アンデルセンは笑っている   作:小千小掘

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周異

 

 雨降りしきる中、自分の不規則な足音と、お供の規則的な足音が響く。

 雨に特別苦手意識はないが、難儀だとは思う。荷物がないのに片手は杖、片手は傘で埋まってしまうのだから。

 

「何の用だったの? 理事長なんかに会いに行って」

 

 隣で寄り添うように歩く神室が訊く。彼女と『お友達』になって以来、徐々に自ら会話を切り出してくれることが増えてきた。少しは心を開いてきてくれているのかと、内に秘める無邪気さとは裏腹な柔らかな感情が湧いてくる。

 

「個人的な話ですよ。すみませんが、トップシークレットなもので」

 

 ただ、生憎掘り下げられる話題ではない。因みに個人的というのは、厳密には坂柳個人という意味合いではなく――。

 

「ふーん……。まあ親がそんなお偉いさんともなると、偶には肩書と切り離した話も積もるものなのかしらね」

「おや、お父様だとご存知で?」

「挨拶程度は最近した。浅川たちと色々あった際に、ちょっとね」

「……」

「え、何、どうしたの?」

 

 言いたいことは、いくつかあった。

 神室はこちらが何も知らないと思い濁したのだろうが、彼女の言う機会というのは綾小路と浅川が入れ込んでいる堀北鈴音の拉致・監禁事件のことだろう。訳あって、坂柳も秘密裏に処理されたその事件について父から聞き及んでいた。

 先刻理事長室を訪ねてした会話も、実はそれが関係していたりする。

 しかし、浅川が関与していたのは初耳だった。解決した際のことまではあまり詮索していなかったからだ。確かに目星の付いている犯人のことを鑑みると、ある程度の思考力がなければ堀北を発見することは困難を極める。

 そしてもう一つ。

 

「……少しだけ後悔というものがありまして」

「は? あんたが?」

 

 最近の神室は浅川とその身内との交流がやたら多くなっているようだった。稀にポロッとそのグループでの出来事を雑談として語られるくらいにはだ。

 神室を浅川のもとへ送り込んだ時はまだ、浅川の手の内を知らなかった。正直彼女がここまで浅川たちと打ち解け合うのは想定外だったのだ。

 善いことではある。消極的な彼女にしては、そういった関わり合いが良い作用をもたらすことは言うまでもない。ただ、どことなくモヤモヤする感覚があった。

 ……決して嫉妬とか、寂しいとかではない。と、思う。

 

「相変わらず、浅川君たちとは仲が良いのですね」

「……っ、うん、まあね」

 

 おや……?

 基本的に神室はわかりやすい反応が多い。今回も、詰まり気味な返しに違和感を覚えた。

 関係に翳りが差しているのだろうか。どのみち自分には何ら関係ないことであり、大して興味を唆られる予感もないのだが。自分が出した指示を全うすることさえできれば、及第点だ。

 

「他クラスとの交流は自由ですが、程々にしてくださいね」

「わかってる、あんたに支障が出ないようにはするつもり。元々浅川だってそのつもりでホワイトルームを開いたんだから。…………坂柳?」

 

 神室が眉を顰め、そして困惑を浮かべる。

 それもそのはずだ。自分は今、とてつもなく唖然とした表情になっているだろうから。足も止まってしまった。

 

「い、今、何と?」

「え? だから、あんたに害がないようには気を付けるって」

「その後ですっ。浅川君が、何を開いたと?」

「はぁ、ホワイトルームのこと?」

 

 これは……偶然?

