偉そうにそんな台詞を吐いたエーミールは、もしかすると馬鹿だったんじゃないだろうか? ある人物がそう考えた。
浮気性の男、友人として彼を知る女、彼の浮気に協力する「人ではない存在」……。泥から作られた人間をめぐって、それぞれの価値観がすれ違いながらぶつかり合う。現代を舞台に水面下で起こる微ファンタジー小説。
「少年の日の思い出」に登場するエーミールは馬鹿なのではなかろうか。彼は、本人としては気取った言い回しで主人公を軽蔑した気になっているのかもしれないが、そんな彼が実際に行ったことというのは、自分の鈍感さの白状だけであるように思う。
彼の言う「そんなやつ」が極めて身近にいたことと、自分が被害を被ってからようやくそのことに気が付いた件について、どう考えても彼は自身の鈍感さを恥じるべきなのだ。なのにそれをするよりも先に相手を軽蔑することに精を出していたのだから、エーミールは馬鹿なのではないかという話にもなる。
失う物がお気に入りのコレクションだけで済んで、まだよかった方じゃないか。
幼なじみの男は、昔から女癖が悪い奴だった。中学の時には二股をして、高校の時には女側が多数の3Pをしたと自慢していて、大学生になってからついに一度刺された。しかし逆に言えば彼が刺されたのはたったの一度だけだったし、その時の刺し傷は致命傷にならず今も元気に生きている。
私は、自分が女に生まれたから女をやっているという自覚があるけれど、幼なじみが「男に生まれたこと」を理由に異性をはべらせているとは思えない。女に生まれたこの立場で、はたして彼のことをどんな目で見ればいいのか、距離を取るべきなのか判断つかないまま、私はいつの間にか二十歳を迎えてしまった。
最近アイツは七股をしているらしい。去年までは五股だった。刺された時のとは別の面子で揃えた五股だ。
「この人数が限度なんだ」
向かいの席でジョッキ片手に、見た目だけはどこの俳優にも劣らず良い彼が、反吐の出るような理論を語り腐る。男性にしては細身な彼の体型が、彼の印象から「男性的な悪」を薄めてしまうのはいつものことだった。
「七人なら、一日に一人と付き合えば一生上手く回せるだろ? これが八人になった途端崩れる。だから今の人数が限度、お前とは付き合ってやれないんだな」
「誰があんたなんかと。……聞いて欲しそうだから一応聞くけど、その理屈だと五人だった時はどうしてたの? 多く会えるのが二人だけだと不公平じゃない?」
「心配ない。土曜には一・三・五人目、日曜には二・四人目の彼女と会ってたから」
「……出席番号で生徒を呼ぶのはどうなんだみたいな話が昔あったけど、なんかやっとそれの趣旨が理解出来た気がする」
お待たせしましたー、という高い声と共に、女の店員が、彼の注文した焼き鳥を乗せた皿を持って私たちの席へとやって来た。マニュアルを読むまでもない定型文と共にそれをテーブルに置き、それからなんとも言えない表情を(つまり私にとっては見るだけでうんざりする表情を)瞬き一回よりも長い間浮かべて、そのまま彼女は引っ込んでいった。
小中学校のクラスがずっと同じで家が近くて、それから彼の悪行をほぼ全て知っているであろう私のような人物でもない限り、女性が彼のことを認識すると、大抵ああいう顔をする。そしてそのうちの何人かが、彼に遊ばれるか泣かされるかすることになる。ああいう顔をする人間は皆、そんな先のことまでは考えていないのだろうけど。
耐性が付けられてよかったと、私はいつも心から思う。幼なじみがこうでなければ、いつか自分も似たような男に泣かされる側になっていたかもしれない。それだけは御免なのだ。だからといって彼に感謝なんかする気はないけれど。
「なぁ、俺もさ、悪いと思ってないわけじゃないんだ」
焼き鳥をまた一つ胃に収めた彼が言う。片手に持った串にはあと三つ肉が付いている。塩味のもも肉。
「いろいろあってよくわかった。俺のやっていることは、人をよくよく傷つけることなんだって」
「何を今さら……」
「いや本当、今さらだけどさ。お前もずっと苦言を呈してきてくれたのに、俺は気付くのが遅すぎた」
「……なに? どうしたの?」
まさか改心するつもりなのか。まさか改心して、何か振る舞いまで改めるつもりなのか。
だとすればそれはそれで恐ろしい。彼の突然変異が不気味だという意味でも、七人の女のうち何人がそれを受け入れるのだろうかという意味でも。その不安はつまり、彼の「改心」が「一人だけを選ぶ」ことを意味する場合に予測される嵐へ対する不安だった。
けれどそんな不安を抱いた一秒後には私は、彼がそれを言いながら串から肉を食んだのを見て、今している話は彼にとってせいぜい他愛ない雑談程度の物なのだということを察知したのだった。
「悪かったと思ってるんだ。……けど気付いたところでどうしようもない。俺は「女に困らない」って実感してる時が一番幸せだからな。それをやめるなんてことは、良い父親が、愛する我が子を殺せと言われるような物だ」
「死ね」
「おいおい」
今までを振り返ると、彼に面と向かってそれを言ったことは数えきれない。私はまだそんな風に、彼に暴言を吐きつけることをこんな軽い気持ちで行えるのだからよかったと思う。泣きながら言うでもなく、刺してから言うでもなく。
「いや、まぁ聞いてくれ。そこで俺は完璧な答えにたどり着いたんだよ。本題はそっちだ」
「完璧な答え? それは、どうしても何股をかけたいなら……七人全員を幸せにするということ?」
外面だけは優れた男が首を横に振る。
「違う。一人を七人にすることだ」
「……うん?」
「これを見てくれ」
彼の取り出したスマホ画面には、彼を取り囲んで写る七人の女たちが映っていた。私は彼女らのことを何も知らず、今画面内に見える容姿くらいが彼女らに対する知識の全てだけれど、それで言わせてもらうなら、様々なタイプの女性がそこに写っているように思えた。陽キャ、陰キャ、背の高い人低い人、品の良さそうな人に品が無さそうな人、それからたぶんハーフの人も。
……しかしそんなことよりも、私はその写真を見たことでとんでもない事実に気付かされた。
「あんた、これ……」
「おう」
「前の五人は……?」
「別れた」
私は写真に映る女たちに、一人も見覚えがなかったのである。五股の件については、自慢げにそれぞれの顔写真を見せてくるクソ野郎のことを罵った記憶があるのに、その時に見た顔が一人たりとも、七人の中に含まれていなかった。
「はぁ!? じゃあ、新しく七人も!?」
「いや、これで一人なんだ」
「……なにが?」
点を繋いで絵を描くように、無駄に綺麗な指が画面上の七人の女たちの顔をなぞっていく。
「同一人物なんだよ」
「……合成写真ってこと?」
「違う。簡単に言えば、分身の術だ」
「…………」
世界一白ける冗談だ。そう思って軽蔑の視線をブーイング代わりに送ってやると、それを受けて彼はため息を吐き、ジョッキにあったビールを飲み干した。次の一杯を頼もうと注文モニターをいじることもしている。
「今度家に来いよ。見れば分かる」
「嫌だ。あんたの家なんて、おそろしい」
はっはっはっ、と彼は出来が良いコントを見た時のように笑った。たぶん、「二人で飲みには来ているのに?」という意味だろう。けれど私は本当に、一人暮らしをする彼の家に行くつもりなどなかった。二人きりで飲みに来ようとも、それでもまだ絶対的な一線という物はある。
「何もするかって。それより面白い物が見られるから絶対来いよ。分身だ、分身。泥が女になるんだ」
つまらない冗談を言うことも、あるいは意味不明なポエムを読むことも、どちらも私の知る幼なじみのすることではないはずだから、酒の席とはいえ彼のそんな言動はやや不気味に映る。だから私はその不気味さをかき消すように、グラスに残ったカシオレをちびちび飲み、皿から焼き鳥を一本取っては、何にせよ絶対に奴の家になんか行くものかと誓った。
けれどもその考えは、帰宅した後しばらくして変わってしまったのだった。ほど良く酔いの回った頭が、心地よい眠気の中で、部屋にも私にも馴染んだベッドの上で、夢のように考えたのである。
彼は複数人の女をはべらせることについて「それが一番幸せだからやめられない」と語った。けれどもその話はよく考えるとおかしい。今まで自分が不幸にしてきた女性たちのことを本気で反省したというのなら、言い寄ってくる女の中から一人を選ぶという「二番目の幸せ」を求めればいいだけのはず。反対に、別に何も反省していないというのなら、彼は初めから何も語ることなどなかっただろう。
反省はしたけれど一番の幸せは捨てられない……と、事実上彼がそう語ったこと。その意味は、彼が本当に言いたかったこととは、正確には「それ「だけ」が幸せだ」ということだったと考えられるのではないだろうか……? 私や世間の人々が「悪行」と呼ぶそれをしなければ自分は幸せになれないのだと、彼はそう言いたかったのかもしれない。
むしろそうであってくれた方がありがたいというか、いろいろと納得することが出来る。彼の浮気性は改めて考えると、はっきり言って異常だし、もっと言えば病的だ。そしてそれが物の例えではないなら、同情のしようもある。
彼は分身の術が何だのとおかしなことを言って、私を家に誘ってきた。正直、彼が私を家に誘うことは今までに何度もあったことで、私はそれをいつもタチの悪い冗談として認識していたけれど、今回ばかりはどうなんだろうか。私が放っておけば、彼は分身とやらの七人と幸せになるのだろうか? ……分身なんてそんな物が存在するはずないのに。
女をはべらせて泣かせることでしか幸せになれないと彼が言うなら、それは彼がクズであるせいなのか? それとも彼が病気であるせいなのか? 私は、女として彼に「死ね」と言うのか、幼なじみとして彼に闘病を促すのか、どちらにするべきなのだろう。
あの時見せられた写真は偽物で、分身なんて妄言を真面目な顔して語った彼は、私の幼なじみはとうとうついに、頭がおかしくなってしまったのかもしれない。そして彼の病気の命運を握っているのは、もしかすると私……ということになりかねない。ふわふわする頭でそんなことを考えながら、私は眠りについた。
……翌朝目が覚めた時、酔いは完全に覚めていたのに、昨夜の考えをきっぱりと否定することが出来なかった。まさかね、という思いが、否定の意味なのか危惧の意味なのか、自分でも判断つかない。
記憶を振り返れば振り返るほど、「分身の術」とふざけたフレーズを口にした時の彼が、それを冗談で言っている風には思えなかったのだ。
彼は元々分かりやすい冗談を言う男ではない。それとももしかすると、恐ろしいことに、彼は私に冗談など一度も言ったことはなかったのかもしれない。だから昨晩の話について、幼なじみの勘は警鐘を鳴らしていた。
例えば彼が誰かを抱く時に、母親にすがる子どもみたいに、いつも涙を流していたりしたらどうしよう。私はその彼に「死ね」と言うのか?
