アンデルセンは笑っている   作:小千小掘

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アンケートの状況に絶賛困惑中。作者の原作履修状況やら構想の状況やらを知って尚一年生編の終わりまでを望んでくれているのは、そういう二次が少ないからなのか、本作にある程度期待してくださっているからなのか……ポジティブに受け取っておくとします。

「人間には三つの顔がある。一つは自分の知る自分。二つ目は他人が知る自分。もう一つは、本当の自分」
(『高校教師』羽村隆夫)


インディケーター

 浅川恭介、高円寺六助両名の事情徴収及び経過観察から十分後。

 高度育成高等学校・理事長室にて。

 

 二人の――と言っても形式的なもので、実際は全て浅川のものだ――新たな証言を頭の中で整理し、次の行動を考えている内に理事長室に着く。

 これから再び始まるであろう頭痛不可避な時間に溜息を零し、雨宮は乱暴に扉を開けた。

 

「終わりましたか?」

 

 迎えるのは当然、この胡散臭い男の顔だ。

 

「はい、おかげ様で。この学校は過ごしにくいって話で盛り上がっちゃいましたー」

 

 明らかな風評被害だが、それでも尚柔和な笑みを崩さない彼に、雨宮の中で一層不快感が募る。

 

「確かにうちは特殊性が強いですが、慣れればそう窮屈なものでもないかと思いますよ」

「どうだか。そもそもあたしはここの在り方に納得がいかないよ」

 

 「ほう」どうやらきちんとした理屈を以て否定しているらしい雨宮に、坂柳理事長は僅かに興味を示す。「例えば?」

 

「ここに来る途中――サークルか何かかねぇ――教室からワイワイ騒ぐ声が聞こえてきたよ。『一万賭けよう』、『五万勝った』、『十万負けた』。天下の進学校は、将来闇カジノの常連さんでも育成する気なのかい?」

 

 敵意まで感じるお咎めに、彼は淡々と耳を傾ける。

 

「監視カメラの死角なら何でもありって? そもそもありあまる資金と資材があるくせに態々死角を作っていること自体、あんたらの悪意が丸見えさ。てか杜撰な連中は普通に見張られてる部屋でも良くない方法でポイントの取引を――」

「それに何の問題が?」

 

 「は?」突然遮るように問いをぶつけられ、困惑の混じった間抜けな声が漏れる。

 

「実際の社会でも行われていることですよ。正義の目を搔い潜り巨万の富を築く場所は多かれ少なかれ存在しています。ここで行われていることを追及するのであれば、まずそちらの方を取り締まるべきでは? 何せ我が校は、限りなく現代社会の構図を再現し、将来その舞台で生徒が高みへ昇るための実力を測っているのですから」

 

 彼の言うことは、その実間違ってはいなかった。

 警察の手に負えない事件。追ってはいけない事件。追われる事件。本来模範となり悪を糾弾しなければならない立場の人間が、法に触れないグレーな範囲で悪行を働くことがある。その数は雨宮や風見のような善良な役人が対応するにはあまりに枚挙にいとまがない。

 ただ、それでも彼女は反論する。

 そもそも彼女がつけたい『いちゃもん』は、そんなところにはないのだから。

 

「……私がガキだった頃はねぇ、今よりもっとゆるゆるな規制だったよ」

「……?」

「先公の目だけがセキュリティ。見張りさえ立てときゃ酒も煙草も安心して嗜める。私の肌には合わなかったが、確かに横行していた『犯罪』だった」

 

 意味のないことだとはわかっている。だが、意味がないからこそ、堂々と直談判しようが何ら問題はない。

 雨宮は、そういう卑怯とも取れる大胆さを持っていた。

 

「それが段々今みたいになっていって、昔の波にさらされたままだった連中は少しずつ生きづらくなっていった。――生きる社会が変わったからさ」

 

 雨宮は無意識に固く握っていた拳の力をフッと緩める。

 

「社会風刺? 大いに結構。だけどね、私からすればここにそれ以上のものはない。もしここで優秀だってもてはやされた生徒が、いざ表舞台に上がって俗に言う『悪いこと』ばかりをし始めたら――あんた、責任取れんの?」

