一応これまで作者やメインの二人が提起してきた一つの問題の核心に触れたつもりです。答えを直球で書くつもりは今のところありませんが、時と場合ですね。
ぼんやりと、果てのない青空に意識を囚われる。独りで黄昏れるのも、この学校に来て初めてのことだ。
誰にも見せない冷徹な瞳は、世界を覆う天井と同じくらい透明で、虚しくて、乾いている。
一羽のはばたきに、視線が動く。自慢の翼が傷ついているのか、覚束ない飛行だ。あるいは、不慣れなだけなのかもしれない。
彼もさっきまで、魅入られたように見上げていた。不格好でも自由に飛びたいと願う雛鳥は、あまりに無邪気で恐れを知らない危うさが覗いていて。自分と同じようで、少し違う。彼は自ら向かうことを望んだが、自分は投げやりに吸い込まれることを期待してしまっている。
あの少年には、それさえもお見通しなのだろうか。
「…………何よ、全く」
喉に負担をかけない低い声で、恨みのこもった言葉を零す。
綾小路がこちらの助言のお返しと言わんばかりに残した言葉が、頭の中を駆け巡る。
『――桔梗。人は、変われるぞ』
何となく、それは本人の経験則から発されたものだとわかる。初めは根暗で陰キャで気持ち悪い男だと思っていたのに、着実に友人を増やし、進んで問題と向き合い、あの堀北もわずかとはいえ確かに心を開き始めている。
ひとえに、浅川の存在のせいだろう。浅川と過ごす時の彼は一層楽しそうだった。表情ではわかりにくいが、これくらい察せなければ自分はクラスからの人気を保持できない。
所詮は余計な押し付けだ。彼は自分の変化を良いものだと思っているようだが、そんな都合の良い話ばかりではない。それに……自分は十分幸せなのだ。
「……」
――変わる、必要なんて。
そう心に唱えても、印象に残っているという事実に嫌気が差す。まるで図星を突かれたようではないか。
ただちょっと、驚いただけだ。不意にあんなことを言われたから。
…………前触れもなく、見透かされたようなことを言われたから。
綾小路のことは決して好きではない。そもそも本当に好きな相手などほとんどいないが。ただ、負に偏った感情は大体堀北のせいであり、彼自身に対してそこまで不快感はなかった。
自分に何度か深刻な相談をしてくることは、やはり信用されていると感じ悪い気はしない。しかしそれ以上に、彼がそうやって自分の助言した通りに育ち成長していくのを見て、込み上げる充足感は初めてだった。
ただの友人と言うには少しだけ物足りない、不思議な感覚だ。
そのせいか、段々と綾小路を個別に認識し始めた。そしてそれを無意識に誤魔化し、櫛田はあまり琴線に触れない綾小路を『他人に無関心だから』だと結論づけた。今の櫛田には、変わらなくていいと答えるしか、術を見いだせなかった。
だから次に去来するのは、堀北への憎悪だ。
綾小路と関わるために、堀北の存在は鬱陶しい。かと言って退学にさせる手段もない。なら、こちらが打てる手は一つだ。
――
彼の心を連れて行く。綾小路も自分と同様に本来の姿を隠しているはずだ。その一面は、堀北にも見せようとしていない。寧ろそうしないよう躍起になっている。付け入る隙があるならそこだ。
……ただ、もし彼が自分の過去を堀北から聞いているなら然るべき対処をするしかない。堀北が打ち明けているかどうかは五分五分といったところ。それを探るためにも、綾小路に接近する。
黒い思考を終え、大きく伸びをする。
焦ることはない、今のところは待つのが得策だ。恐らく人間関係の問題について、綾小路は自分を最も信頼している。彼がコンタクトを取ってきたタイミングがチャンスだ。
そうして打算的な感情に逃げ込んだ櫛田だが、彼女はようやく気付いた。
自分の一連の思惑は、綾小路の一言から始まっていることを。
彼の言葉は、確かに彼女の心を揺らしている。
「……あぁ、やっぱムカつく」
苛立ちが、彼女を勢いよく起立させた。
変わった先に何があるのか、彼は教えてくれなかった。本人も知らなかっただけなのかもしれないが、変にはぐらかすような言い回しは腹立たしい。
だが僅かに、自分が終わりのない偽りから抜け出して、それでどうなるのかは気になった。今までそのような可能性を、考えたことすらなかった。だって、あり得ないと切り捨てていたものだから。
自分はずっとこのままでいい。このままがいい。みんなのことが好きで、みんなに好かれる人気者。それが私。
けど、そもそも自分がその道を選んだのは、それしかないと思ったらからで……。
相反する感情が混じり合い、ぐちゃぐちゃになる。それを何と呼べばいいのか、至極簡単な疑問に、櫛田は答えを出せない。それがちっぽけなプライドのせいであることもわかるはずがない。
いよいよ脳内で処理しきれなくなった櫛田は、一度思考を放棄する。そうして導き出した結論は――。
「……今はまだ」
夏すら見えていない。時間はある。堀北とてすぐに自分の過去を白日に晒す真似はしないはずだ。そのクラスへの悪影響を理解できないはずがない。
自分がどうすればいいのか、何を選ぶのか、――何をどうしたいのか。整理して分別がつくまで、決定的な答えは待っておこう。
階段を下りる櫛田の顔は、とても自問自答を終えたとは思えないほど曇っていた。
