「おれは、お前たちのことが、分からない」
崩竜の撃退後に遭難したハンターが、凍土のモンスターと共に帰り道を歩むお話。

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それはある雪の日に見た夢のように

 

 

 満天の星が瞬いている。

 

 澄んで凍てつく空の下で、いつもであれば時が止まったかのような静寂を保つその大地は、今やそれそのものが蠢いているような重い轟きに包まれていた。

 波が打ち寄せては引いていくように、氷の大地の震えは大きくなったり小さくなったりを繰り返す。それは一時のものではなく、日が暮れてから途切れることなく続いている。

 ただ、その音の質までもが不変なわけではなかった。一番星が顔を出すころには威勢よく、激しく、圧倒するように。星空が広がる今は苛立ち、緩急があり、ときに怯むように。

 

 それは狩りの音だった。大きいものと小さいものの戦いの音だった。彼らの歴史で見てもそうそうないような、大きな規模で繰り広げられていた戦いだった。

 そんな大騒動もじきに終わりを迎える。その結果は、ここまで長引いているという時点である程度決まったものだったのかもしれない。

 

 かくして、ひとつの激闘が幕を閉じる。

 そして、ひとつの夢物語が幕を開ける。

 

 それは、信じることに少し勇気がいるかもしれない夢の話。

 語り継がれるべき物語の裏表紙に隠れているような。そんな逸話だ。

 

 

 

 

 

 短編:それはある雪の日に見た夢のように

 

 

 

 

 

 みしみし、と。

 それは肉が千切れていくというよりも、大木がへし折られていくような音だった。

 

 決定的な裂け目が入ってしまえば、あとは留まることなく一気に分かたれていく。

 この身の丈の何倍も大きなそれが、巨体の身じろぎについて来れぬように千切れていく様は、それだけで強く目を引くものがあった。

 巨竜が悲鳴を上げる。氷の地面に見たこともない量の血がぶちまけられる。極寒の地に投げ出されたそれが、白い湯気を立てるのがどこか生々しかった。

 さっきまでの苛立ちと殺意のこもった眼光は消え失せて、翼を持たぬその竜は、崩竜ウカムルバスは身悶えするように転がる。それだけで視界がぶれるほどに地面が揺れた。

 

 しかし、こちらの視線は外さない。油断なく、冷ややかに、かの竜を見つめ続ける。

 実際には、こちらの方が精神的にも肉体的にも余裕がない。今にも膝から崩れ落ちそうで、得物の太刀を握る手にも力が入らない。強走薬によるごまかしも限界に近い。

 それどころか、砕竜ブラキディオスの素材で作られたその太刀は、あまりの負荷に先端が折れていた。獄狼竜の甲殻を編んだ防具も損傷が激しく、頭部の面は砕けて素顔が晒されている。

 

 それでも、ひとつの名のなき村のハンターという身分にしては、よくやった方なのではないかと思う。

 かの竜を討伐してみせたという、フラヒヤ地方の生ける伝説には遠く及ばないだろうが、その足元になら届くかもしれない、というくらいの。

 何時間も執拗に狙い続け、武器の持つ爆破の力を借りて、死ぬほどの怪我を秘薬と回復薬でごまかしながら辿り着いた、巨竜の尻尾の切断だった。

 

 切断というよりも千切られたという表現が合うように思える、ずたずたな断面。けれど、これによってかの竜の姿勢制御や背後への牽制手段は失われたはずはずだ。

 あとは、この弱点を後続のハンターたちがうまく突いてくれれば、討伐の希望も見えてくるかもしれない。かの竜は古龍ではない。そうなら、その血は、命は正しく有限のはずだ。

 そのときは、この後に自分が終わらせるようなことは一切考えていなかった。せいぜいがギルドからの応援が辿り着くまでの時間稼ぎで、大方自分は死ぬだろう、と、そんなことを考えていた。

 

 だから、正直なことを言うと、しばらく状況を飲み込めなかった。

 ひび割れた顎をスコップのように用いて氷の地面に潜ったかの竜が、厚い氷を押し割りながら進む恐ろしい音が、遠ざかっていくのを感じた。

 深くまで潜って足元から突き上げてくる気かと神経を張り詰めさせたまま、しばらく動けなかった。

 ウカムルバスが逃げていったのだと気付くまで、その事実を飲み込むまで、ずっとその場で立ち尽くしていたのだ。

 

「撃退……?」

 

 自然と呟きが漏れる。全く現実味がなかった。この身に成せることとは思っていなかった。

 けれど、遠ざかる地響きの代わりに訪れた静けさと、白く色褪せていく血痕が、ウカムルバスがその場から撤退したらしいことを告げていた。深く息を吸ったとき、ようやく金縛りのような感覚が解けた。

 

 村に差し迫っていた脅威は撤退した。村とは反対方向の凍土の深奥へと、人がまだ立ち入ったことのない領域へと戻っていった。

 まだ油断はできないかもしれない。しかし、自分が避難までの時間を稼ぎ、遅かれ早かれ潰されてしまうはずだった村は、一時的にでも助かったのだ。

 

「は、は……」

 

 思わず口から声が漏れ出た。勝利の余韻の感覚はなかった。今はまだ、自分が生きてこの地に立っているという事実を受け入れていくので精いっぱいだった。

 ふらふらと歩き出す。まずは崖上に設営した簡易キャンプまで戻らなければ。食料も薬も、手持ちはほとんど尽きてしまっている。

 一応、帰りの分の備蓄は残してある。けれど、この身体で遠く離れた村まで戻るという任はかなり重い。怪我をしていない部位を探すのが難しいくらいだ。

 

 あれだけの戦いを経て五体満足でいられているだけましか、と思い直す。そのことを何よりも重視して立ち回ったからだとしても、幸運だと言えるだろう。

 腕や足の一本くらいは、それこそ、ふいに首から上や腹から下が防具ごと持っていかれても何もおかしくはないような、それだけの相手だったのだ。かの竜は。

 

 むしろ、気を付けるべきは帰りだと自分に言い聞かせる。

 あれだけの巨体が、あろうことが跳び上がってみせたのだ。そのときの振動は腰を砕くかのようだった。

 重ねて、あの大地を震撼させる大咆哮だ。一度だけ相対した轟竜ティガレックスのそれすら優に上回る、物理的な破壊力を持った雄叫びだった。そのときに鼓膜が破れたのか、片耳は音を拾うことができなくなっている。

 ロープや梯子を設置した往路が崩れて使えなくなっていても何もおかしくはない。しかもここは標高が高く、登山とは往々にして下山の方が怖いのだ。せっかくここで生き永らえたのなら、何とか無事に集落まで帰りつきたいが────

 

 どん、と地面が傾いた。

 

「!?」

 

 咄嗟に地面に手をつく。しかし、踏ん張りきれずにずるずると身体が滑っていく。

 周囲の地形を見た。それが自分の視界と平行して見えることに、ぞっとする恐怖を覚えた。

 自身が倒れてしまっただけかと思った。あるいは、足元の地面が崩れただけかと思った。それだけでもまずいが、それどころではない。

 雪崩、ではない。これは、氷山そのものが崩れようとしている。周囲の全てが巻き込まれて傾いているから、景色が平行に見えるのだ。

 

 決定的な何かが崩れていくような音が、立て続けに響き渡る。

 もともと、古い永久凍土が新しくできた氷に押し出されるようにしてできた地形だ。岩盤と比べると不安定で、柔軟性も低い。

 雪崩ならウカムルバスとの交戦中に何度も起こっていた。何度か巻き込まれかけたが、そのせいで周辺が更地になりそうな勢いだった。

 それなら、今起こっていることは自分やウカムルバスが立っていた土地そのもの、盤の崩壊だ。考えてみれば、あの巨体が暴れ回っていたのだ。亀裂が深いところまで進んでいても不思議ではなかったが、想像が追い付かなかった。

 

「くそっ……!」

 

 これはどうしようもない。これからぶち当たってくるだろうものは、雪ではなく氷の塊だ。

 軽業師のような身のこなしと優秀なスパイク靴があればまだ希望は見えるか。けれど、そのどちらも持ち合わせていない。後者の役割を果たす獄狼竜の脚防具は、ウカムルバスとの立ち回りで底がすり減ってしまっていた。

 

 どごん、と底が抜けるような浮遊感と共に、本格的な崩壊と沈下が始まった。平らな地面というものが失われ、立つことすら難しくなる。

 走馬灯など思い浮かべるような暇もなく。残された時間はあまりにも短く。

 

 その身は、白い塵と轟音に呑み込まれていった。

 

 

 

 

 

 ふつう、雪崩や土砂崩れといった現象は一過的なもので、そう長引くものではない。

 しかし、狩人が巻き込まれたそれは規模が桁違いで、崩壊が落ち着くまでに長い時間がかかった。

 本来なら多くのモンスターも犠牲になっていただろうが、それ以前にウカムルバスが訪れていたことでほとんど逃げ去ってしまっていた。それが不幸中の幸いと言えることだろうか。

 

