クラリネット好きによる、クラリネット好きのためのSS。
現実:異世界が7:3
これは、あるクラリネットを愛してやまない男の冒険記
←読んだら意味がわかります

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初投稿


クラリネット協奏曲のお題目「踊り子さんのお迎え」

 12月3日、寒さも本格的になり、マフラーをつけて登校する部員も増えてきた。

 朝7時、本校舎から少し離れた特別棟の2階にある音楽室には、暖房の周りに群がる女子生徒と、その輪に入れず、後方で震えている男子生徒の姿があった。

 誰のことかって?そう、俺だよ。

 僕には見向きもせずに話し合う女子たちを無視して、さっさと朝練を始めよう。今日も今日とて家から持ってきたMyクラリネットを組み立てはじめる。

 

 冬という季節は、管楽器に良いことなどない。

 音程は下がるし、寒さで指が回らなくなる。管の中はすぐ結露して、木管は割れやすくなる。

 特に、クラリネットには最悪だ。直管という構造上、結露した水は唾液と混ざって下のベルや、横のホールから溢れてくる。気付かないうちに足が濡れていることもある。一つの穴に繋がる水の通り道ができると、スワブを何度通しても、同じ穴からずっと溢れてくる。寒さで管が冷えて、バレルを完全に差し込んでもチューニングBは低く、少し吹くと頭部だけあったまり、ブリッジ音階が高くなる。かじかんだ指はろくに動かず、思ったように旋律がまわらない。そんな指でリードを扱えば、厚着をした制服に引っ掛けて割り、たちまち300円が水泡に帰す。

 じゃあ、僕はクラリネットになった事を後悔しているかだって?否、断じて否だ。

 パーカッションは、冬でも腕を動かせば体があったまり、音程という概念がない。さらに、楽器を動かしにくいという性質上、ずっと暖房の効いた音楽室で練習できる……だとしても、僕はパーカッションからクラリネットに異動した事を後悔していない。

 

 たとえ寒くて管が冷え込んでいても、クラリネットは低音部のロングトーンで奏者の心を暖め、高音部のアルペッジョで冬の幻想的な風景を写し出す。何度かスケールで指を回せば、ほら、指もあったかくなってきた。万能栄養薬ことスケール練習を始めよう。最初はスラーで、24音階。テンポはのんびりめに120で。

 愛しきMyクラリネットは今日も絶好調だ。昨日開けたばかりの新品リードを慎重に吹いて慣らしたら、全盛期リードに乗り換えよう。さあ、もう遠慮する必要はない。複雑なタンギングでレガートとスタッカートを織り交ぜながら、インターヴァルだ。テンポは調子良く160。準備室から漏れてくるドラムにノリで負けないように。気持ちの問題さ。

 朝の時間は短く、片付けの時間があっという間にやって来る。ヨハン・クリストフ・デンナーに敬意を示しつつ、丁寧に片付けていく。スワブを3回ベルから通し、分解してケースに直す。接合部のコルクもしっかり拭いて、タンポのクリーニングペーパーも忘れずに。

 

 マウスピース片手にくっちゃべる金管女子を尻目に、8:15、音楽室を出る。半から始まるHRに間に合うように。特別棟と教室棟はそんなに離れてないが、直前に行こうとすると玄関が混む。少し早めに行くくらいがちょうどいい。教室に着いたら後ろのロッカーにクラリネットが入ったケースをしまって、机で読書。机の横にかけていた時期もあったけど、教室内で走り回る男子に落とされたことがある。あの時は壊れてないか、割れてないか、キーが曲がってないか、とか、心配で心配で、修理にも出した。幸いハードケースに入った中での落下だったから、何事もなかった。心臓に悪い。二度とごめんだ。

 朝の挨拶を数人の男子と交わす。ぼっちだと思った?そんなことはない。ある程度交友関係が限定されているとはいえ、一日中クラスで一言も喋らないほど根暗ではない。話す内容は最近日本シーズンが終わり、その結果についてだ。今回は大接戦となったようだ。関東出身だからってことで、地元の'大きな人'チームを応援している。思い入れは少ないが、クライマックスまでよく出るから、おかげで話のネタに困らない。こういったファンがいてもいいだろう。この時期はやはり、あの334がネタになる。'虎'ファンの男子からの「なはんかんむ」を恒例ネタとして、あの選手はどーだの、チームの運営がどーだのと無責任な事を言い合う。

