風俗嬢がとんでもないコスプレをさせられる話。

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コスチューム・エックス

 コスチュームプレイ、略してコスプレ。それは確かなニーズを保ち続ける、男の欲望の行き先の一つであり、そんな醜い物とは無縁のれっきとした趣味でもあり、また私の仕事に関わる物でもある。……と言っても私はコスプレイヤーではない。

 人間の性癖のバリエーションは無限大。その中の一つ「コスプレ」が私の専門、ということになっている。より正しく言えば、私が務めている店の専門がそうなっている。

 けれども私は別に、借金があるわけでも、生活に窮しているわけでも、身内に重い病気を持った人間がいるわけでもない。どうしても風俗で稼がなければならない理由なんて、少なくとも傍から見れば、社会一般的に言えば、まったく無かったりする。

 しかし、コスチュームプレイの「プレイ」という言葉を「そういった意味」で捉える男たちの集う魔境のような場所に、なぜ私がわざわざ好き好んで身を置いているのかというと、それはやはり収入が良いからだった。というか、のっぴきならない理由があってもなくても、それ以外の理由で風俗に務めている人間なんてこの世のどこにもいない。仮にいたとしても、そいつに「同じ人間ですよ」という顔をされてはたまらないというのが、ほとんどの同業者の共通意見だろう。

 やることをやり終えて客を見送るたびに、自分には借金の類がなくて本当に良かったと心底思う。そうやって「気分次第でいつでも辞められる」と自分に言い聞かせていなければ、自分で選んだ仕事なのに、気が触れそうになることがあるのだ。おかしな話だけれども。

 ところで……風俗に来る客というのは、皆それぞれ悪い意味で印象に残りやすい。特に常連の中には一際変わった男がいた。黒須と名乗るその男は、事が済んでいわゆる賢者タイムが訪れると、何かに取り憑かれたかのように抑揚のない声で長文の独り言を話す男だった。

 以前、彼はこんな話をしていた。

「「可愛い」にはいつも性的ニュアンスが含まれる」

「えぇ?」

 くたびれた人がベンチに座るのと同じ格好でベッドの縁に座り、特に何もない床へ視線を向けながら彼は語る。それは姿勢まで含めて完全に彼のお決まりパターンとなっていて、言わばそれが彼のピロートークだった。

 気まぐれで、横に座って彼の顔を覗き込んだことがあるけれど、その瞳は微動だにしていなかった。時々瞬きはするものの、きっと物理的ではない何かを見ながら話しているのだろうな……と私は勝手に推測している。例えば記憶を見ている、だとか。

 誰が見ても明らかな、彼のそういった気味の悪さは、気色の悪い好意を物理的にぶつけてくる男たちに比べれば、むしろ好ましい物である。それに彼はどうやら金銭的に余裕があるようで、私はそういう意味なら彼のことが好きだ。割のいい仕事が好きなのだ。

「男が女に「可愛い」と言う時、そこには必ず性的ニュアンスが含まれる。アイドルに言う時も、恋人に言う時も、いつも」

「へぇ」

 心当たりはある話だった。可愛いね可愛いねとしきりに口走る男の目の中に、舌なめずりするようなニュアンスが感じ取れたことは数え切れない。何がつらいかと言えば、それが別に「職業柄」というわけではないことだけれど。

「私のことは? 可愛いと思う?」

「思う」

「まぁ、そうじゃなきゃ指名されないか」

「それで性的ニュアンスとは何かという話なんだが」

 彼は裸のままで、まだ語り続ける。お説教をプレイの一環に勝手に盛り込んでくる男に比べれば、彼の語りは極論、聞き手を必要としていないので無毒だ。

「そもそも性的興奮はどこから来るのだろう。思うにそれは、「女らしさ」にくっ付いてくる物だ。女の裸を見れば興奮するが、女は女でも幼児の裸には興奮しない。幼児の体は大人のそれと比べて女らしさが希薄だからだろう。するとこうも考えられる。女らしさとは、体にばかりある物ではないと。例えば服なんかがそうだ」

