PERSONA5:The・Determination   作:Ganko

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愚者

7月7日 木曜日

 

金城が改心したこの日、私はメメントスで明智に呼び出されていた。用件はもちろんこれからの怪盗団の扱いに関して。

 

「今回は随分と派手にやったね。この件で怪盗団の名はまた大きくなっただろう。…君のおかげなのかな?」

 

「さぁ…まぁ多少は楽しめたけど」

 

今日のニュースは金城の自首騒ぎで持ち切りだった。改心はまたしても問題なく成功して、大々的に予告状をばらまいた成果もあって一躍時の人といった流れだ。

 

金城との戦いから日を空けしばらくはメメントスでの活動を主としていた怪盗団。アンチ怪盗団側である明智はメディアでの対応が面倒くさいと愚痴りながらも、その表情は満足げだった。

 

怪盗人気が高まるのは明智にとって好都合なこと。名を売らせた後に、どん底に叩き落して自分たちの株を上げられるから。

 

「ところで、もう次のターゲットの目星とかはあるのかい?」

 

「無いよ。今日金城の件が終わったばっかりだし」

 

「まぁ、だよね。そう思って近いうち、こちらから怪盗団に向けて新たな標的を提供する予定なんだけど…」

 

明智の言う標的とは、おそらくは“メジエド”のことだろう。双葉が以前名乗っていたハッカー界での義賊としての名だ。おそらくはその名前を騙って、素人の集まりである怪盗団相手にデジタル戦をしかける寸法だ。

 

この勝負は負けても勝っても明智側にとってメリットしかない出来レースだ。それを知りつつ、私はこいつの提案に一度乗っかってやるしかない。

 

「この程度で負けるようなら、怪盗団にはそれほどの利用価値しかないってことで。彼らが上手くやれるように手回ししておいてくれ」

 

「…分かった」

 

「それと、怪盗団のリーダーについてだけど」

 

仮面越しに見える明智の目から、感情が消えたのがわかる。意図的なものかは分からないけれど。

 

「彼には手を出さないでくれ」

 

「どういう意味?」

 

「あの男だけは、僕が直接殺したい。腹立たしいことに、彼はこの僕と肩を並べられるポテンシャルを秘めているように思う。それでいて、あんな最低な生活を強いられているのにも関わらず、腐らない精神力…厄介極まりないよ」

 

「嫌いなんだね。あいつのこと。お好きにどうぞ」

 

「嫌いなんてもんじゃないよ」

 

明智はそう憎々し気に吐き捨てた後で、予想だにしていなかった提案を私に持ちかけてきた。

 

「と言う訳で、これからストレス発散も兼ねて適当にシャドウを狩って回ろうと思うんだけど、一緒にどうだい」

 

「なんで?」

 

思わず純粋に聞き返してしまったけど、明智に言わせれば、一応協力関係にある以上一定の信頼関係は築いておきたいとのこと。当たり障りのない物言いだが、ようは私の力を探っておきたいんだろう。

 

別に他の用事も無かった私は少しだけならと承諾し、明智の後をついていく形でメメントスの深部へと潜っていく。

 

階層を隔てる壁は明智が前に立つとすんなりと開いた。そうしてたどり着いたのは、最深部の一歩手前。深い暗闇に包まれた危険地帯。言葉少なにシャドウへと突っ込んでいく明智に続く形で片端から薙ぎ倒していく。

 

もっとマッドな感じで潰していくのを想像していたから、なんとなく拍子抜けである。

 

「物足りないって顔してるね」

 

明智は自分のペルソナ…“ロキ”を背後に顕現させたまま、倒れたシャドウから武器を抜き取ってこちらに振り返る。

 

獰猛な目が私の視線を捉え、これから告げられる言葉を何となく察した。

 

「どうかな。一度僕と手合わせでも」

 

「めんどくさい」

 

「はは…そういうと思ったよ」

 

纏うオーラがウソかの様な柔らかい笑みを浮かべたかと思うと、突如として明智の服装が真っ白な“オモテ”の装束へと変わる。

 

気配の変化を感じ取った私は反射的に回避行動をとった。それが吉と出て、明智のもつもう一体のペルソナ…“ロビンフッド”の光の矢は私の背後の壁に突き刺さった。

 

それにつっ込む暇も無く、再び現れたロキの呪怨魔法と万能魔法が連続して放たれる。

 

「初めて見た時から気になってたんだ。君のその力の本質が」

 

「…君には関係ないよ」

 

「純粋な知的好奇心だよ。間近で君の力を見てみたい」

 

そういう明智の声に嘘の色は無かった。本当に彼の言う通り、ただのちょっとした好奇心でこんな申し出をしているんだろう。殺さない程度に手加減すればいいと思ってるんだろうけど、実際はそんな簡単な話じゃない。

 

そう説いても分かってくれそうにはないので、少しだけ明智の遊びに付き合ってやることにした。

 

目をつぶって、心の中にもう一人の自分を呼び覚ます。

 

元々深い暗闇の中だったメメントスが、完全な闇に染まる。

 

この世界に私と明智の二人しかいないような錯覚に陥る。

 

「…いいね。そうこなくちゃ」

 

…今だけだ。明智にこれ以上余計な気を起こさせないために、今だけは“演技”でこの力を使う。

 

今にして思えば、あの明智がゲームの中で見せた真の力、あれも私の力に似ているような気がする。

 

強すぎる歪んだ意思の力…それが明智にとっても、他者から与えられたものであることも、よく似ている。

 

そんなことを思いながら、一歩踏み出す。

 

ロキの容赦ない攻撃を避けながら明智に接近、間合いに入った瞬間にナイフを何度か振ってみるが、さすがはこれまで一人で戦ってきただけはあって簡単にいなしてきた。どこまでの手加減が必要なのか計るため、こちらも段階的に力を見極めさせてもらう。

 

少しづつ互いの攻撃が苛烈になっていき、取り巻く時間の速さまで変わっているような気になる。

 

「そんなものかいっ?本気で掛かってきてくれないと痛い目見るよ」

 

「…そんなにいうなら」

 

明智だって、まだ本気は出していないだろうに。

 

君の本質は、私にはわかってるんだから。

 

今度は決意を籠めた一撃を放つ。今までの攻撃とは一線を画す速度で放ったそれを、明智は回避しきれずサーベルで受け止めようとした。しかしそれでは、私の刃は止まらない。一撃目で武器を破壊し、足を掬って転倒させる。

 

そして全力を籠めた一撃を、明智の顔すれすれに振り下ろす。

 

「―――」

 

「…満足した?」

 

「っ…はは。これは、想像以上だな」

 

仮面の奥で冷や汗を流していた明智の、私に似た色の瞳には…忌々しいほど目をきらめかせる私の大嫌いな顔が映っていた。

 

目を逸らし立ち上がると、使い物にならなくなった得物を捨てて明智が言った。

 

「満足したよ。これではっきり、君が既に壊れた人間であることが解った。…“俺”とおなじように」

 

「…同じ?」

 

「君は普通に生きることを諦めているし、生きる意味も失っている…違うかい?」

 

見透かしたような素振りで言い放たれたが、実際その通りであるから否定もしなかった。確かにそういう意味でも、私と明智は似ているといえるのかもしれない。

 

明智は、ただ復讐のためだけに今を生きている。自分を捨てた父親への報復…それだけの動機で、今の明智のすべてが構成されている。決して未来を見ちゃいない。

 

「妻木さん、君は俺からの仕事が終わったとき、どうするつもりなんだ?」

 

「どうもしないよ。役目を終えたら私は居なくなるだけ」

 

「いなくなる?」

 

「文字通りね」

 

「…君、よく言葉足らずだって言われないかい?」

 

言われるが、私に反省する気は無い。

 

「そういうところは、君は彼とも似ているよね。君も、“僕”に無いものを持ってる」

 

「…」

 

「彼…雨宮君とは、仲がいいのかな?よければ彼のことを色々教えてほしいなって思うんだけど」

 

「なんのために?」

 

私がそう聞き返すと、明智は苦虫を噛み潰したような顔になった。

 

「彼という存在が僕にとって未知数な存在だからだよ。互いに無視できない立場にある以上、情報は多い方がいい。この間ルブランで待ち伏せていたのもそのためさ」

 

苦渋の表情を浮かべているあたり、明智も雨宮の特別性については認めたくはない事実なんだろう。それだけ警戒しているということでもあり、それは明智というエリートが雨宮に一目置いてしまっているということにもなる。

 

私としては明智と時間を過ごすことは非常に有意なことなので断りはしない。できるだけ、この男とは信頼関係を築いておかなければならない。

 

 

と言う訳で現実に帰ってくるなり、私は明智に連れられて吉祥寺のとあるジャズクラブへとやってきていた。落ち着いた照明に音楽、広すぎない店内…いかにも明智が好きそうな店だ。…そう思うのと同時に、雨宮も気に入りそうだなと思ってしまう。

 

こういう店に来るのは初めてだけど、なんとなく懐かしさを感じさせる。内装の影響だろうか?

