1940年ローマオリンピック   作:神山甚六

5 / 7
*ほぼ史実と同じ展開なので、読み飛ばしていただいても大丈夫です*
*史実通りという意味ではありません。作者個人の独自解釈が混じっています*


【閑話】スペイン内戦と独伊関係

 1936年7月18日。イベリア半島に位置するアフリカ大陸に最も近い南欧州のスペイン共和国において、大規模な反乱が発生した。

 

 世に言う「スペイン内戦」の幕開けである。

 

 長くキリスト教勢力とイスラム勢力の対立の最前線であり続け、キリスト教勢力の奪還後がハプスブルクやボルボーン朝など幾多の勢力が覇権をめぐり興亡を繰り広げた褐色の大地は、再び流血により染められた。

 

 この内戦に至るまでの過程、すなわちナポレオン戦争以降のスペイン近現代史については長くなるので省略する。

 簡単に内戦の構図を説明すれば、同年2月16日総選挙において勝利した反ファシズムを掲げる人民戦線側に対する、陸軍の民族主義派勢力の反乱である。

 

 スペイン陸軍のエミリオ・モーラ准将を中心とするクーデター勢力は、人民戦線に加わる急進社会主義者や無政府主義者、カタルーニャやバスクに代表される分離主義者の排除を目的としていた。

 つまり彼らは、内戦途中から王党派勢力の支持を取り付けるために王政時代の国旗を掲げるようになったとはいえ、ボルボーン朝復古を目的としていたわけではない。

 特にモーラ准将は筋金入りの共和派であり、彼個人としては軍人達の共和国である隣国ポルトガルに範を取った権威主義体制の確立を目指していたようだ。

 

 内戦直前のスペイン国内の政治的混乱や社会騒擾に関する責任論、または非合法手段による政権転覆を目指した将軍達の行動に大義があったか否かは、この際どうでもいい。

 

 肝心なのは7月18日の一斉蜂起は、クーデターによる短期の政権交代を目指したのであり、それが失敗に終わったということだ。

 

 蜂起直後の状況を見てみる。

 クーデターの成否を左右する首都マドリッドと最大都市バルセロナでは、反乱軍は治安警察と民兵組織を相手とした市街地戦闘の末に敗北。政府側はカタルーニャからの地中海沿岸部全域と大西洋沿岸部の大部分を維持することに成功した。

 反乱軍はモロッコ全域を制圧したものの、本土ではモーラ准将が指揮した北部と一部地域を確保したに過ぎない。

 これでは成功と呼べるはずもない。

 

 反乱軍側の準備不足を除くと、クーデターの成否を決めたのはスペイン軍の動向である。

 1923年のスペイン軍は、プリモ・デ・リベラ将軍のクーデターを支持することでスペイン版ローマ進軍を成功させる原動力となった。

 1931年の王政廃止も、スペイン軍はやむを得ないとして黙認した。

 仮にクーデター計画に賛同するにしても反対するにしても、軍が一致結束して行動すれば短期間で集結する可能性はあっただろう。

 

 だが実際にはそうはならなかった。

 

 陸軍は分裂し、空軍は政府支持にまわり、海軍は消滅した。

 

 反乱部隊の中核は陸軍であるが、クーデター計画を指導したのは准将クラスであり、軍司令官や中央省部の要職を占める高官達の支持は得られなかった。

 クーデター側が指導者として擁立したホセ・サンルフホ将軍が不慮の事故死を遂げたのも響いた。

 かくして反乱軍の指導権をめぐり、クーデター計画段階からの中心人物であり北方軍を指揮するモーラ准将と、最終段階まで参加の意思を明らかにしていなかったモロッコ軍を指揮するフランコ元参謀総長の間で暗闘が開始される。

 

 空軍が政府支持で結束したのは、創設の経緯に寄るところが大きい。

 産業近代化が遅れたことで必然的に航空後進国となったスペインは、航空先進国のフランスを範にして空軍を組織した。

 1931年の共和制移行により両者の関係はさらに深まり、空軍将校であったフランコの弟を含めた大多数が政府を支持した。

 

