蝶屋敷のヒモ   作:遠坂しぐれ

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それぞれの思惑

 しのぶはここのところずっと機嫌が悪かった。

 理由は単純、久遠と一緒に過ごす時間が少ないからだ。

 

 久遠が「ホストクラブ」なる所で働き始めてからというものの、連日朝帰りは当たり前。それにより生活リズムもずれ、仕事でない日でもゆっくり話す時間すら取れない、なんていうことが日常になっていた。

 

 しかも、あろうことか久遠のしている仕事は女を接待するというものなのだ。

 連日連夜、久遠が様々な女たちと戯れているなんてことを想像するだけで、しのぶの心にはふつふつと怒りが湧きあがる。

 なぜ市井の女が久遠と自由に交流できて、自分は駄目なのか、という不満は日ごとに高まっていた。

 

 そして、これもしのぶのストレスになっている要因なのだが、しのぶは上記の不満を久遠本人にぶつけることができなかった。

 このホストクラブを巡る全ての事柄は産屋敷耀哉による承認と命令に基づくものであるからだ。つまり、鬼殺隊の方針として久遠の仕事を支援するという形になっているのである。

 重大な任務ともいえる仕事に励んでいる久遠を、自らの私情で責めたりするのは許されない。それはしのぶ自身も分かっていた。

 分かってはいるのだが……。

 

(…………納得、できるかは別の話……)

 

 夜、灯りのない真っ暗な自室にて。

 しのぶは爪を噛みながら、表情のない顔で虚空を見つめる。

 

(……昨日も色んな女の匂いを付けて帰ってきた。あの淑やかさを勘違いしたような品の欠片もない香水の匂いには本当に腹が立つ……よくもまあその女磨きの浅さで久遠の前に立てたこと。本当に忌々しいったらない……)

 

 平時のしのぶではありえないような思いが心の底からどんどん溢れ出てくる。

 それを止めようとも思わなかった。

 

 きっと自分は少しずつおかしくなっている。それはしのぶにもはっきりと分かっていた。

 

 久遠に出会うまでは、亡き姉のようにどんな時も笑顔を絶やさず心を平静に、そして誰にでも優しく。そんな風にずっと生きてきた。

 だから今みたいに他の女性を下に見るようなことはなかったし、ましてや――――そんな女性たちに全員死んでほしい、なんて――

 

 

(…………本当に殺そうなんて思ってるわけじゃないし、別にいいでしょう? 死んでほしいと願うことくらい)

 

 それは果たして誰への言い訳なのか。

 久遠か、はたまたカナエか。

 しのぶは爪をガリガリと噛みながら、久遠に群がる女たちが1人、また1人と倒れていく様を空想して口角を持ち上げる。

 

 

 

 

 

 

「しのぶ、起きてる? 夕飯できたけど食べれるなら……」

 

 その声でしのぶは我に返った。

 

 一瞬で背筋をピンと伸ばし、口元にあった手を膝の上にのせて正座の体勢をつくる。

 

 戸が開けられて後ろの気配も感じているが、振り返らずとも誰かは分かっていた。

 ずっと待ち望んでいた声。

どんな時でも自分を安心させてくれる声。温かくて優しくて、それに包まれると思わず眠ってしまうような……そんな、しのぶの大好きな久遠の声だ。

 

 それと同時に思い出す。

 自分は少し具合が悪いと言って自室に引っ込み、夕飯の準備も他の人たちにしてもらっていたことを。

 つまり、蝶屋敷の面々はしのぶが今寝ている、少なくとも布団に横になっていると思っているはずであり、そうすると部屋のど真ん中で正座している今の状況はあまりに不自然だった。

 

 案の定久遠はしのぶの姿に驚く。

 

「え、しのぶ……どしたの?」

「え? な、何がですか?」

「何がって、なんで部屋のど真ん中でただ座ってるのかなって。具合悪いんじゃなかったの?」

「あ、もうそれは大丈夫です! ばっちり治りました! だからその、えーっと……考え事をしてたんです。座って、ボーっと」

「……部屋の灯りもつけないで?」

「は、はい……」

 

 久遠は当然いぶかしげな顔をしていたが、やがてパッと笑顔を浮かべると、「体調が良くなったならよかった」と言った。

 

