アンデルセンは笑っている   作:小千小掘

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地の文が多めの時は、大抵筆が乗っている(調子に乗っているとも言う)時です。

「世の中にはいい嘘と悪い嘘がある、それは認める、私は知っている。 だけどね――許される嘘なんてものはないんだよ」
(『鬼物語』臥煙伊豆湖)


ライアー

 消灯まで終え、後は床に就くのみとなったところで思わぬ人物から着信が入った。

 

「平田……?」

 

 クラスのリーダーが突然自分に何の用だろう。

 思わず首を傾げるが、自分の置かれている立場と平田との面識の浅さを顧みてすぐに察した。

 まだ時間に余裕はあったため、尻込みせずに応答する。

 

「しもしもー」

「もしもし、浅川君。こうやって二人だけで話すのは初めてだね」

「そうだなあ」

「本当は直接話したかったんだけど、どうしても都合が合わなくて……こんな形になってしまって、すまない」

「あっはは、気にするなあ。人気者はそれくらいがちょうどいい」

 

 教室での彼はカースト上位の女子たちに引っ張りだこで、他のクラスメイトに声を掛ける余裕が無い。更に言うと、ボク自身心が落ち着かずに席を外すことが多かったため、彼の行動を不快に思う要素は何一つなかった。

 

「今から話す時間はあるかな?」

「キミは運がいい。あと五分遅かったら、夢の中にでも侵入しなきゃキミの声はボクの耳に届かなくなるところだったよ」

「寝るところだったのかい? 邪魔になってしまうなら日を改めて――」

「ぞんざいに扱おうってんならそもそも出ないさあ。偶々早く寝る支度が整っただけだよ」

 

 「そうか。ありがとう」気前よく答えてやると、どこかホッとしたような声音で感謝された。お人好しな一面が電話越しに滲み出ている。

 ともあれ月の浮かぶ小夜の時間帯。できるだけ手っ取り早く本題に入るべきだろう。ボクは早速切り出した。

 

「テストなら問題ないぞ?」

「あはは……さすがにわかっちゃったか」

「キミが話しかけてくる理由なんてそれくらいなものさあ」

 

 彼、いや、クラスのほとんどが、ボクを赤点最有力候補と見ているはずだ。あの時の多方からチラチラと視線を浴びる感覚からして、三馬鹿で通っている三人よりも低い点数、というより0点を取るやつがでるだなんて誰も思わなかったのだろう。

 そう考えると、自分が無関心なだけで案外教室では噂されているのかもしれない。勿論悪い意味で。

 

「やっぱり話題になってたりする?」

 

 コミュニティが広い彼に問いかけると、苦笑とともに返事が返って来た。

 

「そう、だね。僕の周りでも、意外そうな顔をしている人が多かったよ」

 

 仲間外れやら陰口やらを嫌いそうな彼のことだ。ボクのいないところでそういう会話が交わされていることは理解しているものの、どう対応することも叶わない心苦しさのようなものを感じているのかもしれない。少なくとも、その事実に対して不快感を覚えているのは窺えた。

 

「気にしなくていいさあ。ボクだって、テストで断トツビリの人間がいたら不思議には思ってしまうよ」

「それは……うん。確かにその通りだ」

 

 ボクが気を遣っていると思ったのか、それを無下にしないように彼は同意した。本当のところ、万が一好奇ではなく侮蔑の目を向けられようとも大して傷つく性分でもない。そのあたりは六助を筆頭に地元で共に過ごしていた仲間たちから影響を受けていた部分が多い。有象無象の戯言など聞くに足らん。

 話はこれで終わり――と思っていたのだが、平田はなおも通話を切る様子がなかった。

 

「まだ何か?」

「……もしかして、浅川君はあの小テストを本気で受けてはいなかったんじゃないかい?」

 