「うんうん。だから黒須さんはコスプレが好きなの?」

「同じカテゴリーの中で、男らしさと女らしさに分かれる物がある。体や服以外にも、仕草、性格、声……。我々男は、そういった女らしさにこそ興奮しているに違いない」

「なるほどー」

 独り言賢者タイムが終わるまでは、彼との会話は成立しないことが多々ある。返事がもらえればラッキー程度に思っておくことが、余計なストレスを避けるための賢い心構えだ。

 それでも私が相槌を打ってあげているのは、金を受け取っていることから来る責任感と、そうしなければ何か良からぬことが起こりそうだという、呪術的脅迫感が理由になっている。相槌を打ってやらなければ、永遠に語りが続くのではないかと、一度もそうなった試しはないのに思ってしまうのだ。

 時々、これはカウンセリングなのではないかと思えてくる時がある。実際客の中にはそれを必要としているような人間も混じっているけれど、まずいことに、それは働いている側にとっても同じことなのだった。

 いやむしろ、見た感じ同じ職場の女たちのほとんどが、大なり小なり精神を病んでいると言っても過言ではない。金のためだけにつらい仕事を続ける人間は、そういった傾向から逃れられないのかもしれない。おかげで私も「引き際は見極めなければ」と常日頃から思わされている。

「女性の裸を見て興奮する理由が「女らしさ」にあり、女性に対する「可愛い」がいつも女らしさを参照しているのなら、可愛いには常に性的ニュアンスが付きまとっていることになる。……が、例えば女性服を見て、女性の裸を見た時と同じように興奮する男は少ない。普通、男の性的興奮は女性本体がベースとなっていて、それに付属する「可愛い物」は、倍率をかけていく存在でしかないわけだ」

「倍率?」

「つまり裸の女は1.0倍の魅力を持っており、着エロだのコスプレだのというのは、1.0倍の魅力では足りない、不十分だと主張することで始まる、失礼極まりない行為だということになる」

「……そうなの?」

「そうだよ。……あと何分ある?」

「え? あぁ」

 尋ねられて、時間を確認する。

 このように、彼の独り語りは突然終わる物だった。定められた料金によって私を拘束していられる残時間の確認をした時、彼は普通にコミュニケーションを成立させられる普通の人間に戻る。時間を確認することがそういった合図的意味合いを持つことも、黒須という客を相手にする際のお決まりなのだった。

 彼との間には、他の客以上に多くお決まりが存在している。

「十分切ったくらいかな。……もう終わりでいい?」

「そうだな。……分かった、また来る」

「はーい。また次も新しい服持って来るの?」

「ああ」

 頷いて、彼はベッドから立ち上がり、こちらには目もくれず自分の衣服を身にまとっていく。

 私は彼に、今回使った衣装を返した。この店は客が衣装の持ち込みをすることも可能で、黒須と名乗る私の太客は、毎度必ず別の衣装を持ち込んでくるマニアである。

 今日着た物は、ええと……名前は忘れたけれど、たしか最近人気の漫画キャラクターが着ている特徴的な物だったはず。その漫画のタイトルが、人気とは言ってもとにかくマイナーで聞いたこともなかったことだけは覚えている。

「あの!」

 どうせ近いうちにまた来るくせに、さも何の未練も無さそうに立ち去る彼の背中に私は声をかけた。

「私は別に、失礼な行為だなんて思わないから!」

 だから、ここで働いている。恵まれた私は、数多の選択肢の中から選り好んでここにいるのだ。

 しかし振り向いた彼は、私に向かって、少しだけれど明確に顔をしかめた。

 男の頭の中には、自分の思い描く理想の女がある。実際は、特に風俗勤務の女とその客という立場にあっては、その理想を裏切った女は、そういった表情を向けられてしまうものだった。

 ここで働く者の中から精神を病む人間が出てくることに何の違和感もない。黒須と名乗る私の太客は、あれで一番金払いと良心のバランスが取れた客なのだから。

 

 

 

 

 

