1940年ローマオリンピック   作:神山甚六

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「ドルフースの二の舞だぞ」ベーメ情報局長はいった。

 1936年7月20日から8月1日。バルカン半島および中央ヨーロッパは、穏やかな好天に恵まれた。

 

 古代ギリシャのオリンピックは、最高神ゼウスに捧げる祭典であった。その加護があったか否かは定かではないが、イタリア王立気象局の長期予報や気象観測データによれば、アルヘア・オリンビアを出発した聖火がベルリンに到着するまでの間、天候悪化に伴うコース迂回や延期は実行されなかった。

 

 だが神々の王にして人類の守護者たる最高神をもってしても、民族自決という甘美な夢物語を父に、世界大戦という愚行を母として、中東欧に次々と産み落とされた諸国家の政治情勢に干渉するだけの力は持たなかったようだ。あるいは、プロメテウスが自らのもとから盗み出した炎を、無邪気に捧げものとする人類の態度にへそを曲げただけなのかもしれないが。ともあれ聖火ランナーが走り抜けた国々は、炎の明かりが影を払うがごとく、自分達が抱える諸問題を世界中へと喧伝した。

 

 先の大戦における「戦勝国」であり、政治混迷が続くギリシャを走り抜けた聖火は、7月22日に2ヵ国目の「敗戦国」であるブルガリア王国に到着。聖火リレーを「戦友ドイツの復活」として認識した同国世論の大歓迎を受けた。

 

 1908年にオスマン帝国から独立したブルガリアは、「バルカン半島のプロイセン」と呼ばれた軍事国家であった。世界大戦が開戦すると、中央同盟陣営として参戦。第2次バルカン戦争の失地回復をもくろんだ前国王(ツァール)フェルディナンド1世の野心は、一時的には成功したものの、最終的には連合国に屈服することになる。

 

 父王の退位と亡命により、若干18歳で即した新国王(ボリス3世)の治世は、縮小した領土と賠償金、そして国内の社会政治状況の混乱という三重苦から始まった。王室を取り巻く厳しい環境の中、若き国王は政治的な沈黙を保ちながら、慎重に大戦中に将校として従軍した国軍の掌握を進めた。

 

 1935年のクーデター成功まで、足掛け17年にも及んだ長い雌伏と忍従は、18歳の青年国王を、老練な政治家へと成長させた(頭髪は後退したが)。国軍の強い支持を背景に、王党派勢力による議会掌握によって政局を安定させたボリス3世は、旧中央同盟陣営との関係を維持しながら、サヴォイア王室との婚姻を通じて旧協商国との関係改善にも着手。世界恐慌による経済の落ち込みから、いち早く同国経済を回復軌道に乗せた。今や国王の手腕を疑うものはおらず、バルカン半島において最も政情が安定している国家であるとの評価も高い。

 

 首都ソフィアで朝野の歓迎を受けた聖火は、24日には3ヵ国目の「戦勝国」ユーゴスラビア王国に到着する。

 

 バルカン半島におけるスラブ民族の統一国家である同国は、ここ20年の間に国名が2回変わった。1度目は1918年。「戦勝国」であるセルビア王国議会は、セルビア王室のカラジョルジェヴィッチ家を国家元首に、旧ハプスブルク家領のバルカン半島領を併合した上でのセルブ(セルビア)クロアート(クロアチア)スロヴェーヌ(スロベニア)王国の建国を宣言した。2度目は1928年。前国王アレクサンダル1世が「南スラブ人の土地(ユーゴスラビア)」と国名を改めた時だ。

 

 二重帝国というハプスブルクの牢獄を脱却し、南スラブ人による統一民族国家を樹立するという悲願を達成した同国であったが、共通の敵を失った南スラブ人勢力の間では、国政の主導権争いが勃発。セルビア人とクロアチア人による権力闘争が延々と続く現状に、アレクサンダル1世は憲法を停止し(1928年)、国王独裁体制による政局安定化を図るが、むしろ民族勢力間の対立は激化した。

