銀杏が落ちたる後の風の音(中村汀女)

BOOTHで販売している短編集「翌/風星群」に収録されています。

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十一片

 十一月が好きだ。

 ミルク色の街を行くチョコレートカラーのファッション。窓の桟に寝そべる結露。ゲーテの声色で囁く銀杏(いちょう)。ガラスめいて凛とした冬模様が、ほっと白んだ息の数歩先で振り返り笑う季節。

 ハロウィンの喧騒が過ぎ去って、クリスマスはまだ他人事で、はしゃぐ世の中もほんの少しだけ休憩するこの時期が好きだった。

 

 誕生日が嫌いだ。

 十一月の邪魔をするから。

 

 

 

 

 

 特に読みもしない本を買ったところで部屋の連峰がますます背を伸ばすだけなのはわかっているものの、それでも魅力的な表紙にはつい手が伸びる。どこかのコーヒーショップのエッセイ、猫の写真集、文学評論、流行りの漫画、有名な傑作小説。古本屋は魔窟だ。何も買う気がなかったのに、気が付くと脚が向いて自動ドアが開いている。財布もパクパクと文句を言っている気がするけれど、まあ、私は普通の女子高生なのでね、そんな声なんか聞こえるはずもない。二千円ほど悪魔に捧げて店を出た。

 

 そもそも、私はぼんやりと考え事をしに出てきただけだった。このところ昔のことばかり思い出す。中学の頃の黒歴史が妙にフラッシュバックすると思ったら、昨日なんて小学生の頃の他愛ない会話が蘇る始末。血肉になり切らなかったノスタルジックなゾンビたちを供養しようと、私は今日を丸々散歩に当てることにしたのだ。

 タートルネックの黒いニットワンピースにボルドータイツ、ブラウンのガウンコートを被ってゆったりしたシルエット。適当に黒いパンプスを突っ掛けてきたけれど、寒いし歩きにくいからブーツの方がよかったかもしれない。見栄坊な装いを路傍の枯れ葉にカサカサと笑われている気がして、私は靴音のリズムを早めていく。

 

 ……いつから、こうして服装を気にするようになったんだっけ。

 

 昔のことを思い出すのは今が退屈だからだろう。刺激に満ちた人生を歩んでいるなら、そうでなくても多少なり目指すものがあるなら、温いバスタブで足を伸ばすような回顧に浸る必要もない。

 なら、背伸びなようでもファッションに気を使う今は、未来に向けるものがあるだろうか。

 

 私はただの学生だ。

 多少は本を読む。多少は音楽も嗜む。多少は料理もできる。内省的な性格である自覚もあるけれど、かといって考えるのが得意なわけではないことも、また自覚している。

 私は何者にもなれないだろうという漠然とした確信だけがある。夢を持っても仕方がない、きっとなにを願っても叶わない、そんな後ろ向きな予想だけは的中するに違いないと信じ込んでいる、ごく普通の自己矛盾に満ちた学生。

 

 昔のことを振り返るのはつまるところ現実逃避だろう。そうとわかっていても、まだ前を向きたくなかった。未来へ向かえるというファッションだけした私は、ぼんやりと通学路を逆行する。

 

 

 

 

 

 誕生日が嫌いだという話をするとひねくれものだと言われるから、次第にその話をすることすら嫌いになった。心のままに振る舞ってひねくれ者と言われることが納得いかない、というのは流石に子供じみた考えだと思って、いつからか私は素直さを演じるようになった。少しも感動できない映画を見てどうにか賛辞を捻り出した。準備もろくにしないくせに結果を出せず嘆く人を必死に慰めた。素直さは嘘の上に成り立つ。天衣無縫は必ずしも素晴らしいものではない。ならば、そもそもどうして飾らずありのまま振る舞おうとしていたのかという原点は、先日蘇ったゾンビの左手に握られていた。

 

 小学一年生の頃だ。同じクラスにある女の子がいた。その子は運動神経抜群だったが、あまり口数の多い方ではなかった。それでいて歳の割に思慮深く、言葉をよく研ぎ澄ませて使う子だった。そのために返事がワンテンポ遅れることがよくあって、誰よりも機敏で聡明な彼女を同級生や先生は鈍臭い子として扱っていた。

 

 その珠玉に私が気付けたのは偶然だった。十一月の十一日、雨のように縦線が揃ったその朝、通学路で彼女と鉢合わせた。

 私は他人にあまり興味が無かったし、向こうも私のことなんて気にしていなかっただろう。ただクラスメイトのよしみで一言二言交わす中で、ほんの少しだけ緩やかになった歩調がその偶然をもたらした。

 