 小さい頃、私もお人形遊びをしていた。人形の着せ替えだって、数えようとも思えない無限の回数を繰り返していた。しかし当時の何も知らなかった私は当然、まさか後々になってその時の記憶を、汚らしい男の内心を慮る材料にするとは思っていなかった。

 看護師の格好をした人形は看護師として、学生服を着た人形は学生として、あの頃私の頭の中で生きていたように思う。けれど自分が着せられる側になって知ったことがある。何を着せられても、人間の内面には、何の影響もないということだ。どんな格好をしても、私は私、物欲にまみれた風俗嬢だった。

 そうやって昔のことを嫌な形で思い出してしまうと、同じようなことは次々と連鎖してしまうもので、オセロの終盤で逆転負けが起こるように、記憶がどんどん負の色に侵食されていってしまう。何もかもが、今ある現実へ繋がる前兆だったかのように思えてくる。

 例えば、私は昔、物怖じせず常に堂々としていることをよく大人から褒められたものだった。

 元来の胆力とでも言うべき性格と、人並みの能力が備わっていたことが功を奏して、少なくとも義務教育を受けている間は、私は模範的な人間の一人として生きていたことを自負している。率先して人の前に立ち、緊張と責任の伴う役を次々と背負い、またやってのければ、人はいくらでも私を褒めてくれた。

 けれどもまぁ、義務教育期間の中にある「責任」や「難しさ」なんて物は、結構多くの人にだって突破出来てしまうものなのだろうと今では思う。

 私は、いつの間にか気が付いた時には、ただ堂々としていることそれ自体は、何ら褒められたようなことではないのだ……ということを悟っていた。私は私の人生について、失敗はともかく、間違いは一度も犯していないと断言できるけれど、大抵の他人はその見解を頑なに批判する。

 幸い私の胆力は、初めから賞賛なんか大して必要としていなかったようで、かつての輝かしい評価を得る自分を取り戻したいだとか、そういったことはこれっぽっちも思わない。でも、時々こういったことは思う。

 褒められたって何も嬉しくないから、だからこうなったのだろうか? 私が欲しい物はいつだって金、金、金である。昔からそれは変わらない。なのに私の人生はいつの間にか、誰からも褒められない物になっていた。いつ頃から自分が他人の理解を得られなくなっていったのか、今ではまったく思い出せもしない。

 私は、自分の生き方を誰から批判されたところでつらくはない。つらくはないが、しかし私だって人間である。常に堂々とした人が緊張と無縁であるわけではないことに似て、私も、心の片隅で理解者を求めている節まで否定することはできない。

 ……例の客、黒須は、あれからそう遠くないうちに店に現れた。そして常連と言って差し支えない彼は、その日初めてあることをした。

 衣装を二つ持ってきたのである。今までは常に一つだった。明らかに私に着せるための衣服が入っているであろう袋を一つずつ両手に下げて、彼はなぜか、初めてここへ来た時のような緊張を顔ににじませていた。

「今日はどんな服?」

「……それなんだが」

 彼の思い詰めた顔を見ると、否応なしに嫌な予感が湧く。彼に限らず客がそういった顔をした時、その口から良いニュースが告げられた試しはない。

「今回はちょっと、あれなんだ」

「あれって?」

「君が着たくない物かもしれない」

「……ふむ」

 着たくない衣装と聞いてまず頭の中に浮かんだ物は、マイクロにもほどがあるビキニ。それとまったく同じではなくても、いわゆる裸よりも恥ずかしい衣装……それが彼の持参した袋の中にあるのかと想像した。

 しかしまぁそれならそれで仕方がない。彼には私にそれを着させる権利がある。私はそうやって人権を切り売りすることで財布の中身を確保しているのだから、それくらいのことなら覚悟の上だ。

 そんな覚悟を決めてでも私は、欲しい物の値段を見て諦める人生なんかは絶対に、絶対に御免なのである。食べたい物を食べて、使いたい物を使い、したいことをするためなら私は、今の仕事くらいのことならいくらでも……。