 

 1934年に前国王が暗殺されると、若輩の新国王(ペタール2世)が即位した。10代の新国王に代わり、国政を掌握したのは王族と軍高官により構成された摂政会議である。摂政会議はクロアチア政治勢力との妥協を推進。一時的に政局を安定させたが、根本的な解決には程遠い、首都ベオグラードでは反ドイツ感情の強いセルビア人による聖火リレーへの抗議活動が発生し、逆にイタリア政府から支援を受けているとされるクロアチア勢力が多数派の地域やスロベニア人地域では聖火は歓迎を受けた。

 

 さながら二重帝国の亡霊が、カラジョルジェヴィッチ家に憑りついたかのような民族の分断と亀裂を内外に見せつける中、聖火は25日に4ヵ国目となる「敗戦国」、かつてハプスブルク皇帝を仰ぎ、オーストリア帝国と共に二重帝国を構成したハンガリー王国へと入った。

 

 国名こそかつての王国と同じだが、同国が建国されたのは1920年。ソヴィエトによる革命政権の成立と内戦、続く「戦勝国」ルーマニアによる干渉戦争を排除した末に成立したマジャール人の王国である。ところが王国でありながら国王不在という現状が16年以上続いている。連合国がハプスブルク皇族の即位を拒否したためであり、なかんづくチェコスロバキアは軍事介入もちらつかせながら圧力を加えた。やむなく摂政に就任したホルティ・ミクローシュ提督が、疑似国王として国政のかじ取りを続けている。

 

 同国ではトリアノン条約により国土が大幅に縮小されたことから、国外在住のマジャール人居住地域を含めた「聖イシュトヴァーンの王冠の地」の回復を目指す大ハンガリー主義が、政治的立場や党派を超えた国民共通の悲願である。経済的な先進地域を失ったものの、むしろ領土が縮小したことで農業国として安定したが、1929年の世界恐慌の直撃を受けて急進的な政治勢力が躍進。1932年にはドイツ・ナチス党との関係が深い国家統一党のゲンベシュ・ジュラが、首相に就任した。

 

 同国内において、聖火リレーはおおむね歓迎された。ハプスブルク帝室への忠誠心を維持するホルティ総督はナチス党の民族政策には距離を置いていたが、同じ先の大戦の敗戦国であるドイツがベルサイユ体制の打破を公言しながら、オリンピックを開催したことは、マジャール人を大いに勇気づけた。特にゲンベシュ・ジュラ首相はドイツとの友好関係を強調するために病躯をおして聖火リレーを観戦したが、無理がたたり10月6日に死去した。

 

 ブタペストを駆け抜けた聖火は、26日には5ヵ国目となる「敗戦国」オーストリア連邦国に入り、熱狂的な歓迎を受けた。

 

 ベルリンとの外交問題に神経をとがらせるシュシュニック政権の大号令の下、聖火リレーのコースには軍憲兵隊と武装警官による厳重な警戒態勢が敷かれていたが、沿道には彼らをはるかに上回る群衆が、オーストリアのあらゆる年代、階層、性別、職種の「ドイツ民族」が押し寄せ、ランナー達の一挙手一投足に大歓声を上げた。彼らの手にはオーストリア警察が禁止したハーケンクロイツのドイツ国旗が握られており、双頭の鷲があしらわれた紅白のオーストリア国旗の姿は、ほとんど見られなかった。

 

 敗戦後にハプスブルク帝室を追放したことで、多民族国家の楔から解き放たれたオーストリアは、大ドイツ主義に回帰。同じく小ドイツ主義の枷であったホーエンツォレルン家を追放したワイマール共和国との墺独合邦(アンシュルス)を目指したが、これは連合国に阻まれた。

 

 かくして連合国謹製の「ドイツ民族による共和国」として産声を上げたオーストリアであったが、脆弱な経済基盤と国内の政治対立により、政局は安定せず、内閣は短期間で入れ替わった。これはハプスブルク家領としての性格が強く、カトリックのドイツ民族という以外の国民国家を形成するための共通の政治的基盤が、決定的に欠落していたためである。