「それは自己判断ですね。そういう社会を学んだ生徒が自制心に欠けてしまった。ただそれだけのことですよ」

 

 社会の裏を知ったのなら、その毒に浸からないようにすればいい。一見正当な意見だ。

 しかし、と雨宮は思う。この学校で最も手軽に利益を得られるのが毒を振るう者となってしまっている時点で、やはり容認できないのだ。

 聞けば、三年間の中で幾度にも回数を重ねる『試験』とやらで異常に厳しい条件によって退学を命じられる生徒もいるのだとか。

 事前に知らされていない情報のせいで将来を潰される。それを一つの『教育機関』に過ぎない場所が体現するのは、あまりに理不尽で、無責任ではないだろうか。

 

「あんたは勘違いしているようだね。ここはあくまで、『社会』じゃなく『学校』だよ」

 

 社会の縮図の中で生活を送らせるのみで、教育とは事足りるものなのだろうか。

 淘汰され排除されるという残酷さまでそのまま再現させてしまったら、それはすなわち教育を受ける機会の剥奪だ。

 いつからこの場は、子供たちのささやかな権利を乱暴に踏み躙られるほど偉くなったというのだろう。

 

「――本来教育者が示すのは、『今の社会を生き抜く悪知恵』なんかじゃないでしょう。『より良い未来をつくる可能性』なんじゃないの?」

 

 時代は常に変遷する。同時に正義や風潮も。

 それは決して悪いものばかりではない。善い変化もあったからこそ、過去より優れた今がある。歴史がそう証明している。

 ならば、そういう未来を型作り、豊かに生きる術こそ、最も教育させるべきものであるはずだ。

 

「……『練馬の女鬼』と呼ばれたあなたが、案外綺麗ごとを吐くのですね」

「ケッ、廃れた渾名で呼ぶんじゃないよ。赤の他人が付けた二つ名なんて勲章にもなりゃしない」

 

 正直、琴線に触れるレベルの発言だった。ただ、恐らく彼はそんなことを露にも知らないのだろうとギリギリ理性を働かせる。

 しかし、代わりに言ってやらなければならないことがあった。

 

「いいじゃない、綺麗なんだから。不可能でもない限り、貫きゃ立派な信念よ」

 

 否定する言葉が見つからなかったからだろうか。理事長は暫しむつかしい顔をしていた。

 

「…………心得ておきましょう」

 

 

 

 

 外へ出た時には、もう日の入りが始まるところだった。

 今日は近くの店で腹を満たそうかとプランを決めたところで、風見が話しかけてきた。

 

「ヒヤヒヤしましたよ。まさかトップに楯突くなんて」

 

 セリフの割には飄々としている。それだけ、彼は何度も彼女のそういう部分を見てきているのだ。

 彼もまた、随分と毒されてしまっている。

 

「どうせ何言ったって変わらないでしょ。規模がデカけりゃデカい程、あたし一人の言葉なんて大した影響力も持ちゃしないよ」

 

 「あたしゃしがない臆病もんさ」とふてくされる彼女に、風見は「どの口が」と返す。当の本人としても、さすがに自分がそこまで気の小さい女だとは思っていなかった。

 

「案の定でしたね、恭介君」

「世話の焼ける小僧だねぇ、全く」

「でも驚きました。先輩、今までとスタンスを変えてきたんですから。ああいう関わり方もできたんすね」

「……うっさい」

 

 軽く小突くと、彼は「あべしっ」と苦悶の声を漏らす。

 ――急に敏くなるんじゃないよ。

 蓋し彼の言っていることが事実なだけあって、雨宮らしくもない照れ隠しだった。

 

「難しい時期だよ。あの年にもなれば、頼ることと背負うことの塩梅を考え始めなきゃならない。今の時代じゃ、特にね」

 

 以前までの彼女――放火事件後の彼女なら、浅川にはもっと具体的なプロセスを提示していた。正しいか間違っているかはこの際問題ではない。そうでもしなければ、恐らく何も選ばなくなると感じたからだ。

 だがそろそろ、次のステップへと上がらなければならない。

 

「高校ってのは、間違えながら識る場所さ」

「先輩も、何度も間違えてきたんすか?」

「んなわけなかろう」

 