 ぱらぱらと破片が落ちる音が聞こえるくらいにまで崩落が落ち着き、濛々と立ち込めていた白塵が晴れてきたころに、その外から一匹の竜が姿を現した。

 寒冷で生命の気配も薄れる環境に相反するような、背中からばちばちと赤黒い電光をみなぎらせている。周囲には赤い蛍火が火の粉のように踊っていた。

 ジンオウガ亜種。氷の大地を駆ける黒紅の狼だ。

 学者や他の竜たちがその姿を見れば、ウカムルバスが去り、所有権の失われたこの地帯を縄張りとして奪いに来たと思うだろう。既に龍光纏い状態になっているのも、これから先に縄張り争いが勃発する可能性を考えれば頷ける。

 しかし、それにしてはかの竜は落ち着いていた。まるで他の目的があって訪れたかのよう。そして、それは実際にその通りだった。

 素早く高所へ駆け登ると、崩れた大地を一通り見渡す。そして、星空を見上げるように、凍土全体に届かせるように、長く大きく遠吠えをした。

 

 オォー……という咆哮が凍て付いた空間を伝播する。それと同時に、かの竜の身体に纏わりついていた小さな羽虫たち、蝕龍蟲が一斉に飛び立った。

 わっと弾けて、薄く広がって飛んでいく蝕龍蟲。彼らは彼らなりに価値あるものを見つけ出し、群がり、共生する相手へそれを報告する。

 雪に埋もれた龍殺しの実は彼らの好物だった。氷壁から顔を出す血石もそうだ。特に血石の方は、氷山が基礎から崩れ落ちたことで新たに露出したのか収穫も多いようだった。

 蝕龍蟲が戻ってこれる範囲内で、獄狼竜はゆっくりと歩む。まるで、何か特別な知らせを待っているかのように。

 

 そうしてしばらく経った頃、数匹の蟲たちがいつもとは違う様子で彼の元へ戻ってきた。戸惑うような光と点滅。それは、かの竜の同族を見つけてしまったときと似ていた。

 顔を上げる。鋭く吠えて蟲たちを呼び戻し、再び龍光を纏った竜は、先ほどの報告をよこした蟲たちを先導させ、崩れた大地を走った。

 その様子は、見る人が見れば、まるで導蟲に導かれる新大陸の人々のようだと揶揄しただろう。

 

 そうして辿り着いた先には、かの竜の身の丈ほどもある氷柱が倒れていた。

 一際強い光を背中から迸らせた獄狼竜は、強引に氷柱を押しのけにかかる。共生する蝕龍蟲たちが力を貸している。

 みしみしと氷柱が動かされ、ついに持ち上げられた先に、かの竜の探し者はいた。

 

 それは一人の狩人だった。ところどころ砕けた防具を身に着けて、力なく横たわっている。

 その身体には数匹の蝕龍蟲が纏わりついている。獄狼竜が近づくと、やはり戸惑うように赤い光を瞬かせた。

 それも道理だ。かの竜は知っていた。彼が同族の素材を身に纏っていることを。それ故に、蝕龍蟲たちが反応するだろうことも。

 恐らく死んではいない。気を失っているだけだ。

 力尽きた同族に蝕龍蟲は集わない。小さな彼らが今、身を寄せていることがその証拠だ。しかし、放っておけばそのうち消える灯火であろうことは明らかだった。

 

 かの竜はしばらくの間、黙ってその姿を見ていた。

 かの竜の同族はそう多くない。この地にも油断ならない敵は多く、蝕龍蟲の奪い合いを避けるために広く縄張りを取る必要がある。

 ヒトという生き物が縄張りにしているらしい場所と、この狩人の行動範囲、そして、かの竜の記憶に照らし合わせれば、それは人でなくとも簡単に導き出せた。

 

 彼の身に着けている獄狼竜の素材は、かの竜の父親のものだ。

 自らの手で殺した生物の皮や爪、牙を身に纏う。これは、そういう種族だ。

 

 かの竜は賢かった。蟲との共存を選び、淘汰を逃れるにあたって、思考や情緒を発達させた種族だった。

 それこそ、恨みや仇といった、複雑だが強い感情も理解し得るのかもしれなかった。

 改めて、かの竜は目の前の狩人に向き合う。

 

 寒いのだろう。自分で環境から身を守ることすらできていない。どうしてここにいるかも分からないほどに弱い種族だ。

 このままでは朝を迎えることすらできないだろう。その前に凍え死んでいる。そしてそれは本来、かの竜が関与すべきことでも、それこそ気に掛ける必要もない。

 故意に殺す理由くらいは、あるのかもしれないが。

 

 寒さに耐えられなくなった者は死ぬ。この凍土の当たり前の摂理だ。その摂理に呑み込まれようとしている、ちっぽけな命がひとつ。

 その砕けた面から覗く素顔に、かの竜の牙が迫った。

 

 

 

 

 

 昔のことを思い出した。

 走馬灯、とはまた少し違うような。

 まだハンターになる前。ロックラックという、大砂漠に浮かぶ都市にいた頃の記憶だ。

 

「あなた、手先が器用なのね! 手に職つけてみたらどうかしら?」

 

 そうやって頭をわしゃわしゃと撫でてくる、姉の手はとてもごつごつとしていて。

 落陽草を用いた消臭玉で丹念に匂いを消したのだろう、それでも拭いきることのできない、僅かな血の匂いをよく覚えている。

 本来なら、本能的に怖さや警戒心を覚えるはずだ。けれど、いつしかそれは自分にとって安心する匂いになっていた。

 

 狩人の遺し子たち。世間からそう呼ばれる人々がいた。そう珍しい話でもなかったし、自分と姉がそれだった。

 ペアを組んだハンターがそのまま結婚し、子を授かったり里子を預かったりする。そしてその後すぐに狩りで命を落としたりすると、身寄りのない子どもだけが取り残されてしまうのだ。

 親の片方がハンターを辞めるか休むかして、子育てを担うなどの方針が理想かもしれない。しかし、ハンターという職業はその内容も報酬もかなり特殊で、不安定だ。

 口で言うのは簡単でも、いざ当事者になれば難しい問題で、だからこそ自分たちのような子どもが一定数いたのだろう。

 

 そんな理由で、自分に両親の記憶はない。代わりに、姉が世話を見てくれていた。

 親代わりの存在と言っても過言ではなかったが、家事はからっきしで、それが自分の仕事だった。

 姉は優秀なハンターだった。期待の新人と呼ばれていたそうだ。実際、二人で食べていけるだけの金は稼げていた。

 

 自分はどうしてか読みも書きも苦手で、同年代の人たちとは好みや関心が別の方向を向いていることが多かった。

 唯一得意というか、熱心に取り組んでいたのが木彫りや装飾品作りだった。だから姉は職人になることを提案してきたのだ。

 それともうひとつ、恐らく、ハンターへの道を歩んでほしくなかったのだと思う。

 父と母が死んだとき、姉の方は既に物心がついていた。その悲しみは本当に大きかっただろうし、それでも姉の年齢でまとまった金を稼ぐにはハンターになるしかなかったのだ。

 

「あなたは優しい性格をしてるから……あんまり荒っぽい仕事は向いてない、私はそう思う。……選ぶのは何でもいいけれど、できれば、あなただけはまともな道を歩いてほしい」

 

 ある日、不意に自分を抱きしめた姉が呟いた言葉も、未だに憶えている。

 当時は、その言葉の意味もよく分かっていなかったが。

 

 そして、そんな彼女もまた、帰らぬ人となった。

 

 砂塵が吹きすさぶ日だった。砂の海がうねり、街道の商人たちは屋内に避難しつつも店を開いて商機を窺う。撃龍船乗りと呼ばれる人々とハンターが集い、砂嵐に負けじと街の雰囲気を盛り上げる。

 ジエン・モーランの接近。大砂漠の宴と呼ばれる祭りであり、街の危機だった。

 かの龍が街へ乗り込んでくる前にしっかり撃退して、かつ素材を手に入れることができれば、多額の報酬と名声が約束される。まさに賭け事のような催しに、姉は志願していたのだ。

 ハンターランクはまだ足りていなかったはず。けれど、主戦力である撃龍船を支援する小型砂上船の乗組員として選ばれたのだと、嬉しそうに言っていた。

 きっと、自分を学舎か職人の見習いに行かせたかったのだろう。そのためには、どうしても前払いのための金が必要だった。

 

 そうして始まった宴の主演は、この街の住民がよく知る峯山龍ではなかった。

 その背びれと牙は紫水晶のように美しかったという。霊山龍と呼ばれるジエン・モーラン亜種は、原種のそれよりも激しく砂の海と空をかき混ぜた。

 結局、かなり危ういところまで迫られたが、なんとか撃退することはできたのだという。

 何人も死者が出たが、それ以上にかの龍から得られた水晶や牙の欠片の価値が高く、その日のロックラックはかなり盛り上がっていた。

 

 姉の乗っていた小型砂上船は、荒れ狂う流砂に耐えきれずに転覆した。

 砂の海に呑まれた乗組員たちは行方知れずのまま、帰ってくることはなかった。

 

