参考書の効果は少なからずあった。
想像通り堀北の指導に安定感が増し、問題児の三人も比較的正確な理解が捗るようになった。
意外だったのは、池と山内がほんの僅かだがやる気を見せてくれたことだ。何でも、「女子がポイントを費やしてまで自分たちのために何かをしてくれている」という事実が影響しているらしい。元々は綾小路のポイントで購入されたものだが、態々指摘する必要はないだろう。
特に池は、そういう浮かれた感情だけでなく「誠意」じみた仕草も感じられた。
相も変わらずダラダラと文句を垂れる三人と度々傲慢な部分を晒してしまう堀北への不安は未だ残るものの、多少はマシになったようだ。
ただ一つ、須藤だけは変わらず眉間に皺を寄せている点が気がかりではあるが……。
彼らが去り、自分も帰り支度をしようとのんびりした手つきで片付けをしていると、堀北に呼び止められた。「綾小路君」
「どうした?」
「少しいい?」
動きを止めて彼女の方に顔を向けることで肯定を示す。
声を掛けたものの話す内容が纏まっていなかったのか、若干モジモジとした態度で彼女は切り出した。
「その……今のままで、いいのよね?」
「……? すまん。ゆっくりでいいからはっきり言ってくれ」
「……正直、まだ迷っているの。こうして参考書を教材代わりにして教えることで、確かに少しは効率が良くなったわ。けどその分、彼らの未熟さが余計露呈したように思う」
自分が直接彼女の指導を受けていたわけではないため、表面上の善い点しか見えていなかったが、彼女がそう言うのであればその通りなのだろう。
「意欲があるならまだしも、積極的に勉強に取り組む姿勢の見えない彼らをこうまでして助ける価値があるのか、疑問だわ」
「赤点スレスレにも関わらず危機感を持たないやつらは退学になるべきだと?」
「酷な言い方をするならその通りよ。自分の置かれている状況すら理解できないような人に今後の活躍を見込むのは難しい。『彼らを見捨てる』――選択肢の一つとして、考えていなかったわけではないもの。それはあなたも同じではなくて?」
堀北の言い分も筋違いというわけではない。まだ自分たちは出会ってから一か月しか経っていないのだから、誰がどんな性格でどんな長所と短所を持っているかを把握するのは精々小グループ内が限界だろう。どこかに光るものを持っている可能性はあるが、彼女の言う通りてんで役に立たない人間だって勿論いるはずだ。
この短期間で他人の素質を見抜いた上で、一種の取捨選択をさせる。学校側はそういう意味の試練も兼ねてこの赤点制度を設けているのかもしれない。
「まあ、選択肢の一つには過ぎないけどな」
言葉を若干濁しながら肯定する。
「この学校における実力は学力だけとは限らないというのは、頭ごなしに否定しようとは思わないけれどあまり釈然としないわ。一定の能力を満たせていない生徒は足手まといになると考えて切り捨てる。そうして最後にに優秀な人材だけを残す。多少の非道さはあれど、Aクラスを目指す手段としては幾分か効率的な気がする」
「それが、お前の結論なのか?」
「断定はしないわ。一概に正しいと決めつけているわけじゃない。けど、真っ先に浮かんだ考えはそれよ」
そこで綾小路は、堀北の神妙な顔つきの意味に確信を抱いた。
彼女はずっと迷っていたのだ。今までの自分があっさりと導き出した『見捨てる』という回答と、変化の兆しがもたらした『助ける』という選択肢の板挟みになりながらも、留まることを恐れ進んできた。
ただ、元来他人の感情に敏感でもなければ堀北程傲慢でもない綾小路には、彼女の葛藤を推し量ることは難しかった。
故に、彼にできることは――
「鈴音。悪いが、オレはお前の疑問に答えることはできない」
「……どうして?」
「薄々気づいているはずだ。須藤と沖谷がいる時点で、オレはあいつらに手を貸すことに価値を見出せてしまう。いまだ濃い関わりを持たないお前とは違ってな」
されど一か月。何度も朝の登校を共にしていれば、せめてもの情は湧く。二人の友人である綾小路がこれしきのことを拒む要素がないのだ。
浅川や櫛田の姿勢を見た彼は、そうあるべきなのだと判断したのだ。
「なら、池君と山内君は?」
