アンデルセンは笑っている   作:小千小掘

75 / 129
幕間―魔都―
特殊事件専門監査署


「んあああぁぁぁだっっるうぅぅ」

 

 紙束の地獄と化したデスクに、雨宮は悲鳴をあげながら突っ伏していた。

 相棒である風見が、そっとコーヒーを差し入れる。

 

「根を詰めすぎっすよ。休んでください」

「こんなつまらん足止めくらってる暇なんてないんだよ。あれはあたしの――」

 

「ダメっす」いつもより真面目で厳格な声音で制される。「十五分だけでいいんで」

 

「ぐぬぬ……なんであんたなんかに指図されなきゃ……」

「頑張る人の健康管理は本人が一番下手だって相場は決まってるっす」

「自分が大丈夫かどうかくらい自分が一番よくわかってるって」

「そう言う時の大丈夫は手遅れの境界線と混ざりがちなんすよ」

 

 譲らないと決めている時の風見は雨宮以上に頑固だ。絶対零度な眼差しに思わず息を飲む。

 雨宮は舌打ちをしつつも大人しく従い、カップに手をつけた。

 無愛想にガブ飲みをしようとすると、どうやら淹れたてだったらしく吹き出しそうになってしまう。

 

「熱ッ! 湯加減どうなってんだ!?」

「えー、僕はそれでちょうどいいっすよ」

「鈍いやつにゃそうでしょうよ。あたしが猫舌なの知ってんでしょ」

 

 再び勢いのあるやり取りが始まるかという矢先。

 

「――静かにしろ。気が散る」

 

 怒気の滲んだ冷たい声が響いた。

 その主は眉間にシワを寄せ、マウスの上で指をコツコツと鳴らしている。

 

「すみません。一先輩」

 

 風見が彼の名前を呼ぶ。

 (にのまえ)十八(とうや)。誕生日は一月十八日。雨宮と同期の自称敏腕刑事だ。

 二人は何度か仕事を共にしたことがあるが、その度に雨宮は一をデスクに齧り付くだけしか能のない貧弱者、一は雨宮を待ても聞けない発情期の犬と罵り合っている。

 勿論今日も、その日課は例に漏れない。

 

「ハッ、この程度で集中が切れるなんて、お得意のタイピングもなまったもんだねぇ」

「お前みたいに無神経ではないものでな」

「風吹きゃ飛ばされる程度に軟弱なだけでしょ。ビビッてお偉いさんの言いなりになるわけだ。都合のいい犬だこと」

「犬はお前だ。今だって煩悩に塗れて鼻息荒くなっているぞ。汚いベロまで剥き出しにしてな」

 

 一触即発。この二人が絡む時、風見はいつも苦笑いだ。そうでもしなければ十中八九どちらかに文句をつけられる。

 そんな彼が唯一この不毛な争いに終止符を期待できるのが、

 

「ちょっとちょっとあなたたち、それじゃあ犬が可哀想でしょう」

 

 柔らかい声で斜めから二人を宥める彼女だ。

 

「近づくだけで俺を不幸にする存在に情けをかける理由が思い当たりませんね」

「ぷっ、ダッサ。アレルギーってだけで勝手な因縁つけんじゃないよ」

「こらこら喧嘩しない。ニーノ、顰めっ面で格好良い顔が台無しよ。マーミャはもっとお淑やかな言葉遣いをしてみて。きっと心も清らかになるはずだから」

 

 栗色の長いカールをフリフリさせ、上品に両手を合わせる笑顔の女性。

 因みにニーノは一の、マーミャは雨宮の呼称だ。

 

「……小池さん、まるであたしの心が穢れているみたいな言い様ですね」

「えー? だってそうでしょう。マーミャの心が綺麗だって思う人なんてきっといないわ。だから結婚だって――」

「ぐぁぁぁあああああっ!」

 