 なるほど、こっちが本題だったか。

 確かにあの難易度で0点というのも、表向きただの進学校で通っている(しかも四月時点では全貌が伏せられていた)うちでは逆に怪しくなるか。現にこの前有栖も引っ掛かっていたようだった。

 しかしどうやら、根拠はそれだけではないらしい。

 

「前に堀北さんと綾小路君と話をしたんだ。テスト対策についてね」

 

 すぐに思い当たるのは先の連休初日だ。清隆は鈴音と会うとしか言ってなかったが、あの日は平田を混ぜて議論でもしていたのかもしれない。

 …………知らなかった。

 

「その時の二人は、浅川君のことを心配しているようには見えなかった。だからあれが君の正確な学力だとは思えないんだ。違うかな?」

「それはー……」

 

 彼の問いに対してどう答えようものか、ボクは迷った。

 本当のことを伝えたとして、聡明な彼なら信じてくれるだろう。先日清隆と鈴音とも話したのなら、ボクに対する印象もある程度正確に認識しているはずだ。

 加えてなまじお人好しな一面を具えている彼は、ボク一人の名誉のためにクラス全体に訴えかけてくれるかもしれない。普通ならそれは大変ありがたいことで、教室で肩身が狭い思い――をしている仕草――をする必要もなくなる。

 だが、それが今のボクにとっての『利益』になるとは思えなかった。

 寧ろ今自分が考えている通りに物事を進める上では、その要素は不都合をもたらす可能性さえある。

 だから――、

 

「…………いや、買い被りすぎだよ。ボクの実力なんてあの程度さ」

「え……で、でも、君は二人の開いている勉強会には参加してないんだろう? それは二人が信じているから――」

「ボクの方から言ったんだ。こっちに割くリソースを他のやつらに回してやってくれって。二人共ボクの気持ちを汲み取って渋々了承してくれたよ。君を心配させたくなくて、はぐらかさざるを得なかったんじゃないか?」

「じゃ、じゃあ……君はどうするんだい?」

 

 段々と弱々しい物言いになっていく彼は、恐る恐る聞く。

 

「独力、かなあ。やれるだけのことはやってみるよ」

「そんな……本当に大丈夫なのかい?」

「みんなにも煙たがられてしまうだろうからね。雰囲気を乱したくもないし、クラスメイトに縋りつくのも気が引ける。ボクの自業自得だよ」

 

 これで「なら自分が開く勉強会に来てくれ」と誘う手段も失われた。彼に無力感を与えてしまうかもしれないことに関しては申し訳なく思うが、ボクは堪えて拒絶した。

 嗚呼、よく鈴音はあんなにも人を突っぱねておいて澄ました顔でいられたものだ。もしも対面でのやり取りだったら、ボクならどうにかなってしまいそうだ。

 掛ける言葉が見つからないのか、暫く平田は何も言わず、しかし焦っているように感じられた。

 

「な、なら……そ、そうだ!」

 

 思考の波間で必死にオールを漕ぐ平田。話すのも初めてなのにどうしてそこまで助けようとするのだろう、と行き過ぎた優しさに疑問を抱いていると、彼は何かを思いついたようだ。

 

「僕が個別で教えるよ。そうすれば、他のクラスメイトの目を気にする必要もないだろう?」

「……ふぇ!?」

 

 さすがに予想外だった。クラスを束ねる器である彼が個人単位で手を差し伸べるとは。

 突拍子もなくなかなか大胆なことなのだが、これがまたボクにとっては()()()()()()()()

 

「え、遠慮しとくよ。心配しなくとも――」

「仲間が一人、退学の瀬戸際なんだ。見捨てることなんてできないよ」

 

 すかさず拒否しようとするが、勝手に彼の中で決意が固まりつつあるらしい。数秒前よりも毅然とした口調で言い切った。

 確かに今までの会話で出た情報を繋げると、彼の提示した答えはかなり理に適ってしまっている。

 上手く反論する要素もでっち上げも難しい、か。片意地を張る方が面倒くさそうだな。

 ボクはフラフラと白旗を揚げる。

 