 ああこれだ、としのぶは思う。

 この笑顔を向けられるだけで、今抱えているあれこれ全部がどうでもよくなってしまう。

 

 久遠に不特定多数の女が群がっているということも。

 同僚である甘露寺蜜璃や継子であるカナヲまでもが最近は久遠への距離感がぐっと近くなっていることも。

 鬼殺隊と協力体制をとる鬼ということで、突然元下弦の肆と元上弦の陸とかいう女鬼がやって来て、そいつらの久遠への好意があからさますぎることも。

 

 今この瞬間。

 彼の笑顔が自分に向けられている瞬間だけは、何もかもを許せる気持ちになれた。

 

 堪えきれずに久遠の胸に飛び込む。

 

「おっと……どうしたの? 急に甘えたくなった?」

「……うん」

 

 久遠の胸に頭をグリグリと押し付けながら、身体全体でその温もりに包まれているしのぶは、ここのところ一番の幸福を実感していた。

 

 なにせ今まで当たり前にしていたこんな触れ合いすら、しのぶにとっては本当に久しぶりなのだ。

 自分が一体どれだけコレを求めたことか、としのぶは思う。

 どんなに多忙な時でも、久遠を欲しない日などなかった。つまり、それだけ自分は我慢し、耐え忍んできたということだ。

 

(ああ……久遠……久遠……ずっと側にいたい、ずっと側にいて欲しい……もうこのまま離したくない…………)

 

 じんわりと心が温かくなる。

 胸を覆っていた黒い霧も一気に晴れていく。

 さっきまでの陰鬱さはどこへやら、しのぶは最高に上機嫌だった。

 

 しかし――

 

 

「あ、そうだしのぶ。俺、町中の空き家一軒借りたから。これから遅くなる日はそこに泊まるかもしれないからね」

「…………え」

 

 

 まさに急転直下。青天の霹靂。

 しのぶは身体の一切の動きをピタッと止めて固まった。

 

「いやー、やっぱり店が町の中心にあるから蝶屋敷は少し遠いんだよね。ここを出ていくわけじゃないんだけど、あっちに泊まった方が効率も良い時もあるしさ」

「……………………そうですか」

 

 しのぶは、一気に覚め冷え切った頭で思考をまわす。

 

 やはりこのままでは駄目なのだ。

 今の状況が続いては久遠がどんどん離れていってしまう。

 半ば確信のような思いがしのぶにはあった。

 

 では、自分から離れていく久遠が悪いのか? 久遠本人をどうにかすればいいのか?

 否、久遠が気ままで自由に生きる人間であることなど分かっていた。

 だからこそ、久遠の意思を変えさせるのでなく、この状況を変えなくてはならないのだ。

 

(……やはり目下一番の問題は鬼舞辻無惨の所在が未だしれないこと。なんとか、なんとか尻尾でも掴まないと、このままじゃまずい)

 

 そんな風に焦る内心とは裏腹に、思考は驚くほど怜悧だった。

 しのぶは一つずつ丁寧に推測を積み立てていく。

 

(鬼舞辻が久遠に目を付けているという、お館様の予想が外れてた場合のことは考えたくない……そうなったらもうお手上げ。だから鬼舞辻が久遠に目を付けているとして、一つずつ可能性を考えていこう。

 鬼舞辻が相応の距離からでも鬼殺隊の気配を察知できるとすれば、今現在久遠に接触しないのは当然ね。そばには炭治郎君がずっと付いているわけだし。本当に鬼舞辻が久遠と接触を図ろうとしているなら、今の状況には奴もそれなりに苛立っているはず。

 なら、どうする……? 久遠に会いに行こうにも会えない、だけど会いたい。そうなれば、そう――久遠の方から来てもらうしかない)

 

 そこまで考えて、しのぶはハッと思い出す。

 

「……手紙」

「うん?」

「久遠の店のお客様やそれ以外の町娘たちから、大量に届いているあの手紙。ありましたよね」

「あーそうだね、ざっと目を通しはしたんだけど、あれだけの量だと扱いに困っちゃって。今は全部箱の中に入れて押し入れの奥に置いてるよ」

「あの、それ……私が見てもいいですか?」

「しのぶが? どうして?」

「ちょっと気になることがあるんです。勿論、よくない行いだということは分かってはいます。でも……もしかしたら鬼舞辻に繋がる何かがそこにあるかもしれないので」

 