「二人は須藤の友達だ。それも、オレや恭介より前からの付き合いだ。どちらか一方でも退学になれば、きっと悲しむだろうな」
思うような回答が得られなかったのだろう。堀北は難しい表情をして黙り込んでしまった。
それを見越していた綾小路は続ける。
「――だから鈴音。それはお前が決めることなんだ」
彼の諭すような口調に、彼女は思わず顔を上げた。
「オレが今何かを言うことで、お前は簡単に納得できるのか? お前の常識に、何かを打ち付けることができるのか? お前は、自分の不安の埋め合わせを、他人に求めているに過ぎないんじゃないのか?」
単に堀北が頑固者だからという話ではない。日常にありふれた話だ。これでいいのかと問いかけている時は大抵意見を求めているのではない。自分の考えに自信を持ちたいという理性に欠けた感情論だ。
「オレは選択したぞ。お前に協力し、須藤たちのための勉強会に尽力したのは命令でもなんでもない、オレ自身の意思だ。恭介も、苦悩し疲弊しつつも最終的には自分の中で答えを見出し、この船を下りる選択をした。今度はお前の番だ」
揺れ動く瞳を真っ直ぐに見つめる。それは糾弾などでは決してない。寧ろ自分も
「最後に頼れるのは自分だけなんだ。それすらもかなぐり捨ててしまったら、きっと納得できる結末にはたどり着けない」
明確な回答を提示できない今の自分には、そう語るので精一杯だった。
堀北は交わっていた視線を外し、思い悩む表情を緩めることはせず俯いた。
「私は……」
間がいいのか悪いのか、このタイミングで閉館の合図が室内に響いた。他に人影のない図書館で、その音は空っぽな色として二人の鼓膜に届く。
十秒程の気まずい沈黙を経て、徐に堀北が口を開いた。
「……ごめんなさい。おかしなことを聞いて」
「別にいい。気にするな」
その後は無言で後片付けを済ませ、堀北が先に出口へと向かうが、彼女は直前で振り向いた。
「綾小路君。最後に一つだけいい?」
「何だ」
「質問のしかたを変えるわ。あなたは、『見捨てる』という選択肢は間違いだと思う?」
一時の間を置いて、彼は答えた。
「間違っているとは、限らないな」
―――――――――――――――――――――――――
翌週の初め。
教室の外へ向かう堀北に続こうとすると――反対側のドアの近くで浅川と茶柱が話している姿が目に留まった。
「――あるか? し――しつにき――」
「――ちょうし――。どうし――」
「こう――もしょう――ばわか――なしらし――」
「……した」
あの先生が自分から生徒に話しかけるなんて珍しいこともあるものだ。
綾小路は流し見してその場を後にした。
「ふわぁ、ねみぃ」
池がそう呟いた。隣に座る山内も同じように目を擦っている。須藤に至っては何度も船を漕いでしまっている。
土日を挟み三日ぶりの勉強会だが、どうやら前日に夜更かしでもしてしまったようだ。休日を跨いだせいで少し気が緩んでいるように見える。
想定外の懸念要素が加わり、堀北は一層厳しい表情になりながらも勉強会は進んでいく。
三十分くらい経っただろうか。綾小路が今日のノルマに一区切りつけられそうだと思った時だった。
「――ねえ、ちょっといい?」
その声は間違いなく、彼らが鎮座する席に向けて放たれたものだった。
七人が一斉に顔を上げそちらを向く。
声の主は、髪をサイドテールに纏め、堀北にも負けず劣らずなしかめっ面をした少女だった。
彼女はメンバーの顔を見渡し――やがて綾小路と目が合った。
「あんたが綾小路?」
「え? あ、ああ。そうだけど……」
「ちょっと付き合ってもらえる? 少し話があるから」
どうやら綾小路に用があるらしいという事実に一同は驚愕の表情を見せる。
「なっ……! お、おい綾小路。これは一体全体どういうことだよ!」
「おおお前、こんな可愛い子とも仲良くなってたのか?」
「い、いや。別に知り合いでも何でも……」
櫛田と沖谷も声には出さないが、見たところ他クラスの生徒である彼女が綾小路に話しかけている状況に困惑を拭えていないようだ。
しかし、当の本人である彼も当然動揺している。何せ一度も会ったことのない少女に名前を知られていて、あまつさえこれからまるで告白でもされるのではないかというような呼び出しを受けたのだから。