「裸より恥ずかしい物?」

「いや、違う。失礼な物」

「失礼?」

 以前に聞いた話を思い出す。コスプレは生身の女性に満足できない男のする失礼な行為なのだと彼は言っていた。ここへ通い、私を着せ替え人形どころかラブドール扱いして、散々彼の言うところの「性的ニュアンス」をそのまま形にしてきたというのに、今さら失礼も何もないだろうとしか思えなかった話だ。

 礼儀の話をするなら、そもそも女を金で買うところから改めなければ完璧には程遠い。だからこそ客は「いっそのこと」を理由に恐れを捨てて、売られた分だけの人権を買う。ここはそういう約束で出来た場所以外の何物でもない。

「これなんだけど……」

 そんな場所で黒須が取り出した物は、どこかで見たような気のする……しかし比較的普通の衣装だった。過度に露出が多いわけでもなく、女体のどこかしらを強調するデザインとなっているわけでもなく、ただ明らかに二次元から出てきた物だろうな……ということだけが分かる奇抜な服。

「何もおかしいところはない……ように見えるけど」

「これはバーチャルユーチューバーの衣装なんだ」

「ふーん?」

 だからなんだ、と顔に出てしまったのだと思う。一瞬目が合ったあと、彼は解説してくれた。

「バーチャルユーチューバー、略してVtuberは、二次元の皮を被ることで容姿を伏せた生身の人間なんだ。キャラクターというより普通のYouTuberと同じような感じで、生身の人間として振る舞っていることがほとんどで」

「ふむふむ?」

「だからこれは半分は、ある一人の人間を象徴した服ということになる。他人の服を着せられるのはあまり気分の良いものじゃないだろう?」

「いや別に?」

 それを言ってしまったらアニメキャラクターの衣装だって同じことである。私はいつも、他の誰かを象徴する服を着て、その威を借りているのだ。倍率をかけるという彼の見解自体は、あながち間違っていないような思う。

 何なら実際に、お気に入りのキャラクターの衣装を持ってきては、私の顔を隠した状態で抱きたいと言いだす客だっていた。そういったことを「気にしない」とまではさすがに言えないけれど、しかし結局私は、金に心を眩まされ続けている。だから彼、黒須の気にしていることは、あまりにも今さらすぎることだった。

 二次元の非実在人物(キャラクター)でも概念的な物(ナースや女子高生)でも、何にせよ仕事でコスプレを受け入れている私が、何者かの代用品にされてしまうことは珍しいことじゃない。欲求を満たすためにこの店へやって来て、私を私という一個人として見る男の方が珍しい。私だって元々それを承知の上でここを職場に選んでいるのだからそれで構わない。

 極めて選択的に風俗嬢として働いている私は、よく分からない本人だけの理屈で怖気付く黒須の手からふんだくるようにして、着るべき衣装を手にして袖を通した。袋の中にはウィッグも一緒に入っていて、当然それも身につける。それであとは、一時間と少しの間何かの代わりにされることに耐えていれば、好きに生きることの代償を払い終えられるのだ。……とりあえず今日の分は。

 黒須は、いつも深いキスから事を始める男だった。熱心なコスプレ趣味を持ちながら、決まって最も視界が意味を失う行為から始めることを、私は毎度毎度ちぐはぐに感じている。

 そしてお決まりのキスが行われたなら、そこからしばらくはいつもと同じように、何も特筆すべきことは起こらなかった。特別不愉快なことはなく、その代わりその反対もなく、一家言ある人間からすれば「つまらないセックス」とでも表現されるだろう行為が過ぎていく。……私は、正常位で見下ろされる視線に居心地の悪さを感じながら、ただ喘ぐ演技に集中するばかりだった。

