焼憬
ある始まりが到来する、前夜のことでした。
こごえる雪景色のなか、ひとりの子供があてもなく歩いています。
月明りのみが視界のたよりである街並みも、いまは恐怖をあたえません。ただ未知なる環境にたいする不安が、心をおおっていました。
頭になにもかぶらず、足にはなにもはいていない。あきらかに季節にそわないかっこうをした子供を気にかけるものは、ひとりとしていません。
両足が雪のつめたさで赤くなり、やがて青ばんできたころ、寒さと空腹につかれていた子供はおもむろに腰を下ろします。コインひとつ手に入れることができずにいた子供には、それ以外に苦痛をごまかす術がなかったのです。
ああ、寒い。お腹が空いた。ストーブの火が欲しい。あつあつのシチューをひとさじ口に入れたい。
窓越しの灯りのしたで楽しそうに食卓を囲む家族をながめながら、子供は自分の境涯をなげきました。
ささやかな祈りは、パパとママといたときですら叶わなかったものです。二人はかたまって動かなくなりそうなこの手をつつむことすら、してくれたことがありませんでした。
だからでしょうか。子供はすぐに、一箱も売ることができなかったマッチの火で自分を温めることを思いつきました。
なれない手つきで小さな木の棒を箱の側面に擦ると、しばらくしてようやく火はつきました。
何とも眩しく、温かい光でした。
あたまのなかにあったストーブにも負けない温もりと、団らんする家族にも負けない明るさに、すこしだけ笑みが零れます。
やがてそれはどんどんかたちをかえ、おおきくふくらんでいきます。
雪のように白いクロスを敷いたごうかなテーブル。その上に用意されたぴかぴかの食器、ガチョウの丸焼き、リンゴやかんそうさせたモモまで、子供の目にははっきりと見えました。
しかしそれも束の間。ふっと暗く冷たい世界に引き戻され、気が付くと燃え尽きたマッチが手元に残っていました。
そう、現実はいつも
子供は何度も火を灯しました。にこにこと笑ってあそんでくれるパパとママ、装飾されたおおきなツリー、他の子がいとも簡単に手に入れている憧れが欲しくて、何度も何度も、何度も何度もマッチを使いました。そのたびにひとつ、またひとつと、夢を描く鍵が消えていきます。
その時間も、そう長くは持ちませんでした。マッチの火を軽々超える寒さに子供の意識は少しずつ削られ、ぽすりと壁にもたれかかれました。
どうしてこんなに、いつまでも冷たいのだろう。何をやっても温かくならないんだろう。
自嘲の中で、命が深いところに落ちる。――その時でした。
――大丈夫かい?
瞼を開けることもままらなくなった子供に、優しい声がかかりました。
――ふるえることもできないほど寒いんだね、かわいそうに。霜焼けでケガもしている。このままでは死んでしまうよ。
あなたは、だれ?
――自分は、旅人だよ。
その人は、色んなところをまわって詩をかき歩いていると言いました。吹雪がひどくなったから休もうとこの街を訪れたところ、自分を見つけたと言うのです。
――よかったら、一緒に来るかい? ここよりずっと明るくて温かいところだよ。
わずかに残った気力をふりしぼり、子供はうなずきました。
次に意識が戻ったとき、子供はベッドの上にいました。
あたりをキョロキョロと見回すと、男が心配そうな顔で見守ってくれていました。ぼやけた視界で輪郭しか見ていませんでしたが、彼がさっきの旅人に違いありません。
――大丈夫かい?
はじめと同じ質問に、子供はコクリとうなずきました。
――お腹がすいたろう。まずはこれをお食べ。
そう言って彼は、ホクホクと湯気の立ったシチューを差し出してきました。
いいの?
――もちろん。君のために用意してもらったんだ。
彼は嘘を吐いていました。本当はそのシチューは彼のために用意されたものだったのです。
旅人が子供をおぶって宿に入ったとき、宿主は汚い子供のお世話は嫌だと言って、彼の分しか料理をくれませんでした。
そんな悲しいことを教える必要はないと思った旅人の、それは優しい嘘でした。
当然子供はそれに気づくことなく、木のスプーンでシチューをすくい小さな口に運びました。
舌先から喉へ、そしてお腹の中を温かいものがつたっていくのが自分でもわかりました。
……おいしい。
今度はシチューと似た色をした野菜をいきおいよくほおばると、あまりのあつさにせきこんでしまいました。それでもこみあげてくる幸せなきもちは変わりません。旅人も一瞬あわてましたが、すぐに微笑ましそうに介抱してくれました。
子供はそのうち、自然と涙をこぼしていました。
うれしいはずなのにどうして泣いてしまったのか、子供にはわかりませんでした。旅人にたずねると、彼はにっこりと笑って言いました。
――人はかなしいから泣くわけじゃないんだよ。いっぱいにあふれた気持ちが、涙といっしょにこぼれるんだ。だから、今君はとても幸せってことだね。
なるほど、と子供は思いました。またひとつ、知らなかったことを知れた。自分がおかしいわけじゃなかったと安心するのとどうじに、この人はとても優しくて温かい人なのだと思いました。
自分を苦しめてきたこの街より、ずっと温かいと思いました。
ここはイヤ。マッチの火じゃあったかくならないから。
――それはきっと、心が冷たくなってしまったからだね。そのシチューは温かかっただろう?
