刃は儚き未来の為に   作:とるびす

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別離

 

 

 戦いは終わった。

 

 平安の世から大正にかけて千年にも及ぶ人と鬼との因縁は、数多の犠牲と鬼の首魁である鬼舞辻無惨の死によって幕を下ろした。

 その血で涙を拭う激戦を人々は知らない。鬼によって齎された数えるのも億劫になる程の悲劇を知る由もない。

 だがそれで良いのだ。

 

 平和の立役者たる鬼殺隊は密やかに解散し、類稀なる才を持った剣士達は姿を消した。それに伴い代々受け継がれてきた『呼吸』も徐々に途絶えるだろう。鬼はもういないのだから、必然的にその必要性は薄れていく。

 

 そんな一抹の寂しさとともに鬼殺隊の剣士達は、残された余暇を過ごしていた。

 最終決戦にて戦闘の中核を為した竈門炭治郎もまた、その一人だ。仲間や愛する者とともに、これまでの苦難を振り払うかのように幸せに暮らしていた。

 

 

 元風柱の不死川実弥が死んだ。

 鎹鴉が教えてくれた。

 今頃黄泉の国で玄弥や、亡き別れした家族達と再会できただろうか。

 

 元水柱の冨岡義勇が死んだ。

 鎹鴉が来る前に師匠である鱗滝左近次が教えてくれた。恐らく、彼が看取ったのか。

 気難しい性格をしている義勇だが、錆兎なら上手くやっていけるだろうと思う。

 

 痣が発現した者は洩れなく齢二十五にて死ぬ。

 その事はお館様であった産屋敷耀哉の妻、産屋敷あまねから又聞きしている。

 身体能力を著しく向上させる痣。だが代償は大きい、ということだ。所詮は寿命の前借りであり、人間の身で逃れる術はない。

 

 人の至宝とも言える柱達においても例外ではなかった。あの鬼殺隊最強だった岩柱、悲鳴嶼行冥ですらその摂理には逆らえなかった。

 

 そして炭治郎は思うのだ。

 次は自分の番なのだと。月日を追うごとに弱々しく影を帯びていく己の内の炎を感じながら、冷静に、和やかに。

 

 

 微睡に落ちた炭治郎は最期の刻を思い返していた。

 禰豆子、善逸、伊之助、カナヲ……みんな悲しんでいた。そんな思いをさせている事に申し訳なさを感じつつも、これは当然のことなのだと言ってやるしかなかった。

 幸せだった。満ち足りていた。

 志半ばに倒れていった柱や仲間たち、先人たちに比べれば、自分は余りにも恵まれ過ぎている。

 仇を討ち、妹を救い、かけがえの無い者を得た。

 これ以上に何を望もうというのか。

 

 満足だ。満足……。

 

 一瞬の脱力感の後、宙に浮かんだような気がした。

 

 

 *◆*

 

 

 炭治郎の前に一人の男が立っていた。

 見覚えがある。

 

 継国縁壱。鬼殺隊士において最も重きを為す『呼吸』を生み出した始祖。人の理から逸脱した傑物であり、それでいて竈門家における恩人でもある。

 

(走馬灯にしてはヤケにはっきりしているな……)

 

 そんな事をぼんやりと考える。

 夢か、幻か。少なくとも現実では無いだろう。例えるなら、無惨と最期に話した藤の花咲き誇るあの空間。あれに近しく感じた。

 思えば竈門炭吉としてではなく、竈門炭治郎の身体で彼と向き合うのは初めてだ。彼にも常々御礼を言いたいと思っていたので、その願いが通じて死ぬ前の夢として現れたのかと、一人納得した。

 

 物静かで素朴な彼は、やはり何も言わずこちらを見つめているだけだった。変化の乏しい表情。それでもその胸の内には万感の思いが込み上げていた。匂いで分かる。

 

「縁壱さん。貴方の導きのおかげで、俺は……俺たちは無惨を倒す事ができました。貴方の為した事は全て無駄じゃなかった!」

「──」

「価値のない人間だなんて言わないでください! 縁壱さんのおかげで炭吉さんは、俺はこうして生まれて、安らかに死ぬ事ができたんです。たくさんの人を救う事ができたんです」

 

 ありがとう。本当にありがとう。

 伝え切れないほどたくさんの感謝を、それでもなんとか伝えようと口にする。

 

 そして初めて、縁壱は口を開いた。

 

「すまない……炭治郎」

「え?」

「それでもやはり、私はあの時無惨を斬り殺さねばならなかった。今こうしてお前と話して、やはり私は……後悔している」

 

 ああ、やめてくれ。

 自分のことそんなふうに言わないでくれ。

 

「人の想い……皆の願い……お前はその全てを一身に背負い、進み続けた。素晴らしい事だ。お前は私とは違う。やり抜いた」

「でもそれは縁壱さんのおかげで──」

「違う、違うのだ」

 

 この時炭治郎は、自分と縁壱の間にある大きな認識のズレに気付いた。縁壱が己の事を卑下するのは夢の通り。だが同時に彼は、自分の事を憐れんでもいた。

 その理由がどうしても分からない。

 