 あのときに家を訪れたギルドの職員と、手渡された袋の金貨の重みが忘れられない。

 それが、お前の姉の命の価値だと、そう言われているような気がした。

 

 何日も家の中に引きこもり、ひとつの決断をして外に出た。

 真っすぐに歩いて向かった先は、ロックラックのハンター養成所だった。門の前で立っていた教官に、あのときの袋入りの金貨を手渡して、言った。

 

「おれを、ハンターにしてください」

 

 一年と少しの訓練を終えて。ハンターズギルドの斡旋で辺境の村の専属ハンターになれることを知ったとき、迷いなくそれに志願した。

 行先は、北の果てにある集落を選んだ。

 ロックラックの人々は嫌いではなかった。けれど、この砂混じりの風も、砂上船が走る砂の海も、何より思い出のあるあの家を、もう目にしたくなかったのだ。

 生きる理由は、特に見い出せていなかった。

 

 

 

 

 

 全身の痛みで目が覚めた。

 はじめは意識が混濁していたが、だんだんとこの痛みの原因を思い出していくにつれて、疑問が先立つようになっていた。

 つまり、あれだけのことがあってどうして生き残っているのかということだ。

 

 目にも傷が入ったのか目やにがひどく、目を開けるのも億劫だった。しかし、体から伝ってくるもぞもぞとした感触と音の正体が気になり、何とか目を開く。

 そこには、獄狼竜の防具と自分の素肌を這いまわる大量の蝕龍蟲の姿があった。

 

「うあ……」

 

 思わず呻き声をあげる。こんな光景を見たら誰だって驚くだろう。

 咄嗟に身じろぎをしかけたが、そうしようと筋肉に力が入った途端に痛みが突き抜け、それが冷静さを呼び戻す。

 傍から見れば酷い有様だろうが、今の痛みの質は怪我や筋疲労からのもので、この蟲たちがこの身を貪っているわけではなさそうだった。

 

 外は明るい。それが分かるだけでも幸運だ。氷塊に圧し潰されていても何もおかしくないどころか、そちらの方が確率としてはよほど高かっただろうに。

 ただ、そうすると今は朝か昼、半日近く気を失っていたということだ。まず凍死しているはずだが、そうならなかったのは、この蟲たちのおかげということだろうか。

 

 暖かい、というよりも痛い。彼らが寄り集まって静電気のようになった龍属性がばちばちと防具と皮膚を叩く。それによって熱が発されていたのだ。

 防具の獄狼竜の素材と生身の肉体に、宿主だとでも勘違いしたか。死なれると困るのでしがみついているのかもしれない。

 不器用な荒療治だが、確かな効果はあった。痛みに耐えながら立ち上がると、何匹かの蝕龍蟲は逃げていったが、大半は防具や体に張り付いたままだった。

 

「健気なもんだな……まあ、ありがとうよ」

 

 そう言ったつもりが、聞こえるのはひゅうひゅうという掠れ声ばかりだ。喉が潰れてしまっている。

 

 数年間はこの防具を着て狩りをしてきたが、蝕龍蟲が寄ってくるようなことはなかった。それがなぜ今になって。それが不可解だった。

 この蝕龍蟲たちも氷山の崩落で群生地を追われ、藁にも縋りたい心境なのかもしれない。そう思うことにした。

 残念ながらその藁はただの死に損ないで、蟲たちもやがてそれに気付いて離れていくだろうが、その間は世話になるとしよう。

 立ち上がって歩くという行動がなぜかできてしまっているのは、きっと彼らが力を与えてくれているからだ。防具越しに伝う熱量が活力となる。かの獄狼竜も、帯電しているときは同じような感覚なのかもしれない。

 

 ただ、悲観的な人間だからかもしれないが、それでも自分が生きて村に帰れるとは思えなかった。

 時間が経てば方角が分かる。村や見知った狩場があるだろう方向もだいたい察せられる。

 ただ、周囲の景色は一変してしまっていた。氷山一つでは終わらなかったのかもしれない。高所に登れば、砕けた大地が延々と続く光景を見ることになりそうだ。

 一見更地にも見えるかもしれないが、クレバスやシュルンドが無数に潜んでいるだろうことは間違いない。それも、いつもより不自然な構造でだ。

 

 ハンターはモンスター相手なら大物狩りをやってのけることもあるかもしれないが、地形に対しては人の範疇を出ることができない。この地を自分一人で突破していくのは、正直に言って難しい。

 それに。苦笑いを浮かべた。今モンスターに襲われたら、どうしようもない。歩くことはできても、走ることはできない。そんな身体の状態で、できることはとても限られている。

 

 せめて、捜索に来るだろう人々が見つけやすい場所で死ねたらいい。歩く動機はそれでいい。

 もう一度、自分の身体とそれに蠢く蝕龍蟲たちを見て。

 死に損ないというか、おとぎ話にいた黄泉の亡霊のような姿だな、と思った。

 

 

 

 

 

 悪い予感こそ当たるとはよく言ったもので、やはり氷山崩落の被害はかなり広範囲に及んでいるようだった。

 崩れ落ちたというより、潰れたと言った方がいいかもしれない。砕けた永久凍土は土砂崩れのように麓の地形を押し流してしまっている。

 寒さに震えながら道なき道を乗り越えていると、やはりというか、すぐに最初の関門が立ち塞がった。

 流されてきた氷の礫や岩が堰き止められたのか、天然の高い(せき)が行く手を塞いでいたのだ。

 

 できるだけ地面を歩けるように低い場所を選んで進んでいたので、周り道をするにも難儀しそうだ。

 普段なら、爆弾や武器を使って破壊してしまうという手もある。しかし、あまり好ましい行為ではない。大きな音が出るし、何が起こるかも分からない。

 人という生き物が現地のモンスターたちに注目されて、結果としていい思いをすることはまずない、というのがこの地で学んだ知恵だった。

 

 どうこう考えても仕方がない。普段の自分でも回り道を選ぶ状況だ。

 ため息をついて身を翻したそのとき、今歩いてきた方から足音のようなものが聞こえてきた。

 どっどっ、と、明らかな質量を感じさせつつも足取りは軽い。それだけで、何が訪れようとしているかは察せた。そもそも、明確な足音を立てる存在はこの凍土では限られているのだが。

 

 姿を隠せる場所は幸いすぐに見つかった。今だからこそと言えるが、人が隠れられる程度の岩や隙間なら簡単に見つけられる。

 足も引きずり気味で、しゃがむなどの動きをしただけで全身が軋むように痛んだが、耐えるしかない。今の自分にできる限りの速さで横壁の隙間に滑り込む。

 相変わらず身体にひっついたままの蝕龍蟲に、今だけは飛んでいくなよと念じておいた。

 

 その数秒後、自分が苦労して乗り越えた段差をひょいと越えて現れたのは、氷雪を纏う土砂竜、ボルボロス亜種だ。

 二本足で立ち、頭でっかちで冠のような頭殻を被るその姿は原種と瓜二つだ。ただ、纏うものの違いでここまで印象が変わるのかと、ロックラックの狩人たちは驚くかもしれない。

 

 何を思ってここに来たのか知るために顔くらいは隙間から出したいものだが、今の自分では手も足も出ないだろうことは十分に分かる。大人しく身を潜めているしかない。

 ボルボロス亜種は(せき)のところで立ち止まると、辺りをうろつくように歩き回った。そして再び立ち止まる。

 その直後、ピーッと汽笛のような音が響いた。その後に起こるだろうことを察して振動に耐える体勢を取る。恐らくやるのではないかと思っていたのだ。

 

 あの音はボルボロスとやり合った者なら否が応でも覚える。かの竜の基本にして最大威力の技である突進の予備動作。大きく息をするように、あの頭殻から蒸気が噴きあがる音だ。

 一秒と経たず、地面を強く擦過する音がしたかと思えば、間を置かずして盛大な衝突音が響き渡った。

 次いで、がらがらと壁が崩れていく音が聞こえる。小石や氷の破片がころころとこちらまで転がってきた。

 あれだけの衝突を起こしてもかの竜は特に体をいたわるようなこともせず、また何事もなかったかのように軽快な足音を響かせて歩き去っていく。

 

 しばらくその場で待って、十分に足音が遠ざかってから顔を出してみれば、そこには見事に突き崩された堰とボルボロス亜種が通っていった跡があった。

 あれを壊すには大樽爆弾が二つは必要だろう。それに並び立つ破壊力をこうもあっさりと繰り出されると、普段自分が相手しているものの力の差が怖くなってくる。流石は氷砕竜と言ったところだろうか。

 

 ともかく、これで障害は突破された。かの竜が歩いて行った跡をなぞれば、なんとか自分でも越えていけそうだ。

 その後に鉢合わせないことを祈るばかりだが、歩くのはあちらの方がはるかに速い。遭遇する可能性は低いとみていいだろう。

 しばらく立ち止まっていると厳しい寒さが手足の末端を蝕んでくる。しもやけの痛みに顔を顰めながら、小山の斜面を登り始めた。

 