 少し困ったような顔をしていた久遠だったが、しのぶの口から出た『鬼舞辻』という言葉に反応して真面目な雰囲気になる。

 

「女の子たちからの手紙に鬼舞辻に繋がる何かがあるの?」

「勿論、今の段階ではただの推測ですけどね。少なくともそこに私の予想していたようなものがなければ、私の仮定が一つ消えるっていう話です」

「そっか……じゃあまあ、好きに見ていいよ。しのぶがそこまで真剣になるなら何か理由があるんだろうし」

「久遠っ! ありがとうございます!」

 

 久遠に抱きつきお礼を言った後、しのぶは早速久遠の部屋に行き、大量の手紙を片っ端から見ていく。途中、夕飯を食べないのかと何度か聞かれたものの、全て断って一心不乱に手紙を読み込んでいった。

 そのほとんどが久遠への愛をこれでもかと囁く、非常に気色の悪い文面であり、しのぶの気分は否応なく悪くなっていったがそれでもぐっと我慢して読み続けた。

 可能性が少しでもあるなら、これにかけるしかないのだ。今のしのぶにできる最大限がこれなのだから。

 

 そして夜も明け、空が白み始めてきた頃、ついに――

 

 

 

 

「見  つ  け  た」

 

 

 

 

 連日の過労に加え、今日の寝不足により真っ赤に充血してしまった目を見開いて、しのぶは口を大きく釣り上げた。

 

「久遠への異様な執着が分かるこの文章、はまあいいとして……久遠の店には何故か行けず、久遠から自分の所へ来てもらおうとしていること、そして会うにあたっての不自然なまでの条件付け。

浅霧灯子……徹底的に洗うべき女が見つかった。……ふふふっ、うふふふふふふっ! あはははははは!」

 

 体も頭も疲れ切っているのか、昏い笑い声が喉から溢れ出るのをどうにも止められなかった。

 

 やがて笑いが収まると手紙を横に置き、ようやく就寝――とはならない。

 しのぶは箱から次の手紙を取り出す。

 

「まあ予想通り最近寄りの手紙でこれがありましたけど、他にないとも言い切れないからちゃんと見ないとダメですね。

 で、他にはなかったら次は、浅霧灯子とかいう女をどうやって調べるかを考えないと……」

 

 ぶつぶつと呟きながら手紙を開くしのぶ。

 

 どうやら、しのぶが床に就くのはまだまだ先の事になりそうだった。

 

 

         ◇

 

 

 無惨はここのところ酷く不機嫌だった。

 理由は単純、久遠に会えていないからである。

 ……なにやら既視感を感じなくもないがそれは置いておこう。

 

 ホストクラブなる場所で久遠が働き始めたことを知った無惨は、当然自身も足を運ぼうとした。

 しかし、そこで気付いたのだ。久遠の側にあの耳飾りをつけた鬼殺隊士がずっと付いていることに。

 

 こうなっては迂闊に久遠に近づくわけにはいかなかった。

 あの耳飾りの隊士は自分のことを識別する何らかの術を持っているからだ。

 

 なので、久遠が1人になる隙を見つけようと機会をうかがっていたのだが、待てども待てどもそんな時は訪れない。

 久遠が町を歩く時、店にいる時はずっと側に付いていて、ようやく離れたと思えばそこは蝶屋敷である。接触する隙などあろうはずもなかった。

 

 ここで無惨も流石に気づく。

 間違いなく意図的に、久遠の周りに人を付けていると。

 もしかしたら自身の存在に勘付かれたのかもしれない、そう思うと動きに慎重さが増すのも仕方のないことであった。

 

 仕方ないこと、ではあるのだが……

 

(納得、できるかは別の話……)

 

 灯り一つない真っ暗な自室にて、無惨は憎々しげな形相でガリガリと爪を噛む。

 

 久遠に会いに行くことが全く叶わず、もう2か月近く言葉を交わせていない。

 どうにか会いたいが、こちらから出向くことは不可能である。

 