「……悪かったよ、ごめんなあ。嘘を吐いた」

「え?」

「キミが期待しているほどじゃないけど、0点を取るような阿呆でもないよ。あの二人よりはずっと下だけど、ボクの学力を考慮した上で健たちを優先すべきだと判断したんだ」

 

 あたかも今までのは作り話で、その謝意表明として真実を吐露しているかのように、ボクは全く別の作り話を披露した。

 狙い通り、平田の安堵した声が聞こえてくる。

 

「よかった……信じて大丈夫なんだね?」

「ん。ボクよりも自分の勉強会のことを考えてやってくれ」

「わかった、そうさせてもらうよ。ところで、浅川君は一体どうして――」

 

 彼が付け足しに何かをボクに問いかけようとしたところで、端末の向こうで機械音が響く。この音は……メールの受信音だ。

 

「誰からだい?」

「軽井沢さんからだ。今から電話したいって……」

 

 二人の交際は四月の中旬には始まっているらしい。櫛田からトレンドニュースを授かった清隆が教えてくれた。確か、ヨシエさんと初めてちゃんと会話をした日だったな。

 恋人からのお誘いか。平田は平等主義。こちらを蔑ろにしたくない気持ちもあってどうすべきか判断しかねているのだろう。ここはこちらから気遣いをしてやるべきだ。

 

「出てやんな、平田。ガールフレンドを待たせるのは、紳士としては半人前だぞ?」

「……ごめんね、浅川君。ご厚意に甘えさせてもらうよ」

「おう。そんじゃあ――さよならだ、平田」

「うん。じゃあね、浅川君」

 

 プツリと通話が切れる。

 半ば雑に端末を握っていた腕を下ろし、ベッドの上に寝そべり目を閉じる。

 清隆から話を聞いた際、二人はまあまあな距離の置いた付き合いをしているということだったが、五月を迎えた今も大して進展していないように見える。あまり関心を持っていなかったからというのもあるかもしれないが、周りの反応も似たようなもので、決してズレた意見ではないはずだ。

 お互い所謂カースト上位の存在なので『お似合い』だとは思うが、強いて言えばボクの中で平田の見る目が僅かに変わったと言うべきだろうか。

 そもそもクラスメイトに優先順位をつけないはずの彼が特定の誰かと付き合い、あまつさえ公衆の面前にお構いなく晒しているという事実が驚きだった。彼なら体裁を気にしてもっとプライベートな場所に限定するものだと思っていたが。

 それに加え――これも彼の性格と照らした結果だが――入学して間もなくという『時期』も意外だ。一か月も経たずに付き合う関係は大抵一目惚れやらフィーリングやらがきっかけで、恐らく内面の分析は十分にできていないのが常。それを彼がやったと考えるには合点いかない。

 極め付きには水泳での恵の見学。生理的な事情があったのかもしれないが、普段ベタベタと平田にくっついている彼女があの時平田の方に目を配る素振りは一度も見せなかった。普通交際相手の水着姿となれば、筋肉なり泳ぎっぷりなりに興味を覚えるものではないのだろうか。

 まあとはいえ、二人には二人のペースがある。そこに邪推を挟むなどあまりに無粋だ。真面な恋愛経験というものが皆無なボクに、他人の色恋沙汰をあれこれと咎める資格などない。

 いずれにせよ、恵には感謝せねばなるまい。

 もし彼女がワガママを訴えなければ、ボクはきっと、平田が最後にしようとしていた問いかけに上手く答えられなかったと思うから。

 先までの彼との会話を振り返り、罪悪感が過る。

 そこでようやく、自分が変わってしまっている事実に気が付いた。

 元来嫌いだったものにこうも呆気なく頼ってしまったことが、酷く悲しかった。

 自分自身を裏切ったことを自覚するのに、こんなにも遅れてしまったことはなかった。

 ふと、鏡に『悪魔』の如く不気味な影が浮かんだような気がして目を向ける。

 要領の得ない感覚にぞっとするが、すぐにその正体を理解し、力なく笑う。

 いとも簡単に『嘘』を吐いてしまった自分の姿に、嫌悪感を抱かずにはいられなかった。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 曇天は好きかと聞かれれば、ボクは笑って誤魔化してしまうことだろう。

