それは一人のケモノの話

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恋姫遊戯 1

 司馬懿という男がいた。名門である司馬の家に次男として生まれ、兄弟共々幼くして英才として名を馳せる。やがて成人し仲達という字(あざな)を名乗るだろう、そんな男だった。

 のちに歴史を紐解くなら、老いた龍たる漢の滅亡を目の当たりにし、幾多の英雄が入り乱れる三国時代にあって知略にて彼らと互角以上の競い合いをしてみせ、そして新たな時代を切り開く契機となった人物だと記されるべき、そういう男だった。

 転じて創作物においては、成した出来事の大きさにも関わらずなぜか悪役として名が知れ渡り、人気の無さからやられやくがすっかり板についてしまう、若干不遇な男でもあった。

 

 で、あった。

 

 幼少の頃から卓越した聡明さを持ち合わせた彼は、既に漢王朝の命運が尽きているのをはっきりと感じ取っていた。事実、漢の支配はどうしようもないところまで綻びかけていた。宮中の腐臭はもはや如何ともしがたく、力ある諸侯は中央から身を遠ざけ虎視眈々と隙を伺うようになった。もう一押しあれば、中華の地にあまねく広がった秩序は跡形もなく瓦解し、欲望が入り乱れる乱世へと突入するだろう、そう予測していた。

 ――私は大きな時代のうねりに立ち会っている。

 賢くとも幼い少年に過ぎない彼にとって、それは何とも抗いがたい魅惑的な出来事のように思えた。高祖劉邦が生きた世に憧憬を抱き、書物に描かれた英傑たちに思いを巡らせる。そういう意味でも、彼は未だ少年だったのだ。

 だが幼くとも賢い彼は、その考えの持つ危うさというものを十分理解していた。これが中央に巣食う怪物どもに知られてしまえば、奴らはそれを口実に一族を膾切りにし、司馬の持つ富のすべてを根こそぎ奪っていくだろう。彼らの枷はいまや無いに等しく、目先の欲に駆られて簡単に暴挙へと及ぶ。それは最早予測ですら無い、大陸を覆う現実だった。

 だから彼は押し隠した。かの亡者どもの掣肘から解放される日まで雌伏し、やがて来るだろう時代の節目を待ち続ける。それまでは己が才を磨き続けるのだと固く心に誓った。そうしてひたすら自分の内へと耽溺することで、才あるものなら誰しもが抱く暗い情動をすっぽりと包み隠してみせたのだ。

 

 年月は過ぎ去り、少年は青年へと成長した。

 もうしばらくすれば字を持つことができる。堅物である父の思考と兄の例から考えて、司馬家の次男という意味合い以上を求めることはできないだろうと思い知ったが、それでも延々幼名で呼びかけられたり、アレやソレ、更には穀潰しだの引きこもりだのという不名誉な呼びかけをされていることを考えれば遥かにましと言える。彼の心は柄にもなく浮き立っていた。

 少年時代に思い描いた通り、世の中は動いている。

 そして遠からずして、彼の待ち続けた時代の節目が到来しようとしていた。漢王朝の権威は目に見えて失墜し、その威を借りて蠢いていた魑魅魍魎もせせこましい権力争いに没頭している。行政は滞り民の生活は困窮するばかりで、野盗に身をやつす者が後を絶たないという。

 ――民はもう漢を見離している。今はただの野盗に過ぎずとも、その意識が方向性を持てば……

 それは時代を“もうひと押し”するに足り得る。今この瞬間、時代は完全に彼の掌中に収まっていた。それは幼き日の彼が間違っていなかったことの証明であり、彼の持つ才気が本物であるという何よりの証拠だった。そして弛まず研ぎ続けた牙(知略)が天下をも切り裂けるという自負を抱かせるに十分な出来事だった。