思えば私の知っている彼の悪行なんて、上っ面の情報ばかりだったじゃないかと気が付いたのは、それが初めてのことだった。
それはあの写真で見たうちの誰でもない、八人目だった。
「紹介するよ。こちらが俺の救世主、偶像の魔女イノベトラルさん」
初めて入るアパートの一室、その小さなリビングにて、幼なじみから一人の女性をそんな風に紹介される。その時薄情なことに私は、逃げ出したい気持ちに駆られてしまった。
紹介された女性は私と同年代らしき若さの、しかし私とは比べようもないほど綺麗な人だった。頭がおかしいのは、小学生が作った設定集みたいな奇怪な言葉をなめらかに口にした、私の幼なじみただ一人だけであるように思える。
身内が精神疾患を患うことのプレッシャーを、その耐えがたさを、私は生まれて初めて知ったような気になった。
「あなたが
「ぇ、えぇ、そう、千柚です」
「初めまして、イノベトラルです。仲良くしてね、千柚は
にこりと笑う美女は大人びた容姿に似合わぬ幼さの残る声で、少し舌足らずな子どものような話し方をする人だった。彼女の言う「功」というのは、私の幼なじみ「夏樹」と同じ大学に通っている彼の友達、
とにかく、そのおかしなファーストコンタクトの台詞によって私は、ものの数秒で認識を改めさせられることになった。程度の差こそあれ、頭のおかしな人間はこの場に二人いるのだと……。幼なじみがそうであるように、イカれた人間を外面だけで見抜くことは困難らしかった。
もしかすると夏樹のはべらせてきた女性はいつもこんな感じだったのかもしれない……と考えて、私は少しだけ納得する。なんというかこう……局所的にしか物事を見られない人が、恰好の獲物なのかもしれない。
思えば私は本当に、幼なじみの連れる恋人に会うことを今まで徹底して避け続けてきた。中学の頃に一度彼の生き方にうんざりしかけて以来、完璧にそうしてきた。また彼も見せたがりではなかった。
「ところで千柚は彼氏とかいるの?」
悪意の欠片も感じられない大きな瞳が、私を真っ直ぐ捉えて聞く。まずは、
「えっ?」
と声に出すのが精一杯だった。
明らかに日本人らしき容姿のイノベトラル(なんだこの奇怪な横文字は……)は、見た目の美しさだけなら芸能界規模で見てもトップクラスであるように感じる。そういう意味ならなるほど夏樹とはお似合いだ……そう思った。
同じ人間として異質ささえ感じてしまうほど整った顔立ちながら、年相応に大人びた姿と舌足らずな話し方がミスマッチな美女。しかしそのミスマッチのおかげで、美人特有の威圧感にはやや欠けている。憧れられることと愛でられることを両取りしていそうなタイプ……八人目の彼女に対する私の第一印象は、概ねそういった物になった。
だからその彼女から突然「彼氏はいるのか」と聞かれても、私の中に湧き上がった感情は不快感ではなく、むしろ哀れみに近い物だった。
彼女の距離感の狂ったコミュニケーションは子どものそれだ。今まではそれで上手くいったのかもしれないけど、それが一生続くとは思えない。彼女はいつか人間関係的に不幸な目に遭うだろうし、私の幼なじみに目をつけられたことが、まさにその「いつか」だと思ったのだ。
「い、いないけど、どうして?」
我ながら、子どもの相手をする時のような聞き返し方になってしまったと感じる。
「貸してあげようか?」
「……なにって?」
「彼氏いないなら貸してあげようかって」
「貸す……? どういうこと?」
「いらないの?」
「いや、いるとかいらないとか、そういうことではなくて……。……夏樹?」
私がこのおかしなことばかり言う美人から、七股が何だのという話にも負けず劣らずのふざけた話をふっかけられている最中に、一番この場にいなくてはならない男がどこか別の部屋へと消えていった。咎めるように呼び止めると、廊下の向こうから声だけが返ってくる。
「あー、あのな、話の順序が逆なんだ。ちょっと待ってくれ」
順序? 何が? と、不愉快さと疑問を抱き切る前に、彼はすぐに戻ってきた。重そうな青いポリバケツを片手に一つずつ、計二つ持って。
バケツの中に入っているのは大量の泥だった。田んぼの中にあるような泥がそれぞれのバケツ一杯に入っている。
そして彼はそれを、何の躊躇いもなく床に流し始めた。
「はぁ!?」
ぶちまけられた泥はフローリングの隙間まで見逃さず、可能な範囲の全てを埋めつくして平たくなっていく。
……この場で正気なのは私だけなのか? そう感じつつ、足元に迫る泥を避けることだけが咄嗟に出来ることの精一杯だった。思っていたのとは違う意味で本当におそろしい場所に来てしまったと、勢いのまま紛らわされかけていた逃げ出したい気持ちが、再び私の中に戻ってくる。
私は自分の軽率な行動を悔やむ。私がここへ来て知りたかったことは、彼の頭が具体的にどんな風におかしくなったのかということや、どういった意図で分身の術だなどと言い出したのかということだったのだけれど、それを知るための覚悟を私は全く決められていなかったのだと、今になって気が付かされたのだ。
「イノ、例のやつ頼めるか。とりあえずは二人」
「はーい」
イノと略して呼ばれた年不相応に頭の軽そうな美人は、床一面に広がった泥を見つめていた。池の中を泳ぐ魚を見ようとする子どものように。
「誰がいい? 二人」
「じゃあAとB」
「おっけー」
暗号のような、外部の者には意味の分からないやり取り。私は蚊帳の外でそれを聞きながら、他にすることもなく泥を見ていた。床に広がった泥を泥だと理解すればするほど、頭の中はぐちゃぐちゃでまとまらないままになっていく。
……しかし進む展開はそんな私を待ってくれなかった。次の瞬間、私は生まれて初めて、自分の目で見た物が信じられなくなる。
「えっ」
そういったことがもしも起こるなら、例えばゴポゴポと音を立てて泥が泡立つだとか、そういった類の怪しげな雰囲気が伴うものだと思っていた。
目の前で泥が重力に逆らい、空中を登ったのである。そしてそれはまだ本題ではなかった。
何の物音もたてずに、人間の背の高さくらいにまで持ち上がった泥が、過程など一切存在しないまま、突然二人の女性の姿に変わった。……床に一滴として泥は残らず、一筋の溝にも痕跡を残さず、ただ魔法のように、さっきまで足元にあった泥全てが二人の人間になったのである。
突如現れたその二人の女性は、私が彼に見せられた七人のうちの二人だった。泥から生まれた彼女たちは服も着ていた。
「な? 分身だよ。すごいだろ」
夏樹が自慢げに言う。昔、小学生の頃、彼が野球で変化球を投げられるようになった時も同じ調子で、同じ台詞を言っていたことを思い出した。
分身ではなく、召喚じゃないか。……と、私の開いて塞がらなくなった口は、その感想を言葉にすることが出来なかった。
「これがイノの魔法。泥を原料にして人間の模造品を作れるんだ。模造品と言っても、性格や知識をイノが設定していることと死んだら泥に戻ること以外は、基本普通の人間と変わらない」
「ちゃんとセックスも出来るよ!」
何よりも最も重要なことはそれであるというように、自信満々の様子でイノベトラルがそう言った。
泥から生まれた二人の女性は、あらかじめ決められていたようなテキパキとした動きで、無言でポリバケツの中に両足を踏み入れる。するとそれからまた一瞬で、彼女らは音もなくただの泥に戻り、バケツの中へと崩れ去っていった。彼女らの着ていた服も泥になって消えた。
「……えぇ」
あまりの異常さに、私はただ困惑するしかなかった。
偶像の魔女イノベトラル。夏樹は私に彼女を紹介する時、そうやって確かに「魔女」と言っていたように思う。私の頭が唐突にこの場でおかしくなったのでもない限り、あの紹介は正しかったのだろう。
すぐ傍にいる美女は、「人間」ではなく「魔女」だ。私の幼なじみは狂ってなんかいなかったことになる。狂っているのはもっと別の重大な何かだった。
まさに魔法だ。今見せられた物は、魔法としか呼びようがない。手品というようなケチなレベルじゃない、人類史を揺るがすレベルの一大事件だ。泥が人間になり、その人間がまた泥に戻る。それはあるはずのないことだ。「あってはならないこと」だ。
この目で見た上でもまだにわかには信じられない現象だけれども、もしも世の人々が私と同じ物を見て、そしてそれを信じたなら、世界の在り方は大きく変わってしまうに違いない。そしてその変化の様はきっと激しい物になる。魔女が泥を人間に変えるみたいに一瞬で終わるような、誰を不幸にすることもなく済む話ではなくなってしまうだろう。
つまり私が真っ先に考えたことは、無事にここから帰れるのだろうか、ということだった。この世の理を外れた知識を、「知ってはならないこと」を知ってしまったと確信しているから。
「分かっただろ? 俺の言ってたことが」
「え?」
「イノが協力してくれる限り、俺はもう誰とも付き合わない。泥で出来た七人で十分なんだ」
「わたしはもっと作れるけど、夏樹君がそれでいいって言うから。千柚も何か作ってほしい人がいたら言ってね。実在する人の真似でも、架空の人でも作れるよ」
にこりと優しげに微笑んで、魔女はそう言った。そして私は悟る。あぁこの魔女は八人目ではなく、単なる協力者なのだと。
それで今日の日の用は済んだのだった。
「ありがとう」
とっくの昔に身につけた愛想の微笑みを浮かべながら魔女に礼だけ言って、私は決して何も注文しなかった。
そして幸い、本当に幸い、それを挨拶にして、私は幼なじみの家から抜け出すことが出来た。私がそこで見た物を広めようとすることを、秘密の保持者たちはこれっぽっちも警戒していないみたいに、何事もなくすんなりと帰ることが出来た。
あるいは全てが自分たちの思い通りになるのだから、困り事は何も起こりようがないのだという態度の表れなのかもしれない。魔女の力を目にしたことが、その力の底を見たことと同じとは限らない。戒めるように、私はそう考えた。
来た時と同じように、私は徒歩で自宅へ帰る。道中、気持ちは落ち着かなかった。
とんでもない物を見てしまった。とんでもない物を見てしまった。とんでもない物を見てしまった……と、頭の中で焦りがいつまでも薄れなかった。性別も倫理も関係なく、自分の心臓がバクバクと派手な跳ね方をしていた。
そして気が付くと私は、極々小さな公園のベンチに座っていた。自宅への道のりで通るそのベンチが、公園もろとも無人だったこともあって私を誘惑していたのだ。その誘惑に従いそこへ腰かけた私は、それで何かから解放されたかのようにドっと重いため息を吐く。吐かれた息の先では、砂まみれの地面の上を蟻がまばらに歩き回っていた。
灰色の砂粒、中くらいの大きさの蟻。それらをしばらく見守ってから深呼吸を一つして、私はようやくの独り言を絞り出す。
「……………………馬鹿らしい」
口に出してみると、それが真実である気がした。
映画じゃあるまいし、何かを知ったばかりに私が脅かされるなんてことは、そうそう現実に起こったりするものじゃない。例え結果的にそこで魔女に会ったのだとしても、私がしたことは幼なじみの家に言って、彼の紹介する女性に会ってきただけのことなのだから。
そして何より、誘ってきたのは彼だ。事前に打ち合わせを済ませていたとしか思えないあのスムーズなイリュージョンのお披露目は、私にそれを見せることを魔女が了解していた証だろう。だから見てはいけない物など何もなかったのである。
泥を用いて世界の法則に背く彼女が何者であったところで、それが私の生活を脅かすことはないはずだ。大袈裟なのだ、例え本当の魔法を見たのだとしても。それは未成年の喫煙や飲酒を目撃したところで、黙っていれば私の身には何も起こらないことと同じなのだ。
それに泥を女性にすることは、それ自体は何ら問題ないことであるように思える。いくら幼なじみといえども例えば犯罪に手を染めていれば、いよいよ愛想も尽きたかもしれなかったけれど、泥と魔法による実際の行いはむしろ本人が言うように、倫理の面についてはかなり改善されているように思う。あの男から二股やそれ以上の仕打ちを受ける女性はもういないのだ。強いて言えば泥が泣かされるのかもしれないけれど、それは架空の美少女が性欲のはけ口にされるのと同じこと……。
……いや、ちょっと待った。本当にそうだろうか? 原料が泥なら、それは人間ではないのだろうか? 人間の定義とは本当にそんなところにあるのだろうか。もしも人工授精に効果的な触媒のような物として、何かの間違いで泥が選出されたらどうなる。それで生まれてくる人間は人間じゃないのか……? あのポリバケツに入れられた泥の中に人間の遺伝子が含まれているか否かが、魔法的に生まれてくる女性たちの人権の有無を決めているのだろうか?
誰かに設定された性格や能力で生まれてきて、死んだら泥になってしまう人間は、もはや人間ではないのだろうか……?