 

「悪くない雰囲気だろう?」

 

「よく来るの?」

 

「たまにね。こういう場所は考えを整理するのにうってつけだから」

 

「ふぅん…」

 

ふと視線を落とすと、テーブルに置かれたノンアルコールカクテルが目に入る。ベリー類がメインのカクテルらしく、とてもきれいな赤が目に鮮やかだった。

 

一口飲んでみたけれど、一瞬でただのジュースとは訳が違うと分かった。ルブランでもやってみたらどうだろう…カクテル。

 

なんとなくカクテルを作っている惣治郎を想像してしまい心の中でにやけていると、舞台で演奏している奏者の入れ替わりが始まった。ボーカルは男性から女性へ。曲調はよりゆっくりとした調べに。

 

「雨宮もこういう店は好きだろうね。最近はよく夜の新宿にも繰り出したりしてるし」

 

「…奇遇だね。僕も同じことを思った。今度は彼も誘って三人で来てみようか?」

 

それは勘弁してほしい。二人の間に板挟みになっていては、せっかくの落ち着いた雰囲気も台無しというものである。

 

「冗談はさておき、せっかくだから互いの話でもしようか」

 

「先にどうぞ」

 

「あ、そういう感じか…。なにか質問してくれれば僕としても話しやすいんだけど」

 

質問とは言うが、私は明智吾郎という人間の生い立ちはある程度知ってしまっている。とはいえここでその話をしないのも変なので、明智の身の上話でもさせてみることにした。

 

「構わないけど、あまり楽しい話ではないよ?」

 

「知ってる。君がなんで“そう”なったのかを知りたいだけ」

 

「うん。大前提として、僕は“産まれることを誰からも望まれてなかった”。父親と、その愛人との間にできた子でね。当然父親は姿を消したし、母親は幼いころに病気で亡くなった。基本的に一人だったのさ、僕は」

 

「母親が亡くなった後は?」

 

「親戚間を転々とする日々さ。そんな毎日を送っていく中で、僕の中である反骨心が芽生えたんだ。どん底から這い上がって、僕と母さんの人生を無茶苦茶にした父を、見返してやりたい…その思いだけで、ここまで来た」

 

ここまでなら、純粋な努力話として聞けたのだけど、この話はこれじゃ終わらない。実父を見返すとは言っているものの、その実やろうとしていることはむしろ復讐と呼んだほうがしっくりくるもの。

 

廃人化や精神暴走事件の実行犯は確かに明智だけど、その裏で指示を出している黒幕こそがその実父。

 

明智は正体を隠してその黒幕に迫り、協力するふりをしながらその時を今か今かと待ち望んでいる。怪盗団との対決も、明智にとってはまだ自らの目的に近づくための手段に過ぎない。

 

「もちろん簡単じゃなかったけど、でもここまでやってこれた。たった一人で。だから必ず、僕は成功して見せる。何を犠牲にしてでもね」

 

「…」

 

「…なんてね。半分ぐらいは冗談みたいなものだよ」

 

半分は本気と。

 

「じゃ、次は君の番だ。正直僕も興味があるんだ」

 

「興味って?」

 

「もちろん君の意志の源についてだよ」

 

遠回しな言い方だけど、ようするに私の認知世界での力の出所を明智は知りたいんだろう。純粋な疑問であると同時に、排除対象になり得るかも知れない以上知っておかなければならないという面もあるのか。

 

仕方がないので適当に、私も自分自身の生い立ちのようなものについて軽く話すことにした。といっても、大方は明智の方で勝手に調べられていたみたいだったから、パパの癖のことなんかも真顔でさらりと受け流していた。

 

「そうか。妻木さんは僕と違って、両親からの愛情は受けていたんだね。でもだったらどうして、この僕よりもあんなに強い憎しみを抱けるんだい?」

 

「…憎しみとは呼ばないよ。あれは」

 

たしかに似た感情ではあるけれど、それよりももっとふさわしい呼び方がある。

 

「私のあの力はね、“決意”の力なんだよ。なにかを始めるための力であると同時に、終わらせるための力」

 

「…なるほど。決意か。なんとなく腑に落ちたよ僕が目的を果たしたいと思っているように、君にもなにか大きな目標があるってことだね」

 

私は頷き、そしてそれ以上は語らずにおいた。

 

雨宮と同等に、明智吾郎という男も頼りになる反面危険な人物でもあると認識している。私のいるこの世界においては、よりその危険性は高まるだろう。

 

与えられた立場こそ違うが、明智も雨宮と同じ素質と力を持っているのだから。余計な情報は与えず刺激は最小限にしなければ。

 

「うん。妻木さん、やっぱり君も面白い人だ。だんだん興味が沸いてきたよ」

 

まったくもって嬉しくはない。嬉しくはないが、私に関心を示してくれているのは良い傾向だ。計画通りといっていい。

 

「君、演技力も中々だよね。僕もそれなりには自信あるつもりだけど、未だに君の本心がどれか分からない」

 

「分からなくて結構」

 

「“仕事”を楽しんでいる風にも見えれば、ごく普通の高校生の様にも見える。生きることに執着なんてなさそうに見えるのに、君の心には強い決意がある」

 

「…」

 

明智はこれまでに見せたことがない、心底楽しそうな笑みを浮かべてテーブルに両肘をつき、次々と脈絡のない質問を私に投げかけてきた。一見他愛のない会話の一部のようだったけれど、これは一種の尋問のようなものなのだろう。

 

結局これによって明智の中で私の印象がどう定まったのかは分からなかったが、なんだか満足していそうな雰囲気だったので、その日は良しとしておくことにした。

 

 

 

7月8日 金曜日

 

放課後、何故かいきなり雨宮と坂本の二人に誘われてしまった私は、特に用もないのに渋谷某所にあるスポーツジムに来ていた。

 

来たといっても私はランニングマシンでひたすら走っている二人を眺めているだけなんだけども。

 

「お前は走んねーのかっ?」

 

「着替え無いし」

 

「んなもん受付で借りられるぞっ」

 

「面倒くさい」

 

「最初からそっちが本音だっただろっ!」

 

半分正解だけど、今朝通学中に急に誘われたから着替えがないのも事実。流石に制服のまま全力でトレーニングする気にはなれない。そして受付で借りてまでという気にもならない。

 

渋っている私に、坂本はこのトレーニングの後ラーメン屋に行くと教えてくれた。…なるほど、確かにひと汗かいた後のそれは悪魔的な誘惑の強さではある。

 

少し迷って、結局私も受付でウェアを借りて一緒に走ることにした。待っている間も暇だし。

 

更衣室で通気性の良いさらさらとした感触のウェアに着替えてきた私は、坂本の隣のマシンを起動して、まずは遅めのペースでランニングを開始した。

 

「妻木って、普段トレーニングとかしてんの?」

 

「よくそのペースで走りながら喋れるね。トレーニングとかは、今はしてない」

 

「昔はやってたのか?」

 

「こんな感じでは無いけど、多少は」

 

「ま、当たり前だよな。なんもやってない奴が向こうでいきなりあんなに動けるわけねぇ」

 

坂本はかなりのハイペースで走り続けながらも、息を切らすことなく、それでいて私となんでもないかのように雑談を交わしている。元とはいえ陸上部。走る時のフォームやらなにやらは、体に染みついているんだろう。

 

「ちなみに、一番先にリタイアしたやつがラーメン奢りな!妻木はちょっとタイムラグあったから、マイナス10分!」

 

「なにそれ聞いてない」

 

「言ってなかったからな!」

 

初耳も初耳なそのセリフを聞いて思わずふざけるなと言いそうになったが、よくよく考えればこの中で最下位になる可能性はゼロのような気がしたので、気を取り直して走り続ける。

 

はじめは饒舌に話をしていた坂本も徐々に口数が減っていった。雨宮ははじめから大して喋っていなかったが、涼しい顔をしたまま姿勢を崩さずに黙々と走り続けている。

 

「蓮…お前見かけによらず体力あんな…!」

 

「…竜司こそ。本当に陸上引退してたのか?」

 

「へっ。まぁこれぐらいは毎日やってたかんな」

 

正直私も、この中だと一番先に脱落するのは雨宮かと踏んでいたのだけど、意外にも勝負は拮抗していて勝負は長引きそう。

 

夢中になって走り続けているうちにいつの間にか一時間ほどは経過していた。マシンの速度は三人とも同じでかなりのハイペース。駅伝にでも出れるんじゃないかと余計な考えが混じり始めた頃、坂本の提案で走りながらしりとりをすることに。

 

少しでも答えに詰まったらそいつの負けとルールを定めて、あっさり二巡目で坂本がキリンと答えたことにより唐突に勝負はお開きとなった。

 

さわやかな笑いが起き、ゆっくりとマシンも速度を落としていく。

 

やがて足を止めた私たちは、それぞれシャワールームへと別れていき、着替えを済ませた状態でジムの外で落ち合った。

 

「リュージは相変わらずだなー!自分で仕掛けた勝負で負けるなよ」

 

「しょーがねーだろ走るのに集中してたんだしよ!しかも二人ともまだまだいけそうな雰囲気出てたし、あのまま走ってたらラーメン食う時間なくなるっつの!」

 

まるでわざと負けてやったとでも言いたげな坂本を、私と雨宮とモルガナの三人で冷たくあしらいながら駅へと急ぐ。

 

 

坂本の案内の元たどり着いた件のラーメン屋に入った私の感想は、“狭い”のただ一言に尽きた。

 

店主の立つ厨房、そしてそれに向かい合う形のカウンターに並ぶ席。ざっと八席程度のスペースしかないうえに、後ろの壁もやたらと近い。

 

「せま」

 

「ばっかそれがいいんだろー?店長、しょうゆチャーシュー三つ!」

 

どうやら店長一人で切り盛りしているようで、坂本とは顔なじみらしい。頼んでもいないのに私たちの分も注文を済ませられ、そのままちょこんと席に座る。走った後はしょうゆチャーシュー以外ありえない…そう坂本の目が訴えていた。

 

いかにもな見た目をした店長は慣れた手つきで麺を茹で、たれとスープを合わせたどんぶりに盛り付ける。結果、数分と経たぬうちに出来立てのラーメンが人数分私たちの前に並んでいた。…早すぎる。これがプロか。

 

「きたきた…!いっただっきまーす!」

 

我先にとかぶりつく坂本を尻目に、私と雨宮も手を合わせて麺を啜り始める。

 

「なぁ、ワガハイのは…」

 