 

 

 

 

 砂山が長い裾野を広げるように、なだらかな下り坂が続いた。

 途中で疎らに草やコケが生えている場所をいくつか見つけて、そこから小ぶりのアオキノコと竜茸を採って直に食べた。直食いによって消化にかける負担と得られる栄養とでは得かどうかも分からないが、何かを食べたという感触が欲しかった。

 ホットドリンクの効果などとっくに失われているし、そもそもあれに凍傷を防ぐ効果はない。あとは自分の体力と、運との戦いだ。

 

 そして、目の前に再び難題が現れる。ひとつは先ほどの氷砕竜のときと同じで自然由来のもの。もうひとつは、今まさに繰り広げられている命の危機だ。

 凍土で恐れられる飛竜種のひとつ、氷牙竜ベリオロスがゆっくりと歩み寄ってきていた。

 

「あ……」

 

 思わず声が漏れた。反射的に背中に担いだ太刀を手に取ろうとして、その手が空を切ったことに気が付いたのだ。

 それと共に思い出した。あの崩落に巻き込まれたとき、自分だけが運よく圧し潰されないなんて、そんなわけがなかった。

 迫りくる氷壁に、落石に。がむしゃらに砕岩刀を振るったのだ。塗りつけられた粘菌は間をおいて爆発を起こし、すんでのところで圧殺を防いで、すぐに転げ落ちて、同じことを何度も繰り返した。

 その末に至近距離の爆発を受けて、頭と体を強く岩に打ち付け、気を失ってしまった。そのときに砕岩刀を手放してしまったのだ。

 

 ここまで、武器すら持たずに歩んできたのだ、自分は。今の今まで気付いていなかった。

 ここでやっと、自分の心身の状態が思っていたよりも悪いことに気付いた。

 ハンターとして、何があっても手放してはいけないものの存在を忘れるということ、それを担ぐ重さが失われたことに気付かないというのは、そういうことだ。

 ぐっと、体の重みが増したような気がした。

 

 背後には氷水が流れる川があった。ひょいと飛び越せる川幅ではなく、入れば自分の背丈くらいは沈むだろう深さがあった。

 この凍土で川に浸かるのはほぼ自殺行為だ。半身までつかろうものなら、あっという間に下半身は冷え切って動かぬ彫像と化す。体力の奪われ方も尋常ではない。

 向こう岸まで飛び越せるか、あるいは橋のような地形はないかと川の上流側に向けて歩いていたところを、頭上にふっと影が覆った。それが、今相対しているベリオロスだ。

 

 まさに挟み撃ちの構図だった。気にせず飛び去ってくれという願いは叶うことなく、わざわざ地上に降り立ってこうして向き合っている。

 状況としては詰みに近い。自分を追い払うことが目的なら、目の前の川に突き落としてしまえばいい話だ。そのための攻撃を、凌ぐ手段は自分にはない。

 

 生き足掻こうとは思っていないつもりでも、こうして身構えてしまうのは、職業病と言えるものなのだろうか。

 いや、どちらかといえば見栄を張っているというか、使命感に近いものかもしれないな、と思った。

 

 凍土の捕食者たちを相手にして、無策に背は向けられない。

 たとえそれが、ハンターとしては愚かと断ぜられることだったとしても。

 本当に、膝が震えるほどに怖くてたまらなかったとしても。

 

 牽制するように尻尾が振るわれる。こちらの動きをさらに封じるように。

 しかし、その様子にどこか違和感を覚えた。相手は歴戦の捕食者だ。こちらの動きの鈍さから、そのようなことはせずとも簡単に仕留められることは分かるはずなのに、慎重すぎる気がする。

 眉を顰めたそのとき、ベリオロスが大きく首をもたげた。それを見てすぐに、歯を食いしばって川沿いに走る。走ろうとする。

 あれはブレスの予備動作だ。獲物や敵対する相手の足を止めるべく、着弾すると広く渦巻くようにして拡散する。掠るだけでも真っ白な氷雪が纏わりついてくる。

 無駄な足掻きだと思った。あのブレスは出が早い。この一歩が踏み出されるより前か後か、かの竜の口から吐き出されたそれはこの身を縫い留めるか、あるいは吹き飛ばすだろう。

 

 それでも、全身の痛みを押してでもこの脚を動かすのは、先に語った見栄のためか、それとも、この命を諦めているという自分の想いを否定するものなのか。分からなかった。

 そして、間もなく浴びると思っていた暴風も、来ることはなかった。

 

 二歩、三歩とつんのめるようにして歩を進め、踏ん張れずに倒れ込む。数が減り始めていた蝕龍蟲たちがまた数匹、逃げるように飛んで行った。

 咳き込みながら顔を上げてかの竜の様子を窺おうとしたそのときに、ソレは放たれた。自分が思っていたよりも、何拍も長く力が溜め込まれていた。

 吐き出されたソレが川岸に着弾すると同時に。

 

 どぱっ、と。大波が砕けるように。一瞬でその場に氷の大輪が咲いた。

 目を見張る。あんなブレスは見たことが────いや、ある。一度だけある。

 

 目印は、かの竜の牙だ。琥珀色であるはずの。

 しかし、それを見ようとしたときには、ベリオロスは再び上空へと飛び去っていた。

 みるみるうちに遠くなっていくその姿に、きらきらと細かな氷の針が舞っているように見えた。

 

「…………」

 

 あれは、一昔前に自分が惨敗した相手だ。

 そのブレスは他の多くの同族のそれと異なる。風を纏わず、より物質的な氷を表出させるようになり、手掴みされるような冷気を纏う。

 そのブレスが通ってささくれだった地面に足を踏み入れた途端、腰のあたりまで冷気が這い上がってきて、氷の泥沼に深く浸かったかのように身体の自由が効かなくなる。

 そうなってしまったが最後、正確無比な飛び掛かりによって地面に叩きつけられるか、あの先ほどのブレスによって氷の彫像と化すかのどちらかとなる。どちらにせよ、そうなった先に生き残ることは難しいだろう。

 

 実際、かつての自分はその質の異なるブレスに対処しきれず、その竜の動きにも翻弄され、罠や奇襲は全て破られて、最終的にスパイク状の棘が生える翼で地面に組み敷かれた。

 そのときに垣間見た、ベリオロスの特徴であるあの牙。他の個体であれば美しい琥珀色であるはずのそれは、あの竜に限っては真っ白く染め上げられていたのだ。

 故に、あの竜のことは氷刃と呼んでいた。

 

 あのとき、間違いなく自分を仕留められたはずなのに、そうせずに去っていったのは、人という生き物の厄介さを知っているからではないかと思っていた。

 自分が氷刃によって命を落として、狩猟依頼が回り、訪れるハンターを退ければ退けるほど、ハンターの社会における氷刃の価値は上がっていく。

 人が来れないほどの奥地へ行けば狩られることはないだろうが、ひどく面倒であることに変わりはない。あの老練とした強かさから、そのことを察していたのではないかと思ったのだ。

 

 もしそれがある程度正しいとすれば、今回もそれなのだろうか。少なくとも、明らかにこちらの命を狙う動きをしていなかったのは確かだ。

 氷刃が放ったブレスの跡を見た。

 どうやら川の水にも着弾していたらしい。一気に質量ある氷が出現したように見えたのはそういうことだ。

 川の水という実体を得たためか、その氷の花はなかなか砕けず、融けもしなかった。それどころか、人ひとり程度なら上に載っても亀裂すら入らなさそうな頑丈さだ。

 その花の先端は、川の対岸に届いている。それを見てふっと胸中に宿った予感を、振り払うようにして首を振った。

 

 ここから上流側や下流側を見ても、飛び越えられるくらい川幅がせまくなっているようなところは見当たらないし、川が地下に流れ込んでいく気配もない。

 使えそうなものは何でも使うまでだ。滑らないように気を付けながら、その氷の花びらに手と足をかけた。冷え切った氷に触れて手や足の先が鋭い痛みを発するが、顔を顰めながら我慢する。

 今はただ、黙々と前へ進む。少しでも村に近づけるように。

 その意気でいなければ、すぐにでも膝を付いてしまいそうだった。

 

 

 

 

 

 大分日が傾いて、辺りが薄暗くなってきたころ、急に空模様が悪くなり始めた。

 薄く広がっていた雲がみるみるうちに厚さを増し、色合いも暗いものへ変わっていく。地上でも少し風が出始めた。

 典型的な吹雪の兆しだ。どこかで風雪を凌がなければ、あっという間に雪に包まれて動けなくなってしまう。

 

 ただ、辺りを見渡しても都合のいい洞窟のようなものは見当たらなかった。もしあったとしても、あの激震の後だ。いつ崩落してもおかしくない天井に、怯えて過ごすことになるだろう。

 だんだんと強くなってくる風が傷跡にきつく染みる。感覚がなくなってきた身体を抱くようにして歩いて、日没と降雪によって辺りが何も見えなくなりかけていたそのとき、ようやく身を隠せそうな岩陰を見つけた。