 そう強い風が吹いたわけではない。前触れも無く、どこぞの屋根からでも舞い落ちて来た銀杏の葉が、ひらひらと彼女の目前を横切ろうとした。

 それを何食わぬ顔で掴み取ったかと思えば、今度は眠たそうな顔でじっと眺めたのだ。

 妙にじっくりと見るものだから気になって尋ねた。普通の街の、普通の通学路で、銀杏なんて珍しいものではない。小学生の私にとってさえなんの面白みのない黄色の葉なんかがどうしたというのか。

 幼かったから、もう少しデリカシーの無い物言いだったと思う。それを受けて、彼女は穏やかな笑みを浮かべてみせた。

 

 ――朝焼けがお寝坊したみたいな色。

 

 左手に優しく包まれた葉を指した形容だと気付くのに一瞬を要した。

 そして次の瞬間、私は暖かな光に包まれていた。

 あたり一面は金色の葉が散らばっていて、朝焼けた街の色を写し取ったように光り輝いて見えた。道だけじゃない。ガードレールとのコントラスト、緑青色のフェンスを包むもの、遠く見える昇降口にもその光が照り返すようだった。

 騒がしい世情も、くだらない人目も一切合切置き去りにした、純粋な美しさ。朴訥とした在り方からしか生まれない、言葉で塗り替える魔法のような瞬間。

 私は芥川の蜜柑が好きだ。日のような果実を投げる少女を目の当たりにした老紳士と、あのときの私は、きっと同じ気持ちだったのだろうと思うから。

 彼にとっての蜜柑は私にとっての銀杏だ。ただ、彼女にとってはお日様だったその色は、このつまらない目には月明かりのように映っている。銀杏の形と居待つ影にシンパシーを覚えるから。

 美しいものを掴める彼女への劣等感だった。

 

 

 

 

 

 義務教育の九年間は、美しいものに目を凝らし続ける日々だった。

 先に白状してしまうと、私はこの先も彼女と友人になったわけではない。クラスメイトとしての付き合いは続いたし、クラスこそ合わなかったけれど中学も一緒だった。会話の数もそれなりに重なる。でも、結局は知人止まりだった。

 眩しいオレンジ色を蓄えた彼女を妬まず、恨まずにいられるほど、私は人間が出来ていなかった。……いや、今でもそうだ。彼女の目に映る世界より美しいものを見つけない限り、きっと素直に向かえない。

 

 とはいえ、仲が深まらなかっただけで、私の根底にはいつもあのときの彼女がいた。寝坊助な光を捕まえて微笑んだ彼女が。

 あれ以上に美しいものがあるだろうか。世界全てから祝福されているかのようなワンシーンだった。この世の時間からひとつ刹那を摘み取れるなら、私は心底あのときが欲しい。そして二十一グラムのそれを桐箱に収めて、誰にも見せないように大切に抱えるのだ。

 

 目を凝らし続ける九年間は、その箱を作る日々でもあった。

 素敵な人間を構成するのはインプットの賜物だと信じたかった。彼女のあの瞬間はもっと幼い頃からの積み重ねで、私にもきっと辿り着ける感性のはずだと。

 だからまずは本を読んだ。蜜柑に目を奪われ、夜間飛行に胸を弾ませ、星の王子さまに励まされ、こころに触れようとして、夏への扉を開け、雪国へのトンネルを抜け、女生徒になって。漫画やライトノベルもときどき。現代の瑞々しい青春、手に汗を握る魔法戦、とにかく流し込むように手当たり次第にページを捲りながら、インクの底に湧くものを飲んで、飲んで、飲んで。

 目が疲れたら音楽を聞いた。古本屋の片隅にある中古CDのワゴンから五百円分、毎月買っていた。気に入ったものだけ手元に残して、他は翌月、また買いに行ったときに売る。

 勉強も頑張った。彼女は当たり前の日々に潜む美しさを事も無げに掴んでみせた。学生の本分、こなすべき「当たり前」は勉強なのだから、彼女のようになりたければ成績くらい保たなければいけない。

 今だから思うことだけれど、多分、あのときの私にとって努力は唯一の娯楽だったのだ。

 目指したい境地があるだけで楽しくも何ともない。でも、そもそも私は感性が捻くれているようで、映画も、本も、劇的なものは大袈裟すぎて白けてしまう瞬間がある。息抜きになるようなものは全て私の逃れたい本性を突き付けてくるだけだから、苦しくても走り続けるのが一番楽だった。擦り切れそうな力で自分自身を磨いていれば、ひとまず、許される。

 素直さは嘘の上に成り立つ。私は捻くれた本性を暴かれたくないから、勤勉で音楽と本が好きなだけの素直な人間を必死に演じた。

 楽しくはない。でも、せめて楽なことをしていたかったから努力した。

 

 私は誕生日が嫌いだ。

 十一月の中で唯一、努力だけで許されない日だから。

 

 

 