 そしてそれが終われば、やはり賢者タイムに差し掛かった彼が、私に背を向けてぶつぶつと語り始めるのだった。

「例えばX学校の卒業生であるAさんが、制服をネットオークションで売り払ったとして」

 語り出す彼の姿を休憩代わりに見守りながら、否応なしに乱された息を整えていると、なんだかその状態の彼にはタバコが似合いそうだと感じた。そう感じるのは初めてではないけれど、だからといって吸って欲しいわけではない。タバコの臭いは煙その物も、部屋や人体に染み付き残る物も苦手だし、変人の振る舞いがある種美しくなったところで何も嬉しくはないから。

「その制服を買った人は、それをX校の制服と認識するだろう。Aさんの制服……とは認識しないわけだ。このように一般人にとって、普通なら「服」と「個人」は、お互い切り離された関係にある。服は個人を表さず、個人は服を表さない」

「…………」

「だが有名人にとって話は別だ。例えばドラマに使用された特徴的な衣装は、そのドラマを演じた人間のイメージが付く。〇〇が着ていた衣装……というように、服が個人を表すようになる。つまり個人が服を表すようにもなる。その点、二次元のキャラクターたちは大抵有名人だ。コスプレ衣装が市販されるキャラクターなんかは特にそうだと言える。コスプレは、誰かのアイデンティティを部分的に借りる行為だ。それは人格でないにせよ、アイデンティティがアイデンティティであることに変わりはなく、ある人の体を使って別の誰かのアイデンティティを味わおうというのは、極めて失礼なことであって……」

 普通、到底許されることではないのだ。

 ……そう言ったことを最後に、彼は突然沈黙した。くたびれたように背中は曲がり、死んだかのように無音で、動かなくなる。

 そしてふとした瞬間に、不具合を起こした装置が復旧するように突然、彼はお決まりの台詞を口にした。

「時間どれくらい残ってる?」

「まだ結構あるよ。……もう一回する? 衣装ももう一つあるみたいだし」

「……出来るならそうしたい」

「出来るでしょ。なんなら延長してくれてもいいよ」

 言いながら私は、残るもう一つの袋に勝手に手をつけていた。失礼な物を持ってきたと言う彼の残した二つ目の衣装とはいったい何なのか、実は少し興味もあったのだ。こういう場合は大抵、よりまずそうな物を後に残すだろうから。

 まさしく興味本位で彼の持ち込んだ物を袋から取り出す。……しかしそこから現れた物は、今までで一番ノーマルな服だった。……というか、それはもはやコスプレ衣装でも何でもなかった。

 二つ目の衣装は、ただの可愛らしい女性服だった。強いて問題を挙げるとしても、私に似合う物ではないことくらいしか思いつかないような、至極真っ当な服だった。

「なにこれ、普通の服だ」

「そう思う?」

「うん、どう見ても。……これを着ればいいの?」

 様々な男の要望に合わせて、あるいは偏執的に熱心な一人の男の持ち込みに合わせて、あらゆるコスプレを経験してきた女。その女にあえて普通かつ自分好みの服を着させる……という変態チックな逆転の発想があったのかもしれない。それとも似合わない服を着させることに意味があるのだろうか? 思惑は読めないけれど、しかし何にしても普通の服は普通の服だ。コスプレ衣装に比べれば、それを着ることに何の抵抗もあるはずがない。

 着ることに少しの抵抗も感じない、それは素晴らしいことだ。仕事は稼ぎが良ければ良いほど、そして楽であればあるほど良い。

 そう思ったから、私はロクに相手の返事も聞かないまま、その洋服をすっぽりと着込んでしまったのだった。そしてそれから、どうやらその服が新品ではないことに気が付いた。

 そしてその瞬間、ただ度胸と忍耐力があるだけだったはずの私の脳みそが、名探偵のように閃いてしまう。

「……もしかしてなんだけど」

 私は、全てを察した気がした。だからこそすぐに答え合わせをしなければならないとも思った。

 冷静に、慎重に聞く。どこかの漫画で、似たような名シーンがあったような気もした。

「黒須さん、これ新品じゃないよね」

「……ああ。それは悪いと思ってるが」

「いやそれは別にいいんだけど。……これ誰の服?」

「…………」

 それからしばらく彼は喋らなくなった。凍ったように立ち尽くして、呼吸さえしていたのかどうか。

 そして、たった一言だけ。たった一言だけの答えが返ってくるまでに、恐ろしく長い間が開いた。けれどそれも、自白に必要な時間として見れば、まだ短い方だったのかもしれない。

