アンデルセンは笑っている   作:小千小掘

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勢い任せに書いたら詰め込み過ぎになっちゃった……。今回は長めかつ多少の伏線が含まれています。


アルカディア

「今読んでいるのは何ですか?」

「これかい? 啓発書だよ」

 

 覗き込もうとする彼女に見えやすいように、手元の本の表紙を掲げる。

 

「『学問のすゝめ』ですか。珍しいですね」

 

 言うほど珍しいか? とボクは思う。

 『学問のすゝめ』は、戊辰戦争の最中で刀を捨てた福沢諭吉が、文明開化の時代に書いた自己啓発本だ。確か、岩倉使節団があちこち飛び回っている時期だったな。

 彼はスタディホリックを地で行くような男だ。『諭吉』という名は、儒学者であった父が所望していた法令記録を手に入れた夜に、息子が生まれたことに因んで付けられた。彼の学問に対する敬意と執着心は、血筋の産物だったのかもしれない。

 無論彼自身も、勉学に対する情熱は凄まじい。武士を辞めるや否や、かの有名な慶應義塾での教育活動に専念したことは有名だろう。晩年も、半日にも及ぶ学習を心掛けていたようで、ゆとり世代であるボクらにとって至極模範とするべき偉人である。

 ただ、意外にも彼が主戦論者だと知った時は、自分の耳を疑ったものだ。

 

「別にミステリーばかりを読んでいるわけじゃないのよ」

「それはわかっていますけど、啓発本というのが少し――浅川君が教育めいたものに興味を示すのが意外に感じただけです」

「ほう、一理あるね。過去からの啓示は取るに足らない。時代が移ろう中で、価値観も常識も変化していくわけだから――」

 

 何も彼や彼の記述から何かを受け取ろうと思って読んでいるわけじゃない。それが目的なら、もっと『今風』に触れて俗世を理解している人間の本を読むし、何なら手軽なビジネス本を読んでいても大差ないのではないか、とまで思う。

 

「なら、一体何のために?」

「逆にキミは、どうしてミステリーを読むんだい? それと同じさ」

 

 ふむふむと頷く彼女に若干の申し訳なさを感じる。ぶっちゃけ適当に答えたからだ。ただ何となく、彼女のそれと似た理由な気がした。

 感動する。教訓が得られる。誰かと共有ができる。世界が広がる。エトセトラエトセトラ……独特なものでもない限り、大抵こんなもんだろう。

 ただ、その中でも一番にボクが関心を寄せるのは――、

 

「どれほど俯瞰した書かれ方をしていたとしても、必ずそこには『主観』が混ざる。或いは、読者の主観を利用した書物も存在する。ミステリーで言ったら、叙述トリックなんかがそうだろう」

「確かに、今となってはあまり珍しいものではなくなりましたが、私たちを騙るという点では間違いありませんね」

 

 あれも事件を解決する探偵というイメージを読者に植え付けることで、語り手が犯人であるという真実をひた隠しにする。ボクらの先入観を利用した巧い手法だ。

 

「客観的な視点に立つ、というのは案外難しい。何故なら舞台に上がる登場人物たちは、本来合理性を持ち合わせていないはずだからだ。無意識に思考のプロセスに先入観や偏見、感情などを挟み込み行動する。対象が散乱や矛盾をはらんでいるというのに、その分析に客観的もクソもない」

「そうかもしれませんけど、普遍的に認知されている事柄もありますよ? 俗的には常識という言い方になりますが」

「なら、常識って一体何なんだろうね? 真実と虚構は常に混在している。だからこそ人は、情報に踊らされる生き物でいるわけだ」

「浅川君は、そういう人の価値観を紐解くことに興味があるんですね。繊細なあなたらしいです」

 

 ボクは柔らかい表情を変えずに頷き、手にしている本を軽く小突く。

 

「この本に記されているのは、福沢諭吉の世界観の一部だ。学問こそが人の平等を不平等へと塗り替える後天的な要素だと謳われている。しかし彼という人間やこの本について何の知識も持ち合わせていない人間が『天は人の上に人を造らず』という言葉だけを知ると、その多くは平等を語る詩だと誤認する。事実を一つ取りこぼすだけで、途端に真実が見えなくなるんだ」

