フィールドワーク。
ある調査対象について学術研究をする際、
そのテーマに即した場所を実際に訪れ、
その対象を直接観察し、
関係者には聞き取り調査やアンケート調査を行い、
そして現地での捕獲や採取を行う――学術的に客観的な成果を挙げるための調査技法のこと。
調査期間も日帰りから数年に及ぶ長期滞在型まで幅広く、その目的や規模によって千差万別である。
「――つまり、オダマキ研究所の調査研究にツツジ先生もご同行される、と?」
「仰る通りです、学長。しばらくお暇をいただきますわ」
「それは構いませんが……急ですね」
「はい。ですから諸々のお仕事や授業の引継ぎ等を済ませて――2週間後に出発予定です」
「ふむ……ちなみに、ツツジ先生じゃなきゃダメなんですか、その同行者というのは」
「今回は『マボロシ島』を含む未開拓エリアの調査ですので、ジムリーダー資格を持つ人間が居ると何かと都合がいいのです」
「ああ、特定区域の調査許諾とか希少種の捕獲許可とか厄介ですからね……。
確かに、この辺でジムリーダーと言えばカナズミのツツジ先生か、トウカのあの人しか」
「あの
「……先生、素が出てらっしゃいますよ?」
「あら、ごめん遊ばせ」
「ともかく、事情はわかりました。それで、調査期間はどのくらいですか?」
「予定では2ヵ月、最長で80日までとのことです」
☆
「――と、言うわけで、ボクの授業は今日で最後になります。いままでお世話になりました」
教育実習の最終日、生徒たちからの温かい拍手が教室に鳴り響く。
割れんばかりの、という形容が似合う、気持ちの込められた柏手が連鎖する。
「ルビーせんせー!」
拍手の波の中、ひとりの女の子が代表して、小さな袋を持って彼へと近づく。
「いままでありがとうございました」
感謝の言葉と共に渡されたのは、緑色のバンダナが巻かれた白い帽子。
「わぁっ。どうしたの、これ」
「私たちからの気持ちです。ほら、せんせーオシャレとか気にしない人だからさ!」
クスクスと小さな笑い声があたりから漏れる。
そう評された彼の服装は、シャツに白衣、という機能美にのみ特化した有様だった。
「ありがとう! これで寝ぐせを直さなくても外に出られそうだよ」
「もう、それじゃあプレゼントの意味ないじゃん!」
少女の呆れ声を皮切りに、教室は大きな笑いの渦に巻き込まれる。
そんな周囲の笑い声に紛らわせるように、
「……あ、それと、これも」
彼女は素早く別の小さな袋を彼の手に忍ばせる。
少し開いて見てみると、
「これは……」
それは、珍しい『きのみ』を加工したブローチだった。
「私からの、気持ちです」
彼はまず、手のひらのプレゼントを見て、
次にじっと少女の顔を見て、
彼女の眼に溜まったものをハンカチで拭い、クシャクシャっと頭を撫でた。
受け取ったものと受け止めたものを胸に、カナズミでの教育課程は終りを迎える。
ルビーがポケモン博士号を取得するまで、残る単位は「フィールドワーク」のみ。
「元気でね、せんせー」
「ありがとう、キリ。大事にするよ」
☆
「おや、ルビーくんとツツジさん。今お帰りかな」
「はい。今日が実習の最終日でしたので」
トウカの外れの浜辺で小気味よくランニングをするカブが見つけたのは、例の如くミシロへ帰路に向かうルビーたちの姿だった。
「カブさんはトレーニングですか?」
「うん。ちょうど午後のカリキュラムが終わったところ。これからバトルの試験だから、調整も兼ねてね」
『ポケモン取り扱い免許証』の取得及び再発行は、各地のジムで手続きが出来る。
ミシロのオダマキ研究所に身を寄せているカブは、最寄りのトウカジムをその場所に選んだ。
「明後日の出発までに間に合いそうですか、カブ様」
フィールドワークへの同行は予算の問題から1名の予定だったが、