 

 1933年。議会の解散に伴う社会民主主義者との政治内戦に勝利したエンゲベルト・ドルフース首相(当時)は、ファシスト・イタリアに範をとったオーストロ・ファシズムと呼ばれる権威主義体制を確立。国名を現在のものに改めた。軍事力と警察力により、国内の民族運動と労働運動を抑えつけたドルフース前首相であったが、首相官邸に「乱入」したオーストリア・ナチ党の党員に暗殺される(1934年)。後任首相にはドルフース体制の継承を掲げるクルト・シュシュニック教育大臣が就任したが、その後も相次いだ政治スキャンダルは、オーストリア国民の政治不信を決定づけた。

 

 ドイツ民族の栄光の象徴として聖火リレーを歓迎する国民を、政府と軍が苦々しく見守る中、聖火は28日に6ヵ国目となる「敗戦国」にして「戦勝国」チェコスロバキアに入り、オーストリアとは対照的な罵声と怒号を浴びた。

 

 スラブ民族のチェコ人とスロバキア人が合同した共和国は、旧ハプスブルク帝国から独立した新興国家の中では、ポーランドと並んで親英・親仏国家の筆頭格である。もっとも最近では英仏両国の外交的な混乱から、東のソビエト連邦との外交関係を強化している。また同国はズデーデン地方のドイツ人の分離独立勢力に悩まされ続けており、プラハでは聖火リレーに対する抗議運動が活発に行われた。

 

 ちなみにチェコスロバキアは、1934年のイタリアで開催されたワールドカップの準優勝国である。名フォワードのオルドリッヒ・ネイエドリーを有するチェコスロバキア代表チームは優勝候補の呼び声も高かったが、開催国イタリアは、国家と民族、そして政権の威信をかけた戦いを「グラウンドの外」でも展開。決勝戦はイタリアとチェコスロバキアという大会屈指の好カードになったが、開催国イタリアの気迫の前に、チェコスロバキアは延長の末に2-1で敗れ、惜しくも優勝カップに手は届かなかった。

 

 このワールドカップの成功は、イタリアに1940年夏季オリンピックのローマ誘致を()()に決断させる大きな要因となった。またワイマール共和政府が誘致したオリンピック開催に消極的だった同時期のヒトラー政権に、国際スポーツ大会を通じた国威発揚とプロパガンダ戦略に利用することが可能であることを実証して見せたという意味で、大きな影響を与えたとされる。

 

 閑話休題

 

 ギリシャはいうに及ばず、ブルガリア、ユーゴスラビア、ハンガリー、オーストリア、そしてチェコスロバキア。敗戦国とソビエト連邦を排除して、戦勝国により作られたベルサイユ体制の矛盾を詰め込んだような国々は、大なり小なり、何らかの形で「戦勝国」イタリアとの関係を有している。

 

 同じ欧州だから当たり前といえば当たり前の話なのだが、この事実は、ちょっとした思考実験の材料を我々に与える。

 

 イタリア半島中部に位置するローマは、アフリカ大陸の地中海沿岸の植民地領土やイベリア半島、西ヨーロッパから中央ヨーロッパにバルカン半島南端まで、かつてローマ帝国を形成していた地域の植民地都市、あるいは現在の主要都市とも、約1000km前後の距離にある。

 

 つまり全ての道「が」帝国の首都であるローマに通じさせられたのではない。あの場所にローマが位置していたからこそ、帝国を構成する主要な「すべての道」は「ローマに通じる」ことが出来た。

 

 だからこそナポレオンは「イタリアは地名であって、国ではない」として、この半島における統一国家の形成を許さなかったのであり、ビスマルクはフランスに対する牽制として、統一イタリア形成を後押した。先の世界大戦においてイギリスの外交官は、中央同盟陣営側の中立国イタリアの協商陣営取り込みに奔走した。

