帝国暦四八六年三月二一日 ブラウンシュバイク公爵オーディン邸
熱と痛みで目を覚ました。
意志の力でそれを押し殺し、体を起こす。周囲では炎と肉片と煙とが宴を繰り広げていた。焼き鏝を押し付けられたような右のこめかみを触ると、手にべっとりとねばつく赤黒い液体がこびりついた。
宴、というのはまんざら比喩でもない。どうやらここは壮麗なパーティー会場「だった」ようだ。周辺には燕尾服や詰襟を着た肉塊が散らばっている。焼け焦げたタペストリーには赤字に黄金の樹が刺繍されていた。
とにもかくにも、悪趣味な夢である。夢分析などすればさぞ欲求不満と言われることであろう。白布(おそらくはテーブルクロスだろう。誰かのシャツではないことを祈りたい)を破り、丸めて頭へと押し当てる。周囲に生存者はないようであった。圧迫止血をしながら混乱する思考をまとめようとする。
私はたしか、雪の降りしきる中、ストーブへ注ぐ灯油を取りに行くべく炬燵を出たところであるはずだった。直後胸の痛みを感じ――気づくとここで、痛いのは頭に変わっていた。そして服は着替えさせられ、周囲の人々(だったもの)の中に混じる服と同じ詰襟を着ている。このような服を着るのは学生時代以来のはずであったが、私は以前とは大分体格も変わったようで、服はフィットしている……
「若様! ご無事で!」
こちらへと詰襟の中年白人男性が近づいてくる。なるほど、これは学生服ではなく軍服であるようだ。若様とは私のことのようで、そうなるとここはドイツ文化圏であると思われる。ドイツ文化圏で詰襟軍服を纏って爆発に巻き込まれているとなると、一九か二〇世紀のドイツ諸邦ないしはドイツそのものの軍人であろう。転生ないしは憑依というわけである。彼が下手に出ていることを考えれば高級軍人か貴族。これが夢でないならば、どちらにせよ「私」に待つのはろくな未来ではあるまい。陰鬱な気分になる。
「どうされました……?」
「いや。少し混乱していてな……何が起きたのだ……?」
「は。どうやらテロですな。下手人はおそらく共和主義者かと……公爵閣下の姿は爆発直前にみられませなんだか?」
周囲をうかがいながら彼が聞く。共和主義者のテロとなると、帝政時代であるようだ。ほぼろくな人生を送れないことが決定したと言っていい。さておき公爵となると随分な大人物であるが、それが見つかっていないのであれば一大事である。私が爆発前に公爵とやらの近くにいたとなると、閣下は現在この周囲を染める赤い絵具の一部を為していることとなってしまうが。
「すまぬ、思い出せぬのだ……」
記憶がないとはいえ今生の知人が血煙と化す姿を覚えていないのは、かえって幸運といえるかもしれない。
「左様でございましたか……医師の手当てを受けましょう」
「私も軍人だ。怪我は軽いゆえ、生存者の救出を手伝わせてくれ。君こそ怪我は……」
「……!?」
ぎょっとした顔で彼が固まる。それほどに私のけがは重く見えるのだろうか。この痛みといい、登場人物の重厚さといい、どうやら単なる夢ではなさそうである。であるならば、より多くの人を救うべきだろう。
「どうした?」
「い、いえ。このアンスバッハ准将、怪我はございませぬ」
見事な敬礼をアンスバッハ准将がかえす。こちらも敬礼しようとして、右腕がふさがっていることに気づいた。頷き、さらに白布を引き裂くと、准将はそれを私の頭へと巻き付けた。流石は軍人といったところで、救命救急にもたけていると見える。
「ありがとう。では捜索を再開しよう」
「は!!」
「ブラウンシュバイク公! ブラウンシュバイク公はいずこか!」
アンスバッハ准将は大声で呼びかけながら、まだ人体の構造をとどめている人々を助け起こしていく。しかしその大半は形をとどめていても、その機能は不可逆的に失われていた。こうなってくると頭に軽傷を負ったのみであるところの私は随分と幸運であったように思われていく。
「ラインハルトさま!」
煙の中から現れた赤毛の若手士官が叫びながらすれ違おうとする。その肩をつかむと、焦りの混じる表情で睨まれた。その表情は殺気混じりであり、たじろぎそうになる。しかし、死にかけたことにより胆力を身につけたか、それとも前世を入れれば「死んだ」ことにより余裕ができたか、こらえることができた。そうだ。この赤毛こそ余裕がないのであろう。落ち着かせるべく、ゆっくりと事実を口にする。
「そちらには肉片しかないし、煙が充満していて危険だ。探すならば他を」
「……っ。これは失礼いたしました」
「うん」
言われ、彼は少し落ち着きを取り戻したようで、周辺を見渡しながら煙の少ない方を選んで歩いて行った。
「……驚きましたな。若様がかの者へあのようなお言葉を」
「うん?」
アンスバッハ准将に言われる。はて、何か妙なことを言ったであろうか。もしや敵対派閥に属する相手なのか。軍高官ともなれば派閥争いもあろうが……記憶をたどると、あの青年に対する侮蔑の情が思い出される。
「このような事態なのだ。遺恨を引きずるべきではあるまい」
誤魔化すべく言うと、准将は一瞬呆けたような顔をした。一体「私」はどんな人間であったのか。どうもろくなものではない気がする。
「さあ公爵を探さねばなるまい」
「は……! ブラウンシュバイク公! ブラウンシュバイク公はいずこか!」
「アンスバッハ、アンスバッハ、わしはここだ……早く早く、助けてくれ」
弱々しい声のする方へ向かうと、脚を柱に挟まれた大柄な男性が、煤にまみれて横たわっていた。幸いにも生命としての機能は保たれており、またすぐに失われるということもなさそうである。
「閣下!」
「伯父上、ご無事ですか!」
自分が出した声に驚く。そうだ、ブラウンシュバイク公爵オットーは私の伯父である。実在の人物としてより、物語の登場人物として聞き覚えのある名前だ。強いて意識しないようにしていたが、アンスバッハ准将も記憶にある。なれば、私は、私は……
「おぉ、ヨアヒム! おぬしも無事か!」
ヨアヒム・フォン・フレーゲル男爵。
そう気づいた瞬間、頭のなかに今生の記憶が滝のように流れ込んでくる。貴族らしく優雅であり夭逝した父、父代わりとなった優しくも厳しい伯父、美しく可憐な従妹、無気力で酒色に溺れる皇帝、皇帝の寵姫の弟として成り上がる美形の金髪、その従者で平民の赤毛(ついさっきも会った)。
両脚の力が抜け、身体が後ろへと倒れこむ。
最後に頭に浮かんだのは「余命二年」という言葉であった。
皇帝臨席によるブラウンシュバイク家オーディン邸の晩餐会は凄惨なる事件現場となり、そこからは四十人に上る大貴族が自宅へ帰ること能わず、ヴァルハラの門をくぐることとなった。幸いフリードリヒ四世は腹痛により出席を取りやめていたが、これが皇帝を狙った爆破テロであったことは明白であり、直ちに憲兵隊・国家警察・社会秩序維持局が捜査を開始することとなる。
警備担当であったメックリンガー准将から「忘れ物をして退出したのはクロプシュトック侯爵のみ」であるとの情報提供がなされ、官憲がクロプシュトック侯爵オーディン邸へ押し寄せるが時すでに遅く、侯爵は自家用船に飛び乗り遠く光のかなたの領地へと姿を消していたのであった。