あるわけない。足元のカバンから顔を覗かせるモルガナに目で伝えると、悲し気に眉を提げて引っ込んでしまった。こればっかりはしょうがない。

 

「なぁ、二人に聞きたいことあんだけど」

 

「どうした改まって」

 

「いや、たまにはこういうのもいいかなってさ。お前らってさ…ぶっちゃけ付き合ってんの?」

 

「…なにかと思えばそんな話か」

 

箸を片手に振り返る雨宮と目を合わせる。

 

「俺とお前らの仲だろ?そろそろ白状してくれてもいいんじゃね?」

 

「色々な事情が重なってたまたま同じ場所で生活してるだけだ。それ以上でも以下でもない」

 

「いーや俺は騙されないぞ。一か月以上同じ部屋で男女が過ごして、何も起きねぇはずがねぇ」

 

残りのラーメンのボリュームから逆算しコショウの投入タイミングを矛先はいつの間にか私に向けられていた。

 

「だって俺はしょっちゅうレンレンから聞いてるぞ!朝起きたら同じベッドの上にいるとかザラだって!」

 

「その言い方だと語弊だらけだよ。しょっちゅう寝起きドッキリを仕掛けられてる、が正しいね」

 

「ふざけんなそんな羨ましいドッキリがあってたまるか!」

 

「羨ましい…?」

 

坂本の叫びに、雨宮は眉をひそめた。私がこれまで雨宮にしかけたいたずらの数々を思い出しているのだろう。朝起きたらナイフを振りかぶった黒ずくめが自分に馬乗りになっていた光景は、今でも雨宮のトラウマとして深く刻まれているようで、私は悦に入っていた。

 

「竜司、なんなら一日変わってやってもいいが?」

 

「え?」

 

「寝ぼけた頭のままで妻木さんのナイフを避けれる自身があるなら、な」

 

「…ドウイウコト?」

 

寝首をかかれないよう稽古をつけてやっているわけだが、雨宮も中々に狡猾であらゆる手を使って私のいたずらを妨害しようとしてくる。一見して見た目では分からないようになっているが、実はルブランの屋根裏部屋は少し前から私と雨宮にとって寝室以外の機能も発揮している。

 

雨宮が坂本にこれまでに吹っ掛けられたいたずらの数々を説明してやっているうちに、私は黙々とラーメンを食べ進めた。

 

脂身の多いバラのチャーシューは後で二人のどちらかにあげるとして、モモの部分は充分に味わわせていただいた。老舗の味とはこういうものをいうんだろうな。

 

「ごちそうさま」

 

「あいよ!美味かったか?嬢ちゃん」

 

「とても。また来ます」

 

「そりゃ嬉しいねぇ」

 

店主に礼を言って、一足先に箸をおく。隣の席ではいまだにくだらないボーイズトークを繰り広げながら、何故か坂本が雨宮のラーメンに謎の調味料を入れようとしていた。赤くどろっとしたそれは、最近流行りの具入りのラー油らしい。

 

「妻木もいれっか?…ってもう食い終わってんじゃねぇか!」

 

「二人ともさっさと食べなよ。伸びるよ?」

 

私の言葉を聞いてぎょっとした二人は慌てて残りのラーメンを食べ進める。流石にそのへんはわきまえているようだ。

 

「ま、さっきのは冗談だったけどよ。でもお前ら二人、最近結構噂んなってるぜ?蓮は登校初日から鴨志田のせいで謎に有名人だったし、妻木はその有名人の仲良しって枠でな」

 

「そうなの?全然そんな感じしないんだけど」

 

校内では寝てる時間の方が多いし、自分の噂話が耳に入ってくることなんてほとんどない。最近は雨宮のほうも誤解が解け…てきているのかは分からないけれど、鴨志田の自白があって以降は、陰口の類は多少鳴りを潜めているように思う。いまさら何を噂になることがあるのか。

 

「この前の中間試験、妻木一位だったろ?あれで注目されない訳はねーだろ」

 

「それだと雨宮は関係ないじゃん」

 

「考えてみろよ。たたでさえお前らは同時期の転入生で、片方は鴨志田のせいでかなりの有名人。片方は来て早々学年一位。こんな濃いキャラクタータッグ噂んなってあたりめーだろ」

 

坂本の説明を聞いて、私と雨宮は確かにと言葉を飲み込まざるを得なかった。あまり気にしてなかったけど、噂話が広がるにつれて変な尾ひれがついてくる可能性もある。一応二重生活をしている身。目立つのはできるだけ避けたほうがいい。

 

「見た目も結構目立つしな」

 

「私?」

 

「見た目の話なら俺では無いだろう」

 

「そうそう。結構目立ってるぜ?髪の色と、それから…」

 

自分の目を指さして坂本が伝えてくる。

 

「目の色も結構目立ってるぞ。それって遺伝か?」

 

「うん。そうだね…父親譲り」

 

赤い瞳の所以を知ると坂本はすかさず謝罪してきた。別に気にしてないとはぐらかして、ついでに髪の色は母親譲りであることも話した。

 

私の目の色は鮮やかすぎる赤色。元の世界でもこうだったが、世界を渡っても魂が私のものである以上は同じになるらしい。かつてはこの目の色で色々ないざこざもあったものだけど、幸い今の世界ではそうでもない。せいぜい珍しい色だねと言われるぐらいだ。

 

そして髪の色は鳶を連想するような茶色。基本的に杏や某美少女怪盗のような髪色は珍しい秀尽においては、この髪色も目立つほうではあるか。

 

「わりぃ。こういう話はタブーだよな」

 

「別にいいよ。今はもうあの人たちとは関係ないし、会話に出てくる程度ならどうでも」

 

「…そうか」

 

私が家出した経緯を一応ではあるが知っている坂本は、両親の話題を出したことを律儀にも後悔しているようだった。確かにいつもデリカシーの欠ける言動が多い坂本だが、こういうところは素直だし誰よりも真面目だ。

 

私としては特に気にするようなことじゃないのだけど、まぁ周りのみんなからはそう思えないだろうから。

 

…そうだな。気にしてないついでに思い出話でも二人にしてやろうか。

 

「思い出話?」

 

「うん。昔の話」

 

そう聞くと二人は割と真剣に興味を示してきた。自分で言うのもなんだけど、私は仲間のなかでは謎の多いほうだろうから、物珍しさはあったのだろう。

 

「小学校中学年ぐらいのころだったかな」

 

ちょうどいいので、さっき坂本にも聞かれた私の運動能力についての昔話を。

 

「私もね、ずっと一番だったわけじゃないんだよ。なにせ親が両方とも運動音痴でその血を引いてるわけだからね」

 

歩けば何もないところでつまずくし、走ればすぐに息が切れる。スポーツなんてもってのほか。これが私のパパとママだった。私が園児だったころからそのザマはダサいなと思い続けていたのを覚えている。

 

そして例にもれず、私もそんなに運動神経が良い方では無かった。自分でもそれはなんとなくわかっていたけど、小学校に入ってからそれは確信に変わった。

 

「想像できないな」

 

「でも本当だよ。だから私は頑張って特訓したんだ」

 

はじめからなにもかもできたわけじゃない。苦手な部類は得意になるまで徹底的に練習した。身体の柔軟性を高めて、それから色々なスポーツに取り組んだ。

 

勉強で褒めてもらうことには慣れていたから、パパとママが出来なかったことを出来ればもっと褒めてもらえる…そんな幼稚な考えで、私はトレーニングを続けていった。

 

「やっぱ想像つかねーわ。そんなに親に褒められたがってたとかさ」

 

頭の上に吹き出しでも浮かんでいそうな顔でしばらく想像をしていた坂本。それは長く続かずに、首を横にブンブンと振って言い捨てた。

 

「正直妻木のそういう人間らしさというか子供っぽさみたいなもんって、俺たち全然イメージ沸かないからなぁ」

 

「まぁ…そうだよね」

 

「それってよ、今のお前には認めてほしいとか思ってる奴がいないってことになんねぇか?」

 

「…。そうなるかも?」

 

ひどく曖昧な感想…だけど、その言葉は奇しくも的を射ている。坂本がどこまで察してそう言ったのかは分からないけれど、確かに今の私にはさっき言ったような感情はほとんどないに等しいような気がする。

 

どうしてそうなったのかもわかってる。

 

私が、未来を見なくなったからだ。

 

何かを手に入れても、それは未来に持ち越せない。それを知っていながら努力する理由なんて、どこにもない。

 

余命宣告とは訳が違う。私のしようとしていることは、過去にも未来にも現在にも、何一つ私の痕跡が残らないようにすることだ。

 

それでも、私がみんなと…惣治郎や玲央と…時間を共に過ごすのに喜びを感じているのはどうしてだろうか。

 

 

 

7月9日 土曜日

 

始めて来るこの場所のむさくるしさに一瞬驚きつつも、狭い廊下を抜けて目的の扉の前までたどり着いた。なにやらここにくるまでに無数の好奇の視線にさらされてきたが、今更私が気にする道理はない。

 

数回のノックの後、開かれた扉の中からは絵の具の独特な匂いとともに、怪盗団の仲間の一人、喜多川祐介が顔を出した。

 

「ごきげんよう」

 

「ああ。わざわざ来てもらってすまないな」

 

「これ。約束の」

 

私が来たのは喜多川の通う都立洸星高校の学生寮。喜多川の部屋に入っていく私を複数名の男子生徒が見送り、扉は閉められる。

 

部屋に入ると、私はカバンからタッパーが入ったレジ袋を取り出して、喜多川に手渡す。

 

「おお!ありがたい!」

 

タッパーに入っているのは言わずもがなルブランで私が作ったカレーである。別に頼まれてもいなかったが、ちょっとしたお節介を焼いてみたくなった。

 

