アンデルセンは笑っている   作:小千小掘

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四章・醜さに嬲られし家鴨の子の忘却を
ある家鴨のマクガフィン


 平坦な水辺に、その白鳥は佇んでいました。

 

 どこか感慨深げなのは、そこが白鳥にとって随分思い入れのある場所だからです。しかし、決して良いものではないと信じていました。めぐりめぐって今の環境にたどりついた、その出発点というだけに過ぎません。

 

 彼はここで生まれました。何匹も孵りグワッ、グワッと喚く中、ひとあし遅れて顔を覗かせた彼は、たいへん図体が大きく、決して器量好しとは言えませんでした。

 そんな彼を、まわりはとことん馬鹿にするのでした。とても変えることのできないしかたのないことで、彼はひどく傷つきました。

 

 自身の境遇を許せなかった彼は、とうとう生垣を越えて逃げ出しました。しかしどこを訪ねても、彼をおそう不幸はとぎれませんでした。それはさらにつらいことに、彼のかんちがいでもあったのです。

 

 彼は傷つきすぎたあまり、ただ気付かずに通り過ぎた犬にさえ、『醜い』自分をきらったのだと嘆いてしまうほどでした。

 

 おおくのいきものたちに貶され、運にまでみはなされてきた彼がそのきっかけを得たのは、ある日の夕方のことでした。

 水草の中から不思議な声をあげて飛び立つその群は、とても眩ゆく白い羽を輝かせ、空高くのぼっていきました。

 

 あのときの奇妙な心持は、いつまでも忘れないことでしょう。名前も知らないのに、我を忘れるほどにみりょうされたのです。やがてそれは、はっきりとした「憧れ」へと変わっていきました。

 

 その夜はひどく寒く、ふたたび死と生をさまようこととなりました。

 震える彼を救ったのは、一人の百姓でした。彼はようやく、「優しい」人に出会えたのです。

 

 しかし、数多の苦難をこえてきた彼には、やすやすと信じるおおらかさはのこっていませんでした。一緒にあそぼうとしてくれた子供にも、いたずらをされるのではないかとおびえ、ミルクの入った鍋に身を隠してしまったのです。

 

 おかみさんが思わず手をたたくと、それにもびっくりして、彼はバターの桶やら粉桶やらに脚を突っ込んでははいだし、たいへんな騒ぎとなってしまいました。

 

 混乱の中、彼は無事に百姓の家から逃げ出し、降り積もった雪の上に横たわりました。

 

 そうしてながい冬が過ぎ去り、お日様の温かさと雲雀の歌でようやくあたりが春にすり替わっていることに気付きました。その日ついに、彼は運命の出会いにめぐまれたのです。

 

 近くの水草の茂みから二羽のうつくしい白鳥が、羽をそよがせながらなめらかな水の上を軽くおよいであらわれたのでした。

 今までの日々を思い出した彼は、とたんに悲しい気持ちになってしまいました。

 あの立派な鳥のとこに近づけば、こんなみっともない僕が傍に来るなんて失敬だって殺してくるにちがいない。だけどそのほうがいいんだ。

 みんなに嘴で突かれたり、牝鶏に羽でぶたれたり、鳥番の女の子に追いかけられるなんかより、ずっといい。

 

 彼はいっそすがすがしいような思いで、白鳥のもとへ、翼をひろげていそいで近づいていきました。

 さあ、殺しておくれ。

 そう言って頭を水の上に垂れ、最期のときを待ち構えました。

 

 するとどうでしょう。なんとその澄んだ水の中には、あのくすぶった灰色の、見るのもいやになるような前の姿はなかったのです。

 いかにも上品でうつくしい白鳥なのです。

 

 彼に寄る白鳥たちも、あたらしい仲間をつぎつぎに歓迎します。

 ――あたらしいやつがきたぜ。

 ――ちがった白鳥がいますな。

 ――あたらしいのが一等きれいじゃないかい。若いってのはほんとにいいね。

 

 あらたな白鳥は、一体どうしたらいいのかわからず、何となくきまりが悪くなってしまいました。ただ、幸福な気持でいっぱいで、けれども、高慢な心は塵ほどありませんでした。

 

 やっと今の自分を認めたとき、彼はよろこびを叫ぶことができたのです。

 

 みっともない家鴨だったとき、じっさいこんな仕合せなんか夢にも思わなかったと――。

 

 

 

 その記憶を、彼はたしかに思い出していました。もっとも、思い出す価値を、彼はあまり信じていませんでした。

 

 すると、見覚えのない年寄の家鴨が話しかけてきました。すぐに白鳥は、理由もなくかわいそうな子だと思いました。

 

 ――あんた、まさかいつぞやの大きな卵の子かい?