 「デスヨネー」雨宮は基本的に一度たりとも失敗という失敗をしたことがない。無論、『成功の途中』と言い訳する経験さえ。

 持ち前の嗅覚とセンスは、天賦の才としか言いようがないだろう。

 

「大人になるってのがどういうことなのか。あの子はそろそろ学ぶはずだよ」

「当然でしょうね。あなたの意志を継いだ彼なら、いつか自ずと理解してくれるはずっすよ」

 

 伊達に一年間つきっきりでスパルタな指導をしてきていない。文字通り身体にまで雨宮の教えが叩きつけられている浅川なら、きっと最後には上手く乗り越える。

 彼と、自分の手腕には、絶対的な信頼があった。

 

「ところで、この後どうするんです?」

「飯」

「捜査っすよ……」

 

 「ああ」イマイチ考えは纏まっていないが、取っ掛かりはある。

 それらを紐で繋ぎ、当たる場所を絞っていく。

 ……どうすっかなあ。

 候補は二か所。しかしどちらも収穫を得られるかは五分であり、片方に至っては――。

 雨宮は懸念を抱きながら、風見の間抜け面を見る。

 

「ん、どうしたんすか?」

「……フジ。もしかしたら今度は、あんたの力が必要になるかもしれない」

「え? おお、マジっすか! 腕の見せ所ってやつっすね」

 

 意気込みは上等。後は彼が本当にそれ相応の力量を具えているかに懸かっている。

 

「で、僕の活躍の場は一体どちらに?」

「それは――――『病院』だよ」

「へ、病院?」

 

 雨宮は頷いた。

 

「恭介君の証言にあった、記憶が抜け落ちているってやつさ」

 

 記憶喪失自体には今疑惑の目を向けても仕方がない。こればかりは浅川の感覚と物の言い様に委ねるしかないからだ。

 しかし、もし自身の過去――事件のことを覚えられていないのだとしたら。

 咎めるべきなのは、その事実を診断できなかった連中だ。

 

「あんたには、恭介君の『診断記録(カルテ)』を検証してもらう」

「なるほど、僕の出番っていうのはそういうことっずね」

「できそうか?」

「任せてください。殊、脳においては得意なんで」

 

 記憶の障害なら、異常をきたしているのは脳の可能性が高い。

 風見は理系の知識が豊富だが、中でも脳科学については優れていた。

 

「何だってあんた、そんなもんに詳しいのよ……。マッドサイエンティストでも目指してるの?」

「違うっす――あ、でも、影響は受けましたよ」

「え、マジか」

 

 ちょっと引いた。

 以前にも同じ人物について話を聞いたことがある気がする。確かその時はノリノリな中二病だとも語っていたはずだが……類は友を呼ぶらしい。風見のマッド気質な友人とやらには、金輪際出くわさないことを密かに願った。

 

「他には?」

「あとはー……浅川夫妻の別荘、かな」

「ついに現場検証っすか?」

「いや、どっちかって言うと情報収集の一貫だね」

 

 恐らく現場検証は既に他の人員が済ませているだろうし、もうとっくに証拠品などは回収されて規制は解除されているはず。

 雨宮の目的は別にあった。

 

「浅川夫妻には、何か秘密がある」

「恭介君が最後に言っていたやつっすか」

 

 それも勿論だが、やはり全体を通して謎が多いというのが正直な意見だった。

 浅川兄弟と深山の交流は認知していたはずだ。だからこそ屋内へ招き入れた――。

 そこから深山が暴走するまでに、一体何が起きたのか?