「誰の服なの?」

 再度尋ねると、観念した彼が答えた。

「……元カノ」

 まるで、いじけたような声の出し方だった。

 なんとなく予感していた答えではあったけれども、それが正式に、点と点が線で繋がった瞬間になる。私は、喉元まで出かかったため息をなんとかして飲み込んだ。

「…………」

 彼は金を払って私を買っている立場の人とは思えないほど、怒られる準備を済ませて押し黙っていた。

 彼の語るコスプレに関する見解は、私からすれば意味不明でナンセンスな物なのだと、今この時までは思っていた。しかし今となっては、彼が言わんとしていたことの意味を理解出来てしまったように思う。

 元カノの私服を風俗嬢に着させようとは何事か。コスプレに固執した性癖のあるがままに振る舞うことよりも、そんなことよりももっとさらにずっと、正直頭がどうかしている趣味だと思わざるを得ない。私がどれだけ客の性癖に無頓着であったとしても。

「あー、そっか」

「嫌ならやめる、さすがに」

「いやいいよ、そんな、仕事だし。……でも一つだけ聞きたいんだけど」

 絶対に目が会わないように、彼から視線を逸らして言う。……もしかしてと思うと怖かった。

「元カノさん、死んだりしてないよね……?」

「生きてる」

「ならよかった」

 自然な範囲での、信頼出来る即答だった。

 仮に死んだ人間の服を着たとしても、それで何かが起こるとは思わない。けれどそれを着せに来た人間が目の前にいるというなら話は別だ。そうではなくてよかった。私の胆力の限界を垣間見ることにならなくてよかった。

 バーチャルユーチューバーの衣装の時と同じように、袋の中にはウィッグも一緒に入っていた。そしてそれはやっぱりノーマルな物で、何かのキャラクターに扮する時のような奇抜な色はしていなかった。

 しかしまぁ、いつもコスプレをする時だって半分くらいは私が元ネタを知らないケースで占めているのに、今日に限ってはその釈然としないことが特別深刻だった。

 彼の言う「元カノ」というのは、つまりどんな女性なのだろう……?

 正真正銘その人の服を着て、即興で髪型を真似たとしても、彼の言う元カノがどんな人なのか、私には少しも分からないのだ。おかしな気分になる。私はずっと、知らないキャラクターの代わりでよかったのに、それが実在する人間になったからなんだっていうんだろう。分からない。

 分からないけれど、今までで一番落ち着かない仕事であることは間違いなかった。

「それで……私はどうすればいいの?」

「どうって、どうもしなくていい。いつもと同じで」

「同じね」

 彼は元から私にロールプレイを求めるタイプの客ではない。子どもの頃とは違いそういった遊びが不得意な私にとって、それはいつも非常に助かることだったけれど、今日ほど重くそこにありがたみを感じる日が来ることになるとは想像つかなかった。

 何を着ようとも、誰になることを期待されようとも、最終的にはただ寝転がっていればいいというなら、誰の要望に答えることだって出来る。人形になるのだ。昨日までも今日も同じことだ。同じ、まったく一緒で、何も変わらない。そういう仕事。

「何でも言ってみるものだな……」

 私を見下ろした男の顔に、これといった狂気の色は現れていなかった。彼は、いつも私にコスプレをさせる時と同じ顔をしている。そうであってくれた方がありがたい。私はカウンセラーではないのだから。

 二回戦はまた、彼が人形に徹する私にキスをするところから始まった。そうやってお決まりのパターンが守られることで、その先に続く、私の望むつまらないやり取りを期待することが出来た。

 そして実際にその後行われたことは、自分の着ている服に染み付いているだろう得体の知れないストーリー性にさえ目をつむれば、本当に普段と何も変わらないことばかりだった。いつもと変わらない、ひたすら人形のフリをする仕事である。……ただ強いて変化を挙げるのなら、二回戦ということもあって、彼の求めることはいつもより少し長く続いた。