 確かにあの施設に足を運んだ時、綾小路に釘付けだったのは事実だ。しかし、当時検体だった子供の顔は全て記憶していたことにもまた自負がある。その中に浅川の顔は間違いなく含まれていなかった。

 途端に彼の存在が不気味さを帯びる。普通の経路でその名前を知ることはまず不可能だ。一体どこで、どうやって知った? 綾小路が打ち明けたのもあり得ないはず。

 

「浅川君は何故その名前に?」

「白いキャンバスがモチーフで、自分たちの時間が色を与えるんだとか何とか。あいつの部屋、最初は本当に何もなくて、その時は的を射ているなってみんな思っていたわ」

 

 少なくとも、自分の知るホワイトルームには全く掠らない由来だ。寧ろ明らかに好意的な解釈に偏っている。

 正直、今の段階で結論を出すことはできない。彼が綾小路を退学にするためにホワイトルームから送り込まれた刺客だとは思えない。彼が綾小路に見せる感情は嘘ではない、はずだ。お得意の演技という可能性が否定できないのが辛いところだが。

 今はまだ、保留ですね……。

 思考の海に沈んでいると、不意に神室が前に立った。

 

「神室さん……?」

 

 奥を覗くと、霧雨でぼやけた向かいから四人の人影が現れる。そのうちの一人は、既に認識している姿だった。

 

「あなたは確か、Cクラスの――」

「ハッ、坂柳か」

 

 龍園翔。学年を騒がせた事件の計画者。こんな風情のない邂逅になるとは。

 

「珍しいな。普段女王様気取りを怠らないお前が、女一人しか連れていないとは」

「そんなつもりはありませんよ。下のクラスにしてやられたどこかの王様気取りのようには、なりたくありませんので」

 

 相手の眉間に皺が寄る。それを察したかのように、手下の三人が一歩前に出た。一触即発の空気。

 

「お前の使えない身体を補うには、人手が少し足りないんじゃねえか?」

「御冗談を。例え今ここで暴れようと、損をするのはあなた方だけですよ」

「ククッ、そんなつもりはねえよ。どうせ近くに忍ばせてんだろ、別の従者を」

 

 この湿気でも、良く利く鼻だこと。直感ありきの返しだろう。神室以外に控えさせているのはその通りだが、存在自体を看破したわけではないはずだ。裏方という意味で自分が最も信を置く人間に任せている。

 

「そうですか。人を攫うことも厭わない野蛮なあなたなら、やりかねないと思いまして」

「人を攫う? 何のことだ。……まさかアイツか、勝手な真似を」

 

 龍園の反応は予想通りのものだ。堀北の拉致がCクラスの画策ではないことには見切りがついていた。

 

「退屈な余興でしたね。外野の私からすれば」

「安心しな。DクラスもBクラスも、俺が潰す。そしたら次はAクラス、お前を潰す。最後に勝つのは俺だ」

「あなたにできるでしょうか? Dクラスに一度出し抜かれた、あなたに」

「問題ねえ、寧ろネタは割れた。あのクラスにも面白ぇやつがいるみたいだな」

 

 幹部を引き連れ、自分の側を通り過ぎていく。

 

「目下の遊び相手は――――綾小路だ」

 

 こちらの反応を待たず、足音は消えた。

 

「……フフッ」

 

 駄目だ、抑えられない。

 これからだ。これから、愉しみの絶えない日々が始まる。

 そう思うと、これが笑わずにいられるだろうか。

 彼がどう動くのか、何を見せてくれるのか、考えるだけで高揚感が押し寄せる。

 過去最大の愉悦を、坂柳は感じていた。

 

――――――――――――――――――――――――――

 

「凄かったですね、綾小路君」

 

 生徒会室に、長らく聞き馴染んできた声が反響する。

 

「あの状況から須藤君を救うなんて、会長には彼の力量が最初からわかっていたんですか?」

「……見る機会があってな」

 

 初めはこちらの見る目を疑っていた橘だが、今ではその様子は微塵もない。一気に綾小路のことを優秀な後輩だと確信までしているようだった。

 無理もない。何も知らない二つ下のDクラスの一生徒など、少なくともこの早い段階で生徒会役員候補の素質があるなどとは信じがたいものだ。寧ろ安々と認める方がどうかしている。

 

「中間テストが差し迫っていた時期にも、態々ここで談笑していましたよね」

「…………」

「会長?」

「そうだな、有意義だった」

 

