大正に縁壱さんが生まれ変わる話   作:ラゼ

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後編

 産屋敷の当主とは、代々直感に優れる者が多い。はっきりと言ってしまえば、それは最早『異能』の域にある。数百年にも渡り鬼殺隊が壊滅を免れたのも、その直感の冴えが危機を予見し続けてきたからだ。

 

 もちろん、万事全てが上手くいくような都合の良い能力ではない。隊士の裏切りによって当人が殺されもすれば、鬼殺隊が消滅しかける時代もあった。

 

 それでも彼等が在り続けたのは、執念の賜物ゆえだ。鬼舞辻無惨への憎悪が、理不尽に対する義憤が──そしてその想いを命懸けで紡ぎ続けた隊士の遺志が、まるで一つの生物のように絡み合い、連綿と受け継がれているからだ。

 

 長くとも百年程度しか生きられぬ『人』という生物が、限りなく完璧に近い生物へ対抗するため、群体として立ち向かうための武器。それが『遺志』と『意思』である。

 

 ──ただし、何事にも例外と言うものはある。

 

「…久方ぶりだな、珠世殿」

「…え? え、ええと……どこかでお会いしましたか?」

 

 本人の遺志を本人が受け継ぐという、例外中の例外である縁壱。そして不老ゆえに想いを託すこともなく、自身の内に溜め込み続けた女性──『珠世』。

 

 この日、鬼でありながらも鬼殺隊に協力するため、彼女は産屋敷邸へと足を運んでいた。『近く此処へ鬼舞辻無惨が現れる』という、なんの確証もない情報を餌にされて尚──彼女は『産屋敷』の直感を信じたのだ。

 

 もちろん罠の可能性は否定できなかったが、それでも数百年を生きてようやく得た()()()の機会。それをむざむざと捨てることなど、彼女にはできなかった。

 

 そして『柱』である胡蝶しのぶとの共同研究を開始するため、屋敷の離れを案内され──そこで出会った縁壱に話しかけられ、彼女は困惑の声をあげたのだ。さもありなん、見知らぬ人間に知己であるかのように振る舞われたのだ。鬼であろうが人であろうが、戸惑うのも無理からぬことだろう。

 

「この姿ではわからぬのも無理はない……私は継国縁壱だ。生前は世話になった」

「は、はぁ…」

「神の奇跡か仏の御業かは知らぬ──しかしこうして生まれ変わったことは確かだ。あの時、珠世殿が身を危険に晒してまで手に入れた兄上の居場所の報……活かせぬまま私は息絶えてしまった。本当に申し訳なく思っている」

「…! それは……私とあの方の、最後の……──本当に、継国縁壱様なのですか?」

 

 縁壱は鬼舞辻無惨との邂逅の後に鬼殺隊を去ったが、身一つで無惨を探し当てられる筈もなく、彼自身もそれが不可能に近いと理解していた。

 

 故にまだ繋がりのあった『柱』数名、そして珠世と連絡を取り合い、無惨の足取りを追っていたのだ。その事実は当時の産屋敷家当主も把握していたが、糾弾することもなく目溢(めこぼ)ししていた。そのせいもあって、縁壱は産屋敷家の血筋そのものに感謝と忠誠を捧げているのだ。

 

「少なくとも、私が継国縁壱であった記憶は確かにある」

「そう、ですか……まさかそんなことが…」

「私もそう思う。だが本来ならば有り得ぬ機会を得たのだ──此度(こたび)こそは、必ず本懐を遂げてみせよう」

「…ええ。貴方がいるだけで、どれほど心強いことか…」

 

 騙し討ちの可能性も捨てきれず、産屋敷邸に来てからというもの常に緊張感を纏っていた珠世であったが──縁壱と二言三言交わしただけで、その雰囲気が和らいだ。しかしそれを心中穏やかに見ていられない少年が一人……珠世が鬼にした少年『愈史郎』である。

 

 病によってまもなく死を迎える筈だった彼は、鬼となることでその命を長らえた。その恩もあってか、愈史郎は崇拝に近い愛情を珠世に捧げているのだ。彼女が他人と会話することさえ嫌う、筋金入りの妄信である。となれば、珠世と親し気な雰囲気を見せる縁壱など許容できる筈もないだろう。