『ジムリーダーとしての修業を兼ねて参加するため、己の旅費は自腹を切る』というツツジの発言を受け、暫定的にツツジ、カブの両名が参加することになっていた。
無論、出発までにカブが免許の再取得に間に合わない場合はツツジのみ同伴となる。
「最善は尽くすよ。それを決めるのはぼくじゃなくて、センリくんだ」
首にかけたタオルで汗を拭い、ツツジの質問に答える。
かつては諸国のリーグで頂点に手が届くか、とも言われたスター選手の輝きはない。
プライドも実績も棄て、ゼロから始める覚悟はとっくに決まっていた。
「ホウエンで一番厳しいジムリーダーだって有名ですもんね、センリさんは」
「彼のストイックさはぼくも良く知っているよ。昔からバトルには手を抜かない人だったからね」
そんなカブの言い方に、伝聞ではなく実体験を感じたツツジは思わず、
「? カブ様、トウカのジムリーダーとお知り合いでしたの?」
そう、弾みで訊いてしまった。
「あれ、言ってなかったかい。彼もぼくの後輩なんだよ」
「……初耳ですわ」
ホウエンに住む人間にとって、センリというトレーナーは謎が多い人物だった。
ある日突然やってきたかと思うと即座にジムリーダーに就任し、それでいて恐ろしくバトルの腕が立つ。
愛想もなく、バトルに集中するために外部との交流も最小限で、市民どころかジムの門下生ですら滅多に口は聞いてもらえないという。
ジムリーダーとは街の代表であるという考え方から、その土地に根差して交流を深めていく風潮が強いホウエンに於いて、その在り方は異質に映った。
そんな彼の人となりを知る人物がいる、というのは、ジムリーダーとしてセンリに思うところがある彼女にとっては寝耳に水だった。
「彼とオダマキくんが元々同窓で、学生時代はよくバトルをしたよ。最も、当時はぼくが教える側だったんだけど」
「すると、センリ氏もホウエンのご出身で?」
「ん……そこまでは聞いたことがないな。確か、ジムリーダーになるためにジョウトに移住してたことはあった気がするけど」
「ジョウトに?」
「うん。こっちでの就任が決まったから奥さんと娘さんを呼び寄せた――ってとこまではオダマキくんから聞いていたから。
確か4,5年前の話だったかな」
今まで得体の知れなかった男の素性がズルズルと出て来る有様に、ツツジは驚きよりも呆れに近い感情を抱いていた。
「ミシロにご自宅があることまでは知っていましたが、娘さんまでいらしたのですね……」
「? あれ、知らなかったのかい、ツツジくん」
「ええ、てっきり――」
奥様との二人暮らしかと、と続けようとしたツツジの耳に、更に未知の情報が届く。
「今のホウエンのチャンピオンが、センリくんの娘さんだよ」
「……は?」
チャンピオン。
それは通常、その地方で最も強いとされるトレーナーに送られる称号を指す。
プロのトレーナー、ジムリーダー、リーグ四天王の更に上。
このホウエン地方での現チャンピオンと言えば、彗星の如く現れ若干15歳でその偉業を成し遂げた『彼女』に他ならない。
「そういう、ことだったのですね」
ポケモンの長所を見抜く目、様々なタイプのポケモンを育てるセンス、貪欲なまでに勝利を求めるチャンピオンの姿と、かの戦闘狂の影がツツジの脳内で重なった。
「……ひょっとして、あまり大きな声では言わない方がよかったかな」
彼女の瞳孔が開く様を見て、カブは己が余計なことを口走ったのだと悟った。
「その通りです、カブさん」
その場にいた3人以外の誰でもない、透き通った繊細な声が届く。
「先の言葉をセンリ師匠の前で言おうものなら、いくらアナタと言えど二度とジムの敷居は跨がせて貰えませんよ」
声のした方を振り向くと、そこには緑色の髪の色白の人物が立っていた。
「そのことをご存知なのは、師匠に近しい人物か、一部のリーグ関係者だけです」