 以前空模様が心を写すか否か自問したことがあるが、主観に還ってみると、結局はその時その時の気分次第だ。気が舞い上がっている時に青空が広がっていれば尚更上々になるし、暗澹たる思いの最中で今のような灰の空を眺めれば余計に胸中がざわついてしまう。

 とどのつもり、現在の心境を照らすとボクは間違いなく億劫だという結論になるわけだ。

 独りで道を歩いていると、ついつい縋りつくように視界の端に向けて目玉を回してしまう。そこに天空が含まれる意図もまた、前向きな決起だったり物憂げな仰ぎだったりと極端に気まぐれだ。

 「浅川」と声が掛かる。振り返ると赤髪の大柄な男の姿が映った。相変わらず、この学校でもそれなりに目立つ色だ。

 

「健じゃないかあ。どした?」

「俺はランニングだよ。聞いて驚くな? 目覚まし無しで五時半起きだぜ!」

「おお、立派に成長しているじゃないかあ」

「へへっ、まあな」

 

 五月の頭の茶柱さんによる説教を経て、見返す心意気さながらにクラスの授業態度は改善されている。ちょうど同時期に早起きの習慣化の努力の成果が表れ始めた健もまた――沖谷もそうだが――登校の時間帯や授業中の居眠り癖もかなり快方に向かっていた。

 ランニングと称しジャージ姿で小さく足踏みする彼は、今日もクラスメイトの目を瞬かせる早さで教室に入ってくることだろう。当の本人はそのことに気付かないか鬱陶しく感じるかだということも目に見えているが。

 

「浅川は――いつも通りだな」

 

 呆れたような笑顔でそう言う健に微笑で返す。何だかんだで、櫛田から依頼を受けたあの日を除いてボクは一度も席に荷物を下ろすトップバッターを譲ったことがない。

 そう、『ボクだけ』は。

 

「そういや綾小路のやつはどうした?」

「鈴音と朝の逢引だってさあ。彼もついに好色めいてきたのかもね」

「ハッ、池や山内じゃあるまいし、アイツにそんな思考回路が備わってるとは思えねぇな」

「人は見かけに寄らないぞ。ボクがこんなにきっちりとした生活を送る男だとは初め誰も思わなかったろう?」

 

 「それもそうだな」と声を上げて笑う健に「否定しろよ」と抗議する。その意外な性に助けられているということは心に留めておいて欲しいものだ。

 この一週間、清隆はほぼ毎日鈴音と往路を共にしているらしい。彼曰く、「自分には爆弾の導火線に水をかける使命がある」のだとか。察してはいたが、苦労人宜しくの立ち回りに徹しているようだ。

 それを理解しているから、ボクは今独りなのである。

 事の原因である勉強会について、進捗を知る目的で触れてみようか。

 

「そういえばキミ、二人の勉強会に参加しているそうじゃないかあ。調子はどうだい?」

「あー、それは――ボチボチ、だな」

 

 歯切れの悪い反応は、言わずもがな事態の悲惨さを物語っていた。

 

「遅れた分は他より努力を積まなきゃ取り戻せないぞ」

「わってるよ。ただ、どうしても気乗りしないだけだ」

 

 バスケに精を注ぐ彼のことだ。それくらいのことは感覚的に理解しているはず。とすると、単なる苦手意識が枷となっているのだろう。

 あるいは……、

 