 この通り、彼女が雨宮をも常時圧倒できるのは単に先輩だからというだけではない。

 小池(こいけ)恵子(けいこ)。好きなものはおもちゃ遊び、嫌いなものはプライド。

 雨宮がこの「部署」へ入った時期には既にデスクワーク専門に回っていたが、かつては随分と現場での活躍が多かったらしい。噂には今の雨宮以上だとか。

 当時の度胸は健在なようで、こうして職場でも容赦なく身内の心を的確に抉ってくる。

 

「……あの、小池さん」

 

 すると一は鹿爪らしい顔で小池を睨んでいる。緊張しているのか、やたら険しい表情だ。

 

「今、何とおっしゃいましたか?」

「んー? 顰めっ面はよくないって」

「その前です」

「犬が可哀想?」

「その後!」

 

 堪えきれなくなった彼は思わず立ち上がる。

 

「俺の顔が、何と?」

「あ、格好良い?」

「…………なるほど」

 

 意味深な沈黙の後、一は硬い表情のままストンと椅子に腰を落とす。

 この場にいる誰も、彼が気持ち悪い笑みを滲ませていることにもう触れることはない。

 

「小池さん。小池さんは、そんな風に俺のことを見ていてくれてたんですね」

「けっこう()になってるのよ。凛々しいって」

()()()()()小池さんにそう思っていただけるなんて、光栄です」

()()()強面イケメンだって言ってるからねー」

 

 微妙にズレたやり取りに励む二人。小池にくびったけな一が、その狡猾な悪戯に気付くはずもない。

 滑稽と言わざるをえない光景に、雨宮も風見も毎度毎度笑いを堪えるので必死だ。

 そして、

 

「良かったら一つ、ご提案があるのですが……そ、その、今度一緒に食事でもどうですか?」

「食事? 御馳走でもしてくれるの?」

「はい。いいお店を知っているんですよ」

 

 これは勝てる。などという浅はかな判断に至ったのだろう。勝手に大一番だと決めてかかった一のお誘いに、小池の回答は定型通りだ。

 

「いいわね! 行きましょう」

「っし……!」

「マーミャ、カズ、やったわね。今日のニーノは気前がいいみたい!」

「何で!」

 

 反射的なガッツポーズをそのままデスクに叩きつける一の無様さに、雨宮はもう限界だと言わんばかりに「くふぅ……!」と声を漏らす。

 いつになっても良い気味だ。プライドに縋りつく人間の情けない姿ほど見ていて飽きないものはない。

 

「そうみたいですねえ。ありがたくご厚意に預からせてもらいます。懐の厚いに・の・ま・え・さん」

「先輩マジっすか! いやぁ僕、今月お金がキツキツでして、超ありがたいっす!」

 

 嫌味ったらしい雨宮の言葉に、ずぼらで単純故な風見の追撃。

 ただでさえ高いプライドが小池の存在によって極限まで上昇してしまっている彼には、もはや退路がなかった。

 

「……か、構わん。そろそろ改めて甲斐性な部分を見せてやろうと思っていたところだ」

 

 どこか悔しそうに言う一に勝ち誇ってみせる。特に自分が何かをしたわけではないが、屈辱を味わっているに違いない彼にはこの対応が適しているだろう。

 

「ただ小池さん。できたら次回は二人だけでというのはどうでしょう?」

「どうして?」

「あーいえ、えっと、積もる話とか、あると思うのですが……」

「うふふ、ちょっとイジワルが過ぎちゃったわね。食事にワケなんてないんだから、どんな食事をするかにだって理由はいらないわ」

「は、はあ」

「いいわよ。あなたが一人前になったら、いつか二人きりで行ってあげるかもね」

「……! ぜひ」

 

 盲目な彼は気づいていないのだろう。小池は決して食事を確約してくるたわけではないことに。勘違いを呼ぶ言葉を吹っ掛ける小池も小池だが、いとも容易く丸め込まれてしまう一の憐れさといったらない。