 

 とはいえ自分が思いを寄せる女性の、命の恩人だ。無下にする訳にもいかず、表情で不快感を示す程度にとどまっていた。彼にしてみれば、これでも相当な譲歩である。

 

「そちらは…?」

「この子は愈史郎と言って、私が鬼にした──あっ、その、鬼にしたと言っても無理やりではなく…」

「…珠世殿のことだ。やむにやまれぬ事情あってのことだろう」

 

 それくらいはわかる、と珠世への信頼を崩さない縁壱。『人を食わぬ』と誓い、実際に数十年と生き血の気配を漂わせなかった彼女のことを、縁壱はよく知っていた。鬼の食人衝動などそう簡単に抑えられるものではないが、それでも彼女は必死に耐え続けたのだ。

 

 獣の血と肉で衝動を抑え、時には打ち捨てられた人の死骸を漁り、誰も襲うことなく在り続けた。そんな彼女を知っているからこそ、人を鬼にした事実を聞いて尚、縁壱は疑念を持たずにいた。

 

 ──そうした彼の様子を見て、珠世は深々と頭を下げた。

 

「…ありがとうございます」

「この数百年で鬼舞辻無惨も力を増しているだろう……ともすれば、これから珠世殿が作る毒こそが重要な意味を持つかもしれぬ」

「──はい」

「柱たちもみな責務を果たさんと励んでいる……無惨が見境なく撒いた悪意の因果が、複雑に連なり(むく)いとなっているのだろう」

「…ええ」

「私もこの十五年、ただ無為に過ごしていた訳ではない。かつての自分よりも、二回りは強くなったつもりだ」

「はい……はい?」

 

 『かつてよりも二回りは強くなった』──聞き間違いかと思い問い返す珠世であったが、再度同じ言葉を口にした縁壱を見て、何とも言えない微妙な表情を浮かべる。

 

 会釈をして去っていく縁壱の後ろ姿を見詰めながら、自分の毒は本当に必要なのだろうかと自問自答を繰り返す。そんな彼女の様子を見た愈史郎は、『悩む珠世様も美しい』と脳内で花を咲かせるのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──その日、鬼舞辻無惨は遂に産屋敷邸に辿り着いた。数百年ものあいだ(よう)として知れなかった館を前にして、彼は久々に精神の高揚を感じていた。

 

 『竈門禰豆子』が陽を克服し、それに少し遅れて、産屋敷邸を発見する程に血鬼術の精度を高めた配下。降って湧いたような幸運に、しかし無惨は、それを当然の事実とも受け止めていた。

 

 千年近くも追い求め、探索に注力した結果であり、いつか来る筈だった未来がいま来ただけのこと──そう考えたのだ。

 

 とはいえ、彼が目的を達成するにはまだいくつかの障害がある。そして最大の懸念が『目標の消失』だ。産屋敷邸を捕捉した以上、陽を克服した鬼の居場所も遠からず発見できる──それは無惨にとって重々承知であったが、しかし彼は『待ち』を選択しなかった。いよいよとなれば、鬼殺隊は竈門禰豆子の首を刎ねると、そう考えたからだ。

 

 鬼殺隊にとって竈門禰豆子とは『餌』であると同時に『毒』でもある。所在を捉えられない無惨を誘き出せる唯一の手段ではあるが、本当に奪われてしまえば最悪の事態を引き起こす劇薬だ。

 

 故に『餌としての役割』さえ果たさせれば、生かす価値は無い──産屋敷はそう考えるだろうと()()()確信していた。『価値観』とは自分を基準にするもの……鬼殺隊が竈門禰豆子を殺すのは、彼にとってごく普通の予想であった。

 

 鬼殺隊の秘密主義は徹底されており、禰豆子の居場所を知る者も相当に限られている。しかし産屋敷家当主であれば、間違いなく把握しているだろう──だからこそ、無惨は産屋敷邸にわざわざ足を運んだのだ。鬼舞辻無惨にとって、対象から情報を得るために必要な手順は『鬼化』である。

 

 尋問や拷問など、彼にはまったく必要がない。情報を引き出したければ、鬼にした後に思考を覗けば事は済む。用がなくなればそのまま廃棄するだけだ。

 

