そしてこちらも久しぶりに更新します。あと一話です。
リノリウム特有の、微妙にペタつく足音。
雨宮は病院が嫌いだった。きっかけは五歳の頃。治療の際何度もやり直しを受けた注射。元はと言えば自分がやだやだと泣きじゃくったせいなのだが、いつ終わるとも知れない鈍痛は苦手意識を植え付けるのに十二分だった。それ以来、予め医者の世話にならないようにと健康志向にシフトしたのは思わぬ僥倖だ。
「ど、どうして今更再捜査を?」
苦い体験への忌々しい感情に横槍を挟んだのは、怯えて裏返った男の声だ。
丸眼鏡のテンプルをくいと整える動作は何とも様になっておらず、緊張を誤魔化す時の癖なのだろう。
「念のためですよ。恭介君も病み上がりですし、改めて彼がどういう状態だったか確認する意図もあります」
こういう時の受け答え――特に初動は風見に任せることがほとんどだ。柔軟な態度は彼のほうが得意、というより自分が不得手であることは自覚している。
それよりも、と、雨宮は医師――佐合と名乗った――の様子を観察する。
「……何か困ることでも?」
「い、いえ、一年も経てばデータは膨れ上がります。古いものはどんどん保管の底へ行ってしまうので、あまり乗り気でないだけですよ」
素人からすれば納得せざるを得ない回答だが、真偽のほどは不明だ。少なくとも、この男は隠し事が下手なのは間違いない。
「とはいえ――ここでは保管期間の長さで三つの保管場所にわかれていますが――浅川さんは退院後一ヶ月も経過していませんので、短期の保管場所にあります」
「一ヶ月ねぇ……」
現行の法律では、患者のカルテは当人の治療完結から五年間の保管が義務付けられている。
治療完結、実質的には退院を示すが、浅川は進学直前まで病床生活だったため、彼の診療録の保管状況自体はごく最近からとなっている。
本当、本来なら一年の学習遅滞を抱えるはずだった彼を、我ながらよくもそのハンデを帳消しさせられたものだ。
辺境の割にはやけに整った内装の中を進み、一室に入る。
スチール製の棚にはぎっしりとファイルが詰められており、恐らくこれが例の短期保管されているカルテだろう。
ご丁寧に頭文字までわかりやすく分類してくれているため、自分たちだけで探しても良かったのだが、さすがに他の患者の個人情報を脅かさない配慮の下佐合が漁る。お言葉に甘えてソファーに座らせてもらった。
その合間、
「……あの、これはどうしても必要なことだったんですか?」
「はい。こうして物を言う書類だって装備してきたんですよ」
苛立ちを抑えて応答する。この期に及んで何を。
危なかったかもしれない。もし浅川のカルテが中期や長期の場所に保管されていたら、その膨大な貯蔵量から色々こじつけをされて滞りが発生していた可能性がある。
よほど何かヒメゴトがあるらしい。俄然気になってきた。
やがて、佐合が一冊をテーブルの上に置く。
「恭介君の手術を担当した当時から今まで、何か大きな変化は?」
間髪入れずに質問。隣に着席する風間は阿吽の呼吸で一人カルテの拝読に入る。
「特には」
「じゃあ恭介君の治療の際に気づいたこと、不自然なことなどは?」
「そんなの……覚えてないです」
多忙な佐合が記憶を曖昧にしているのは無理もない。しかし、
「ふーん、それは、口も利けないほど精神が壊れた患者はここだと珍しくないってことですか?」
「……! ち、違います」
ただの勘違いにしては大仰な反応だ。
「……聞きましたよ。あなた、この前の事件――浅川夫妻の事件の時、患者受け入れを拒んだみたいですね」
更に踏み込んだ問いをぶつける。
浅川の母校は勿論浅川夫妻の別荘も最寄りの病院はここ。しかし佐合は満床を理由に浅川夫妻を突っぱねた。
当時確かにデパート火災による大量な怪我人をさばいていたのは知っているが……。
「――何か『事情』があったり、するんじゃないですか?」
