アニーラ・ユーカリプタスがヴァイオレット・エヴァーガーデンのことを知ったのはたまたまで、大陸から取り寄せている新聞がきっかけだった。紙面のほとんどを分割占領している複数の記事の間を埋めるような形で掲載された小さな記事。かつての敵国で行われた海への感謝祭について記されたそれには、そこで読み上げられた海に向けて書かれた手紙の内容とその美しさ、そしてそれを書き上げたという話題の自動手記人形を褒め称える文章が、件の自動手記人形の写真付きで載っていた。
その文章を目にした時の衝撃をアニーは今も覚えている。海の美しさや素晴らしさを見事に表現し海への想いや感謝が伝わってくるような素晴らしいものだった。
一体どれだけ海のことを知り、考え、思いを馳せればこんな文章が書けるのか、想像もつかない。少なくとも自分には無理だ。海に対する思い入れだけならまだしもそれをこんなにも美しい言葉にして表現することはできそうにない。
例えるならばまるで一目惚れのように、アニーはこの自動手記人形の文章にまいってしまったのだ。
そしてこの偶然は、子供たちのため手紙の代筆を頼む相手を探していたアニーにとって天の助けだった。唯一の懸念は彼女が因縁のあるライデンシャフトリヒの人間だということ。子供たちに比べれば気持ちに折り合いを付けたとはいえ、やはりまだかつての敵国に含むところのある者は多い。
「先生がやってくれないのか」
「どうせならガルダリク辺りから呼べばいいのでは?」
予想通りそんな反対意見も出てきたが、それでもアニーは諦めることなく、奔走し、説得し、ついには自分の提案を押し通すことに成功した。つまりそれ程までに、 ヴァイオレットの能力をアニーは信じていたと言える。
――でもまさかここまでだったなんて。
作業場兼滞在中の宿として提供した自宅の一室で、無骨な義手を華麗に操り、機械じみた速度と正確さでタイプライターに指を走らせるヴァイオレットの仕事ぶりを側で眺めながら、アニーは自分の認識がまだ甘かったことと彼女を指名して依頼を出す判断が正しかったことを実感していた。
「……では、宛先はお父様ですね?」
「うん。あたしもお母さんも元気だよって伝えたいんだ。ほかにももう少し何か書きたいんだけど思いつかなくて……」
「分かりました。では……そうですね。お父様との思い出の中で特にお嬢様の印象に残っているものや出来事はありますか?そのことを書いてみるのはどうでしょうか」
「兄ちゃんにさ、伝えたいことがたくさんあるんだ。からかってくるのは嫌だったとか仕返しに虫の死体を見せて驚かせてごめんねとか。でも何か書こうとするとそういうのがぐるぐる頭の中を回って訳わかんなくなって。それで何も書けなくなるんだ」
「大丈夫です。落ち着いてください、お坊ちゃま。時間はたくさんあるのですから一つ一つ順番に、お兄様にお伝えしたいことを考えてみてください。とぎれとぎれでも構いません。それをきちんとした手紙にすることが私の役目ですから」
実際ヴァイオレットの働きぶりは期待以上のものだった。それはただタイピングが早く正確だというだけではない。複雑に渦巻く自分の気持ちを見つめ、きちんとした言葉にして口に出す事は大人でもなかなか難しい。まだ幼い子供達ならなおさらだ。実際ほとんどの子供たちは伝えたいことがうまくまとめきれず、なかには癇癪を起こす者もいたのたが、ヴァイオレットはその誰に対しても態度を変えることなく落ち着いて対応を行い、彼らの気持ちを丁寧に掬い取ってみせたのだ。
アニー自身、代筆屋の真似事をすることもあるからよく分かる。依頼人の心に寄り添い、その気持ちをより正確に伝えるために適切な言葉や文面を考える能力に関しても、彼女は間違いなく超一流だった。
――これならきっと大丈夫だ。
子供たちの気持ちはきっと届くはず。時間はかかるかもしれないが子供たちが過去に折り合いをつける助けになってくれるだろう。
――そうね。子供たちは、大丈夫……。
ならばそれでいい。それ以上のことを求める資格なんて自分にはないのだから。いなくなってしまった彼に思いを馳せながら、アニーは湧き上がってきた気持ちに蓋をした。
◇
「それにしても子供たちとすんなり打ち解けたのは正直少し意外でした。今は空き時間に遊び相手になったりもしてくれているようで、最近子供たちから彼女の話をよく聞くんです」
「そういえばうちの子も、最近代筆屋さんの事をよく話すわね。『すごくきれいだ』とか『タイプライターを打つのがかっこいい』とか嬉しそうに。随分懐いたなあって驚いたわよ」
「へえ。愛想がなくてとっつきにくそうに見えたけど、やっぱり人は見た目によらないのね」
ヴァイオレットが島に来てから早四日。その日アニーは朝早くからブドウ畑の手入れを手伝っていた。
辺鄙なエカルテ島の数少ない産業の一つがブドウの栽培とそれを材料に作られるワインだ。島の外にも輸出されて、貴重な現金収入の手段の一つとなっている。そのためブドウ畑の世話は、島の住人にとっては極めて大事な仕事の一つで、普段は別の仕事に就いている人間が必要に応じて手伝いに駆り出されることも珍しくない。それはアニーも例外ではなく、今も他の女たちと片手間に雑談などしながら手慣れた様子でブドウの葉についた虫を取り除いて回っている。
「ともあれよかったじゃない。ライデンシャフトリヒの自動手記人形なんて大丈夫かと心配したけど、先生の提案に乗って正解だったわね」
「本当にね。やっぱり若いころから勉強をしてきた人は違うのかしら」
「そんな、ことはないですよ。わたしなんて、そんな大したものじゃないです」
相変わらず先生は謙虚ね、などと笑う女たちにアニーは曖昧な笑みを返した。悪意どころか特別な意味もない、ただの世間話と判っていても、彼女はそれを素直に受け取ることができなかった。
自分はそんな、冗談でも褒め称えられるような人間じゃない。だって自分は罪人なのだから。
言いたくても言えないそんな言葉が胸中で渦を巻く。犯した罪を告白すれば楽になれるかもしれないが、それで救われた気になるのは自分だけだろうという事くらいは分かっている。