 

 ベルサイユ体制の崩壊と再編への試みが続いていた1930年前半における、欧州外交におけるファシスト・イタリアの重要性と存在感は、同じ文脈の中で説明が可能だろう。1915年同様、イタリアはあらゆる勢力から働きかけを受けていたが、その中心はロンドンとベルリンであった。棟梁(ドゥーチェ)は、両国の外交官に対して含みのある発言を繰り返しながら、そのどちらにも決定的な言質を与えなかった。

 

 そして1936年9月10日。ベルリンで開催されたIOC臨時総会の投票において、永遠の都(ローマ)はヘルシンキを36対27で破り、オリンピック開催権を勝ち取った。

 

 勝ち取ってしまった。

 

 

320 名無しの落ち武者 2019/03/8(金) 13:00:40.05 ID:Bipp2MUJi

東京とヘルシンキで争ってたのに、どこからローマが出てきたの?

 

321 東西新聞です 2019/03/8(金) 13:04:31.35ID:xBKuodrc

>>320

事前の経緯がある

 

【1933年年末】

イタリア「ワールドカップの次はオリンピック!1940年はローマでやるぞ!」(1回目の立候補)

日本政府「今回は東京に譲ってくれませんか。1944年はローマ支持しますから」

イタリア「条件次第かな。うちは1944年でもいいよ」(1回目の立候補撤回)

日本政府「感謝します」

 

日本世論「ドゥーチェ!ドゥーチェ!ドゥーチェ!」

 

【1935年7月IOCオスロ総会直前】

イタリア「1944年はIOC設立50周年記念大会になるから、ジュネーブが立候補するって?分が悪いな」

イタリア「というわけで1940年出るから」(2回目の立候補)

日本政府「ふぁ?!」

IOC総会「(どったんばったんの大騒ぎの末に)とりあえず来年のベルリン総会で決めますので」

 

日本世論「あの糞イタリア人ども!!」

 

【1935年10月】

イタリア「(エチオピア戦争開始)イタリアは友好国日本を支持するよ!」( ー`дー´)キリッ(2回目の立候補辞退)

日本政府「あ、はい(この野郎、よくもぬけぬけと)」

 

日本世論「エチオピア頑張れ!」

 

【1936年2月】

日本「2・26!馬場失言!首相決まらねーぞ!」

 

日本政府「すいません、ベルリンのIOC総会延期させてくれませんか?」

イタリア「いいよ」( ゚Д゚)b

ドイツ「いいよ」( ゚Д゚)b

 

【1936年9月ベルリン総会】

日本政府「いや、どうもご迷惑おかけしまして……」

イタリア「やっぱりローマ出るわ」(3回目の立候補)

総統閣下「ベルリン大会の後は、永遠の都がふさわしいだろう」

日本+フィンランド「ふぁ?!」

 

日本世論「ドイツ絶許、イタリア〇ね」

 

322 名無しの帝国軍人 2019/03/8(金) 13:11:50.07 ID:+H9qqqTR

>>320

・イタリーにオリンピックをNTRれた

・くやしい…!でも…幹事長!

・んっほおおお!!いたりあゆるしゃないの~!!!

 

323 第四帝国 2019/03/8(金) 13:38:29.14 ID:t3qapiGI

>>320

・日帝政治がグダグダすぎた

・ドイツの反リッベントロップ派(自動的に反日・親中派)が煽りまくった

・イタリアが火事場泥棒に成功

 

324 名無しの首かり族 2019/03/8(金) 13:50:11.18 ID:ewww0Ep

>>321

そりゃ日本で反伊運動起きるわw

>>320

チョビ髭「イタリア人には、ローマでオリンピックでもやらせておけ!」

 

325 名無しの落ち武者 2019/03/8(金) 14:00:00.05 ID:Bipp2MUJi

>>322

憲兵さんこの人です

>>323

ドイツ人は本当にそういうところだかんな

 