 

 その延長線上で生まれる罪を、痛みを、ボクはよく知っている。

 

「常識を真実だと疑わず、正否の不明瞭な物にさえ答えを決めつける。哲学者が概念に法則や定義を求めようとするのも、恐らく『未知』に対する『恐怖心』からくるものだ」

 

 人は知らないということに漫然とした不安を抱いてばかりだが、その実知ろうと努力する姿勢をなかなか見せない。うろ覚えな知識や既に更新されたはずの古い解釈を当てはめて知った気になる。それで満足してしまう。

 

「聖ヨゼフの螺旋階段は建築可能か? 57を素数と公言した数学者は存在しないのか? お札に載る人物の姿は永劫歳を取らないのか? お雛様は誰を指す言葉なのか? 光合成をする動物は存在しないのか? 死後名声を得た偉人たちは幸せなのか? ボクらは知らないことが多すぎる上に、間違った常識を活用し過ぎる。それが何よりいけない」

 

 知らないこと自体が罪なのではない。知らないことについてそれを善しとしたまま行動に移してしまうことが愚かなのだ。善意や悪意だけで収まる世の中なら、ボクらはずっとあっさり分かり合える。

 

「実用的な雑学はそう多くありませんよ。かのシャーロック・ホームズも、不要な知識として地動説を忘れる程ですし」

「勿論だ。だが心構えくらいなら確かめられる。一つは、知るべき事柄を間違えないこと」

 

 建築、数学、歴代女王、伝統芸能、生物学、その他各方面の専門には、それぞれで求められる知識がある。これは狭い範囲で言えば個々人の間でも同じなのだ。協調、敵対、友情、恋愛、憎悪……人の気持ちを考えようという言葉が度々肝に銘じられるのも、人間関係にもつれを生み出さないためだ。

 

「――そして二つ目は、領分をはき違えないこと」

 

 自分の持つ情報量には有り余る行為を試みたところで、上手くいくはずもない。根性だけで事は為せるのだとしたら、男子なんか総出で叫ぶことだろう。冷静に分析したつもりでも失敗する可能性まである辺り、余計質が悪い。

 

「難儀なものですね。だとすると、私たちはどうするべきなのでしょう? さすがに全てを正しく理解できるほど、人は万能ではありませんよ」

 

 その通り。だからこそ、途方もない作業に生を注いだ哲学者の中で、別の答えを見出した()は至極尊敬できる人物なのだ。

 

「そんなの決まっている。『動かない』ことだ」

 

 いつしか吐いたのと真逆の言葉を、ボクは呟いた。

 

 

 

人は語りえないことについて、沈黙しなければならない。

Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen.

 

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン

 『論理哲学論考』

 

 

 

「浅川君」

「ん?」

「動きましょう」

「ええ…………」

 

 それっぽく決まってたじゃない。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 いつの間にやら曇り空、されど雨音は耳に届かず。

 どうやら、ようやく天はボクの心に追いついてくれたらしい。

 

「雨、降りそうですね。天気予報では晴れだったのに……」

 

 ジメジメとした室内では本のページはめくりにくく、紙の手触りもあまり好きではない。読み進める速さがグッと落ちる。

 

「傘、持ってくれば良かったです」

 

 だが、どこか重量感を持つこの空気は嫌いじゃない。自分は一つの座標に身を置いているのだということを、確かに感じられるような気がするから。

 

「浅川君は大丈夫なんですか?」

「葉っぱでも集めて傘にしよっか」

 

 しかしながら、ボクの隣で本をお供にくつろぐ彼女にとって、そんなものは関係ないようだ。

 

「雨水で萎れて身を守ってくれなくなると思いますよ?」

「大丈夫。めっちゃ強い葉っぱ見つけるから」

 