だから何も話さないし話せない。そうして一人秘密と罪を抱えたまま、アニーは困ったように笑い続けた。
仕事を終えたアニーは、人影一つない道を家に向かって歩いていた。気温は程よく暖かくて、潮の匂いを含んだ風がアニーの髪をなびかせるように吹き抜け再び海へと向けて駆けていった。ざくざくと靴底が土を噛む音だけが辺りに響いている。
だが心地の良い天気とは裏腹にアニーの心は曇ったままだった。時々こんな日があるのだ。普段は落ち込んでもすぐに持ち直す気持ちが、沈んだままなかなか戻らなくなる。
ここが自宅なら趣味の栞作りでもして気分転換を図れるのだが、道端ではままならない。
重たい足取りで進む道の少し先に見覚えのある青いジャケットを見つけたのは、一刻も早く帰るしかないと諦めたそんな時だった。
少し考えてからアニーが歩く速度を早めると、それに気づいたのだろう。彼女は逆に歩調を少し緩めながら肩越しにこちらを振り向いた。
広がる緑の草原と柔らかな陽光が降り注ぐ空を背景に顕になったヴァイオレット・エヴァーガーデンの整った面立ちはまるで一枚の絵画のようで、少しどきりとしながら、アニーは忙しなく足を動かしヴァイオレットの隣まで移動する。
「アニー様」
「こんにちは、ヴァイオレットさん。奇遇ですね」
「はい。ところでなにか私にご用でしょうか?」
ヴァイオレットの問いかけに、アニーは小さく首を横に振った。
実際特別な用事はない。ただ気晴らしのため、ちょっと雑談をかわす相手が欲しかったのだけだ。島の人間ならアニーも気を使うが彼女はそうではないというのがその主な理由なのだが、そんな事情を正直に話すのはなんだか気が引けて、結局適当にごまかすことにする。
「ああ、いえ。そういうんじゃないですけど、思いがけないところで見かけたから少し雑談でもと思ったんです。ヴァイオレットさんはお散歩?」
「いえ、少し社の方に伝えたいことがありまして、灯台に行っていました。今はその帰りです」
島の南に建つ灯台は、島で唯一の郵便局も兼ねているのみならず、最低限ではあるが通信設備も備えている。戦争の始まる少し前、当時島を支配下においていたガルダリクによって造られたものだ。かの国から独立した今でも、いまだ電話の恩恵が受けられないエカルテでは、主に緊急時における外部との通信手段として島民たちの暮らしの役に立っている。普段でも利用料さえ払えば電報を打ってもらうことも可能で、ヴァイオレットはそれを利用したのだろう。
しかしわざわざ電報を使ってまで会社に連絡するとは、何か大変なことでも起きたのだろうか。
「そういうわけではありません。ただ、出発前にできる限りでいいので定期連絡を入れるようにと社長から指示を受けていまして。灯台に行ったのはそのためです」
「へえ。……やっぱりかつての敵国への派遣だから心配しているのかしらね」
ふと思いついてそう水をむけてみると、ヴァイオレットは一度口籠って、それからゆっくりと口を開いた。
「……誤解を恐れず言えばそのとおりです。気を悪くされたのなら、申し訳ありません」
「そんな、気にしなくていいですよ。こちらこそ意地の悪い事を言ってごめんなさい」
流石に少し気まずそうに見えるヴァイオレットに対し、気にしていないと苦笑しながら手を振ってみせる。
大陸間戦争が終わって早くも三年の月日が流れたが、戦争の傷跡は今も各地に残っている。特に人々の心に刻まれた傷はそう簡単には癒えないだろう。そう考えれば、仕事とはいえ、因縁深いかつての敵国に部下を送り出す事になった彼女の上司の心配は最もなことだ。
――それに比べてわたしはどうだったかしら。
島民に請われて島の学校を任されてからもう8年の月日が経った。教師として子供たちに寄り添い、様々な教えを授け、また大人たちの相談に乗ったりもした。そうして島のために働いてきたのは事実で、島の誰に聞いてもアニーの功績を自分のことのように誇らしげに語ってくれるだろう。
――でも。
自分がこの島で行った事はそれだけじゃない事を他ならぬアニー自身が知っている。自分が撒いた種がもたらした悲劇を知っている。良き隣人、家族といってもいい島の男達が戦地に赴こうという時に自分が何をしたか。あるいは何をしなかったかを知っている。
彼ら自身がそう決めたのだからと止めることなく見送ったが、それは都合のいい言い訳だったのではないかという自分への糾弾は、決定的に自分の愚かさを思い知ったあの日からずっと続いている。
そう、彼の戦死が知らされたあの日からずっと。
――ああ、いけない。せっかく少し気分が上向きになってきていたのに。
これでは台無しだと、アニーはまた暗い方向に行きかけていた思考を無理やり中断させた。
「アニーさま、どうかされたのですか?少し顔色が悪いように見受けられますが」
「……ああ、昨日遅くまで起きていたからそのせいかもしれないですね。だから、ええ。大したことじゃないです」
心配そうに声をかけてきたヴァイオレットの問いかけに、首を横に振りながらそう返す。
そうだ、なんでもないのだ。わたしの苦しみなんて、悩みなんて大したことではない。そう自分に言い聞かせ己の気持ちに蓋をすると、改めてヴァイオレットとの会話に意識を集中する。それは一時しのぎにしかならないと自分でも薄々感じながら。
◇
『すまんな、先生。近所の奴にも頼んだが、留守の間ガキたち以外に女房の事も気遣ってやってくれ』
――わかりました。できる限りの事はしますから、その点は心配しないでください。
遠ざかる船の上から家族に向けて手を振り続けていた漁師の男は、大砲の直撃を受けてバラバラになってしまったらしい。彼の家族は今も一週間に一度の墓参りをやめようとしない。
『実際のところどうなんですかね、先生。この戦争は勝てるんでしょうか』
――………確実なことは分からないです。でも全く勝ち目がないなら、とっくに北東諸国連合が降伏して戦争は終わっていると思いますよ?