 放火事件直後の様子からして、深山の方に何か問題があったようには感じられなかった。彼女を豹変させる何かがあるのだとしたら、それはやはり浅川夫妻の方なのではないだろうか。

 それに、雨宮の疑問はもう一つあった。

 

「あとね、多分だけど恭介君(アイツ)、両親のことがあまり好きじゃない」

「……やっぱそうっすか」

 

 これには風見も気付いていたようだ。

 最初に両親の死を告げられた時、確かに浅川に動揺は見られた。ただ、もう少し錯乱なり嗚咽を漏らしたりしてもいいのではないだろうか。

 実感が湧かなかっただけという可能性もある。だが、深山と新塚のことを聞かされた時の反応や経過観察での感情の起伏を見る限り、やはり両親に対する思い入れの薄さが感じられた。

 雨宮としては、いっそ恨んでいるのではないか、とまで考えている。彼が恨みによる犯行という線を自力で考察した(その冷静な思考をした事実にも、多少ながら驚いた)際に信じられないというよりは合点のいったような表情をしていたからだ。

 

「彼が立ち入ったことのないあの場所なら、何か手がかりが残っているのかもしれない」

「刑事の勘ってやつっすね。ドラマの見過ぎっすよ」

「それはあんたでしょうが」

「褒めてるんすよ。先輩の勘は、ドラマ並に当たりますから」

 

 それで褒めているのだとしたら相当褒め下手だ。雨宮は今日何度目になるかわからない白い目を彼に向けるが、鋼の精神故かあまりの鈍感さ故か全く気にも留めない。

 

「親に愛されたことのない少年っすか。それで最愛の弟を失い、大切な友人が手を血に染めたともなれば、あんなに脆くもなりますよ」

 

 言葉にすれば、相当悲惨な環境だ。

 恨む程の親嫌いというだけでも心の痛むことであるのに、彼の経験は同い年の間では極端に起こる確率の低い出来事だ。

 そんな彼の傷ついた心を、一体誰が癒せると言えよう。

 故に、恐ろしくもある。

 

「だから不安なのよ」

「何がっすか?」

「本来離れなきゃいけないはずのものに、今更甘え始めちゃうような気がしてね」

 

 そう、必要であったはずのものを、彼は得ることができなかった。

 それを見抜くことができたから、雨宮は今まで何とかその代わりを担ってきた。

 しかし時間は待ってくれない。無情にも高校生となってしまった彼は、誰よりもその立場に似合わず赤子なのだ。

 一見心地良く、正しいもののように見えて、決して呑まれてはならない毒酒。

 何より恐いのは、与える側もその愚かさに気付けないということだ。

 

「願わくば、誰もその『役』を引き受けないで欲しいものだねぇ」

 

 彼女の嘆きは当然、届くべき人の耳には届かなかった。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 今の時間帯、人の姿が確認できる場所は限られている。

 テストに備えたい勤勉家は教室、図書館、寮。部活動に励む努力家は特別教室、グラウンド、体育館。気分転換や現実逃避を実行する浮浪者は施設の並ぶ街中。各々が目的に沿った場所に身を置いている。

 故に、ボクと同じように帰路を辿る高校生は一人もない。

 遠くからの喧騒すらも聞こえない道を気怠げに進んでいく。

 部屋にたどり着くまでの十数分は、やけに長く感じられた。

 鍵を開けて中へ入ると、何故か人の気配がした。

 

「お邪魔しています。浅川君」

 

 そこで初めて、今日がその日だったことを思い出す。

 

「お疲れ様、椎名。隆二と真澄は?」

「部屋に帰りました。二人共、前と同じ時間まで浅川君のことを待っていたんですよ」

 

 無垢なふくれっ面からは怒気を感じない。手のかかる子だと呆れられているような気がする。

 椎名の手には『盗まれた手紙』が握られていた。『マリー・ロジェの謎』から続くエドガー・アラン・ポーの作品であり、推理小説界の最高峰としても名高く、例にもれず後世の多くの推理作家に多大な影響を与えている。

 

「キミは帰らないのか?」

「はい……何となく、いるべきかと思いまして」

 

 どこか哀愁を乗せた表情で彼女は答える。

 本当にただの漫然とした判断だったのだろうか。思いつきにしては大分儚げなご様子だ。

 もしかしたら、自分がいつまで経っても現れないことに対して何か予感めいたものを抱いていたのかもしれない。

 

「どこへ行っていたんですか?」

 

 水を用意し始めると、そんなことを訊かれる。

 さすがに「警察と話をしていた」なんて物騒なことは言えない。折角あの茶柱さんでさえ内密にしてくれているのだから、態々ボクから明かすことはないだろう。

 当たり障りのない答えを返す。「先生と相談事」

 