 空軍とは対照的に悲劇的な結果となったのは海軍である。

 高級士官の多くは反乱軍を支持し、下士官や圧倒的多数の水兵は政府を支持した。

 各艦艇毎に衝突が発生し、短期間のうちに勝敗は決した。

 艦艇ごとの「水兵委員会」の手により、艦橋や甲板から艦隊司令や艦長達が吊るされた。

 かくしてスペイン艦隊は実質的な戦闘能力を喪失した。

 

 反乱軍の早期勝利が困難であるのなら、人民戦線政府が短期間のうちに反乱軍を鎮圧する可能性はあったか。

 そんなことは天地がひっくり返ろうとも望める状況になかった。

 陸軍の約半数が反乱軍に加わるという共和制の危機にも関わらず、人民戦線を構成する政治勢力は内部での主導権争いを繰り返していた。

 

 2月16日総選挙において人民戦線は得票率4割を獲得して勝利宣言をしたものの、政党ごとの得票率だけで言えば中道右派が依然として第1党を占めていた(だからこそ反乱軍は、人民戦線内閣の発足は民意を軽視していると主張した)。

 人民戦線の中心である社会労働党は過半数には到底及ばず、これに左翼共和党と共和連合の2党、更に分権主義政党を加えた上での薄氷の勝利である。

 主導権争いは熾烈を極め、新大統領に就任したマヌエル・アサーニャは、暴力革命を主張する急進派を抑えることに苦心惨憺していた。

 

 総選挙から何ヶ月にも渡って続けられていた大統領の政治的努力は、反乱軍の決起により水泡に帰した。

 すったもんだの末に5月に成立したばかりのキローガ内閣は、一斉蜂起と同日の7月18日に総辞職に追い込まれた。

 19日に新内閣が発足するものの、わずか半日あまりで崩壊。

 翌20日にアサーニャ大統領の仲介により、ようやくピラール内閣が発足するという具合である(これも9月に崩壊する運命なのだが)。

 

 中央政府が弱体化する中、政権内部で発言力を拡大したのは急進左派や無政府主義者である。

 マドリッドやバルセロナの反乱軍を民兵組織が鎮圧した「功績」を盾に、各地に「コミテ」や「フンタ」を自称する基礎自治体、あるいは「人民裁判所」が乱立。

 社会革命の不徹底と政府の弱腰が反乱軍蜂起に繋がったと考える彼らは、独占資本から資産を解放し、教会を破壊。武器庫から略奪した武器による武装化を独断で推し進めた。

 アサーニャ大統領は、彼らの暴走を苦々しい表情で追認するしかなかった。

 

 かくして反乱軍のクーデター計画が無残な失敗に終わり、共和派政府が統治能力を喪失した結果、スペインは後戻り出来ない内戦へと突入した。

 王党派と共和派、自由主義者と社会主義者、共産主義者と無政府主義者、中央集権派と分離独立勢力、資本家と労働者、労働運動をめぐる組合の主導権争い……これらは対立構造の一部に過ぎず、同じ主義主張の中でも方法論や主導権をめぐる争いが絶えないという有様である。

 

 あらゆる政治勢力が内へ外へと闘争を繰り広げる中、反乱軍(防衛委員会を自称)と政権側の双方は、諸外国に支援を求めた。

 

 仰ぐ旗や主義主張こそ異なったものの、両者の形振り構わない要請は驚くほど似通っていたという。

 

「「食料と兵士と武器弾薬をくれ!」」

 

 

 スペイン国内においても国際社会においても、当初から反乱軍支援にまわると目されていたのはベルサイユ条約打破を掲げる「現状打破勢力」のドイツと、先の大戦における戦勝国でありながら、独自外交を続けるイタリアであり、結果としてその通りになった。