戦争の勝敗を心配していた農家の青年は、陣地に奇襲を受けてあっけなく死んだそうだ。自分の尤もらしい戯言をいつまで信じていたかは………わからない。
彼らだけじゃない。島から戦争に行った全員が死んだ。殺された。帰ってこなかった。
誰かの父親がいた。夫がいた。息子がいて兄弟がいた。戦火は分け隔てなくその全員を飲み込んで、骨一つ残しはしなかった。
『先生。アニー先生』
そうだ、例外はなかった。
『こんな気持ちになったのは、きっと俺が先生のことを』
貴方も例外ではなかったのだ。
◇
アニーが自室のベッドの上で目を覚ますと、まず視界に飛び込んできたのは夕陽の色に染まった自分の部屋だった。
少し休むつもりでベッドに横になったのだが、どうやら疲れが溜まっていたらしい。随分深く眠ってしまったようだ。
眠る前はまだ空高くに居座っていたはずの太陽は大きく傾き、名残を惜しむように濃いオレンジ色の光を地上に向けて放っている。開け放たれたままだった窓から吹き込んでくる風からは、この季節にしか咲かない花の香りが感じられて、時間が確実に流れていることを実感する。
――もうじき感謝祭なんですね。早いなぁ。
改めてそれを意識したアニーの表情が固くこわばる。罪人である彼女にとって、いまや感謝祭は犯した罪の重さを忘れないための儀式だ。罪から目を背けるつもりはないが、気持ちが沈み込むのは仕方ない、はずだ。
――気晴らしに作りかけの栞を仕上げましょうか。
しかしどうも気分がのらない。夕食の準備も昼の残りがあるから急いで行う必要もないし、どうにも手持ち無沙汰だ。
――なんでしょう。今年の感謝祭がいつもと違うのを意識しちゃっているんでしょうか。
考えても答えは出てこない。そのままどれくらいぼんやりしていただろう。モヤモヤした気持ちを抱えたまま、なんとなくアニーは部屋を出た。
上から見れば長方形に見えるであろうアニーの家は、古い邸宅を手直ししたものだ。その構造はシンプルなもので、玄関を抜けてすぐにある台所兼食堂の土間から二本の廊下が伸び、それぞれが客室と寝室に繋がっている形だ。さして長くない廊下を抜けたアニーは、足を踏み入れた土間に一つの人影を認める。
この十日間代筆依頼のためこの家に滞在し、昨日めでたく全ての手紙を書き終えた、美貌の自動手記人形。窓から差し込む溶けるような赤い光の中、こちらを見つめるヴァイオレット・エヴァーガーデンは、まるで一枚の絵画のようにそこに存在していた。
「ヴァイオレットさん。戻っていたんですね」
「はい。灯台に行った後、少し島を回っていました。戻ってきたのはついさっきの事です」
「そうなんですね。それで?会社の方と連絡は取れたんですか?」
「はい、幸い急を要する依頼の追加や変更もなく、今後のスケジュールへの影響は、あったとしても極めて軽微なもので収まりそうです」
「それはよかった。じゃあ今日も引き続きここに泊って、明日出発、でいいんですね」
本来なら、今日の定期船で島を離れるはずだった彼女がまだ島にいるのには当然訳がある。といっても説明が難しいような事ではない。今朝になって彼女が乗るはずだった船にトラブルが発生し、定期船の運行予定が狂ったというだけ。明日には臨時の船が島を訪れることになっているのだが、何か月も先まで予約が詰まっているという売れっ子の自動手記人形にとっては大問題である。とにかく会社に事態の報告を行い、今後の予定の確認をするためヴァイオレットは灯台に向かった訳だが……どうやら目的は果たせたらしい。突発的な予定変更についても大きな問題は起きなかったようで何よりだと、アニーは胸をなでおろした。
「はい。アニー様にはご迷惑をおかけする事になりますが、もう一晩だけお世話になります」
「そんな、改まらなくてもいいんですよ?うちの客室なんて年単位で使わない、物置代わりにしているような部屋なんですから。むしろこちらの方が恐縮しちゃいますよ」
礼儀正しく頭を下げるヴァイオレットに、アニーは気楽に笑いかけた。確か今朝も同じようなやり取りをしたなと思い返し、つくづく真面目だなと苦笑する。
「……そう、ですね。冗談が通じない、という類の評価は何度もされました。自動手記人形なのだから、そういった表現や言い回しにも詳しくならなければと、喜劇の本などで研究もしているのですが、なかなか難しいです」
「ああ、なるほど……」
それこそ人によっては冗談と取られそうなセリフだ。だがヴァイオレットにそんなつもりが無いことは、一時の雇用関係で繋がっているだけのアニーにも容易にわかった。
――なんだか、彼に似ているかも?