 ボクの革新的なジョークに椎名が真面目に返すという図は、これまで度々再現されてきた。しかしこれほどシュールなやり取りは恐らく初めてだろう。

 放課後の図書館。怪しい雲行きに慌てて直帰した生徒が多かったようで、いつも以上に人影が少ない。それが一層、この場の静寂を際立たせていた。

 

「…………なあ、椎名」

「はい。……まさか、浅川君は傘を持ってきていたんですか?」

「おう、実は長傘も携帯傘もバッチリ持ってき――じゃなくて」

 

 ボケなのか天然なのかわからない発言に肩透かしを食らうが、何とか気を保つ。

 折角だし、兼ねてから提案しようと考えていた話題を切り出そうと思ったのだが……絶好調なのはあの盟友だけではなかったようだ。

 

「ですが、さっきは葉っぱの傘を作ると……」

「自分は傘を忘れたなんて一度も言った覚えがないんだが?」

「私を謀ったんですね。同志として応援していたのに……」

「本気なわけあるかっ! ボクを何だと思っているんだ……。まあ何とかなるだろう。幸いまだ雨粒は雲の中だ」

 

 葉っぱの傘なんて、となりの怪物じゃあるまいし。身軽な恰好で駆け抜けた方が濡れる量は減りそうだ。

 窓の向こうを覗くと、冥い灰色に塗りつぶされた空がまるで街を飲み込もうとするモンスターのように見える。あれ? 何だか本当に例の怪物に見え始めてきた。

 

「では、やっと動く気になりましたか?」

「無理だなあ、尻に根が張った。ここでぐったりまったりぐっすり過ごしている方が、精神的健康に効果が見込めそうだ」

「最後は寝ているじゃないですか……でも、心が落ち着くという意味では、至極共感できます」

 

 彼女は苦笑いをしつつもボクの意見に賛同した。動揺と言うか呆れと言うか、そんな顔をする彼女は少し珍しい気もする。

 物思いに耽るのもいいが、とりあえず本題に入ろうか。

 

「その、マズイんじゃないの? ボクと一緒にいるのは」

 

 顔色を窺いながら尋ねたが、当の本人はきょとんとした表情で首を傾げる。

 

「どうしてですか?」

「どうしてって……キミも知ったんだろう? これからはAクラスの座をかけた闘いが始まるんだ。ボクらがこうして会っていることが知られたら、クラスメイトのみんなにあらぬ疑いを掛けられるかもしれないぞ?」

 

 普段言葉足らずな茶柱さんがあんなにも饒舌に語ったのだ。他クラスで同じ内容が伝えられなかったはずがない。読書に夢中で聞いていなかったと言うなら仕方ないが。

 しかし、椎名は悩む素振りもなくキッパリと答えた。

 

「私はクラス抗争なんかに興味はありませんから、やりたいように過ごすだけです」

 

 ……ああそうだったよ。彼女はこういう人間だった。

 周囲の様子も環境の変化もお構いなし。ちゃんと理解している上で、それでも自分の我を貫く強さがある。それは決して傲慢なものではなく、折れない心の強さ。そう、彼女は芯が強いのだ。

 ボクはその姿に憧れて、彼女に接しようと決めたんじゃないか。

 

「浅川君の方こそ、大丈夫なんですか? 昨日はやたらと隣の教室が慌ただしかったように思いますけど」

「まあ、キミさえ迷惑じゃないって言うなら、このまま変わらず付き合わせてもらうよ」

 

 少しはぐらして答える。

 ――拒絶されないから、一緒にいる。今は多分、そんな状況だ。約束を盾にして、ボクが彼女に甘える立場になってしまっている。

 余計なことへ思考を回すことから逃げるのに、椎名との時間は、あまりに都合の良すぎるものだった。

 現に、クラス間のやり取りどうこうと言っておいて、ボクは自らここに足を運び、椎名の隣に座っている。

 ボクはあの日「見かけた時に気軽に声を掛けてくれ」と言っただけであり、決して「会いに行く」ような関係ではなかったはずだ。偶然や気まぐれに導かれて続く関係。単に浅いというわけでもない、ちょうどいい距離。