喜多川は普段の仏頂面からぱあっと表情を明るくし、小型の冷蔵庫に小走りで向かう。

 

タッパーを入れる瞬間に見えた冷蔵庫の中身は見事にスカスカだった。戸を閉めた後冷蔵庫の電源をケーブルをコンセントに挿すのを見て、私は今まで以上に喜多川の食生活が不安に思えた。

 

「さて、それじゃあ本題と行こうか」

 

「うん?」

 

「妻木さんを初めて見た時に感じた心を、ようやくキャンバスに描き表せた」

 

喜多川が部屋の壁際に置いてあるキャンバスに近寄る。それには薄緑色のクロスが掛けられていて、まだそこに描かれている内容までは見えない。

 

どうやら、私をモデルにして描いた絵が出来上がったので見てほしい…そういう要件のようだ。一度は喜多川の前で全てをさらけ出した私だが、果たして脱ぐ必要はあったのか…どんな絵になっているんだろう。

 

「テーマは、魂だ」

 

怖さ半分楽しみ半分な期待を胸に、ゆっくりとクロスが取り払われていくのを見届ける。

 

横長のキャンバスが端から露わになっていき、そして私の目に色の情報を送ってくる。

 

恐らくは光の表現である白と明るい黄色。その反面、影というよりは闇に近いニュアンスのタッチで黒と赤が使われている。カラフルではあるものの、片方の色はもう片方と水と油のような関係性にあって、決して混ざり合わない…。

 

ある部分には翼に見えるものも描かれていて、またある部分には瞳のようなものもある。

 

「タイトルは」

 

「特に決めてないが…しいて言うなら俺から見た妻木さんそのものだ」

 

「…解説よろしく」

 

「いいだろう」

 

素人目にはただぐちゃぐちゃな絵としか映らないそれについて、描き手本人からひとつひとつ説明してもらうことにした。

 

「まず、テーマは魂といったが、その魂に俺は真っ先に二面性を見出した。妻木さんから感じるオーラから、光と影のような両極端の色が見えたんだ」

 

「ふむ」

 

「それでいて、そのどちらともつかない色も見え隠れする。人の心を描くのは難しいと知っていたが、今回はさらに難解だったよ」

 

まぁ、確かに人の心なんてものは一色や二色で表現できるようなものじゃあない。わかりやすい性格だったとしても、その色になるまでの過程が、色として混ざってくる。

 

喜多川から見た私の場合、白と黒という反対色がまず同時に強く見え、そしてその奥に様々な色が交じり合っている…と。

 

「どの人間も同じようなものじゃない?」

 

「そうでもない。それに、妻木さんの場合はそこまで単純じゃない」

 

「というと」

 

「君が併せ持っている心は、この絵の右半分まで、だ」

 

喜多川に言われて絵に向き直る。

 

「そして左側が、妻木さんの中にある、別の人格」

 

「…」

 

「その間にあるものが、妻木さんの心の最奥」

 

「…すごいね」

 

言われてみれば、なんとなく合点がいった。月並みな表現だが、右半分が光、左半分が影を表していて、その中枢に決意の赤が見え隠れしている。

 

ここまでのことを、私を初めて見た日に感じ取っていたということだろうか?だとしたら喜多川の審美眼とやらはまさしく本物らしい。

 

「描きあがってからもなお、俺の中で妻木さんは謎に包まれた存在だ。だからこそ、興味も湧く」

 

「好奇心はナントカも殺すらしいよ」

 

「君のすぐ近くにいる猫はまだ殺されていないだろう」

 

笑えるような、笑えないような。そんな冗談を口にする喜多川は、なんだかいつにもまして楽しそうにしていた。単純に食料が手に入ったことの喜びが、時間差でやってきているだけかもしれないけど。

 

私もなんだかんだで、喜多川への興味は沸いてきていた。聞けば、この絵はまだまだ改良の余地があるとの事らしく、もっと私の話を聞かせてほしいと言ってきた。

 

別に減るものじゃないし言ってあげてもいいんだけど、ただ単に私自身のことを喋ったって芸がない。

 

「喜多川は、どんなに救いようのない悪党でも、努力さえすれば変われると思う?」

 

「…。俺たちの立場では、明確な答えは出しずらいが…俺は人である以上、変わることは可能だと思っている」

 

かつて、自分が刺し向けられた質問を、喜多川にしてみる。

 

「人は変われる。変わってしまうとも言える。特に俺は、恩師が変わってしまった様を目の前で見た」

 

「そうだね。じゃあ改心についてはどう考えてるの。あれも人の心が変わってる?」

 

「その点は俺は明確に否定したい。改心は心を変えるのではなく“改めている”だけだ。誰しもが初めから悪人なわけでは無い。だから怪盗団は、心の邪な部分を取り除き、もとあった心だけを残す…そう考えている」

 

…そう。喜多川は正しく認識している。怪盗団の行う改心とはそういうものだ。

 

「なら、君の描いた絵みたいに、初めから悪として生まれたものは、どうすれば変われるのかな。本人の努力次第で、歪んでしまうみたいに、善人になることなんてあるのかな?」

 

「…それは、妻木さんがそうだと言いたいのか?」

 

「ある意味では。でも、前世の話みたいなものだよ」

 

喜多川は少し考え込み、歩き回り、座り、立ち上がって、また座った。

 

「?」

 

「実に難解だが、俺に言えるのは、やはりこの絵を見てほしいということだけだ。俺に見えている部分は右半分、君の善良な部分だけだ。その過去がどんなに暗いものであっても、俺にとっての妻木さんは既に変わった後の姿。まさしく希望だ」

 

「なるほど」

 

「うむ。長々と喋りすぎて自分でもよく分からなくなってきた。とりあえず妻木さんも座ってくれ」

 

言いながら差し出された椅子に腰かけ、ずらりと並んだ他の絵画たちを眺める。寮の一室のはずだが、生活感のある物は限界レベルで少ないうえに絵ばかりが目に入ってくるせいで、部屋というよりはアトリエにいるような感覚に陥ってしまう。

 

そんな空間で、喜多川からの質問攻めにあったり、逆に喜多川の絵について話させたりと、少し新鮮な時間をこの日は過ごしたのだった。

 

 

7月10日 日曜日

 

金城が改心して数日たった今でも、未だに明智の言う次の動きは見えてこない。十中八九メジエドだろうから、いつ来てもほとんど変わらないようなものなんだけどね。

 

とはいえずっとこうしているのも暇と言えば暇だ。メメントスでの依頼も今はめぼしいものが見つからないし、純粋な待機時間だ。

 

「なーなー綺羅―」

 

客の来ないルブラン。テーブル席に寝転がっていた双葉が声を上げる。

 

「なに?」

 

「ゲームしよー」

 

「惣治郎帰ってくるまで駄目」

 

「いーじゃんどうせ誰も来ないんだしー」

 

本人の前で言ってみろそれを。

 

とはいえ駄目なものは駄目である。今惣治郎は買い出しに出かけていて、その間の留守は私に任されているのだから。こういう時、大体雨宮はどこかに出かけている。どうせ今頃は他の誰かと取引を進めているんだろう。

 

実際暇だしゲームしたい気持ちもあるけれど。それは惣治郎が帰ってきてからだ。

 

「やったー!じゃあ今日はスマ●ラな!」

 

「はいはい」

 

うきうきしている双葉の側面、ルブランの扉が開き、入ってきたのは買い出しに行っていた惣治郎ではなく、同級生の秋山玲央だった。

 

惣治郎だと思って油断していた双葉は、いきなり現れた見知らぬ顔に驚いて脱兎のごとく二階へと逃げ出していった。そんなにビビらんでも。

 

「ごめん、ください?」

 

「いらっしゃい」

 

「いらっしゃいました!」

 

相変わらずのヘンな日本語を発しながら落ち着かない様子で店内をキョロキョロと見回す玲央。普段制服姿しか見ないせいで、何の変哲もない洋服を着ているのに違和感を感じる。

 

「いい雰囲気の店だね」

 

「そういうのは店主に言ってあげて。今は買い出し中で居ないけど、もうすぐ戻ってくると思うから」

 

今日はあらかじめ、玲央が来ることは惣治郎にも伝えておいた。双葉にはさっきのリアクションが見たくて言ってなかったけど。何気に今日は初めて玲央と校外で約束して会う日だ。

 

コーヒーは普通に飲めると事前に聞いていたので、とりあえず一杯振舞ってやる。

 

「どうぞ」

 

「て、手慣れてるね。想像通りというか…、とりあえずいただきます」

 

私と玲央が落ち合うときというのは、基本的に勉強目当ての時だけ。けれど、今日はテスト勉強を休止にするということで待ち合わせた。たまにはこういう時間も必要だろう。

 

「おいしい。缶コーヒーとは訳が違うね」

 

そりゃあそうだ。

 

惣治郎が聞いたら呆れかえってしまうようなことをのたまう玲央は、双葉がダッシュで消えていった階段の奥へ目をやる。

 

「綺羅ちゃんって、ここに居候してるんだね。上が部屋?」

 

「うん。部屋というか、物置というか」

 

「なんで居候してるか…っていうのは」

 

「秘密」

 

予想していた答えだったらしく、私が理由を明かさないことには大して落胆も驚きもしなかった。

 

それからしばらく二人で他愛もない会話を続けていると、この店の主が帰ってくる。

 

「ああ、いらっしゃい。嬢ちゃんがコイツの面倒見てくれてるって子か」

 

「あ、はい!そうです!」

 

逆だ逆。どう考えても私が世話してやってるだろうに。

 

「ま、仲よくしてやってくれな。友だち出来にくいタイプだろうから」

 

「はい!だと思います!」

 

「ちょっとちょっと。さっきから何勝手な」

 

私の制止も聞かず、何故か惣治郎と玲央で話が盛り上がってきたのを無理やりに切り上げ、玲央を連れて双葉の潜む二階へ。

 

初見の玲央は階段を上がりきるなり落ち着きなく辺りを見渡すが、真っ先にその視線は部屋に居た先人の場所でぶつかる。言わずもがな双葉と玲央の初邂逅は唐突に訪れたのであった。

 

「妹さん?」

 

そんなところであるかもしれないけども。

 

「マスターの娘だよ。兼私の友だち」

 

簡単に説明してやると、双葉の方から名乗りあいさつを交わした。さっきの即逃亡がウソのようだった。そう思っていると何故か双葉に睨まれた。…なんで?