本人としてはふざけているつもりは無いのにどこかズレていて、でも真面目な努力家で。彼もそんなところがあった。身寄りがないという環境にめげず、夢を目指して歩き続けることができる、強い人間だった。
でも、彼の夢は叶わなかった。彼もあの戦争に行ったから。自分が見送ってしまったから。彼は帰ってこれなくて、
――まって。
そこでアニーはあることに気づいた。
明日に迫った感謝祭、そこで海への贈り物と共に捧げられる死者への手紙。島から戦地に赴いたのは、ほとんどが手紙の代筆を頼んだ子供たちの父や兄弟だが、一人だけそうでない者がいることを思い出したのだ。
この懸念が自分の思い過ごしであればいいと願いながら、確認のため、おそるおそるヴァイオレットに質問を投げかける。
「……ねえ、ヴァイオレットさん。一つ聞きたいことがあるんです。ウィリス・エーデルワイスという人宛の手紙を頼んだ子はいますか?」
「ウィリス様、ですか?いえ、記憶にありません」
「……っ。ですよね」
予想はしていたが実際に言葉として聞かされると思っていた以上にきつくて、思わずため息が漏れる。
確かに彼は、時々自分の手伝いとして子供たちの相手をしてくれたこともあるがそれだけだ。若いとはいえ一人前と見なされていた彼は、子供たちからしてみれば少し歳が離れているだけの大人で、特別に親しい相手ではなかった。特別に手紙を送る相手とは思えないだろう。
――でも、そんなの……。
ふと視線を感じた気がして顔を上げると、まっすぐにこちらを見つめる碧い瞳と視線があった。どこか気遣わしげな様子のヴァイオレットにアニーは苦笑しながら「なんでもない」と返そうとして……できなかった。
機械のように真面目で、淑女のように礼儀正しい彼女のことだ。そう答えればこれ以上不躾な詮索をしようとはせず、この話はそれきりになるだろう。
――でも……。
同時に、よそ者で真面目な彼女になら答えてもいい気もしたのだ。
ウィリスのことを話そうと思えば、島の誰にも話さなかった、話せなかった自分の罪にも触れなければならなくなる。もちろんそれはとても恐ろしい。だが同時にこの秘密を一人で抱え続けることに限界を感じている事も事実なのだ。
「そう、ですね……。ヴァイオレットさん、つかぬ事を聞きますけど、代筆自体は終わっても、島を離れるまでは依頼は続いていると考えていいですか?」
迷いながら切り出したアニーの唐突な問いかけに対し、ヴァイオレットは少し考える素振りを見せた後うなずきを返した。
「はい。そう考えていただいて問題はありません。ですので、例えば取得した依頼人の個人情報の秘匿といった職務規定に対する義務も消滅していません」
どうやら言いたいことをきちんと理解してくれたらしい。彼女が聞いた秘密は漏らさないと誓ってくれたなら、その言葉を翻すことはないだろう。
その事に安堵を覚え、背中を押されるようにして、アニーは抱え込んでいた秘密を誰かに話す決意を固めたのだった。
◇
好んでその道を選んだわけではなかった。
ガルダリクではそこそこの軍人家系の端っこに生まれ、家のしきたりだからと軍人になることを求められて軍学校に入った。
それを嫌だと言うことも、仕方ないと飲み込んで励むことも出来ずただ流された。それがアニーラ・ユーカリプタスという人間だった。
そしてそんな程度でどうにかなるほど軍人というものは甘くはなかったのだ。
「あれこれ学ぶのは好きでしたけど、でも軍人である自分がどうしてもイメージできなくて、授業にも身が入らなくて、結局落第。家にも愛想を尽かされちゃったんです」
絶縁状と共にほとんど着の身着のまま追い出されて、でも特に感じることはなかった。曇天の空の下、雪がちらつく道端でこれからどうしようかと呆然としてはいたが、帰る家を失くしたことに対しては自分でも驚く程何も感じなかった事を覚えている。
そうなってはじめて、自覚していた以上に自分は軍という生き方が合わなかったのだと理解したことが、収穫といえばそうだろうか。
「それでも軍学校で体力や色々な知識、技術は身についていましたから、それを頼りに日雇い仕事をしながら各地を回りました。特にやりたいこともなかったから、なんとなくいろんな場所を見てみようと、そう思ったんです」
エカルテ島を訪れたのは、そんな根無し草のような暮らしを始めて一年ぐらいした頃だろうか。
緑の草原。水平線まで見渡せる美しい海。そして素朴で温かい人たち。故郷にはなかったそんなものに惹かれ、代筆屋の真似事などしながらズルズルと滞在を伸ばしていたある日の事だ。鮮やかな枯れ草色の髪の毛と緑がかった黒い目が印象的な青年がアニーラの前に現れたのは。
『頼みがあるんだ。俺に勉強を教えてくれないかな』
『えっと、たしか貴方はウィリス、でしたよね?』
『そうだよ。ウィリス・エーデルワイス。よろしく』
何者かは知っていた。元々エカルテ島のコミュニティは小さなものだが、子供の頃両親を事故で亡くし、以降共同体が親代わりとなってきた彼は、同年代の者がいないということもあって島では目立つ存在だったからだ。
「それまでこの島にはきちんとした学校はなくて、ウィリスも簡単な文字の読み書きと計算くらいしかできませんでした。島で暮らしていくぶんにはそれで問題はなかったんですけど、それじゃ足りないと、彼は言いました」
『積み重ねた経験で天気を予測したり、一番美味しいタイミングで葡萄が収穫できたり。そういうのもすごいって思う。でも俺はもっと色んなことが知りたいんだ。雲のできる理由や海と空の色が同じ理由。他にも色んなことが。そのためには少し文字が読めるだけじゃ駄目なんだよ』
熱っぽく語るその勢いに押し負けるように、アニーラはウィリスに勉強を教え始めた。色々なことが知りたいと語っていただけのことはあり、彼は好奇心旺盛ないい聞き手であり、生徒だった。
「ちょっとした暇つぶしのつもりで付き合っていたんですけどね。わたしもだんだん面白くなってきて、わざわざ大陸から本を取り寄せたりして色々教えて。そうしたらいつの間にか先生と呼ばれるようになっていたんです」
そしてこれが島の学校の教師にと乞われたきっかけでもある。だから、そう。いうなれば、彼はアニーラの最初の教え子だった。