「何か悩み事ですか?」

「大したことじゃないよ。もう問題ない」

 

 事実だけを淡々と述べる。ボクは確かに自分にとっての『先生』に『相談』に乗ってもらっていたのだ。

 喉を潤してからキッチンに向いていた体を彼女の方に翻すと、未だ晴れない表情が視界に飛び込んできた。

 

「そう、ですか……」

 

 震えるような声が、鼓膜を揺らす。

 その時、つい先刻この胸に留めた先生の言葉が脳裏を過った。

 

『あんたが怯えているより、ずっと世界はあんたに親切だよ』

 

『あんたにも、寄り添ってくれる物好きはたくさんいるさ』

 

 ……ああ、そうか。やっとわかったよ。

 キミも、ずっとボクのことを見ていてくれていたんだな。

 なら、これからボクがどうすべきか。今はもう、その答えは知っている。

 

『絶対に応えなきゃいけないものじゃない。だけど、きっと応えた方が、ずっと安心できるんだ』

 

 最初は怯えながらでもいい。だからまずは、ゆっくりと一歩近づこう。

 そうすればきっと、この人なら応えてくれるから。

 

「…………なあ、椎名」

 

 名前を呼ばれ、彼女は俯いていた顔を上げる。

 悲しみを映す目が、今はよく見えた。

 彼女にこんな顔をさせたのは、他でもないボク自身。ならそれをやめさせるのも、ボクであって然るべきだ。

 

「俺の話を、聞いてくれるか……?」

 

 俺は、この学校で初めて、『友達』に助けを求めることにした。

 

 

 

 

 

「聞かせてください」

 

 椎名は一瞬だけ目を見開いたが、こちらの表情を見るなり真剣な表情で――しかしどこか嬉しそうに耳を傾け始めた。

 

「と言っても、他クラスの人間に相談するのは本来憚れることなんだけど」

 

 そう、これは見方によってはクラス規模の話になる。

 ただ、椎名があまりクラス対抗戦に熱意を抱いていないことと、ボク自身この問題をそういう目で見るつもりがないことから、彼女を相談相手に選んだのだ。

 

「実はさ、中間テストやこれからのイベントに積極的に関わるか、ずっと迷ってるんだ」

 

 これまでずっと独りで抱え込んできた――清隆にさえ真面に打ち明けなかった苦悩を、赤裸々に語る。

 

「ボクのことを必要だと言ってくれた友達がいるんだ。最初は独りが好きだと言って他人を遠ざけていたのに、やっと頼ろうとしてくれた人が。その人の言葉がなければ、きっとこうやって悩むこともなかったと思う」

「……きっとその人も、あなたと関わっていく内に変わったんでしょうね」

 

 否定はしない。ボクは頷いた。

 ただ、ボクだけではないのではとも思う。一番最初にボッチルート一歩手前な姿を晒していたらしい清隆の言動もまた、鈴音に少なくない影響を与えていたはずだ。ボクのいないところでも――今なんかも――そういうやり取りが行われているのかもしれない。

 いずれにせよその変化でさえ、ボクは今まで他人事のように思ってきたのだ。

 

「しかしあなたは、尚も踏み出せないままでいる。一体、何があなたをそうさせているんですか?」

 

 椎名が続きを促す。ボクは躊躇しながらも、ゆっくりと胸の内を明かしていく。

 

「完璧な人間なんていない。この三年間で、きっとどこかで間違える。そうなった時、ボクには四十人分の責任を取る勇気なんてないよ」

 

 少しだけ前向きにはなれたかもしれない。だが、それとこれとは別問題。失敗が他人のこれからに響くということに、変わりはないのだから。

 

「なら……浅川君は、どうしたいんですか?」

「ボク、は…………」

 

 黙り込んでしまったが、わかっていた。ボクは彼女に協力したいと思っている。投げやりになっていたにも関わらず心のどこかで引っ掛かりを感じていた、今までの自分自身が証拠だ。

 ならば、相反する『したい』が存在する時、人はどうすればいい?