だからこそ、次に込み上げてきた感情は疑惑。彼女は何か思惑があって声を掛けたのではないか。人知れず警戒心を抱いた。
そしてそれは、隣で彼の表情を目にしていた堀北にも同じことが言えた。そもそも綾小路に他クラスの友人がいること自体到底信じられなかった彼女は、彼を見て確信に至ったのだろう。
綾小路は少女の方に視線を戻す。こちらが従うまで離れるつもりはないようだ。
「……鈴音、悪い。少し席を外す」
「大丈夫なの?」
「取って食われるわけではなさそうだ。お前の方こそ、頼むぞ」
実の所、よりにもよって今日この日に来てほしくないイベントだったが、ここで応じない方が更に勉強会が拗れてしまうだろうという判断で、この場を堀北に一任することにした。
野次を飛ばす池と山内をシカトし、「こっち」とだけ言って先導する少女に付いていく。
「なあ。どこへ行くんだ?」
「特別棟」
最小限なやり取り。彼女が自分に好意を抱いているなんてことはまずないだろう。
しかも、「特別棟」と言う単語で彼は一層警戒心を強めた。確かあの場所には監視カメラがない。学校側にすら痕跡を残したくない会話でもあるのだろうか。
程なくして目的地へたどり着くと、「ここで待ってて」と言い残して奥の曲がり角へと向かって行く。
まさかの放置。もしや自分は現代女子高生の低俗なイタズラに巻き込まれているだけなのかもしれないという予感が過ったが、それはすぐに霧散し、まだその方がマシだったかもしれないと言えるような出来事が降りかかる。
「もう帰っていい?」
「ふふ、余程あそこが気に入っているんですね」
「違うから。面倒事はさっさと済ませるに限るってだけ」
短い会話が聞こえ、次に姿を現したのは、別の少女だった。
「あんたが、オレを……?」
こちらの問いかけに、少女が応じる気配はない。しばらく無言な時間が続く。
先に口を開いたのは当然、杖を頼りに近づき始めた少女だ。
「本当に来ていたんですね。ここに」
「……? どういうことだ」
全く以て脈略のない受けごたえに彼は首を傾げる他なかった。
カツン、カツン、と乾いた音が周期的に木霊する。
「実に、八年と二百四十三日ぶりですね。綾小路清隆君」
「……新手のナンパなら他所で頼む。オレはお前と会ったことはない」
つい一か月前まで人と関わることすらできなかったのだ。彼女が嘘を吐いていると結論づけるのは造作もないことだった。
「そうでしょうね。私だけがあなたを一方的に知っているに過ぎませんから」
「それは何とも奇妙な話だな。フランスに行って桜の花でも買ったらどうだ?」
言葉そのものに危険を感じ取った綾小路は適当な返しをし、戦略的撤退を試みる。
しかしその足は、次に放たれた言葉によって止まることとなる。
「
否、止まらざるを得なかった。
どうして彼女が、その単語を知っている。自分の過去に纏わる禁句とも言えるその言葉を、一体どうして……。
「……アメリカ大統領の小規模住宅か何かか?」
「フフ、あなたらしくもありません。動揺が隠しきれていませんよ」
冗談をかませるだけ、今の彼にしてはマシなものだ。普通な高校生活を満喫することで生まれた余裕が思わぬ方向で功を奏した結果だろう。下手したら何も返すことができなかった可能性もあった。
「折角の再会なんです。挨拶もしないのは失礼かと思いまして」
「何度も言わせるな。オレはお前と初対面だ。挨拶などせずとも失う礼なんてどこにもない」
必死に言い逃れするも、彼女は冷ややかな笑みを崩さない。相手は自分の素性にある程度の確信を持っている。この時点でそう判断した。
彼女の持つ情報の出どころは依然不明だが、一先ず白旗を揚げるしかなさそうだ。
「……お前は、刺客か?」
「いいえ、安心してください。私はあなたのことを告げ口するつもりなんてありません」
数歩の距離で二人は対面する。少女の背丈はかなり小さいが、これほど悪寒のする上目遣いはないだろう。
ここで初めて、彼は目の前の少女を観察する。
何かしらの障害を抱えているのか、移動に使う杖はトレードマークと言えるような特徴だ。可愛らしく被っているベレー帽も、彼女の気品に上向きの補正を掛けていた。