「…………っ、私は」
所詮は鎌掛だ。何かある、嗅覚をもっての確信だけが頼りで追及する材料はない。
ただ、今はそれを見つける時間だ。
「え………………?」
隣から唖然とする声が漏れる。風見が疑問点を見つけたようだ。いつになく顔を引き締め、眉を顰めている。
「ここ、何か……先輩、ここおかしくないっすか」
「は? ……んーいや、あたしに聞かれても」
医学はからっきしだ。しかし佐合の息を呑む様子からして、風見の言っていることは間違っていないのだろう。
彼が見せてきたのは脳のレントゲン。指で差したのは右下の部分だ。
「不自然です。まるで無理矢理継ぎ接ぎしたような……これは、合成?」
なるほどなるほど。そういうことか。
「どうなんですか? 佐合さん」
「そ、それは……」
「別に隠し立てがないのであれば構いませんけど、あるなら今白状することをお勧めしますよ」
事実上の勧告。現時点で浅川の診断に問題があることは確定だ。偏に風見の目利きを信頼している故の確信だが、雨宮は攻めを緩めない。
こういう相手には、それでどうにかなる。
「改竄の時点で大問題ですが、それはまた別件です。元のデータを見せてください。さもなくば……」
「お、横暴だ! そんな強引な捜査は――」
「と思うじゃん? 残念、特別な許可は取ってもらってある。拒否しようものなら無理矢理漁らせてもらうよ」
彼のような小心者は自分の懐に物を隠しておかないと気が済まないタイプだ。おそらくPCに残っているはず。
「か、帰ってくれ! こんな茶番は終わり――」
「じれったいねぇ、いい加減にしな!」
拳を机面に叩きつける。こちらが下手にでる必要はもはやない。一転攻勢と行こう。
「あの子の傷はまだ残ってんだよ。それを少しでも癒やすためにあたしたちはここに来た。あんたも医者なら、一度過ちを犯したんなら、その責務を果たしな」
どのみち疑惑が浮上した時点で捜査は免れない。事実を淡々と突きつけてやっても良かったが、敢えて感情的に訴える。
問題ない。理性さえ維持していれば失敗はない。
「……っ、わかりました」
埒があかないと判断したようだ。佐合は渋々デスクに向かいPCをいじる。やがてプリンターから一枚の写真が印刷された。
にわかに震えている手から、風見の元へと渡される。
彼は先程の箇所を念入りに検証し、そして、
「――! こ、これは……」
驚愕の表情を浮かべ、佐合を睨んだ。
「あなた、まさか………………側頭葉を……?」
佐合は明らかに図星を突かれ、気まずそうに視線を逸らす。
それを見て風見は、いつになく恐ろしい形相で迫る。
「ふざけるな……お前、人の記憶を!」
今にも殴りそうな怒気を滲ませて胸倉を掴む直前、雨宮が慌てて引き留める。
「ちょ、おいフジ! 止まれ止まれ!」
「一番傷つけちゃいけないものだろ! 思い出に踏み込むなんてマネ、誰もがしちゃいけないことなのに!」
声を張り上げる風見を平手打ちで抑える。「ガッ」と、鈍い音と共に呻き声が漏れ出た。
「一回落ち着きな。何を見つけた? まずはあたしに説明しな」
「…………すみません。取り乱しました」
片頬に手を当て、俯きがちに風見は話す。
「先輩は、ロボトミー手術をご存知ですか?」
「名前、だけなら」
当時は画期的で希望的な施術であったが、その代償が認められて以降禁忌と称されるようになった。と記憶している。
正式名称は、前頭葉白質切截術。
「でもあんた、さっき側頭葉って」
「はい。脳の各部位には役割が定まっていて、前頭葉は知性や人格などを担っています」
ロボトミー手術は精神障害の治療に用いられた。知性と人格を犠牲にすることで精神生活の複雑を軽減するのだ。
しかし今回はどうやら、切除されたのは側頭葉らしい。
「一方側頭葉の機能は――感情と、記憶です」
「なっ……! ……なるほどね」