 

「――浅川君は、優しいんですね」

「は……?」

「なかなかいないと思いますよ。『責任』なんて曖昧なものをそこまで真剣に考えて、他人のために悩める高校生は」

 

 そう、かもしれない。

 でもそれは、高校生だから褒められることに過ぎない。大人になるに従って誰もが感じ取り、抱えるようになっていくものだろう。

 それに――、

 

「違うんだ。椎名」

 

 きっぱりと否定したボクの顔を、彼女は見る。

 

「ボクは怖がりなだけだ。ボクにとって、自分を否定されることは無視されるより辛い。だって、自分すら肯定できていないんだもの」

 

 存在証明が他人に依るなら、不存在の証明だって自分以外の誰かにされるはずだ。

 先生の言葉で整理がついた今だからこそ、はっきりと答えられる。

 自分のことを見つめられないから、他人のこともわからない。同じように、他人が自分をどう思っているかもわからない。それが筆舌に尽くしがたい不安となる。

 その弱さにすら、向き合おうとしてこなかった。

 

「椎名、ボクはどうすればいいんだろうね。どちらを選んでも、きっと不幸だ……」

 

 やはり知らない方が幸せなことはあるのだ。他人のことを気にも留めずに(かしら)を名乗れる無鉄砲さを持つ人が羨ましい。他人を道具や駒としてしか見れないやつが羨ましい。

 感じられない人も、感じぬフリができる人も、酷く妬ましい。優しさに満たない臆病さが、心を蝕んでいく。

 不幸しか選べないなら、人と関わりながら生きる意味は何だ?

 

「……浅川君」

 

 燻ぶる思い、蔓延る疑問、癒えない傷。

 ボクの中で主張を続けるそれらに何か一石を投じてくれるかもしれない彼女の呼びかけに、ボクは縋るような目を向ける。

 

「『詩は詩のためにのみ書かれたものこそ至高である』」

「それは……」

 

 唐突なセリフに面食らってしまったが、ボクはそれがどういう言葉であるかよく知っていた。

 彼女よりも前から、知っていた。

 

「『詩の原理』、拝読しました。自分が好きになった本を書いた人がどんな考えを持っているのかを識るというのも、面白いものですね。少しだけ、良さがわかったような気がします」

 

 半月ほど前のことだ。ボクは椎名からポーの評論『詩の原理』を読みたいというオーダーをもらっていた。回してから一週間ほど経つが、知らない内に読了していたようだ。

 して、その内容はと言うと、

 

「いかなる道徳的なものも排除し、ただ己の魂のみに委ね、詩の探求はそれ自身で正当化されなければならない。そこには、信仰も憐憫も――愛すらも溶け込まず、独り立ちしたものである。過激ではありますが、間違いなく一人の作家としての熱意が感じられました」

 

 彼女の説明はまさしく要点のほとんどを抑えたものだ。

 そして、彼女は知らないかもしれないが、この考え方は案外広い分野で知られている。

 「芸術のための芸術」という標語を掲げたテオフィル・ゴーティエ(一時画家を目指しこの言葉を生み出した彼が最終的に小説家に収まったというのも奇妙な因果だ)、耽美主義の代表として名高いジェームズ・マクニール・ホイッスラーなど、文学という枠組みを超えて共有されている信念だ。

 そのパイオニアを担っているあたり、ポーの文学に対するアプローチの斬新さも極まっているというものだろう。

 そこまで理解していたボクだからこそ、椎名の伝えたいことを察しハッとした。

 

「人生は、一つの物語です――あなたの、物語です。そこで第一に考えなければならないのは、あなた自身の魂なのではないでしょうか」

 

 そう語り掛ける彼女の優しさは、確かにボクに向けられたものだった。

 

「人は自分の物語の主人公だと言う人もいますが、私はそうは思いません。誰もが等しく作者なんです。ストーリテラーは、その魂に従い物語を書き連ねるべきだと、私は思います」

「でも……誰からも愛される作者はいないよ。とても大勢の前で見せびらかせられる代物にはできない」

「前に言っていたじゃないですか。あなたの感性は凡人には理解し難いんですから、仕方のないことです」

 

 まさか過去の何気ない会話で零した失言を拾われるとは。やはり彼女は恐ろしい。

 ただ――そんな一幕まで覚えてくれていた彼女のことを、少し嬉しく思う自分がいた。

 