しかし今は、好戦的な性格を想起させる獰猛な瞳が彼女の愛嬌を帳消しにしている。
そして何より、雪のようなしっとりとした印象を与える髪は――。
「……お前、名前は?」
「申し遅れました。坂柳有栖です」
「坂柳、有栖……お前はまさか、
突拍子も無い彼の発言に、今度は坂柳が驚く番だった。彼女とて、自分が綾小路に認知されているなどとは思っていなかったようだ。
しかし彼女は、動揺を抑え努めて冷静に返す。
「ええ、その通りです。どうしておわかりに?」
「……よく、覚えていない。何だか、あの時は視線のようなものを感じて、心のどこかに引っ掛かっていた……」
そこまで答えた瞬間、綾小路の脳裏に
「……『
「……? それは一体……」
「いや、何でもない。ただの独り言だ。忘れてくれ」
どうしてそんな言葉が口から出たのか、自分でも定かではなかったが、それは確かに自分の過去の中に眠っていたもの。確信に近いものがあった。
今はとりあえずそのことを胸にしまい、改めて坂柳と対峙する。
「お前は、オレをどうするつもりだ」
「挨拶と言ったでしょう。今アクションを起こすのは時期尚早です。ただ、いずれは必ず、一切の邪魔の入らぬ場で雌雄を決したいと願っています。偽りの天才を葬る役目は、私にこそ相応しい」
ここまで言うのだ。一目見た時から察していた通り――運動は兎も角――彼女は相当な実力者なのだろう。それも、慢心ではなく正確に自分の能力を理解し自負している。今後何らかの競いの場において、確かに厄介になるかもしれない相手だった。
「退屈になるものだと思っていた高校生活ですが、存外楽しいものになりそうです」
そう愉悦する彼女だが、一方の綾小路はある危機感を覚えていた。その胸の内は、漏れ出るようにゆっくりと絞り出されていく。
「オレは……オレは、
その言葉を予想していなかったのか、坂柳は興味深そうに彼へ意識を戻す。
「それは、どうしてですか?」
「……やっとなんだ。やっとオレは、自分の望んだものに辿り着けるかもしれないんだ。『普通』と呼べる人生に」
「ご冗談を。この学校においてそんな絵空事が叶うことはないと、周りの生徒の慌ただしい様子を見ていればご存じでしょう?」
悲哀な瞳をする彼に対し、彼女は冷酷なまでに現実を突き付けようとする。
確かにここは一言で表すならば『異常』だ。実力順のクラス分けやら赤点一つで無条件退学やら、そしてそれらの根底に存在するSシステム。何から何まで普通とかけ離れている言わば別の『箱庭』で、どれだけの普通をまっとうできると言うのか。寧ろ生徒全員に普通であることを許さない心意気まで感じられる。
しかし、綾小路はその事実の前に口を閉ざすことはしなかった。
「絵空事か……本気でそう言っているのか?」
「異常な環境で正常に生きることなどできませんよ。ましてあなたのような平凡からかけ離れた才能の持ち主が――」
「オレだから、なんだ」
彼は現実を真っ向から塗り潰すように、坂柳の言葉を遮る。
「オレだから、他のみんなが――お前でさえ忘れてしまっている日常の尊さに目を向けられる。その可能性は、どこかに眠っている」
『解釈』――自分や他人を結び付ける上で不可欠な物と、『憧れ』――軌跡を糧に迷い足掻き選択する者を目にすることで芽生えた感情。どちらも、ここへ来て何度も存在を認識していたものだ。
真っ白だと思い続けてきた過去も、確かな足掛かりとすることができるのではないか。それが、彼の中で渦を巻く問いだった。
そして、その答えは、これから自分自身で証明していくのだ。
「笑ったり、怒ったり、泣いたり、驚いたりして、他人と他愛もない関わりを持って、普通に生きる。そんなささやかな願いさえ、オレは抱いてはいけないのか……?」
拳の握る力が、無意識に強くなっていく。
「自分だけが全てだった。他人を道具としてしか見ることができなかったオレの手は、きっと冷たかったんだ。だからあの時、この手を握ってくれたあいつの手が、あんなにも温かいと感じたんだ。――羨ましいと、思ったんだ」