 それで結局、私という商品の貸出時間は延長されることになる。そうして割高で買われた時間のうち少しの間は、彼の気が済めばまた、発作のような独り言に費やされることになるのだ。ご苦労なことだと思うと同時に、彼のその金銭的余裕は、私が自分自身に望む物でもあった。

「押し倒された女は、みんな似たような顔をするのかもしれない」

 元カノという、この場では彼だけがよく知る女の模倣を形だけ行う私に背を向けたまま、彼がそんなことを言いだすので、私は思わず鼻で笑ってしまった。

「女を押し倒す男もみんな似たような顔をしてるよ」

 それを知っていることは、何の自慢にもならないのだけれども。

 しかし驚いたことに、彼は明らかに、私の言葉に対して友好的に笑って見せた。

「あぁそうか、それはそうか」

 何が面白いのかは分からないけれど、彼にとってその独自の納得は面白い物だったらしい。どちらかといえば、私に元カノの服を着せた時よりも嬉しそうにしているように見える。

 今回は会話が成立する予感がして、私は素朴な疑問を口にしてみた。

「ねぇ、元カノさんからどうやってこの服もらったの?」

「え? どうやって……って。そりゃあ、コレだ」

 煙草を吸わない彼は、人差し指と親指の先同士をくっ付けて輪っかを作り、手首を捻って「マネーのジェスチャー」を見せた。さほど面白いことでもないはずなのに、私も笑った。

「お金持ちと別れるなんて、もったいない」

「そうかな」

「そうだよ。黒須さんモテるでしょ、見た目もいいし、お金持ちって」

「そうでもない。もしそうなら、ここには来てない」

「えー?」

 それは、相手に困らなければこんな魔境に来ることはないという意味だろうか。それとも、恋人がいるなら道徳的に考えて風俗になんか行くはずがないという意味だろうか。

 もしも後者だったら、そんなまともな思考をする男が持ってきた元カノの服を、今この瞬間も私が着せられているという事実がなおさら恐ろしく感じられてしまうように思う。ちぐはぐなことは、不気味だ。

「じゃあ今は彼女とかいないんだ」

「ああ、いない」

「私がなってあげようか?」

 なぜそんなことを言う? とすぐに聞かれた。しかしそれは愚問で、そんな物、ある一つの答え以外に存在するわけがない。

 私は、親指と人差し指の先をくっ付けて輪っかを作り、手首を捻ることで彼に理由を教えた。それを見た彼は笑った。これは人を笑わせる魔法のジェスチャーなのかもしれない。

 けれどもその指の形の意味するところは結局、私の心の目を眩ませる絶対的な力でしかなく、本当は笑っている場合でもない。

 魅力のある人間が彼女を持たずにいる理由なんて明らかなもので、それは本人が彼女を求めていないからだ。魔法のジェスチャーによる笑顔は、数秒となく私の中から消えていった。

 けれど彼は微笑み続けたままだった。

「本当になってくれるというなら、ぜひよろしく」

 一瞬、何の話だろうと感じるくらいには、耳を疑った。

「……えっ? いいの?」

「君を不自由なく養う代わりに、ここを辞めて同棲してもらう……という意味でなら」

「……マジか。それは、それはもう、ぜひとも」

 私の人生で一番重い「マジか」が出た。

 願ったり叶ったりだった。そういう選択肢があるのなら、誰が好き好んで毎日別な男の相手なんかするものか。相手を良心的な客の一人に絞れるなら絞れた方が良いに決まっている。

 そうして私たちは突然に、世間一般への建前で言うところの「交際」を始めることを決定したのだった。決まってから思えば、そういえば私は、「金が目的に決まってるだろ」とジェスチャーで表されても笑って済ませる黒須のことが、まぁ確かに嫌いではなかった。