 それを心地いいと思っている内に、いつの間にか拠り所は『避難所』にすり替わってしまった。

 彼女は僕に、何かを求めることも、問い詰めることもしないとわかっていたから。

 ここにいるだけで、疑問も持たずにボクを肯定してくれるとわかっていたから。

 その安らぎに縋りついてしまっている。きっとそれは、彼女の言う落ち着くとは別物だ。

 だから、

 

「―――本当にそう思っていますか?」

 

 何の変哲もないはずのその問いに、ボクは何も返せなかった。

 

「え……」

「あ、いえ、別に何かを咎めようだなんてつもりはありませんよ。ただ、私に気を遣っているのでしたら、無理に合わせなくてもと思いまして」

 

 椎名は慌ててそう補足した。

 ……そんな顔をしないでくれ。キミに悲しい顔をさせないために、ボクは手を差し伸べたはずなんだ。なのに今は、ボクのせいでキミが気を落としているって言うのか?

 ボクでは相応しくないはずの手を、また掴んでしまったのだろうか。ボクは、また同じ傲慢を繰り返すのか? 

 やはり、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、のか……?

 

「無理なんかしていないよ。キミとの時間は、とても楽だ」

 

 励ますつもりで掛けた言葉だったが、どうしてだろう。その答えは、とても的外れであるような気がしてならなかった。彼女の思考が全く読めないのは、その天然さ故なのだろうか。

 

「そう、ですか。……ええ、私も楽しませてもらっています」

 

 そう寂しそうに呟く椎名の方こそ、無理をしているのでは?

 喉まで出かかった問いは、外の空気に触れる寸前で霧散してしまった。本来ボクの広げたかった話題は、そのことではなかったからだ。

 建前かどうかはともかく、椎名はボクを悪いようには思っていないようだ。腐っても友人、思い入れがあるのだろう。

 埒の明かない問答は無益な結果を招くだけだと割り切り、話の路線を切り替えることにした。

 

「それ、ホームズ?」

「はい。『緋色の研究』です。読み直していたところなんですよ」

 

 先程のボクのように、椎名は読み進めていた本の表紙を見せる。

 シャーロック・ホームズ。ミステリーを語る上で、彼の存在は欠かせない。相棒であるジョン・H ・ワトソンの現実的な性格も好ましく、バディものとしての価値も非常に高い。尤も、事件の外で繰り広げられるユーモア溢れるやり取りの方が、密かな楽しみだったりもする。

 

「何周目?」

「四周目です」

「飽きないねえ」

 

 ボクは両手を広げて呆れて見せる。しかし本当のところ、定期的に読み返す気持ちはよくわかる。何せ、

 

「浅川君は?」

「六」

 

 ボクの回答に彼女はクスッと笑う。「飽きませんね」

「飽きないねえ」ついさっきと同じセリフ。

 少ない単語で広げられる会話。こんな感覚は初めてだが、存外悪くない。

 

「出会い頭にワトソン君の出自をズバリ言い当てる場面は痺れるよなあ。憧れるよ」

「私の目線だけで一推理やってのけた浅川君なら、惜しいところまで出来るんじゃないですか?」

 

 おっと、突拍子もないことを言う。初めて会った時のあれが思いの外印象に残っていたようだ。

 

「そうかなあ。なら――今からちょいとやって見せようか?」

「おお、ぜひとも見せてください」

 

 目には目を、冗談には冗談を。あのホームズと同じ芸当ができるだなんて奇天烈なジョークをかましたキミには、ボクのなんちゃって推理でお返ししてやろう。ユーモアは受け取るだけで終わらせない、それがボクの流儀だ。

 ただ一つ、椎名がこんなにも目を輝かせていることだけが誤算だった。変な期待を持たせてしまったかもしれない。

 

「うーんと、じゃあ……ゲフン。えー、君はどうやら、その本を手に取るまでに相当な紆余曲折があったようだ」

 

 一つ咳払いをしてから、探偵物真似あるあるのきな臭い口調で切り出す。

 

「まず君は、普段とは違いすぐに図書館へは行かなかった。と言うより、()()()()()()()()()()()()()()。そうだろう?」

「当たっています。どうしてわかったんですか?」

 

 まさか当たるとは……!