あの時、自分にこの温もりを少しでも分けてもらいと思った。そして今では、いつか自らの手によって誰かを温めてあげられたらとまで思っている。きっとその心地良さは万人が望んでいるはずで、それこそが慈しみの結晶、すなわち自分に満足な像を与えてくれるものなのだと直感した。
「才能にこだわる意味をオレは見失ってしまった。お前と戦うことで、オレは手繰り寄せてきたものを、自ら手放してしまうような気がするんだ」
坂柳と争うことになったとき、自分は恐らく持てる力の全てを尽くして向き合うことになる。それはつまり、自分の勝利だけのために力を振るうということ。それでは今追い掛けているものとは逆の、元来た道を引き返すことになってしまうのではないか。彼はそう危惧していた。
「それはただの怠慢なのではありませんか? あなた自身が抱えている矛盾と向き合い解消するために、作られた才人として私と競う必要がある。あなたもわかっているはずです」
「確かにそうかもしれない。オレはあらゆる分野において自分の勝利を絶対なものとして
『力を持っていながらそれを使わないのは、愚か者のすること』。この忌まわしい言葉はいつまでも頭の中に残るノイズ。今まではずっと、そう決めつけていた。
そう、今までは。
「ただ、それはあくまで一つの選択肢に過ぎないと、オレは思う」
しかし彼は、この一か月で変わった。
「もしかしたら、お前に
自分が敗北することは、間接的にあの父親が敗れたことにも繋がってくる。それは綾小路にとって、確かに旨味のあることではあった。
「だけど、オレはまだ諦めたくない。捨てたくない」
だが、そう考えるのは早計だ。自分はまだ、誰かに微笑むことができる。誰かのために怒ることができる。誰かと近づけないことを残念がることができる。
一縷の望みを抱くのには、十分な時間だったのだ。だからこそ、彼は初志貫徹を決め込んだ。
「『俺』は、
受動的に求めるだけで上手くいくかはわからない。何より、上手くいかなかった時にきっと後悔する。だからせめて、最後まで自ら足掻き続けたい。そうすれば、万が一叶わなかったとしても、その苦汁を飲み込むことができるはずだ。
偽りだらけの天才であろうと、偽れないアイデンティティーを失うことなく普通の尺度と共存し、他人を想う生き方ができる。彼はその可能性を信じることにした。
永遠と紛える沈黙が流れる。床の軋む音も、鳥の鳴く声も、時の針の音も、一切存在しない。真に無音の空間が、そこに生まれた。
途中坂柳は静かに目を閉じ考える素振りを見せた。それすらも綾小路は黙って見つめ続けた。まるで両者の間を流れる静謐をもわかりあった、旧知の仲であるかのように。
「……それは、浅川恭介君の影響ですか?」
ポツリと、彼女は呟いた。
浅川の名前が出ることで動揺するも、どこかで知り合っていたのだろうとすぐに思い直し、答えた。
「そうだな」
「一体彼の何が、あなたをそこまで変えたんです?」
「言葉にするのは難しいが……オレとあいつはどこか似ていて、どこか正反対なんだ」
浅川との時間を振り返りながら、ゆっくりと話す。
「俗世に疎いところや、自分自身に苦手意識を持っているところはかなり似ている。好奇心に弱いところなんかも……平凡な日々を望んでいるところなんかは、特にな」
「では、正反対というのは?」
そこで彼は逡巡する。正反対な部分については、ある程度推測が混ざるからだ。
「……オレはまだ、誰かのことを想うフリをするので精一杯だ。他人への情けを自分ためにと考えることが多い。だけど恭介は、その『
確証はなかったが、浅川の最近の佇まいからはそのような性質を感じていた。一度もそれが露わになる瞬間を見ていないため断言はできないものの、そう考えると自分がどうしてこうも彼に感化されやすいのかが納得できた。
「互いに補い合い、与え合うことを望んでいるから、オレたちはやっていけているんだ」
彼も自分に何かを求めている。それが自分と良好な関係を築けた最たる理由なのだろう。
だから、今の自分たちの関係は、その均衡が崩れているからであるわけで……。
それを坂柳に話したところで、何も解決はしない。それ以上のことは語らなかった。
彼女は綾小路の答えに対し微妙な表情をする。
「あなたと彼が正反対、ですか……」
