思い出の靴   作:凧の糸

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 念のために言っておきますが、拙作は特定の企業や商品を貶めるものでは無く、ただの一人の嘆きなのです。






思い出の靴

 

 

「は? コーナーで差をつけれるわけないだろ」

 

 俺は絶望した。

 

 

 

 

 そもそも、この発端となったのはつい五分前に懐かしい靴のCMを見たからだった。こんな思いをするなら好奇心を出して、聞かなければ良かった。こんな思いをするなら、思い出さなければ良かった。

 

 

 しかし、時は不可逆であり、脳から忌まわしい言葉を消すことも、輝かしく、埃を被った記憶を永久に深淵へ放り込む事も、もう叶わないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なつかし〜昔履いてたな」

 児童用の靴のCMを久々にテレビで見た。内容をざっくりと言えば、さまざまな機能があり、足が早くなると謳ったもの。過去の俺は、その謳い文句、特に、『コーナーで差をつけろ!!』や『バネの力』に狂おしいほど惹かれていた。

 

 オレンジと黒の、今では履かなくなったマジックテープ式の靴。小学二年生の頃に初めて自分の欲望から買って貰ったピカピカの靴は、恐らくとっくの昔に焼却炉行きだろう。足が大きくなるのが特に早い小学生では一年も経たずに靴のサイズを容易く上回る。

 

 実際、ピカピカだった靴も土煙と汗の臭いが少し染み付いてから新しい大きな靴に変わった気がする。

 

 

 

 

 

 

 ふと、ある疑問が脳裏にぼんやりと鎌首をもたげた。

 

 

「コーナーで、差はつけられるのか?」

 バネの力ではある程度効果はあるかも知れないが、到底走力を大幅に上昇させるのは無理だろうという事ぐらいは小学校卒業前くらいで心得ていた。偶に靴裏の二つのバネが付いているところを指でグイグイと引っ張ったりした。シャープペンシルの芯が数本入りそうな狭い穴を作れたが、それだけ。俺は、バネが所詮幻想に過ぎず、理科実験で知ったフックの法則が嘘をついていないことを悟った。

 

 

 

 あの日、洗い立ての洗剤とお日様の匂いをほんのりと漂わせた小学五年生の日曜日。バネは、俺に別れを告げたのだ。

 

「ボクでは、君の足を速くは出来ない」と。

 

 

 別れを惜しみ、月曜日からアスファルトの地面を再び走った。

 

 

 もう、あの翼が生えたような感覚は無く、太陽はどこまでも遠かった。

 

 他の有象無象と同じように地面を蹴り続けている様がそこにはあった。俺は、イカロスになる事すら出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おい、弟!」

 

「あ?何」

 俺の弟。二つ下で、陸上部に所属していた。足の速さは折り紙付きで、大会で賞を取るほどに優れていることを棚のメダルと賞状、プロテインの山が証明していた。

 

 

「えっと、あれだ。あれ」

 

「だから、あれって何?」

 つい、こう言った会話では自分以外の事を失念してしまう。靴の事を相手も分かっているかのように話を進めてしまったが、これまでの内容は自分の脳内での事。とんだ間抜けを晒してしまった。

 

 

 

 

「あれだよ、瞬足。靴だよ」

 

「あー、あれね。昔履いてたな……で、それがどうかしたんか?」

 

 

 

 

 

 

「……『コーナーで差をつけろ』ってあっただろ?」

 

「うん、あったね」

 首を縦に振った。どうやら、第一関門は突破したらしい。ここからが正念場だ。丹田に力を込め、息を吸う。

 

 

 

「実際のレースとかで、コーナーで差はつけられるのか?」

 意を決して、この言葉を放つ。

 

 

「……」

 弟は頭を少しだけ捻る。何かの考えごとをしているようだ。俺には、その十秒ほどの、たったそれだけの時間が万年にも、億年さえ感じられた。永劫の時と等しい、最後の十秒の後、十一秒目にて彼はようやくその口を開いた。

 

 

 

 

 

 

 

「は? コーナーで差をつけれるわけないだろ」

 

 あの時間はどうやら兄が突然にした、突拍子もない話に困惑して意味不明の言葉を飲み込むのにかかった時間らしかった。

 

 

 

「そりゃ、そうでしょ。当たり前だし。直線でしょ、普通」

 俺の最後の塔は、どうやら砂の塔であったらしい。軽いそよ風のような微風で、完膚なきまでに崩れ落ちてしまった。思考はどんどんと冷え込んでいく。

 