 彼女には何と言えばいいのかやら。このまま秘匿しておくのが吉だろう。

 不甲斐ないものだ。これまでの生涯で最も焦りを抱いた瞬間を、よりにもよってあの二人に突かれてしまったのだから。

 暴行の瞬間を捉えた監視カメラ映像をダシに「取引」をしたとを橘に明かすことはほんの少し、ほんの少しだけ嫌だった。子供っぽい惨めな見栄ではあるとわかってはいるが、これくらいのプライドは許して欲しい。

 二人も言っていたが、妹のために施しをしたわけではない。Dクラスである二人と対等な取引をした結果、クラスの躍進を志す妹を後押ししただけだ。

 そんなことも露知らず、橘は揚々と今回の一件について再度語る。

 

「会長のご判断にも納得です。あの思考力と問題解決能力、何より仲間である須藤君を信じて諦めず戦い抜く覚悟は、確かに生徒会に入って不足ないと思います」

 

 かねてより生徒会長は、綾小路を生徒会に勧誘するつもりでいた。単に本校最上位の優秀さを誇る人材として、そしてあはよくば、この学校を容認し難い形態へと変えかねない巨大な勢力に対抗する人手として、目をつけていた。

 だが、

 

「…………いや、あの話は無しだ」

「無しですか。……へ、ナシ?」

「書紀の席はまだ、空けたままにしておこう」

 

 あのような約束をしてしまった後では、な。

 守る義理などない。破ってしまったとしても、彼の言い条からして咎められることはないはずだ。

 しかし、あの真剣な眼差しに対して引き受けた以上それを身勝手に反故にするなど、自分が最も認められないことだ。

 彼の先輩として、学校を背負う生徒会長として、一人の漢として、どの自分も、自分を許せないだろう。

 だからこそ、その手前綾小路を生徒会に招くのは、彼の願いを裏切る皮切りになってしまう。彼が彼のしようとしていることにケリが付くまでは、手を出してはならない。そう判断した。

 

「そう、ですか……」

「不服か?」

「い、いえ、滅相もない! ただ、善き後輩が身近にできたら嬉しいなと思っただけです」

 

 恐らく本心だろう。しかし、綾小路と橘を引き合わせるのは別に望ましいことだとは思えなかった。相性がハマるかどうかは、やってみなければわからないくらいには運次第だと見ている。

 それに、自分と橘を男女の関係だなどと邪推した彼に、あれ以上調子に乗った発言をされたくないというのもある。

 

「でしたら、浅川君は?」

「……」

「会長が綾小路君と一緒に目をつけていた生徒でしたよね? 確か、筆記試験が二位の成績だったにも関わらずDクラスに配属された稀有な生徒だと。初めは彼の方が生徒会候補として理解はできました」

 

 橘の見解は一般的なものだ。全科目五十点より学年二位の方がわかりやすく優秀と判断される。この学校のクラス分け基準は学力のみではないが、学力も勿論一つの要素だ。普通の経歴であれば、浅川の学力でDクラスに配属されることはまずあり得ない。

 ……その事情が、触れるには躊躇ってしまうような重さを秘めているように感じるのは気の所為かは知らない。

 

「あれはダメだな」

「辛辣っ。何故です?」

「理由が明確であるなら、そもそも最初から候補に入れなかった」

 

 明確な理由、あるにはある。浅川を生徒会の抱える問題と、具体的にはその元凶たる人物と引き合わせてはならないと思うからだ。浅川と初めて会話をして、すぐに生徒会候補から除外した。

 しかし、それはあくまで直感であり、根拠がない。只者ではないが本質に混じり気がない綾小路と違い、彼には何か混沌めいたものを感じるのだ。まるで複数人の意思が内在しているようなチグハグな印象。もし本当なら、言語化が難しいのは当然だ。そのような人間と出会ったことなどないのだから。

 

「……そういうことか」

「会長?」

 

 改めて整理してみて、ようやく仮説が出た。

 もしや自分が危惧しているのは、浅川だけではないのかもしれない。あの危うさは人を巻き込みかねない。相手に伝染してしまう病のようなものだ。ということは……。

 こちらに仇なす存在だというのに、我ながらお人好しが過ぎるな。

 

