志なら誰にも負けないと信じていた。
尊敬する二人の柱から教えを受け、優秀な妹分とともに切磋琢磨してきた。実力は及ばなくとも、鬼狩りに生を捧げる覚悟はしていたつもりだ。
脳裏に自分を心配そうに送り出してくれたみんなの顔がよぎる。花柱 胡蝶カナエの死から幾許かの時も経っておらず、それに引き摺られてアオイの事を不安に思う気持ちは彼女自身よく心得ていた。かくいうアオイもカナエの死を原動力として奮起してきた。しのぶやカナヲの強烈な才能の前に挫けそうになった事もあったが、それでもアオイは諦めなかった。
決意と覚悟さえあれば、いつかこの努力も報われる日が来るだろうと。そう信じて手の豆が潰れても剣を振り続けた。
間違いだと気付いた。自分はそんな大層な人間ではない。信じていた決意が脆く崩れていく。脆弱な覚悟が震えとなって顔を覗かせている。
私は、駄目だ。
「ガハハ! 女の肉食うなんて何十年振りだろうなァ! 有り難ェよわざわざ食われに来てくれてよぉ。本当にありがとうなあ?」
「──!」
何の変哲も無い一般的な鬼。血鬼術を使う様子はないし、身体的に特段秀でている所があるわけでもない。鬼殺の剣士なら倒さなきゃいけない相手。
それを前にして、アオイの心は震え上がっていた。手足の動きも覚束ないので剣先を相手に向けることすら能わなかった。
しのぶが言っていたじゃないか。本物の殺し合いを訓練で再現することは不可能、空気そのものが違うと。決して呑まれてはならないと。
その通りだ。人間の姿をした異形の者が自分を捕食する為に純粋な殺意をぶつけてくる、それだけでも逃げ出したくなる理由は十分である。
そして自分の弱さにこの一瞬で嫌というほど打ちのめされ、アオイの戦意はみるみる萎んでいく。戦う前に勝負は決していた。
アオイは刀を鬼へ投げつけると、背を向け逃げ出した。戦いを放棄した。
先ほどまで恐怖で動かなかった身体が、いざ逃走となると、いの一番に動き出したのがどうしようもなく情け無くて、自分が嫌になる。
「ガハハ! おい待てやァ、みすみす逃すわけ──」
── 水の呼吸壱ノ型 水面斬り
ふつ、と。背後から響いた斬撃音。泡が弾けたのかと聞き紛う程に流麗な響きで、アオイと今まさに崩れ落ちる鬼は状況を理解するのに数瞬の時を要した。
空に溶ける鬼の傍には見覚えのある少年の姿があった。つい先ほど、柄の悪い男に絡まれていた、自分よりも幾らか若い男の子。正直、冷やかし気分で最終選別に参加したのではないかと疑ってすらいたあの少年。
それが如何だろうか。一刀の下に鬼を斬り伏せた。
しかも佇まいは早朝の湖畔の如く静まりかえっており、歴戦の剣士を思わせる風格だった。
「大丈夫ですか? 怪我は無いですか?」
呆けたままのアオイに対して、少年──竈門炭治郎の言葉は余りにも普通で、この場においては余りにも優し過ぎた。頷くので精一杯だった。
炭治郎も笑顔で頷き返すと、鬼の亡骸が有った場所に落ちている日輪刀を拾う。そしてアオイへと手渡した。
「この刀はきっとキミにとって大切な物だと思う。失くさなくて良かった。……どうか気に病まないで欲しい。その選択は必ずしも間違いじゃないのだから。でも心に熱がまだ残っているのなら、もう捨てちゃダメだ」
優しさに溢れた瞳。心を奮い立たせてくれる頼もしい言葉。炭治郎は再度アオイに言い聞かせるように頷くと、次なる鬼の下へと駆け出してしまった。
ありがとう。絞り出せたのはその一言だけ。
受け取った日輪刀。自分がぞんざいに投げ出したそれは、アオイの無事を祈ってしのぶが授けてくれた物だった。蝶屋敷のみんなの顔が懐かしく思える。
刀を大事そうに胸元に抱き寄せると、涙ながらに呟いた。「ありがとう」そして「ごめんね」と。
*◆*
何体の鬼を斬り伏せたか、それすらも曖昧になってきた。流石に疲労と心労が積み重なってくる頃だ。
……いやまだだ。炭治郎の心は燃え尽きない。
恐怖と鮮血の匂いを辿って藤襲山を駆けずり回っているのだが、どうしても少しだけ間に合わない事例もある。アオイもその例の一人だ。
命を救えても、心に深い傷を残してしまう。再起が難しそうな傷を負ってしまっている者だっていた。そんな彼等を見ていると、どうしても心苦しくなってしまうのだ。
(頑張れ炭治郎……! 一刻も早く鬼を倒すんだ! お前ならできる! ああそうさ、この時のための修行だった筈だろ……!)