その関係は彼女が正式に子供たちみんなの先生になっても変わらなかった。共に過ごす時間は減ったが、それでも機会があれば様々なことを教えたし時には彼に教えられることもあった。ウィリスのほうが四つ年下だったが、努力を惜しまない彼の成長はそれほど著しいものだったのだ。
『ねえ、先生。俺さ、今金をためてるんだ。大陸への留学資金さ。いつか大陸にいってもっといろんなことを学びたいんだ』
『わあ。それはいいですね。島の人たちは反対するかもしれないし、正直わたしも君がいなくなったら寂しいですけど……うん、でも応援しますね』
だってわたしは先生で生徒の夢を後押しするのが先生だ。そう言って微笑んで見せると、ウィリスはあきれたように、あるいは照れくさそうに目を細めた。
『早合点するなよ、先生。俺の夢はそこで終わりじゃない。そうしてたくさんの事を学びおえたら、俺は島に帰ってきて教師になりたい。先生と一緒に島の子供たちに生きるために必要なことや為になること、それに何より、知らないことを知る喜びや学ぶ楽しさを教えてやりたいんだ。それが俺の夢なんだよ』
気恥ずかしそうに笑う彼の言葉がとても嬉しくて、反射的に抱きついてしまったことを覚えている。顔を真っ赤にした彼が飛び退こうとしてひっくり返ったのもいい思い出だ。
「幸せで満ち足りた日々でした。でも、あの戦争が起きて全てが壊れてしまったんです」
祖国が発端になった戦争は、瞬く間に大陸中に広がった。収まる気配を見せない戦火に当時ガルダリク領だったエカルテ島も無関係でいることなどできるはずも無く。志願兵募集の報せが来たのは戦争が始まって一年が過ぎた頃。
エカルテ島は時代に取り残されつつある島だ。美しい自然や特産品のワインなど見るべきものはあるが、交通の便は悪く最新の技術や流行なんてものとも縁遠い。大陸ではすごい勢いで広まりつつある電話や電気の恩恵も、未だこの孤島には届いていないのだ。そんな島の状態は戦争が始まる前からおんなじで、それに不安を覚える者たちにとっては、志願兵募集の通達に添えられた『ガルダリクが戦争に勝てばこの島ももっと豊かになる』と尤もらしい言葉は、極めて魅力的に映ったのだろう。あれよあれよという間に年寄りと子供を除いた島の男たち全員が志願を決めた。
「とはいえやっぱり不安だったんでしょうね。島の外の世界を知っていて、いろんなことに詳しいと思われていたわたしに相談してくる人が大勢いました」
留守の間家族を気にかけてやってくれと頼む男がいた。この戦争の勝ち目はどのくらいかと気にする男がいた。その全てにアニーはできる限り真摯に答えた。
ただ今振り返ってみれば、自分も彼らと同じく戦争というものをどこか軽く捉えていたのだと思う。
何かを得るための戦いには犠牲がつきもので、その犠牲に自分の近しい者たちも選ばれる可能性があるなんて。払った犠牲に釣り合うなにかが得られる保証などないなんて。知っているつもりで理解はしていなかったと思い知ったのは彼の、ウィリスの戦死通知が届いた時だった。
「あと帰ってきたのは、認識票と兵舎に残されていた遺品だけ。彼の体は髪の毛一本すら戻ってきませんでした」
今も思い出すだけで心が冷える。罪悪感でどうにかなってしまいそうになる。あの瞬間からアニーは、決して消えない罪を背負った罪人になったのだ。
◇
「彼は何も聞きませんでした。戦争に行く前、最期に会ったときも。何で戦争に行くことを決めたのか、わたしが尋ねたら彼は事も無げに言ったんです。『島の発展だけじゃない、わたしの、先生の生まれた国のためだから』って」
咄嗟に何か言おうと思って、でも湧き上がってきた幸福感に飲み込まれて何も言えなかったと話すアニーの顔は、懐かしそうにも嬉しそうにも辛そうにも見えた。
「おかしいでしょう?もうその時のわたしには、ガルダリクは既に帰るべき故郷ではなく生まれ育った場所でしかなかったのに。でもそんなことに彼は戦地に赴くほどの価値を見出してくれているんだと理解した瞬間、まるで自分のすべてを無条件に肯定されたように思えたんです」
そして、なんだか無性に恥ずかしくなり、頬を染めて固まったアニーを真っ直ぐに見つめて、同じように顔を赤くしたウィリスはその言葉を発した。その言葉をアニーは一生忘れることはないだろう。
『他の誰かだったらこんなことを思ったかわからない。こんな気持ちになったのは、きっと俺が先生のことを好きだからだと思う。うん、つまり……愛、してるんだよ』
「始めてでした、そんなこと言われたの。驚いたけど、とても嬉しくて幸せで……」
だからこそ、アニーはそれに目が眩んで彼を止められなかった自分が許せない。
連鎖するようにして脳裏に浮かぶのはウィリスの戦死が知らされた日のこと。小さな荷物の箱の中に収められた戦死通知と認識票を目にした時の衝撃も一生忘れることは無いだろう。それはまるで幸せな思い出に浸ることを許さないとでも言うように、ウィリスと過ごした記憶の全てにまとわり付いている。
「もっとはっきり止めればよかったんです。わたしはもうガルダリクのことなんてなんとも思っていないから、だからそんなものは戦いに行く理由にしなくていいって、そう言えばよかった……いいえ、そもそもわたしと親しくなったりしなければ。彼は戦いにも行かず死ぬようなことにはならなかったのではないかと、そう思うんです」
自分が罪人なのだと自覚したあの瞬間から、心の中にずっと巣食っていた気持ちを軒並み吐き出して、アニーは大きく一つ息をついた。
「今回の依頼は子供たちに気持ちの整理をつけてもらうのが大きな理由で、だから子供たちとの関係性が薄いウィリスには手紙が出されない可能性があることに気づかなかった。またわたしは彼への対応を間違えてしまったんです。今更貴女に話したところでどうなるものでもないですけど、気づいてしまったら一人で抱えているのがなんだか辛くて……」
身勝手なことを言っていると自分でも思う。それでも誰かに打ち明けたくて仕方なかったのだ。
一通り言いたいことを話し終えて、力が抜けたアニーは背もたれにもたれかかった。体重をかけられた椅子がぎしりと小さく不満の声を漏らす。
静まり返った室内に、少しの間、暖炉の燃える音だけが響いていた。
「……アニー様も、ウィリス様のことを愛しておられたのですね」