「それにあの女――堀北もイマイチ気に入らねえ。お前らよくあんなやつと付き合えるな」

「そんなにか? 同じ自己紹介を拒んだ仲なんだし、キミとの相性も存外悪くないと思うけどなあ」

「んな偶然程度で親近感湧く程ガード緩かねえって」

 

 現場の空気を肌で感じたわけではないが、やはり鈴音の気難しい部分は赤点候補たちも不快に思っている。なおもボクらくらいとしかプライベートで話さない様子から、予想するのに難くはなかった。

 

「一日一日緒を締めて励みなさいなあ」

「いや、今日は部活だ」

「オイオイ、大丈夫なのかい?」

「うっせぇよ。ノートに俯いてだんまりする暇あるなら、バスケに打ち込んでる方がずっと身になるんだ」

 

 確かに個人的な事情で部活を休むというのもあまり明るいことではないが、そもそも最低限のことができる上で取り組んで然るべきなのでは、と思う。健の提唱した考え方には些か不安が過った。

 

「……バスケじゃなければ、ちょっとはマシなのかもなあ」

 

 ふと漏らした発言に彼は訝し気な顔をする。「あ? 何でだよ」

 

「例えばサッカーとか野球とかなら、雨さえ降ればきっと休みになるだろう? そしたらキミが勉強会に気を取られている間、ライバルが先を越すなんて歯がゆいことにはならないじゃないかあ」

「けどよ、他のやつらだって同じ時間に勉強してるかもしれねえだろ? だったら結局変わらなくねえか?」

 

 そう思うなら部活外の時間で遅れを取らないよう真剣に勉学と向き合って欲しい。と愚痴るのは果たして野暮だろうか。

 

「キミは部活の仲間より先に自分自身か学校と競うべきだろう。赤点回避が目標なんだから」

「うっ、それもそうか……」

「ボクが言いたいのは、バスケに悪影響が出るかもって気にしているキミを見ての感想だよ」

 

 「……気づいてたのか」伏し目がちに頭をポリポリと掻く彼に強く頷いた。「木曜に走っている時点でお察しさあ」

 ボクの言葉の意図は当然健の勉強時間の話ではない。勉強で割かれるバスケの方に焦点を当てた話だ。ライバルも練習できない状況なら自分が何をしていようとバスケのポテンシャルに差がつくことはない。

 とは言え、全く以て意味のない仮定だ。健のバスケへの熱意はダイヤモンドにも負けず堅いだろうし、学業を疎かにしていた自業自得と言えど彼が勉強会と部活の板挟みになっていることもまた事実。後の祭りだ。

 

「まあ程々になあ。こうしているところを鈴音が見たら、朝イチに一問でも多く解けって言われるぞ」

「あー、クソ。マジでだりぃぜ。なあ浅川、お前が教えてくれたりとかはできねえのかよ?」

「は、ボク? 冗談きついなあ」

 

 小テスト0点のボクに何とも見当違いなご依頼だ。清隆か鈴音から何か根も葉もないことを吹き込まれたのか?

 詳細を尋ねると、案の定二人が口裏を合わせてボクを「平均以上」の学力として通しているらしい。一切合切真実を語られなかっただけいいが、余計なことをしてくれる。単にボクが断固として参加の意思を示さなかったということにしておけばいいものを。昨夜の平田への説明とも齟齬が生じてしまった。

 

「そもそもお前、何で綾小路たちと一緒じゃなかったんだ?」

「まあ色々あるのよ。フクザツなジジョーってやつ?」

 

 「ほーん」野生の勘というやつか、触れて欲しくない内容なのだと察したようで、彼はそれ以上の追究はしてこなかった。

 

「なんつうか、何かあったら言えよ」

「まさかキミにそういう気遣いを受けるとはなあ」

「バカ、友達なんだから当たり前だろ」

 

 真っ直ぐな言葉がスラッと出てくるあたり、彼の人情味ある性格が伺える。彼の厚意をどう受け取るか決めかねたボクは「そっか」と返す他なかった。

 