「…………」
夏も終わった十月の半ば。遮る物がないベンチへ吹き付けてくる風が、妙に生暖かく感じた。
泥から生まれる人間というと、どこかで似たような話を聞いたことがある気がする。都市伝説のような何かで、泥が人間になる話がきっとあった。
おぼろげな記憶を頼りにスマホで検索すると、それはすぐに出てきた。「泥人間」で調べて出てきたその話の正しい名称は「スワンプマン」というらしい。直訳すると沼男になる。泥も沼も似たような物だろう。
ネットの情報いわく、スワンプマンは正確には都市伝説ではなく、思考実験としての概念であるらしい。不確かな記憶を埋め合わせて確かな物にするため、私はその思考実験についての説明を読み進めていくことにした。
・スワンプマン。
……ある男がハイキング中、沼のそばで雷に打たれて不幸な死を遂げた。死んだ男はそのまま沼に落ちて底まで沈んでいった。……が、その時もう一つの雷が沼に落ちて、奇跡が起こった。
その雷によって、未知の超常的な化学反応が偶然発生。結果として沼の一部が、死ぬ直前の「ある男」とそっくりな人間に変化してしまったのである。それは言わば「ある男」の完璧なコピー……「沼男」の誕生だった。
「ある男」と「沼男」は原子レベルで同じ構造をしている。見た目はもちろん、構造的には脳まで完全に同じ物となっている両者は、有している知識や記憶や性格に至るまでありとあらゆる物が全く同じになっている。他人から見れば「沼男」と「ある男」を区別することは出来ず、また沼男自身も完全に「死ぬ直前の「ある男」」と同一の存在であることから、「自分は沼男かもしれない」なんてことは夢にも思わない。
だから沼男は、ハイキングを続けるためにやがて歩き出すことになる。そして何事もなかったかのようにハイキングを終えれば、彼はやはり生前の「ある男」が住んでいた家へと帰るだろう。生前の彼が読んでいた本の続きを読みふけりもするだろう。そして夜がふけていけばそのうち眠りにつく。翌朝は、生前の彼が勤めていた職場へと出勤していくのだ。
……という話。
この思考実験の意味は例えば、「幼なじみの夏樹はコピーではないと言いきれるのだろうか?」といった話になっていく物らしい。だからスワンプマンという話は、人間とは何か? 個人とは何か? というような哲学的な問いのためにあるのかもしれないが、私にはそんな難しい話は分からないし、分かりたいとも思わない。
問題は、私の幼なじみが取り得る行動のうち、果たしてどちらの方が「許し難いこと」なのかということだ。人間から生まれた人間をはべらせて最後には傷つけることと、泥から生まれた人間をはべらせて都合が悪くなれば泥に戻してしまうことと。
魔女の作る泥人間は、魔女が設定した知識や性格を持っているものらしい。だとすれば泥人間たちは「泥に戻りたくない」という感情を持ってはいないだろう。そんな物をわざわざ設定してしまうと、泥人間たちの反乱が起こる可能性が生まれるだけで、誰も何も得をしないから。
私が疑問に思うのは、そんな風に「不服に思う機能」さえ持たないような「搾取されるための存在」を意図的に生み出して、実際にそれを搾取することは罪ではないのだろうか? という点についてだった。二股行為が考えるまでもなく罪である一方で、泥人間を用いることは罪ではないのだろうか……? という方向へ思考が巡る。
幼なじみの精神状態を確かめるために誘われるがまま彼の家を訪ねたけれど、結果として私は未だに判断しかねていた。私は幼なじみのことを、今まで通りなあなあで済ませて放っておくべきなのか、それとも今度こそ本気で止めるべきなのか。泥人間の存在が足されたことで、状況は余計に複雑な物になってしまった。
その上、魔女や魔法が実在したからといって、それは彼の頭が正常であることを証明しているわけではない。泥人間とは無関係に、彼の思考は病気かもしれないし、そうではないかもしれない。またそんな堂々巡りの思考が浮かんできては私を悩ませる。
「なんで私がこんな……」
文字通り頭を抱えた。
私はただ、幼なじみという名の友達が不幸になる様を見たくなくて、その友達が誰かを不幸にする様も見たくないだけなのに。それがなぜこんなことになってしまうのだろう。泥でも何でもいい、ただ彼が一人の女性を選んでくれればそれでいいのに。恵まれた容姿の彼が自分にふさわしいと感じる美しい女性を一人選んで、その人のことだけを見ていてくれれば、それで私が思い悩むことは何もなくなるのに。
「大体、なんで七人も……? 多すぎるでしょ……」
足元の蟻が一匹、靴を伝って足を登って来そうになったから、私はそれを慌てて振り払った。
魔法の実在を知ってから数日後。ようやく落ち着きを取り戻せたのか、私は魔女の口から設楽功の名前が出ていたことを思い出した。
千柚は功の友達の夏樹の友達だから仲良くする。確か魔女はそんなようなことを言っていた。反対に言えば、彼女は設楽功の存在がなければ、私に魔法を見せることも夏樹に泥人間を与えることもしなかったということになる。
魔女は設楽功によほど入れ込んでいる。そう察せたからには、私の取る行動も決まっていた。
私は設楽功の連絡先を知っているのだ。夏樹経由で初めて知り合った時に向こうから聞かれて、そして互いに丸っきり放置していた連絡先を。
自分が彼から何を聞きたいのかということさえも、考えることは二の次だった。
「イノベトラル? あぁ、泥の魔女だろ? いや正式には偶像の魔女だったか……まぁなんでもいいけど。それで何、それが気になるのか?」
「彼女自身のことというより……いや彼女自身のことも気になりすぎますけど。けどそれよりも、夏樹に七股を勧めたのはあなたなんですか……?」
「うん? まぁな。詳しく聞きたければ時間取って話せるけど、いつが空いてる?」
「じゃあ……」
適当な土日の昼間にスケジュールを空けて、私は彼とファミレスで会った。彼はコップの水を必ず一息に飲み干す人だった。
設楽功。幼なじみの夏樹の友人で、夏樹や私と同い年の二十歳。彼は流行的な美男子である夏樹とは別ジャンルのガタイが良いタイプで、日焼けした肌と声の大きさが印象的な男だが、どちらかと言わなくてもイケメンの部類に入る男でもある。そして夏樹が言うには、彼もまた女好きらしかったが、私はそれについては詳しくない。
ファミレスによくある小さいサイズとはいえ、八等分にしたピザの一欠片を一口でいこうとする彼に、私は単刀直入に聞いた。
「イノベトラルはあなたの彼女なんですか?」
「そうだが」
ソースの付いた指を舐めながら彼が言う。
「イノの力を夏樹に貸してるのは彼女の同意あってのことだから心配しなくていい。夏樹は、あいつはいいやつだが、女癖はさすがに目に余るところがあるからな。俺が提案したんだよ」
「人間の女性の代わりに、泥で出来た女性を……ということを?」
「ああ、そうだ。いい提案だろ。みんな幸せになれる」
心底誇らしげな様子で、彼はそう言った。私の印象の中でだけ、彼の隣でにこにこ笑顔を浮かべながら小さく拍手するイノベトラルの幻が見えた。
「泥から出来た女性には、人の心はないんですか?」
自分の分のパスタをフォークで巻き取りながら、さほど緊張もせずに聞く。改めて会ってみた設楽は近くにいるだけで圧があるタイプの男だったけれど、会話に駆け引きを必要としないという意味ではプレッシャーのない人物でもある。
「さぁな。そもそも人の心ってなんだよ、って話だろ? どこに定義があるんだってさ」
「それは……」
「スワンプマンって知ってるかな」
「あ、はい」
タイムリーな話題に少々驚く。
「俺たちはお互いに、自分は泥人間じゃないと証明することすら出来ない。だから何が本物かなんて考えることはナンセンスなんだよ。重要なのは、イノの能力で生まれる女を夏樹が見る時、それは泥から作られた物だときっちりその目で確認していることだ。何が本物なのかは知らないが、少しでも偽物らしい方を自分の趣味に付き合わせようってやり方は、あいつにしては結構頑張って出した結論だと思わないか?」
「……はあ、なるほど」
私は呆気に取られて、そんな中身のない返事をすることしか出来なくなっていた。イカれた人間を見た目で見抜くことが困難であるのと同じで、雑そうに見える人間が雑な考えで生きているとは限らないのだと、この歳になってようやく身に染みる自分に恥を覚える。
そう、私は立派な人間などではなく、単に罪を犯していないだけだった。人間的に必要な経験の面だけを見れば、私は夏樹のことを非難出来る立場ではないのだと思う。人と積極的に関わってきたという点に関しては、彼は私よりもずっと偉い。
けれども、だからといってその女癖を肯定出来るわけではない。そしていくら理性的な説明を受けてみたのだとしても、まだ私は泥人間の扱いに納得することが出来なかった。
結局、夏樹やそのまわりの人物が導き出した結論は、彼の問題点を何ら解決していないじゃないかと。話を聞く限りだと、私の幼なじみは、人を傷つけることを反省したわけではないらしい。傷つけてもいい相手を探すことにしただけだ。それを良しとすることは私には出来ない。
「でも私は、泥人間が不憫に思うんです」
「なんでだ?」
「私たちが自分を泥ではないと証明出来ないからこそ、自分たちとよく似た姿の人たちが弄ばれるのを見ると、良い気分はしないじゃないですか」
「……なるほど」
ピザの生地に奪われた口内の水分を、やはりゴクゴクと一息に補給して、勢いよくコップを置いた彼は言った。
「まあ、そこは考えの男女差ってやつかもな」
設楽功。彼は最後の最後で、見た目通りの男だった。
私は設楽と別れた後、その日のうちに、夏樹と再び飲む約束を取り付けた。七人もいるとはいえ彼のために生み出された泥人間と付き合っているせいか、彼は五股をしていた時よりもずいぶんとスケジュールに余裕があるようだった。
設楽と話したことで余計に、私は少しでも早くこの一件について結論を出したくなった。放っておくのでもいい、止めるのでもいい、とにかく自分の納得出来る結論が必要だと感じている。毎晩毎晩、あるいは日中でさえも、このおかしな倫理観と狂った現象の実在のせいで、これ以上思考を支配されてしまうことは避けたいのだ。
そうしなければ、まるで私が数多くの被害者たちと同じように、夏樹という男に振り回されているようになってしまう。悪いけれど私は、どうしても自分だけは、それを御免蒙りたいのである。
私がなぜ中学の頃に一度うんざりしかけて以来、それからずっと夏樹の連れてくる女に会うことを避け続けたのかといえば、それは結局、自分は他人事を貫き通したかったから……ということになる。実際に会ってしまうとその人の顛末を聞いた時に、人並みに自分の心まで乱されてしまうことが嫌だった。
泥人間の扱いなんて、だから本当はどうでもいいのかもしれない。今までをなあなあで流してきたことからも明らかなように、私は心の底から正しさを求めるほどの潔癖症ではないはずなのだ。私はただ、自分が彼を許すのか許さないのか、その方針を決めて落ち着きたい。そしてそれは特に、前者の結論に行き着けると良い。
「珍しいな、そっちから誘うなんて」
夜中、この前とは違う店で待ち合わせた彼の、第一声がそれだった。
「今までは、誰かしら別の人の相手をするのに忙しいと思ってたからでしょ」
「そう、それなんだよな。イノのおかげでそういう煩わしさもなくなったのが良い」
煩わしさと、そうはっきり口にしたことが、私にも人並みに不愉快に感じられた。……が、相手が相手なので、そういったことはほとんどキリがないというものだ。気にしないようにする。
店に通されて席に座るなり、注文した一杯目の酒が来るよりも早くに、私は身を乗り出す勢いで彼に聞いた。
「七人のことはどう思ってるの。五人の時とは違うの?」
「その話か」
言いながら、彼は嬉しそうにしていた。自分が面白いと感じる話に人も乗ってきた時のような無邪気な喜びを彼の中に感じる。
「五人の時とはそりゃ違う。人間じゃないからな」