326 第四帝国 2019/03/8(金) 14:37:20.14 ID:t3qapiGI

エチオピア戦争で日本が初めの頃はエチオピア支援に傾いてたので、それに不信感あったという話もある

統領はブリカスを見習っただけかもしれないけど

 

オーストリア・ナチ党によるドルフース首相暗殺(1934年5月)→「旧協商国で対ドイツの共同戦線張らない?エチオピア?別にいいんじゃね?表立っては支持しないけどね」

ストレーザ戦線結成(1935年4月)→「これで英仏伊はずっ友だよ!絶対に裏切っちゃだめだからね!」

英独海軍協定締結(1935年6月)→「やっぱりさ、ドイツ君の言うことにも一理あるよね」

第2次エチオピア戦争(1935年10月~)→「イタリア君、そんなひどいことしちゃいけないよ(経済制裁開始)」

イタリア勝利(1936年5月)→「イタリア君おめでとう!僕は信じてたからね!(7月に経済制裁解除)」

 

なおエチオピア皇帝一族の亡命先はロンドン

 

327 東西新聞です 2019/03/8(金) 14:31:19.35ID:xBKuodrc

>>326

イギリスの平常運転っぷりに草も生えない

どうしてイギリスの場合は、どうみても行き当たりばったりであっても「舌三枚」と褒め(?)られて

イタリアの場合は計算づくであっても、行き当たりばったりに見えるんだろう

 

328 亡命政府副首相代理心得補佐代行 2019/03/8(金) 14:35:13.05 ID:+HomkiqTR

>>327

そりゃ実際、内政でも外交でも軌道修正が多いから。柔軟性あるといえば聞こえはいいけど

力業で押し切っちゃう剛腕だから勘違いされやすいけど、ドゥーチェは意外と世論を気にするタイプだから余計にそう見えちゃうんだろうな

 

329 第四帝国 2019/03/8(金) 14:39:11.09 ID:t3qapiGI

>>328

ものすっげえ勉強家で知識人なんだけど、ベースが自己流だから体系的なものじゃないしなあ

それでも寄せ集めの思想と理想をかき集めて、独自の大衆運動に基づく民族主義独裁体制を作り上げたのは流石なんだけど

自由主義でも社会主義でも共産主義でもないが、自由主義でも社会主義でも共産主義でもあるというね

 

330 名無しの落ち武者 2019/03/8(金) 14:40:49.55 ID:Bipp2MUJi

なるほど。皆の衆、教えてくださり大義であるぞよ

棟梁はオリンピック開催には消極的だったって話も聞いたことあるけど、それはどーなのじゃ?

 

331 亡命政府副首相代理心得補佐代行 2019/03/8(金) 14:42:13.05 ID:+HomkiqTR

>>330

キャラがドゥーチェなみにぶれまくってんなw

ドゥーチェがヒトラーの狙いに気が付かなかったわきゃないと思うんだけど

ベルリン大会が大盛り上がりしたからなあ。1934年ワールドカップの成功再び!ってことかな

まさかノリと勢いってことはないだろうし

 

332 名無しの落ち武者 2019/03/8(金) 14:43:10.05 ID:Bipp2MUJi

それで結局、誰が得したの?

 

333 名無しの帝国軍人 2019/03/8(金) 14:45:51.35 ID:+H9qqqTR

棟梁「んほぉおおおっ!!ベルリンおりんぴっくしゅごかったのおおおほほおおおお!!ローマでもやっちゃうのおおおおおおおおお!!!」

 

334 東西新聞です 2019/03/8(金) 14:49:11.04ID:xBKuodrc

>>333

憲兵さんこの人です

もうやだ、この帝国軍人……

 

335 第四帝国 2019/03/8(金) 14:50:51.21 ID:t3qapiGI

>>332

誰が得したかは見方によって変わるからな。日本も長期的には得したほうに入るかもしれん

フィンランドと日本の政局が混乱してスターリンがほくそ笑んだ、といいたいけどモスクワ裁判でそれどころじゃなかったし

明確に損をした国という意味なら、ここ一択

 