 

 もう、何もせずに座り込んでしまいたかった。しかし、そうしたが最後、深く眠ってしまうだろうことは間違いない。そして、吹き込んでくる風を一身に受けて、そのまま目覚めない未来がより近づいてしまう。

 今の時点で、明日を迎えられない可能性は十分にあるが。

 脂汗を滲ませながら苦笑する。この行程全てが賭け事か何かのようだ。

 

 周囲に積もった雪を集めて、岩陰の入り口を狭めるように押し固めていく。

 凍傷になりかけているのか、手の指先の痛みは限界に近くなっていて、作業は思うように進まなかった。

 足や腕を使って、何とかほとんどの入り口を塞いだときには、かなり風が強くなっていた。膝を付いて、這うようにして岩陰の奥の方へと移動する。

 火打石は持っていたが、寒冷すぎて木々が生えていないこの辺りでは燃やせるものがない。今までに残った僅かな蝕龍蟲を頼りにして、吹雪が止むのを待つしかないようだ。

 

 蝕龍蟲も疲れてきたのか、時おり瞬いていた龍光も弱々しいものになっている。これは、極力眠ってはいけないかもしれない。

 そう思うと、急に締め付けられるような寂しさが襲ってきた。怖さ、虚しさとも言えるかもしれない。言葉では表しづらい感情だ。

 心身共に疲れ切って、寒さで弱り切っていて、こうして夜の暗闇に囚われて、感情の制御が効きにくくなっているのだろう。独りでいることには慣れているはずなのに、情けない話だった。

 

 はぁぁ、と震えを押し隠せないため息をついたそのとき、ずん、と物音がして雪の壁の一部が崩され、驚いて顔を上げた。

 雪の壁から顔を出したのは、白く厳つい二本の角、いや牙か。ごふごふというくぐもった呼吸音が聞こえてくる。ためらいなくその牙の主は中に入ってきた。

 大猪ドスファンゴ。厳寒の地をたくましく生きる牙獣種だ。どうやらファンゴを数頭連れているらしく、背後からいくつか足音が聞こえる。

 大猪の視線が向けられているのを察したが、今は目を合わせられない。立ち向かう気があると思われかねないからだ。

 

 ドスファンゴは縄張り意識が強く、追い出されてしまうかもしれないと身構えていた。しかし、すぐに視線は外され、外にいたファンゴを中へと入れた。一人では広かった岩陰は、逆に押し詰め状態と化してしまった。

 この身を囲うようにして、ファンゴたちは互いの牙が邪魔にならないようにしながら寝そべる。

 それは不思議な感覚だった。この生物は脅威にはなり得ないということを本能的に悟ったのかもしれないし、吹雪のような緊急時には別種でも争わずにひとつの空間を共有するという話を聞いたこともある。

 どちらにせよ、ありがたい話であることに違いはない。

 

 身を預けると少しばかり身じろぎされたが、それ以上のことはされなかった。ごわごわとした毛が皮膚に刺さって痛かったが、それよりもその体温がありがたかった。いつもなら顔を顰めるくらいきつい獣臭さも、今はどこかほっとする気がする。

 手足の末端に血が通い始めたのか、凍傷による疼痛はむしろ酷くなっている。しかし、まだ幸せと言える痛みだった。組織が死んで腐っていく、指先を何本か切断しなければならなくなった仕事仲間のあの表情に比べれば、贅沢な苦しみだ。

 

 悪運が強いのか何なのか、もしかするとこの夜も越えられるかもしれない。むしろこの吹雪には感謝すべきなのか。

 隣に別の命があるだけで、独りの寂しさはこうも薄れる。そんな都合のいい感性を心のどこかで虐げながら、己の瞼はゆっくりと落ちていった。

 

 

 

 

 

 また、昔のことを思い出していた。

 大砂漠の街ロックラックを離れ、凍土と呼ばれる地方の中でも辺境の、すぐ傍に竜たちの領域が接しているような寒村に移り住んで、六年。

 慣れない土地で何度も死ぬような目に遭いながら、ようやく専属ハンターらしく振る舞えるようになってきたころの記憶だ。

 

「それじゃ、積年の目標の狩猟達成を祝して、乾杯!」

「乾杯」

 

 そんな簡単な祝辞と共に、木製のジョッキがごつんとぶつけられた。

 肉と酒、そして煙草の匂い。粗雑ながら頑丈なテーブルや椅子が並べられ、給仕が忙しそうにその間を縫っていく。村で唯一の酒場はそれなりの賑わいを見せていた。

 今はちょうど日が暮れて、働きに出てきた村人が帰ってくる頃合いだ。

 農業や採掘、林業にポポの飼育など、村人たちの仕事は多岐に渡る。彼らはここか、あるいは家族と共に飯を食べ、温泉で汗を流し、日々の疲れを癒していく。

 ハンターを生業とする者たちは、その村の日常を間借りさせてもらっている立場と言ってもいいのかもしれなかった。

 

「轟竜ティガレックスか……俺は見たことないけど、街の方じゃ絶対強者ってんで恐れられてんだろ。よく生きて帰ってこれたな」

「先達のハンターたちのおかげだ。罠肉にひっかかりやすいと知れたから、奇襲がうまくいった。怒らせて突進を壁に突っ込ませる戦術も、咆哮への対策も、そうだ」

「まあまあ、今くらいは素直に喜んどこうぜ。浮かれすぎるのはよくないが、ほっとしたんだったらそれを出さずにいるのもよくない。だろ?」

 

 そう言われて、彼の勘の鋭さには敵わないと顔の表情を緩める。

 強大な命との駆け引きだ。それを生き延びたとなれば、誰だって安堵する。そういうときにはしっかりと緊張を解いておくべき、というのが彼の言葉だった。

 笑顔が下手な自分の口角が僅かに上がったのを見て、彼はよし、とでも言うように笑ってみせた。

 

「そうこなくっちゃな。今日が過ぎれば次に会うのはひと月かそこら後だろ。しっかり祝っておかにゃしこりが残るってもんよ」

 

 彼はそう言ってジョッキを呷り、普段はなかなか食べられない肉を喰らう。

 実際、それはその通りだった。ここは自分が専属でついている村ではない。この地域に散らばる集落の中継地的な役割を担った、比較的大きな村だ。

 自分がいるのはその散らばりの中の、末端とも言える集落。本来はハンターが派遣される規模ではないが、狩猟区が近く、モンスターが頻出することからハンターの駐在が許されていた。

 

 あの集落では、できないことが数多くある。

 貨幣は流通しているが、集会場のようなものはない。行商に頼まなければ手に入らない品物や薬もあるし、何より、ハンターの武具を加工できるだけの施設がない。

 ハンター個人でできる整備にも限界がある。そのため、こうして大きな村に定期的に出向いて装備を作ったり直してもらう必要があった。

 

 目の前にいる彼は、自分が初めて凍土に来たときから世話を焼いてくれたハンターだ。

 駆け出しであの集落に行くのか、とえらく心配し、雪原の歩き方から気を付けるべきモンスターの生態まで、いろいろと教えてくれた。

 こうして酒が飲めるようになるまで互いにハンターを続けられているのは、とても幸運なことなのだと。この地で過ごしていくうちにそれがよく分かった。

 

 何気ない雑談を交わしながら運ばれている料理を平らげていくうち、ふと思いついたかのように彼が呟いた。

 

「そう言えばあんた、クエストボードの右上の方に貼られてた張り紙は見たか?」

「いや」

「そうか、いや、別に後で見りゃいい。あれだ、新大陸古龍調査団の募集だよ。名前は聞いたことあるだろ」

「…………」

 

 かつて、砂の街にいた頃にその名前を聞いたことがあったような気がする。

 古龍渡りという、人にとっての災いの向かう先。おとぎ話の五匹の竜の話でも存在を示唆されていたという新大陸。人がまだ足を踏み入れていないらしいそこへ、調査に赴く組織をそう呼んでいるらしい。

 

「随分と突拍子ない話かもしらんが……あんたなら、行ってみるのもいいんじゃないかと思ってな」

「……おれが?」

「ああ。……いや、別にあんたが必要ないってわけじゃないんだ。むしろ俺たちがなかなか行けない場所を見張ってくれてありがたいと常々思ってる。でも普段のあんたを見てると、ひょっとしたらそんな思い切った道もありなんじゃないかと思ったのさ」

 

 酒が回り始めたのか、頬を赤くしながら彼は言った。

 

「あんたは強い。もうこの地域じゃ一、二位くらいなんじゃねかな。強いモンスターと渡り合えることがハンターの全てじゃないが、そうでなきゃ立ち行かないこともある。たぶん、調査団ってのはその類だろ」

 

 彼の言う通り、ここ数年で大型モンスターを相手取る機会が増えた。

 こちらの手に負えないと他の集落から頼まれたり、息を潜めて過ぎ去るのを待つしかなかった状況に介入したりと、より踏み込んだ選択ができるようになってきている。

 この地域では、ドスバギィを狩ることができて一人前、ベリオロスを狩れるようになるとかなりの実力者という認識がある。目の前にいる彼がちょうどそれくらいの腕前だった。

 その指標で言うなら、確かに、自分は実績を上げている方なのかもしれない。

 