それは現在の浅川に触れる答えだった。
暫く口を利けない状態が長引いていたこと。今までの記憶が欠けていること。それらは全て側頭葉の切除によるものだと考えれば辻褄が合う。
「精神ではなく記憶そのものに干渉することでトラウマを克服する、と言ったところでしょうか。ロボトミー手術の再現、あるいはそれ以上に残酷な処置です」
この病院で起きた悲劇を、風見はそう纏めた。
どうりで佐合がこうも怯えるわけだ。スキャンダルどころではない、一人の人間を実質的に壊す行為。
「……年貢の納め時だよ。全部吐いちまいな」
鋭利な視線を罪人に向ける。
「仕方、なかったんです。私には、こうするしかなかった……」
「仕方なかった……? 本当にそうかい。んな酷いことしなくたって、恭介君をゆっくり救うことはできたと思うけどねぇ」
「素人の診断じゃわからないことなんて、たくさんありますよ」
「あの子は一人じゃなかった。失ったもの以上に支えてくれる人がいたんだよ。それで脳味噌弄られなきゃならんくらいにボロボロになるほど、弱くない」
根拠ならある。
浅川は欠けたはずの感情で涙を流し、衰えた記憶を必死に残し続けている。そして今も、新たな思い出に励んでいるのだ。
その精神力は、何も雨宮の助力によって鍛えられたものではない。彼自身が、初めから具えていた強さだ。
「少なくともあんたは、その誰かに言葉を掛けるべきだった。そして止めてもらうべきだった。それをしなかったのは、自分の咎をわかっていたからだろ?」
「けど実際に、手術で精神状態は改善された! 医者としての責任は果たしたことに変わりはない!」
たらればの話ではないのは確かだ。佐合の言う通り、結果論として浅川が学生生活に戻れたことは事実。
だが、
「外科医ってのはそんに視野が狭いのかい? 人は誰とも関わらずに生きちゃいない。あんたのしたことは、少なくとも心を救うには至らなかったと思うよ」
佐合ははたと悔しそうな表情をする。それだけの良心が残っていなければ、こうしておどおどしていることもなかったはずだ。
きっと、今まで何とか自分を正当化してきたのだろう。自分は正しかったと言い聞かせることでしか、自分を守れなかった。
「…………そう、ですよね。その通りです。私がしたことは、到底許されることではありません」
重い口が開いく。
「私も、したくないと、すべきではないと思いました。でも、そうするしかなかったんです」
「そうするしか? それは」
頷く佐合の諦めた様子から、裏を察した。
「一体、誰があなたを?」
「そもそも言いなりになる理由がわからないっすよ」
気づけばフラフラとした調子に戻っていた風見を一瞥し、答えを待つ。
「すみません。それは言えません。この病院ごと消されかねない。それだけは私とて望まないことです。たとえ私自身が辞めることになっても」
最低限の矜持なのだろう。そこまで言われては追及し辛い。ポリシーに反する。
今の回答で、わかったこともある。
「個人か団体かは?」
「……三人です」
人数だけ、か。
「改めて、恭介君の入院中に何か気になることは?」
「いえ――あ、確か一度、担当の看護師さんから報告があって、友達の女の子が酷く取り乱していたと」
女の子……深山のことだ。
思わぬ場面で現在の事件の情報を得たかもしれない。浅川が入院していた頃には、深山に異変があった。
すると、
「残りの三人は、特になかったかな……」
「そうっすかぁ」
「……待って、三人?」
新塚と、高円寺と、誰だ……?
「……まさか、その中に白い髪と青い目をした女の子は」
「多分、いたと思いますよ」
戦慄が走る。関係者の一人にも悟られることのない、おぞましい何か。ここにも来ていた。目的は浅川で間違いない。
どういうことだ。浅川自身は交流はないと言っていた。やはり、彼が嘘を……?