 これからは武人は武技で、文人は知略で鎬を削るだろう。民は立ち上がり軍旅が行き交い、英雄豪傑奸雄が入り乱れる嵐のような世の中になる。そして、その中でも彼の知略は一際目映く光り輝くはずだ。幼少より夢想してきたものが、もう少しで現実になろうとしている。楽しくないはずがなかった。

 ――しかし、これから直ぐに仕官するというのはいささか情緒に欠けるように思える。どのような凡愚であっても私さえいれば天の階を登らせることなど容易いだろうが、それでものちの歴史書に書かれることを考えれば名君足り得る器が欲しい。そして運命的な出会いも必須だ。『史記』に記された呂尚のような、好奇心をくすぐる物語りであればなお良い。そうだな、偏屈さを前面に押し出すというのはどうだろうか。数多の英雄に求められながらも、頑なに隠遁を貫く賢人。しかしとある人物との出会いによって彼は天啓を受ける。仕えるべき主を見つけた賢人はその才気を余すところなく発揮し、見る間に主を玉座へと導くのだ……! ううむ、素晴らしい。完璧すぎる!!

 抑圧された生活を長く送ったせいで、彼は何かをちょっぴり拗らせていた。そのようにぐるぐると思考を玩び、これからの未来に思う存分酔いしれる。気を抜けば高笑いを漏らしてしまいそうなくらいに気分は高揚していた。

 人生最良の日といっても過言では無く、後日思い返してもそれは事実だった。

 だから、この話を聞いた時もまずは一笑に付したのだ。

 

 ――おい、聞いたか? 占いの話。

 ――乱れた世を鎮めるため救い主様がいらっしゃるそうだ。

 ――そのお方はどうやら天人であるらしい。

 

 ――天の御遣い。

 

 なにを馬鹿な。

 彼はそう呟いて失笑した。どうせ間抜けな占師が血迷っただけだろうに。そもそも天は決して人を助けたりはしない。愚かな人々がただ天の威に縋るのみ。彼にしてみれば、一々天意を気にするのは無駄も甚だしいことだった。

 彼らの蒙昧さをもう一通り嘲笑おうとして、ふと思いとどまる。微かな違和感があった。注意深く考え直して、噂の広まる速度が異常であることにようやく気が付いた。数日前には影も形もなかったはずのものが、いつの間にか常識のように囁かれている。背筋にぞわりとした感触が走り抜け、にもかかわらず彼の気持ちは一層昂ぶった。

 ――占師という立場をうまく利用した壮大な策だ。希望を無くした民草には受け入れられやすく、知識層には一笑に付される程度に間が抜けている。今の王朝に天意が無いのだと仄めかしているのだから当然だろう。だが民衆の思想はこの噂に引きずられ、漢王室に刃向うことを嫌悪しなくなるはずだ。すなわち方向性。明確な意思の統一。時代を推し進める更なる一手……

 ぶるり、と大きな身震い。

 いた。自分以外にも時代を読み切ったものがいた。そして彼が思いもつかなかった方法で、同じように天下を引き裂かんと画策している。それは歓喜にも等しい感情だった。己が激情を押し隠し、ひたすら知に没頭し続けた彼が初めて出会った、自分と同等の存在。これから幾度と無くぶつかり合うはずの宿敵にして、彼と志を同じくする仲間なのだ。

 ――聞いた。確かに聞き届けたぞ、我が同胞よ。時代が移り変わる音を、今確かに聞いた! 待っているがいい、占師の裏で糸引く見知らぬ賢人よ。私もいずれ貴方の前に立ちはだかって見せましょうぞ!

 ああ、堪らない。口角が吊り上がるのを抑えることが難しかった。これが乱世か。輝かしい才人が綺羅、星のごとく居並ぶ英傑たちの遊び場。遥か彼方ののちにまで残る英雄の時代。なんと素晴らしきかな!

 ふわふわと夢心地で歩きながら、彼は更に時代を読み解く。その日は彼の最良の日だった。




書き殴り

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