 本当に他愛のない会話。だが、この瞬間こその楽しさがある。青春かな?けっ、柄じゃねえ。

 

 ふくよかな体型の子の、ボタンがはちきれそうな制服をいじっていると先生が入ってきた。転校生なんてイベントはない。都心の郊外にある進学校に、この時期入ってくる奴なんて居ない。なにも連絡はないという連絡を聞き流し、ふと今月分の部費の提出日が迫ってた事を思い出す。確か明後日。確実性を持って、今日の夜にでも親に頼もう。3千円がパッと出てくる親ではない。1万円を渡されて、崩して、って言われたこともあったから。はぁ、誰に似たんだか。

 いつのまにかHRは終わってて、1時間目の5分前。時間割を見て確認したところ、数学Ⅱ。教科書とノートを出して本を読む。量子力学についての本、少し背伸びだ。光子の重ね合わせ理論を読んでると、横から小テストやべー、と聞こえる。お前慌ててなくてすげーなー、と言ってくる友に一言。腹を括るんだよ。開き直るともいう。

 7限まで終われば、鞄を引っ提げてすぐに校舎を出る。教室に居残ってたらロクなことが起こらないし、玄関が混む。やけに入り口が狭く混みやすい玄関だが、付き合い方は混んでない時に行くことだ。廊下にて妹の姿、見ゆ。ロクなことが起こった。ヤバイと思い、バレないうちに走り過ぎようとしたが、時すでに遅し。お兄ちゃーん、廊下に響く妹の声。ロクな事第2位はお前だよ、と悪態をつきながら、また後でなという思いを込めて、手を振ってその場を離れる。周囲の目線が向けられている状態で、平気にいられるほどの強心臓、は持ってない。家でうるさいだろうな。わざとやってるのでは、と最近思う。あの親にしてこの兄とその妹あり、ってか。半ば諦めて靴を履き替え特別棟へ。

 

 ここまで来たら僕の聖地だ。2階の音楽室、その横にある第二練習室が放課後は開く。木管用の練習場所として定着しているそこでは、クラリネットの素朴な音が邪魔されない。ベルを此方に向けかき乱してくるトロンボーンや、音を真っ向から消してくるドラムはいない。すでにサックスが3人、部屋の隅に集って練習していた。反対側に陣取り、クラリネットを用意する。そうそう、次の曲はバスクラリネットもあるんだった。音楽室に戻り、準備室からバスクラのケースを取り出す。戻ってきて、リードケースを忘れたことに気付き、もう1往復。

 重いバスクラは組み立てるのも大変だ。ベルにすらキーがあるlowC管は、組み立てるのに細心の注意を要する。バスクラは学校のもので、僕の私物ではない。クラリネットの三角波の深みのある音はそのままに、温かみもプラスして、音域を低音に伸ばしたバスクラも大好きだが、値段が高くて手が出せない。低音特有の凶暴さはなく、聴く者と、その上で演奏する楽器を安心させる音は、他の低音楽器には真似できない調和したハーモニーを奏で上げる。安定感を出すのは難しいが、そこは本人の技量次第でどうとでもなる。

 スケール練習は、ソプラノより気を遣う。手を大きく動かさなきゃいけないし、ボタン一つ一つに重みがある。質量感と程よい吹き心地を提供するキーも、速いパッセージでは難敵となる。テンポに遅れることがないようにしつつ、力が必要以上に入ることもないように。

 その後ソプラノに持ち替え、こちらも基礎練から。さあ、基礎はバッチリやったか?最後のタンギング練習をしながら考える。HiBからキツくなる。歯切れ良く、軽快に。サックスの十八番だが、負けてられない。お株を奪うつもりの意気込みが大事だ。ふと、パーカッション時代に、先輩からシロフォンのソロをもぎ取った時を思い出す。先輩からお株を奪うってか?あれは少し違うかも。先輩が下手すぎた。

