時雨は催涙剤で蹲っているところ、何かに掴まれて曳航されていた。それが何なのかは分からない。あちこちでヒリヒリするし、鼻水や涙はまだ出ているからだ
どれくらい経ったのかは分からないが、ふと気がつくと鎮守府の港についていた。悲鳴や悲痛な叫び声が聞こえるが、明石の声が聞こえた
「早く水で洗って! 催涙剤は水で落ちるから」
水が入った洗面器が置かれるのを見るや否や時雨は顔を洗った。何回か洗い終えると明石の言う通り、涙や鼻水は止まった
しかし、涙が止まり時雨の視界に映ったのは戦艦水鬼改が提督に詰め寄る姿だった
「貴様、何故ヤツガ生キテイル!?」
戦艦水鬼改は怒り狂っていた。戦艦水鬼改から見れば生き返ること自体信じられないのだろう
「待ってください! 提督も私達も止めようと!」
「集積地棲姫カラ聞イタ時ハ信ジラレナカッタ。又、オ前達二ヤラレテ頭ガ可笑シクナッタノカト! ダガ、戦艦ル級ニ化ケテ侵入シテ数名ノ姫ト鬼、ソシテナ級ヲ操ッテ逃ケダ! 港湾棲姫ト北方棲姫ガ気ガツカナケレバ、全員ヤラレテイタ!」
戦艦水鬼改の言葉を聞く限り、結衣は深海棲艦の棲みかを潜入したらしい。被害も相当なものだ
そう言えば集積地棲姫は先日の東京湾の戦いでコッソリと逃げた。流石に敵わないと思ったらしい
だが、戦艦棲姫であった戦艦水鬼改から見れば信じられなかったのも無理もなかった
「悪かったな。だが、やったのは私ではない」
「他人ノセイニシテ無罪ヲ主張スル気カ?」
「一部の人間の暴走だ。だから、全ての人間が気が狂ったと考えるは止めろ」
提督は冷静に反論しているが、内心は違っていたのだろう。だが、戦艦水鬼改は戦おうとしない。戦えないのだ
戦艦水鬼改の艤装は巨大な生物であり、自立しているが、今はぐったりしている。あちこち殴られた跡や焦げた跡が複数あったため、結衣から反撃を受けたのだろう
時雨は顔を洗いながら状況を把握した。どうやら、助けたのは深海棲艦のボスである戦艦水鬼改らしい。理由は浦田結衣だろう
「何が狙いだ?」
「アイツヲ倒シテ欲シイ」
「自分では倒せないのか?」
「アノ洗脳ノオ陰デ接近スラ出来ナイ!」
今まで人類とコミュニケーションを拒んでいた戦艦水鬼改だったが、今回は対話はできた
だが、それは穏やかな方法ではない。一発触発だ
時雨は立ち上がって提督に駆け寄ろうとしたが、明石に止められた
「まだ安心出来ないから、入渠して。吸ったのが催涙剤とは限らないから」
「武蔵さんは?」
時雨は明石に質問したが、明石は何も言わなかった。軍医と夕張が慌てて武蔵や長門などを診ていることから只事ではない
時雨は頷き風呂に向かった。戦艦水鬼改造本のことが気になるが、今は大丈夫だろう。本当に襲うなら既に戦いになっていたし、時雨たちを助ける義務もない。また、大和やアイオワなどの戦力もいるから大丈夫だろう
「何であんな所に毒ガスが」
時雨は疑問に思ったのはあの島が何なのか気になっていた
別に浦田重工業が毒ガスを開発するのは不思議ではない。並行世界の未来世界から仕入れた技術なら可能だろう
だが、地図に載っていないのが気になる。印刷のミスだけで片付けるような案件ではない
時雨が入渠から上がって直ぐに工廠へ向かったが、こちらは大混乱していた。Cチームであった潜水艦娘は水中にいたため無事だったものの、毒ガスを浴びた武蔵、長門、金剛、比叡、赤城と加賀は横になっていた
ただ、症状は回復せず夕張はオロオロする始末である。何の症状なのか分からない
だが、502部隊であった軍医は武蔵の瞳孔を見るなり毒ガスの正体が大幅掴めた
「これは……サリンか!?」
「サリン? あの神経ガス!?」
「私も本や写真で見た事しかないから断言できない。だが、これは不味いぞ!」
瞳孔が開くサリンの特徴でもあったため、軍医は毒ガスが使われたことを瞬時に悟った。尤も、軍医は実際の症状を見たのは初めてであったため、慎重に言葉を選んだ
毒ガス。まさか化学兵器が使われた事に驚いていた。どこからそんな物騒な毒ガスを保有していたんだ!?