「兎に角、席は一つ空けておけ」

「一之瀬さんや葛城君も、誰も入れずに、ですか?」

「ああ」

「……わかりました」

 

 いずれその時が来たら、直接彼に問おう。善き答えを期待して。

 引き入れたいという願いだけではない。それはまた約束にも似た――後輩への気遣いだった。

 そこに微々たる優しさが含まれていることなど、誰も知る由はないだろう。

 それほどまでに、この少年は厳格で、聡明で、不器用なのだ。

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 意識が戻ったのは、病室だった。

 

「ん……」

 

 身体の気怠さと、僅かながらの痛みに、思わず息が漏れる。

 ゆっくりと身を起こすと、一人の影に気付いた。

 

「体調はどうだ」

「先生……特には」

 

 段々と状況を理解すると共に、自身がここに至るまでの経緯を朧気ながら思い出した。

 

「腹が減っているだろう。食べ物は喉を通りそうか?」

「ええ、軽いものなら」

「用意させる。少し待っていろ」

 

 そうしてすぐ、目の前にお膳が差し出された。栄養バランスを考えられた良好な献立だ。

 まずは一口。――ほっぺたが落ちるとはこのことか。額縁通り久しぶりの食事に、口内で激しく唾液が分泌されるのがわかる。

 ややはしたないかもしれないが、いつもよりずっと急いだペースで採り終えた。というのも、その間黙して部屋で待機し続ける茶柱に、色々と聞きたいことがあるのを気遣っているのだろうと察していた。

 

「今は、いつですか?」

「7月11日火曜日、午後1時23分。お前が姿を消してから四日後だ」

「そう、ですか……私がいない間のクラスポイントは?」

「……この件は理事長が重く受け止めている。当然減点はない。――全く、この期に及んでクラスの心配とはな」

 

 本当に呆れているらしい。深い溜息に、顔を顰める。

 

「うちのクラスで真相を把握しているのは、浅川と綾小路、須藤の三人だけだ。表向きお前は『事件の捜査中に熱中症で倒れた』ということになっている」

「……兄は?」

「知らないはずだ。知らせた方がいいか?」

「……いえ。大事には至っていませんし、必要ありません」

 

 どうして須藤まで知っているのかは判然としないが、情報規制がなされたことは理解した。「うちのクラス」ということは、他クラスには知っている人間がいるのだろうか。

 

「須藤君の審議は?」

「綾小路が勝ってくれた」

「綾小路君……」

「詳しくは聞いていないが、浅川も裏で動いていたらしいぞ」

 

 あの状況からどう逆転したのだろう。実績を出した綾小路には勿論、事件の対処と自分の救出を同時並行でやってみせた浅川にも目を剥いた。

 

「……堀北。その、すまなかった」

「え?」

「学校の一職員として謝罪する。この一件は学校側の、言わば不手際だ。管理体制が脆弱だったからこそ起きてしまった。お前には、訴える権利がある」

 

 学校の敷地内で起きた事件だ。確かに謝る道理はある。だが、仕方のないことだとも思う。

 自分は明らかな死角から襲撃を受けた。例え誰かが監視していたとして、自分の拉致が防げていたか怪しい。その上、監禁場所は寮室だ。これから対策しようにも、さすがにプライベート満載の空間にまで眼を置いておくのは、教育機関としては本末転倒だ。

 だから堀北は首を横に振る。

 

「そんなことをするつもりはありません。私が咎めるべきなのは、私を気絶させて監禁した犯人です」

「堀北……」

「みんなは、浅川君やあなたはどこまで把握しているんですか?」

 

 最後に意識があった時、浅川と成人男性――恐らく理事長だろう――が話をしていたこと、浅川が部屋を出て暫くして茶柱が現れたことは覚えている。ただ、どんな内容だったかは記憶できていない。

 茶柱は浅川から推理を聞いていたようで、その中身をきめ細かく教えてもらった。

 