 基礎が終われば曲練だ。インテンポになるDのリズム感を掴む練習から。連符地帯でそのテンポ感が崩れないように。ティンパニのソロを想像しながら演奏する。4小節、メトロノームの響きを聴いて、大きく息を吸って吹き始める。ブレスも忘れて8小節吹切ったら、ここらで一息、すぐさまリズム隊に加入する。8分音符を息つく間もなく吹き続ければ、一つの盛り上がりが近づいてくる。クレッシェンドだ。直訳は成長しながら。Fの2小節前の山場でフォルテ。綺麗なHihiCの一本線を弾き切って、駆け下りていく。Fのフルートソロ前まで吹いて、さあもう一度だ。45小節目のHiG4つが低めだったかな?チューナーで軽く音程を確認してもう一度。スタッカートの歯切れ良さを極限まで引き出せるように。メトロノームを巻き直して、4小節待ってから。

 

 ありがとうございましたー。そう叫んで音楽室を後にする。今日は鍵当番ではない。お腹が空いたし、さっさと帰ろう。Myクラリネットが入ったケースを忘れずに。 20:02、すでに暗くなった夜空の下にて帰宅路につく。今日もあまりバスクラの練習が出来なかった。クラリネットが楽しすぎるのが悪い。バスクラも楽しくないわけではない。けど、今回の曲は見せ場が少ない。持ち替えのせいで、バリトンにソロを奪われたことも原因だ。だからといって、おろそかにはできない。明日はバスクラからやろう。

 家で膨れっ面して待ってるであろう妹を想像し、げんなりしながら帰路を急ぐ。もうずいぶん寒くなってきた。僕もマフラー買った方が良いのだろうか。そんなことだったら、お手入れ用具にお金をかけたい僕は、変わっているのだろうか、いや、一奏者として当然のことだ。別にマフラーがなくたって死ぬわけじゃない。クラがないと死ぬのかって?否定はできない。

そこまでして愛する楽器に、名前をつけないわけがない。楽器に名前をつけること自体は意外とありふれている。My楽器はもちろん、吹部の中には学校の楽器に名前をつける者や、その名前を先輩から受け継ぐなんてこともある。カタカナの愛らしい名前をつける人も多いが、山田太郎と言ったネタとしか思えないものまである。学校のクラリネットはだいたいロケットかミサイルだ。ロケット53号、とかこんな感じ。

 僕のクラリネットにつけた名前はイナズマを表している。豊かな音の象徴の稲と、お淑やかな音をイメージした妻、そしてイナズマ自体の、鋭くカッコいい音という意味がこもっている。クラリネットの発明家デンナーからも着想を得て、名付けた名前は……

 

 突然真横に現れた、光り輝くトラックのライトが眩しかった。

 

 

 

 

 

 知らない天井だ。というか、よく見たら天井ですらない。真っ白な空という表現が適切か。どこまでも広がっている。倒れた体を起き上げて、周りを見渡す。白い床にどこまでも広がってそうな空間。限りなく現実感が希薄な場所にいるのに、いや現実感がほとんどなかったからこそ、現状に取り乱さなかった。最後に見たトラックを見れば納得だろう。ああ、死んだのか、なんてどこぞの主人公みたいに心に出してみる。思い描くは、涙目の妹と悲しそうな母。もうすでに、ここで何が起こるのかワクワクしている僕は、罪悪感を抱く資格すらないのだろう。親友の顔と遅れてやってくる父のアヘ顔に励まされ、死後の走馬灯に涙。一滴流せば十分だ。万感の想いを込めた滴が地面に溶けて消えた。

 タイミングを測ったように光が溢れ出す。真横の眩しい光はトラウマになってしまった。つい顔を背け、強く目を瞑ってしまう。光が止み、おそるおそる目を開ければ、そこにいたのはおあつらえ向きの女神様。話を聞くには、事故前の状態で異世界転移してくれるらしい。どうやら、僕と近しい人の残留思念がとても強く、その意思の強靭さに神様が折れたとか。僕自身はその人のおまけ、というかその人の願いそれ自体、らしい。結局誰なのか教えてくれなかったけど、これは女神様の嫌がらせとかではなく、お前どうせわかってるだろ?って感じだった。……誰だろう?でも、分かってないなんて言えない。空気読める子。