「何か心当たりがあるのか?」
「あなたも理解しているでしょう。彼は本来あなたを推し量れる程のポテンシャルを持っていない。なぜなら彼は……」
「いや、いい。それならわかっている」
質問したのはこちらだが、彼女の答えが予想できてしまったためにそれ以上は言わせなかった。代わりに反論を述べる。
「だがな、お前はあいつを少し甘く見ている。あいつの持っているものは、オレやお前の持っているものとは明らかに異なる。一度や二度話したくらいじゃ気づかないぞ」
「ほう、あなたがそこまで言うとは、興味深いですね。つまりはそこに、あなたの期待する何かが秘められていると?」
「どうだろうな。ただ、あいつのそういう部分は長所だと思っている」
そう豪語する綾小路を見て、坂柳は神妙な顔つきになって思案する。
「……なるほど。でしたらあれは……」
恐らく彼女らしくないのであろう歯切れの悪い口調で話し出した。
「実は、私が浅川君と会った時、彼があなたの語っているような男にはまるで見えなかったんですよ」
「人によって誰かに対する印象が異なるのは別に可笑しいことじゃ……」
「いいえ、ネタは割れています。彼は間違いなく、
「…………何が言いたい?」
嫌な予感がした。柄にもなく焦りと怒気の混じった声音で問いただす。
「あなたが入れ込んでいる彼は、本当に浅川恭介君なのでしょうか? そもそも、彼の中に本当の自分など残っているのでしょうか?」
不気味な感覚が、背筋を駆け巡る。
彼女が言いたいのは、浅川の言動、仕草、性格まで全てが精巧に作られたものかもしれないということだろう。
それは、とても悲しいことだ。さすがの綾小路もそれくらいは理解できる。
しかし一方で、その事実は一つの鍵になるのだとも解釈していた。
「だったら、探し出すまでだ」
自分に言い聞かせるように、彼は言葉を紡ぐ。
「『約束』があるんだ。あの時のオレたちは、間違いなく互いの本音で語り合っていた。例え口調や外見が作られたものだったとしても、あの時の恭介は本当だったのだとオレは信じたい」
思えばあの約束が、全てのきっかけだった。自分が願いを向けていたはずの彼から願いを託され、綾小路の中で何かが変わる種となった。
聞きたいことは全て聞き終えたようだ。僅かな間を空けて、坂柳は口を開いた。
「非常に、残念です」
「悪いな。お前の期待に応えてやれなくて」
「それは勿論ですが、それだけではありません。人と触れ合うことの温かさをあなたに教えてあげられるのが、よりにもよって彼かもしれないということがです」
そう言うと彼女はそっと綾小路の手を自分の小さな手で包み込んだ。
「あなたが望んでいるものは、確かにとても大切なものです。人肌の温もりは、決して悪いものではない。ただ、それに対して悪意を抱くことがあるのもまた事実です。これから先、あなたはその道の途中で幾度も苦悩することになるでしょう。しかし、それもまた他者と関わる上で向き合わなければいけないものであることに変わりありません。そのことを、どうか覚えておいてください」
彼女の真剣な表情からは、その言葉の重みがしかと伝わって来た。綾小路は出来る限りの誠意をもって受け止める。
「ああ、肝に銘じておく」
彼の返しに満足した様子を見せた坂柳だが、すぐに元の表情に戻る。
「できればその役目を請け負うのが、あんな歪みをきたしている男でなければいいのですが……」
「お前は、恭介のことが嫌いなのか?」
「ええ。どうしてか彼には言い様のない腹立たしさを覚えます。その答えに仮説が生まれたので、また今度お会いしてみようかと考えていますが」
至って素直に言ってのけた彼女に対して、綾小路は少しおかしくなって顔を綻ばせた。
「どうかしましたか?」
「いやな、やはりあいつは不思議なやつだと思っただけだ」
要領を得なかった彼女は首を傾げる。
「お前も結局、恭介に興味を抱いているじゃないか」
「……違います。これはあくまで嫌疑の範囲です」
「いずれにせよ、そういう関心を引き寄せる体質があいつの特長なのかもな」
「……好きの反対は無関心、ということですか」