「人間じゃなければ、あれは何なの? ただの泥でもないでしょう」
「うーん……キャラクター?」
酒は想定よりずっと早くにやって来た。設楽と比べてとても控えめな一口を飲んでから、彼は話を続ける。
「まず名前だな。泥から出来た彼女らには名前がないから俺が付けることになったんだが、人間じみたまともな名前は付けないことにした。過去から学んだことを思えば、どうせ呼び間違える時が来ると分かっていたからな」
五人もの女を日ごとに取り替えながら「愛してる」と言ってしまえる男の気持ちなんて分からないけれど。分からないからこそ、彼のようなタイプは巧みに、そして息をするようにそれをやってのけるものなのだと思っていた。
間違えるくらいならやらなければいいのに。そう思うのは私が女だからというわけではないだろう。まともな人間なら皆同じように思うことだ。
「へぇ、そんなミスをしたことがあったんだ」
「あるさ、人間だもの。……で、だから七人には、アルファベット順にAとかBとかって名前を付けた。つまりAからGという名前の七人が、月曜から日曜を通してそれぞれ俺に会うわけだな。曜日とアルファベット、どっちも順序のある物だから覚えやすいだろ? そして俺はさらにそこへ天才的な発想を込めたんだが、何だと思う?」
「さあ?」
その発想とやらにはほとんど興味もなかったけれど、嫌な予感だけはした。彼は再び酒で喉を潤わせてから言う。
「名前のアルファベットに胸のサイズを対応させたんだよ。すると曜日感覚が狂っちまった時にもある程度分かるようになるだろ?」
「…………」
下衆。真っ先に浮かんだ言葉がそれだった。そしてその言葉を幼なじみへの印象として思い浮かべることは、昔から別に珍しいことじゃなかった。
……しかしだからといって私も、特に今日は、その発言を気にも留めずにいられるわけではない。私はその珍しくもない下衆な台詞から「あること」を読み取った。……今語られたような彼の振る舞いこそが、「出来を自由に設定して人間の模造品を作る」という、あの魔女の魔法の本質を表しているのだと気付いたのだ。
イノベトラルの魔法は、あれは倫理観や人権意識と真っ向から相反する物だ。品種改良という言葉を人間に使うことが禁忌であるように、あの魔女の魔法で恋人だの愛人だのを作ろうということそれ自体が、七人だろうと一人だろうと致命的に倫理に反する。
やはり話はややこしくなってしまっていた。二股をかけることの罪の重さだけを考えていればよかった時よりもずっと、幼なじみが持つ罪は複雑に……そして重くなっている。本人と話してみてそのことが明確になった。
……なあなあで済ませられればそれが一番だ。そんな風に考えていた数分前が、遠い昔のことのように思えてしまう。
今日来た店は、酒が来ることの次に、注文した料理が出てくるのも早かった。空腹だったのか、待ってましたという素振りで彼がそれに手をつけ始める。それは、彼の中ではここにある会話が、いつも通りのただの雑談として扱われていることを意味していた。
「……それでお前は何が気に入らないんだ?」
よく煮込まれたサイコロ形に近い肉を箸でつまんで口に入れながら、お見通しだぞという顔で彼が言った。
「俺がやってることを良く思ってないんだろ。どうしてだ? 相手が泥でも、人数が増えたからか?」
「いや、違う。……たぶん違う」
「じゃあ、相手が泥でも、人間と変わらないように見えるからか?」
「……分からない」
「分からないって、なぁ。……とりあえず食えば?」
満腹というわけでもないはずなのに、私は何かを口に入れる気にはなれなかった。
聞かれてみると、彼が悪であると感じることの詳しい理屈は分からなかった。ただあの魔法に頼ることが悪であることだけが分かっている。人数が増えたとか見た目が云々ということではない。命や心を、自分の身勝手で醜い欲望のために食いつぶす前提で生み出すことは絶対に間違っているのだと、それだけが分かる。
私とは別の結論を持っていたとはいえ、設楽功は、それなりに真剣に物事を考えているようだった。しかしその設楽を経てからこの幼なじみに対面してみると、今目の前にいる実物は、私の頭の中にいた幼なじみよりもさらに度し難い人物であるように感じられてならない。
夏樹は、私の幼なじみは女癖が劣悪だけれど、逆にそれ以外は善良な人間であるはずだった。私は彼が迷子の子どもを助けるところを見たことがある。車に轢かれた猫の死体を埋めて手を合わせてやっているところを見たことがある。重い荷物を持ったお年寄りを手伝っていたところだって見たし、バスや電車で席を譲ることが出来る人物だということも知っている。私自身が彼に怪我の手当てをしてもらったことや、熱に倒れた時に看病してもらったこともある。そうでなくても「異性として付き合う」ことさえしなければ、彼は設楽の言う通り、基本的にいつもいいやつであることに間違いはないはずだった。
それが、泥人間のことが話に上がった時からおかしくなってきた。この二十年の間保たれていた「信頼」らしき物が、たったの数日で、疑わしく揺らぎ始めている。
彼はまったくもって、泥人間のことを家畜や奴隷としか思っていないのではないだろうか。……見た目が人間そっくりの存在をそんな風に扱える人が彼なのだと知れば、彼が元々人間を人間として扱っていたのかどうかさえ、疑いたくなってしまう。
「何が気に入らないのかは分からないけど、それはそれとして俺のことが気に入らないのか?」
それならそれで構わないという風に、飲み食いを続けながら彼は言った。そもそも初めから私が何を言ったところで、俺は自分のやることを変えるつもりは一切ないのだとでも言う風に。
しかし彼がそんな態度を見せるのは当然のことだった。私は今まで「他人事」を貫くことを、さも自分の意思で選択しているような気になっていたけれど、事実だけを見て言えば、私が彼の行動に干渉出来た試しなど一度としてなかったのだから。
それとも彼が彼なりの反省を口にして、泥人間に頼ろうと決めたことだけは、私が彼に与えた影響だったのだろうか? ……私が彼に与えた影響は、「反省したフリ」だけだったのだろうか。
「私は夏樹が誰も傷つけずに幸せになれたらいいと思ってた」
「そうしてるだろ?」
「でも考えが変わったよ」
ガヤガヤという環境音として聞こえる他の客の声は皆楽しげな物で、ここにいる私だけが場違いであるように感じる。だからその雰囲気に呑まれ負けてしまわないように、私は少しだけ声を張った。
「夏樹は、一度痛い目を見た方がいい。向こうから寄ってくる人を泣かせるならまだしも、こっちの意思で勝手に作った人をそんな扱い方するなんて間違ってる」
どうしても大勢の女性をはべらせなければ幸せになれないというなら同情くらいする。妥協策として泥から作った人間にひどい仕打ちをするというならそれを尊重したっていい。けれど夏樹は、ずっと昔からクズだった私の幼なじみは、ラッキーで舞い込んできた未知の力をただ楽しんでいるだけだ。そんな調子では反省も苦悩もあるわけがない。
今の彼があの魔女の魔法に頼ること、それ自体が不貞以上の罪なのだと私は結論付けた。設楽は「夏樹がそれを泥だと認識していること」が良いと言っていたけれど、私はそれとは真逆の意見を持つことになったのだ。
面と向かって座った幼なじみは、私の目の中をちらりと覗いてから、それから……。
……それから、私のことを鼻で笑った。
「そうか。千柚は、そんなことを言うやつだったんだな。……あのな、一つだけ言っておくぞ。俺が魔法の恩恵を受けられるのは、俺が偉いからじゃない。イノが力を持っていて、功がイノに惚れられていて、その功が俺のことを気に入っていてくれて、なおかつ功とイノの二人ともが俺への協力を認めてくれたおかげだ。全部が全部他人の力だ、俺は偉くない」
ほんの小さな音を立てて、彼が小皿の上に箸を置いた。
「だがそれは俺が功に気に入られ、イノにも気に入られたから起こったことだ。二人に気に入られて、二人のおかげで幸せになってるのは俺なんだ。分かるか? 千柚、お前じゃないんだよ。お前はこの話のどこにもいないんだ」
私の目を真っ直ぐ見て、そいつはそう言った。そしてまだ皿に料理を残したまま席を立つ。
「じゃあ、今日はこれで解散ってことで。こんな話してたら飯が不味くなるからな……。とはいえさすがに悪いから金は出しとくよ」
「……わかった」
一人でそそくさと会計に向かった彼が、ポケットからスマホを取り出してどこかへ電話をかけているようだった。
G、悪いんだけど迎えに来れる? 酒飲んじゃってさ。……そう聞こえた気がした。
私は彼の残した料理を怒りと共に頬張った。それが彼に対する呪術的行為になるかのようにムキになって次々に口へ詰め込んで、自分の注文していたチューハイを一息に飲み干し、煮えるような腹立たしさの籠った頭のままで設楽功にメッセージを送る。
「イノベトラルさんに会わせてもらえませんか?」
彼が犯罪に携わりでもしない限り、私が彼への愛想を尽かすことはないのだとばかり思っていた。なんやかんや言っても私は他人事を貫いて、彼とはなあなあの関係を維持していくのだとばかり思っていた。
見通しが甘かったのだ。
再び対面した魔女は、初対面の時の印象とさほど変わらず、機嫌良さげに殊更にこにこと笑みを浮かべているものだった。
彼女とは平日の夕方にファストフード店で会った。設楽功とイノベトラルは、私の望みを快く叶えてくれたのである。
私は夏樹の女癖に関わる話のどこにもいない。夏樹本人からそう言われて、私も彼と同じように同じ人物から協力を仰ぐことにした。私も私以外の人の力で、しかしあくまでも私自身が、この一連の件について関わっていくのだ。もう二度と夏樹にあんなことを言わせないように。
「それでわたしにお願いってなぁに?」
ポテトをもそもそと貪りながら魔女が言う。その台詞の響きがランプの魔人じみて聞こえたのは、彼女が魔法を使えることを私が知っているせいだろうか。
「夏樹に協力することをやめてもらいたいんです」
「えー、どうして?」
「魔法の力は、彼のためにはならないと思うからです。設楽さんとは逆の意見ですけど……私は、彼がオモチャを手に入れて喜んでいるようにしか見えないんです。あれじゃあ女癖の方は悪化するばかりですよ」
「別にいいんじゃないの?」
倫理や道徳に反する魔法の持ち主だからだろうか。彼女は私を退けた時の夏樹以上に露骨に、身に纏う態度全てで「くだらない話だ」と主張していて、取り付く島もないように感じられた。
「最悪、夏樹君がサディストの拷問魔で、人を出来るだけ苦しめて殺して……出来るだけ苦しめて殺して……を一生続けないと生きていけないんだとしてもだよ。それで殺されるのが私の作った人形なんだったら、誰も不幸にはならないでしょ? じゃあそれでいいじゃん」
「人形に心はないんですか?」
「さあ? あるんじゃないの、たぶん。私だって自分の魔法を隅から隅まで知ってるわけじゃないからわかんないけど。ていうか、心って何なの、っていう話でしょ? 千柚はそれが分かるの?」
「分かりませんけど、分からないからこそ、夏樹のやり方を良しとは出来ません」
「うーん……。……じゃあ、わたしが千柚の言う通りにしたら、誰が幸せになれるの?」
「誰が……? それは」
「それは?」
「それは……」
……それは?
即答出来る気がしたのだけれど、実際には言葉が喉につっかえた。
頭の中に真っ先に浮かんだのは、一人の女性を思いやって幸せに暮らす幼なじみの姿だった。あるいは何らかの方法で七人の女性全員を幸せにして、私には想像もつかないような形の幸せを手にする彼の姿だった。
けれど今の夏樹は絶対に、誰か一人を選びはしない。七人全員を幸せにすることも出来るわけがない。それどころか目の前の魔女がかつて私に言ったように、彼がいつか彼の友人へ向かって、こう言う時が来るだろうということばかりが鮮明に予測出来てしまう。……彼女がいないなら貸してやろうか?