 そんな僕に気付いているのかいないのか、淡々と説明する神様。あ、ため息ついた。異世界で向こうに行けば、例の人に再会出来るらしい。あとは、お決まりとも言える神様特典も。すぐに思いつかず、視力の回復を希望したが、そんな物は特典を使うまでもないと、男前な女神様。惚れた。後から頼むことも可能らしく、欲しくなったら強く願えと言われた。気前のいい神様に感謝しながら、空間を後にする。異世界への冒険だ。興奮するに決まってる。元の世界の人たちは何とも思わないのか、なんて怒られそうだけど、そうじゃない。女神様がさっき行ってたのだ。転移だから、元の世界に戻る方法はある、って。それを最終的に探しつつ、思いっきり楽しもうと思う。あとは、例のあの人の正体も気になる。何はともあれ異世界だ。神様が開いてくれたいかにもなムーンゲートに、一歩を踏む出す。ちょっとしたおまじないを、心の中で唱える。僕に本番前、いつも勇気をくれる魔法の言葉。

 

 さあ、はじめの一音を、Bless Wind for the Sound

 

 

 

 

 

 気がつけば、草原の上にいた。青々とした晴れやかな空が広がり、暑い空気で汗ばむ肌は冬だった地球と対照的で、ここが異世界だと教えてくれる。時々吹き抜ける清々しい風が肌を撫で、草原を揺らして通り抜ける。服装は、制服のままだ。荷物は?荷物を確認したら、学校への鞄だけだった。

あれ!?クラリネットがない!

 どこかに落としたりしたのだろうか。周囲を見渡すが、見当たらない。トラックに轢かれたときに壊したか?絶望的な気分になる。クラリネット1本で、何をそんなに、と思うかもしれないが、僕の生命線だと言っても過言ではない。クラリネットがなくてどう生きていけと……

しばらく落胆していたが、いつまでも嘆いていても仕方ないので顔を上げる。万が一、億が一にも異世界にクラリネットがあることを信じて。使い慣れたクラから、新しいクラリネットに乗り換えるのは、いささか気が進まないが。ないよりはマシだ。

 ふと周りを見渡すと、すぐ右のそばの地面に、1人の女の子が横たわっていた。って、ええーー!?いや、気付けよ僕。でも、最初はいなかったはずなんだ。いつの間にか現れた?ていうか、この子が転移した原因の残留思念の人?女だったのか、いやだれ?あいにく、女性と愛し合った経験はない。知ってる人かと顔を覗き見てみるが、やはり知らない顔だった。

 白くすらりと伸びた細長い手足に、服装は黒のブレザーに黒の膝上スカート。制服っぽい服装から、高校生だと推測する。僕の学校の制服ではない、白のラインがあしらわれたデザイン。顔は、横にうつ伏せになっているのと、黒の帽子で見にくいが、手足と同じく、色白の端正な顔立ちである。パッと見て、ああ可愛いな、って思う程度には。幼さが残るが、大人の顔に近づいている、思春期特有の女の子だ。

 

 ずっと眺めてた僕の視線に気が付いたのか、ううん、と身じろぎしながら、彼女が起き上がった。思わず体を起こし、一歩後退。少女が体を起こし、こちらを見つめてくる。目があった。パッと明るくなり、笑顔が溢れる。まるで、長い間会えなかった大好きな人にようやく会えた少女のように。やっぱ知らない人だ。どこかであったか?

 笑顔が咲き誇る少女と、困惑する僕で、見つめ合うことしばし。何度も頭が空回りし、ようやく絞り出した声は、えっと……どちら様で?だった。ガクッと顔を落とし、全身で落胆する少女。しかし落ち込んだのも束の間、今度はガバッと顔を上げると、自分の顔を指し示し、半歩にじり寄ってからこう言った。

 私ですよ!ライです!思い出してください!

 済まないが、ライという女性は知己にはおらず、寡聞にして申し上げないのですが……あっ。

 

 さあ、はじめの一音を、Bless Wind for the Sound

 

 なんだかしまらない始まりで、僕とライの冒険が幕を開けた。

 後これも、and Ry 、っと。

 

 

 

 

 

 次の日、ライから部屋まで呼ばれた。いつになく真剣なライの表情に、僕もまるで本番前のように緊張してくる。珍しく、ライは帽子を取って、机の上に置いていた。……そこで語られたことは、衝撃的でもあったし、ある程度予想していたものでもあった。

 マスターがここに来た原因は、私です。そして、帰れない原因も。

 ああ、やっぱりそうだったんだな、と今更ながらにして思う。確かに女神様からは、ライの想いが原因で、異世界にやってきたと聞いた。しかし、それは異世界転移で、元の世界に戻ることができるとも。多分、元の世界でも僕は死んではいないのだろう。だけど、かなりの重症を負ったはずだ、なんせトラックとの人身事故だから。クラリネットを吹くことが難しくなるほどの重症。違うかい?