悔し気な表情をするあたり、あながち本気で嫌っているのだろう。知性に溢れた彼女にこうまで言わせる浅川はある意味さすがだなとしみじみ思う。
話が一段落つき、坂柳は踵を返した。
「もういいのか?」
「今の時点であなたと対決するには障害となる要素があまりに多すぎる。今日は久しぶりに楽しいお話ができたということで満足しておきます」
「……ありがとな」
「礼を言うのはこちらの方ですよ。ただ、近い内に必ずあなたを葬って差し上げますので、楽しみにしていてください」
その言葉を最後に、彼女は廊下の奥へと歩いて行った。
しかし、曲がり角で見えなくなる直前、不意に綾小路は彼女を呼び止めた。「坂柳」
「何でしょう?」
「二つだけ聞きたい」
自分の過去を、あの部屋のことを知っている坂柳なら、ずっと引っ掛かっていた疑問について何か知っているかもしれない。小さな思いつきで、綾小路は尋ねた。
「恭介は、
「ええ。少なくとも私の記憶に彼の顔はありませんよ。整形でもしているなら話は別ですが」
何てこともなさそうに即答する彼女にホッとする。彼女がそう言うのであればきっと間違いはないのだろう。代わりに新たな疑問が浮かんだが、一先ずは恐れていた事態が起こらなかったことに安堵することにした。
「二つ目は?」
「ああ。それはもっと他愛のないことだ」
その妙案が浮かんだのはほとんど偶然だ。彼女が綾小路を見に来たのが偶々あの日だったこと、それを綾小路が思い出したこと、そして、浅川たちとの日々によって他者と関わる術を僅かでも身に付けていたこと。兎も角、それは彼にとってまさしく天啓と呼べるものだった。
「もしよかったら、今度時間がある時に『チェス』でもどうだ?」
「……っ! 覚えていて……」
彼女は一瞬感慨に浸りながらも、嬉しそうに表情を緩ませて応えた。
「はい、ぜひともよろしくお願いします」
そうして今度こそ、特別棟の人影は一つになった。
相も変わらず無音の空間。まるで自分が気体となって溶け込んでしまいそうだ。
これまでで一番心を許してきたのは浅川だったが、それでも外しきれない枷があった。坂柳はそれを取っ払って話すことのできる生涯初めての相手だった。
故に、彼女と会話を終えた彼の表情は、少し清々しいものになっていた。
人肌の温もり、か。
図書館へと足を向けながら、彼女の言葉を振り返る。
彼女は、人との関わりは悪いものばかりではないと言いつつも、悪意を抱くこともあると言った。今浅川との間に生まれている溝――いや、それだけではない。今まで堀北との間にも生まれたことのあるぎこちなさも、それに類するものなのだろうか。
あれは確かにモヤモヤとした不快感を与えるものだった。それに対して悲観的にばかりなっていたが、向き合うことで何かを得られるというのだろうか。自分の求めている何かを……。
やはりこの手の難題は、自分一人で考え抜くのには限界がある。あの盟友となら、多少の進展が起こるかもしれない。
またもや一つの意思が芽生えようとしていた綾小路だったが――図書館の門戸を開いた時だった。
「こんなことやってられっかよ!」
次から次へと巻き起こるイベントに、今日は厄日かと嘆かずにはいられなかった。
あれ、お二人さん、なんかだいぶ先の巻の会話しちゃってない?
個人的な意見ですけど、事なかれ主義のままの彼ではなく、しっかりとした理想像を持って対決を拒む彼であれば、11巻の彼女の台詞からして理解を示してくれるんじゃないかと思ってこうしました。
と言いつつも、ちょっと原作での二人の考え方をあまり理解できていないので、もしかしたら矛盾しているところがあるかもしれませんが、余程のことでない限りは偶々本作ではそういう世界線なんだな程度に思っておいてください。
因みに、一番オリ主のことを理解できているのは当然清隆くんです。坂柳が人間性の部分、椎名が感性の部分において、清隆くんに次いで理解しています。
オリ主の過去話について(どれになっても他の小話もやるよ)
-
止まるんじゃねぞ(予定通り,10話超)
-
ちょっと立ち止まって(せめて10話以内)
-
止まれ止まれ止まれ…!(オリだけ約5話)
-
ちょ待てよ(オリキャラだけ,3話)
-
ムーリー(前後編以内でまとめて)