「治療できる?」
「何とも言えない。心肺停止にならないのは艤装のお陰だろう」
時雨は直ぐに聞いたが、軍医は首を振った
「ふぐ毒みたいに解毒出来ないの?」
「あれと比べるな! 本来なら死んでもおかしくないくらいだ。仮に回復したとしても後遺症が心配だ」
サリンは化学兵器だ。恐ろしい兵器を結衣は何の躊躇いもなく使ったのだ
「深海棲艦は効かないのに、艦娘は毒ガスに効果あるなんて」
時雨は不思議に思った。深海棲艦は化学兵器と言った特殊兵器には効果がない。過去に某国が密かに化学兵器を使ったが、全く効果がなかったと聞いている。戦艦水鬼改も催涙剤が蔓延しているのに、全く効かなかった。勿論、結衣もだが
「身体の構造や生態が違うのだろう。それにサリンはガスマスクだけでは防げない*1。ただ水には良く溶けるから除染しやすい。幸い治療薬はあるから問題ないが、無事に回復出来るかは本人次第になる」
軍医は声を落とした。軍医の話によると、サリンは毒性が強く治療が遅れれば解毒が難しいものだ
「私達にガス弾を撃ちこんだ? 私達が何をしたって言うのよ」
夕張は暗い顔で言った。ショックで思考が停止していたのだろう。深海棲艦ですら毒ガス弾なんて使わなかった。人類の敵が生物化学兵器を一切使わず、浦田重工業が使っているとは皮肉しか感じられなかった
一方、陸奥や大和は怒り狂っていた。まさか、結衣が化学兵器を躊躇いも無く使用したのだから
「毒ガス? サリン? 深海棲艦ですら毒ガスを使用しなかったぞ! こんなものを使うなんて、アイツら狂ったな!」
提督も怒り追撃を開始させた。化学兵器を使われては大惨事になる!
艦娘もガスマスクと化学防護可能な艤装を装備して捜索したが、浦田残党は既に逃げてしまった。戦艦水鬼改も奴を見つけると言い、海に行ったが知らせは全く来ない。戦艦水鬼改が追跡を止めたか、それとも……
唯一の戦果と言えば鎮守府宛てに謎のモールス通信を受信したとの事だ
浦田副社長からだ
『鎮守府提督宛て、武田より。
我々は浦田重工業を再建するため、大久野島に保管していたわが社の製品の一部を使わせた。先ほどの攻撃はデモンストレーションである。艦娘や502部隊が今後、日本国の国防任務を放棄したのであれば、生物化学兵器は使用しないものとする。この案は、相互にとって利益あるものと信じたい
鎮守府と日本政府と日本軍の名誉のために迅速な決断を望み、返答ありたし』
大淀と陸奥は通信文を見たが、読み終えるや否や紙を握りつぶした。誰が見ても脅迫である
「提督、追撃しましょう!」
「……待て。捜索は中止だ。気になる事がある。先にあの島を調べよう」
陸奥は今にも出撃しそうだったが、提督が止めた。提督も気づいたのだろう
「大久野島を知っている艦娘はいるか聞いてくれ」
「どうしてですか?」
大淀は訝し気に聞いたが、提督は違った
……本当に浦田重工業の遺産なのか?
「嫌な勘が当たらなければいいのだが」
次の日、あの島は捜索が行われた。島を調査するのは502部隊である。今では憲兵のポジションであったが、元は特殊部隊。なので、迅速な対応も可能である
ただ、毒ガスが使われたのだから502部隊は急ピッチに化学戦が出来る支度を行った。化学防護服での作業になるのだから当然だ。あきつ丸も神州丸も加わった
他の艦娘は島の外から警戒していた。時雨も島の周囲を警戒中である
「また化学兵器が撃たれて来ないよね?」
「だといいけど、嫌な予感がする」
白露は不安そうに聞いたが、時雨は上の空だった。時雨も状況を聞いたが、提督と同様、あの島はとても怪しい。何しろ、誰も知らなかったのだ
呉出身の艦娘もである。だが、大久野島の名だけは聞いたことがあると言っていた艦娘は少なからずいた
海外艦娘は蚊帳の外だが、ビスマルクを初めとするドイツ艦娘は驚いていた。サリンが使われるとは思いもしなかったからだ
尤も、『艦だった頃の世界』だけでなく、この世界でもドイツがサリンを既に開発されていたのだから複雑な気持ちだろう。但し、正史よりも数年早いが*2
「時雨ちゃん、何か気になる事があるの?」
「うん。実は赤城さんの話によると臭いがしなかったって事」
「臭い?」
雪風の質問で時雨は答えた。赤城加賀は幸いにも毒ガス弾から離れた位置にいたため、症状は軽く話せたらしい
その中で臭いはしなかったという事である
「催涙剤と間違えたから運が良かったけど、もし結衣が砲弾を間違えていなければと思うと……」
「時雨ちゃん、考えないでおきましょう」
雪風は宥めたが、時雨は気が気でなかった。もし、相手が催涙剤とサリンを間違えていなかったら、自分たちも武蔵さんと同じように中毒症状に陥っていたに違いない
苦しみながら横たわるなんて嫌だ!