「愛していた……のかはわかりません。わたしはあの時まで彼のことを特別ではあってもあくまで教え子としか見ていませんでしたから」
ただ好ましく思っていたことは確かだ。結局教師と生徒という二人の関係は、あの告白で最初の楔が打ち込まれたまま戦争によって全て壊れてしまったが、もしも彼が死ななければ異なるものになっていた可能性はあるだろう。その程度には自分がウィリスのことを好ましく思っていたことを、アニーは自覚していた。
「では一つ提案があります。アニー様がウィリス様に宛てて手紙を書いてはどうでしょうか」
「え……手紙?わたしがウィリスに?」
反射的に聞き返してしまったが今までそれを考えなかったわけではない。それこそ彼の死亡通知が届いたあの日から、この胸の中で複雑に渦巻く気持ちを手紙という形にして彼に届けられたらと何度も考えてきた。しかし、
「わたしは……駄目です。わたしには書けません」
彼が死ぬ原因を作った自分がいったい何を伝えればいいというのか。こんなつもりはなかったという言い訳も、許してほしいという懇願も、せめて安らかにという祈りですら、今の自分では薄っぺらいものにしかならないだろう。
俯いたままのアニーの言葉をヴァイオレットは黙って聞いていたが、やがて何かを決意したように小さく一つうなずくと口を開いた。
「私が力をお貸しします。アニー様の想いがウィリス様に伝わるよう、自動手記人形として力を尽くします」
「依頼したのは子供たちの手紙の代筆でそれはもう終わっていますよね。改めて依頼を出す余裕はないですよ?」
「我が社の契約上は、帰路につくまでは暫定的に依頼は継続中という扱いになります。その上で今回は大口の依頼をいただいたのですから、追加の代筆一つぐらいなら料金は安く済ませられます」
「で、でも感謝祭は明日です。流石に時間が……」
「確約は出来ませんが、一晩の猶予があれば問題はないと思います。もしも間に合わなかった場合はもちろん料金はいただきませんので、少なくとも損をすることはないかと」
「あ、う。そうは言っても……」
理路整然としたヴァイオレットの言葉に、アニーは答えに窮した。断る理由を探して意味もなく視線をさまよわせるが、都合よく適当な言葉が壁に浮かび上がってくるなんて事がある訳もない。
「もちろんアニー様が、伝えたいことも何もないというのなら、私もこれ以上は何も言いません。ですが、言葉では伝えられないこと、話しにくいことも手紙でなら伝えられます。アニー様が誰かに何かを伝えたいのなら、私はそれに力を貸したいのです」
「……なんでそんなに親身になってくれるんですか?わたしは貴女の友達でも家族でもないのに」
こんな自分には手紙を書く資格すらないとアニー自身が自分に見切りをつけてあきらめてしまっているのに、なぜ彼女は手を差しだし続けるのだろう。あるいはこれが自動手記人形の基本的な姿勢なのだろうか。
「……人の思いに寄り添う自動手記人形として、役目を果たしたいという気持ちもあります。あとは……そうですね、アニー様に同情のような感情を抱いているというのも関係していると思います」
「え?」
「詳しい事を話すことは出来ませんが、私もかつて罪を犯し、その上で命より大切な方と離れ離れになりました。任務の後始末で忙しいとだけ聞かされて、どこにいるのかも分からず、会うことはおろか入院中の身では通信にも頼れなくて。手紙ならばその方に自分の気持ちを届けられると考えたのが、私が生まれて初めて手紙を書こうと思ったきっかけでした」
罪。生き別れ。飛び出してきた思いがけない重たい単語にアニーは戸惑う。衝撃的な話の内容とは裏腹に、それを語るヴァイオレットの口調はただ事実を列挙しているだけのように淡々としたもので、一見突拍子もない彼女の話の信ぴょう性を増していた。
「あの頃の私は文章一つまともに書けないような有り様でしたが、そんな事は関係なかった。仮に誰かに『罪人のお前に手紙を書く資格はない』と指摘されたとしても、ペンを取って便箋に向かったでしょう。結局その時はいくら書いても返事が返ってこないことに疲れ果てて手紙を出すことはしなくなってしまいましたが、それでも思いを綴ること自体はやめられませんでした。心の中に伝えたい想いがあるのなら。そしてそれを伝えたい相手がいるのなら。人は手紙を書いていいのだと私は思うのです」
静かに、だが強い確信を持って語られたその言葉に、アニーは思わず息を呑んだ。思いがけないことを言われたという驚きと、こんな言葉を求めていたのだという気づきが入り混じって、どんな顔をしていいか分からなくなる。
掘り当てた井戸の水のように書きたいという気持ちが湧き上がってくる反面、そのことに対する恐れのようなものもぬぐいきれない。
「……でも、わたしなんかの手紙を送られて、彼は喜んでくれるのでしょうか」
「……申しわけありません、それについては私ははっきりとした答えを返すことはできません。
「あ、あ。わかってますよ、気にしないで、」
くださいと続けようとした言葉を「ですが」とヴァイオレットが遮る。
そのまま、玲瓏な声が紡ぎあげた言葉を、アニーは一生忘れないだろうと思った。
「ですが一つだけ明らかなことがあります。確かにアニー様は罪を犯したのかもしれません。ですがアニー様はこの島で長年教師として働き、それ以外のものも築き上げて来たはずです。犯した罪は消えません。ですが貴女が行ってきた事も消えないのです」
これが例えば、島のために働いて罪を償ったというような内容であったなら、アニーはうなずけなかっただろう。
だがヴァイオレットの言葉には、そんな優しさめいた甘さはなかった。それはどこまでも冷たくそれでいて真剣で、あの戦争が終わるまでアニーが重ねてきた罪を罪としてきちんと捉え、その上で戦争の後にアニーが島で積みあげてきた日々を肯定したのだ。
――当たり前ですね。わたしは『償いたい』と思っていても、『償えた』とは思っていないんですから。
だから償い続けてきた。償いきれたと言えるときが来るかわからなくても。でもいつまで続くかも知れない、報われるかわからない日々の積み重ねに疲れていたことも事実で。
それを無駄ではなかったと認めてもらえた。ただそれだけで心はこんなに軽くなるものなのだとアニーは初めて知った。
「……ねえ、ヴァイオレットさん」
「はい」