 

「はじめまして。秋山玲央っていいます。綺羅ちゃんとは同級生で、勉強を手伝ってもらってます」

 

「あーうん。綺羅からなんとなく話は…今日も勉強か?だったらわたし帰った方が…」

 

居心地悪いから退散しようとしてるのか、それともただ気を使って言ってるのか。多分両方だなと分かりつつも、今日は勉強しに来たわけじゃないと双葉を止めて、三人でゲームをして遊ぼうと提案してみた。

 

…自分で言って気付いたが、誇張でもなんでもなく私と双葉のゲーム対戦は割とガチなレベルになるので、おそらくライトなゲーマーである玲央と遊ぶのに向いているゲームをチョイスしなくちゃいけないな。こっちにパーティゲームの類は置いてたっけ。

 

そんなひとりごとをつぶやきながら箱を漁っていると、玲央のほうからおもむろに口を開いた。

 

「綺羅ちゃん」

 

「んー?」

 

「この部屋、男の人入れたことある?」

 

「入れたっていうか、住んでる」

 

「そっか。…えぇ!?」

 

「雨宮蓮ね。知ってるでしょ?」

 

「どど、どーゆうこと!?」

 

ちょっとだけ面倒なので説明は雑に双葉に任せ、続けて箱を漁り続ける。

 

アクション要素が出来るだけ少ない、だれでも楽しめるような奴…そういうテーマで見てみると、この雨宮が趣味で買ってきたゲーム達の中にはほとんどないことが発覚した。たまに双葉が遊びに来るときに、少しづつ種類も増えてきたはずなんだけどなぁ。

 

「双葉ちゃん説明してっ」

 

「お、おおう。えっと、二人ともわけあって同じタイミングでここに居候する羽目になったってだけで、別にそれ以上の事は…って、なんでわたしが説明してんだ?」

 

「そ、そうなの?なんか、トクベツな関係とかじゃなくて?」

 

「まぁ、二人とも普通では無いという意味では特別なのかもしれんけども…」

 

「確かに学校内でまことしやかに話題になってた二人ではあったけど…。まさか本当に…」

 

ちょっと待て待てなんか壮大な勘違いが発生してる気がする。

 

思わず箱漁りを中断し振り返る。

 

「あの、後半の内容は双葉がちょけてただけであって、重要なのは前半の部分だけだから」

 

「いやーそれでもこの年代の男女が同じ部屋で寝泊まりするなんて、やっぱりけしからんと思うのですよあたしは」

 

「おっさんか」

 

しかも一人称があたしのおっさん。

 

それからは、私の住居環境を知るや否や、玲央のミーハー魂に火が付いたかのようにトークが展開され始めた。私にも双葉にも留める力はなく、完全にこの場の流れを掌握されてしまい、なんだか随分と女々しい雰囲気で部屋が満たされていった。

 

きっとこの場に杏もいたならこれはさらに加速しただろう。たまたま呼ばなかったが、正解だったな。

 

「いや、正直雨宮君結構イケてるなとは思ってたよ?初めの方は、あたしも怖い人なのかなーとか思ってたけど、なんか最近はそんなことなさそうな感じだし」

 

「急に口数増えたな…」

 

若干引き気味の双葉を置いてけぼりに、意外にも雨宮に対する評価が高いことを熱弁する玲央。明智しかりなにかしらロマンティックな要素を求めてしまうのは、この年代の女子にはありがちなことなのかもしれない。

 

多分雨宮が転校生ですらなければ、それだけで見え方はかなり変わっていそうだ。

 

「そういえばよく一緒に登校してたよね。なるほどそういうことかぁ」

 

「他言は無用で」

 

「もちろんもちろん」

 

全く信用ならない軽口を背中に受けつつ、箱の底にあったひとつのパッケージを取り出す。

 

『垢太郎鉄道』。サイコロで出た目の数だけ自分の列車を進めてゴールを目指すゲーム…の第一作目。こんなニッチなソフトを何故か雨宮は好んで買って帰ってくる。一体どこで手に入れてるんだか。

 

どこでもいいが、とにかくこれは少し古すぎる。他にもっといいゲームは…。

 

「綺羅ちゃん、さっきから何探してるの?」

 

「ちょうどいいゲームが無くて」

 

「いま入ってるのでいいよー。あたし結構ゲーム得意だよ」

 

「いや、止めといたほうがいいぞ新人。自分で言うのもなんだが、わたしと綺羅も相当…」

 

「大丈夫だいじょうぶ。一回やってみようよ」

 

私と双葉は目を見合わせる。正直気は進まないけど、本人がそこまでいうならやってみてもいいかもしれない。そう思って、試しに一度三人でスマブラをプレイすることにした。

 

 

あまり乗り気でない状態で始めたゲーム対戦は思いのほか白熱し、気付けば想定していた以上に時間が経ってしまっていた。

 

熱中している間、雨宮が外から帰ってきてもう一度バイトに出かけてまた帰ってくるまで続くぐらいには、私たちの戦力は拮抗していたのだ。

 

「まだやってたのか」

 

「雨宮君もやる?」

 

「玲央はもう帰る時間でしょ」

 

「あ、そっか…」

 

呆れる雨宮をよそに、スマホで時刻を確認して肩を落とす玲央。ずっと勉強ばかりしているようなイメージだったし、ここまでゲーム好きだとは私も思ってなかった。普段の会話からもそんな感じはしなかったし。

 

「じゃあまた今度やろうね。双葉ちゃんも綺羅ちゃんもすっごく上手だったから熱中しちゃったよー」

 

「玲央もなかなかやるな!今度は蓮も混ぜてみんなで遊ぼうな!」

 

「うん!って、ごめんね雨宮君!勝手に部屋でくつろいじゃって」

 

「構わない。随分打ち解けてるな、二人とも」

 

意外そうに双葉と玲央を見る雨宮は、手に抱えた荷物をベッドの上に下ろす。すると同時に、肩にかけたカバンからモルガナが飛び出し、玲央がすかさず食いつく。

 

撫でようとすると一目散に逃げられてしょんぼりしていた玲央だったが、やがて荷物をまとめて帰り支度を始めながら大きくため息を吐いた。

 

「はぁ…」

 

「なんでため息?」

 

「ううん。なんか、楽しかったなぁって思って」

 

そう言う玲央の表情は本当に名残惜しそうだった。まぁ、私も三人以上でこうやって部屋で遊ぶなんて行為自体久しぶりだったわけで、なんとなく気持ちは分からないでもない。

 

「綺羅ちゃんならもう気づいてるかもだけど、あたし勉強よりゲームとかで遊ぶ方が好きなんだよね。できれば一生遊んでたいぐらい」

 

「…それを私の前で言う?」

 

「や、もちろん今は勉強第一に頑張ってるけどね!?というか、綺羅ちゃんのおかげで、頑張れてるってほうが正しいケド」

 

なんとなく、今日のことで玲央のことがまた少し分かった気がする。あまり勉強に集中できていなかったことは分かっていたが、それの他にやりたいことや好きなことがあったのが原因だったらしい。純粋にゲームにうつつを抜かして、点数をとれなかったなんてことにはなってほしくない。

 

でも…それだけが理由ではないんだろうけど。ここで明かすような話なら、あえて隠したりはしない。

 

「それより、大丈夫なの?もう結構な時間じゃない?」

 

「だいじょうぶだいじょうぶ。今日は遅くなるかもって伝えてあるから、ゆっくり帰っても平気だよ」

 

「どれぐらい?」

 

「え?…えーっと、今が7時過ぎでしょ?10時ぐらいまでは大丈夫じゃないかなぁ?」

 

それを聞いて、私たちはピンと思いついた。こうなればここでやることは一つだ。

 

「玲央、おなかすいてない?」

 

 

7月11日 月曜日

 

夏休みを目前に控えたこの季節、どこか街の雰囲気も浮ついてきているように感じる。でもそれ以上に、この都会の夏特有のまとわりつくような熱気が、私にとっては活気を削ぐ原因でしかなかった。

 

衣替えは勿論行ったわけだが、夏用の制服を家に置いてきてしまっていた私はどうしたものかと一瞬悩んでいた。しかしそれは杞憂に終わり、ご丁寧にルブランへと宅配で届けられた。どうせなら他の私物も送ってきてくれたらよかったのに。

 

そんなことを考えながら歩く私をよそに、お付きの侍女二人は元気溌剌である。

 

真と杏(主に杏だけど…)に引きずり込まれる形で、ショッピングに付き合わされていた。なんでも、今年の夏用のアイテムを手に入れたいとのことで、随分と気合が入っている。

 

「当然!だって今年はみんなで遊びに行くでしょ?色々必要でしょ!」

 

「色々って?」

 

「水着とか!」

 

「…ほう」

 

「もちろん綺羅のも今日選ぶから」

 

なるほど。なんだか最近怪盗団のみんなが私の扱い方に慣れてきている気がしてやや腹立たしい。あらかじめ用件を伝えると断られるのが目に見えているから、とりあえず引っ張ってくることが多い。…そうして今日もここに連れてこられたわけだが、私も誰かさんのお人よしが伝染ってきたかな。