 ライはうなずき、ぽつぽつと話しはじめた。事故の後、女神様に僕の転移を頼み込んだと。女神様から二度と吹かれることはないだろうと言われ絶望し、なんとかして欲しいとしがみつき、異世界なら元に戻してもらえると言われた、そういった内容だ。そういえば女神様、初めて会った時ため息ついてたな。今度差し入れでも持って行こうか?中学の頃は、頻繁に差し入れ持っていって、吹部の後輩に喜ばれてたし。何言ってんだ僕、吹部じゃあるまいし。

 元に戻る条件は、まさにライが納得すること。僕が元の世界に戻ることを。ライいわく、決して諦めるものか、なんて思ってたけど、そうじゃないと気づいた、らしい。僕の方が諦めらないことに気づいた、と。この前の件で、マスターが私を決して見捨てないって、心の底から思ったんです。多分、ロックン火山噴火から、巨大カタツムリの撃退までの一連の事件のことだろう。元の世界を思い出したマスターの辛い顔、もう見たくないから、とも。

 だから決めたんです、マスターを信じるって。

ライがそう言った途端、お互いの体から光が溢れ始めた。この世界ともお別れらしい。様々な場所に行き、いろんな人に出会い、多様な体験をした。この世界で初めて出会った気前のいい衛兵、ボサノバ、彼のおがげで今の生活がある。モンの完璧なウクレレ伴奏は、セッションがサイコーだった。フルート使いのキーナには、危ないところを何度も命を救われた。孤児院の子供達は演奏を楽しそうに聴き、毎回惜しみない拍手をくれた。バッシュは気難しい職人だったが、含蓄に満ちた人生の教えをくれた。最初についた草原の街は、風が穏やかでとても過ごしやすかった。暑い砂漠のオアシスの湖は、予想よりかなり冷たいことを知った。極寒の雪山にて、ソリで滑る爽快感を味わった。

 光が強くなってくる。ライとも、人間姿のライともお別れだ。水と湿気を極度に嫌がるライ、一食抜けば激怒し実に心配してくれたライ、演奏で人を喜ばせることができたことに喜び笑顔を咲かせるライ。クラリネットと奏者、マスターと楽器の垣根を越えて、心を通わせあった日々。共に楽しみを共有し、喜びを分かち合う日々だったが、時には失敗を悲しみ、成長しない自分が悔しいこともあった。

 僕は小指を差し出す。約束の合図だ。ライが小指を絡める。声に出さなくても伝わる。これは、決して諦めない約束で、ライを見捨てない約束で、また、いつか必ず、ライと一緒にステージに上がる約束だ。光がますます強まり、小指の感覚も無くなってくる。

 体の一部が粒子になっていき、空間に溶け出す中、僕たちは小指をからめて、無言で見つめ合っていた。この世界での冒険はおしまいだ。だが、第二ラウンドが待っている。元の世界で、何が起こったのか、これから何が起こるかわからない。さらなる困難が待っていても、どんな逆境にも抗う勇気をくれる魔法の言葉を唱えよう。

 

 さあ、はじめの一音を、Bless Wind for the Sound and Ry

 

 誰もいなくなった部屋の中、机の上のキャップが、窓から吹く風に乗って、コロコロと音を立てていた。

 

 

 

 

 

 知らない天井だ。目を開ければ、久しぶりの文明的な照明が付いた天井が目に入る。おにいぢゃあぁん、と泣きついてくる妹が目に入り、痛い痛い痛い痛い!体中に激痛が走る。声に出そうとするが、声が出ない。いや、息が吸えない。肺に息が入らない。気付けば鼻に管が入れられていて、ベットの横には大型のごちゃごちゃした機械が。

 帰ってきて僕の胸に到来したのは喜びではなく、絶望だった。

 