「……手紙、書こうと思うんです。勝手なことを一方的に伝えるだけのものになるかもしれないけれど、それでも彼にこの気持ちを伝えたい。手伝ってもらえますか」
「……はい。喜んで」
ヴァイオレットが小さく微笑む。
その笑みは辛いものを飲み込んでそれでも笑う強さを秘めたもので、いつか自分もそんなふうに笑えるようになれればいいなと、アニーは思った。
◇
首都ライデンの駅は今日も大勢の人であふれている。行きかう人々の波を避けて壁際に立ちながら、ギルベルト・ブーゲンビリアは駅のホームで今の列車に乗っているはずの恋人の姿を探していた。ホッジンズから聞いた話によれば最愛の恋人が出張から帰ってくるのは今日のはずだ。
今回の出張先は戦時中は敵地であったエカルテ島だと聞かされた時から、ギルベルトは気が気ではなかった。今回、普段はしないような無茶をしてまで予定を整理し、こうして駅まで出迎えに来たのは、彼女と一緒に過ごす時間を少しでも多く確保したいと言うのに加えて、彼女のことが心配だったからだ。
一見するとか弱い令嬢にしか見えない彼女の尋常ではない戦闘力については、それこそ本人と同じかそれ以上に理解していると自覚しているギルベルトだが、それとこれとは話は別だ。ホッジンズによれば異常を報せるような連絡はなかったそうだが、直接無事を確認しないと安心できそうになかったのである。
だから聞き覚えのある声が自分を呼んだとき、彼は肩の荷が降りるような感覚を覚えた。
「少佐!」
「ああ、ヴァイオレット。お帰り」
駆け寄ってきた彼女に近づき抱きしめると、ヴァイオレットも抱擁を返してきた。
その温もりも匂いも、全てが愛おしくて仕方ない。そしてこちらを見上げる少し潤んだ瞳は何よりも雄弁に彼女も同じ喜びを感じてくれているのだと語っていて、それがまたギルベルトの中に新たな幸福感を呼び起こさせてくる。
そしてそれはヴァイオレットも同じだった。
名前を呼んでくれる柔らかな声も、こちらを見返してくる優しい微笑みも、感じる度、目にする度に体の奥から何ともいえない心地よさと暖かさが湧いてきて、止まらなくなるのだ。
「今日、きみが戻ってくるはずだとホッジンズから聞いてね。こうして出迎えに来たのだが……迷惑ではなかったかな?」
「迷惑だなんて、そんな事考えもしませんでした」
「そうか。それなら良かった」
思いつきで意地悪な言葉を投げたことを謝りながらギルベルトはお詫び代わりにと彼女の金糸のような髪の毛を指ですき出して、それが無性にくすぐったくてヴァイオレットは目を細めて――その表情を曇らせた。
「ヴァイオレット?どうかしたのか?」
「……ふと考えたのです。もしも少佐と再会することができなければ私はどうなっていただろうと」
思い出すのは島で出会った彼女のこと。
自分を愛してると言ってくれた人を自分のせいで死なせたという罪の意識に苛まれていた彼女は、ヴァイオレットのあり得たかもしれない姿だった。彼女のような思いをした人間を大勢作り出すのに加担した自分がこうして愛する人の体温を間近で感じられるのは、きっとただ巡り合せが良かっただけでなにかが一つ違えばこうはならなかった。
その可能性を考えるだけで心が冷たいものに覆われていくようで、彼女はすがりつくようにギルベルトの体に回した手に力を込めた。
「……ヴァイオレット。もしかして出張先でなにかあったのか?」
「そのとおりです。なぜ分かったのですか?」
「今回君に依頼を出したエカルテ島が戦時中は北側に所属していたことは知っている。それに加えて、普段私に心配をかけさせまいと辛いことがあってもうまく隠してしまう君が、あっさり見て取れるくらいに不安そうな顔をしていればなんとなく察しはつくさ」
ギルベルトの顔に浮かぶ明快な心配の色に、ヴァイオレットは申し訳なくて仕方なくなる。久しぶりの逢瀬だというのに喜ぶ恋人にこんな顔をさせる自分を情けなくも思う。
だけどなんとか誤魔化そうとはヴァイオレットは思わなかった。それは自分の罪から目を背けるようなことだと思ったし、それにギルベルトに嘘をつくようなこともしたくはなかったのだ。
「……あの戦争で親しい人を亡くした子供たちが失った家族彼に送る手紙の代筆を頼まれたのです。島の男性はほとんどが先の戦争から帰ってこなくて、島の代表として依頼を出してきた方も、『愛してる』と告げられた相手が帰ってこなかったそうです」
「……そうか」
「その意味も知らず道具として多くの命を奪ってきたこと、にもかかわらず今こうして……こい、びととして少佐の隣にいられること……。それがとても、申し訳ないと思ってしまって」
ライデンシャフトリヒを始めとするかつての敵国への恨みや憎しみを彼女が口にしなかったことも、ヴァイオレットにとっては辛いものだった。
自分の体中に癒えない火傷ができていることを自覚し、それは生涯抱えていくしかないものであることも理解しているが、自分の背負っているものがどういうものか、改めて目の前に突きつけられたような気がしたのだ。
「……すまない、ヴァイオレット。君のその苦しみを拭い去ってあげられればいいのだが、それはできない」
「はい、理解しています」
「だがヴァイオレット。罪を抱えて歩く君を隣で支え続けることはできる。……いや、違うな。私がそうしたいんだ」
ギルベルトはそこで一度言葉を切った。こちらを見つめる翠玉の目がひときわ強く光った気がする。ヴァイオレットは自分の心臓が跳ね上がるのを感じた。
「それに君の罪は私にも無関係ではない。だから君がそれを一人で背負う必要はないし、私に弱音を吐くことを遠慮する必要はないんだ」
「はい……」
「ヴァイオレット。君は生涯をかけて私を守ってくれるのだろう?ならば私は生涯をかけて君を支え続けよう。そうして、共に精一杯生きていけばいいんだ」
「……はい」
ヴァイオレットは自分を抱きしめる腕に更に力が込められた。ギルベルトの体から伝わってくる熱が自分の体も暖めていくようで、そして小さな棘のように冷たいなにかが残ったままでいることを感じて、少しだけ寂しげに微笑む。
この冷たいなにかは見えない火傷と同じ、消えないものであり、消してはいけないものだ。最愛の人に支えられながら、最愛の人を守りながら、ヴァイオレットが最期の瞬間まで抱えていかなければならない、取り返せない過ちだ。