つオーストリア

 

- 電子掲示板4チャンネル(政治・歴史板)雑談スレ『犬とイタリア人お断り』より抜粋 -

 

 

 IOC総会を散々にかき回した挙句、後から掻っ攫うように開催権を獲得したイタリアに、フィンランドと日本の世論は激高した。特にヘルシンキ開催が確実視されていた、フィンランド首相キヴィマキの怒りは激しく、IOC事務局に対する抗議申し立てと同時に、国際連盟の常設国際司法裁判所への提訴を表明した。しかし少数与党内閣であったことから政権が崩壊。キュオスティ・カッリオ元首相による超党派内閣が発足することとなった。日本においても3か月近く続いた政治空白の末に発足した平沼内閣に対する不信任決議が衆議院に提出されるなど、政局の流動化が進んだ。

 

 この2ヵ国よりも激しい動揺と危機感をあらわにしたのが、中央ヨーロッパの内陸国であるオーストリア連邦国である。

 

 オーストリアにとって、イタリアがワールドカップを買収しようが、エチオピア人相手に毒ガスを使おうが、オリンピックを開催しようが、それこそ知ったことではない。ドルフースの後継者達が問題としたのは、オリンピックの招致活動において「ドイツとイタリアが手を結んだ」という事実そのものである。7月に勃発したスペイン内戦に続く独伊接近を意味する事件に、ウィーンの危機感は高まった。

 

 1932年に組閣したエンゲルベルト・ドルフースが、1918年以降の歴代オーストリア首相と最も異なる点は、主権国家としてのオーストリア存続を目指したという点である。学生時代から国家主義者として政治活動を続け、保守派の反ユダヤ主義者として知られたドルフースであったが、敬虔なカトリックであるドルフースは、ドイツ国内で台頭するナチスの反教会思想には生理的な嫌悪感を抱いていた。彼はアンシュルスを完全に否定したわけではないが、国家社会主義と共産主義を一卵性双生児とみなす彼からすれば、ナチス・ドイツ主導の併合はあり得なかった。

 

 社会民主主義者との内戦に勝利したドルフースは、返す刀で共産党とオーストリア・ナチス党(ヒトラー運動)を弾圧。与党勢力を「祖国戦線」に統合すると、軍部と警察を背景に、ファシスト・イタリアを範とする権威主義体制を確立した。イギリスやフランスは口先ばかりであてにならず、実際の政治的暴力の行使をためらわないイタリアとの政治同盟だけが、あの野蛮なナチズムの政治的侵略を食い止め、オーストリアの存続を可能たらしめると判断していたドルフースであったが、1934年7月25日に暗殺される。

 

 ドルフースの後任に就任したのは盟友であった教育大臣のクルト・シュシュニックである。彼はドルフース路線を継承しつつ、国家としてのオーストリア承認をベルリンに求めた。敵の本丸に水から攻め込んだ形だが、シュシュニックには勝算があった。アンシュルスに反対していたドルフース暗殺事件はドイツの国際的孤立を深め、英仏はもとより、盟友の暗殺に激怒する棟梁もドイツに対する国際的非難に加わっていた。シュシュニックの思惑通り、ベルリンはウィーンとの交渉のテーブルに乗ることを渋々招致した。

 

 かくしてドルフース暗殺から約2年が経過した1936年7月11日。イタリアの支援を受けたオーストリアとドイツは、歴史的な政治合意を結んだ。この7月合意により、ドイツは1918年から一貫して承認を保留し続けてきた、主権国家としてのオーストリアを承認。アンシュルスを明確に否定する姿勢を国際社会に向けても認めたのだ。

 