それを止めるためには、まずはイノベトラルを止めなければ。そう思ったから、今こうして魔女本人と話しているわけだけれど、では仮に私の思惑通り魔女を説得出来たとして、そうすると誰が幸せになれるのかと言われたら、それは……。
「……誰がと言ったら、それは、……人形が、じゃないですか」
みるみるうちに、私の言葉は萎んでいった。自信や覇気を失っていった。
普通に考えれば、夏樹がもしもイノベトラルの協力を失ったとしたらその時は、彼は元通りの浮気性のろくでなしに戻るだろう。それで誰が幸せになるのかと言われれば、確かにそれは夏樹自身ではない。彼の恋人になる女性でもない。幸せになるのは、彼から解放された泥の人形だけだとしか思えなかった。
「千柚は夏樹君や他の女より、泥の人形に幸せになってほしいんだね」
「ち、違う、私は」
「でもダメだよ。夏樹君のためにならないことなんてわたし絶対にしないから。千柚が思ってる通りになんか絶対ならない。私は功君の友達の夏樹君の友達の千柚のことも好きだけど、功君の友達の夏樹君のことだって大好きなんだもん」
「違う! 私は、夏樹に幸せになってほしいだけで……!」
そう口にした途端、シン……と空気が凍ったような感覚に襲われた。
視界の端にいた、背景と見分ける必要もないはずだった他の客たちが一斉にこちらを見たことに気付いて、私は自分が冷静さを欠いていることを自覚する。
自覚して、努めて自身のクールダウンを意識した。本当に怒るべき相手が魔女ではないことくらいは、分かっているつもりだったから。
「……私はただ」
「うん」
「夏樹には幸せになってほしいけど、彼に関わる人にも幸せになってほしいだけなんです……」
再びしりすぼみになっていくそんな言葉を、魔女は微笑みを絶やさずに聞いていた。取り付く島もなさそうな、一切自分を曲げる気がないような、余裕の微笑みで。
けれど魔女の声は優しかった。
「分かるよ、千柚のことも」
彼女はテーブルの下で、私の両手を包み込むように握る。
「みんなに幸せになってほしいから、夏樹君に変わってほしいんだよね。わたしよりもずっと前から夏樹君のことを見ていた千柚は、今度こそ我慢の限界になっちゃったんだよね。分かるよ。分かるけど、わたしにはどうしようもないの。わたしじゃ夏樹君は変えられない。でも夏樹君に振り回されることを一番の幸せだと感じる人形を作っても、それじゃ千柚は満足してくれないでしょ……?」
「……ごめんなさい」
心苦しいけれど、頷くしかなかった。
夏樹に振り回されることに幸せを感じる人形……。そんな物のことは、考えてみたこともなかった。自分の好きになった男が、複数の女性相手にうつつを抜かしていることに幸せを感じるなんて、そんなことが出来る人間はいないと思っていたから。けれども、だから魔女は「人間」ではなく泥で、そこに変化を与えようとしていたのかもしれない。それは普通の人間である私には、きっと一生出てこない発想だ。
夏樹に少しでもマシな選択をさせようとしていた設楽功。夏樹を取り巻く常識の方を変えてしまおうとしたイノベトラル。何も考えずに欲に溺れているのは夏樹本人だけで、彼の周囲ではそれぞれの人物が、それぞれの解決策を模索していたということになるのだろうか。
そうだとすれば、私はその一員だ。「まずはおかしな魔法をなくさなければ……」といつの間にか考えていたけれど、私が本当に変えるべきなのは夏樹本人であって、魔女ではなかったらしい。
なのに、そのことに気が付いたのに、「それじゃ千柚は満足してくれないでしょ……?」という言葉には頷くしかなかった。
私はダメなんだ。私は、他の人たちがするような妥協策を受け入れられない。だって妥協はどこまで行っても妥協で、ろくでなしはどこまで行ってもろくでなしだから。
夏樹本人が妥協策しかあり得ないと言うなら話は別だけれど、本人がそれを妥協とも思わぬままでいるのに、周囲の人間がそのまま納得してしまうことが正しいとはどうしても思えなかった。
「理想論なのかもしれないけど、それでも私は夏樹に……」
「うん、うん、そうだよね。だから……わたしにはどうにも出来ないけど、知り合いの魔女を紹介してあげる。その人なら、もしかしたら夏樹君を何とか出来るかもしれない。その魔女はかなり気難しい子だから、向こうの機嫌次第なんだけどね」
「そんな人がいるの……?」
「うん!」
そして魔女は手荷物の中から大学ノートを取り出して、無造作にページを一枚破き、そこにいろいろなことを書いて渡してくれた。住所、電話番号、地図、そして目的の人物の人相……。「知り合いの魔女」とやらに通じる情報がそこへふんだんに書き込まれている。
特にその人相によれば、私が次に会う魔女は未成年であるらしかった。イノベトラルよりも明らかに幼い少女の似顔絵がメモの中に描かれている。
「わたしに出来ることはここまでだよ」
「あぁ……ありがとう」
初対面の時とは違って、今度は心の底から彼女にお礼を言うことが出来た。
そしてその日の晩、私はさっそく教えられた番号に電話をかけてみた。イノベトラルから渡されたメモの上部には、何かしらの作品のサブタイトルのように大きくこう書かれている。「願いを叶える魔女、コハクの居場所!」と。
しかし意外なことに、電話に出たのは男の声だった。
「はい」
「あの、すみません、コハクさんという方は」
「は? 誰だあんた」
「あっ、
「イノベトラル?」
魔女の名前を復唱する男の声音は訝しげで、こちらを突き刺すようなニュアンスがあった。
電話口の男は、低音の上ひどく威圧的な話し方をする人物だった。反社会勢力にでも電話をかけているのではないかと、みるみるうちに不安になってくるほどに。
……が、人は声や話し方の雰囲気によらないものらしい。
「いつ来れる?」
「あ、えっと、土日なら基本いつでも」
「なら一番近い土曜の朝十時から正午までの間で頼む。来る時には電話を入れてくれ。場所は分かるんだろ?」
「は、はい」
「よし。じゃあ土曜待ってるからな」
プツっという音がして通話が切れる。驚くほどスムーズなやり取りだった。
電話口の彼は、発音の一つごとに付き纏う威圧感のせいで話していてあまり気持ちの良い相手ではなかったけれど、こちらの望みを全て認めて迅速に話を進めてくれたのだから悪い人ではないのだと思う。
予定も取り付けて一息ついた私は、メモの似顔絵を眺めながら、気難しいと言われる魔女コハクのことを想像する。イノベトラルがそうであるように、魔女が「魔法使い」ではなく「魔女」と呼ばれているのは、やはり魔女と呼ばれる人たちが全員女性だからなのだろうか。ではなぜ電話口に男が出たのだろう? と考えれば、電話口の男は例えるなら、イノベトラルにとっての設楽功だったのではないかと推測することが出来た。
願いを叶える魔女コハクと会う。会って夏樹を変えてくれと願う。……私はそれから数日の間、ただそれだけを目的に生きたと言っても過言ではない。夏樹に関する一連の件の中には楽しいことなんか一つもないけれど、一番近い土曜日にたどり着くまでの数日間、私は遊園地に行く予定を控えた子どものように落ち着かない精神状態で大学やバイトに通った。
そして来たる土曜日。戦場へ向かうような覚悟を決めて、私はメモに書かれた地図通りの場所へと向かう。言われた通りきちんと電話を入れて今から行く旨を伝えもした。初めて行く土地で迷子になるということもなく無事に到着すれば、残る唯一の試練はこの後に控える「魔女の機嫌」のみであるように思う。
魔女コハクと電話口の男がいるであろう場所。到着してみるとそこは何の変哲もないマンションだった。けれど私はそれを不似合いな舞台だとは思わない。夏樹、設楽功、イノベトラル……誰と話した時も、場所自体は日常の中にある他愛ない物でしかなかったのだから。
マンションの中へ足を踏み入れ、住所通りの部屋の前に立ちインターホンを鳴らす。するとノータイムで鍵の開く音がして、設楽に勝るとも劣らない体格を誇る目つきの悪い男が、その部屋の中から現れた。
そして思わずその男の顔を見上げてしまった私は、彼に手首を掴まれ部屋の中に引きずり込まれた。悲鳴を上げる隙もない一瞬の出来事だった。
屈強な彼は私を押さえつけながら扉に鍵をかけ、自身の唇に人差し指を当てて鋭く、
「喋るな。死にたくなければな」
と言いつけてくる。……それで心臓を掴まれたかのように息が詰まった私は、小心者なのだろうか。
恐怖心に直接訴えかけてくるようなその男の声は、例の電話口の声と同じ物だった。
「…………」
「勘違いするな、魔女の性質についてのことだ。俺がお前を脅したいわけじゃない」
「…………焦りましたよ」
ほっと胸を撫で下ろすとはこのことだろう……。自分の身が危険に晒されているわけではないと理解してからようやく、私は額に浮かんだ嫌な汗を拭う。
しかし私は今さらながら彼のおかげで、自分が客観的に見て危ない橋を渡っていることに気付くことが出来たとも言える。ろくに知らない人物の紹介で、ろくに知らない場所へ、それも密室の中へ向かっていたのだ、私は。……汗は一度拭うだけではまだ足りなかった。
けれども今さら引き下がれはしない。客観的な視点を失ってしまうほど心を乱され、消耗していたとしても、ここで私が諦めてしまったら夏樹は一生クズのままで、私はそれを一生気に病むことになる。単純に彼の振る舞いが耳に入るたびこれまで以上に気分が沈むだろうし、その上それこそ万が一何かの拍子に彼が再び誰かに刺されて、今度こそ死んでしまったりしたら、その時になってから今日のことを悔やんでも悔やみきれるわけがない。
頭の中に、病室のベッドでへらへらしていた時の幼なじみの顔が思い浮かぶ。あれではダメなのだ。彼にはもっと、もっとまともな形で笑顔になってもらわなければ……。
「コハクには絶対に話しかけるな。向こうから話しかけてくることはない。話しかけたらアンタの望みは何も叶わず、命を取られるものと思え」
念入りに脅してから男は私の手を離し、ついて来いとばかりに部屋の奥へと向かって行く。それを追っていくと廊下から続く広間に、似顔絵通りの魔女の姿が見えた。
足の長い大きなテーブルを挟んで、三者面談のような形に配置された椅子が置かれている。そこに座っている虚ろな目をした少女が、どうやら魔女コハクであるらしかった。コハクはワイシャツを着ていたが、彼女自身のそれなりに幼い顔や小さな体によって、それは学校か何かの制服の一部であるように感じられた。
私を案内する厳つい男は魔女の隣の椅子を引いてだるそうに腰を下ろし、部外者らしく二対一の構図で私も残る一席に着くことになる。さっき脅しのような忠告を受けたせいか、その場に妙に張り詰めた空気が立ち込めている気がした。
しかしそんな空気の中で矛盾を抱えるように、私の頭の中にはかなりどうでもいい思考が浮かんでくる。夏樹にはべらされる女性がそうであるように、魔女もまたその全員が美人であるのかもしれない……。座るやいなや、短髪がよく似合う向かいの少女を見て、そんなことを思ったのだ。
「新寺千柚だったな」
「はい」
気難しのは魔女ではなくこの男の方なのではないか? そう思えるほど露骨に不機嫌な様子で向かいの男が言う。苦手なタイプだった。
しかしそれはそれとしても、にこにこ顔のイノベトラルとは対照的に、コハクは微動だにしないままずっと「心ここにあらず」といった様子であることが気になる。向こうから話しかけてくることはないという話にも、動かない彼女と一度も目が合わないことで強烈な説得感が出ていた。
「単刀直入に言うが」
コハクの隣でその男が、ただでさえ悪い目つきに眉間のシワを足して話し始める。
「アンタは騙されている」
「えっ……?」
「アンタはイノベトラルに騙されている」
こんなところで冗談を言われているわけではないということくらい、客観的視点が無くたって理解できた。
「……なんでですか?」
「知るか。どうせあいつにとってアンタが気に食わなかったんだろう。イノベトラルはそういうやつだ。……しかしまぁ、まずはコハクの性質から話そう。よく聞いてくれよ」
コハク本人の方をちらりとも確認せず、それがまるで命無き置き物であるか、あるいは私にだけ見えている幽霊であるかのような扱いをしたまま、男は語る。
「偽証の魔女コハクは、書面や電子データの改ざん・捏造を行う魔法を持った魔女だ。だが魔法の詳細自体はどうでもいい。……コハクの問題点は、誰の言うことでも聞こうとする性格にある」
「は、はぁ」
「例えばこいつは、ここで裸になれと言われればそうするし、舌を噛み切れと言われれば噛み切ってしまう。……おい、言ってないからな。言ってないぞ」
ピクッと跳ねるような反応を見せて彼の方を見た魔女に、彼がドスの効いた声で牽制しながら話は続く。
「俺じゃなくてもいい、誰が言ってもコハクはそいつの思い通りに動いちまう。重ねて言うがこれは魔法に一切関係のない、本人の性格の問題だ。人間社会にもいるだろう、まわりに流されてばかりの奴が。あれの極端な例だと認識してくれ」
「はあ、なるほど。……あの、それは分かりましたけど、私が騙されているという話は」
言い切る前に、舌打ちが聞こえた。殺意がこもっていたようにさえ感じる。
「まぁ聞けよ。コハクの性格の問題点はな……誰の言うことでも聞くが、相反する「お願い」が同時に降りかかった時に、発言主の片方を殺すことで解決しようとするってところにあるんだ。二人の人間がこいつに「右手を上げていろ」「右手を下げていろ」と命令した場合、こいつはそのうちどちらか一方を殺して、残った一人の命令に従うんだ」
「……無茶苦茶じゃないですか」
「無茶苦茶だが実際そうなる。だからそういった「事故」を防ぐために俺が見張りをしてるんだよ」
語る本人の迫力のせいだろうか。それとも隣に座る魔女の、抜け殻のような異質な雰囲気のせいだろうか。彼が嘘を言っているようには思えなかった。
十代半ば頃の少女の姿をしているコハクという魔女が、次の瞬間私に刃物を突きつけることが、なぜか容易に想像出来てしまうのだ。
「イノベトラルは、千柚という名前をした女の「お願い」を聞くなと、つい最近どさくさ紛れにコハクに吹き込みやがった。だからアンタが話しかけるのはまずいんだよ。コハクがアンタの言葉を一つでも「お願い」だと認識したら、こいつは間違いなく一番手近なアンタに殺意を向ける」
「どうしてイノベトラルがそんなことを……?」
「だから知るかよ。アンタ、あいつからなんて言われてここに来たんだ?」
光のない、空っぽの目をした少女をちらりとだけ見てから、私は答える。
「願いを叶える魔女がいるって聞いて……」
「それはほとんど嘘だな。コハクの専門は捏造偽造に改ざんだ、それ以外のことは出来ないし、殺しのやり方だって地道なもんだよ。……だからってそれを止めるのは骨だから俺は御免蒙りたいが」
「……嘘をつかれたってことですか、私は」
「ああ、そうとしか思えないな」
微笑み、手を握り、理解者らしく振る舞って、優しげな声をかけてくれたあの日のイノベトラルを思い出す。
……あれが嘘? あの時彼女は、私に「死ね」と思っていたのか……?