 自分が声を掛けた時に()()()()()()()()ように見えたから、外へ走りにでも行ったのかと心にもないことを浮かべただけだったのに。

 ええい、仕方ない。何とかしてやる、してやるよ。今からでもこじ付けを極めてやろうじゃないか。

 

「……考えるまでもなかったよ。何せ君の足には、湿気高い空気特有の『ザラ付いた土』が付着しているんだから」

 

 記憶を頼りに事実を並べる。今日の彼女の違和感は一つではなかった。白のソックスだったから余計わかりやすい。

 

「それは放課後とは限らないのでは? 登校中や昼休みにでも――あっ」

「気づいたようだね。この曇り空は、()()()()()()()()()()()()()ものだ。放課後まで待たなければ、土が付着する程の粘り気を手に入れることはできない」

 

 空を雲が覆ったのは、ちょうどボクがいつもの二人と食堂へ行く少し前。今朝なんかはボクの心境に抵抗するかのような晴天だった。

 

「すると次に問題になってくるのは、君は何のために外へ出たのかだが……これもそう難しくはない。『本屋』へ行くためだ」

「待ってください。確かに私はこの通り読書好きで、書店に入ったこともありますけど、必ずしもそうとは言い切れないのでは?」

 

 ボクは彼女の言葉に対し首を横に振った。

 

「君は確か、学食すら利用したことがないと言ったね。となれば、やはり他の施設にも足を運んだことはないのだろう? 本屋以外に」

 

 椎名は迷う素振りもなくコクリと頷く。よかった……これで否定されたら早速ボクのショーは幕を閉じる羽目になっていたぞ。

 

「そんな未知の空間に、しかもこの微妙な悪天候の中で、女子が一人で下見に行こうだなんて思いつき、普通はしない。現に君はさっき、雨が降らないかどうかを心配していた。では、寮に向かったのだろうか? これも違う。君はこうして未だ荷物を持ち歩いているし、何より携帯傘を持って来ていないことがおかしい。よって、図書館よりも前に足を運ぶ可能性があるのは、本屋だけなんだよ」

 

 ボクの滑稽な演技に、彼女は結構聞き惚れているようだ。案外板についてきたのか?

 

「しかし不思議なことに……君はそこにたどり着くことなく引き返したようだ! バッグが揺れる時にビニールのガサガサ音は聞こえなかったし、もし本屋までたどり着いていたら、恐らく君は少しの余裕も持ってここで待つことはできなかったはずだからね」

 

 今はまだレジ袋が有料化される前だ。本を購入したのであれば、包んでいた袋がバッグに擦れて音が聞こえるに違いない。

 そして次が、一番の関門――。

 

「なら、一体どうして君は学校に引き返したのか。それは――呼ばれたからだ」

 

 これしか考えられない。今の段階で、彼女が自主的に引き返した可能性は除外される。それは、逆説的に外的要因が作用していたことを証明しているのだ。その上で最も単純にして起こり得そうなのが呼び出しだった。

 

「……誰に、呼ばれたと?」

 

 彼女の固唾を飲む音が、静寂に緊張感を上乗せする。ここは……間違えられない。

 

「それは……たん、にん、だ」

「え?」

「……そう、担任、担任だったんだ。君は大事な忘れ物があったことを担任にメールで告げられ、慌てて引き返した。勘違いでなければ、君はまだボク以外の生徒とは連絡先を交換していないはずだからな。消去法だ」

 

 椎名は暫し呆然としていたが、すぐに元の表情に戻った。

 

「……筋は通るかもしれませんね」

「結果君は、本屋へ行く算段に見切りを付け、図書館(ここ)で何か借りようと思い立った。そしてそこに偶然僕が通りかかった。あの時机の上で本が数冊積まれていたことが証拠だ。長かったが、ここまでがフェーズ1。――ねえ、まだ聞きたい?」

 

 ここでボクは予め備えていたミネラルウォーターを口に含む。大分話したので撮れ高はもう十分だと思うのだが。

 しかし彼女は、最後まで聞き届けたいようだ。

 