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宿主が出て行くのを見届けて、椎名は手元の本に目を落とす。
『詩の原理』、そこに書かれた一節を提示することで、椎名は浅川を諭すことができた。
ようやく願いが一つ、叶ったことに安堵する。さすがに嬉しさは誤魔化せない。
もらってばかりだった。時間を共有する喜びも。ホワイトルームという居場所も。自分がこの学校で幸せを感じる瞬間は、いつだって彼のおかげだった。
彼がいなかったとしても、きっと不都合はなかったのだろう。今まで通り程々に本の世界に耽り、静かな時間を嗜む。もしかしたら浅川ではない誰かと出会い、別の形で他人との幸福を噛み締めることもできたかも。
だが所詮、『もしも』の話だ。今ここで何かを思う自分以外に知りようはない。幾重にも重なる帰路を経て、自分は確かに幸せだと――彼と出会えて良かったと心から言える。
その恩を、何かしらの形で返したかった。自分が彼にしてやれることはないのかと考えた。そんな時だった。ふと、彼が思い詰める表情を見せるようになったのが。
彼には申し訳ないが、都合がいいと思ってしまったのだ。少なくとも、椎名の方から浅川に「恩返しがしたい」と口にするつもりはなかった。きっと彼はそれを望まない、だから、正しく自分の、ただの『ワガママ』だという自覚があった。他人に対してそんなささやかな傲慢を抱いてしまうのは初めてのことで、人知れず動揺したのはごく最近のことだ。
自分に手を差し伸べてくれた優しさで、彼が彼自身を傷つけて欲しくなかったから、椎名は決して、彼に甘えようとは思わなかった。
クラスどうしの戦いが表面化した時点で、この関係は終わってしまうのだろうと嘆いていた頃が嘘みたいだ。寧ろ繋がりの輪が広がっていることに、やはり浅川の第一印象は間違っていたのだなと確信する。
時折見せる、自分を見失ってしまったような虚ろな表情。それは幾度となく、椎名の中の浅川の人間像を歪ませた。何を抱えているのか、何を考えているのか。それもまた、彼への関心を膨らませる要因になっていたわけだが、それは浅川自身には不幸だったのだろうが、椎名にとっては哀しいことに僥倖だった。
歩み寄るきっかけを得られたのだ。こうして、彼を救う一言をかけてやれたのだ。
本の表紙を、慈しむように撫でる。
「――詩は詩のためにのみ書かれたものこそ……」
浅川は疑問を挟まなかったが、自分が咄嗟にこの言葉を贈れたことには理由があった。単純な話、思うところがあったのだ。どうしてかとても、自分の心に響いた。
人生という長い詩を、他でもない自身のために紡ぐ。そうでなくては娯楽にも劣る茶番だ。
浅川はあまりに他人のことを想い過ぎる。自分の苦しみも厭わない。戒めるように「自分が幸せかどうか」と再三語る口調は、ただ己に言い聞かせているように感じていた。最初からではない、きっかけは五月に入ってすぐの図書館。
『君さえ迷惑じゃないって言うなら――』
『君との時間は、とても楽だ』
今ならわかる。あの時の違和感が。それは、初め自分が浅川のことを誤解していた何よりの証拠だった。浅川ならそんなことを言わないはずだと思ってしまった。
彼は他人の幸せを自分の幸せなのだと、
本当はもっと、恐ろしい程に『利己的』な人間なのだ。
……本人がそのことを自覚しているかは知らないが。
「私は……」
だからこそ、迷いもした。距離を置くべきなのか。クラスの隔たりを言い訳に、離れた方が彼は幸せなのかもしれない。自分の存在が、彼を傷つけることになるのなら……。
だけど、そうしなかった。できなかった。
自分のワガママを抑えられなかったのか、彼の何かがそうさせたのか。今はその選択が正しかったことを祈るしかない。浅川を諭した選択も。
せめて後悔しないように、選んだ道を全うするしかない。
彼が望んだことをしてあげよう。それが自分の幸せになるかどうか、疑っても意味がない。
その決意に伴って、また一つ確信する。
彼とはもしかしたら、生涯最高の友人になれるかもしれない。今後の関わり次第で、一生続く縁になるのかも。特に自分を褒めることはしないが、彼の十分な理解者だと誇れるようには――。
しかし、少なくとも……。
あの少年を体現したような――いや、正反対の。どこまでも白く、清々しい程濁りのない部屋の中。
「…………行ってらっしゃい、浅川君」
少なくとも私には、
番外編第一弾(題はナイショ)
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六月下旬(1章~暴力事件)
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七月下旬(期末テ⦅暴力事件⦆~三巻)
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八月中旬(四.五巻前後)
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夏休み以降の時系列がいい
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やらない