年は10代後半か20代前半。ルビーより少し大人びていたが、背の丈は同じほど。
華奢な体型からは儚さも感じさせる。
白いシャツの上にはトウカジムのマークが描かれた赤いジャージを羽織っており、センリの門下生であることが伺えた。
「特に、師匠の前では『彼女』の名前を出すことも控えてください。虫の居所が悪ければ、その場で破門すらあり得ます」
「すまないミツルくん。以後気を付ける」
「ええ。ツツジさんとお連れの方も、他言無用でお願いします」
ミツルと呼ばれた人物は優しく笑顔を向けるも、その細い目の奥の表情は読み解けない。
「……わかりましたわ。生憎そのような趣味は持ち合わせていないもので」
「察しが良くて助かります、お嬢」
「その呼び方は止めてと以前申し伝えたはずですが?」
「おや。これは失敬」
掴みどころのないトウカの人間め、とツツジは内心で唾を吐く。
遥か大昔、カナズミとトウカは現『トウカの森』の領土権を争った歴史がある。
今では当時を知る人物は殆どいないものの、住民性というべきか、一部に微妙なわだかまりは残っていた。
「生憎わたくしたちはミシロへの道中ですの。ここで失礼させていただきますわ」
「ええ、お気を付けて」
「言われなくても。さぁ、ルビーさん――」
これ以上この場に居ても利はないと悟ったのか、ツツジはミツルから目を切った。
そのままルビーの手を引こうとして、
「――ルビーさん?」
引けなかった。
「どうしました、お連れの方。僕の顔に何か?」
彼の視界にはカブもツツジも映っていない。
ただ、ルビーはミツルの顔を見つめ、そして、
「センリさんは嫌いなんですか、サファイアのこと」
そう、ぼそりと問い質した。
「……キミ、話聞いてた?」
「ええ、ですから訊いてるんです。センリさんは嫌いなんですか、サファイアのこと」
「僕に訊かれても困るんだけど」
「でも、本人には訊いちゃいけないんですよね?」
「……ルビー君、と言ったね。その質問に答える前に1つだけ僕からも訊いていいかな」
「どうぞ」
「サファイアさんのことを、何故呼び捨てで?」
いつの間にか、ミツルの笑顔は消えていた。
「サファイアは――」
たじろぎもせず、ルビーはミツルの目を見てまっすぐ答える。
「サファイアは、ボクの恩人で、憧れで――友達だから」
その手には、一つのモンスターボールが握られている。
「昔、隣の家に住んでいたんです。これは、サファイアと一緒に捕まえたピカチュウ。ボクの、初めてのポケモンです」
彼はいつしかツツジに語り掛けたように微笑みながら話した。
「一緒に……?」
「家のコードをコイツが齧って、それを追い払おうとしたらサファイアが捕まえ方を教えてくれて」
ミツルの機嫌が悪くなるのを尻目にルビーはそのまま語り続けようとして
「待って」
ミツルは強くそれを止めた。
「待ってよ、待って、捕まえ方を教えるって、昔って、いつの話?」
「サファイアがトウカに来る直前、アサギシティに住んでいて、確か5年ほど前のことです」
「……何か証拠はあるの? 彼女は、どんなポケモンを持ってた?」
「♀のジグザグマ」
ミツルの身体が少し揺れる。ミツルは明らかに動揺している、が、カブもツツジも行く末を見守るしかない。
「覚えている『わざ』は、すなかけ、ミサイルばり、ずつき、それから――」
「わかった。もういい」
ミツルは、大きく息を吸って、吐いた。
ミツルは、数年前の出来事を思い返していた。
病弱な身体を押し切ってトウカジムの門を叩いたこと。
そこで出会ったサファイアに手ほどきを受け、ジグザグマを借りたこと。
彼女に見守ってもらいながら、102番道路でラルトスを捕まえたこと。
そしてミツルが、
ミツルは全てを理解した。
「……ミツルだけの、思い出じゃなかった……?」