 

 あなたはだれ? まったく知らないな。それに僕は白鳥だよ、家鴨じゃない。

 

 彼は少しむっとしました。いやなことに触れるなと。

 

 ――嘘をつきなさんな。こんななにもないところに顔を出すのはね、あんたの母親かその子供くらいなもんさね。

 

 母親?

 

 ――ああそうさ。律儀にあんたのお世話してやってた、いやになるほど真面目な母親さ。

 

 はっとしました。そこで白鳥は、その事を思い出しました。

 

 ああどうして、どうして忘れてしまっていたのでしょう。いたではありませんか。たった一つだけいたのです。醜かった自分に、どうにかあきらめずに寄ってくれていた存在が。

 

 自分がまだ殻の中にいたときのこと、目の前のおばあさんはあろうことか彼を七面鳥だと言いました。

 

 放ったらかしにするべきだと言われた母親は、そのとおりにすることもできたでしょう。しかし、決して見限ることはせず、もう少し我慢するくらい何でもないと返してくれたのです。

 

 泳ぎの練習をするときも、母親は彼のことをたいへん気にかけてくれました。間違いなく私の子だ。そう嬉しそうに呟いていたのは、忘れられない記憶のはずでした。

 

 そして、いい暮らしをするスペイン種に挨拶へ行ったときも、自分が他の家鴨に馬鹿にされている中、母親はゆうかんに庇ってくれました。あのときはとくに、自分は愛されているのだと、ほんの少し救われた気持になれました。

 

 結局悪く言われるのは続き、終いには母親も守りきれなくなってしまいましたが、こちらを心配そうに見つめてくれていたのはずっと印象に残っていたはずでした。

 

 そう、全部覚えていたはずでした。しかし彼は、大事なことをすっかり忘れてしまっていたのです。

 

 自分をかわいそうだと疑わない心と、今はもう家鴨ではないのだという自惚れで、彼はかつてを不幸でしかないと決めつけていました。それがいつしか高慢へと変わっていたことに、彼はようやく気づくことができました。

 

 ……僕の母さんは、どこに?

 

 ――もうまともに動けやしないよ。もともと酷い父親に当てられて弱ってたんだ。あっちの巣でゆっくりと死んでいくのを待つだけさ。

 

 ああたしかに、このおばあさんはこちらの父親を不親切で不誠実だと言っていた。だから余計に、母親とのことがたくさんあったのだな。

 

 母親は生きているようです。それならまだ、間に合うかもしれません。

 

 まずは何からしよう。自分はこんなにも立派になったよと褒めてもらおうか、勝手に逃げ出してごめんなさいと謝ろうか。

 

 それとも、やはり素直にお礼を述べようか。

 

 一体このあと、彼がかけがえのないものとどう向き合ったのか、それは誰も知りようがありません。

 

 しかし、彼は自分が醜かったことと、その醜さが今をみちびいたことを認めることができました。

 

 そしてきっと、彼は白鳥である前に一匹の家鴨の子として、母親と話したに違いないのです。

 




開幕の語りは当然全て原作になぞらえられています。結末のその後やら、結末までの付け加えはあれど、合間の流れは原作にあったものです。今回はそれが特に顕著で、家鴨の回想や父親、おばあさん、母親のことは全て原作通りの情報です。

終わりに、作中で母親が家鴨の子へ最後にかけた言葉を書いておきましょうか。

「器量なんか大した事じゃないさ。今に強くなって、自分の身もしっかり守るようになる」

番外編第一弾(題はナイショ)

  • 六月下旬(1章~暴力事件)
  • 七月下旬(期末テ⦅暴力事件⦆~三巻)
  • 八月中旬(四.五巻前後)
  • 夏休み以降の時系列がいい
  • やらない
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