もうすぐ、夏になるというのだが、
その前に、春の話を、一度だけしよう。
桜の花びらの動きは不規則だ。落下速度は、
そこまで速くないけれど、まるで逃げるように
ひらりひらりと身をひるがえす。
それを追うように穂波の身体が一生懸命に
右へ左へと揺れるのを見るのは、少し愉快だった。
穂波に言われて、軽い気持ちで手を伸ばすと、
思いのほかあっさりと桜の花びらが左手におさまる。
普段からテニスで軌道が変化する球をよく見ているせいか、
動体視力とそれに見合った身体の動きが身についている証だろう。
続いて2、3度そのまま手を伸ばすと、次から次へと桜が手に入る。
「……意外と取れるな」
「えっ、龍馬くん取れたの!?」
振り向いた彼女が驚いた顔で俺を見つめる。
「桜の軌道をよく見ろ。そしてこうっ…素早く取れ」
「手の動きが速すぎて分からないよ…」
アドバイスをしながら実践してみたものの、どうも上手くいかないみたいだった。
そうこうしているうちに桜並木の通りは終わりを迎え、
上に行くための階段が見えてきた。
「うーん、駄目だったな…やっぱり難しいね」
残念そうに笑う穂波の横顔を見上げて、
俺は自分の両の手にある沢山の桜を見つめた。
歩きながら動体視力の訓練がてらに取っていたら、
思ったよりも集まっていたのだ。
―こんなに幸せが欲しいのだろうか。こんなにも。……いや、
「そこで止まってな」
「龍馬くん?」
突然ジャンプして階段を3段上がった俺を見て、
彼女が不思議そうな声を出す。振り返って向き合うと、
やっと少し、俺が穂波の背を越す程の高さになっていた。
「思えば俺はな、穂波がいれば十分幸せなんだ」
「えっ」
「だからこれは、やるよ」
言い終わると同時に、そっと握りしめていた両手を開く。
零れ落ちるのは、俺の小さな手のひらにおさまる程度の桜の花びら。
ちょうど風が吹き、穂波の頭上を、顔の横を、花びらが飛んでいく。
「あっ、ちょっ、ちょっと!」
慌てて、穂波が桜を掴もうとする姿に
小さく笑みを浮かべて、俺は踵を返して階段を上がり始める。
「ほ、龍馬くん、待って!」
何段か上がった所で、声がして背中を叩かれる。
「どうだ、1枚くらいは……」
強引に片手を掴まれ、何かが手のひらに押し付けられる。
見てみるとそれは1枚の桜の花びら。驚いて顔を上げると、
穂波のもう片方の手も1枚の桜があった。
「せっかく取れたのに勿体ないことするんだから!
でもね、両手で挟んでみたら偶然2枚、一緒に取れたの!
だから1枚あげる」
「そうか、良かったな。だが、俺は別に幸せはいらない。
咲希や一歌にあげた方が…」
「私は龍馬くんに持っていてもらった方が嬉しいの!
し、幸せは、好きな人と分け合いたいから…」
触れられている手に力がこめられるのを感じる。
「あんたにそこまで言わせちまうなんて、俺もまだまだだな」
俺はそっと反対側の手に桜を持ち替え、触れられている方の手で
穂波の手を握ったのだった。