「はい、お願いします。浅川君も何だかノリノリみたいなので」

 

 見透かされちゃってんねコレ。じゃあお言葉に甘えて。

 

「――ここに来てすぐ疑問に思ったのが君の様子だ。静謐さが求められる図書館で、何故君はあんなにも息を切らして待っていたのか……その答えは、この図書館の構造そのものにある」

 

 ボクが椎名を見つけた時、彼女は平然を装っていたが明らかに肩の揺れ動きが顕著だった。見たところ体調が悪いわけでもなさそうなので、運動による呼吸の乱れだと考えられる。

                

「確かにここは広いですし、私は運動が苦手ですけど、図書館を歩き回るだけで息を切らすほど落ちぶれてもいませんよ?」

 

 ごもっとも。しかし、それは()()ならの話だ。

 

「いいや。ここで行われる動作は何も移動だけじゃない。言ったろう? 構造だって」

 

 ボクは人差し指で――天井を差した。

 

「『緋色の研究』は()()()()()()にあったんだ。人一人の身長では届きにくい位置にね」

 

 これまでの行動と大気の重さを合わせて考えれば、図書館で疲弊している状態の彼女と出会う理由は決まりだ。

 

「なるほど。あの高さにある本を取ろうとすれば、私の背丈だとそれなりに苦労するかもしれません。でも、一番大事なことを忘れていますよ」

「ほう! 一体何を見落としていると?」

「『動機』です。飽きないと言っても四回読み込んだ作品を、態々そんな手間をかけて取ろうとするのは不自然ではありませんか? 他にも興味をそそられる推理小説は山ほどありますよ」

 

 良いところを突いてくる。ただ、それは想定内だ。

 

「それはおかしな話だな! 椎名、君の方こそ忘れている。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 椎名の眉がピクリと反応する。目的を忘るるべからず。彼女を満足させられれば、ボクの挑戦は成功なのだ。今の言葉は、ボクの紡ぐエンターテイメントのボルテージを嵩増しさせる。

 

「不可解だろうがエキセントリックだろうが関係ない。僕はただ、君の小さな活劇の模様を検証しているに過ぎないのだよ。君が『高い位置の本を手に取った』。それを証明する鍵は、既に手の平の中に眠っている」

「証拠があるということですか。それはどこに?」

「だから言っているだろう。『手の平』だ、とね」

 

 僕の指摘に椎名は首を傾げるが、自分の両手に視線を移して間もなくあっと声を漏らした。

 

「僅かに灰色がかった輝き、『金属光沢』だよ。湿気でわかりにくいけど、稀に鉄の匂いも鼻に届く。か弱い文学少女が両手を使ってそれ程の時間運ぶ可能性のある金属――一つしかないね。館内の隅に放置されていた『脚立』を、君はえっさほいさと運んだんだ。おまけに道端のゴミと比べたら、光沢なんて大した汚れには感じにくいから、洗い落とさなかったことも納得できる。極めつきには、件の本が少し埃かぶっていることも、それがあまり掘り出されることのなかった代物であることを示している」

 

 脚立を持って移動したことと、その不安定な足場でバランスを保ちながら頭上の物を取り出すこと。二つの行動は彼女の息切れの原因に尚更直結するものだろう。

 

「君は放課後、本屋へ向かっていた。しかし途中で学校へ呼び出され断念。仕方なく図書館へ行き、脚立を使って『緋色の研究』を手に取った。――君の思考までは推理できないが、今の君に『お疲れ様』と言わなければならないことだけは確かだろうね」

 

 なんちゃってのつもりで始めたにわか推理。調子に乗った結果段々と本格的になっていってしまった。辺りを支配する無音の空気も相まって、恥ずかしさが沸々と込み上げてくる。

 耐えられなくなる寸前で、ようやく椎名が口を開いた。

 

「概ね、正解です」

「概ねかあ。まあボク程度じゃこんなもんだね」

「それでも凄かったですよ。多少キザなところも含めて、西洋かぶれな探偵って感じでしたし。演技、上手なんですね」

 