先程までの大人しさは微塵もなく、ミツルの視界にはカブもツツジも映っていない。
そこにあるのは、ミツルの大切な思い出に傷をつけた、サファイアの友人を名乗る少年。
「ル、ルビーさん。日も暮れますし、早く研究所に」
「ルビー君と言ったね。質問に答えよう」
ミツルはどこに焦点を当てているのか分からない眼でルビーを捉えた。
「師匠はジムリーダーになるために人生を賭けたお方です。家族よりも、世間体よりも、ポケモンバトルの世界でプロで在ることに全てを捧げてきた。
そんな人間の娘が、たった半年にも満たない期間でチャンピオンに輝いたとなれば、両者の人間関係がどうなるか想像に難くないと思いませんか?」
ルビーは、小さく息を吸って、吐いた。
ルビーは、この地にやって来た時のことを思い返していた。
ホウエンに来た時、サファイアは既にチャンピオンとして遠い存在になっていたこと。
彼女の父親がジムリーダーを務めるトウカシティがすぐ近くにあること。
ミシロにはセンリの、サファイアの家があること。
そして、ルビーがホウエンに来て以来、或いはもっとずっと前から、サファイアはミシロに顔を出していないこと。
ルビーは全て気づいていた。
それでも
「サファイアは、センリさんに憧れてた。パパみたいなジムリーダーになりたいって、そう言ってた。だから、」
「だから師匠とサファイアさんは仲良くしてて欲しい、ですか?」
ミツルはルビーを、ルビーだけを視界に捉えて、
「甘いよ。プロを舐めるな」
モンスターボールを、開いた。
「見てくださいよ、僕のサーナイト。ラルトスだった頃から育てて、今では立派なエースです。
見てくださいよ、僕のレアコイル。コイルだった頃から育てて、今では立派な鋼の盾です。
見てくださいよ、僕のロゼリア。スボミーだった頃から育てて、今では立派な毒の魔術師です。
見てくださいよ、僕のエネコロロ。エネコだった頃から育てて、今では立派な魔性の女です。
見てくださいよ、僕のチルタリス。チルットだった頃から育てて、今では立派な雲の龍です。
僕はこの子たちがいないと生きていけないし、この子たちも、僕がいないと生きていけないんですよ」
毎年、何千人もの人間がプロを目指しても、プロ試験を通るのは20パーセントあまり。
更にその中で『バトルだけで食えている』のは、ジムリーダー以上のごく一部だけである。
「親子だとか、姉弟だとか、友達だとか、そんなものに囚われていたら、死んじゃうんです。この仕事は」
ルビーは、『ポケモンのプロ』を目の前にし、モンスターボールを強く握ることしか出来なかった。
「不満があるなら、バトルで聞く。そのピカチュウでかかってきなよ」
「ミツルくん。そこまでだ」
それまで静観を決めていたカブが制止に入る。
「ルビーくん、キミはピカチュウを戦闘目的では飼育していない。だから護身以外のバトル免許は持っていない。そうだね?」
「は、はい」
「ミツルくん、聞いての通りだ」
「……トレーナーじゃ、ない?」
ミツルの目から殺気が消えてることを察し、対話が可能であるとカブは踏んだ。
無論、何がミツルをそこまで掻き立てたのかまではカブに理解が及ぶはずもない。
「ああ、彼はオダマキ研究所の学生だ。アマチュアの彼とプロであるキミとの野良試合は条例で禁止されている。違うかい?」
「……確かに、そうですが」
信じられない、とばかりにルビーを見つめ、
「無礼を詫びる、ごめん。だけど、これだけは聞かせて欲しい。ルビー君、キミは――」
ミツルは、心に浮かんだ言葉をそのまま口にした。
「――キミは、チャンピオンに、サファイアさんに手ほどきを受けても、トレーナーになりたいとは思わなかったの?」
「それは――」
ルビーは、心に浮かんだ言葉を、
「それは……――」
喉の奥底に飲み込むしかなかった。