 ならば久遠の方から会いに来てはもらえないかと、1人で自分の屋敷に来て欲しいということ、できれば夜がいいということ、久遠の都合が空いている時でいいのでいつでも来てほしいということを記し、ついでに久遠への思いもありったけ綴った手紙を送ったが、久遠からの返事は「時間が取れなくて難しい」というものだった。

 

 ところで、無惨は久遠宛に他の女たちから大量の恋文を寄せられていることは知っていたため、それに紛れれば特段あらためられることもないだろうと考えての行動であったが、とはいえ送り先は蝶屋敷である。

 リスクマネジメントをしっかりするならば、足が付く可能性のあることはするべきではない。

 しかし、もう無惨も我慢の限界だったのだ。

 どうにかして久遠に会いたかった。久遠に会うための可能性ならば、多少の危険を犯してでも掴みたかったのである。

 

 まあそれも結局は空振りに終わったため、今無惨はこうしているのだが。

 

 そして、さらに無惨を苛立たせている原因がもう一つあった。

 それは、下弦の肆・零余子と上弦の陸・堕姫、妓夫太郎とのつながりが完全に切れたことである。

 零余子の視界を覗く力の精度が悪くなっていたことには気が付いていたが、まさか自分のかけた呪いまで外してしまうとは無惨も思っていなかった。それを成したのはこれまでで珠世という女鬼のみであった。

 

 心当たりはある。ほぼ間違いなく久遠だ。

 零余子が久遠と接していたことには気が付いていたし、非常に忌々しいことであるが『強い想い』とやらが自身の課した呪いを外すのであれば、久遠への想いというのはそれはもううってつけだろう。それは無惨自身が身を持って感じたことだった。

 堕姫が久遠と接触していたことには気付かなかったが、他の可能性は考えにくい。

 少し前までの、堕姫の無惨への心酔ぶりを考えれば、それを遥か上回るほどの存在に出会ったとしか思えないのだ。

 

 まあこれらのことも、久遠に出会えばさもありなんと思ってしまう自分がいる一方で、裏切られたことへの怒りに身を震わせる自分もいる。

 乙女無惨と支配者無惨の葛藤である。

 

 ともかく、2か月近く久遠に会えず、これから会える目途も全くもって立たない。

 無惨の苛立ちはもうピークに達しており、とりあえず今すぐ蝶屋敷を襲撃して女たちを皆殺しにし、久遠を連れ去りたいなんて考えてしまうほどだった。

 

 現実的にはそれは不可能だ。

 鬼だとばれないために散々手を尽くしてきたのだから。

 いや、ともすれば――

 

(彼なら、受け入れてくれそうな気も……する)

 

 実際に久遠が、無惨が鬼であることを受け入れてくれるならば、いくらでもやりようはあった。

 それこそ久遠にも鬼になってもらい、他の鬼たちを全部消滅させた上で二人静かに暮らすというのもありかもしれない。

 人を喰らわなければ鬼殺隊に見つかることもないし、日本中からたった二体の鬼を探すのは至難の業だろう。

 

 だからせめて、そう……太陽を克服して普通の人間と同じように生活できるようになれば……。無惨はそう強く思う。

 太陽さえ克服すれば、鬼は完全に人間より優れた種族になるのだ。

 力を強めるならば人を喰う必要があるが、喰わなくても死にはしない。

 久遠が嫌がるならば自分もしないだけだし、最悪は二人の身を守れるだけの力が残っていればいいとすら思っていた。

 

 つまり唯一にして、最大の問題。それが太陽だった。

 

 

 無惨は今まで生きてきた中で間違いなく一番だといえるほど、切実に太陽を克服したいと願っていた。

 だから青い彼岸花を見つけるために、今も全国で鬼を走らせているのだが、どうも期待は薄そうである。

 そもそも本当に存在しているなら、この1000年以上見つからないのはいくらなんでもおかしい。どの学者の文献にも全く書いていないというのも、その現実感のなさを際立たせていた。

 

 結局のところは手詰まりなのだ。

 何もかもが停滞した状態。だからこそ無惨はこうやって爪をガジガジ噛みながら、やり場のない怒りを溜めこむしかない。

 

 そんな時である、自室の戸をノックする音がした。

 

 恐らく屋敷の使用人だろうが、今まさに機嫌最悪である無惨は額に青筋を浮かべながら入るように促す。

 くだらない内容だったらどうしてくれよう、そんなことを考えて――

 