 店はすっぱり辞めると誓う。黒須という幸運の星に……というよりも、自分に対してより固く誓った。そしてその日の彼の去り際、私はまた一つ素朴な疑問を口にしてみた。彼が良い客である限りどうでもよかったけれど、曲がりなりにもそれ以上の関係になり、一緒に暮らすとなれば気になる件について。

「ところで黒須さんって、どういうお仕事してるの?」

「…………」

 彼は、間違いなく私に向かって、いつかの時と同じように顔をしかめた。違う、君はそうじゃない、とでも言う風に。

 マジか……と人生で二番目に重く思った。しかし引き下がる気にはなれなかった。度胸だけはあるのだ。

 

 

 

 

 

 彼との生活が始まって真っ先に思ったことは、「この嘘つき」だった。が、それはあまり深刻な意味ではない。最も重要な金銭面の方は、彼は私の期待以上の待遇を用意し続けてくれていたのだから。

 では何が嘘つきなのかというと、それは彼がモテないという件に関してである。彼は、交際後も私に「元カノの服」を着せたがったのだけれど、その元カノというのは、合計して五人もいたのだ。聞いたところ、彼は今年で三十歳になるらしい。

 一度着てしまえば、一人分も五人分も大差ないこと。いったいどうして過去の五人と別れたのかを聞くと、それぞれの形見の服を着ている私に、彼は昔の女とのエピソードを聞かせてくれる。それを聞くことで私は、身の安全が確保されている気分を得ていた。

 コスプレ趣味がどうしても受け入れられなかった、ロクな説明もないまま他に好きな人が出来たと言われた、何でも金で解決しようとする姿勢が気に食わないと言われた……などなど、エピソードのバリエーションは豊富だった。そして彼はどうもそれを、そんなに気にしていない様子だった。それが強者の余裕という物なのかもしれないし、それとも純粋に、彼は自分になびかない相手には興味がないのかもしれない。

 同棲を初めてから一ヶ月。彼のまだ見ぬ欠点を、私はまだ一つも見つけていない。だからといって今後永遠に見つからない保証はなく、彼の金で買ったお気に入りの服を着て出かける時なんかに、私はいつも思うのだ。この服も、いつかは「七人目」が着るのだろうかと。

 彼の普段は想像と同じだった。時々独り言を言っている以外にはこれといった特徴がなく、特別魅力を感じることはないけれど不快に思うこともない。体を求められるのもほとんど決まった時間の夜だけで、例外がないことがありがたい。

 だから彼との生活に残る懸念は、ひたすらに謎であることは、彼の仕事が何なのかということだけだった。彼はサラリーマンのように毎朝スーツを着て出かけて行き、夜になると帰ってくる。並の勤め人が私の強欲を養えるとは思えないけれど、では彼が何をしているのかというと、まったく見当もつかないし教えてもくれない。……けれど例えば尾行をすることでそれを知ろうだとか、そういったことをするつもりは毛頭ない。あの時のしかめっ面を思い出すと、それだけはしない方がいいように思うのだ。

 大丈夫、五人の元カノは、ただ別れただけだ。何も事件性はない。一ヶ月もの間何の不自由もない豊かな暮らしをしていても、まだそんな思考が湧いてくることだけは、強いて挙げられる彼との生活の問題点だった。

 けれどそれ以外、本当に何も悪いことはない。相変わらずエッチは舌を入れるキスから始まるし、要望した本人でさえ容姿以外のことは何も知らない二次元キャラクターのコスプレをさせられたりもする。合計五着ある元カノの服はどれも繰り返し着せられたせいで、物を見るだけで持ち主の顔と名前(写真等も見せられた)を思い浮かべられるようにもなってしまったけれど、それは全然どうでもいいことだ。

 毎晩のこと、正常位で見下ろされる視線に居心地の悪さを感じながら喘ぐ演技をしていれば、それで確保される平和な日々。私にとって非常に充実した生活。そんな理想の環境の中で日を追うごとに、彼に抱かれている最中にこそ私は、いつか彼の言っていた言葉を思い出すようになっていったのだった。

 言ってみるものだなぁ、と。

 


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