それは信じたくない。本能的にそう思ったけれど、でも「そんなはずはない」とイノベトラルのことを信じ切ることが出来なかった。だってあの魔女の倫理観はイカれている。彼女が私に優しくしてくれるとすれば、その理由は「(恋人の)功の友達の夏樹の友達の千柚だから」なのだ。それをそのまま口にするのだ、あの魔女は。およそまともな価値観じゃない。だから「騙されたのだ」と言われればその通りである気がしてしまう。むしろ、そちらの方がしっくり来る気さえしてしまう。
……それともまさか、夏樹が手を引いているのだろうか? 「恋人の友達の友達」ではなく「恋人の友達」の意向を優先した結果嘘をついたということが、そんなことがあったりするのだろうか。
一度騙されたからと言って疑心暗鬼にはなりたくないけれど、私は、コハクではなくイノベトラルにこそ、自分の意思だけで動いている様子を見たことがなかった。
「……じゃあ本当に騙されたんですね」
「ああ、まぁ、お気の毒にな。だから今日は、すんなり諦めてもらうためにここへ来てもらったんだが……ちなみに願い事はどんな物だったんだ?」
「え?」
「いや、なんだ、俺の方でどうにか出来ることもあるかもしれないが、聞いてみなければ分からないだろ? ……別に言いたくなければそれでいい」
「あ、ありがとうございます」
彼が漫画のキャラクターなら、今までの恐ろしげな印象を塗り替えるように頬でも赤らめながら言っていそうな台詞だったけれど、彼の表情は一貫して不機嫌そうなままだった。ひょっとすると彼はそれがニュートラルの表情なのかもしれない。
私はお言葉に甘えて、短く端折って自分の望みを伝えることにした。幼なじみの男のひどい性分を変えてほしい、夏樹の女癖をなんとかしてほしいと。
しかしそれを聞いた男の返事は、至って冷たい物だった。
「無理だなそれは」
「そ、そうですよね」
もちろん期待していたわけではなかったけれど、それでも落胆はあった。私が幼なじみの立場で変えられなかった夏樹のことを、目の前にいる名前も知らない男が変えられるとは、本当に期待していなかったはずなのだけれど。
「死んだ人間を取り戻したいとかいう話なら役立ちようもあったんだが……よく考えればイノベトラルと付き合っている奴がそんな望みでここまで来ることもなかったか。余計なことを聞いて悪かった、身の安全のためにも早く帰ってくれ」
「えっ、ちょっと待ってください」
私を玄関まで案内するためか、椅子を引き立ち上がろうとする彼をあわてて止める。……今、彼は何と言った?
「今のどういう意味ですか」
「は? 何が」
「死んだ人間ならって」
「あぁ……? 俺の魔法の話だよ。もう関係ないだろ、ほら」
「待ってくださいって」
自分はなんて鈍い人間なのだろうと思った。今私の頭の中にある疑問と期待は、彼の方から言ってくれなければ完全に見落としたまま終わっていたはずの物だ。
魔女コハクを監視する男、単純に喧嘩の強そうな屈強な男である見張り番は、それでどうして見張りなんか務められているのだろう? どうやら話を聞いていた限りだと、偽証の魔女コハクが持つ魔法を必要としている人の中には、イノベトラルのような魔女もいるらしいじゃないか。でなければ見張り番である彼が、イノベトラルがここに来たことを取るに足らないことのようにさらっと流して話すとは考えづらい。
コハクを必要とする人物のうち、魔女の中でイノベトラルだけが特例なのだろうか? この短期間で二人も見たのだから、この世には他にも魔女が大勢いると考える方が自然なのではないだろうか。その中でイノベトラルだけが特別だとは思えない。魔女は、みんな特別だ。
泥から出来た人間には戸籍がない。仮にそれが必要となれば、戸籍の偽造を最も手っ取り早く確実に行う方法としてイノベトラルがコハクを頼ることは十分考えられる。そこで疑問が浮かぶのだ。もしも彼女が何らかの理由で、見張り番の存在を邪魔だと思ったら? まさに今回、その見張りの存在が彼女の嘘を妨げたことのように、イカれた感性の者ほど見張りの男を「邪魔だ」と感じる機会は多いはず。……屈強な男は、そうなった時はいったいどうする?
泥で作った兵隊で多勢に無勢を仕掛けられたら、喧嘩が強い程度の人間ではひとたまりもないだろう。仮に銃火器で武装していても怪しいものだ、泥の兵隊は死んだら泥に戻り、泥はまた新しい兵隊になるのだから。一つの命しか持たないただの人間には勝ち目なんかないように思える。
見張りは強くなければ務まらない。それも求められるのは異次元の強さだ。ただの人間に務まるわけがない。そのことに私は、ようやく気が付いたのだった。
「あなたは魔女なんですか?」
「んなわけないだろ。俺は見て分かる通り男だ、魔女なわけあるか。俺の魔法のことを言ってるなら、それは魔女からもらった物のことだ、アンタには関係ない」
「魔女から魔法がもらえるんですか!」
きっとそうだろうと思った。そうでなければ見張りなんて務まらないだろうと。そしてやはり魔女は「魔法使い」ではなく「魔女」であり、目の前の男が魔法を使えることは特例なのだ。
男の彼に魔女の魔法が使えるなら、女の私にはなおさらの話だろう。食い下がるとしたらそこしかない。願いを叶える魔女がここにいないのだとしても、ただの幼なじみでは夏樹を変えられないのだとしても、まだ他に手はあるはずだと信じるしかない。
「特例中の特例だ、馬鹿なこと考えるな。俺に魔法をくれた魔女がたまたま人に魔法を渡せるタイプだった。それだけのことなんだよ。普通は渡せないし、アンタの期待してるようなこともない」
「でもあなたは結果的に、魔女に気に入られたことで自分の望みを叶えたってことでしょう?」
「それは……、まぁな」
「私もそうします。夏樹を変えられる魔法を持った魔女に協力してもらえるように頼んでみます。だからお願いです、少しでも多く魔女のことを教えてください。教えてもらえたらあとは自分でやりますから」
「はぁ?」
ここに、コハクの性格による「事故」を防ぐための見張りがいる。その事故は複数の人間がコハクに「お願い」をしなければ起こらない物だ。見張りが必要になるほど事故の起こる可能性が高いというなら、コハクのまわりにはそれなりのコミュニティが成立していることが推測される。……その中にはきっとコハクやイノベトラルやそれから見張りの男に魔法を渡した魔女以外の、まだ私の知らない魔女が存在しているはずだ。
実在を確認するまでは魔法なんかあるわけがないと思っていた。けれど今では、これだけ短期間のうちに複数の魔女を見たのだから、探せばもっと多くいるはずだという確信がある。私はなんとしてもその中から夏樹を変えられる魔法を持った魔女を見つけて、なおかつ仲良くならなければいけない。もう残された手はそれくらいしかないのだから。
……けれど、唯一の希望の糸であるように見えたその男は、ため息混じりに私に言った。
「やめといた方がいい」
「どうしてですか」
「アンタは物を知らなさすぎる」
「どういう意味ですか……?」
「アンタは魔女の頭が大体おかしいことも、魔女のコミュニティのことも知らないだろって意味だ」
ほんの数分前まで良心からか面倒さからか、この部屋から私のことをさっさと追い出そうとしていた彼は、それを取り止めて深く椅子に座り直す。話をしてくれる気はあるようだ。
しかし彼が身に纏う不機嫌さの方は、今までで一番高まっているようだった。それがニュートラルというわけではないらしい。
彼は一瞬だけコハクのことを見てから言う。
「魔女っていうのはな、大体頭がおかしいものだ。人の言いなりになるコイツしかり、泥人形遊びに没頭するイノベトラルしかり。……設楽功っているだろ?」
「えっ?」
突然この場で知り合いの名前が出たことに私は狼狽えたが、それがイエスという返事の代わりになる。
「アンタあいつがどんな人間なのか知ってるか?」
「どんなって……。設楽さんは、こう、アウトドアな感じで、夏樹やイノベトラルみたいな……なんというか……変わった人たちと付き合いのある人で、それから……噂によると女癖が悪いとか」
それから人当たりの良さ以外はあなたに似ている……と思ったけれど、もちろん口には出さない。
聞かれるがままだったとはいえそんな取り留めのない印象の羅列を聞かせてしまったからか、不機嫌そうな彼は舌打ちをぐっと飲み込むような素振りをしていた。
そしてそれが済んだら、一転して勝ち誇ったように言う。
「それだけか?」
「それだけかって、それはそんなに知りませんよ、友達の友達のことなんて。それがなんだって言うんですか?」
「何も知らないくせに軽々しく首を突っ込むなってことだ。これ以上魔女には関わるな」
「どうして」
「設楽功は死んだからだよ」
「……はい?」
機械のように繰り返される。
「設楽功は死んだ」
「……それは、最近とか……今ってことですか……? 私が知らないうちに、何か魔女が彼に危害を……だから関わるなって」
「いや、去年死んだ」
聞いて、私の声は裏返った。
「去年……!? いやそれはおかしいです、私はこの前設楽さんと話しました」
彼と話し、彼が彼なりの考えで、夏樹にイノベトラルを差し向けていたことを聞いた。だから当然彼は、設楽功は間違いなく生きていた。
大体、こんな言い方をしたいわけではないけれど……彼が仮に去年死んでいれば、イノベトラルは夏樹と会うこともなくて、私の幼なじみがより一層のクズになることもなかったことになる。結果だけ見れば設楽功がいたからこそ、あの日幼なじみから「分身」だとか「七人」だとかおかしなことを聞かされて以来、私はこの一件について悩まされているのだとさえ言える。……もちろんそれは結果だけを見た話であり、彼のせいだと言いたいわけではないけれど。
けれど設楽功がいなければ、私も夏樹も一生イノベトラルに会うことはなかった。それは変えられない事実だ。魔法の存在なんか信じる信じない以前の話として認識したまま、死ぬまで生きるはずだった。設楽功がいなければイノベトラルにとって私たちは、友達の友達でさえない単なる赤の他人だったのだから。
設楽功の存在はそれだけ大きく、なおかつ私は本人と会って話したのだ。彼が去年死んだなんてことだけは絶対にあり得ない。……と、心外ながらほとんど恨み節になってしまった主張を頭の中で用意し終えた時。その私の頭の中に、恐ろしい何かが湧いて出た。
それは妄想と区別のつかない全知全能の何かであり、その何かは、私の頭の中にだけ聞こえる音のない声で、こう問いかけてきた。
もしも設楽功がこの世にいなければ、イノベトラルはどうしていたと思う……?