と、すぐ前方からまた血の匂いがした。一人の男が憔悴した様子で日輪刀を構えており、対して鬼は2体。じりじりと距離を詰めていた。右の袖から血が滲んでいる。
「チッ、まずったな……こんな雑魚鬼共に遅れを取るなんてよ……! こんな所で躓いてる暇はねぇってのに」
未だ闘志は折れていないようだったが、危機的状況に変わりはない。
大丈夫だ、今助ける。
── 水の呼吸肆ノ型 打ち潮
滑らかな水流の如き斬撃は、淀みなく鬼達の間を流れ抜けた。ほぼ同時に二つの首が飛び、炭治郎は着地と同時に膝を落とした。数瞬でも体力回復に務めるのだ。
「大、丈夫ですか……!」
「どきやがれ! まだ終わってねェぞ!」
男の視線は炭治郎の真上を向いていた。そう、鬼は2体では無い。3体いたのだ。
好機と見たのだろう。足場としていた太枝を蹴り、猛スピードで炭治郎に向けて爪を振り下ろした。
お見通しだ。最初から匂いで場所は分かっていた。
構えていた刃を上へと返し、水の呼吸を別のものに切り替える。対空に誂え向きかつ、咄嗟に放てる型となれば、最近習得したアレがいい。
── 炎の呼吸弐ノ型 昇り炎天
斬り上げ一閃。鬼の腕ごと首を斬り飛ばした。
当然、水の呼吸から炎の呼吸に無理やり切り替えた反動はある。しかしヒノカミ神楽の時と比べれば軽微だ。問題ない範疇。
「へぇ、やるなお前!」
バシンッと背を強く叩かれる。呼吸を整えている最中だったので少しむせた。
「いくら俺が注意を引いていたとはいえ、その年で3体の鬼を倒すのは並大抵の事じゃあない。このまま生き残る事ができればきっと出世できるぜ」
「ど、どうも? ありがとうございます」
「まっ、出世しても俺の方が人生経験においては先輩だからな。目上はちゃんと敬ってくれよ? 同期でも俺の方が先輩だ」
調子のいい様子でそんな事を宣う男に若干困惑しつつも、まあ元気ならそれでいいかと思う。
「しかしこの試験、思った以上に厳しい。連携とまではいかないが鬼共が同時に襲ってくるし、異形の鬼までいやがる。これ以上危ない橋を渡るのは御免だからな、あとは弱い鬼でも探しつつ適当に逃げてるさ。お前もそうしな」
「異形の鬼、ですか。そいつは何処に?」
「気になるか。そりゃお前も出会したくないよな。此処からもう更に上に行った所にいやがるから、さっさと麓に向けて──ん?」
話の概要を大体把握すると同時に、再度駆け出した。藤襲山の頂点に君臨する異形の鬼といえば、アイツしかいない。最終選別が始まってからずっと探していたのだ。
兄弟子達の敵討ちでもあるし、なによりアイツをそのまま生かしておけばこれからも隊士候補の若人達が志を為さぬまま喰われる事になる。
「お、おい!?」
「麓の方に負傷した人達が集まってます! また後で会いましょう!」
「正気じゃねぇ……ありゃ出世するよりも先に早死にする典型的な奴だな」
出世と一攫千金を夢見て鬼殺隊を志願したこの男に炭治郎の行動が理解できる筈もなく、むざむざと死地に飛び込む阿呆を見送るに留まった。ただし、ほんの少しの期待を抱きながら。