 母親に妹を引き離してもらい、話を聞くと、やはりトラックの交通事故だった。事故後すぐに病院に運ばれ2時間昏睡状態に。肺に深刻なダメージを負ったらしい。あとは肋骨の骨折が何本か。肺の損傷はかなり深刻らしく、呼吸器なしでは生きていけない体になったそうだ。クラリネットは僕がぶつかる瞬間に咄嗟に抱え込んでいたらしく、無事だったようだが、2度と吹けないでしょうと医師に宣告された。日常生活ですらままならないのだ。運動は無理だし、楽器を吹くなんてもってのほからしい。転移した原因は、二度と吹いてもらえないライの残留思念だった。確かに納得。もう吹けないってことは、ライにとって僕は死んだも同然だ。

 呼吸器付きの生活は慣れるまで本当に大変だった。簡単に移動できないのはもちろん、しばらくはお風呂に入れなかったし、病院から出ることも少なかった。気晴らしのため、妹に車椅子を押してもらっての散歩を何度か経験した。体の半分サイズの機械を持ち運ばなければいけないし、重い機械を持ち歩くだけの体力がなかったからだ。

日に日に機械は小型化していって、とうとう退院ってなってからも、呼吸器生活は続いた。完治したわけではないし、呼吸器とて万能ではない。家の中の階段を上り下りするだけですぐ息が切れる。旅行はおろか遠出もほとんどなく、家族には不自由な思いをさせてしまった。学校では新学年が始まっており、5ヵ月いなかった自分は奇異の目にさらされた。去年からの同級のよしみで、なんとか男子4人のグループに入れてもらうが、体育では見学、放課後は周りがカラオケなどに行く中何もできず即帰宅の生活だった。部活は参加できるわけなく、暫くの休部が決まった、実質的に退部した状態だった。病床でもらった、部員からのお見舞いメッセージは、ありがたかったが、同時に楽器を吹けない現実を叩きつけられたものだった。もちろん彼女たちは悪くない。悪いのは注意散漫だったトラック運転手と、横断歩道上でぼーっとしてた僕自身だ。

 

 家族は僕がクラリネットを吹こうとすることを極度に警戒した。ライの処分まで考えたようだが、僕のガチ泣きで、若干引きながらも保管に納得してくれた。月に1度手入れをしていたが、その時は家族立ち会いの元、決して僕が吹こうとしないよう厳重に監視された。しかし、5回目になれば、さすがに信頼されてくる。日曜の午後、妹に一声かけて、リビングにあるライを取って自分の部屋に。妹は来る気配はない。当然の如くリードは回収されているが、部屋の机の中にあった一枚を取り出す。音が出たら当然バレるだろうが、吹ければ問題なかろうと、軽く考えていた。5ヵ月のブランクを思わせない、慣れた手つきで組み立てていく。開放のFで構えて、出来るだけ息を吸い込み、吐こうとした瞬間、ブヒャっ、と音が鳴って、盛大にむせた返った。妹が部屋に慌てて入って来るが、咳き込んで何も言うことができない。そんな中でも、ライを落とさないようにすることだけが必死だった。

 当然、あの後、妹と帰ってきた母に責められ、本気で廃棄が検討された。しかし、もし廃棄されたら窓から飛び降りんばかりの勢いで物言い、盛大に咳をすることを繰り返す僕に、とうとう諦めたらしい。呆れたともいう。そしてなんと、これまでの態度とは一転、僕のリハビリを応援してくれるらしい。お兄ちゃんは一度決めたら絶対諦めないし、諦めないお兄ちゃんがかっこいいから、とは妹の言で、そういう頑固なところがあの人と似ているのよねえ、と遠い目で呟くのは母親だ。

 

リハビリも当然、簡単なわけなく、茨の道だった。最初は4秒も息が続かず、咳き込むことの繰り返しだった。ただただ指が健在だったのが唯一の救いか。病院に行けば、僕と妹に力説され、頼み込まれた担当医から苦笑いされ(もう吹けないでしょうと言った人だ)、肺胞の機能の説明や肺に負担をかけないブレスの方法など、医学的立場からアドバイスをもらった。診察室を出るときにかけられた、おじちゃんも君の夢を応援したい、頑張れよ、の言葉にはジーンときたものだ。友達に話せば、心からの声援をもらった。どこからか聞きつけたのか、熱血系で有名な体育の先生までが、誰よりも大声で応援してくれた。沢山の人に支えられてることを実感する日々だった。