「いいか炭治郎。目が覚めたらまず、(つぶさ)に状況を確認して欲しい。夢だとか幻だとか、そんな事を思ってはいけない。何故ならそれは紛れもない現実だからだ。受け入れ難くとも、その迷いに費やす時間の事を思い、すぐに行動しなくてはならない」

「何を言って……?」

「無責任なのは承知の上。だから私は侘びなければならないのだ。……どんなに苦しくても進み続けるしかない。私などに言われなくても分かっていると思う。だがひとつだけ覚えていて欲しい」

 

 少しの静寂があたりを包む。

 

「お前はきっとこれからもありとあらゆるモノを連れて進んで行くのだろう。再三言うが、それは素晴らしい事だ。賞賛に値する。──だが、一人では限界がある。それを忘れてくれるな」

「は、はい。わかりました」

 

 ひとまずこう言う他あるまい。若干戸惑いながらも、決意を込めた声音で答える。縁壱の言っている事は何一つ間違っちゃいない。まだまだ聞きたいことは沢山あるけれど、今言われた事を肝に銘じるのは悪い事じゃないはずだ。

 

 と、ふとした拍子に視界が揺らぐ。ぼんやりと浮かんでいた縁壱の顔が更にぼやけていく。眠りの中で眠りに堕ちるような奇妙な感覚だった。

 今から覚醒するのか。

 それとも死後の世界が待っているのか。

 いざその時を前にすると、覚悟していたはずなのになんだか震えてくる。だが縁壱の言っていた事も気になる。目が覚めたら、それは現実だと思って行動しろと。

 

「よ、縁壱さん! 聞きたい事が!」

「"炭治郎"──いつかに聞いたかもしれないが、道を極めた者が辿り着く場所は()()()()()()

 

 何を言っても通じない。

 もしかすると、最初から自分の声は殆ど縁壱に伝わっていなかったのかもしれない。

 もうダメだ。意識が遠くなる。

 

「……もし、お前が許してくれるなら──」

 

 ボソボソと辛うじて聞こえる程度に呟く縁壱。

 それを最後に、炭治郎の意識は闇に沈んだ。

 

 

 *◆*

 

 

「──待って縁壱さんっ!」

 

 掛けられていた布団を蹴っ飛ばし、前にいたはずの恩人へと手を伸ばす。しかしそれは虚しく空を切り、代わりに炭治郎を迎えたのは見慣れない景色。ただ知らないわけではない。和紙と糊、竹の匂い。

 と、聞き覚えのある声が炭治郎に呼び掛ける。

 

「おおどうした炭治郎。そんな慌てて飛び起きて。何か悪い夢でも見たか?」

「……三郎爺さん? なんでここに」

「なんでもなにも此処は儂ん家じゃ。寝ぼけとるんじゃろう。またまだ夜は深いからゆっくり休むといい。明日早起きして家に帰らにゃいかんのだろう?」

「いや、俺は家で……」

 

 瞬間、頭の中を強烈な既視感が埋め尽くす。忘れるはずがない、断じて忘れてなるものか。今でも腹が煮え繰り返るほどの痛みと怒り。

 あの日ほど自分を憎んだ日はあるまい。家族を殺され、妹を鬼にされ、刃を握る決心をしたあの日のことを。

 

 だから一瞬で分かったのだ。

 今自分がいるのはあの時なのだと。困惑よりも先に全身の血液が沸騰していると錯覚するほどの激しい怒りが身体を突き動かした。

 

『受け入れ難くとも、その迷いに費やす時間の事を思い、すぐに行動しなくてはならない』

(縁壱さんはこの事を言いたかったのか!?)

 

 愛用の市松模様の羽織だけ手に取り、炭を売って手に入れたのであろう銭の入った籠すら置いて慌ただしく駆け出す。背後から三郎の制止する声が何度も聞こえるが、それすらも振り切った。

 雪がしんしんと降り積もる山道を全力で疾駆し、一目散に生家を目指した。

 

 普通に考えれば、今自分の身に起きている事は尋常な事ではない。このような経験は前にもあった。無限列車にて下弦の壱と称されし鬼、魘夢と戦闘した際に奴の血鬼術で見せられた偽りの未来。悪夢。今回のこれも似たような血鬼術を受けている故の産物である可能性は否定できない。

 だが寧ろ、その経験が炭治郎をさらに強く突き動かす要因となった。あくまで感覚的な問題にはなるのだが、何故だかあの時とは違うと断言できた。

 

 過去へと逆行。追体験。滑稽話に出てきそうな無理のある仮説だが、現状そうとしか思えなかった。

 事前に縁壱からその旨を伝えられていた事も大きい。

 

「ハッ……ハッ……!」

 

 呼吸をするたびに肺がキリキリ痛む。冷たく乾燥した空気が肺胞を傷付けている。

 体調が万全ならこの程度訳ない筈なのに。

 理由は簡単だ。この時の自分の身体があまりにも脆弱すぎるのだ。鬼の存在も知らずぬくぬくと暮らしていたしがない炭焼きの倅である。全集中"常中"どころか、通常のものですらままならない。

 

(しっかりしろ炭治郎! ここで走らずしていつ走るんだ! 動けっ! 走れっ!)