 つまり確実に禰豆子の居場所を知りたければ、『産屋敷耀哉』を鬼にすれば全てが解決するのだ。加えて、自らが陽を克服した後に鬼殺隊を壊滅させるにしても、全ての情報を知りえる立場の者を鬼にすれば何かと便利に違いない。

 

 ──鬼殺隊への対処はほとんど配下任せにしている無惨が、自ら産屋敷邸へ赴いたのは、結局のところ『人の善性』というものを信じていないからこそなのだ。

 

 『竈門禰豆子を殺さない筈がない』という前提は、つまり時間との勝負を意味し、その結果が敵地への単身襲撃である。そして自分以外を信用しない気質こそが、この重要な局面で配下を伴わせないという愚行を選択させたのだ。

 

「…初めまして、だね……鬼舞辻無惨…」

「──なんとも醜悪な姿だな、産屋敷」

 

 門構えから通路に至るまで、そして産屋敷耀哉の元へ辿り着くまでに、無惨が誰とも出会わなかった事実──それは罠の可能性を如実に示していたが、しかしそれでも彼の余裕は崩れない。いざとなればほんの一瞬で離脱できる(すべ)があれば、それも当然の話だろう。

 

「護衛が子供一人とは、愚か極まりない。それとも全てを諦めたか?」

 

 病に身を伏し、上半身を起こすだけでも精一杯といった有様(ありさま)の産屋敷家当主──そんな彼を見て、無惨は興覚めだとでも言うように目を細めた。

 

 数百年もの間、宿敵とすら言える関係であった産屋敷家……その当主が、自身が手を下す必要もない程に弱っているのだ。長年の障害であったものが、実際は取るに足らぬものであったその事実は、奇妙な落胆とも言えるものを無惨に覚えさせた。

 

「…? なんだ、きさ──」

 

 しかし耀哉の横に(はべ)る、粗削りの面を被った少年が緩やかに立ち上がり無惨に近付いた途端──彼は自身の生存本能の全てが、全力で警鐘を鳴らしている事に気が付いた。

 

 歴史上、恐らくは最も生を渇望した者……そして死を忌避した者。危険に対する嗅覚がずば抜けている者。それが鬼舞辻無惨だ。

 

 最大の願いが、そして最大の目的が叶うこの局面で──ほんの少しばかり緩んでしまったその嗅覚が、いまこの瞬間、彼の全身を恐怖で粟立たせた。

 

 その感覚を一切疑うことなく、無惨は全身全霊をかけて後方へ跳ね飛ぶ。そしてそれこそが、生死を分かつ一瞬の好判断であったのだろう。目にも留まらぬ程の回避速度であったというのに、無惨が再び大地へ立った時には、その頸は半分以上が切断されていた。

 

「──鳴女!!」

 

 久方ぶりに感じた、熱さを伴う痛み。それは自身の目的も何も、全てを置き去りにして逃げ出すに値するものだ。なりふり構わず逃走を選択した無惨であったが、次の瞬間、更なる驚愕が彼を襲う。

 

「っ…! “術”を──……斬るな化物がぁ!」

 

 無惨の足元に現れた衾。剣士の足元に現れた衾。その両方を瞬く間に“斬った”剣士は、その勢いのままに無惨へ肉薄する。

 

 そう──縁壱が行った柱との稽古は、なにもつけられた側だけに影響を与えた訳ではなかった。歴代の柱の中でも精鋭を誇る現在の柱たちは、基本から外れた独自の呼吸を使用する者が多い。彼等が持つ技術のいくつかは、縁壱を更なる境地へと押し上げていたのだ。

 

 特に『恋の呼吸』などという、誰もが首をかしげる呼吸を使う『甘露寺蜜璃』の剣技は、他に類を見ない独自性を備えていた。鬼の攻撃や術“そのもの”を斬るという技術は、縁壱をして嘆じるものであったのだ。そして即座にその技術を模倣され、更には昇華された蜜璃は少し落ち込んだ。

 

「こっ、が──っ!?」

 

 目の前の脅威をどうにかせねばと、五つある脳を焼けつくほどに回転させたその刹那──背中に走った痛みに顔を歪める無惨。しかし背後に剣士は確認できず、いったい何が起きたのかと彼の混乱は加速する。