「あの、天川様がお越しになられているそうですが……」

「すぐに行く!」

 

 久遠が屋敷を訪ねてきたと聞いて無惨は部屋を飛び出した。

 

 一秒でも長く久遠を待たせたくない。

 いや、それよりも自分が一秒でも早く久遠に会いたい。

 

 先ほどまでの陰鬱さはどこへやら、顔に喜色を浮かべ、頬を上気させながら居間へと急ぐ。

 ちなみに、無惨はいつ久遠が来ても良いように毎日ばっちり化粧をしているので、会うための準備などはいらなかった。

 

 凄まじい速さで居間の扉の前まで辿り着き、そこでようやく一度落ち着く。

 このままの勢いで入りそうなところだが、久遠の前では完璧な淑女としてありたい。

 

 多少乱れた服装や髪を整え、息を一つ吸ってから扉を開けた。

 

「やあ、灯子さん。こんばんは。夜遅くに尋ねちゃってごめんね」

「……久遠様っ!」

 

 そこにいたのは毎日毎晩、心の底から待ち望んでいた人。

 その顔を見て、声を聞いた瞬間、自分を取り繕うことすら忘れて無惨は久遠に抱きついてしまう。

 久遠はそんな自分を拒むことなく、優しく抱きしめ返してくれた。

 

「中々会いに来れなくてごめんね、手紙でも書いたと思うけど色々忙しくてさ」

「いいえ、お仕事なら仕方ありません。私のわがままで久遠様に迷惑をかけるわけにはいきませんし……。今日こうして会えただけでもう十分です」

「そう言ってもらえると助かるよ。なんか今日は丁度お店がお休みで、しかも同居人がほとんど出払っててね。いつもなら止める人もいないからこうやって夜に出歩けたんだ」

「そうだったんですね……」

 

 そこで、無惨は一度久遠から離れると深々と頭を下げた。

 

「申し訳ありません。本来なら私が会いに行けば済む話だというのに、わざわざ久遠様にご足労いただく形になってしまって」

「あー、別にいいよ気にしなくて。大した手間じゃないし、灯子さんが太陽の光を浴びれないっていうのも分かってるからね」

「ありがとうございます……」

 

 そして居間での話もそこそこに、無惨は久遠と共に外へ出た。

 元々、手紙で夜を指定したのも久遠と共にある場所へ行きたかったからだった。

 

 屋敷の裏手にある小さな山。

 少し歩けばすぐに頂上へとたどり着くことができ、そこにはまさにおあえつらえむきといった風にベンチが置いてある。

 

「灯子さん、ここは?」

「うちの敷地にある裏山なんですが、ここから見る星がとても綺麗で、ぜひ久遠様と一緒に見たいなと」

「星、ね……」

「……あまりご興味ないかもしれませんが、どうか私のわがままに付き合ってはいただけませんか? 久遠様と共に星を見ながら語らうのが夢だったのです」

 

 少し気落ちしたように、上目使いで懇願する無惨。

 それを見た久遠は困ったように頬を掻き、苦笑する。

 

「……そんな風に言われたら断れないって。いいよ、たまには外で星を見ながらお喋りするのもいいかもね」

 

 久遠の言葉を聞いた瞬間、無惨はパッと華やかな笑顔を浮かべ、いそいそとベンチにハンカチを敷いたりと座るための準備をし始める。

 

 ちなみに、どうして無惨が突然このような行動に出たのかというと、ごく最近読んだ恋愛小説の一節にそういうシチュエーションがあり、どうしてもそれを実現したかったのだ。

 それまで星を美しいなどと思う心は一ミリも持ち合わせていなかったというのに、いつか久遠と共に星を見る日の為に、何度も予行練習をしては、星についての勉強までしたというのだから健気なものであった。

 

 そして、それから二人は会えなかった時間の空白を埋めるかのように言葉を交わした。

 そのほとんどはお互いの日常を語るというだけの他愛のない話。

 しかし、無惨はそれだけで本当に幸せだった。

 久遠と顔を合わせて話をするということ、それこそが無惨がこの二か月どれだけ欲してもずっと手が届かなかったものだったのだから。

 