 しかも、一人前になったらという曖昧な条件。恐らく表向き達成される日が来ることはない。それは小池の裁量によるからというだけではなく、四人が籍を置くこの部署の性質にも原因がある。

 そのことを理解できないほど一は本来落ちぶれてはいないと思っている雨宮は、嘆息を漏らした。

 

「――おやおや、今日も賑やかだねぇ諸君」

 

 その時、唐突に粘着性のある低い声が室内に響く。

 

「しょ、署長、おはよう御座います」

「すまないね、近くで事故があったらしくてさ。あの道路の速度制限がもう少し緩ければ間に合ったんだけど」

「法にケチつけちゃ埒あかないでしょ……」

 

 制限の代わりにネクタイを緩める男に、げんなりと言葉を返す。

「覇蔵さん、お茶ですよ」いつの間にか一杯用意していた小池の差し入れに、彼は「いやはや悪いねえいつも」と感謝した。

 人当たりのいいおじさんにしか見えないこの男こそ、四人の直属の上司にあたる覇蔵(はぐら)桐満(きりみつ)その人である。

 

「申し訳ありません署長。のっけからうるさくしてしまって」

「いいっていいって。朝からみんなの元気そうな姿を拝めて僕は嬉しいよ。好きにやりなさい」

 

 堅苦しく謝罪する一にも柔軟な対応を見せる。

 四人は既に慣れてしまったが、彼のとっつきやすい穏やかさと、その中で見え隠れする威厳は特有の強さと言えよう。

 そんな彼にも、この女は食って掛かる。

 

「署長、お願いがあります」

「む? どうしたのかな、藪から棒に」

 

 真剣な表情のこちらに対し変わらぬ微笑み。この男は動揺を見せることがあるのだろうか。

 毎度弁舌でも負けてばかりな相手に顔を顰めるが、すぐに本題を切り出す。

 

「タスクの優先順位の変更を申請します」

 

 瞬間、場の空気が凍る。

 一も小池も手の動きを止めこちらを向く。風見は堂々と直談判する雨宮にヒヤヒヤしながら、固唾をのんで見守っていた。

 

「事務処理はどれくらい進んだ?」

「……三分の一」

 

 あまりにノルマに足りていないが、これでも頑張っている方だ。並なら精々五分の一しか終えられていない作業なのだから。

 

「ふーん……理由は?」

「練馬区で起きた殺傷事件の精査及び昨年の冬に発生した中学校放火事件の再調査です」

 

 二つの事件に対する彼女の熱意には、全員気付いていた。だから一も普段より過激な言い争いをしなかったし、小池も揶揄いの度合いを加減している。

 

「私たちは正式な捜査権限は有していません。しかし身内の不始末や過去の誤りを取り調べるという名目なら、その状況はひっくり返る」

「つまり、君は一課の対応に問題があると考えている。そういうことかい?」

 

「馬鹿な!」一が声を張り上げる。「無茶が過ぎる」

 雨宮たちが所属する特殊な部署。その素性は「内部監査」だ。

 あらゆる闇が覗くグレーな事件や、解決と判断されたものの新たな展開を見せた事件、警察が介入しがたい巨大な黒幕の息が掛かった事件。そういったものを専門に奔走するのが彼女たちの職務である。

 故に純粋な捜査は一切認められていない。雨宮があの放火事件を当時真面に調べることができなかったのはそのせいだ。

 しかし今は違う。過去のものとなってしまったからこそ、その杜撰さを無理矢理指摘し再捜査をしようというのが、雨宮の魂胆だ。

 監査はここにおいて、何よりも優先される事項なのである。

 

「……僕がそれを簡単に許可すると、思っているのかな?」

 

 口調は変わらない。表情も変わらない。なのに先程までと明らかに違う、威圧感。

 冷や汗が零れるが、威勢を崩すわけにはいかない。

 