 

「二人はもう買ったの?」

 

真と杏にそう聞くと、どうやら二人の分は既に見繕ってあるらしい。本格的に苛め抜かれそうな予感がしてきた。

 

「もちろん、あなたの事情を踏まえた上で、ぴったりのものを探すのよ?だから安心して」

 

「そーそ。今時は色んな種類があるからね。きっと良いの見つかるよ」

 

「はぁ。ま着たところで水に入ったりはしないけど」

 

「淡水でもだめ?」

 

「いや、淡水なら…え、海じゃないの?」

 

「それだとあなたが遊べないじゃない」

 

「…」

 

はぁ、なんとまあ、律儀というか。てっきり海に行く計画を立てているものだと思っていたら、どうやらそうではないらしい。

 

呆れていると腕を引かれて店の奥へと連れ込まれる。どうやら杏とここの店員は顔見知りらしく、気さくに話しながら私を着せ替え人形にする算段を組み立てていく。水着だけで済ます気もなさそうだ。

 

原宿系とはあまりイメージの違う、黒髪ロングの清楚な雰囲気の店員にまぁまぁと窘められながら試着室へと誘導され、サイズの測定が始まる。

 

バストに関しては当然正確なサイズを測りたいため一時的に服をまくり上げてくれと頼まれる。しかし身体の傷を隠すように、いつも巻き付けている包帯を外すのは面倒だし見られたくも無かったので丁重にお断りさせてもらった。

 

「じゃあブラジャーのサイズだけ教えていただけますか?」

 

お前らには教えないからな。

 

 

それから、私の傷だらけの身体の事を考慮した水着選びという難行が店員を襲った。種類があろうとなんだろうと、水着というのは否が応でも肌が出る。それが水泳を目的としたものでは無く、あくまでレジャー的なファッションを目的としたものならなおさらだ。なにより、選ばれる側に立つ私がやたらと恥ずかしい。

 

そんな私に店員がもってきたのは赤と黒が基調のゴシックな意匠の水着。普通に露出度は高めだ。

 

「これと組み合わせられるのがコレなんですけどー」

 

それと一緒に店員がもってきたのは、同じシリーズのものらしき、オフショルダーのトップス…に見える水着と、ショートパンツ…にみえる水着。ほぼレース素材なのでかなりスケスケだが、肩から下は元の色の関係でかなり傷が見えにくくなっている。

 

「今時はこんなのもあるのね。形は普段の私服と変わらないけど、清涼感もあっていいんじゃないかしら」

 

「うんうん!ね、一回着てみてよ!」

 

ここまで協力してもらっておいてここで断れるほど、私は冷酷じゃない。こっぱずかしいながらも着替えを済ませ、包帯も取ってみる。

 

鏡に映る水着姿の自分はとても自信なさげで格好がついていなかった。…駄目だな。もっと堂々としてないと。

 

後ろも確認してみると、背中側の生地はやや大きめに垂れ下がっており、シルエットはなんとなく自分も好きな雰囲気だった。

 

恐る恐るカーテンを開けてみると、三人分の視線が突き刺さる。

 

「「「おおー!」」」

 

「どうですか?着てみた感想は?」

 

「まぁ…無理なく隠れてるし、これなら人前で着てもいいのかも」

 

「いい!いいよ!!」

 

「えぇ、よく似合ってるわ」

 

妙にむず痒い気分だけれど、そこまで悪い気はしない。こういうのも、あまり経験無かったから。

 

 

ひとまず目的のものが手に入ったので、それからはぶらぶらと色々な店を見て回った。服屋、ジュエリーショップ、クレープ屋…クレープはファッション関係ないな。

 

こうやって適当に食い散らかす割には体形をキープできているせいで、杏はよく同業者から反感を買っている。

 

「んー…!クリームマシマシのこの背徳感がいいんだよねー!」

 

「本当に美味しそうに食べるわよね。確かにおいしいけど」

 

「そうだね」

 

「綺羅、あなたもよ」

 

いつの間にか名前呼びになっている真は、口の端を指さしてはにかむ。指で拭ってみると、まんまとひっついていたらしいチョコクリームが取れた。

 

「二人とも、大概甘いもの好きよね」

 

「甘いもの食べてるとなんか満たされた気持ちになるじゃん?」

 

恍惚の表情を浮かべながらホイップクリームに顔をうずめるようにかぶりつく杏。自分では気づいてなかったけど、真の目には私もこれと同じように映っているらしい。甚だ信じがたい話である。

 

どちらかというとスイーツの類は作っている過程を見る方がワクワクするものだ。むかしは家でケーキを作ったりもしていた。

 

「え、綺羅ケーキとか作れるの?」

 

「一応」

 

「いいじゃない。ルブランでもスイーツメニュー提案してみたら?」

 

たしかにルブランにはスイーツメニューがほぼないに等しい。真の提案は有りかもしれないけど、惣治郎は容認するだろうか?

 

頭によぎったカレー味のケーキというふざけた発想を振り払おうとしてクレープを頬張る。

 

「綺羅って意外と家庭的だよね。料理とかは、家で習ったの?」

 

「うん。私の持ってる知識は基本的にママ直伝。…というか、意外ってなにさ」

 

「本当に同年代なのかなー…。わたし時々綺羅が物凄い年上に感じることあるんだよね」

 

「よくもそんなにすらすらと無礼な言葉を」

 

「それ、私も分かるかも」

 

「真まで…」

 

「でもね、それと同じぐらいの間隔で、たまにとても年下の幼い子供のように感じることもあるのよね」

 

「あ、分かるー!」

 

どうしてかしら、と首をかしげて私の顔を覗き込む真は真剣に原因を考えているみたいだった。

 

…相変わらず、どうしてこうもこの連中は妙なところで鋭いのだろうか。もっとも答えを知る由が今は無いので、正解に辿り着く可能性はゼロだろうけど。でも、今二人が言っていたことは間違いなく、私の本質を示している。

 

Charaとしてのわたしと、妻木綺羅としての私。喜多川もよくよく私の中の二面性について触れてくるが、どちらも原因はこの私の魂の在り方に依るものなんだろう。

 

「まぁ綺羅がミステリアスなのは今に始まったことじゃないけどねー。そのうち洗いざらいあんな秘密やこんな秘密を吐いてもらうから」

 

「期待してるようなのは無い」

 

「じゃあ早速スリーサイズから聞いていこうかな!あの水着だと分かりにくかったけど、やっぱり結構あるよね、綺羅」

 

「オッサンだ」

 

「おっさんね」

 

 

 

7月12日 火曜日

 

期末試験の日が近づいてきている。玲央と私の勉強会もスパートをかけていて、私が直々に作成した、本人の苦手分野に特化した問題集で隙を無くしていっている。最終的には本人次第ではあるけれど、乗り掛かった舟だしやれることはやっておいてやりたかった。

 

そして放課後、勉強会を終えた私は待ち合わせていた渋谷駅へと急いでいた。

 

思っていたより今日の勉強は長引いた。約束の時間には遅れたくない。そんな一心で駆け足気味に先を急ぐ。

 

そうして約束の場所に辿り着いた私は、スマホに届いていたメッセージを見てすぐにイセカイナビを起動しメメントスへ。

 

「お、ジョーカー。来たみたいだぜ」

 

最初に出迎えたのはモナ。その傍に棒立ちで虚空を見つめているジョーカーが立っていた。そいつはモナの呼びかけにハッとして、私のいる入り口のほうに振り返る。

 

「来たか」

 

「お待たせ」

 

「おかげで充分準備することが出来た。早速始めよう」

 

「なんかあった時のために、今回はワガハイも付き添う。巻き込まれないようにはするから、気兼ねなくやっていいぜ」

 

待ちかねていたのか早く始めようとせっつくジョーカー。それにしても、準備…一体どんな隠し玉が飛び出すやら。

 

だが、そう。今日はジョーカーとの決闘の約束もあったのだ。少しづつ…もとい急速な勢いで力をつけてきているこの男の、力を見極める時間だ。

 

距離を取って互いに武器を構える。

 

「いくぞ」

 

「なんだか今日は自信ありげだね」

 

「もちろんだ」

 

いつにも増して不敵さを纏うジョーカー。一瞬、その目の色が変わったかと思うと、躊躇なく銃を抜いて引き金を引いてくる。距離の空いた状態での牽制としては、ピストルの銃撃はかなり優秀。より実戦的な立ち回りだ。

 

しかし、まだその動きは洗練されきってはいない。懐から銃を取り出し、構え、狙いをつけて、撃つ。ここまでの間に弾道は簡単に予測できた。

 

もちろんジョーカーにとってもこの銃撃はただの布石。もう片方の手で仮面に手をかけ、ペルソナを召喚してくる。

 

「ホワイトライダー!」

 

現れたのは目玉だらけの白馬に乗った、長弓を持つ骸骨。

 

矢は私の頭上へ弧を描くように放たれ、それは中空で弾けて無数の光の矢となって地面に降り注いでくる。

 

「ランダ!」

 

そして上空からの弾幕を縫うように、正面から新たなペルソナが黒い長髪を振り回し無数の針を飛ばす。一歩間違えればハチの巣になりかねない攻撃も容赦なく打てるようになったのは、まず成長の一つ。

 

文字通り針の穴を通すような僅かな隙間に身体を通して回避し終えるや否や、一気に距離を狭めてきたジョーカーと鍔迫り合いになる。

 

「クー・フーリン」

 

刃と刃がぶつかり合う瞬間、確実に一瞬足を地面から離せなくなるその一時を狙いすましたかのように、ジョーカーの背後に顕現したペルソナの槍が突き出された。

 

私は一撃目を片手で受け、もう片方の手で槍を掴んで逸らすことで直撃を避ける。

 