「ティガレックスがまた来ないとも限らないが、あんたがあの集落に呼ばれた理由の一番が、いつかその竜を狩猟することだったはずだ。状況が落ち着いた今なら、旅立ったとしても後腐れはない」

「待ってくれ。そもそも、そんなに調査団を薦める理由が分からない。古龍だってそんなに知っているわけじゃない。ハンターとしての実力以外で、なにか理由があるのか……?」

「んー……そうだな。そこから話しておくべきだったな。すまん。そもそも、俺の勘違いかもしれんわけだしな」

 

 そう言うと、彼は少しだけ視線を落とした。気まずくなっているというよりも、言葉を探しているような様子だ。

 彼は仲間を利用したり陥れたりするような人ではない。それは分かっていたから、あまり雰囲気を固くせずに次の言葉を待った。

 

「あんたは、なんというか、本当に遠くへ行ってしまいたいんじゃないかと思ってさ。気持ちの部分でも、たぶん」

「…………」

「あんたの過去は憶えてる。よく話してくれたよ。それで、あんたがあんな僻地に行ったのも、たまに思いつめたような顔するのも、合点がいった。……まだしんどいんだろ。それなら、いっそのこと本当に、戻ってこれないくらい遠くへ行ってみれば気が楽なんじゃないかと思ってな」

 

 彼のその言葉を聞いて、なるほど、と思った。確かにそれは魅力的かもしれない、とも。

 そんな風に考えている時点で、気持ちの面ではロックラックを出たときから何ら変わっていないのだろう。

 

「新大陸には下地の社会がねえ。人がいなかったんだから当たり前よな。そんな中、集団で生きてくのはまあ、目が回るくらい大変だろうことは想像に難くない。心の余裕がないってわけじゃなく、暗い気持ちに向き合ってる暇もないって人が集まってんじゃないか。俺はそう思うんだよ」

 

 だから、自分のような人にこそ調査団は向いているのではないかと。それは組織のためというよりも、他ならない自分自身のために。

 自身を赦すことができなくとも、それそのものを考えないという手段で心を救うことはできないかと。

 そんな理由から、彼は新大陸古龍調査団の話を持ち掛けたのだ。

 

 少し、考えさせられる。

 何の冗談だと笑って返せるものではなかった。筋の通った理由だ。長年の不安要素だったティガレックスを狩猟した今、この張り紙があることに因果を感じてしまう程に。

 いささか自分勝手すぎるかもしれない。けれど、姉の願いを裏切ってハンターになった自分は、もうどうとでもなれと思って凍土に飛び込んだ自分は、何の皮肉かハンターとして生き延び、実力を得てしまった。

 ともすればそれは、調査団に入るための審査を、実績で突破してしまえるかもしれないと勘繰れてしまう。

 

 少しだけ苦笑した。こんな何気ない飲みの場で考えていいような事じゃない。持ち帰って家でじっくり考えたいが、そうすると次にここへ来るのはひと月かふた月先だ。そのときには張り紙はなくなってしまっているかもしれない。

 黙って返事を待っている彼が首を傾げた。また難しく考えすぎているのかもしれないと、彼の表情を見て思った。

 

「…………いや、おれはやっぱりここにいる」

「そうか。それならそれでいいのさ。変なこと言って悪かったな」

「いいや。むしろ今で良かった。この話をしないであの張り紙を見たら、クエストボードの前でずっと立ち尽くしてたかもしれない」

「ははっ、そうか。それならいっか。……無粋かもしれんが、最後に理由を聞かせてもらってもいいか?」

 

 店の人の出入りはまばらになり、外はとっぷりと暗くなっていた。ここを出入りするハンターのために、この店に閉店時間というものはないが、飲みを終えるにはいい頃合いだろう。

 自分もだいぶ酒が回って、頬が熱くなっているのを自覚しながら、言葉を選んだ。

 

「……確かに、新しい環境に身を置けば、しばらくは忘れられるのかもしれない。こうして引きこもっていたって、独りよがりになっていくだけかもしれない。けど」

 

 集落の人々が思い浮かぶ。常に物資不足で、催し事もほとんどなく、厳しい寒さに耐えながら支え合って生きている皆のことを。

 閉じた村だと思われがちだが、実のところはその逆だ。

 別の地域で村八分に遭って逃げてきた家族もいれば、何かの事情があって表社会に顔を出せなくなった人もいる。ともすれば自分のように命を捨てに来たような人もいた。

 

 あの地は、そういった人々の最後の拠り所だ。だから、自分が来たときも特別扱いされることはなく、良くも悪くもいつも通りで、少し戸惑っていた。

 それでも、年を重ねるにつれて、狩りに行ったあとに家の前に置いてある野菜や暖炉用の薪に、温かみを感じられるようになったのだ。

 

「おれは、ひとつのことを何年間も考え続けることが、あまり悪いことだとは思えない」

 

 それは、この凍土に降り積もる雪が、押し固められ、永久凍土の一部となり、ほんの少しずつ押し出されていっては、やがて融けて水に戻っていくように。

 ここでの生活が、待ち続けることの怖さと、愛しさを教えてくれた。

 

「それに、新大陸まで行かずとも、ハンターにとって凍土はまだ知らないことばかりだ。そうだろう?」

 

 人の領域の外へと出ること。その境界すら曖昧なものかもしれないが、それだけで知らないこと、知るべきことは一気に増えてくる。

 バギィたちの群れと縄張りはどの辺りで区切られているのか。今自分が立っている場所はどんな竜の縄張りか。痕跡から情勢を把握できないか。この竜を狩猟してしまうことによって周辺に影響はあるか。あるとすれば、その影響はどの程度大きいのか。自分たちにとっても重要な資源であるポポやガウシカは、どのような移動をしているのか……。挙げていけばきりがない。

 寒さによる滞在時間の制限があるのがもどかしい。凍土という地方一つをとっても、人ひとりの身ではとても足りなかった。

 

 そう答えると、彼はくつくつと笑い出して頭を掻いた。

 

「そうだった。あんたは強いモンスターをいくつも狩ってるが、それ以上に狩らないハンターだし、何よりもとは好奇心いっぱいで大真面目だってことを忘れてたよ」

「そうでもないと思うが……まあ、一言で言えば、凍土が好きなのかもしれない」

「ごもっともだな、本当に。たぶん、あんたはどこに行ったってその狩場のことが好きになると思うぜ。たまたまそれが凍土だったってことだ。俺たちにとっちゃ、ありがたいことだな」

 

 好きか嫌いかとか、そんな見方をしたことがない。ただただ、生活してくための場所だ。去り際に、彼はそう言っていた。

 彼は自分とは違い、凍土に生まれて凍土に育った。そのままハンターになったものだから、リオレウスやラギアクルス、それどころかドスジャギィやロアルドロスといった定番の竜も見たことがないのだという。

 

 ハンターになりたてですぐにここに来た自分も人のことは言えないが、そういうハンターもいる。いや、むしろ多いのかもしれない。

 そういった人物は排他的だったり強いこだわりを持っていたりするものだが、彼はそうではなかった。それだけで、自分にはもったいないような人だ。

 

 六年前の自分は、未来の自分がこうなると考えていただろうか。いや、きっと考えもしていないだろう。どこかであえなく死ぬ未来しか見えていなかったはずだ。

 変わりないものもあれば、拗らせたものもあり、解けてきたものもある。

 未だに、指南書や調合書などの本を読むたびに、根気よく読み書きを教えてくれた姉のことを思い出して苦しくなる。

 これはもう一生付き合っていくものなのか、変わり得るものなのかも分からない。

 

 何かを、待つこと。心を留めること。考えることを止めないこと。

 雪がちらつく夜の通りを、落ちていく雪を目で追いながら歩いていった。

 

 

 

 

 

 にゃー。

 

 肌に染み入るような寒さと、どこか気の抜ける鳴き声で目が覚めた。

 薄く目を開ける。先日よりは寝起きの意識ははっきりしている。ここがどこであるかも、どのようにして眠ったかも思い出せた。

 ファンゴたちは先に起きて出て行ってしまったのか、僅かな地面の温かみだけを残して姿を消している。急に寒気を感じたのはそのせいだろう。

 

 にゃー。

 

 そして、代わりに訪れたものたちが、どうやら二匹。

 人の腰ほどの身長に、しなやかな体躯。一匹は黒色の毛色で口元をバンダナで隠し、もう一匹は白と茶色が混じった毛色をしている。

 野生のメラルーとアイルーだ。光ものや小物などを狙って死体をあさりに来た、という具合だろう。

 

「……あいにくだが、生きてるぞ。それに、めぼしいものは何もない」

 