「――それに」

 

 だから、次に届いた言葉を、今度はちゃんと信じて受け入れようと思えた。

 

「あなたにどんな不幸や逆境が訪れたとしても、私があなたを肯定します」

 

 前にも聞いたことのあるはずのそれは、今回も、ボクの中で渦巻く全てに応えるアンサーだった。

 安心させるように優しく手を包む彼女と目が合う。

 

「だから、あなたの心を隠さないでください。自分と向き合うことを、恐れなくてもいいんです」

 

 伝わる体温がわだかまりを溶かし、冷めきっていた何かに熱を与える。

 知らない感覚はとても心地良く、身を委ねたくなるものだった。

 ――肯定する、と言ってくれた。

 その想いを、もう無視するマネはしない。

 躊躇う必要なんてない。

 ボクはもう――大丈夫だ。

 

「…………ありがとう、椎名」

 

 顔を綻ばせ、恩人に礼を言う。「ありがとう」

 

「当然です。私は浅川君の友達ですから」

 

 素直にそう答える彼女の表情に羞恥心の影はない。こういう純粋さもまた、魅力の一つなのだろう。

 一つの決心がついたボクは徐に立ち上がり、玄関へと向かう。

 

「今から動くんですか? もうだいぶ日は落ちていますが」

「善は急げさ。今のこの思いを、できるだけ忘れない内に伝えたいんだ」

 

「なるほど」ボクの判断に、早速彼女は賛成してくれるようだ。「いいと思いますよ」

 ドアノブに手をかけたところで、ボクはもう一度椎名の方を振り返った。

 

「じゃあ、行ってくる。今日はもう、帰って大丈夫だよ」

「長くなるかもしれませんからね。浅川君の言う通りにするつもりです。次会える時まで、良い報告を待っています」

 

 そうだ、次がある。彼女が支えてくれている。

 心配要らないさ。

 玄関を飛び出し、エレベーターは使わず階段を下りる。

 駆け足気味になりながら端末を取り出し、手慣れた動作で連絡帳を開く。

 一番に、心を聞かせたい相手――。

 話をしたいのは、やはり盟友()だ。

 指定の欄をタップし、通信を開始する。

 一回、二回、三回……と規則的に流れるコール音は、少々じれったい。

 

「……もしもし」

「……! 清隆」

 

 抑揚のない声が鼓膜に届いた。どうやら相手は外に出ているようで、風の音が混じっている。

 

「この後、時間あるか? 話があるんだ」

「……ああ、構わない。オレもちょうど、お前に話ができたところだったんだ」

 

「それは……」予想外の返しに言葉に詰まる。「その、奇遇だな」

 お互い声音には僅かな緊張が乗っていた。彼とこうして言葉を交わすこと自体一週間と空けていないが、状況が状況であるだけ気まずさがある。

「いつどこで会う?」清隆が無言の時間を避けるように訊いてきたので便乗する。「できるだけすぐに。場所は――」

 必要なことだけ通達し、すぐに通話は切れた。

 清隆がボクとしたい話。どことなくその内容を察してはいるが、それが事実なら、彼の方でも決意を固める何かがあったのだろう。

 互いに万全。僥倖もいいところだ。これで心おきなく向き合える。

 前へ前へと動かす足が、自然と速度を上げる。

 さあ、あと少しだ。あと少し。

 吹き抜ける風は追ってこようが向かってこようが関係ない。悠々と、昏く沈んだ景色の中を進んでいく。

 悔恨も罪も残り続けるのだとしても、もう自分の物語を描く『責任』から逃げたりなんかしない。

 

「『僕』はもう、大丈夫だ」

 

 見上げた星は、闇の中で美しく輝いていた。

 




僕、ボク、俺の使い分けはお察しの通り重要な要素です。因みに自分という呼び方もある程度使いどころを考えています。

どこまでやる?

  • 船上試験&原作4.5巻分
  • 体育祭(ここまでの構想は概ねできてる)
  • ペーパーシャッフル
  • クリスマス(原作7.5巻分)
  • 混合合宿or一之瀬潰し
  • クラス内投票
  • 選抜種目試験~一年生編完結
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