「なら、言うより前に退学なんてならないように精進しておくれよ?」

「それを言われると痛ぇな……」

 

 「わかった」の一言は無し、か。これはもしかしたら相当差し迫った状況になっているのかもしれない。

 しかし今のボクには何かをしてやれる力がない。勇気がない。立場がない。あらゆる面で、不足している要素が多すぎる。

 その時、突然視界の明度が上がった。健との距離が離れたわけでも、意識が外の方に向いたわけでもない。勿論急にボクの心が晴れやかになったというのも違う。

 健がその方向を見て「おお」と声を漏らす。恐らくボクがこの場にいなくとも呟いただろう。それくらい、自然な感動だった。

 層の薄い雲の隙間から、太陽の輝きが放射状に差し込み、下界(こちら側)に滲み出ている。その神秘的な光景は、意識を凝らしていれば大してレアなものでもないが、どこか人の目を惹きつける力を秘めていた。

 教養の無い人なら、「日光のカーテン」とでも名付けるだろうか。しかし生憎、ボクはその正式名称(正体)を知っていた。

 

「――ヤコブの梯子」

 

 時に、『天使の梯子』とも呼ばれる自然現象だ。起源を辿ると、旧約聖書の初め――創世記にその名が登場する。

 そこに記さている、悲哀を敷いた階段の何たるかを把握しているボクからすれば、それはとても息を呑む程の高揚感を与えるものではなく、寧ろ自身の境遇に嘆きを抱かずにはいられなくなるのだ。

 故に、眩しさに思わず目を瞑るようにして光線を視界から外し、背を向け、健の正面に身体を向ける。

 

「綺麗なもんだな」

「ボクは眩しくて敵わないかなあ」

「でもいいじゃねぇか。『栄光』ってのはそういうもんだろ?」

 

 スポーツマンである彼ならではの見解だろう。大方、高みまで昇り切った先に輝かしい功績やら絆やらが待っている、といった具合か。

 栄光なんてものとこれっぽっちも縁のないボクには合点いかないが、特にふざけた顔もせずに豪語した彼の回答を蔑ろにはできない。然程広い視野を持っていない彼の場合、ボクの考えを聞いたら不機嫌になってしまうことも考えられた。

 

「そうだなあ」

 

 だからボクは、ポツリ、と。

 本当にただ、何の変哲もなく何気なく。

 己の中で禁忌と定めていたはずの行為に、再び人知れず走ってしまった。

 そう気づき小さく絶望したのは、そのたった四音を発した直後のことだった。

 

「……まあ頑張っておくれよ。応援してるから」

「ん? お、おう」

 

 逃げるようにその場を去ろうとするボクを、健は首を傾げるだけで引き留めようとはせずそのままランニングに戻っていった。

 すぐに振り返り彼の姿が小さくなっていく様を暫く見届けていたボクは、目を逸らしたばかりの光を横目に見る。

 もしボクが、健にあの『夢』に似た景色の根源を語ったなら、彼は理解を示してくれただろうか。ボクの望む会話に漕ぎつけただろうか。

 ――それは否、だ。決して解り合えないとか、親愛度が足りないとかの話ではない。そこに存在する、現時点で覆しようのない差異は、偏に……。

 ならば一体、誰が適任なのだろうか。誰なら、ボクとの『意義ある語り合い』を実現させてくれるのだろうか。

 ……そんなもの、決まっている。真っ先に一人の男の影が浮かんだ。肯定してくれるのか否定されるのかは別問題であって、互いの世界をより正確な形で交わし、認識できる関係は、今のところこの学校において彼以外いない。この溺れるかのような信頼は、まるで自分の中で彼を『神格化』しているようにも感じられる。

 それは、ボクらにとってどんな意味を持つのだろう。恐らく、()()()()()()()()善いことではある。核を共有できる、共通理解の成る相手というのは、とても貴重な存在だ。