「やっぱり凄い匂いだ……! 鼻が曲がりそうなほどの腐敗臭……!」
間違いなく藤襲山の中でもっとも酷い異臭を放つ鬼だろう。十二鬼月を始めとする強い鬼と対面する時、いの一番に警戒するのは、その鬼の放つ匂いがどれだけ鬼舞辻無惨のモノに近いかどうかである。
単純にその匂いが鬼舞辻に近ければ近いほど、そして強烈であるほど、強力な鬼である裏付けになる。炭治郎が出会った中で無惨を除いて一番強かった鬼は、間違いなく上弦の参 猗窩座であろう。彼の放っていた闘気混じりの強烈な鬼の匂いは、今も鼻の奥にこびりついているように思える。
それらを踏まえ、炭治郎が今対峙しようとしている異形の鬼は如何だろうか。無惨への近しさでは上弦に及ぶ余地は無いが、身体が嫌悪で強張るほどの恐ろしい匂いだった。その存在の歪さが生み出した生理的恐怖によるものなのかもしれない。
炭治郎が負傷した隊士候補達を麓付近に移したからだろう、未だ獲物を手に入れる事が出来ずに山中を彷徨っていたようだ。苛々とした感情が匂いで伝わってくる。
良かった、と。胸を撫で下ろし、改めて異形の存在へと立ちはだかった。
瞬間、手鬼の顔がみるみる喜色に染まる。
「来たか。俺の可愛い『狐』が」
「……」
「毎回楽しみにしてんだ。鱗滝の馬鹿が信じて送り出した弟子達を喰うの。お前で十四だ」
「……そうか」
楽しみにしていた鱗滝の弟子からの素っ気ない回答に、手鬼はつまらなそうに息を吐く。左右二対の腕がやれやれ、とわざとらしい仕草で炭治郎に向けられた。挑発目的のものだろう。
「鱗滝の求心力も堕ちたか。こんな淡白な餓鬼を寄越すようになるなんてな。いつぞやかのすばしっこい女の餓鬼はこの話をした途端、動きがガタガタになったんだがなぁ」
「もういい。止めろ」
手鬼の言葉は間違いである。炭治郎は聞き流していた訳では無い。激しい怒りを内に抑え込んでいただけだ。何も感じない筈がないだろう。
感情の起伏が大きくなり過ぎれば呼吸の乱れに繋がる。常に一定を保つのだ。激情に身を任せ理性を失うような失態を犯すほど、炭治郎は未熟じゃない。
「鱗滝さんから始まったお前との永き因縁は、俺の刃で終わらせる。それだけだ」
「ほざくなッ!」
肉体が膨張し、視界を埋め尽くすほどの腕が炭治郎へと殺到する。手鬼にとっては何という事のない攻撃だが、剣士からすれば堪ったものではない。
広範囲を薙ぎ払い、斬られても即座に行動を開始する再生力を持つ剛腕による猛攻。それを仕掛けるだけで自ずと剣士達は力尽きていくのだ。しかも文字通り手数まで備えている為、猛攻の合間に繰り出される想定外を狙った八方からの不意打ちを防備する事も難しい。また、それらが一撃で致命傷を与えるに足る威力を秘めているのだから、精神面の負担も計り知れない。
この基本的な攻撃を繰り返すだけで数多の若き人材を葬り去ってきた。優秀な鱗滝一門の弟子達を喰らってきたのだ。
──故に、炭治郎の取るべき戦法は決まっていた。