 彼女がそう言ってくれるなら本望だ。大根役者のような(なり)をしているつもりはいからな。

 

「演じるのは得意だし好きだよ。何というか、その時の自分の生き様に責任を感じなくて済む気がするから。――ところで結局、キミがそれを選んだのはどうしてだったんだい?」

「ふふっ、ただの気まぐれですよ」

「気まぐれ? じゃあ推理のしようもなかったじゃないかあ」

「ちょっと意地悪しちゃいました。でも、その甲斐はありましたね。まさかホームズの名言で返してくるとは」

「正直その場しのぎだった。閃きがないこともなかったんだが、如何せん論理性に欠けるものだったんでね」

 

 ただの思いつきだったが、あれはカッコよく決まったなと自画自賛しても罰は当たらないだろう。

 すると椎名は、ボクの返答に疑問を抱いたようだ。

 

「何を閃いたんですか?」

「ああ、『サブリミナル効果』だよ。図書館の出入口にはミステリー特集のポスターが見えやすく貼ってあって、ホームズの名前は一番目立つように書かれていた。それをキミが無意識に視界に入れたために、偶発的に『緋色の研究』が選ばれた。みたいな感じでね」

 

 サブリミナル効果の影響は、人間乃至(ないし)本人が肯定も否定もすることができない。自分が認識しなくとも確かに拾い上げている景色や音に、無意識に作用を受けた結果だからだ。ただしその性質もあって、効果そのものに懐疑的な意見もあり、推理をする上で用いていいものかは測りかねた。だったらせめて椎名の喜びそうな展開をと思い、あのセリフを引っ張ってきたのだ。

 

「他に何か質問とか、逆に補足したいところはあるかい?」

「……いえ、特にはありませんね。楽しませていただいてありがとうございました」

 

 そう言って朗らかに笑う彼女を見て、思わずボクも頬を緩めた。

 しかし、ボクにはわかっていた。その笑顔には、安堵も含まれていることに。

 一連のボクの推理ショー。実は()()()だけ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のだ。嘘を嫌うボクが、必要だと判断して吐いた嘘。

 キーワードは、茶道部、クラスポイント、統率者、悪天候、不自然な『緋色の研究』、椎名ひより(彼女)の表情、そして、浅川恭介(ボク)の存在。

 以上の分析から浮かび上がる真実は……。

 

「急なんだけど、大事な話があるんだ」

 

 あまりに脈略のない流れに彼女は困惑気味だが、ボクの表情を見てすぐに口を結ぶ。ボクも体を彼女の方へ向ける。

 

「ボクを友人と思ってくれているなら、一つ提案だ。ボクらの、これからについて」

 

 上手くいくかは半々といったところだが、念には念を入れておいて損はない。

 時機を見て提案しようと思っていたことだが、事態は想像以上に進行している可能性が出てきた。予定より早いが、今までの軌跡を顧みれば、現状ではこの選択が妥当だと言えよう。あとは彼女の返答次第だ。

 

 

「―――これからはうちで会わないか?」

 

 

 

 

 

 

 

 空模様が幾分か明るくなったのを見計らって、ボクらは帰り支度と片付けを始めた。

 『学問のすゝめ』を棚に戻した後、ボクは椎名のもとへと向かう。何か手伝えることがあるかもしれない。

 見つけた時には、彼女が例の脚立を設置しているところだった。

 

「大丈夫かい? 何ならボクが代わりにやるけど」

「お気遣いありがとうございます。でも、やはり自分で取り出したものは自分で片付けるべきだと思うので」

 

 断りながらよっこらせと脚立を登る椎名だが、ちょっと恐いな。彼女の運動神経の低さは眉唾ではなかったようだ。

 しかも問題は彼女だけではない。年季が入っているのか、思いの外おんぼろな脚立はガタガタと不安定に揺れている。これでは手に光沢もつくだろうし、体勢維持にも苦労するわけだ。頑張れよ、ポンコツ。

 

「気を付けてなあ」

「はい。わかっています」

 