 そんなこんなで知識もつけつつリハビリに励んで、実に6ヵ月が経った。決して、事故前に戻ったとは言い難い。しかし指運びの精度は上がったし、一曲は吹き切ることができる。この時期は、とうにコンクールは終わっていて、夏も終わりが近づいてくる。今、僕が目指しているのは、ソロコンテストだ。無謀にも程がある。怪我で肺が傷ついてまで、出場しようとする人はいないだろう。だが、何かしらの目標が欲しかった。そして、ライと立つ本番も。中学のソロコンでもお世話になったピアノの先生に頼み込み、伴奏をしてもらうことになっている。中学の頃のように、マリンバで出たらどうかと、先生に言われたが、それではダメなのだ。僕はクラリネットで、ライで出たいんだ。ライ本人(本管?)とそう約束したから。僕の想いを聞いた先生はやはり苦笑いしつつ、最終的にとても強力な助っ人になってくれた。音楽面で一切妥協しない先生の厳しい(だが、体調には優しく気遣った)指導のおかげで、2段階も3段階もレベルを上げることができた。

 

 迎えた本番。結果は言ってしまえば、散々だった。キャリーバッグのように、ゴロゴロと呼吸器を転がしながら、ステージに上がった僕は、観客の奇異の目線にさらされた。演奏は、前半は良かったのだが、途中の高音の連符ゾーンで、ブレスを一つ取り忘れ、無理に吹こうとした結果、肺に深刻なダメージとして襲いかかった。結果咳き込んで倒れてしまい、なんとか自力で立ち上がり、最後まで吹き切ったものの、結果はもちろん銅。時間オーバーにならなかっただけマシとも言えるが、どっちもどっちだ。少しだけテンポを上げて弾いてくれた先生に感謝。指の練習を怠らなくてよかった。おかげで早くなってもついていくことができた。まあ、結果は出なかったが。

 申し込みや送迎など何から何まで手伝ってくれた母親と妹に申し訳なく思いながら、閉会式のあとホワイエを歩いていると、スポンサーの新聞社から、インタビューが入った。まあ、肺機能不全者が、ソロコンのステージに上がり、しかも演奏中にぶっ倒れたとなれば、いい記事になるだろう。こちらの体調に気を遣いながら優しく話しかけてくれる、インタビューアーお姉さんの質問に、一つずつ答えていると、突然背後から声をかけられた。驚いて振り向けば、少し高齢の男の人がいて、その後ろに母と妹の姿が。母は困惑していて妹は嬉しそう。何故に?

男の人から話を聞けば、なんと今年の全国高校総合文化祭の運営会長らしい。そして、僕の演奏とその姿に感動したらしく、全国の場で吹かないかと誘われたのだ!異例も異例。このビッグニュースに、最初は取材を邪魔されて、不快そうな顔押していたお姉さんも、ペンを走らせ興味津々だ。母親には話はついているらしく、僕がいいと思うなら、という感じだったので、答えはもう決まってる。お願いします。と頭を下げて、僕は差し出された手をしっかり握った。記事に書いちゃっていいですか?というお姉さんに、大々的に報道しちゃってくれ、と運営会長。

 本番は1ヵ月後だ。さあ、気合を入れ直そう。もともとソロコンは全国区はなく、関東大会で終わりを告げる。地方落ちの僕は、一足飛びに全国へと羽ばたくようだ。ライの音をもっと沢山の人に届けたい。肩にかけたケースから、彼女の笑顔が聞こえてくるようだった。

 

 1ヵ月後だ。たった30日ちょっと。普通はこんな短期間で曲を変えることなんてしない。が、先生との話し合いで曲を変更することにした。実はこの前演奏したのは旋律が激しく、高低差もあってそこそこの難易度だが、長符が少なく、息が楽な曲を選んでいた。いわば逃げの一手。しかし、コンテストで戦うだけならいざ知らず、次は文化祭だ。優劣を競うわけではなく、お互いの全力を見せ合う場。自分の長所を生かし、短所を隠すのも大切だが、運営会長に推薦された手前、あからさまにロングトーンを避けた楽譜はやめたほうがいいだろう。こうなれば真っ向勝負と、長い音符も、短い音符も程よく詰め込まれた曲を選んだ。グレード4+の難曲だが、今の僕ならいける気がする、いや、僕とライならできる!