最小限の動作で腕を次々に斬り払い、戦況を無理やり均衡状態へと持ち込む。負けじと更なる量の腕が波状攻撃を仕掛けてくるが、それすらも意に介さぬように悉く斬り落とす。手鬼の再生速度を上回り、ジリジリと少しずつ距離を詰めていく。
その思惑は単純で、手鬼が痺れを切らし大技、若しくは稚拙な絡め手に頼った瞬間それを利用し、一気に距離を詰めて首を叩き斬るのが狙いだ。確実な勝利にはその戦法が一番であると判断した。
消耗を強いる手鬼にとって、炭治郎の予想外の粘りは不快の極み。しかも手を変え手を変えあらゆる手段を用いて奇襲的な攻撃を仕掛けても、その全てを匂いで見切られてしまうのだから、鬱憤は加速的に増大する。
自分の攻撃が全く通用せず、刻一刻と追い詰められているような感覚は鱗滝との邂逅以来の屈辱だった。
時間にして十数秒後、炭治郎の狙っていた『その瞬間』は訪れた。ただし、炭治郎にとっては最悪に近い、想定外の形となって。
刀が折れた。
切断し損ねた腕が鼻の先を掠める。
(……ッしまった! ガタが来てたのか!?)
この短時間で数十匹の鬼の首を斬ったのだ。その分だけ劣化が早まってしまったのだろう。
さらに炭治郎の感覚が麻痺していたのも一因として挙げられる。無意識のうちに自分が本来使っていた黒刀と同じ感覚で、耐久性の大きく劣る借り物の刀を振るってしまっていた。
炭治郎の最大の武器である『経験』が逆に自らの首を絞める結果となった。
勿論、その隙を手鬼は見逃さない。醜悪な笑みを浮かべながら通常の攻撃に加え、地を這う剛腕を放つ。奇しくも錆兎の時と同じ勝因、手鬼は勝利を予見した。
そして掴んだ。掴んだ筈だ。その感触は確かに疑いようも無いものだった。
しかし炭治郎の足は陽炎の如く掻き消えた。掌は空を切り、自らの認識と現実の差異に思考が若干固まる。
ヒノカミ神楽『幻日虹』は回避と撹乱を同時に為す型であり、こと受けに限れば全呼吸の中でも最高に近い性能を誇る。手鬼の視覚と触覚は見事に欺かれた。
自分の腕の上に立っている炭治郎。
視線を振り切る速さで此方へと接近する炭治郎。
自らの首に向けて刃を振るう炭治郎。
速い。迎撃が出来ない。
いや、奴の獲物は刀身の半分を失った
あり得る筈がないのだ。こんな餓鬼に負けるなど……あってはならない事なのだから。
── ヒノカミ神楽 円舞一閃
切断された首。離れる頭。崩壊する体。否応無しに思い知らされた確かな現実。
47年に及ぶ永き因縁は再び絶たれた。13人の兄弟子達の無念だけではない。本来の姿を喪い、怨みと飢えだけを糧に生き続けてきた手鬼の呪縛を祓ったのだ。
炭治郎は筋肉疲労により激しく痛む足も気にせず、塵芥になって消えていく手を、そっと優しく握る。己を殺そうとしたモノであろうと関係ない、今も
鬼となり、沢山の人を殺してきた事は絶対に許せない。それでも、手鬼もまた無惨に運命を狂わされた可哀想な生き物だ。
許す事はできなくても、悲しみに寄り添うくらいの救いはあってもいいと炭治郎は思っていた。「どうか成仏してください」と、祈るくらいなら。
友情出演;キモ傘
炭治郎に昇り炎天を使わせたい為だけに出世欲に溢れる謎の先輩が登場。いったい何者なんだ……?