「惜しいね」

 

「いい加減ペルソナを使ってほしいな」

 

ジョーカーは大きく飛び退き再び距離を取って仕切り直す。

 

…まったくもって油断ならないが、まだ生身で捌ける程度ではある。正直ここまでやっているだけでも十分異常なんだけど、それで満足する男では決してない。

 

その後もジョーカーは多彩な属性魔法で波状攻撃を繰り出してくる。回避に徹すれば躱すことは簡単だったけど、私には一つ気になることがあった。

 

それはジョーカーの使う魔法の使用順番。属性の相性を無視した一見不規則に見える攻撃だけど、ジョーカーに限って考えなしの無差別攻撃という作戦をとるかと言われれば、こたえはNOと即答できる。

 

怒涛の連続攻撃をいなしていくなかで、私の周囲を囲む環境はがらりと様相を変えていった。

 

後方は炎で塞がれ、天井には氷の柱が無数に立つ。

 

そして次に放たれた疾風魔法によって、炎は活性化し氷柱は切り落とされてつららとなって降り注ぐ。もちろんそれだけならさっきの弾幕の二番煎じだが、ジョーカーの手はまだ止まらなかった。

 

「流石に勘がいいな」

 

「次はどうする気?」

 

挑発じみた言葉を皮切りに、ジョーカーは降り注ぐつららを掻い潜りながら近接戦闘を仕掛けてくる。本人も危険を背負う戦法。この行動にはそれだけの決意が含まれているはず。

 

炎と氷に囲まれた異常地帯で短剣を避け、時には受け、そして刃が擦れ合い火花が散ったその瞬間、足元の違和感に気付く。いつの間にか地面にうっすらと水が張っていた。

 

「ああ、そういうこと」

 

加速する剣戟をいなすためには私もナイフを振るう必要が出てきた。ほんの少しではあるが地面に張る水の位も上がってきていて、立ち回るほどに水しぶきが舞う。

 

「いくぞっ!」

 

思考を読まれたことを察し不敵に笑うジョーカーは一瞬腰を低く構え、仮面を剥がす。

 

「バロン!」

 

現れた聖獣は澄んだ咆哮を上げ、それと同時にジョーカーは上空へと飛んだ。

 

私もそれと同時か、あるいはより早くに、地面から足を離していた。これまでの攻撃のすべてがこの一撃のための布石。溶かした氷で水の張ったこのフィールドに、ペルソナの生み出した特大の雷が落ちる。

 

予め落ちる場所を予測して避けたが、このまま重力に従えば私も雨宮も足場の水を通して感電してしまうだろう。

 

「アルセーヌッ!」

 

片やジョーカーはアルセーヌを召喚し自らの身体を持ち上げさせさらに上空へ。

 

私に翼は無い。もはや逡巡の隙も無く、地面に足をつけた瞬間、タイミングよく落ちた雷が伝播し両足に強烈な痺れが走る。ジョーカーとの立ち合いでまともに痛みを感じたのは、これが初めて。

 

針の穴を通すような戦いの中で、その一瞬のチャンスをジョーカーは見逃さない。翻したアルセーヌの掌から放たれた呪怨はまっすぐ私を襲う。

 

「Chara」

 

回避するのは難しいと判断し、やむを得ず、Charaを召喚し同じ呪怨魔法で相殺して事なきを得る。

 

そして身体を駆け巡る痺れを押し殺し、中空で隙を晒すジョーカーの足首をジャンプして掴み、地上へ引きずりおろす。

 

引きずり下ろすと同時に背中から地面に叩きつけたジョーカーの首にナイフを押し当て、ため息をつく。勝負はここでおしまいだが、ジョーカーはとても晴れやかな顔をしていた。はなから私にペルソナを使わせることだけが目標だったらしい。

 

「これで、一歩前進だ」

 

「…」

 

私のほうからは積極的に攻撃を仕掛けていないとはいえ、どうしてもこの成長速度には違和感を感じずにはいられない。明らかに力の伸びが速すぎるし、戦闘慣れもしすぎている。

 

「二人とも、大丈夫か?」

 

「大丈夫だよモナ。ジョーカーも、大したことないでしょ?」

 

「問題ない」

 

モナが回復するまでもなく、ジョーカーは少しよろめきながらも立ち上がった。

 

…私としてはこの辺りで既に十分すぎるほど強さは得ているから、これ以上続けなくても別にいいと思ってしまうわけだが…どう転んでもここで満足してもらえるわけはない。特訓はこれからも続いていくだろう。

 

…強くなることにデメリットは無い、とは言えない。この世界においては。

 

ジョーカーにおいては、特に。

 

強さを求めるのは悪いことじゃない。ただ、力を得た人間は必ず邪心も芽生える。それがどんな種類の力であれ、本人の意志とは無関係に。

 

私もかつてはそうだった。

 

「リーサル?」

 

「ん」

 

「聞いてなかったのか?」

 

ふと、モナに話しかけられていることに気付く。

 

「聞いてたよ」

 

「じゃあなんの話してたか言ってみろよ」

 

「今日の晩御飯の話」

 

「と?」

 

と?当てずっぽうで言ったがどうやら片方は当たったらしい。

 

「ジョーカーの女関係」

 

「ちげーよ!どんな聞き間違いしたらそうなんだよ!」

 

…違ったらしい。

 

「この特訓の話だよ。次からはペルソナも使ってやってくれってさ」

 

「ああ…そっか」

 

「なんか考え事か?」

 

どこか上の空のように見えたかもしれない。モナが少し心配そうに私の顔を覗き込んでくるが、どうしても私は他の事が気になって仕方がなかった。

 

本当に、このままジョーカーに私の戦いの粋を教え込んでもいいものだろうか?

 

胸の奥で得体の知れない恐怖が渦巻く。脳裏に刻まれた何か恐ろしい記憶が、私の不安を加速させる。

 

思わず、私の少し前を歩くジョーカーの腕をつかむ。

 

「…どうした?」

 

「…」

 

少し驚いたような素振りで振り返ったジョーカーの目が、一瞬私の目と同じような赤色をしているような、気がした。瞬きの間にそれは消えてしまったから、見間違えかそうでなかったのか定かではない。

 

胸騒ぎが止まない。

 

「…なんでもない。早く帰ろ」

 

沸々と湧き出した不安を押し切るように、半ば強引に私はジョーカーを連れてメメントスを出た。この日の晩御飯は、ろくに味を感じなかったような気がする。

 

 

 

7月13日 水曜日

 

「だーりーなーくそー」

 

「うっさい。こっちにまでだるさが伝染るじゃない」

 

「はぁ…試験なんか無くなればいいのになー」

 

いつものように、雨宮、坂本、杏の三人と通学路を往く今日は期末試験の初日である。坂本は案の定だるさを隠しもしない様子でゆっくり歩こうとするが、なにやら杏はいつにも増して堂々としていた。

 

雨宮のカバンから顔を覗かせるモルガナもそれに気付いたようで、なにかいいことでもあったのかと聞くが、杏は適当にあしらうだけで教えようとはしなかった。

 

一方雨宮はというと、いつにも増して眠そうな目をかろうじて開けて…すらいなかった。目を閉じたまま歩いている…。

 

「それ、寝てるの?」

 

「ああ」

 

「…」

 

眠そうな態度とは裏腹にいつもと変わらない抑揚で返事されてしまったせいで、余計に寝てるか寝てないのか分からなくなった。

 

そんな私たちの後ろから、なにやら忙しない足音が聞こえてきた。

 

振り返ると、手を振りながら駆け足で寄ってくる玲央の姿があった。

 

「おはよう綺羅ちゃんっ」

 

「おはよう。昨日はよく寝れた?」

 

「うん。アドバイス通りに早めに寝たよ。おかげで脳がしゃっきりしてる気がする!」

 

この中で誰よりも今回の期末に気合が入っているのは、間違いなく玲央だろう。

 

先週からは私が玲央の苦手部分を分析して作成した問題集で徹底的に苦手を克服するための手段を講じた。玲央も真剣にそれに取り組んでくれたし、そして当日をもっともよいコンデションで迎えることが出来ているのは僥倖以外のなにものでもない。

 

次の試験で学年20位以内に入る…それが今回の目標。私がわざと問題を間違えたりして一位を誰かに譲ってやれば、その目標は果たされやすくなるが、あいにくそうまでしてやる気は無い。

 

「あ、雨宮君も今回はライバルだね」

 

「たしか、20位以内を目指してるんだったな?」

 

「うん。雨宮君は目標ないの?」

 

「無論学年トップだ。今回は狙いに行く」

 

雨宮はそう言って、目を閉じたまま私の方に顔を向ける。その行為に意味があるのかはさっぱりだし、そもそも気配だけで私のいる方角を正確に捉えすぎだ。

 

「おおお…じゃ、じゃああたしも、気持ちはトップを狙うぐらいで臨もうかな」

 

やや冗談めかして玲央が言うが、気持ちだけの問題ならいくらでも高みを目指してもらって構わない。そちらのほうが結果が付いてくるということも、しばしばあるものだ。

 

などと話をしている後ろで坂本は丸まった背をさらに縮こませて大あくびをしていた。お前も少しは勉強しろとモルガナがツッコみ、それをみて玲央が雨宮の背後に回り込んで学校に着くまで中のモルガナをモフり続けていた。…はたからみれば、さぞ不可解な光景だったろう。

 

 

 

三日後…

 

 

 

7月16日 土曜日 …試験最終日

 

全生徒が解放感から晴れやかな顔をして下校していく中、私は校門前で雨宮と二人で玲央を待っていた。雨宮には先に帰れと言ったのだけど、何故か居座り続けていた。少し彼女のことで気になっていることがあるらしい。それが何かは知らないが。