――それでも。
支えてくれる人がいる自分は幸せなのだろう。島を去るヴァイオレットを見送る時の彼女の笑顔を思い浮かべる。
大切な人が帰ってきた自分がこんなことを願うのはおこがましいのかもしれない。だが、それでも。
ギルベルトの腕の中であの日の島のように晴れた青空をその眼に映しながら、ヴァイオレットは少し陰のある笑顔を浮かべていた彼女が、いつかまた陽だまりのように笑える時が来ることを祈った。
◇
「では捧げ物を海へ」
朗々と語られていた祈りの言葉が終わった。進行役を務める老婆の声を合図に、島民たちは思い思いに手にしていた捧げ物を断崖絶壁の下、青い海へと向けて投げ込みはじめる。
いつもなら花と貝殻で飾られた手作りの花冠だけなのだが、今年はそれだけではなく、色とりどりの封筒も一緒に風に舞っている。ヴァイオレットが代筆した手紙は、彼女に気持ちを預けた子供たちの手から、花冠と共に遥か彼方に逝ってしまった人たちの元に届けという願いを込めて海へと投じられていく。
海風に髪を煽られながら、アニーは手にした手紙に落としていた目線を上げた。見上げた空はどこまでも青く澄み渡っていてどこか物悲しく、死者に思いを馳せその気持ちに区切りをつけるにはもってこいの天気のように思える。
――ウィリスと最後に過ごした日も、こんな空でしたね。
突然の告白に顔を真っ赤にしたむず痒い感覚や同じように顔を赤くしながらまっすぐにこちらを見つめてきた彼の表情。思い出すたびに心の傷を抉っていた在りし日の思い出に、焼けつくような痛みや罪悪感が付随してくることはもうなくて。胸を刺すような悲しみと心に穴が開いた苦さはあるが、それだけだ。
そんな自分の変化に驚きながら、アニーはそっと心の中でウィリスに語りかけた。
――ねえ、ウィリス。貴方が戦死したと知ったあの日からずっと、わたしは貴方に会うべきではなかったと思っていました。そうしたら貴方は戦地で死ぬようなことはなくて、わたしも辛い思いをせずに済んだだろうにって。
でもウィリスに手紙を出すことを決めて、改めて自分の気持ちと向かい合ってみて気づいたのだ。これは自分を責めているようで、その実は教え子の不幸を自分を腐らせたままにする言い訳にしていただけではないかと。過去を忘れないことと過去に囚われることは違うのだ。
――だから、そんなのはもうおしまいにしますね。
過去をなかったことにするわけではない。心に空いた穴はきっともう埋まらないし、それが激しく傷む夜もあるだろう。でも、築き上げてきたものもこの手の中に残ったものもあると気づけたから。見つけたそれをしっかり抱えて、進めなかった彼らのぶんまで自分は先に進んでいかないといけないのだ。
未練を手放すようにそっと手紙から手を離すと、折よく吹きつけてきた風に乗って封筒はあっという間に彼方へと運ばれていく。封筒が青い空に溶けるように見えなくなるまで見送ると、アニーは小さく息を吐き出した。
捧げ物が終われば、感謝祭は一区切りだ。厳密にはこのあとみんなで集まっての宴会があるが、それは余録のようなもの。張り詰めたような空気はだいぶ薄れて、宴席の準備が終わるのを待つ間、島民たちはそれぞれ集まって死者の思い出話や雑談に興じている。
「ねえ、先生。あたしの手紙、きちんとお父さんにとどいたかな?」
「そうですね。きっと届きましたよ」
「先生、おれのは?兄ちゃんに届いたと思う?兄ちゃん、読んでくれるかな?」
「ええ、きっと大丈夫です。心配はいらないですよ」
膝を折って子どもたちと視線を合わせると不安の色が見え隠れする彼らを励ますように柔らかく微笑んでみせた。
死んだ人間に手紙が届くわけがない。もちろん読まれるはずもない。死者への便りなどただの自己満足だと、現実的な者は言うかもしれない。以前のアニーもそう考えたかもしれない。だけど。
彼女のことを思い出す。依頼人の言葉に耳を傾けながら軽快な指さばきでタイプライターに向かう黄金色の髪の自動手記人形の少女、ヴァイオレット・エヴァーガーデン。ほんの僅かの間仕事で共同生活を送っただけなのに、その姿も、声も、そして言葉も。彼女の見せてくれた全ては、とても鮮やかにアニーの中に残っている。
自分に手紙を書く資格などないと諦めていたアニーを「手紙でなら伝えられる言葉もある」と諭してくれたこと、突拍子もないように思えるそれを信じさせてくれたことも。
だから今アニーもただの誤魔化しではなく。心の底からそうであれと願い、そしてそうなると信じながら、子供たちに語ってやれるのだ。
「直接伝えることができない言葉であっても、手紙ならば届くんです。きっと水平線と空の交わるはるか彼方に旅立ってしまった人たちのところにも」
きっぱりと言い切った言葉が子供たちの顔に滲んでいた不安の影を拭い去るのを見て、アニーはほっと息をつく。そのまま立ち上がると、ふと海の方に目をやって目を細めた。
――ヴァイオレットさんは今頃どうしているのかしら。
今も依頼のためどこかの道を歩いているのだろうか。それともタイプライターを叩いて依頼人の心に寄り添った美しい手紙を綴っているのか。あるいは再会できたという大切な相手とライデンの街でお茶など一緒にしているのかもしれない。
それはアニーが手に入れることのできなかった風景でそれが羨ましくないわけではないけれど、自分にも手に入れた景色があるのだと今は知っているから。
「先生、お母さんたちが呼んでるよ。ご飯の準備ができたって」
「そうですか。じゃあ行きましょう」
子供達に引っ張られるようにしてアニーは走り出す。その足は決して早くはなかったが、彼女は立ち止まることなく島の住人たちの元へと駆けていった。
◇
今も嬉しく思います。
貴方の成長を間近で見守れたことを。
今も後悔しています。
貴方の道を決めてしまったことを。
あの時別の道を示すことができていればと、取り返しのつかないことを取り返す妄想を捨て去ることはできないけれど。
あなたと出会って手に入れたものを全て抱えて、わたしは歩いていこうと思うのです。
ユーカリプタス(ユーカリ)の花言葉は「再生」「新生」「思い出」。
エーデルワイスの花言葉は「大切な思い出」。
ストーリーやキャラ設定に合いそうな花言葉及びそれを持っている花を探すのは楽しかったです。