 

 そして痛みと共に何かを注入された感覚を覚え、二つの脳をそちらの処理に対応させた。解析、分解……本来であればそれは一瞬の処理で完了するものだ。どれだけ効果の強い毒であろうとも、鬼の祖である無惨に対して威力を発揮するものなど然う然うありはしない。

 

 しかし、今回に限っては例外である。注入された毒が自身を人間に戻す薬であること、そして容易に分解できるものではないことを悟った無惨は、更に表情を歪めた。

 

 本腰を入れて毒を分解しなければ危ういと看破したものの──現状は目の前の剣士の対応で手一杯。それどころか、そちらの危険度の方が高いとすら言える。

 

 死の恐怖が、ぞわりと無惨の背を撫でる。そして配下の鬼である『鳴女』にどうにかしろと叫ぶ寸前、剣の届かぬ空中に衾が出現したのを見て取った。

 

 そこから姿を現したのは、『十二鬼月』上弦の壱、弐、参……つまりは鬼の最大戦力だ。衾の先、無限城で待機させていた彼等を鳴女が呼び出したのだろう。突然の呼び出しに慌てることもなく、三体の鬼は無惨を守るように縁壱へ攻撃を仕掛けた。

 

「──っ!」

 

 しかし彼等の攻撃は、見えない何かに遮られ縁壱へ届くことはなかった。とはいえ、三者全てが柱を何人も屠った強者である。すぐに手練れの剣士に囲まれている事実を看破し、構えをとる。

 

 そしてその瞬間『術』の効果が切れたのか、九人の柱が姿を現した。『格』『因縁』『復讐』──それぞれが自然に相手を見定め、距離を詰める。

 

 上弦の壱『黒死牟』には、岩柱『悲鳴嶼行冥』、風柱『不死川実弥』、音柱『宇随天元』が。

 

 上弦の弐『童磨』には水柱『冨岡義勇』、蛇柱『伊黒小芭内』が。

 

 上弦の参『猗窩座』には炎柱『煉獄杏寿郎』、恋柱『甘露寺蜜璃』、霞柱『時透無一郎』が相対する。

 

 そして蟲柱である『胡蝶しのぶ』は、再び透明化の札を額に貼って距離を取った。彼女の攻撃の要である藤の花の毒……それを仕込んでいる筈の剣の柄は、いま現在空となっている。

 

 そう──先ほど無惨へ毒を打ち込んだのは、しのぶの一撃であったのだ。最大量を打ち込むために他の毒は抜き、全てを『人間化薬』に変えていたが故に、換装の一手間を必要としていた。

 

 手早く毒の入れ替えをしながら、しのぶは冷静に戦場を見詰める。

 

 無惨と縁壱の戦闘……それは柱であるしのぶをもってしても、立ち入ることのできない戦場であった。前触れもなく現れる空間転移の血鬼術と、尋常ではない手数と速度を誇る無惨の触腕──その全てを完全に見切り、(さば)き、追い詰めんとする縁壱の剣技は、もはや彼女の理解を超えていた。

 

 そもそも上下左右どこからでも現れる血鬼術と、触腕による無数の攻撃を同時に相手取り、更には逃がさぬよう逃走用の衾だけは確実に斬り払う技は人外の域だ。

 

 そして上弦の壱と三人の柱の戦いも、しのぶでは立ち入り難い。岩柱、音柱、風柱……古参の柱であり、最も鬼を殺している三人。技の冴え、天性のセンス──そういったものでは、彼等を上回る柱もいるだろう。しかし上弦の壱による嵐のような剣旋、熟練の業を備えた攻撃を相手取るには、何よりも『経験』が必要であるとしのぶは判断した。

 

 ──次いで上弦の弐へ視線を移した瞬間、彼女の全身から怒気が溢れ出る。鋭い対の扇を持った鬼……それはしのぶの姉である『胡蝶カナエ』の仇であり、彼女が持つ憎悪の根幹に居座る存在だ。深く息を吸い、吐き出し──しのぶは剣を手に走り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 強さと経験を兼ね備えた三人の柱を相手にして、上弦の壱──『黒死牟』は、今代の柱の優秀さに感心すると同時、自身の剣の冴えが鈍っていることを自覚していた。そしてそれが目の前の敵によるものではなく、()()()()であることも。