 

しばらくすると件の人物が玄関から姿を現し、疲れたようなやりきったような笑みを浮かべながらゆっくりと階段を降りて来る。

 

「ふたりとも、おつかれさまー」

 

「お疲れ様。秋山さん的には、手ごたえはどうだった?」

 

「うん、自信はあるよ。なんてったって天下の妻木先生につきっきりで教えてもらってたからね」

 

どうやらそのようで、いつもよりテンションが控えめなのはネガティブな意味ではなさそうだった。

 

意味のない生徒同士の答え合わせなどは行わず、ぽつぽつと言葉を交わしながら静かに駅までの道のりを歩いた。精神的にも疲れてるだろうからすぐにでも家に帰りたいところだろう。

 

そう思ったけど、どうやら玲央は別の事を考えていて、雨宮も同じことを考えていたらしい。

 

「秋山さん、うちに寄ってかないか?頭脳労働後のコーヒーはいいものだぞ」

 

「いいの?実はあたしも行きたいなーって思ってたんだ」

 

そう言って私の顔色を伺う玲央に構わないと伝えると、嬉々として帰り道とは逆方向となる四茶方面へ行く列車に乗り込む。運よく席はがらんとしていて、三人とも並んで座ることが出来た。

 

到着するまでの間、徐にスマホを取り出した玲央が見ていたのは怪盗お願いチャンネル、その掲示板だ。

 

「二人はさー、怪盗に改心してほしい人とかいないの?」

 

画面を見つめながら藪から棒にそんなことを言いだす玲央。その言い方だとまるで自分には居ると言っているように聞こえるわけだが。

 

「一人いるかな」

 

「へぇ。なんか意外。雨宮君て基本淡泊だし、あんまりそういうの無いかと」

 

「実はそうでもない。妻木さんは?」

 

「私は…」

 

雨宮に話を振られて少し考えてみるも、そんなにすぐには思いつかない。強いて言うとすれば、そいつは今私たちの生きる世界には存在しない。よって答えは特になしだ。

 

雨宮の言う相手も気にはなったけど、私は先に玲央はどうなのか聞いてみた。すると以外にもあっけらかんとした軽い口調で「いるよー」と答えた。

 

「秋山さんにもいるんだな」

 

「そりゃあ人間ですもの。でもまぁ、あたしはどっちかって言うとイケメン怪盗に心盗まれたい側だけどね」

 

「探偵王子はどうしたの」

 

「明智君は、怪盗とあたしを取り合ってほしい」

 

やたらと真剣なまなざしで熱弁する玲央をみて思わず私と雨宮は笑ってしまった。本人からすれば顔の引き攣るような話題であるものの、話の浅さが心を軽くさせるのだろう。

 

「けど実際おもしろいよねー。怪盗と探偵、なんてさ。本当に現代なのか疑っちゃうよ」

 

苦笑する玲央。その目は、心を盗む怪盗なんて本気では信じていないと訴えていた。が、もし心の底からそう思うのであれば、こんな話はしない。少なからず、玲央は怪盗に興味を抱いている。

 

雨宮も私と同じように何かいいたげではあったものの、あえてその話を広げることはせず、当たり障りのない会話で目的地に着くまでの時間をやり過ごしたのだった。

 

 

一週間後…7月23日 土曜日

 

終業式が終わり、今日の学校は午前で終了。雨宮からのチャットで怪盗団全員で集合し、帰路を歩いていた。

 

「花火大会?」

 

「おう!カネシロの件の打ち上げも兼ね…」

 

双葉と喜多川を除く怪盗団が集合している以上通学路をあるくにはそれなりな人数で固まっているのだ。そんなただでさえ目を引く状態でターゲットの名前を出す坂本の腹を真が小突き、小さく咳ばらいをする。

 

「一学期終了祝いね。いいじゃない」

 

「さんせ―!ていうか、そういうことだったら玲央も誘ってみない?」

 

元気よく返事をした杏はそんなことを口にする。一応金城改心の打ち上げでもあるが、どのみち花火大会で人がごった返す中で怪盗関連の話をするわけでもなし。別に玲央が同伴していてもなんら問題は無い。

 

喜多川とはほとんど交流のない関係だけど、まぁ玲央の性格なら特に問題はないと思う。

 

仲間内でも特に異論は出ず、玲央も花火大会に誘うことになった。私とは言わずもがな、杏ともそれなりに交流があったようだし、最近は雨宮とも話す機会があった。そんなに気後れする理由は無いし、きっと来てくれるだろう。

 

「ところで竜司。試験結果はどうだったの?」

 

日程を決めたりして盛り上がっていた坂本に、ぴしゃりと冷水のように冷たい真の声がかかる。

 

「…やーまぁ、そこそこっすかね」

 

「リュージは赤だってよ」

 

「のぁっ…モルガナてめ!」

 

分かりやすく動揺した坂本をよそに、あっさりとモルガナが告げ口をする。試験前に真はあまり浮かれすぎるなと口を酸っぱくして言っていたらしく、完全にお説教モードに入ってしまった。

 

…うん。他の皆はもちろん蚊帳の外である。私はもちろん、今回は雨宮も杏も前回よりかなりいい成績を残していた。

 

そしてこの場に居ないもう一人も。

 

「そういえば、秋山さんの結果ってどうだったんだ?」

 

「うん。それはね」

 

私は件の人物にチャットで現在地を聞く。すると間髪入れずに返事が返ってきて、どうやら今渋谷駅につくところらしい。ちょうどいいので、そこで少し待っていてもらうことにして、私たちもそこへ向かった。

 

 

シーズンということもあって若者たちで溢れる渋谷駅前。そのど真ん中で、私はただでさえ暑苦しいのにとある人物に抱きつかれ身動きをとれずにいた。色々と苦痛である。

 

「ありがとう…!本当にありがとう綺羅ちゃあああん…!」

 

「うん。分かったからとりあえず離れて。人目だらけだから」

 

「やだ!」

 

「殴るか蹴る」

 

「やだ!」

 

「…」

 

さすがにここでいきなり暴れだすわけにもいかず、しばらく私は渋谷のど真ん中で玲央にされるがままにされていた。しかも、怪盗団のみんなも後ろで見てる中で。

 

「良かったな」

 

「うん…!雨宮君もね!」

 

「惜しくも二位だったが、悔いはない」

 

「やったね玲央!がんばった甲斐あったじゃん!」

 

「杏ちゃんもありがとう!全部綺羅ちゃんのおかげだよー!」

 

私越しに会話を続けるな。

 

…結果から言うと、玲央の今回の試験結果は学年10位という非常に優秀な結果となった。目標だった20位以内からかなりの余裕をもっての達成である。もちろん試験結果が発表された日にも同じように玲央には迫られたもので、その時に比べればいくらか締め付けは緩くなっているような気がしないでもない。

 

私は首に回された玲央の腕を優しく叩いて、「そろそろ離せ」と訴える。そうすると玲央は申し訳なさそうに眉をさげ、すごすごと後退する。

 

「あ、ごめんつい」

 

「いいけど…。それより玲央。月末の日曜日の予定は?」

 

「え?特にない、と思うけど」

 

「ここにいるメンツで花火大会に行こうかって話になってるんだけど、一緒に行かない?」

 

「玲央の目標達成祝いってことで!」

 

「杏ちゃん…綺羅ちゃん…!うん!行きたい!」

 

「おっけ!決まりだね!」

 

思った通り、快く承諾してくれた。それからは坂本や真ともあいさつを交わし、いつの間にか自然と輪に加われていた。この様子なら当日も問題なさそうだ。

 

「良かったな」

 

そんな玲央の様子を見ていた私の隣に立ち、雨宮が小さくつぶやいた。

 

それが、玲央が目標を達成できたことに対する言葉なのか、それとも別の意味なのかは分からなかった。わからなかったけど、私はとりあえず頷いておいた。

 

自分でもこの気持ちがなんなのか、はっきりとはわかりかねているけれど…“良かった”と思っていることは事実だったから。

 

 

 

 

 

 

おぼろげな世界が見える。

 

これはおそらく夢だろうが、そうは感じさせないほど鼓動が高鳴っているのを感じる。しかし光景はどこまでもぼやけていて、あたりが深い霧に覆われているかのよう。

 

分かることは、私は両ひざをついて地べたに座り込んでいるということ。

 

目の前に人影らしきものが揺らめいていること。

 

その人影の目は赤く輝いていること。

 

なぜかは分からないけど、私にとってはその人影がそこに居てはいけないものという認識であるらしく、何度も何故、どうして、と問いかけていた。

 

そして、その謎の人影は、涙を流していた。

 

私も泣いた。

 

それから後のことはよく分からなかった、水に垂れた血の様に、赤色が滲んで、にじんで、にじんで、染まって、そまって、そまっていく。

 

これは、なんだっけ?

 

 

「…」

 

目を覚ます。

 

何か、嫌な夢を見ていたような気がするが判然としない。なんにせよ気分が悪いし、妙に目がさえてしまっている。とりあえず手洗いにでも行こうか…そう思い布団から出た時、そこにあるはずのものが無いことに気付く。

 

あるというか、いるはずの人間が。

 

出かけているのか…スマホを見ると時刻は午前3時。いくら明日から夏休みとはいえ、こんな時間になんの用事だ。

 

少し疑問に思いながらも階段を降りて、少しぼーっとする。立ちすくんだまま、数瞬の間立ち眩みがして頭を無意識におさえていた。もしかしたら体調を崩す予兆かもしれない。

 

コーヒーでも淹れようかと思っていたが、ここは大人しく寝ておくことにした。

 

…それが間違いだったと知ることになるのは、もう少し先の話。

 

明日になっても帰らなかった雨宮の存在に気付いた、後の話だった。

 

 

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