 よくよく考えてみろ、テレビで見れられる世界陸上なんかの、例えば400メートル。各国の代表、謂わばエリート中のエリートが命を懸けて走る舞台において、彼らはカーブで他人を越す事はほとんど無く、最後の直線のレーンにおいて、素人目ではあるが、全力を出しているように見えた。

 

 テレビで紹介されるアップの映像でも、最後の100メートルほどがよく使われる。花形であるし、手に汗を握る展開が生まれるからだろう。人間が全力で走る事のできる酸素の限界は300メートル程であると聞いたことがある。最後の100メートルは、文字通りの残りの力を全て、枯れるまで出し切る花舞台であるのだ。

 

 

 コーナー程度(脇役)が、直線レーン(主役)に口を挟むことすら万一にもあり得ない、小さな子供の世界は矮小で、塵芥と同然のそれに過ぎなかったのだ。

 

 

 

 加えて、弟はこうも言った。

 

 

「しかも、重いじゃん」

 俺は鼻で笑った。重いわけがないと。実際に俺は身体がまだ未発達の小学生時代に履いていたのだ。重さの感覚など忘れるまでもない。友達と校庭でサッカーに興じたり、体育でドッジボールをしたり。重さなんて鳥の羽ほども無く、靴と俺は正に運命共同体。人靴一体であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「来ることなんて、ないからなあ」

 大型スポーツショップに俺は態々足を運んだ。車で二十分ほどのエリアにある、テレビCMにおいて、見かけない日はない企業である。

 

 運動靴、それも陸上用の靴なんて、店員に聞くまでも無く、驚くほど簡単に見つけられた。

 

 

 

 

「へえ、あれが鬼柳(きりゅう)選手が履いている最新モデル……」

 日本人で初めて9秒台をマークした彼は日本陸上会の看板である。そんな彼が履いている最新のモデルは、かなりお高い値段であるが量産品として販売されていた。

 

 

「うわ!軽っ!?」

 持っているのか怪しくなるほどの軽さであった。過去の記憶を羽で例えたが、これは、無重力(ゼロ・グラビティ)。ゼロとイチの差は、果てしないほどの超えることなど到底叶わない、隔絶した壁。

 

 

 

「はは……コーナーで差をつけろ、か……」

 俺は、直ぐに実家に帰宅した。「あら、珍しい」という母の言葉など到底耳に入らなかった。

 

 

 

「ちょ、ちょっと何してんの!?」

 家中をひっくり返して、小学生時代の靴を探し回った。段ボールはそこら中に散らかり、空いていない襖はどこも無かった。靴箱も入念に調べ上げられ、見逃されることは決して有り得ない事。

 

 

 

 

 あった。オレンジと黒の靴。

 

 

 

「ああ、それ探してたのね」

 呆れた口調で母はそう言った。

 

 

 

 

 俺は脇に靴を抱えて、家を飛び出した。

 

 

 

「騒がしいわねぇ」

 つい、異様な雰囲気に呑まれたが、家が凄まじい散らかり具合をしていた。

 

 

「あんのバカたれ!」

 手をひたすら動かすしかなかった。携帯に電話しても圏外でつながらなかったからだ。後で叱ってやろう。妙に子供じみた彼に説教をしてやろうと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 林では、パチパチと火の粉が飛んでいた。亡くなった母方の祖父から受け継いだ林。昔、この靴で駆け回ったから、ちょうど良かった。

 

 

 

「……」

 ひんやりした靴を燃え盛る炎へ無言で放り込んだ。パチ、パチパチ!!と激しい割れる音が辺りに響き、靴にはオレンジから赤に変わっていた。

 

 

 

 

 徐々に黒い煙が立ち上ってきた。醜悪な臭いは、夢を失った自分に対するきっとーー罰である。

 

 

は轟々と、しかしてゆっくりと灰になる。

 

 

 

 

 俺は持っていたバケツから冷水をいっぱいにかけた。火は、勢いのわりにあっさりと鎮火した。

 

 

 

 

 ぐちゃり

 

 

 

 

 

 真っ黒で、大量の水を含んだ残骸は、ひたすらに汚い、汚い物でしか無かった。

 

 

 

 俺はそれを飛び散ることも厭わずに踏みつけた。やはり、飛び散る。裾に斑点を作り、靴のフロント部分にべったりとこびり付いた。

 

 

 

 

 

 

「……冷たいな」

 薄く、防水機能の著しく欠けた靴には、耐えうる事は到底不可能であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 ふと、思いだした。憧れていた自分を。恐らく、おれはもうあの時に帰ることは出来ないのだろう。それでも、あの憧れは確かで、誰にも負けない物であると信じて。


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