「…………まさか」
死んだ人間を取り戻したいという願いになら協力出来る……と言った男が、そのあとにこう付け足していた。「よく考えればイノベトラルと付き合っている奴がそんな望みでここまで来ないか」……と。
「そのまさかだな」
男は、いい歳して税金が何に使われているのかも知らない人間へそれを懇切丁寧に説明するように、私に向かってゆっくりと言い聞かせてくる。
「アンタの見た「設楽功」は、泥人形だ」
スワンプマン……。それは私にとって、単なる思考実験で済む物ではないようだった。
スワンプマンは誰にも区別することが出来ない。そんなような、公園のベンチで一人閲覧したインターネットページのことを思い出す。
イノベトラルは設楽功に惚れ込んでいる。……その情報の意味が、ニュアンスが、今この瞬間私の中で激変した。
「設楽は二人の女と同時に付き合い、そして不幸な偶然から、その二人を鉢合わせてしまった。それも片方の女と自宅でイチャついてる時にな。その時の修羅場の勢いで、アイツは刺されて死んだ。刺したのは人間の女で、それを見ていたのがイノベトラルだった。そこでイノベトラルはもう片方の女を殺して、全ての証拠を隠蔽した後、泥人形を二体作ったんだよ。設楽功と、設楽功を刺した女の二体を」
「……えっ、それはおかしくないですか?」
死んだ恋人を再現した人形を作って現実逃避している女。それがイノベトラルの真実だったのか……と納得しかけていた私は、再び疑問の渦の中に引き戻される。
「どうして恋敵まで人形として、その、……生き返らせたんですか? 普通は彼氏の方だけにしておけば、たとえ紛い物だとしても、今度こそ自分だけを愛してもらえるはずなのに」
「ああ、だから別にアイツは、自分だけを愛してもらいたかったわけじゃないんだろ」
本当に「元々の設楽功」が好きだったから、それを再現するための舞台装置として二股の片割れも作ったんだ。……彼はそう語ったけれど、その言葉の意味は、私にはまったく理解出来なかった。
そしてそんな私の困惑を見透かして、彼はまた勝ち誇ったような顔をする。
「魔女は大体頭がおかしい。その意味が分かったか? 分かったらこれ以上関わるのはやめておけ。幼なじみの男を真人間にするために魔女に協力を頼むなんて、アンタみたいな人間には出来ねぇんだ。そんなことしようとしてもまた魔女の怒りを買うだけで、そして今度こそ殺される」
「……そうかもしれません」
少なくともイノベトラルとは絶対に分かり合えない。やはり人間の倫理観に真っ向から背く魔法を使うだけあってあの魔女は、夏樹の悪いところが可愛く思えてくるくらいのとんだ気違いだった。それこそ彼女が私を平然と罠にかけようとしたのは、私が死んだあと、彼女にとっては泥で作った「千柚」がいればそれでよかったからなのかもしれない。そんな人と協力関係になるなんてあり得ない。
だから魔女に詳しいらしい男の忠告通り、全ての魔女がイノベトラルと似たようなものであるというなら、夏樹を正そうと魔女を探し回れば探し回るほど、私は受け入れ難い思想に接する機会を増やしてしまうだろう。自分でも分かる、それはきっと自分には耐えられないことだと。
けれども私はやっぱり諦めたくない。……そんな執念のおかげだろうか? 私はすでに彼の忠告の「穴」を見つけていた。
「でも、魔女は悪い人ばかりじゃありませんよね」
「あぁ?」
「あなたは魔女から魔法をもらって、ここで番人をしているんでしょう……? そのあなたが、私の命をイノベトラルの嘘から守ってくれた。それならあなたに魔法をくれた魔女だって、きっといい人のはずです。違いますか?」
「……どうだろうな」
彼が、普段なら忘れている昔のことを思い出すような、遠い目をした気がした。私は彼がそうしている時だけ、彼の不機嫌そうな雰囲気がなりを潜めることを知った。
けれど彼がそうしている時間は長くはなかった。彼の印象が変わったのはほんの一瞬の、瞬き一度程度の間のことだけだったように思う。
「で、だから何か? その「いい人」に運良く巡り会って、そいつがアンタの望む魔法を運良く持っていることに賭けるってか?」
「そうです。だから他の魔女のことを教えてもらえませんか。どんな人がいるのか、どうすれば会えるのか」
「……そういうところなんだろうな、アンタがイノベトラルを怒らせたのは」
コンコンと苛立たしげに指の関節でテーブルを叩いて、気持ち早口になりながら彼がまくし立てる。
「さっきアンタの願いを聞いて「無理だ」と言ったな。あれはもちろん「俺の魔法では叶えられない」って意味もあったが、今、あえて別の言い方をすることも出来る。……無理だな、そんな傲慢な願い、叶えられるわけがない」
「傲慢?」
思わぬタイミングで否定的な言葉を受けた。心外だと思うよりも先に言葉が出る。
「私がですか?」
「そうだ、アンタだ。魔女は頭がおかしい奴らばかりだが、馬鹿なわけじゃない。アンタだけだ。幼なじみだかなんだか知らないが、人の生き方を勝手に変えられると思ってるような傲慢な馬鹿は、新寺千柚、アンタだけだよ」
「……言っている意味が分かりません」
一部分だけなら理解出来ないこともない話ではある。イノベトラルの言った「それで誰が幸せになるの?」という話に似ていた。つまり彼はこう言いたいのだろう、ろくでなしの幸せと真人間の幸せは、どちらも同じ幸せで何の違いもない。そこに優劣を付けようとすることは傲慢だと。
一理あると言えなくもない。しかし哲学的な話をするのは結構だけれど、そういった話にのめり込みすぎて、彼は大切なことを見失っている。……大勢の女性と付き合い、その女性たちを傷つけ、それを悪いとも思わない心は間違いなく「悪」だ。自分の欲望を満たすためだけに人間そっくりの生き物を作り、その生き物からひたすら搾取し続けた上にそれを悪びれもしない心だって絶対的な「悪」だ。幸せだの何だのと語る以前に、大前提として悪は正さなければいけない。最低限の、人としての正しさというものがある。
これは言うまでもないことだけれど、人間なら、悪を放置して幸せを語ることの方こそが傲慢だと思うべきだ。私も夏樹も、みんな人間だ。
……とはいえかく言う私も、幼なじみの持つ「悪」が一つだけであるうちは見て見ぬふりをしてしまったけれど。しかし、それが泥の魔法の出現により二倍の悪ともなれば、いよいよ見過ごしきれなかった。
「アンタ俺が、良心でイノベトラルの嘘を暴いたと思ってるんだろ」
「違うんですか?」
「違うさ、そりゃ。俺は見張りの役目を奪われないために、最低限の仕事をしただけだ。……ならなぜ俺が見張りをやりたがっていると思う?」
「なぜって……」
そうしないと死人が出るからだろう、と考えかけて、その説は否定した。理由としては二つある。第一に彼が「良心は理由ではない」と言いたがっているように聞こえたこと。そして第二に、別に彼が見張りをやらなかったとしても、代わりがいないわけではないはずだと気付いたこと。
魔女の魔法を分け与えられた彼は見張り番をするに相応しい力を持っている。しかしその彼に見張り番が務まるということは、コミュニティとやらの中にいる別の魔女が見張り番を務めることも当然可能だと考えられる。何せ魔女は魔女、分け与えられるどころか、自分自身が魔法という強大な力の持ち主なのだから。
それなら魔女本人ではなく、魔女から力を与えられた人間の男が見張りをする意味とは何なのだろう? 代理だろうか? しかし役割を代理人に押し付けたくなるような仕事なら、目の前の男だって「なぜ俺が見張りをやりたがっていると思う?」とは言わないだろう。
そうやって消去法的に考えていくと、……不本意ながらイノベトラルの顔が過ぎった。
「……あなたが惚れているから?」
ふはっ、と男の口から笑いが吹き出した。人を馬鹿にしたような笑いが。
「何? 誰が誰に?」
「あなたが、あなたに魔法をくれたという魔女に」
「ははぁ、なるほどなぁ。そう考えるのか」
男はそう言いながら、その大きな手のひらで隣に座るコハクの頭をポンポンと撫でた。……いや、叩いたのだろうか。
「見張りをする理由なんて、役得に決まってんだろ。コイツは何でも言うことを聞くが、他の人間がどんな「お願い」をコイツにしてるのか分からなきゃ怖くて何も命令出来ねぇ。……コイツに会いに来る輩を逐一見張ってる俺みたいな見張り役以外はな」
男のその台詞は、年端もいかない少女の胸を、シャツの上からまさぐりつつ発せられた物だった。……あまりの出来事に、吐き気を催す邪悪がそこにあるのだと理解することを、脳が一度拒んだ。
そういったものを見るのは初めてだった。初めて見て、私は、頭に血が上るという感覚をはっきりと味わうことになる。
「ちょっと……!! いくらなんでもそれは、まだ子どもですよ!?」
「馬鹿が、魔女は不老不死だ、見た目で判断すんな」
性的暴力を止める素振りもないまま、男が続けて言う。
「もう一度だけ言ってやる。アンタは何も知らないし、知る権利もない。今すぐ帰れ」
「そんな話は関係ないでしょう! 今すぐその子から手を離しなさい!」
「離さなかったら?」
男は全く行動を改めることなく、嘲笑うような表情をこちらに向けてくる。私の理性が、この時だけ彼への暴力を容認していた。
けれど実際に手が出る前に、さらに私の心には、顔も知らない女性のための嘆かわしい感情が湧いてくる。その感情は私から能動的な力を奪っていった。
「あなたに魔法を渡した魔女は、あなたにそんなことをさせたかったの……?」
言葉にしているうちに、もはや自分のことのように悲しくなってくる。彼に魔法を与えた魔女だって、私の命を救ってくれた時のような彼を見ていたはず、私の望みを聞いてくれた時のような彼を見ていたはずだと思うと、涙が出そうになる。
どうしてこんな、男っていうのは、誰も彼もこんななんだろう……? 夏樹も、設楽功も、この男も……。
「アイツが俺に何をさせたかったかなんか知るか。聞く前に死んだからな」
「死んだ……?」
「自分の命と引き換えにすること、それがアイツが他人に魔法を渡す条件だったんだろ。魔法の譲渡なんて例外をやってのけるんだ、魔女の不老不死が例外になっても不思議じゃない」
「……それじゃああなたは、命をかけてあなたを支えてくれた人のことを、何とも思わないんですか……? 今も魔法の力としてあなたを支えてくれているのに、それで「役得」だなんて言って、何とも……!?」
「思わねぇよ。この魔法で善人になってくれ、って渡されたわけでもあるまいし」
「……本気で言ってるんですか?」
記憶の中の、泣いている女性の姿が思い浮かんだ。実際に昔見た姿だ。
夏樹と話していた女性が、しゃくり上げるように泣きながら去っていく場面を見てしまったことがある。私はその時怖くて彼に聞けなかった。いったいどんな話をしたのかなんて、聞けなかった。
あの時それを聞いていれば、私は夏樹から、今目の前の男が口走ったような「人間の心を持つ者から出てくるとは思えない台詞」を聞くことになっていたのだろうか。そうしたら私は、今頃とっくに夏樹のことを見捨てていたのだろうか……?