 再び先生の猛特訓の後、あっという間の一ヵ月。前日に会場がある地、名古屋に着き、近くのスタジオで最後の合わせした後、いざ本番のホールで。

 後から聞いた話、会長はかなり無茶をしたらしく、報道で既成事実を作り上げた後、無理やりこの5分をこじ開けたとか。ソロで出場する団体なんてなく、僕だけだ。前回同様、ゴロゴロと呼吸器と共に入場する。その瞬間、ソロコンテストとは比べ物にならない人の目が集まる。奇異の目だけでない、期待の目、不安の目、さまざまな視線を感じるが、緊張はしない。あるのは高揚感だ。ライの音をこれだけ多くの人に届けられるという高揚。よくないよくない。落ち着くために深呼吸。程よい緊張感が返ってくる。

 司会のアナウンスが入り、事前のインタビューが読み上げられる。それが終わると、ステージが明るく照らされる。一礼し、構える。始まりの音は、HihiD。最初からかっ飛ばす。ライ、頼んだよ。しっかりとした返事が帰ってくる。

 大きく息を吸って、

 

 さあ、はじめの一音を、Bless Wind for the Sound and Ry

 

 

 

 

 

AND YOU

 

 

 

 

 

 

 

——————————————

 

 

 最後のピアノのハーモニーを打ち込み、うーんと背を伸ばす。作曲なんて初めてだし、音楽理論の再勉強も苦労した。クラシック特有の、厳密で複雑なコード移行は、納得がいく仕上がりになるまで大変だった。今回創ったのはクラリネット協奏曲だが、世の中の作曲家たちは、もっとたくさんの楽器にメロディを回してると思うと……頭が上がらないな。

 タイトルをまだ考えていなかったな。どうしようか。「異世界物語」とか?うーん、ありきたりでつまらない。あっ、「踊り子さんのお迎え」なんてどうだろうか。ライが僕を異世界にいざなったお話。うん、とてもよい。踊り子って言葉が、表情豊かで活発なライの雰囲気を、よく表現している。

 

僕は、ライと僕の異世界での冒険をモチーフに、作曲をすることにした。それが、さっきの「踊り子さんのお迎え」だ。クラリネット協奏曲、つまり、クラリネットのための曲。トラックの事故を表すティンパニのfffから始まり、幻想的なフルートの旋律でファンタジーワールドへの転移が示される。そこからクラリネットのソロが始まる。町へ誘い込む暖かな金管の協和音、バトルを表す伴奏隊との激しい掛け合い、ギターとの小気味な二重奏を間に挟みながら、起伏緩急に富んだ慌ただしい曲に仕上がった。なんだかおさまりが無い気もするが、それでこそ僕とライの冒険の雰囲気を、よく表しているだろう。

 今、僕は都内の音楽大学に進み、クラリネット奏者としての経験値を積んでいる。呼吸器付きの吹奏楽家なんて、世界初ではなかろうか?音楽のパラリンピックみたいな。話題性抜群の僕の状況は、あの総文祭から関係者に広まった。特に、障がいを持つ子供達の励みになるってことで、何度か特別支援学校で演奏させてもらった。同時にした、(異世界転移は除いた)経験談を交えた僕の講演も大好評らしく、まだまだたくさんのオファーが届いてる。もちろん全部ボランティアです!報酬を提示してくれた方もいたが、すべて断った。僕が、そして誰よりもライ自身が、やりたい!って思ってやってることだから。

 

 一息ついた後、ライを出して組み立てる。もう一度、「踊り子さんのお迎え」をクラリネットで演奏してみる。作曲中も何度か確認で演奏したが、完成後の演奏は、音楽を素直に捉えることができる。クラリネットのソロは、草原の上で気持ちよく風に吹く、陽気で軽快な旋律から始まる。これを聞くと思い出す、草原の街であった出来事を。もちろんそれを元に創ったのだから。

 たしか、あれはライと出会ってからすぐのことだ……




冒険の中身はそのうち!

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