 

『兄上。私たちはそれほど大そうなものではない』

 

 かつて自身の片割れが発した言葉に、黒死牟は身を焦がすほどの羨望と嫉妬を覚えた。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 お前のような者は後にも先にも唯一人であると、何故それに気付かないのか──そんな言葉を飲み込んで、かつて黒死牟は暗い感情を滾らせた。

 

 しかし今、少し離れた場所での攻防を見て、弟が発した妄言が真実であると黒死牟は認識してしまったのだ。十五にも届きそうにない少年が、遥かな高みへと上り詰めている光景。

 

 数百年のあいだ修練を重ねてなお届かぬ『弟の全盛期』を、成人すら迎えていない少年が追い越してしまっている事実。それは彼にとって、己が根幹を揺るがしかねない衝撃であった。

 

 揺れに揺れた精神状態で、それでも柱三人を相手取れているのは、ひとえに地力の違いゆえ。どれだけ劣等感に苛まれようと、どれだけ嫉妬に身を焦がそうとも、(はた)から見れば彼も超越者だ。容易く討たれるような存在ではない。

 

「ぐぅ──かっ、ガア゛ァァァ!!」

 

 ──響き渡る無惨の悲鳴。苦悶の声に、しかし黒死牟はさしたる関心も覚えず思考に耽っていた。継国縁壱を超える実力者に狙われたのならば、むしろ当然の帰結とさえ思っていた。形式的にせよ、主君と崇めていた無惨が()()()()()というのに、彼はどこまでも無関心であった。

 

 あるいは、認め難い現実に死を許容したのか。鬼舞辻無惨が死ねば、全ての鬼は消滅する──それは鬼の反抗を許さぬ死の呪いだ。自力で呪いを解除した竈門禰豆子や、無惨の弱体化により呪いが解けた珠世のように、僅かな例外を除けば、それは絶対の法である。

 

 しかし頸と胴が泣き別れになった無惨が地面に斃れても、上弦の鬼たちは消滅する様子がない。それは無惨が『死』よりも前に『人に戻った』ため、呪いが解けたことによるものであったが──とはいえ、柱たちからすれば知る由もない事実である。

 

 しかし首魁を討ったところで、上弦の鬼を逃がせば甚大な被害が出るのは想像に難くない。彼等は決死の覚悟で刀を振るい続けた。

 

 そして無惨を討った縁壱といえば──消えかけていた衾に無理やり踏み込み、術を行使している鬼を討たんと宙に消えた。予想と違い、無惨が消えても鬼が全滅しないというのなら、この血鬼術は後の鬼殺隊にとって脅威となる……そう即座に判断したのだ。

 

 果たして、その数十秒後に血鬼術は強制的に解除され──そして()()()()()()()()()。地面から隆起した建物の残骸が屋敷を押し上げ、あるいは破壊し、戦場そのものを崩壊させたのだ。

 

「──お館様!」

 

 戦いの場は既に産屋敷邸から離れていたものの、崩壊の規模は一つの城が崩落したに等しい。そんな中にあって、身を守る術を持たない産屋敷耀哉とその家族を守るため、数人の柱が駆け出した。

 

 救助よりも、目の前の鬼を優先すべきだと──主君がそう望むだろうことは彼らも理解している。ここで助かったところで、その命がまもなく尽きるということも。それでも柱の幾人かは走った。

 

 甘さを捨てきれないといえばそうだろう。けれど走った者は悔やまず、残った者は咎めない。誰もが効率を優先して行動できるならば、人間の営みとはどれほど簡単になるだろうか。

 

 ──地震と台風が同時に巻き起こったような有様。人間も鬼も分断され、当初とは違った相手と対峙する。そして()()もまた……巡り合う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 輝く満月の下、黒死牟は瓦礫の上に佇んでいた。彼自身は認めたくない事実ではあるが、『継国縁壱』という存在は彼の全てであったのだ。

 

