オーバーロード~狼(以下略)~その他まとめ 作:ぶーく・ぶくぶく
/*/ カルネ・ダーシュ村 牧畜区画・朝 /*/
曇り空の下、牛の鳴き声が山々に反響していた。
木柵の中では、体格の良いオーガと人狼たちが、巨大な雌牛を押さえ込んでいる。
「おい、抑えろ! 脚を暴れさせるな!」
「うおっ、こいつ力強ぇな!」
ジョンは腰を落とし、両腕で牛の首を押さえつける。青白い毛皮に汗が滲み、額の毛が少し焦げた。
「……よし、動くなよ。やるなら一気にやれ!」
村の壮年の男が頷き、手に持った大きなペンチのような除角器を構える。
刃先が光を反射し、次の瞬間――
がきんっ。
乾いた金属音とともに、太い角が根元から切断された。
牛が一声、低く鳴いてのたうつ。だがすぐ、ジョンが頭を抑え込み、オーガが胴を押さえて動きを止めた。
「次っ! 焼き鏝!」
すかさず村の娘が鉄の棒を火桶から取り出す。先端が真っ赤に光っている。
それを切断面に押し当てると、じゅう、と音を立てて白煙が上がった。
焦げた毛と血の匂いが、牧場全体に広がる。
どこか香ばしく、たまらない匂いに??
「うぐっ……うまそうな匂いだなぁ……」
オーガの一人がごくりと唾を飲み、犬たちは尾を振って集まってくる。猫まで塀の上で鼻をひくつかせていた。
ジョンが呆れたように口を開く。
「おいおい、焼肉じゃねぇぞ。食うなら切った角にしろ」
村人たちは笑い声をあげ、次の牛が柵の奥から引き出された。
牧場の一角に漂う煙と笑い声は、どこか穏やかで、魔導国の平和な一日の一幕を思わせた。
/*/ 副料理長のバー /*/
グラスの中で、氷がかすかに鳴った。
ピッキーが無駄のない手つきでステアしたマティーニは、細長いカクテルグラスに滑らかに注がれ、最後に沈んだオリーブが、緑の瞳のように底からこちらを見上げている。
「どうぞ、ドライ・マティーニ。いつもの濃さでございます」
「サンキュ」
ジョンは指先でグラスをくるりと回し、立ち上るアルコールの香りを鼻で楽しんだ。
酔えない身体だと分かっていても、喉がこの"儀式"を覚えている。
横では、ルプスレギナが足を組み替えた。
深紅のチャイナドレスは、腰のあたりで深くスリットが入り、褐色の脚線美が椅子の上で揺れるたび、布がかすかに擦れる音がする。
「んふふ~。ねぇジョン様、どうっすか? この服、似合ってるっす?」
彼女はわざとらしく上体を捻り、背中の編み上げ紐を見せつけるように振り向く。
タイトな布地の下で、しなやかな筋肉が動くのが分かる。
「……うん、採点不能だな」
「え、低いってことっすか?」
「逆。点数振ったら他が全部霞むから、採点不能」
「お、のろけっすか~? ピッキーさーん、聞きました? 今ののろけっすよ~」
カウンターの向こうで、キノコ頭の副料理長が肩をすくめた。
「二人の世界に水を差す趣味はございません。店としては、見てるだけで酒が進むからありがたいです」
「ほら~、プロのお墨付きっすよ、ジョン様」
ルプスレギナの前には、色の淡いカクテルグラス。
ピッキーが彼女用に用意した、フルーツリキュールとライムを合わせた甘口の一杯だ。
「そっちはどうだ。甘いだけじゃねぇか?」
「いいんすよ、あたしは雰囲気と"気分"が酔えればそれで。
ジョン様の隣で飲んでるってだけで、もうベロンベロンっす」
「それはそれで問題発言だな」
軽口を交わしながらも、部屋は静かだった。
遠く、ロイヤルスイートの他の部屋から伝わってくる水音や、絨毯を踏むメイドたちの足音さえ、この一角には届かない。
ここだけが、ナザリックの喧騒から切り離された、小さな「夜」の箱庭だった。
「今日は珍しく静かっすねぇ。戦略会議も訓練も無しで、こんなふうに飲むなんて」
「たまにはな。常に全力疾走してると、足がもつれる」
ジョンはマティーニを傾け、その冷たさを舌で転がす。
気配を探る癖を意識的に鎮め、耳を澄ませば――聞こえるのは、隣の椅子で揺れるルプスのブレスレットの音だけだ。
「……落ち着かないっす?」
「ん?」
「何も起こらない夜。襲撃もトラブルも、世界の終わりもない。
ただ飲んで終わる夜っすよ?」
ルプスレギナの赤い瞳が、悪戯っぽく細められる。
「ジョン様、そういうの退屈って顔してる時、あるっすから」
「……そう見えるか?」
「見えるっすねぇ。あと、ちょっとだけ安心した顔もしてるっすけど」
言い当てられて、ジョンは苦笑した。
「ま、否定はしない。
"何も起きない"ってのは、平和って意味でもあるからな。
……こういう夜に隣にいてくれる奴がいるのは、嫌いじゃねぇよ」
「――あらぁ?」
ルプスレギナは一瞬きょとんとした後、頬を赤く染め、カウンターに突っ伏した。
「ピッキーさーん! 今の聞きました!? この人、さらっと爆弾発言するっす!」
「はいはい、店の備品を壊さなければ、何を爆破してもいいですよ」
ピッキーは乾いた声で返事をしつつ、新しいボトルを棚から出す。
ジョンは視線を横に流した。
チャイナドレスの袖口から覗くルプスの手。
その指先が、そっと彼の袖をつまんでいる。
――離したくない。
言葉にするには軽すぎて、しかし重すぎる感情を、
ジョンはマティーニと一緒に喉の奥へ押し込んだ。
「ルプ」
「はいっす?」
「そのドレス、気に入ったなら、普段用にも何着か作っとくか。
……オーバーオールの上からでも着られるように」
「え、なにその欲張り仕様。あ、でも良いかもっすね~。
今度はジョン様好みのデザイン、一緒に選んで欲しいっす」
「おう。……その代わり、採寸の時に変な悪戯すんなよ?」
「それは契約内容によるっすねぇ~」
ルプスレギナの笑い声が、グラスの氷と混じって弾ける。
ナザリックの地下深く、誰も知らない夜の一角で。
酒精の香りと、ささやかな幸福だけが、静かに満ちていった。