 とはいえ決定に至るまでの過程は、両国の指導者のキャラクターを感じさせるものであった。

 

 まずドイツであるが、同国のスペイン政策はフランスを抜きにしては語れない。

 

 フランスとスペインの人民戦線が掲げる第一の政治目的は「反ファッショ」。

 加えてベルリン・オリンピックに当てつけるかのように人民オリンピックを開催しようとしていたスペイン政府をドイツが支持するわけがなく、内戦開始直後から民間や現場レベルでは、反乱軍に対する情報提供や物資の支援が行われていた。

 

 だが本格的な軍事介入ともなれば、最高位者の決定は不可欠である。

 そして1936年当時のドイツの絶対指導者アドルフ・ヒトラーは、良くも悪くも素人故の慣例にとらわれない大胆さと、絶対的な経験不足からくる過度なまでの慎重さが入り混じり、彼個人の精神状態に応じて両者の間を揺れ動く傾向が見られた。

 

 かくして総統の支持を求め、ドイツ国内におけるスペイン介入支持派と反対派の綱引きが始まった。

 

 ドイツ外務省と国防軍は、スペイン内戦への介入そのものに否定的な姿勢を示した。

 ワイマール時代から共同でドイツ外交を主導してきた両組織はスペインの地政学的な重要性を理解していたが、同国への本格的な軍事介入が英仏を刺激しかねないという懸念に加え、内戦長期化は避けられないという状況分析、内戦の当事者に直接軍事支援を行うことへの是非など、数多くの問題点と懸念材料を短期間の間に共有した。

 かくして外務省はヒトラー総統との会談を求める反乱軍側の使者を門前払いし、国防軍はパリ駐在武官を通じて行われた航空機供与の要請に、明確な言質を与えなかった。

 

 これとは対照的に内戦介入に積極的な姿勢を示したのが、ヘス副総統とゲーリング空軍総司令官である。

 前者は政権与党のナンバーツーであり、後者は国会議長を始め複数の要職を兼職する政界の実力者であった。

 ワイマール体制下で異端視されながらも、自分達の信じるやり方を貫くことで総統を政権の座に押し上げたと自負する彼らは、良くも悪くも正規の手法にこだわらない。

 また失敗した場合のリスクが過大であったとしても、それ以上の成果が望めるのであれば大胆に行動するべきであるという身近な成功体験(ラインラント進駐)が、彼らをより冒険的な外交へと駆り立てた。

 

「スペインに親ドイツ政権が発足すれば、フランスは背後に仮想敵国を抱えることとなる」

「フランスの小協商陣営が形骸化しつつある中、軍事的に孤立化した同国を屈服させることは容易だ」

「ドイツの軍事支援は英仏の介入を招く可能性があるが、明確な条約違反であったラインラント進駐でも明確な軍事行動に出なかった」

 

 こうした内戦介入派の分析は、ドイツ側に都合のいい希望的観測を積み重ねたものであったとはいえ、それなりに説得力を有しており、現にそのいくつかは彼らの予想通りに展開した。

 ヒトラーの私的な外交ブレーンとしてナチス党幹部とは犬猿の仲であるリッベントロップ新駐英大使も、外務省主流派と敵対する経緯から「イギリスの保守党政権は、ソビエト連邦の支援を受けるスペインの現政権を好ましく思ってはおらず、ドイツが反乱軍を支援したとしても黙認する可能性が高い」として介入論を支持した。

 

 かくして7月25日。副総統ヘスの仲介に加え、この手の根回しとゴリ押しならお手の物であるゲーリングにより、ドイツ南部のバイロイトにおいてスペイン反乱軍の使者はヒトラー総統との面会に臨んだ。

 

 彼はスペイン反乱軍の防衛委員会から委任を受けた軍人か外交官……などではなく、たまたまモロッコに滞在していたために依頼されたというだけの企業経営者であった。

 それもスペイン人ならまだしも、なんとドイツ人である。

 反乱軍側の準備不足と苦境が伺える人選であり、これでは外務省と国防軍がまともに取り合わなかったのも無理はない。

 連日続くレクチャーにより慎重論を吹き込まれていたヒトラーも、あからさまな失望を表情に浮かべていたという。

 