 口を開くと、自分でも驚くほどに低い声が出た。別に怒っているわけではなく、喉の調子がまだ悪いようだ。

 その声によほど驚いたのか、防具をつついたり背中を覗き込もうとしていたメラルーたちは、跳び上がって慌てて走って逃げてしまった。

 

 そこまで驚かすつもりはなかったのに、と少し落ち込む。これでも、先日よりはだいぶ声が声として出るようになっていたのだ。

 それに、もし人の言葉が通じることがあれば、何か話くらいはできたかもしれない。

 ただ、あの反応を見る限り、かなり望み薄だろう。ここは人里から遠く離れている。人の社会に触れる機会はまずないだろうから、自分のことは物珍しい生き物くらいにしか思っていないかもしれない。

 

 身体は……まだ動いた。なかなかにしぶといものだ。この夜を越えることができたのは、ファンゴたちに因るところが大部分だろうが。

 辺りを見渡すと、傍に簡素な作りのポーチと木の棒が転がっていることに気付いた。木の棒の先端には竜の鋭牙が括りつけられている。

 アイルーとメラルーが落としていったのだろう。彼らは慌て者が多いのか、こういう落とし物をしていくことがよくある。

 

 ポーチの中身を見ると、やはりがらくたばかりが入っている、ように思える。しかし、そんな中にも分かりやすく価値のあるものがあった。保存食だ。

 それは木の皮の包みに包まれていた。少し萎びた氷樹リンゴと魚の干物、団子のようなものまで入っている。

 横領となってしまうが、飢えには勝てない。全て食べさせてもらうことにした。

 アイルーと人の味覚は、当然のように違う。おいしいと感じることはなかったが、何かを食べられるというだけでありがたい。しっかりと噛んで、消化させやすくして、飲み込む。

 

 お椀の形のがらくたに雪を乗せ、ポーチに火打石を打って燃やして、雪を融かして水を飲む。

 メラルーには恨まれてしまうなと苦笑いした。なかなか火のつく素材ではなかろうが、遠方から取り寄せた彩鳥の火打石には敵わなかったようだ。

 

 ゆっくりしてもいられない。昨晩の吹雪は止み、外は既に明るい。

 一日をかけて、蝕龍蟲はいなくなっていた。彼らも宿主にずっと力を与えたままでは死んでしまうから、当然の話だろう。この身体が齧られなかっただけ幸いだ。

 アイルーの方が落としていった武器を手に取る。彼らにとっては身長よりも大きいが、人が持てば、ぎりぎり杖として使えるくらいの長さだ。

 こちらも恨まれてしまうだろうが、歩行の補助として持って行かせてもらおう。きっとかなり役に立つ。

 

 こつこつと杖の音が足音に加わって、岩陰から出た。相変わらず、氷が自然に融けないだけあって、容赦のない寒さだ。

 日の光だけが、ほんの僅かにだけ、温かみを届けてくれているような気がした。

 

 

 

 

 

 歩き始めて、すぐに気付いた。

 昨日纏わりついていた蝕龍蟲たちの力は、予想よりもずっと大きな助けになっていたということに。

 

 一歩が重い。昨日の時点でだいぶしんどかったはずが、今は比べ物にならない。

 ぞっとするほどに寒い。身体の震えが止まらない。日中でありながら、昨日の夜に吹雪に遭ったのと同じくらいの寒さを感じる。

 昨日は黙々と歩けていたが、今はそれすらもままならなかった。歩く速度は、昨日に比べれば半分くらいになってしまっているかもしれない。対して、消耗は倍以上だ。あの保存食と杖がなければ、早々に倒れていただろう。

 

 道なき道を歩む。深い雪の中を、クレバスや急な段差に気を付けながらかき分けて、氷塊がごろごろと転がるような場所では両手足を駆使して登り、そして降りて、それを繰り返して何とか前へと進む。

 いつもの凍土であれば、地上はモンスターに踏み固められて固く平らになっているところが少なくなく、そこを歩くことで消耗を抑えられる。

 しかし、今は氷山の崩落によって押し寄せた瓦礫が広域を埋め立てているような状況だ。まったく容赦のない地形だった。

 

 ただ、大規模な土石流や鉄砲水も平地に押し寄せれば徐々にその勢いを失うように、この大崩落の影響も際限なく広がっているわけではない。

 氷山一つと、それに連なる氷河が二つか三つ。普段は氷に埋もれている元の地形に沿えば、大きな山がその麓に至るまでひとつ分。それが、崩竜の力が及んだ範囲だ。それ以上となると、いよいよ龍の領域に足を踏み入れることになるのだろう。

 

 何度も突破困難な地形にぶつかって回り道を探しながら、少しずつ少しずつ進んでいって。

 とうとう、その端と呼べる場所にまで辿り着いていた。

 

「…………」

 

 そして、異常地帯を抜けたからと言って、そこから先が安泰であるわけはなく。

 むしろ、異常と正常の狭間に置かれる境界こそ、最も高い壁として立ち塞がる。

 

 大量の四角の積み木を積み上げて中身の詰まった箱を作り上げ、その片方を一気に突き崩したとき、そして、もう片方は崩れずに残ったとき。

 その境には、律義になだらかな坂ができたりはしない。崩れた部分と崩れずに形を保った部分で、崖ができる。ともすればがらがらと崩れてしまいそうな、不安定な崖が。

 自分は今、悠久の時を経て積み上げられた氷河の、その崩れた側にいる。目の前には、崩壊を免れた氷河がある。それらはそう、ウカムルバスの居場所へ向かっていたときには、地続きだったはずなのに。

 

 見上げても足りない程に高い氷の壁が、目の前に立ち塞がって。

 左右を見渡しても、同じ光景が延々と続いていた。

 

「……ここまで、か」

 

 これは流石に越えられない。ボルボロス亜種が壊したような、柔な堰とは違う。その程度ではびくともしない重厚な氷だ。

 地形を下っていけば、いつかは途切れて回り込むことができるのかもしれない。しかし、そのためにはかなりの距離を歩かなければならないだろう。徒歩では無理があるとして、ガウシカぞりが検討されるだろう長距離を。そしてそれは、今の自分には十分に致命的だった。

 

 それでも、歩んでいくしかないか。ここまで、歩んできたのだから。

 ここさえ超えれば、あるいは。そう思える場所まで、来ているのだから。

 

 立ち尽くして壁を見上げるばかりだった自分にそう言い聞かせ、また歩き出そうとした、そのとき。

 

 ぐわ、と自分の背丈よりも遥かに大きな影が、音もなく頭上を覆った。

 

「────!」

 

 はっとしたときにはもう遅い。そのまま覆い被さるようにして、頭から飲み込まれる。

 ぞっとするほどに生温かな感触と、咥内にもびっしりと生えた細かな歯が、自分が何に襲われたのかを明確に教えてくれた。

 

「ギギネブラ……!」

 

 凍土の怪異。凍土の洞窟が他の地方のそれより恐れられる最大の理由。

 まさか、こんなに接近されているのに気配に気づくことができなかったとは。しかも、いつもの太刀が背中にないために、ひっかかることなく軽々と飲み込まれてしまった。

 

 くそ、こういう結末か。

 大物を咀嚼するように、喉の奥の方へと強い力で引っ張られているのを感じ取りながら、独り言ちる。凍土ではよくある死に方に落ち着いてしまいそうだ。

 獄狼竜の防具はそう簡単に砕かれも溶かされもしないだろうが、その内にいる人は別だ。後で防具だけ吐き出されるとか、それくらいのことはやってのけそうだった。

 

 今まさに命が脅かされているという、本能的な恐怖が思考のほとんどを支配する。

 鼻も耳もあまり効いていないからまだいいが、この独特かつ強烈だろう臭いと音。そして全身を舐めまわされて細かな刃で削られるような感触だけでも、十分に発狂できるなと笑った。

 こうなると自分の力ではどうしようもない。息を止めてそのときを待つ。

 

 しかし、それからしばらくしても、喉の部分より奥に引きずり込まれることはなかった。

 

「……? う、ぁっ」

 

 不思議に思った直後、もぞもぞと筋肉が伸縮し、口の中を転がされる。

 身体がおかしな方向へねじ曲がろうとするのを、精一杯の力で防ぐ。どうやら、咥内にある身体をひっくり返して、頭を口から出そうとしているようだった。

 ぎざぎざとした鋸状の歯が頬を裂く。蠢動はしばらく続き、最終的に自分の頭の位置と足の位置が逆になった。

 そして、そうやって人ひとりを口に咥えたままギギネブラは歩き出し、氷の絶壁へひたりとへばりついた。

 

 どうやらここを登るつもりらしい。ここで殺さず、巣穴にでも運ぶつもりなのだろうか。

 彼の幼体であるギィギの餌にするつもりか、卵でも産み付けられるのか。悪い予感しかしなかったが、ギギネブラの口は歯が返しの役割を果たし、この身をきっちり捉えて離さない。自力で抜け出すことはできそうになかった。

 肩から外が何とか外気に触れているような、傍から見ればぎょっとされるだろう状態で、ギギネブラはひたひたと壁伝いに歩く。

 その移動手段は、この凍土では彼にだけ与えられた、特権と言ってもいいのかもしれない。

 