 

 

 卒業を控えた六年生の頃だ。最後の思い出作りなのか、クラス全員で誕生日を申告して朝のホームルームで祝うという試みがあった。もちろん誰もが乗り気という訳ではなくて、発案者である担任の先生は困った顔をしていたけれど。

 私はというと、流石に疲れていたのだろう。誕生日を祝われたくないという意見が珍しく周囲と合致したのが嬉しくて、つい、真っ向から先生に言い返してしまった。

 私は素直さを間違えた。

 この場合に求められていた満点は恥ずかしがりながらも迎合すること、その次が普通に喜ぶこと、嫌がる方に添いながら受け入れるのが赤点だった。

 ましてや、本当に拒否してしまうのは「空気の読めないやつ」でしかない。彼らは誕生日を祝われること自体はどうでもよくて、先生や喜ぶクラスメイトと波風が立つことをこそ嫌がっていたのだから。

 一回のミスで、私は「素直」でなくなった。

 

 もちろん、それまでの振る舞いの積み重ねがあるから、全く嫌われたわけでもない。でも、六年間続けてきたものが途切れた衝撃の波紋は、私の内に沈む本性を確かに歪めた。

 

 彼女ならどうしただろうか。そればかり考えるようになった。

 これまでもそうではあった。でも精々「どう見えるか」という程度で、何もかもなぞろうという程ではなかった。仮面の下を暴かれはしなかったからこそ、伸ばされる手が怖くなった。でも仮面でなく、それが顔になったら? 目になれば? 耳に、鼻に、舌に、五感全てを染め上げることができたら?

 

 ――そうしたら、汚い私を捨てられるかな。

 

 次の日から、私はますます本の虫になった。ますます音楽にのめり込んだ。あるいは自分で作って、更には新しく始められそうな料理や絵にも手を出して、人付き合いを少しずつ減らしていって。とにかく、あの子のようになりたかった。ひとりで歩く背中すら朝焼けた色に映えるあの子みたいに。

 

 卒業式の答辞を打診されたけれど辞退した。代表なんて私には荷が重いから、なんて言って。

 本心は違った。中学になったって顔触れはどうせ同じだから、畏まった別れなんていらないと思っていた。もちろん、先生にとっては違うのだろうけれど、それは私にとってはどうでもよかった。

 そんな冷めた本性の下には、別の気持ちもあった。答辞に立てば目立ってしまう。彼女の見る美しい世界に、こんな私を映したくなかった。

 

 ひとつ、最悪なことがあるとすれば。

 よりによって彼女が答辞を担って、確かに目が合ってしまったことだ。

 

 髪が伸びていた。少しシャギーなロングヘアを靡かせて、しゃんと背筋を伸ばした歩き姿に中学の制服は貫禄すらあって。長い睫毛、すっと通った鼻筋。赤い頬。鈍臭いなんてまさか、彼女の内で光る聡明さと活発さに相応しい姿になっていた。

 ますます美しくなった彼女のことが恐ろしかった。その過程を見ないで済んだことに心の底から安堵した。それを見逃したことを腹の底から恨んだ。今すぐに真新しい制服を引き裂きたかった。全て終わらせて、あの美しさを私の最期にしてしまいたかった。

 

 そこから先はよく覚えていない。いつの間にか家にいて、トイレでずっと吐いていた。込み上げる苦しみと喉の焼ける感覚が彼女の幻影を穢していく。そのたびにますます吐き気がする。胃の中が空っぽになって、血相を変えて駆け付けた母に抱き締められるまでそうしていた。

 

 

 

 

 

 無闇に買った本を持って帰るのは流石にちょっと面倒で、お気に入りの喫茶店に入ることにした。第一寒いのだ。カプチーノの一杯でも飲まないと敵わない。

 それに、昔のことを思い出していると速足になる。視野も狭まる。そのまま歩くのも危ないから少し落ち向いた方がいいだろう。

 カプチーノは好きだ。うちは一家揃ってコーヒー党で、私と母がエスプレッソを淹れるのに嵌ってからはマシンまで置かれた。父はちょっと困った顔をしていたものの、カプチーノを淹れてあげれば喜んで飲んでくれる。我が家の朝の象徴である。

 

 ……あれから。

 私の中で何か吹っ切れたか、あるいは壊れたか。純粋に教養を積むことを楽しめるようになった。おかげで中学時代は孤高そのものだったけれど、改めて名作映画を見返したり、積むだけ積んだ本を読み返したり、流行りの曲をギターで練習してみたり、学校生活では生徒会長をしたりなんかもして、充実した毎日になっている。

 こうなってからわかった。彼女も多分、こうして飾らずに物事に触れていたのだろう。憧憬の火傷は残っているけれど、今の私はただ楽しむことができる。余計な濁りも煙もいらない。ただそれだけで良かったのだ。