 ただ、同時に、ボクらを眺める誰か――あるいは世界、あるいは客観に立つボクら自身――からすれば、非常に哀れで残酷なことだと思う。

 この世界にありふれている哀しみも、切なさも、儚さも――感情をしっとりと揺らす数多の淡々とした事象や知識は、時として必要のない絶望を突き付ける。そこに感情の否応を挟む余地は残されていない。流れることなく、ただ忽然と事実のみが浮上する。

 その存在を知覚してしまったボクらは、どれだけ理解されようと滑稽で、どれだけ突き詰めようと空虚なのだ。

 知らなかった頃には戻れない。

 健のように、無知な方が希望を持てることがある。それは決して愚かなことではない。賢愚を分かつのは、何かが欠けたまま抱いたその希望を糧に如何なる結末を迎えるかに依る。

 ボクは自分の中の後悔と恐怖に従って、他人を知ることに執着している。その自覚はあるし、それが間違いだとは思わない。幾度となく傷つき、挫折してしまうとしても、そこから逃げて罪悪感と共に歩むよりかは可能性という温かさの中で果てた方がマシだ。

 しかし、その外に位置するものは別なのかもしれない。大事なものを知らないと過ちを誘うのと同じように、余計なものを知っていると要らぬ苦しみを背負うことは否定できない。だとしたらそれは、非常に辛く、にも関わらず無意味なことだ。

 ――空を、仰ぐ。

 そうすることで真っ先に過る一つの()()もまた、誰もがさも当たり前のように受け入れている『真理』故のもの。それでいて、人の生において実は微塵も引き出す必要のない『知識』。かの名探偵が言い放ったように、それは地動説に匹敵する程の無価値さだ。

 そして、その悲劇を分かち合いたい相手は、徐々に疎遠になっている。

 

『――気に病むことはない。別に二度と会えないわけじゃないしな。話そうと思えばいつでも話せるさ』

『――元々席が近いというだけの偶然から始まった関係なのだし、変化は誤差の範囲で済むでしょう。心配し過ぎよ』

 

 ボクの遠慮と、彼らの後ろめたさ。たったそれだけで、あまりに不確かな約束は脆くも崩れ去ろうとしている。

 わかっていた。わかっていたのに、ボクは何故か再び期待してしまった。

 後悔をするつもりはない。ただ、未練が大きすぎた。その負担はとても耐えられるものではない。

 だからもう、声を上げることも、手を伸ばすこともできないと知りながら――。

 ボクは心の中で、密かに叶わない願いを抱き続ける。

 そうすることが、ボクの贖いと共に救いであるかのように。

 独り善がりだとわかっていても、それが唯一繋ぎとめるのだと知っているから。

 ボクは、一方的な願望で、彼らの心に接続する。

 ――――会いたい。

 『ウソツキ』に成れ果てたボクには、その望みさえも罪だった。

 




『ヤコブの梯子』。ほんのキーワードの一つに過ぎませんが、覚えておいてください。少し後の話で再び登場する名前です。

お待たせしました。ようやく次回から、底辺続きだったオリ主の心に「きっかけ」がたたみかけてきます。今まで本作を読んでくださっているみなさんからすれば案外ビッグニュースかもしれませんね。ここからちょっとずつ、ホントちょっとずつ彼が揺れ動いていく様を見届けて下されば嬉しいです。
気が向いたら、この前言っていた正確な年月日について、次回少し載せてみようかなと思ったりもしています。

オリ主の過去話について(どれになっても他の小話もやるよ)

  • 止まるんじゃねぞ(予定通り,10話超)
  • ちょっと立ち止まって(せめて10話以内)
  • 止まれ止まれ止まれ…!(オリだけ約5話)
  • ちょ待てよ(オリキャラだけ,3話)
  • ムーリー(前後編以内でまとめて)
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