「間違いは是正されなければならない。あなたのその志がこの場所を生んだと、そう聞いています」

「言うは易しだよ。根拠なく向けた疑いが誤りだった時、問題になるのは責任だけじゃない。相手を疑う行為一つで信頼関係は大きく揺らぐ。もたらす影響は計り知れない。まして公的な機関であるならね」

 

 合理的、という意味では軍配が上がるのは覇蔵だろう。権力を持つ組織が摘発されないのは、巧妙な隠蔽だけが理由ではない。もしも間違いが存在しなかったら? あったとしても暴くことができなかったら? そう言った懸念は常に付きまとう。

 この部署はそういう押し引きの絶妙なバランスの上で成り立っている――危険性と脆弱性の高い場所なのだ。

 

「そもそも僕、今だってだいぶ君のワガママを聞いてやってるんだけど」

「そ、それは……」

 

 雨宮のワガママとは、浅川の通う高度育成高等学校に立ち入るために令状を求められた際のことだ。

 厳粛な排他性を持つあの学校、本来彼女は入ることができないはずだった。それをどうにか許されるよう手配してくれたのは、他でもない覇蔵だった。

 

「ノルマが終わる見通しもたっていない。最低限行動の猶予は与えている。君、ここの基本業務がデスクワークだってこと忘れてない?」

「ぐっ、うぐぅ……」

 

 言い返せる要素がない。先程から触れている部署の性質上、実は雨宮たちが現場を回る機会はあまりないのだ。

 恐らく自分がしようとしているのは、論理で相手を説き伏せることができないことだ。

 ならせめて、彼女にできることは僅かだった。

 

「……私は、ここに入る前、色んな罪人(つみびと)たちを見てきました。救いようのない狂人から誰かを想う故だった同情を誘う弱者まで――でもみんな共通していたのは、自分の行動が誰をどうして傷つけるのかを、理解していないことでした」

 

 犯罪者の人格は十人十色だ。動機だってそう。しかし犯罪に至ったという事実と、その原因は誰だって同じだ。

 想像力が足りていない。それに尽きる。

 

「人を取り締まる人の取り締まり。理由をあげればキリがないけど、私があなたの下に就くと決めたのは、ただ事件が錆びないようにするためじゃない。事件が終わっても苦しんでいる人たちに、少しでも救いや慰めをしてあげるためなんです」

「…………」

「恭介君と六助君は、今も過去を引きずっています。静ちゃんは手を血に染めて、純君はそれを目の当たりにした。これが一体、何の解決と言えるんですか?」

「時間がどうにかしてくれることもある。それに、自分の力量を計り違えないことだ。彼らの傷を、君一人が癒すことができるなどと自惚れてはいけないよ」

「そんなことない!」

 

 いつになく必死に、心中を吐露する。

 

「逆ですよ、時間がないんです。この事件に踏み込むことができる人は私しかいない。成功は絶対ではないけど、私が動かなきゃ大勢がずっと消えない傷に悩みながら生きていくのは絶対です」

 

 珍しく彼女は焦っていた。

 それは偏に、私怨だった。

 

「紙と睨めっこしてキーボード叩いて、それで誰が救えるんですか!」

「気持ちはわかるよ。だけどね、やはり今のまま君に行かせるわけにはいかない」

「なっ――」

「僕が教えたことを忘れているよ。相手を説得する時、感情に訴える方法は確かに有効になり得る。だけどそれに飲まれるのが自分であってはならない。――君、『何か』と重ねてるでしょ」

「……!」

 

 図星を突かれ目を見開く。

 

「あと、さっきの発言は撤回してもらえるかな。自分の役目に誇りを持つことは大事だけど、他人の仕事を愚弄する資格は誰にもない。仕事に貴賤はないからね」

「……すみません。熱くなり過ぎました」

「謝ることじゃないよ。君はできる子だと思っているから、ここへ引き込んだわけだし」

「けど、私は」

 