 そうやって話をしているとあっという間に夜は更けていく。

 久遠が寒さに身震いしたのを見とめ、無惨は「そろそろ戻りましょうか」と言った。

 

 今度またいつ会えるかは分からず、それを思うとこのまま一生ここに久遠といたい気持ちだった。

 しかし現実的に朝はやってきて、無惨は日の光を避けねばならず、久遠はまた元の日常に戻らねばならない。

 名残惜しさは胸から溢れんばかりにあれど、今日の逢瀬はこれで終わりだと無惨は自分に言い聞かせた。

 

 ベンチから立ち上がり、さあ帰ろうというところで、久遠が何気なく言った。

 

「お、あんなところにすごく綺麗な花がある。あれって灯子さんが育ててるの?」

「えっと……どの花でしょうか。暗くてよく……」

「ほら、あれ。あの青い花だよ。月明かりに照らされてすごく綺麗だと思わない?」

 

 久遠の指差す方を見て、無惨は唖然とした。

 

「え、あ……う、嘘…………」

 

 それは、とてもとても美しい花だった。

 月光の下で青い輝きを放つそれは、見る者の目をつい奪ってしまうような妖しい美しさに包まれていた。

 

 しかし、ただ美しいだけの花に無惨がここまで驚愕するはずがない。

 無惨は一目見た瞬間に分かったのだ。目の前にあるものが、自分が1000年以上にわたって追い求め続けた花であることを。

 

 そう、久遠が見つけたその花は、まさしく無惨が渇望していたあの『青い彼岸花』だったのである。

 

「あれ、灯子さんが育ててたわけじゃないの? じゃあこれ自然にここに生えたってことか、すごいな」

 

 久遠の言葉に何かを返さなきゃと思いながらも、無惨は未だに固まったままで口が動かない。

 

 育てる? そんなことができていれば1000年もの間苦労するなんてことはない。

 自然に生えていたにしても、それなら無惨が見落とすはずがないのだ。ここには事前に何度も来ていたのだから。

 

 久遠と会う今日この日までの少ない時間でいつの間にか生えていた、なんていう確率はあり得ないに等しいだろう。

 しかし今はそのありえないことが起こっているとしか思えない状況だった。

 

(ふ……くふっ、くふふふふふふふっ!)

 

 じわじわとやってきた喜びを実感するとともに、無惨は心の中で笑う。

 

(天啓、運命――論理的でないけれど、そんな言葉しか浮かばない。間違いなく、久遠様と私は天に祝福されている。……いや、天に愛されているのは久遠様だ。私はそのおこぼれにあずかれただけ。

 でも、その結果として1000年間追い求めたものが手に入った……しかも、まさに絶好の状況下で……これを運命と呼ばずして何と呼ぼうか!)

 

 青い彼岸花が手に入る、それはすなわち太陽の克服に一気に迫ったということ。

 つまり……ついこの前まではただの無惨の夢想でしかなかったのが、現実的な実際の計画になりうるということだった。

 

(蝶屋敷襲撃、これが視野に入るということだ。くくく……上弦たち全員に召集をかけるか。万が一にも失敗は許されないからな)

 

無惨は急速に思考をまわして計画を練り上げつつ、久遠に向かって嫋やかな微笑みを浮かべて頭を下げる。

 

「久遠様、ありがとうございます」

「え、何が? どうしたの急に」

「久遠様のおかげで私の昔からの願いが叶いそうなのです。本当に、どれだけ感謝の言葉を尽くせばよいのか分かりません」

「え、うーん……よく分からないけど、まあどういたしまして、と言っておくよ」

「今は分からないでしょうけれど、そう遠くないうちに全てお話ししますわ。その時は、きっと――」

 

 

 ――久遠は自分の側に、自分だけの側にいるはずだから。

 

 

(久遠様にまとわりつく女ども……一人残らず殺してやろう。せいぜい残り少ない余生を楽しむがいい)

 

 久遠の周りにいる邪魔な女を全て排除し、その隣にいるのは自分だけ。

 彼から笑顔を向けられるのも、優しい言葉をもらえるのも、温かい手で触れてもらえるのも、自分だけ。

 

 そんな甘美な未来の妄想をするだけで、歪んだ笑みが溢れ出そうだった。

 




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