 ボクの顔の位置に椎名の腰がくるあたりまで来たところで、ボクは若干目を逸らす。彼女の鈍感さは困り物だが、それ関係なくここは紳士的な対応をすべきだろう。ボクの人畜無害さに対する信頼もあるのかもしれないしな。

 間もなくして、『緋色の研究』をしまい終えた椎名が降り始める。視線を戻して彼女を見守っていると――何だか可愛がっている孫を微笑ましげに見つめるおじいちゃんの気分だ。

 そんなぼんやりとした感慨を片手間に、椎名が最後の一段に足を置くのを見届けようとした、その時だった――。

 

「あっ」

 

 無拍子にぐらついた足場にバランスを崩した彼女が、ボクと反対の方へ仰向けに倒れかけた。

 

「椎名っ……!」

 

 ――言わんこっちゃない!

 瞬時に行動を選択したボクは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()、素早い動作で彼女の後ろへ回り込み、それをあてがうことで椎名の背中を受け止めた。

 

「危ない危ない。ケガはないかい?」

「は、はい、ありがとうございます。すみません、迷惑をかけてしまって」

「骨董品に頼るのはやっぱ心もとなかったなあ。キミは悪くないから謝りなさんなあ」

 

 ペコリと一礼する椎名を宥める。危険だと思いながらも結局彼女に任せてしまった自分にも非はある。寧ろ椎名は最初の時によく踏み外さず取り出せたものだと感心すべきだ。

 しかし、彼女はいつまでも曇った表情を崩さなかった。

 

「……どうしたんだい?」

 

 クラス抗争云々の話をした時から何かを引きずっているような重い表情に、ボクはこれといった心当たりがない。教えてくれると助かるのだが。

 俯きがちな椎名の視線を辿ると、ボクが手に持っている二冊の本に焦点が合った。別に変り映えのない新刊だと思うが――要領を得られずに思わず首を傾げると、椎名が口を開いた。

 

「……今の私は、多分さっきと同じなんです」

 

 妙に遠回しな言葉だった。

 

「そこにあるとわかっているのに、その高さにまで手が届かなくて、だけど、諦めようにも諦め切れない。あると知らなければ、出会うことがなければ、このようなもどかしさと向き合うことにはならなかったのでしょうか……」

 

 寂しそうな表情に、ボクは何も言えない。

 

「今でもほんの少し、悲しいんです。読みたい、触れ合いたい、理解したいという想いが叶わないのは」

 

 彼女が今しがた本の出し入れをした本棚を見上げる。確かにあの高さの本は、足場の一つでもなければどう背伸びしても届くことはないだろう。それが彼女の好きな本なのだとしたら、軽い執着心を覚えるのも無理のないことだ。

 ――椎名はボクに、一体何を望んでいる?

 

「……本の話ですよ。読みたい本があったんですけど、手に取る機会がなくて」

「椎名、キミは」

 

 何を伝えたいんだ? そう発する前に、人差し指を立てた右手を眼前に突き付けられた。

 

「浅川君のやり方を真似してみました。もしあなたの中で答えが出たのなら、ぜひ答え合わせをしてみてください」

 

 ボクを揶揄うような言葉には、自嘲めいたものが覗いているような気がして、何故か幻想的な美しさがあった。今まで見たことのなかった彼女のセンチメンタルな一面を目の当たりにし、奇妙な感覚に襲われる。

 

「さて、そろそろ出ましょうか。長居は無用です」

 

 元のあどけない笑顔に戻ったはずの椎名の顔からは、どこか諦観に近い儚さが感じられた。

 ボクは言われるがまま、無言で頷くことしかできなかった。 

 




前半でオリ主が並べた問い、ぜひ調べてみてください。意外な知識が見つかるかも……?

オリ主の過去話について(どれになっても他の小話もやるよ)

  • 止まるんじゃねぞ(予定通り,10話超)
  • ちょっと立ち止まって(せめて10話以内)
  • 止まれ止まれ止まれ…!(オリだけ約5話)
  • ちょ待てよ(オリキャラだけ,3話)
  • ムーリー(前後編以内でまとめて)
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