「合っているか?」

「……さっきも言いましたが、私はほとんど気を失っている状態でした。犯人の特徴も視認できていませんし、どうやって移動していたかもわかりません。ただ、途中何度か担がれて揺れていた記憶は何となくあります」

「そうか。ならあいつの推理は的外れではなかったようだな。犯人がお前の行動を操作していたというのは?」

「……それも、全て合っています」

 

 寧ろそっちの方が驚きが大きかった。監禁中よりも実感があったことだから。

 

「ただ、一つだけ釈然としないことが……」

「それは……?」

「動機です。この事件を起こすには、あまりにコスパが悪いと思います」

「Cクラスが須藤の事件に追い打ちをかけたわけではない、と?」

「暴力事件は圧倒的に相手が有利なはずでした。なのに、態々それを盤石にするために更に悪質な事件を、それも今度こそ自分たち以外に非を押し付けられないものを起こすのは矛盾している」

 

 Dクラスの生徒が立て続けに巻き込まれいるため安易な結論を付けがちだが、多大なリスクを負うことと天秤にかければ、少なくとも拉致・監禁などという突飛な発想はあり得ないだろう。

 

「なら、犯人は別の目的があってお前を攫った?」

「犯人がCクラスだと決めつけるには、早計かもしれません」

「心当たりは、あるわけないか……」

 

 疑問を提示するのが精一杯だ。犯人の素性がわからない以上、当人自身の事情だったのか、堀北への感情による犯行だったのかさえわからない。恨みという点で一番疑わしいのは櫛田だが、彼女は当時王に謝礼を伝えに行き、そのままケヤキモールで時間を消費していたことが確認されている。アリバイがあるのだ。

 

「すみません。私が犯人の顔だけでも見ることができていたら……」

「何を馬鹿な。お前が謝るなど筋違いも甚だしい。お前がこうして無事に見つかった。おまけに須藤も無傷放免。ほとんど浅川と綾小路の手柄だが、最高の結果だ」

 

 悪い側面に当てはまるのは犯人が捕まっていないことだけだ。二つの事件はどちらも善い側面として結末を迎えている。

 それに、これから学校側が敏感になることを顧みれば、大胆ながらも賢明な犯人が二度も同じ真似をするとは考えにくい。

 少々、ナイーブになってしまっていたようだ。でも――

 

「……」

 

 どうしてだろう。なかなか気が晴れない。燻ぶる思いは身体の重さだけではない。自分を責めたくなるような感情が拭えない。

 直感的に、あの二人の少年に纏わるものだと認識する。

 

「聞きたいか? 堀北」

「はい?」

「綾小路がどうやって須藤を救ったか」

 

 動揺を隠せなかった。まるで心の中のしこりを見透かされたような。

 

「…………いえ、必要ありません」

 

 逡巡し、否定する。

 

「その様子だと、推測も浮かばないみたいだな」

「……私が拉致された日、彼は『審議されない方法』を提示しました。盤外戦術の類、でしょうか」

「何だ、そこまで答えられるなら上出来だ」

「そんなわけっ……。私には、自分の盤上のことしか頭が回りませんでした。ヒントを誰かに与えてもらって、それでやっと見えてくるのでは遅いんです」

 

 先生は再び溜息をつく。しかしそれは、ただ呆れているのではなくにわかな愛着を抱いているような、丸い感情が覗いていた。

 

「それができている綾小路が言っていたはずだ。不良品には不良品なりな成長の仕方があると」

 

 壁に預けていた身を起こし、彼女はこちらに歩み寄る。

 

「お前たちがAクラスへ上がるためには、いやそれ以上の意味が、綾小路を理解することにあるということは、もう疑ってはいまい」

「……」

「思うに、相乗効果だろうな。浅川の存在が、お前にその学びをわかりやすくした。綾小路の中にあるものを、僅かでも浮かび上がらせた」

 

 記憶に新しいのは、屋上で綾小路が現れた時だ。決意を述べる彼には、何かに抗おうとする濁りが見えた。

 