 シュシュニック政権としても何の大家も払わなかったわけではない。見返りにシュシュニックはオーストリア国内のヒトラー運動を解禁した。7月合意の実務交渉を担当した外務官僚のグイド・シュミットを外務大臣に、元陸軍将校のエドマンド・グレイズ・ホルステナウを無任所国務大臣とする内閣改造を実行する。この2人はヒトラー運動の支持者であったが、シュシュニック首相はイタリアの支持があれば、ヒトラー運動を抑え込めるであろうと判断し、祖国運動内部の慎重意見を押し切った。

 

 シュシュニック首相の思惑に、今回のオリンピック招致決定は頭から冷や水を浴びせかけた。IOC臨時総会が閉会した9月10日直後、シュシュニック首相(国防相兼任)は、即座に臨時閣議開催を決定。深夜遅くにもかかわらず、新首相官邸であるベルヴェデーレ宮殿に閣僚達と軍高官を招集した。

 

 かつてはドルフースと棟梁との個人的な関係を頼ることも出来たが、今となっては、それも不可能である。スペイン共和国で発生した内乱において、独伊両国が反乱軍支援で共同歩調をとる中、棟梁が独伊両国の緩衝地帯(バッファーゾーン)としてのオーストリアの重要性よりも、ベルリンとの関係強化を選択すればどうなるか。沈痛な表情で始まった閣僚達の議論は、自然と苛立ちの隠せないものとなった。

 

「要するに、ドイツ外務省と軍部に巣食う、ユンカーの馬鹿息子共の火遊びか」

「これで味を占めた以上、ユンカー共のイタリア政府に対する働きかけは強まるだろう。もしも今後の独伊関係を外務省が主導することになれば、我が国を取り巻く環境はより厳しくなることが予想される。少なくともナチス党のような外交素人には、付け入る隙があったのだが」

「発端が火遊びであろうと、山火事になる可能性はありますな」

「何を悠長なことを!」

 

 ぞんざいに語ったシュミット外相に、ハンス・パーンター教育大臣が聞き捨てならないと噛みつく。しかし批判された本人は「慌てたところで事態が転するわけでもあるまい?」と、諦観を感じさせる皮肉な色を顔に浮かべた。

 

 ドイツ政界の実力者であるゲーリングとの個人的パイプを持つシュミットであるが、彼もベルリンの宮廷政治に振り回され続けてきた一人である。ようやくベルリンとの政治合意にこぎつけたかと思えば、これである。落胆を通り越して自分自身が滑稽であると感じているらしく、表情には精彩がない。

 

「7月11日合意は、ベルリンが棟梁の顔を立てたに過ぎない。ベルリンとローマの接近を警戒する必要があるのは認めるが、現段階で連邦国軍が独自に軍備を拡大することは、むしろ我が国が国際緊張を高めたと批判されかねない。何より、イタリアの誠意を疑うような真似は……」

「イタリア人の誠意?そんなものはドイツ人との約束同様、あてになるものか!そんなものがあれば、先の大戦でイタリアはイギリス人に唆されることはなかった」

 

 忌々しげな表情のまま、パーンター教育大臣はシュミット外相の政治責任を追及する。これにシュミットが再び反論、両大臣の議論は白熱したものとなった。

 

「外務大臣はお忘れのようだが、ベルサイユ条約により定められていた非武装地帯に、ヒトラーが軍を駐留させたのは今年の3月である。そしてフランスもイギリスも、軍事的な報復はおろか、経済制裁すら実施しなかった。イタリアだけが誠意をもってわれらを支持し続ける保証がどこにある?」

「だからといって、イタリアの後ろ盾がなければ、ドイツと対峙し続けることなど不可能だ」

「我が国は独立国だ!ドゥーチェがどうであろうと、我々は自分の国を守る責務がある!」

 

 シュシュニックの腹心であるパーンターが顔を主に染めて机をたたくが、他の閣僚達はどこか距離を置いた、沈痛なまなざしを返すばかりである。臨時閣議を招集したシュシュニック首相ですら、険しい表情で沈黙を維持していたが、突如としてオブザーバー参加させた軍高官に意見を求めた。

 