 一見すると介入支持派には不利な状況に思えるが、多忙な総統閣下のスケジュールに会談を捩じ込んだゲーリングには確たる勝算があった。

 ヒトラーのバイロイト滞在の最大の目的は、ワーグナー家が主催するバイロイト音楽祭への出席である。

 お気に入りのワーグナー、それも当代随一との呼び声も高い名指揮者フルトヴェングラーによる『ジークフリート』の官能的なまでの世界を味わった直後であれば、必ずや前向きな回答を出すであろう……

 

 「ビア樽男」の予測は的中した。

 最初こそ胡乱な眼差しで出迎えたヒトラーであったが、ベラベラと観劇の感想と持論であるワーグナー観を話している間に気分が高揚し、万能感からくる自己陶酔に酔いしれてしまった。

 当初の消極姿勢はどこかに吹き飛んでしまい、その場でユンカースの最新型爆撃機の供与を決定。国防軍情報部長のヴィルヘルム・カナリスを責任者に任命する。

 かくして介入派のヘルマン・ゲーリングは、政治的な勝利を収めた。

 

 ナチス党における政治闘争の勝敗は別として、国家意思として内戦介入の決断が下されたのであれば、官僚機構である外務省と国防省は従うほかに選択肢はない。

 外務省は表向きはロンドンが主導したスペイン不干渉政策に同調するような、いつもの実が伴わない口先外交を繰り広げ、国防軍は義勇軍の編成と物資供与を開始。

 派遣された義勇軍の先陣を切ったのはゲーリング子飼いの空軍から選抜された航空部隊であり、8月初頭には既に本格的な作戦行動に着手している。

 

 さてイタリアであるが、同国はドイツよりも本命とみなされていた。

 

 カトリック教国という共通点に加え、アルフォンソ13世がローマに亡命して以降は王党派の拠点である点。何よりスペインの保守勢力や民族派はドゥーチェを英雄視していた。強権政治で国論を団結することで国威を高めたファシズム政治こそが、彼らの目指す政治の理想であったからだ。

 

 このような経緯もあり、北方軍を指揮するモーラ、モロッコ軍団を指揮するフランコ、統領の政治を理想としていたプリモ・デ・リベラ将軍の息子が率いるファランへ党、スペイン国内における教会弾圧を危惧する教皇庁、共産主義者の加わる人民戦線のままでは王政復古はありえないと判断する王党派など様々な勢力が、イタリアに対して支援を要請した。

 

 一方的なラブコールを送られた統領は、奇しくもドイツと同じく当初は慎重な姿勢であったという。

 6月に就任したばかりのチャーノ外相が支援に前向きな姿勢を示していたものの、統領は功名に逸る娘婿に苦々しい表情で自重を求めたとされる。

 地中海帝国ローマの復活を掲げる統領だが、この鍛冶屋の息子は自分の言葉に酔うということがない。むしろスペイン艦隊の無力化はイタリアにとって喜ばしいことであり、内戦が長引くことでフランスがイベリア半島に掛り切りになればいいと考えていた節すらある。

 

 イタリアの冷笑的な雰囲気を一変させたのは、フランス議会においてスペインへの軍事支援が検討されてるというパリ発の特電であった。

 

 イタリア軍のみならず統領個人としても、地中海覇権を巡るフランスへの感情的なまでの対抗意識を有していたのは事実だが、それだけで動くほど軽挙妄動な人物ではない。

 このファシストの創設者をして反乱軍への大規模支援を決意させたのは、イタリア軍情報部長マリオ・ロワッタ少将の意見具申によるところが大きい。

 