 嫉妬し、憎悪し、羨望し、切望し、あるいは“そのもの”にすらなりたいとも。そんな縁壱を超える少年を眼下において、黒死牟はどうとも形容できない感情が渦巻いていた。

 

 あと千年生きたところで、あれに届くのだろうかと。更に先、それを超える者が出現するのだろうかと。届かないと認めてしまえば、己の生涯に価値はあったのかと。

 

 技を磨く時間が無いと嘆き、技術の保存が出来ぬと憂い、人間の短い生では弟に迫ることすら叶わぬと確信し──彼は鬼となった。

 

 しかし家を捨て、家族を置き去りにし、仲間を裏切ってまで手にしたものは、()()()易々と超えられてしまった。ならば産まれた意味すらあったのかどうかと、彼は自問する。

 

 無言で立ち尽くす黒死牟は、月を背にして少年を見下ろした。その仮面に隠された表情はうかがい知れず、何を考えているかもわからない。無惨に見せた苛烈な攻めや容赦のない斬りこみとは打って変わって、その立ち姿は清澄さすら感じさせた。

 

「…兄上」

 

 幼い声。どこか懐かしいその響きに、六つの瞳を細める黒死牟。そして少年が仮面を外し、隠された素顔が露わになった時──彼は六つの瞳を限界まで見開いた。

 

 特徴的な『痣』は、当然あるものとして予想はできた。しかしその顔は、記憶に焼き付いて離れないその顔だけは、見間違えようもない。妻の顔も、息子の顔も、親の顔すら忘れ去ったというのに、それだけは。

 

「…私は何も()せませんでした」

「…!」

「兄上。あなたは鬼となり、何を為したのですか」

 

 細胞が、感覚が、少年の正体を告げている。荒唐無稽な推測を、確かな真実だと確信させる。黒死牟は何一つ疑いもせず、その感覚を信じた。そうだ、お前以外に()()()()()者が存在するものか、と。

 

 最初から最後まで、終ぞ理解をし合わなかった二人の兄弟は再会を果たす。妬み、羨望し、それをひた隠しにした兄。そんな感情にまったく気付かなかった弟。誰よりも近い関係でありながら、何よりも遠く離れた心の距離はそのままに。

 

「…死してなお世に(いず)る……つくづくお前は……神に寵愛されている…」

「…大切な者をすべて取りこぼした私がですか」

「くだらぬ……何を失くそうとも、その天稟(てんびん)に比べれば如何(いか)ほどの価値もない…」

「私にとっては、そのようなものこそ価値を感じられませぬ」

 

 ガギリ、と黒死牟が歯を軋らせる。持たざることに絶望すら覚えた彼にとって、とても許容できる言葉ではなかった。

 

 憎むことさえ惨めになると──それを表に出せば弟から憐憫の目を向けられると、それだけは認められぬと彼は負の感情をひた隠しにしてきた。しかし今、有り得ぬ再会と、更に離れた実力が彼の沸点を超えさせたのだ。

 

「──お前が……お前がそれを言うのか……縁壱…!」

 

 自身の頬に爪を突き立て、怨嗟の声をあげる黒死牟。彼にとって何よりも価値あるものが、誰あろう『持っている人間』にその価値を否定されたのだ。強さに無頓着な縁壱の気質は、黒死牟にとって自己の否定に等しい。『無自覚』は、時に嘲笑よりも人の心を傷付けるが故に。

 

 ──剥き出しになった黒死牟の憎悪を見て、縁壱はようやく()()()()

 

「…それが兄上の胸懐(きょうかい)だったのですね」

 

 継国縁壱という男は、滅多に感情を表に出さない。他人から見ればそれは、物事に動じず常に飄々とした印象を抱かせる。しかし実際のところは『表に出さない』というだけで、喜怒哀楽の感情は間違いなく存在していた。とはいえそれをしっかりと理解していたのは、今は亡き彼の妻『うた』ぐらいのものだろう。

 

 そして縁壱自身もまた、他人の心の機微に聡い人間ではなかった。隠された悪意に疎く、他人の善意を信じすぎると言ってもいいだろう。

 

 対人関係というものは『鏡』なのだ。猜疑心の強い人間が簡単に人を信用しないように、縁壱自身が清廉に過ぎる人物であったからこそ、他人を実態以上に良く評価してしまう。

 

