叶いそうになかった。
もうパーフェクトもハーモニーもないんだよ……!
ジオウカブト回から二か月後くらいを想定してます。あれ?ゼクトルーパーってアリンコでしたよね?