実りはあった。しかし――何か底知れぬ闇を垣間見たような気がする。
茜色の空が、胸騒ぎを起こす昏さを帯びる。
ざわつく背筋を誤魔化すように、大袈裟に伸びをする。
「どうっすか先輩、収穫は?」
傍らの風見が訊く。
「……朗報はあった」
とてもそんな風には見えない苦い表情で答えた。
「恭介君の側頭葉切除を命令したのは、権力者だね」
「じゃあ」
「もうちっと踏み込んだ捜査、できるかもねぇ」
権力が絡んでいる可能性が高まれば、自分たちに与えられる捜査権限も肥大化する。そういう意味では、確かに朗報だ。
「理由は……佐合さんの『消されかねない』という発言ですね」
「ああ。そしてその権力者は、少なくとも政府関係者じゃない」
「それは、どういう?」
まあ、佐合の事情を理解しているだけ及第点か。
寛大な採点をするようになってしまったものだと思いつつ、雨宮は説明する。
「まず、そもそも何で恭介君の側頭葉が切除されたかさ」
脳の部位切除は人道的とは言えない施術。それを求めるとなれば余程の事情があったはずだ。
「……側頭葉は記憶を担っています。まさか本当の目的は、恭介君の記憶の消去?」
「思うに、あの子は何かを知ってたんだろう。あるいは、その可能性があった」
この手の相手は手段を選ばないくせに念入りだ。彼の頭の中に実は重大なものが眠っていなかったとしても、然程重要なことではない。
「でも、どうして政府関係者じゃないんすか?」
「偶然にも恭介君は高度育成高等学校に在籍してる。あの子に接触や関与を仕掛ていないってことは、あそこが敵地だからだよ」
政府の注力する環境には打って変わって手が出せなくなるということは、かなりな牽制状態にあるということ。的を絞る上でも、この要素は活かしがいがある。
「そうとは限らないっすよ。既にアクションを起こしていて、職員の間に監視の目を潜らせている可能性も」
「だとしても、一貫性がない。病院じゃ有無を言わさず脳を切り取ったんだ、今更慎重で回りくどいマネする必要はない。どのみち荒事起こせない時点で政府の人間じゃないってことさ」
珍しく能動的に反論を編んだ風見の成長ぶりに若干頬が緩んだが、毅然と一蹴する。
「それに……っ」
「先輩?」
「いや、何でもない」
雨宮にはその先の仮説もあった。
佐合に命令を与えた三人。その内一人か二人は、浅川の親だ。
こればかりは確証と言える根拠まではない。ただ、佐合の過剰な恐怖が違和感を与えてくる。彼が手術を行わざるを得なかったのは家族までもが強制したから、と考えられるくらいには。
しかしだとすると、浅川夫妻も一連の黒い動きに一役買っていることに……。
「……調べることが目白押しだねぇ」
謎が深まった、というのが総合的な結果だ。
浅川自身のこと。浅川に施された陰謀。そして度々出てくる姿の見えない少女。まさしく闇が渦巻いている。
とりあえず予定通り、次は浅川夫妻の別荘を検証するか。
「そういやフジ、あんた大丈夫?」
「え、なんのことっすか?」
「あんなブチ切れてるとこ初めて見たけど」
確かに側頭葉切除は禁忌ではあるが、あの時は自分が荒れていた頃と似たものを感じた。ただ許せない相手にとことん罰を与えようとするような。
「……先輩は、かけがえのなかった仲間が誰も自分を覚えていないってわかっていたら、どうしますか」
「え?」
「自分自身さえその思い出が不確かで、経験したかが曖昧だったら」
遠い目をする風見。それだけで、彼のルーツが原因なのだと直感する。
「……そりゃあ、デジャブって言うのさ」
「でも、偽物とは限らないっすよ。もしかしたらどこか別の――運命の石が告げる扉の先から、送られてきた宝物なのかも」
「なら、それでいいじゃないか」
視線が向くのを感じる。
急に詩的なことを言う。あまり得意ではないが、単なる格好つけではないことは察している。
「もらっちまいなよそんなもん。再演する義務なんて、ないんだから」
「どう、なんでしょう。偶に思うんすよ、会えるなら会うべきなのかなって。どこにいるかもわかってるのに顔も合わせないのは、何だか逃げてるみたいで……」
「それは選択って言うのさ。そうすべきだと信じたから会わなかったんだろう。なら、間違いなんかじゃない」
肩を二度、強めに叩く。
「自分の立てる世界は一つさ。あたしと刑事やってる風見喜助だけが、現実だよ」
「……参っちゃいますね。先輩は強すぎるっす」
それに付いてくるあんただって十分強いよ。という言葉は胸の内にとどめておく。
「あんたが弱ってるだけだって。シャキっとしんさい」
「はい。さっきは出過ぎたマネをしました、以後気をつけます」
「あのまま殴った世界線も興味あったけどね」
「傷害罪でバッドエンドっすよ!」
カラッといつもの調子に戻る。
しかし、ほんの少しだが後輩のことを知れたことに、浮かれる自分に呆れる雨宮だった。
番外編第一弾(題はナイショ)
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六月下旬(1章~暴力事件)
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七月下旬(期末テ⦅暴力事件⦆~三巻)
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八月中旬(四.五巻前後)
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夏休み以降の時系列がいい
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やらない