 それは『歪み』だ。自己評価が低く他人を高く評価すること、自己評価が高く他人を見下すこと。前者が善で後者が悪というのは、『気質』に関して言えばそうだろう。しかし事の本質という点において、大して変わりはしない。どちらも本質を見極めていないことに違いはないのだ。

 

「私は……兄上のことを何一つ理解していなかったのですか」

「…お前に私を理解することなどできぬ……存在そのものが世の理から外れた、お前のような者に…!」

 

 搾り出すように負の感情を吐き出す黒死牟に、縁壱は深い悔恨を覚えた。いったい何を思って兄が鬼殺隊を裏切り、鬼に与したのか、今わの際まで彼にはわからなかった。

 

 しかしそれが縁壱の、兄に対する盲目的な敬意と信頼によるものだったとすれば。嫉妬されていることなどまったく自覚していなかった、一種の無思慮によるものだったならば、いったいどれほど長い期間に渡って兄の自尊心を傷付けてきたのか。縁壱は今更ながらに気が付いたのだ。

 

 ──しかし、それでも。

 

「…参ります、兄上」

「…!」

 

 それでも、継国巌勝という男が犯した罪は許されざるものだ。道を踏み外した理由がすれ違った末の必然だったとすれば、尚更に縁壱は決着を付ける必要がある。

 

 瓦礫の山の頂に踏み込むまで、ほんの一息。瞬く間に距離を詰めた縁壱は、かつて兄だった者の頸を断たんと剣を振るった。悪い足場をものともせず放たれた一閃は、しかし目論見通りにはいかず、首の中ほどまでを切断するにとどまった。

 

 ──交差する瞳。

 

 返す刀で完全に頸を落とす心積もりであった縁壱であったが、傷をものともしない黒死牟の、殺意を剥き出しにした一撃を受けてたたらを踏んだ。

 

 それが肉親の情による躊躇だったのかは彼にもわからない。しかし、かつて命尽きる前に放った一閃も兄を殺すには至らなかった──その事実が脳裏を過り、縁壱は柄を更に強く握る。

 

 赫刀が心なしか輝きを増し、月の輝きを受けて煌めいた。一瞬の間も置かず、再び構えをとる兄弟。視線は互いに交錯したままで、一方が憎悪を、一方が憐憫を浮かべたままだ。

 

「私を──憐れむな…!」

 

 二度目の衝突。ほんの僅かな鍔迫り合いの後、黒死牟の刀は折れ、片腕がずり落ちた。

 

 縁壱は、いったいいつからこれ程の憎しみを向けられていたのかと過去の記憶を掘り返す。あるいは最初からだとすれば、どこまで自分の目は曇っていたのだろうかと。

 

「…申し訳ありません、兄上」

 

 何も気付くことができなかったことを己の不徳と断じ、最後の一閃と共に謝罪を告げる縁壱。

 

 しかしそれを耳にした黒死牟の瞳が、これまでとは比べものにならないほど怒りに揺れ、百年近くを生きた縁壱をして感じたことのない厭悪(えんお)を発したのを見て取り、彼は手元をほんの少しだけ狂わせた。

 

「…お前は……どこまでも…!」

「…っ!」

 

 感情の爆発は、鬼にも人にも等しく力をもたらす。肩口から大きく袈裟懸けにされた黒死牟は、しかしそれがどうしたと言わんばかりに()()を振るった。

 

 赫刀によって再生を阻害された筈の傷口は、その効果を無視するように塞がっている。元よりいくらでも作製できる長刀は、瞬時に形作られ、創造とほぼ同時に振るわれた。

 

 ──異常な長さを誇る刀と僅かな動揺からか、縁壱はその一撃を額に掠らせる。

 

「…お前のような者が……生まれてきたこと自体……何かの間違いだ…!」

「──っ!!」

 

 兄の存在によって家を追われても。兄の裏切りによって鬼殺隊を追われても。どれだけの被害を被ろうとも、縁壱は兄を憎むことができなかった。痛ましく思うことはあっても、自分が殺さねばならぬと責任を感じても、終ぞ(いと)うことはなかった。

 