「嫌な予感が当たらなければいいけど……」
時雨はふと思った。『艦だった頃の世界』で聞いたことがあった
もし、浦田重工業が密かに手を回していれば……
島では502部隊が進軍していた。武器を持ち、テキパキと進んでいく。上空からの偵察によると、島のあちこちでトンネルらしきものが複数あるのを確認している。念のためにあきつ丸が放ったオ号観測機を飛ばしたが、人影はいない
「敵がいないのであります!」
「分かった。軍医からの報告によると、サリン製造には高度な設備を必要とするらしい! 行くぞ!」
隊長である曹長は、あきつ丸からの報告を聞くと一斉に伝達した。既にもぬけの殻だろう。しかし、この島を調べる必要がある
多分、自分にも知らない事なのだろう。敵からの意味ありげな電文も気になる
502部隊は島を上陸して警戒しながら進んだが、妨害も無く目標のトンネルに到着した
爆破した跡がある事から、地中に埋まっていたのだろう
「呉から近いのに、こんなところに隠しやがって」
「でも、地図に載っていないのはおかしいであります」
「ああ。小隊長の大佐に報告したが、首を傾げていたぞ」
502部隊と陸軍艦娘はトンネルを進んだ。地下施設はとても大きく、倉庫と思われる場所では大型飛行機が格納出来る広さだ。逆を言えば、それだけの資材と兵器が保管されたことになる。既に空であったため、何も見つからなかったが
そして、化学生物兵器の保管庫と研究施設も見つかった。機材は破壊されていたが、浦田重工業が持っていた未来技術が使われていた機材があった。浦田重工業の社旗とわずかに残った研究資料が見つかったが、どれも生物化学兵器の製造記録だ。浦田重工業は生物化学兵器の研究はしていた証拠だ
ただ、この施設に不思議なことがあった。コンテナが1つだけ放置されていた事。その中には毒ガス弾が大量にギッシリと置いてあるのを発見した
シアン化水素である血液剤、びらん剤、催涙剤などが入った砲弾や爆弾が大量にあった
……搬入し忘れたのか? それにしてはわざとらしい気がするが
「中佐、見つけたぞ。コンテナの中にガス弾を見つけた。浦田社長の奴、こっそりとこの島に隠していたんだな」
『そうか』
隊長は通信で報告したが、なぜか提督は暗い声だった。あきつ丸は不審がると、神州丸が近づいてきた
「あの、隊長殿……来てくれませんか」
神州丸が言ってきたが、神州丸が付き添っていたあの軍医も真っ青だった
「どうしたんだ?」
「来てください」
軍医の感情の無い声に隊長は頷いた。どうやら、神州丸は何かを発見したらしい。何か嫌なものを
隊長は神州丸と軍医について行った。そして、ある部屋に着くと神州丸は部屋に向けて指をさした
「どうした? 何が──」
曹長は神州丸の指先の方向に目をやったが、隊長はあるものを見て固まった。
その部屋はたくさんの資料が机の上に置いてあった。だが、壁には二つのものが飾られてあった。一つは軍旗。もう一つは看板である
「バカな! 陸軍!?」
隊長が驚くのも無理も無かった。看板にはこう書いてあった
『陸軍造兵廠忠海兵器製造所』
陸軍の文字が堂々と飾ってあった。どういう意味だ!? 生物化学兵器の研究に陸軍が関わっている? だが、浦田重工業と軍は対立していたはずだ? 確かに浦田重工業に従順になり下がった時期もあったが、共同研究なんてしたことは無い
「驚くのは早いです。資料によると、この施設は浦田重工業が軍に関与するまで秘密とはいえ普通にありました。私は少し下がります」
神州丸は下がったが、隊長は立ち尽くした
資料を手に取ったが、自分たちの知らない事ばかり。浦田重工業が偽造した可能性があるかも知れないが、その可能性は低い
(小隊長にどう報告すればいいんだ)
自分の上官である大佐は恐らく知らないだろう。だが、大本営が自分たちにどう動くか気になる
一方、鎮守府でも同じような事があった
提督は地図に載っていない島を調べようとしたが、どれも消されている
時雨たちの報告や艦載機の位置情報を基に作成したが、その位置はどの地図にも載っていない。地元でも知らないという
幻なのか?
だが、それなら出撃したABCグループの3チームの戦闘報告はどうなる?
試しにこちらに協力的だった平行世界の自衛官、田村1尉が作成した資料を見たが、載っていない
……いや、見つかった
田村1尉が作成したデータが入ったノートパソコンに『大久野島』と検索をかけたところ、膨大なデータから1つだけ引っかかった
ファイルを開くとそこには化学兵器に関するデータがあった
「浦田社長だけでなく、第三者に見つからないよう隠していたのか?」
提督は啞然とした
全く知らなかった。こんな事があるなんて
「大淀、輸送機を手配して親父を連れて来い」
「今からですか?」
「そうだ。早く!」
提督の命令にただ事ではないと察した大淀は廊下に飛び出したが、提督はノートパソコンに睨んでいた
「生物化学兵器を使わせてたまるか」
提督は歯を食いしばった。こんな事があってたまるか
次話は真相となりますが、話に出ていた大久野島を見てピンとくる人もいるかもしれません
興味があればググって見てください
それではまたお会いしましょう