「御承知の通り、フランス人民戦線の内部分裂はスペイン以上に激しいものです。急進社会党右派がスペイン介入に消極的なのも事実」

「ですが万が一にも、フランスがスペイン政府に対する本格的な軍事支援に乗り出せば如何なりましょうや」

 

 チャーノ外相と共にスペイン内戦への積極的な軍事介入を主張する数少ない将軍であったロワッタ少将は、先の大戦においては西部戦線でフランス軍と共闘した経験を有しており、個人的にも感情的な反仏感情とは無縁である。

 だが情報参謀としての長く豊富な経験を有する彼は、外からは内部分裂ばかり起こしているかのように見えるフランスが、三枚舌を駆使する腹黒紳士と渡り合いながら植民地帝国を維持し続ける謀略国家としての顔をもつことを正確に認識していた。

 

「精強無比なモロッコ軍とフランス軍が直接戦う必要はありません。彼らのスペイン本土上陸を阻止さえすればよいのです」

「地中海沿岸地域を政権側が確保している今ならば、フランスの地中海艦隊はジブラルタル海峡と主要港湾の監視活動という最低限の活動で政権側に勝利をもたらせるでしょう。陸軍中心の反乱軍に、フランスの地中海艦隊に対抗する手段はありません」

「両国空軍の共同作戦行動により孤立化した北方軍を殲滅し、モロッコ軍が自壊するのを待つ」

「この場合、内乱は年内にも政府側の勝利で終わるでしょう」

 

 かくして無力化されたスペイン艦艇は地中海艦隊に取り込まれ、フランスはモロッコを影響下に治める。地中海におけるフランスの影響力は絶対的なものになる……ロワッタ少将の指摘する不愉快な可能性に、統領は軍事介入の必要性を認めざるを得なくなった。

 

 かくして7月中旬には、チャーノ外相が反乱軍側との本格的な交渉を開始。ロワッタ少将を指揮官とするイタリア義勇軍の編成が始まった。

 

 なおイタリアは軍事支援の条件として、自国の地中海政策に対するスペインの全面的な支持と支援を求め(有り体に言えばモロッコを始めとした海外領土を寄越せということだ)、スペイン側の交渉責任者を大いに鼻白ませたという。

 

 こうして独伊両国から提供された輸送船団に加え、イギリス海軍の黙認を得たモロッコ軍団はジブラルタル海峡を無事通過。8月初頭までに主要兵力をスペイン本土に輸送することに成功。

 ロワッタ少将の危惧するイタリアにおける最悪の事態は避けられることとなった。

 

 またスペイン反乱軍への支援に向けてドイツとイタリア両国が足並みを揃えたことは、ローマ・オリンピック招致問題と並んでオーストリアのドルフース首相暗殺事件から冷え込んでいた両国関係を改善させる効果をもたらした。

 

 バルセロナに首都を移転させたスペイン政府は、南下を続ける北方軍との戦線に加え、モロッコ軍団との戦いに兵力を振り向けざるを得なくなった。

 アサーニャ大統領とピラール首相が最後の頼みの綱としていたパリの人民戦線内閣は、政府与党内部で実の伴わない議論を延々と続けるばかり。

 殺戮と破壊を続けながら北上するモロッコ軍団がマドリッドまでわずか100キロの距離に迫る中、ピラール内閣は9月4日に崩壊した。

 

 事ここに至れば、もはや穏健派とされるアサーニャ大統領にも選択肢はない。不干渉政策を掲げる反共国家イギリスの目など気にしていられないと、社会労働党左派に属するラルゴ・カバジェーロが首相に就任する運びとなった。

 「スペインのレーニン」の異名をもつ新首相は、さっそくソビエト連邦からの大規模な軍事支援受け入れを決定。マドリッド方面への進撃を続けるモロッコ軍団に対抗するため、急ピッチで軍の再編を進めた。

 

 かくしてイベリア半島を舞台にドイツとイタリア両国が関係を深めようとしていた矢先の1936年9月17日。欧州諸国に新たな激震が走った。

 

 オーストリア内戦の勃発である。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。