そのとおりでした。何度もマッチを点けて近づけるより、たった一口のシチューのほうが子供にとって幸せだったからです。
旅人さんは、どんなところを旅したの?
――いろいろだよ。木や葉っぱだらけなところ、水がたくさんあるところ、あついところも行ったね。
そうして話してくれたのは、自分がまったく知らなかったものでした。一年中まっしろでつまらないこの街とは違い楽しいところもたくさんあるのだと知りました。
だから子供は、願いました。
いっしょに、行きたい。
――いっしょに? それはいけない。パパとママが心配するよ。
ううん、たぶんしない。そしていつか、自分もこおりみたいにつめたくなっちゃうの。そのまえにあったかいものをいっぱい知りたい。
その言葉をきいて、旅人はこの子をつれて行くことを決めました。きっとこの子はいままでずっと不幸だったのだとわかったからです。
旅人もけっして、幸せな旅ばかりではありませんでした。きけんな動物におそわれたり、だれもいない森でまいごになったりと、苦難の連続でした。それでも子供をつれて行こうと決めたのは、それがこの子の幸せなのだと信じられたからです。
こんなにもかわいらしい子供にひどいしうちをする親といっしょにいさせるより、たとえあぶなくても願いを叶えさせてあげるべきだと、男は思いました。
そして次の日――おおきなはじまりとともに、二人のながい旅もはじまったのです。
旅人との日々は、子供にとってとても楽しいものでした。
川に浮かぶローレライ。色彩ゆたかな花の都。明媚のなかをそびえるバロックの宮殿。どれも子供のこころを魅了し、歩く足をとめました。
旅人はそのうぶな反応を、ずっとおだやかに見守っていました。子供を見つけたときとかわらない優しさは、いままでひとりで世界を歩いてきたからこそみについたものでしょう。
しかしその優しさはある日、子供の願いをさまたげることになってしまいます。
南に行きたい。そう口にする子供に、旅人はかたく反対しました。
りゆうをきいてもあぶないからというこたえしかかえってきません。なにがどうしてあぶないのかも……。
優しい旅人の言うことです。きっと本当のことなのでしょう。ただ、それでも子供はなっとくできませんでした。
だだをこねる姿に旅人はこまったかおをしています。彼は子供に、どうしてそこまで行きたいのかとききました。
もっとあたたかいところにいきたいから。
自分のこおったこころを、とかしてあたためてほしいから。
はっきりとしたこたえに、旅人はうなずくしかありませんでした。
そうしてはじまったあらたな旅は、ふたたび子供のむねをたかならせました。
ぐんぐん南へおりるたび、自分たちをおおう空気の温度があがり、子供のきぶんもいっしょにあがっていきました。
ただひとつ、旅人の顔色がすぐれないことだけがきがかりでしたが、まいあがっていた子供はすぐにそんなことをわすれ、ひたすら世界をくだっていきます。
およそ、三か月たったでしょうか。
――大丈夫かい?
三度目の質問に、子供はまたしてもこたえるよゆうがありませんでした。
よわよわしくうなずくと、彼はちいさくわらいました。しかしそのほほえみはかなしそうで、なにかをあきらめようとしているようにも見えました。
――水をお飲み。
いらない。
――フルーツは?
食欲がわかないの。
おなかはペコペコ。のどはカラカラ。なのに食べ物も飲み物も口に入る気がしません。
あつい、よう……。
――あたたかいところを目指してたんじゃなかったの?
うん。
――心はポカポカになった?
……ううん。
たしかに楽しい旅でした。しかし、楽しいだけでした。
子供が欲しいと思ったものは、手に入ることはありませんでした。
すでに子供のこころは、冷えきってしまっていたのです。つよいお日様の光でいともかんたんにとけてなくなってしまうほど、子供は戻れないところまできてしまっていました。
チリチリとはだが焼け始めるのを、子供は感じました。
やがて指先から、ボッと火がつきました。すべてのきっかけだったマッチの火と、たいへんよくにたちいさな火です。
自分のからだが燃えていくのを見て、子供はやっと旅人の思いがわかりました。
彼は知っていたのです。ここは子供が生きていられる場所ではなかったと。このあてのない砂漠では、子供も同じようにちりになってしまうと。
子供の憧れていたものがけっして思ったとおりではない、おそろしい灼熱であることを、旅人はわかっていたのです。
そしてそれを教えてくれなかったのは、夢を守るためでもあったのだと、子供は思いました。
命の灯がつきようとしていた子供から最後の希望をうばうことは、優しい旅人にはとてもできなかったのでしょう。
ああ、やっぱり温かい人なんだ。
この世でもっとも冷たいものが訪れようというのに、子供の心はとても温かくなりました。
最後に見る景色が、何もない砂の海だったとしても。
こんな素敵な人が見守ってくれるなら、それで十分。
いちばん欲しかったものがずっとそばにあったことを、子供は最後に知りました。
だからでしょう。
マッチの火が身すべてをおおう間際、わずかに見せた表情は、とてもうつくしい笑顔でした。
番外編第一弾(題はナイショ)
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六月下旬(1章~暴力事件)
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七月下旬(期末テ⦅暴力事件⦆~三巻)
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八月中旬(四.五巻前後)
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夏休み以降の時系列がいい
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やらない