「軍はどう考えるか」

「用意はあります。ただ勝てるとは断定出来ません」

 

 死刑制度を復活させた法務大臣であり、政治犯や反体制派を容赦なく政治犯収容所に投獄し続けている強権政治家とは思えぬ首相の問いかけに、ドイツ系貴族の家系に属する参謀総長アルフレート・ヤンザ中将は、希望的観測や憶測を排除した軍の作戦行動計画を説明した。

 

「現在の国土防衛戦略大綱は、イタリア軍の支援と協力が前提となっております。国境部に展開するドイツ軍が国境を超えた段階で、主力師団は敵兵力を誘引しつつ、西部はインスブルックまで、東部はウィーンまで遅滞戦闘を展開。西部には天然の要害たる東アルプス山脈があります。イタリア軍の展開まで持ちこたえることが出来るのならば-」

 

 縦深防御を展開しようにも、オーストリアは国土の縦深性が乏しい。いかに天然の要害たる東アルプス山脈を有しているとはいえ、道路網が整備された西部のチロルやザルツブルグは、一度突破を許せば戦力の後退すらままならない。たちまちイタリア国境まで到達してしまうだろう。だが、ヤンザ中将は意図的にそれを説明しなかった。事前にシュシュニック首相から伏せる様に厳命されていたからだ。

 

 もっとも首相の思惑が、どこまで通用したかは疑わしい。ヤンザ参謀総長の発言内容や表情から真意を察した閣僚達は、ただでさえ険しい表情をさらに深めた。そして再び沈黙が支配する閣議室の中で、シュミット外相が冷笑を浮かべながら口を開いた。

 

「戦う用意をするのは大いに結構。だが、ハーケンクロイツを振り回して聖火ランナーを歓迎したオーストリア国民が、ドイツ民族同士の戦いを望むとは思えませんがね」

「自らを守る決意を有さない国を、どこが助けてくれるというのだ!」

 

 オーストリア単独では、ナチス・ドイツの軍事力に対抗出来ないという客観的な事実、そして国民の大多数がドイツとの統合を望んでいるという世論の現実を無視するのか。外務大臣の発言に、カトリック愛国教育を推進する教育大臣が再び噛みつく。他の閣僚も参加した激論は日付が変わっても続けられていたが、首相秘書官がシュシュニック首相に一枚のメモを届けたことで、突如として終了した。

 

 シュシュニックは突如として立ち上がると、閣議の一時中断と、明朝9時からの再開を伝えた。何事かといぶかしがり、互いの顔を見合わせる閣僚達に対して、冷ややかな視線を向ける高官がいた。オーストリア軍情報部長のフランツ・ベーメ少将である。

 

 悪名高きマクシミリアン・ロンゲの後継者として、二重帝国と共和国の影を担った二重帝国参謀本部情報局(クンドシャフト・ステル)の後継組織を率いるベーメは、遅かれ早かれベルリンが主導するアンシュルスは避けられないと認識している。ドルフース暗殺事件の責任を問われて解任されたロンゲ少将のことを思えば、積極的にベルリンの野蛮人に与するつもりはないが、経済が破綻しても政争を続けるウィーンの政治家から、人心は離れつつあるのも事実だ。

 

 一つの国家や一つの民族なる実態の伴わない政治スローガンに賛同するほど、ベーメは政治的に純粋ではない。ましてや「一人の総統」に、積極的な忠誠を誓いたいとも思わない。だが国民の要求を強権的に押さえつけた結果が、前首相の暗殺という結果ではなかったのか。「諜報活動により国民を監視することは出来るが、支配することは出来ない」。かつての上官であるロンゲ少将の言葉を、ベーメは今更ながら噛み締めた。

 

 シュシュニック首相が退出したドアを見ながら、ベーメは言った。

 

「このままでは、ドルフースの二の舞だぞ」

 

 

 スペイン内戦の勃発から、ちょうど2か月後である1936年9月17日。

 

 オーストリア内戦が勃発した。


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