 わかっている。自分の言っていることは無茶苦茶だと。

 しかしこのままでは、例の事件を次に調べられるのはいつになるのか見当もつかない

 浅川たちの事件は本来であれば優先順位がかなり低いものだ。権力の関わるものでもなければ、重要性や緊急性を認められる根拠もない。

 ただでさえ慎重に進める必要があったり元来の部署そのものの権威の弱さだったりで、進捗が遅くなることが免れない職務。それを他の莫大なタスクで封じられてしまっては、一体進展はいつになってしまうのだろう。

 やるせなさに、拳の力を入れることしかできず目を伏せる。

 

「――署長」

 

 すると、空気を読まない呑気な態度で、風見が割って入ってきた。

 

「どうしたんだい?」

「えー、僭越ながら確認させていただいてもよろしいっすか?」

「うんうん、どうぞ」

 

 彼は何食わぬ顔で言った。

 

「要は――――――行っていいってことっすよね?」

「………………え?」

 

 間抜けな声が漏れる。

 これまでの会話の流れを汲み取ってどうしてその結論に至るのか、雨宮は理解不能だった。

 しかし覇蔵もまた、何食わぬ顔で答える。

 

「うん」

「うん……? え、うん? いいの?」

「うん」

 

 絶句する彼女に、相棒は簡潔に説明する。

 

「らしくないっすよ先輩。署長一回もダメなんて言ってないじゃないっすか」

「………………あ」

 

 振り返って気付く。今のままでは許可できないとは言われたが、彼から決定的な一言は一度も告げられていない。

 まさかと思い視線を移すと、一は呆れ顔で、小池は悪趣味な笑顔でこちらを見つめている。

 

「うふふ、今日はマーミャの可愛いところも見れちゃったわね」

「何やってんだか、全く……」

 

 全てを悟り、先程までの言動の恥ずかしさから項垂れる他ない。

 

「だぁぁあああ嵌められたああぁ!」

 

 雨宮は八つ当たりのごとく風見を睨んだ。

 

「フジィィィッ!」

「ちょ、待ってくださいよ先輩! 先輩いつもだったらすぐ気づくじゃないっすか!」

 

 無慈悲にも華麗なチョップが彼の頭を割る。

「うぎゃぁあ!」と、耳に障る悲鳴が木霊した。

 

「まあまあ、パートナーを可愛がるのも程々にね」

「署長これパワハラっすよ!」

「でもそうでもされなきゃ真面目にやらないでしょ君」

「確かに!」

「否定してくれる日を期待してるんだけどねぇ」

 

「とはいえ」と覇蔵は再び雨宮を向く。

 

「虚言は一つも吐いてないことは、わかっておいてほしいな」

「――! わかりました」

 

 襟を正し返事をする。覇蔵の言う通り、さっきまでの自分はいつもと違いただの傍若無人な、かつての自分に戻ってしまっていた。彼の遊び心に遅れをとったということは、精神的な余裕が欠けていることを示す。

 覇蔵は一つ咳払いをし、形式的に告げた。

 

()()()()()()()()、覇蔵桐満より君たちに命じます。明日から当該再捜査及び監査の優先順位を一つ繰り上げてください。――そうだね。二、三割そっちにリソースを割いてもらって構わないよ」

「ありがとうございます」

「ただし、別件の捜査が割り込んできたら臨機応変な対応をしてもらうからそのつもりで」

「承知しています」

 

 現場での仕事の価値をついさっき説いていたのは他でもない自分だ。そこに私情を挟んではいけない。

 

「話は僕の方で通しておくから、令状は君たちが取りに行きなさい」

「諒解」

 

 二人はいそいそと部屋を出て行った。

 

 覇蔵はやれやれという具合に座ったまま伸びをする。

 足音が聞こえなくなったのを確認し、一が声をかけた。

 

「よろしかったのですか?」

「勿論。僕が言ったことさえ守ってくれれば大丈夫さ」

「本分を滞らせてでも、ですか?」

 

 厳しい眼を向け、彼は啖呵を切る。

 