……許せない。私は今、目の前の男に対して心の底から思った。思ったことは言葉になって、ヘドロのように吐き出されることになる。
「……本当のクズですね、あなた。魔女なんか関係なく、頭がおかしいのはあなたですよ。なんでそんな風に生きられるんですか……?」
私の言葉が届いた瞬間、見下げ果てた根性を持つその男の目の色が変わった。彼の邪悪な手がようやく、人形のように無抵抗なコハクの胸から離れる。
そしてそのかわりに、その男が私のことを鼻で笑った。つい先日の……あの日の夏樹がそうしたように。
「あのな、見張り役は役得のためにやっているとは言ったが、だからって俺も良心が全くないわけじゃない。……でもアンタのことは嫌いになった」
明らかな敵意を放ち、しかしそれにしては不可解なことに、男が自分の肩をトントンと人差し指で叩き始める。それを何か魔法的な儀式であるのかと感じた私は、何に対してなのかも分からないままただ身構えた。怯えたわけではない。せめてもの抵抗として同じように敵意を返してやった。
……するとある時、しばらく身構え続けた末に、私は気が付くことになった。
彼の人差し指は「肩を叩いている」のではなく、「肩を指さしている」のだ。
……それに気が付いた時、「手」が見えた。それは私がここへ来た時からずっとそこにあったかのような自然な物だった。
彼の背後から、青白い手首が伸びている……。その骨みたいに細い指が、後ろから声をかけるように彼の肩に添えられている。それがハッキリ見えた。
……私はさすがに息を呑む。泥が人間になるよりももっと直感的な、不吉その物を見てしまった気がした。
「幽霊……って思ったか?」
表情から私の見た物を見透かした彼は、トントンと自分の肩を叩き続けていたその人差し指で、突然……私の肩を指さした。
冷たい感触の重みが、私の肩の上に確かに乗る。ぞくりとした感覚によって全身が硬直した。そこにある物が何なのか見るまでもなく分かってしまう。だから今は、今は、絶対に振り向くことだけはしてはいけない……そんな警鐘が頭の中で鳴り響いた。
「自分で聞いて来い。ヒヤナギが……「魂を掴む魔法」の魔女が何を考えていたのかなんてことは」
吐き捨てるように彼がそう言う。
途端、私の肩にあった不気味な感触は…………増殖した。
体中のあちこちをあの不気味な手に掴まれている。そしてそれは、折れてしまいそうなほどか細く脆い感触に反して、肉にめり込むような強烈な力で私のことを拘束してきた。
「うわっ!? わっ」
椅子に座っていたはずなのに体が突然それをすり抜ける。床へ叩き付けられることを悟って咄嗟に全身に力をこめると、しかし衝突の痛みは現れなかった。かわりにそうして背中から落ちた私へ、真冬の海に浸かるような液体の冷たさが襲いかかってくる。
私の体は、なぜか水面のように揺らいでいる床の中へと、無数の手に引きずり込まれて沈んでいった。見上げると、糸が切れた人形のようにだらしなく垂れた「もう一人の私」が椅子に座っていて、それが何を意味するのか考える余裕もなかった。
「なに!? なに!?!?」
体が金縛りのようになって少しも動かせなかった。無数の手に掴まれていても普通は、指先を動かすことくらいは出来るはずなのに。
足の先から順に体が沈んでいく。沈むほどに、その得体の知れない場所へ一定以上沈んでしまった箇所からは、体の感覚そのものが失われてしまうことが分かった。ぎりぎりと絞めつけるように掴みかかってくる不気味な手の感触や、凍てつくように冷たい水の恐ろしさも、次第に感じ取れなくなっていく。足の先から順に、体が消滅していくかのように。
冷たい水の、がちがちと歯が鳴りそうな寒さの中で、私の存在が少しずつ消えていく。その感覚に思わず「死」を連想した。連想した死に対しての、本来あるべき恐怖心が追い付いてきたのは、首より下の感覚を全て失ってからのことだった。
「ちょっと、待っ、まって、助けて、たすけっ、たすけてっ!」
凍えと死の恐怖に震えるその声を自分で聞きながら、あの男に向かってエスオーエスを叫ぶことの無駄を私は我ながら世界で一番よく理解していた。すると勝手なことに私の心は、数秒前まであれだけ心底軽蔑していた男に助けてもらえないことを、許してもらえないことを、何よりも悲痛なことのように感じてしまうものだった。
それに対して見張り番の男は、もはや私を鼻で笑うことさえしなかった。沈む私のことを見てさえいなかった。
彼はその太い腕で小柄なコハクの体を抱き寄せ、小さいけれど鋭い声音で「抵抗するな」と言いつけながら、彼女のシャツのボタンを一つずつ外し始めていた。そしてコハクはほんの僅かに「わかった」と頷いたきり、本当に身じろぎ一つの抵抗さえしないのだ。
ダメだ……と、ただそう思った。死を、連想するのではなく、悟った。私は死んでしまうのだ。それも理由としては、あの人の心を持たない男を怒らせたというだけのことで。泣いても叫んでも私を助けてくれる人はいない。私を助けてくれる人なんて、いるわけがない。なぜと言ったらそれは……私の知り合いは、皆クズばかりだから。
夏樹は昔からクズだった。中学の時には二股をして、高校の時には3Pを経験したことを自慢していて、大学生になってからついに一度刺された。……けれど私の関わる人間は、彼以外も皆クズだった。設楽功はそのせいで去年すでに死んでいたという。彼を好いているイノベトラルも頭のおかしいクズだ。彼女から聞いて会ったコハクという魔女もおかしな女だった。その女を見張る男までもが他と大差のないクズだった。
そんな人たちが私を助けてくれるわけがない。……けれどそれならどうして私は、いざという時に頼れるような「まともな人間」のたった一人くらいとさえ、友達になることが出来なかったのだろう……? 私の友達と言えば夏樹くらいのもので、時々話すような他の知り合いたちは全員、言葉のまま「知り合い」程度の仲でしかない。
元はと言えばそう、私がそんなだから、他の誰でもなくイノベトラルにそそのかされて、コハクに会いに来てしまった。夏樹のことを相談出来るまともな友人の一人でもいれば何もかも違っていたかもしれないのに。
死に向かう無数の手に引かれて、もはや口元まで冷たい水の中へ沈み込んだ私は、走馬燈ということなのだろうか、大学生になったばかりの頃の夏樹を思い出していた。自分を好いていたはずの女に刺されて、白に塗れた部屋のベッドで笑っていた時の彼の顔を、言葉を、反芻する。
確か彼は、退屈そうにスマホをいじりながら言っていた。
「殺したいほど俺のことが嫌いなら、俺と別れればよかったのにな」
誰に向けるわけでもなくそう宣った彼は、しかしただそれだけで絵になる男だった。だから刺されもするのだろうけど。
抵抗する気持ちも失せて、とうとう頭の先まで沈んで消える。私は、死の淵にまで来てようやく「あぁ、そうか」と理解した。
私はずっと昔から、小学生の頃から根本的なことを間違えてきたのだ。彼と初めて話した日から私は、彼のことを心のどこかで気に入った瞬間から私は、彼に泣かされる女をどこか他人事だと思っていた私は、私という女は、ずっとずっと、「人を見る目」というやつが…………。
……走馬燈と乱雑な思考がまとまりかけた時。文字通り、私の目の前は真っ暗になった。
……全身に、生きていた時と同じように「感覚」があった。
暗い部屋に突然電気が点いた時のような眩しさを感じて、きっと死後の世界はただの暗闇だろうという私の想像は打ち砕かれる。天使の輪は頭上に浮かんでいなかった。
テレビのような音が聞こえる。人が息を荒げているような、はっはっ……という声だけが大きな画面から聞こえてくる。……というかそれはそのままテレビだった。
目が光に慣れてくると、自分の立っている場所の全貌が見えてくる。そこは明るく、暖かく、そして孤独とは無縁の場所であるようだった。
ここはどこかの部屋だ。あの男とコハクのセックスが映るテレビ画面に向かったソファに、オレンジ色の長髪が特徴的な女性が足を組んで座っている。私が彼女の後頭部を眺めていることに、彼女の方も気が付いているようだった。
「災難だったね。怖かったでしょう」
首だけ回して振り向いたその女性は、得も言えぬ優しい表情をそこに浮かべていた。あぁこの人は魔女だろうと思ったのは、彼女もまた美人だったからだろうか。それとも私がそう望んだからだろうか。
「あなたは……」
「私はヒヤナギ。君をあの世に送った男に魔法を渡した魔女、張本人だよ。……謝って済むことじゃないけど、本当にごめんね」
ヒヤナギと名乗る魔女はソファから立ち上がる。すると彼女のオレンジ色のロングヘアは、毛先へ向かうほど真紅に近付くことが見て取れた。アニメキャラクターみたいな傾向の容姿を持つ魔女もいるんだなぁと私が思ったのは、死んでしまったせいでいっそ諦念感が湧いてきていたことの証なのかもしれない。
その魔女は男性と比べても高い身長の持ち主だった。すらっとした脚には同性でも目を引かれる。また背によることだけではなく、その活力に満ちた様子に両立されつつ落ち着きを定着させたような表情の雰囲気から、彼女の歳は私よりも少しだけ上であるような印象を受けた。が、そういえば魔女は不老不死であるから、見た目と年齢には関係がないのだったか。道理で会う魔女会う魔女みんなが若く見えるわけだ。
「ここがどこかは分かる?」
「まぁ……。はい」
想像していた物とは似ても似つかないけれど、なぜか直感的にここがあの世だということが理解出来た。むしろテレビ画面に映っている映像が、なぜわざわざそこに映されているのかということについての方が、私の生死よりもずっと不可解な物に感じられる。
「それで、えーっと。……それで君の気が晴れるかはともかく、とりあえず一つ報告があるんだけど、聞く?」
部屋の隅にある冷蔵庫からボトルに入ったお茶を取り出しながら魔女が言う。コップも二つ用意された。ただしそれはソファとテレビの間にあるテーブルへと置かれた。
なんというか……シュールだった。お茶のボトルに付いているラベルは明らかにメジャーな企業から出ているそれだったし、テレビから中継されて来る(あるいはループ再生されている)映像は頑なに映りっぱなしのままでいる。ひょっとしてそれが流れていることをヒヤナギは何とも思っていないのだろうか。それともまさか、止めたくても止められないのだろうか。
私は開き直って無遠慮にソファへ腰かけ、注がれたお茶に手を伸ばして飲んだ。コップ一杯を一息に飲み干した。
「報告ってどんなですか」
「君を殺した男は今日でクビって話」
「へぇ」
「なんであんな奴を見張りにさせたんだって思ってる?」
ヒヤナギという魔女は声音といい表情といい仕草といい、間違いなく初対面のはずなのに、親しい友達のような雰囲気を醸し出して振る舞う人だった。そしてそれが全く不愉快ではないので、彼女はそういう才能の持ち主なのだと思う。コミュ力という力の持ち主。
「まぁ……」
「もっともな感想だと思うよ。けどもちろん理由はある。……彼の言ったことは正しくて、魔女はみんな大なり小なり頭がおかしいんだ。そして、朱に交わればなんとやらとも言うでしょう? ある程度仕事の出来そうな人を探すと、人間も結局ああなっちゃうんだよね」
「はあ……」
「納得してない?」
「いいえ、別に」
彼女がどういう意図でその話を私にしたのか、真意は測りかねた。あの男が言った「魔女に関わるな」という言葉はだから正しいのだという意味なのか、それとも、私もすでに朱に交わった者の一員なのだと言いたいのか。
しかし真意が何にせよ、ヒヤナギという魔女の頭がおかしいことだけは、すでに分かりきっていることだった。画面の向こうではコハクが喘ぎ声どころかその喉から一音たりとも発声しないまま、ガタイのいい男にただ淡々と抱かれ続けている。
「ところでこの映像は……なんなんですか?」
「え? あぁ、中継だけど」
「……楽しいですか?」
「生きがい!」
そんなことだろうと思った。
「千柚ちゃんが私のために怒ってくれてたから、その件は申し訳なさすぎて、いたたまれないくらいに思ってます……。でも、私は彼に好きに生きてほしくて魔法を渡したから、彼はあれで全然良くて。ここからだとなんともこう、言いに行くべきか迷っちゃったんだ。本当にごめん」
「言いに来れたんですか?」
「うん。彼には言ってないんだけど、あの魔法はいつでも取り戻せるからね。貸している間はここにいなくちゃいけないけど、返してもらえば生き返るよ。でもそれをするとほら……ね?」
「へぇ……」
せっかく隠していることをバらしたくないだとか、あのタイミングであの世から新たな魔女が降臨していたとして私の脳みそは展開について行けたのかだとか、確かに躊躇う理由はいくつかあるように思う。だから別に私もそれを聞いて、なぜ来てくれなかったんだとは思わなかった。
しかしそれで結局ヒヤナギという魔女は、気に入った男に人智を超えた力を与えて、その力で今テレビに映っているようなことをしている男の様子を見ては生きがいを感じていると……そんな女性だということになる。だからやはりヒヤナギを理解することは絶対に出来ないし、ヒヤナギが必要以上に近付きたくはない存在であることにも変わりはなかった。魔女というのは本当に全員そうらしい。
けれど異性の趣味が悪いことに関しては、それは私が偉そうにあれこれ言えたことではなかった。私はそんなことにさえ、生きているうちには気付くことが出来なかったのである。そして魔女は不老不死らしい。
「ご、ごめんね……?」
「別に。なんかもう、どうでもいいかなって」
「あらら……」
そうさせたかったわけではないけれど、魔女は私の態度に困ってしまったようだった。ヒヤナギという魔女は趣味はともかく、性格は魔女の中ではまともな方であるようだけれど……私だってそんな「まともな人」を困らせて満足したいわけでは決してない。そういうわけではないのに、本当に気力がまったく湧いてこないのである。
あるいは私はすでに、自分の「人を見る目」を致命的に信じられなくなっているのかもしれない。
「まぁ、理不尽な理由で突然殺されたらそうもなるよね」
「別に、そういうわけではないんですけど」
「そうなの……? じゃあ私からサプライズがあるんだけど……それも余計なお世話だったかなぁ」
「……なんですかサプライズって?」
聞いて欲しそうだったので尋ねてみた。私がそんな風に「無意味に彼女をガッカリさせたくない」と感じたことこそが、つまり彼女の才能のもたらす物なのだろうと思う。……そしてそうやって捻くれた自己分析をしてみた後でも、聞くだけ聞いてみようという気持ちまでは変わらなかった。
「私が責任をもって、千柚ちゃんを生き返らせようっていうサプライズです」
「生き返る……?」
「うん。魂を掴む魔法は人の魂をあの世に送り込むことも出来るけど、あの世から現世に戻すことも出来るんだよ」
「現世に戻す? ……あぁなるほど。それは、なるほどです」
あの男が「死んだ人間に会いたい」という望みなら力になれる……みたいなことを言っていたのは、そういうことか。気軽に私を殺してくれたこともそれを前提にしたことだったのだろうか。
「だからほら、さっそく楽しい現世へ帰ろう? 私も一緒に行くからさ。早くしないと向こうの体が腐っちゃうよ」
立ち上がったヒヤナギは何か恐ろしげなことを言いながら、しかし善人性百パーセントの微笑みで私に手を差し伸べてくれたのだった。……優しげな微笑みが実のところどんな意味合いを持つのかなんて、イノベトラルに騙された私には分かりようもないことだけれど。
そして分からないのは、そんな局所的なことだけではなかった。あるいは、その時私の頭の中に思い浮かんだ問いの答えは、すでに私の中で決まっていたのかもしれないけれど。
「ヒヤナギさん」
「うん?」
「クズばかりが生きている世界に帰る意味って、あるんですかね……?」
魂の行方を左右する力を持つその魔女は、子どもに「赤ちゃんはどこから来るの?」と尋ねられて困る時の、まだ若い大人のような顔をする。
そしてすぐに半ば呆れたような声で、彼女は私の問いに対する答えではなく、感想を述べたのだった。
「あー、……千柚ちゃんはそういうタイプか」