 冷めた価値観を温め直すには大き過ぎる傷跡だけれど、勲章と言えば格好が付くか。そんなことを気にするあたり、見栄坊なのは変わらない。

 

 今でも彼女のようになれたらとは考える。落葉ひとつ掴みとって、咄嗟に綺麗な言葉を添えられる。それは本当に素敵な能力だ。欲しがらずにはいられない。

 でも、やっぱり側にはいられない気がする。あのときの彼女より美しいものを、私は見つけられないままだから。

 

 運ばれてきたカプチーノはおいしそうだった。砂糖をたっぷり入れて、溶け残りを食べるのを楽しみにしながら一口。優しい熱さが喉を潤していく。この味と、窓から望める銀杏並木が気に入った理由だった。

 

 こうしてカップに口を付けながら、それが良いものかどうかわかるようになった。たくさんの本を買いながら、その巧拙がわかるようになった。音楽も、料理も、絵も、それからスポーツも少しくらいなら。

 それでも、私は何者にもなれる気がしないのだ。黄金の葉が行く先を遮っている錯覚。その向こうにある美しいものを掴まない限り、私に先は無いのだと思う。

 

 大学の見学に行ったとき、文芸部の先輩が見せてくれた小説に短歌が載っていた。

 

 凪げば祈り、(あら)せば呪い、初鯨。

 すべて砕けな、夢も現も。

 

 祝福は呪いと表裏一体。それを海の天気に擬えて、何もかも鯨の鰭で壊してくれと願う歌、らしい。書いた先輩はもう卒業してしまったから、あくまでも予想の域は出ないそうだけれど。ただ、大体合っているということだけは確かめたのだとか。

 最初は変な歌だなぁと思って、それから、私も砕いてほしいと溢した。先輩も頷いていた。小説というのは変な人が書くのだろう。私と気が合うのだから。

 

 小学生の頃、彼女に焼かれた二度の呪いは、もしかしたら祝福だったのかもしれないと思う。私の道はあれから拓けた。でも散々苦しんで、今も先の見えない樹海に囚われているから、やっぱり呪いだろうか。全て十把一絡げに砕いてくれるなら、鯨だろうか。あるいは来たる冬に向けて吹く木枯らしだろうか。

 

 先輩とした鯨やクラゲの話を思い出しながらそんなことを考えていると、窓の向こうに、ふと見えるものがあった。

 些か寒すぎるものの秋晴れらしい青空の下、銀杏並木の光の向こうにだ。

 

 日頃から人通りは当然ある。

 特に不審な人影でもなかった。

 ただ、焼かれた目と、カプチーノで潤した喉が疼く。

 

 震えた手が最後の品性でカップを置いて、それから私は駆け出した。

 荷物も全て席に置いたまま、扉を開け放ってその影を追った。

 パンプスが脱げても、タイツがダメになっても構わなかった。

 銀杏の葉がひらひらと舞う歩道を走って、走って、走って、そこにひとりの女性がいた。

 

 少しシャギーなロングヘア。

 しゃんと伸ばした背筋と長い睫毛、貫禄すらある美しい立ち姿。

 グレーのトレンチコートとシックなテーパードパンツ。さっきまでの私と同じようなパンプスを履いている。

 横断歩道で信号を待っていたのか、その横顔はどことなくぼんやりとしていた。

 

 ――木枯らしが吹いた。

 

 切り裂くような音を立てて弾けた風は銀杏の葉を巻き上げて、髪を抑える彼女を花吹雪のように飾り立てた。

 彩度の薄い街が朝焼けた色に染まって、その中心で美しい女性が驚いた顔をする。

 

 ああ、気の抜けた顔。

 こんなに綺麗なものを、あなたは決して見られないんだ。

 

 息を切らせて名前を呼ぶとますます驚く。

 彼女も応えて、パンプスの脱げた私を控えめにからかった。

 

 道の真ん中で、まるで友達みたいに笑い合う。

 風がもう一度おっとり吹いて、落ち葉がくすくす鳴った。

 

 

 

 

 

 




 小学生の頃、同級生にカッコイイ女の子がいた。
 うじうじと考え込んでばかりの私と違って言葉に無駄がなくて、まっすぐな正論で、本を読む瞳には知性が照り返していた。
 話したことはあまりなかった。避けられているようで、それがちょっと悲しかったけれど。でも、少しでもあの人みたいになりたかったから、せめて努力をした。いつ出会っても恥ずかしくないように寝癖を直して、背筋を伸ばして。
 いつか彼女の前で掴んだ二又の葉のように、また縁の繋がる日が来ないだろうか。
 そんな希望を抱えて、私は今日も銀杏並木を歩いている。
 あの人みたいに堂々と。

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