「元々刑事という立場は大半の仕事が書類関連です。ドラマほどアクティブではありません。蓋しうちは特殊なのに、こういった甘い対応は――」

「心外だねぇ。僕は雨宮君を甘やかしているつもりはないよ」

 

 覇蔵はズボンのポケットからチョコの小包を一つ取り出し、中身を頬張る。

 

「僕が普段彼女に課しているノルマは、本来の倍だ」

「ば、倍!? 何故そんな……」

 

「もしかして」驚愕する一とは対照に、小池は納得気味だ。「今日を見越して?」

 

「いつか我慢できなくなるだろうと思ってね。例の殺傷事件以降、そろそろかなと薄々予感はしていたよ」

 

 上司の予測能力に、二人は感心せざるを得ない。

 要はいざという時に雨宮ができるだけ直向きに足を動かせるよう、予め時間にストックを作らせていたということだ。

 部下思いというか、扱いに長けているというか、やはり抜け目のない男である。

 

「自制心が崩れがちなのはまだまだだけど、能動的な姿勢は評価できるね」

「て、適当に処理してるのでは?」

「ムラはあるけど、及第点は毎度熟してくれてるよ」

 

 プライドに傷を負ったのか、一は悩ましげな顔をする。

 当然それも、彼は見逃さない。

 

「だけど君が仕上げてくれる物は、いつも見やすくて助かるよ。データも紙もね」

「……!」

「誰しも得手不得手はある。僕は他人を叱ることが苦手でね、ほら、こんな顔だから」

「話し方も一役買ってますよ。今後部下に舐められないか心配です」

「ハッハ、手厳しいねぇ小池君。ま、そんなわけだから、君には君の、今できること、すべきことがある。それを徹底するのが一番さ。いついかなる時もね」

「……はい」

 

 温かい言葉に、一は顔を綻ばせる。

 何だかんだ四人から慕われる、その所以が垣間見える一幕だ。

 

「覇蔵さん、ちょっと」

 

 会話が一段落したところで、小池がこっそりと隣のデスクの覇蔵に話を振る。

 

「なんだい?」

「無駄に格好つけなくてもいいんですよ」

「えー、イケてなかった?」

「人間誰しも自然体の時が一番イケてますから」

 

「あーらら」最近で一番の反応を見せる。「そういうものなの」

 

「いざとなったら、私も少し負いましょうか?」

「いやいやそれは悪いよ。小池君は僕と違って、まだ先が長いからさ」

 

 虚言はなかった。つまり失敗――雨宮たちが芳しい結果を出せなかった場合、その重大な責任は確かに存在する。

 覇蔵はそれを全て負う腹積もりで、彼女の申し出をあのような形で受け入れたのだ。

 覇蔵桐満の命の下、雨宮由貴と風見喜助は監査せざるを得なかった。万一の時はそう説明するつもりだ。

 

「手のかかる部下でごめんなさいねぇ」

「ハッハ、可愛いものだよ。若造は年上の忠告なんてろくに聞かないものだからね」

 

「それに」と、覇蔵はもう一方のポケットから別のチョコを取り出し口に入れる。

 

「大丈夫だって思える根拠が二つもある。一つは鼻の利く雨宮君が疑っていることだ」

「ふふ、覇蔵さんはいつも私たちを信頼してくれますものね。二つ目は?」

「なぁに、簡単なことさ」

 

 彼は残りのコーヒーをゆっくりと飲み干す。

 

「――――僕が疑っているからだよ」

 

 衰えを感じさせない鋭い眼は、絶対的なものだ。

 やはり出会ってからというもの、彼には敵わない。

 もう何度目かわからない敬慕の念を抱き、小池は柔和に笑った。

 

番外編第一弾(題はナイショ)

  • 六月下旬(1章~暴力事件)
  • 七月下旬(期末テ⦅暴力事件⦆~三巻)
  • 八月中旬(四.五巻前後)
  • 夏休み以降の時系列がいい
  • やらない
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。