「何故、綾小路は事なかれ主義を掲げていたと思う? 何故途端にそれをやめ、お前たちに協力するようになったと思う?」

「それは……」

「私個人の見解だが、Dクラス最大の不良品は綾小路だ。それをあいつは自覚し、改善に励んでいる」

「彼のどこが、欠陥だと?」

「知ろうとするのは善い心掛けだ。――その答えは、私に意見を求めるべきではない。お前の眼を以て確かめ、自分がどうすべきかを決めろ」

 

 先生は来客用の椅子に座り――相変わらず鋭いが、ほんの少し柔らかな瞳をこちらに向ける。

 だからだろうか。不意に質問を加えてしまった。

 

「なら、浅川君は? 彼は、一体……」

「あいつは、どうなのだろうな。あいつといる綾小路は、比較的自分の成長や他人との関わりに愚直になる。その点においては優秀な付属品なのかもしれない。だがその通りなら、もしかすると、永遠に……」

「永遠?」

「……いや、忘れてくれ。兎に角、お前が見るべきなのは綾小路か、綾小路と浅川が生み出す化学反応そのものだ」

 

 彼女は慣れない動きで、堀北の頭に手を乗せる。

 突然のことに、思わず驚きの声が漏れてしまった。それほど、想像のつかない行為だった。

 

「ゆっくりでいいんだ、堀北。お前は変わっているよ、善い方向に」

「……どうして言い切れるんですか。私は今回、何もしていません」

「わかるに決まっているだろう。私は、お前の担任なのだからな」

 

 先生は徐ろに立ち上がり、扉を出る。

 

「見届けると言った。その約束に嘘はない。――今は、しっかり休め」

 

 そう言い残して、姿を消した。

 

「………………私は」

 

 虚力に押しつぶされるように、半身を倒す。

 色々な感情が入り混じる。どれも胸を圧迫し、ただ傷口を塞ぎようのない苦痛が拡がっていく。

 不甲斐ない。何とも不甲斐ない。自分は須藤を助ける手段を見出すこともできず、あまつさえ正体も碌にわからなかった人間に攫われ迷惑をかけた。とても、Dクラスの結果には見合わない凄惨さだ。

 もう、起き上がる気になれなかった。前に乗り出し俯くには、腺に溜めた水分が多すぎた。

 重力と、質量を錯覚する朽ちた自尊心がのしかかる。

 そこにトドメをさすように、先刻の先生からの慰めが鼓膜から脳に訴えてくる。いつもあんな言葉を聞かないからこそ、余計に海馬に焼き付いた。

 何の気もなく、左腕で視界を塞ぐ。

 少しだけ、何も考えなくていい時間が欲しかった。思う存分休める現状に、こんなに感謝したことはない。

 嗚呼、病院での休息が必要なわけだ。

 今は照明の眩しささえ、この脆い目には毒だった。

 




今後わざわざ回想にして細かく書くのも間延びしてしまうので、生徒会長の言う取引については今回で触れておきました。流し読みの人にもわかるように説明すると、
・『カラマーゾフ』でのオリ主の発言にある「一歩前でステイ」というのは、寮の表の監視カメラに映る一歩前のこと
・会長の攻撃を一歩後ずさって受けたことで、その暴行がカメラに映った
・それを交渉材料にして生徒会室に殴り込み。堀北鈴音が好条件で(具体的には安いポイントで等)過去問を入手できるよう取引
→つまり、堀北が過去問を買った相手は会長の手が加わった生徒
・最初は渋った会長だが、あくまでDクラスの生徒が自クラスの利益のために取引しているだけだと言われ、その口車に敢えて乗った
・それを橘に明かすのは敬慕を抱かれている身としてちょっとアレだった
てな感じです。当時のことを描写するとしたら、やはりtips行きですね。
本章での事件など、不明な点があれば何なりと。解説しきれていない部分があるかもしれないので。

番外編第一弾(題はナイショ)

  • 六月下旬(1章~暴力事件)
  • 七月下旬(期末テ⦅暴力事件⦆~三巻)
  • 八月中旬(四.五巻前後)
  • 夏休み以降の時系列がいい
  • やらない
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