 

 今こうしている間にも無惨は近付いてきてるのかもしれない。今まさに、みんなが殺されているのかもしれない。もう、終わってしまった後なのかもしれない。

 諦めるな。

 ここで力を出し切らねば一生、それどころか死んだ後も後悔する事になる。

 

 徐々に強くなっていく強烈な鬼の匂いを浴びながら、血の匂いよどうかしないでくれと願いながら。炭治郎はひたすら駆けた。

 

 今際の時、炭治郎は自らの人生を振り返って『満足』と感じた。そう感じていると思うようにした。

 何が満足だ。家族を殺されず、仲間達は誰も死なず、鬼を滅するのが最高の形である。それ以外に満足なんて存在して良いはずがない。だが過ぎ去った過去を取り戻す事はできない。故に、振り切るしかなかった。

 

 此処で家族を助ける事ができるのなら、この命を捨てる事すら顧みない。みんなにあった確かな未来に続きを与えられるのなら。

 

 途中、自分がかつて切り倒した株に刺さった手斧を抜き取り、羽織に隠す。日輪刀に比べれば性能は格段に落ちる。それこそ天と地の差だ。

 それでも今用意できるのはこれが精一杯。この手斧であの鬼舞辻無惨を倒すのだ。いや最悪の場合、倒す必要はない。できるだけ長く時を稼ぐのだ。

 

 勝てるか勝てないかで言えば、絶対に無理だ。それどころか数秒保つかすら怪しい。

 柱も含めた鬼殺隊総戦力を以て尚、一分一秒を稼ぐために数多の隊士達がその命を投げ出していった。それほどまでに強いのだ。鬼舞辻無惨という怪物は。

 

 しかし臆してなるものか。

 退いてなるものか。

 

 

 駆けて、駆けて──肺の奥から水の転がるような音がした瞬間、えずきが止まらなくなった。泡混じりの血が口の端から純白の雪へと滴り落ちる。

 止まるな炭治郎。家はもう目の前だ。

 

 ……この血の匂いはそうじゃない。違う筈。

 そう自分に言い聞かせながら、身体を引きずるように前は前へと足を踏み出した。

 

 そして眼前へと視線を向け──大量の血痕が雪を染め上げていた。紅い彼岸花が咲き誇っているのかと見紛うほどに。

 それを前にして立ち尽くす男は嘲るように、力無く雪に沈む傷だらけの家族達を見下ろすのだ。

 (六太)(禰豆子)を同時に貫いたのだろう、伸縮する己の腕を高速で収納していた。

 

「ね……ずこ……」

「ねぇ、ちゃん……」

 

 母や弟、妹達の悲痛な叫びが炭治郎の頭を大きく揺らした。血液の巡りが早くなり、心臓の心拍数が加速的に増大していく。

 

 

「この程度の血の注入で死ぬとは」

 

 心底落胆したような声音で男は呟く。

 

「太陽を克服する鬼などそうそう作れたものではないな」

 

 

 母ちゃん。

 花子。

 竹雄。

 茂。

 六太。

 ……禰豆子。

 

 みんなまだ生きている。でも傷付いている。混入した鬼舞辻の血が少量であれば人は忽ち鬼となり、許容力を越えれば一瞬で死に至らしめる。

 

 禰豆子、みんな、また守れなかった。

 また間に合わなかった。

 

 今度は知っていたのに。

 

「ッ……ッッ……!」

 

 涙が止まらない。あまりの脱力感に、己への不甲斐なさに……──目の前の男への筆舌に尽くし難い激情に。握り締めた手斧の柄から血が滴り落ち、噛み締める歯茎の肉が爆ぜる。

 あの男は二度も自分の家族を奪ったのだ。何にも代え難い、最愛の家族を。二度も。

 

 そしてまた手に掛けようとしている。

 

 ──おのれ。

 

(ちくしょう……ちくしょうちくしょう!!!)

 

 悲鳴を上げる脳内の危機信号を無視して頭から突っ込んだ。もはや炭治郎の頭の中には男を倒す以外の選択肢は無かったのだ。

 初めから分かっていたと言わんばかりに、男は振り向きざまに腕を鞭のように振るい、木の葉を払うかのように我が身を抉らんとする。自らの肉体の一部であるため、その動作は頗る緻密。

 

 だが炭治郎は躱してみせた。

 脆弱な肉体の身で、特別な目だけを頼りに。

 

「鬼舞辻ィッ無惨ッッッ!!!」

 

 目を見開く無惨を他所に炭治郎の呼吸は練り上げられていた。流動性のある血液が口から勢いよく流れていくが、気にしない。

 斬ってやる。滅してやる。

 

 みんなの無念を、晴らしてやる。

 

 

── ヒノカミ神楽 円舞

 

 

 横薙ぎに放たれた一閃、円環の始まりを象徴する斬撃が、無惨を斬り払う。

 

 過去と今、全ての因縁を象徴する円舞は、同時に、炭治郎へと課せられた更なる試練の始まりを告げる狼煙でもあった。

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