 しかしそんな兄に憎悪の感情を向けられ、それどころか生まれすら否定されてしまった彼の心は、激しく揺れた。

 

 ──縁壱は感情をほとんど表に出さない。仮に出すとすれば、それは一つの『隙』となる。かつて怒りの感情を無惨に吐露した際は、仇敵を仕留め損なうという事態を引き起こしたほどだ。

 

 そして今……兄から発された呪いの言葉は、三度目の衝突において致命的な遅れを引き起こした。それは達人同士の戦いにおいてすら意味をなすかどうかの、刹那のブレだ。しかし彼等はどちらも達人の域などとうに超えた、人外の業を持つ剣士。つまりは勝敗を左右する揺らぎとなった。

 

 月の呼吸と日の呼吸が重なり合う──凝縮された時間の中、黒死牟は思考だけが加速し引き延ばされる感覚に陥った。そしてこのまま刀を振り切れば、先に首を落とすのは弟であると確信を得る。数百年の果て、何よりも望んだ勝利を目の前にして、彼が感じたのは愉悦か恍惚か。

 

 しかしその瞬間、縁壱の額から流れ落ちた血が左目を通じ、まるで涙のように頬を伝う。その悲哀に満ちた表情を彩る赤い液体は、確かに血の涙であった。

 

 ──黒死牟の刀が、動きを止めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 塵となって消えゆく兄をまともに見ることも出来ず、縁壱は膝から崩れ落ちた。己の刃よりも先に届いた筈の一撃は、しかし彼の命を奪うことはなかった。

 

 命を奪う直前で刀を止めたその真意が、優しさや肉親の情だなどとは、どうして思えようか。そんなものが意味をなすのならば、自分たちは殺しあってなどいない──縁壱は苦し気に胸を押さえ、(うずくま)りながらそう独り()ちた。

 

 神に愛されたが故にこのような運命を課されたのか。そんなものが神の愛だと言うならば、才など要らぬと縁壱は吐き捨てる。

 

 自身が強く生まれたのは、弱者を助けるためだと信じていた。鬼舞辻無惨を倒すために生を受けたのだと、そう思いさえした。何かを恨むことなど、呪うことなど彼は考えもしなかった──いまこの時までは。

 

 不吉な双子として生まれ、忌み子として殺されかけたのは……殺そうとした父の判断は正しかったのだと、縁壱は初めて己の運命を呪った。思えば兄の笑顔を見たことなどあっただろうかと、記憶を遡る。

 

 どこまでもどこまでも遡って、それは幼少の頃、軟禁に近い境遇にあったところまで遡る。思い返してまた一つ、縁壱は理解した。兄の優しさは()()()()()()()()()()()()()であったと。

 

 それ以降にあったと()()()()()()()兄の愛は、多分に己の幻想で。内に渦巻いた憎悪に気付くこともなく、ただ誇りを傷付け続けていたのだと。

 

 縁壱は胸に手を当て、かつて七十年近くを共にした笛を探した。今わの際まで持ち続けた、粗く削られた笛。冷遇された弟を憐れに思って、兄が手ずから削り出した粗末な笛。

 

 それを兄だと、兄の心だと思い縁壱は持ち続けた。鬼殺隊を裏切り、鬼となったことを理解しても尚。

 

 その笛は前世の終わりと同時に失ったというのに、縁壱の腕はそれを探し求めて懐を探り続ける。

 

 一頻(ひとしき)りそんな行動を続けた後、彼の腕はだらりと力なくぶら下がった。

 

 ──兄への感傷はただの一方通行で。自身に向けられた感情は憎しみでしかなかったのだと、そう気付かされた縁壱。妻を亡くした時に感じた喪失感、あるいはそれ以上の絶望が彼を襲う。

 

 頬に伝った血液が、消えない心の傷を象徴するように固まっていく。それは自刃を意識させる程に深く、そして大きい傷だ。

 

「…」

 

 ふらりと立ち上がった縁壱は、何かに縋るように兄()()()残骸へと視線を向ける。そこには主を失った衣服と──かつて失った筈の、粗末な“笛”が遺されていた。

 

 血の涙の痕をなぞるように、透明な液体が彼の頬を伝う。

 

 ──少年の慟哭が、月夜に響いた。

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