 そうして、ギギネブラは自分を咥えたまま黙々と壁を登っていく。

 しかしやがて、もうひとつの恐れていたことが現実味を増してきていた。

 ギギネブラの別名は毒怪竜。腹部の毒腺に溜め込まれたそれは、口からも分泌されて攻撃手段として用いることができるようになっている。

 唾液のように少しずつ染み出したそれが、着々とこの体を蝕みつつあった。

 

 熱にうなされているかのように、呼吸が浅く短くなる。強い吐き気と頭痛。ギギネブラの毒を受けたときの典型的な症状だ。

 かの竜の毒は相手の活力を奪うことに特化している。ひどい風邪にかかったような症状に見舞われ、それは時間を追って強くなり、やがて立つことすらできなくなる。その強さは、大型モンスターをも容易に弱らせるほどだ。

 今は意図して毒を浴びせないようにしているようだが、唾のように自然に染み出る分は必ずあり、そしてかの竜の毒はとても気化しやすい。薄まった毒を常に吸っているような状態ということだ。

 

「はー……はー……」

 

 凍土を出歩くのなら、バギィの眠り毒とギギネブラの毒に抗する薬は必ず持ち歩かなければならない。いつ彼らに襲われるか分からないからだ。

 自分も常備していたが、今は手持ちがない。ウカムルバスに挑む前に、キャンプに置いてきてしまった。回収する前に崩落に遭ったので、運が悪かったとしか言いようがなかった。

 こうなればもう、できるだけ毒を身体に取り込まないように呼吸をなるべく抑えて、じっとしておくしかないだろう。

 

 目を閉じて身体の力を抜いた。あとはもう身を任せるしかない。

 もしかすると、あえて過呼吸気味になって気絶でもしておいた方が後の苦しみは少ないのかもしれない。けれど、かの竜がなぜこんなことをしているのか、その理由が気になっていた。

 崖に沿って吹き上げる風の音と、ひたひたというギギネブラの足音が耳に届いていた。

 

 

 

 

 

 かの竜の拘束が解かれたのは、崖から押し出された棚のような足場だった。竜が一頭乗れるか、といったぐらいの広さだ。

 どしゃっとその場に吐き出され、四つん這いのまま嘔吐する。具合の悪さは限界に近く、平衡感覚すらもままならない。

 

 ぼやける視界の中で辺りを見渡せば、まだ崖の中腹辺りといったところだった。遥か下に自分が歩いていた大地が広がり、見上げればまだ崖は続いている。

 ここまで歩くのに、何度も回り道や横移動を繰り返していた。一見均一な壁に見えても、すぐに氷が剥がれるほど脆かったり凹凸があったりしたのだろう。

 かの竜は少し疲れているような仕草をすることがあった。立ち止まって、首を撓めたり伸ばしたりする。

 かの竜の身体の重心から遠いところで、人ひとりの重量を保持しているのだから当然のことかもしれない。それならさっさと飲み込めばよさそうなものを、かの竜は頑なにそうしようとしなかった。

 ここで少し小休止ということだろうか。再び咥えられ、崖を登りきったとしても、自分の意識は保たれているか、かなり怪しいところだ。

 

 吐しゃ物をぽたぽたと口から零しながら荒い息をついていると、やがて再び頭上を影が覆った。

 背後では見るのも恐ろしい光景が広がっているのだろう。そう考えながら、今度は大人しく飲み込まれる。

 そこで初めて、先ほどとは感触や匂いが全く異なることに気付いた。

 

 まさか。先ほどと同様に口の中で反転し、自らの頭を出す。

 そこから垣間見える竜の体表は、毒々しい黄土色をしていた。

 

 ギギネブラ亜種! 

 いつの間に入れ替わっていたのか。音はほとんど聞こえなかったから、ギギネブラとの争いはしていなかったはずだ。まるで口合わせでもしていたかのような連携だった。

 いや、そんなことよりも、と。冷汗が伝う。ギギネブラ亜種はまずい。この竜が生きているというだけでもかなりの驚きだが、かなりまずい。

 

 ギギネブラ亜種の別名は電怪竜。毒という原種の武器を失った代わりに、強力な電撃を放つ力を得た個体だ。電気を操る竜は凍土には他にいないため、こちらも強力な武器と言える。

 そして、今自分が身に着けている防具の、ジンオウガ亜種の最大の弱点が電気の類だった。

 龍属性の雷ならまだいい。そちらには耐性がある。蝕龍蟲がしがみついていたときのように、それを力に変えることすらできる。

 けれど、本物の雷の方は何も遮断できない。むしろその導通を手助けしてしまう。雷に強い耐性を持つジンオウガの原種と真逆の性質を得てしまっていた。

 

 早速、ばちばちと咥内に電気が迸りつつあるのを感じる。これもかの竜の性質上、抑えることが難しいものなのだろう。

 あのまま毒を浴び続けては危険な状態になっていただろうが、代わりにこれとは皮肉なものだ。何かの拍子に強い電撃が奔れば、それだけで意識を保てるか危うい。

 

 ひたひたと、ギギネブラ亜種が壁を登り始めたのを感じ取る。

 意図が全く読めない彼らの一連の行動について、混乱しながら考えるうちにふと、ひとつの仮説が浮かぶ。

 それは、まるで現実と空想が混じってしまった人のようで。

 眩暈と発熱によっておかしなことを考えるようになってしまったと一笑に付しても、なお。

 拭い取ることのできない大きな、大きな困惑として、頭の中に留まり続けていた。

 

 

 

 

 

 ひゅうっ、と。突然風向きが変わった。

 風の音も一気に強まったように思える。それは、とうとうこの崖を登りきって、向こう側の景色が見渡せるようになったことを示していた。

 

 先ほどと同じように地面に吐き出されて、嘔吐こそしなかったが、何度もえづいた。

 たびたび溢れ出した電流は、簡単に全身を駆け巡って身体を痙攣させた。本来なら気絶は免れない強さの電撃を放つ竜だ。手加減されていたと考えるべきだが、十分に手痛い。

 毒による不調も消えたわけではない。しばらく、一歩もその場から動くことができなかった。ただただ、浅く荒い息をつき続けるばかりだ。

 全身に付いた粘液がすぐに冷え固まっていく。やはりここも相当に気温が低い。咥内から外気に晒された肌に、突き刺さるような冷気と風だ。

 

 ギギネブラ亜種はそのまま何をするわけでもなく、そっぽを向いて歩き去っていく。急に獲物への興味を失ったかのようだ。

 困惑はいよいよ深まっていた。行動の意図が読めない。ギギネブラと連携するような行動を取ったことも、運ぶだけ運んで何もせずに去っていくことも。

 ただ、それを問うだけの気力も残されていなかった。電撃によって喉は引き攣り、声を発することすら難しい。

 

 一際強い風が吹く。針の山が刺さるような痛みに襲われることを承知で、風が吹く方向へと顔を上げる。

 

 そこには、本当に久しぶりに。

 見知った景色が広がっていた。

 

「ここまで……辿り着いたのか」

 

 集落が近いというわけではない。自分一人が駆け回る凍土という地域の一区画の、その端の景色が見えるというだけだ。普段は滅多に訪れない場所でもある。

 けれど、そこから見える景色には何の変りもない。急場しのぎだったとしても、それが自分の掴み取ったもの。

 凍土とその深奥を隔てる巨大な氷河は、突破されることなく、崩し去られることもなく。こちら側の平常を、厳かに見守る存在で在り続けている。

 

 初めて、心からほっとした。ウカムルバスを撃退した直後よりも、よっぽど実感がある。

 故郷と呼べるかは分からないが、帰ってきて見知った景色を見るという行為は、大切なものだなとつくづく思った。

 それと同時に、あの崖を登るほどではないが、ここから下っていくのも厳しいだろうな、と思った。

 そもそも、電撃で筋肉が攣っていて、今はまともに身動きができない有様だ。これが解けるのを待ってから動いても、滑落せずに麓まで降りれるかどうか。

 ウカムルバスの居場所へ向かうときに使った道へと戻ればロープなどの恩恵に預かれるが、そこまでにかなり起伏がある。ここから降りるのと同じくらいの危険が伴いそうだ。

 

 先日よりも、帰ろうとする気持ちが強めにはたらくのは、やはり景色のおかげかと苦笑する。そしてまた、明確になった距離の遠さと自分の生命力の差を突きつけられる。

 いっそのこと、ここで動かない方がいいのかもしれない。などと考えていたそのとき、どこからか氷の地面が振動し始めた。

 ウカムルバスのように巨大な力で無理やり壊して崩すような音ではなく、金属の錐で氷壁をひたすらに穿っているような、高く澄んだ音。それが足元から響いてくる。

 正体は言わずもがな知れた。こんな音を奏でる竜は一種しかいない。

 

 やがて、どん、と近くの氷の地面に穴が開き、そこから白く凍てついた嘴が突き出された。

 その勢いをそのままに、海中から飛び出るように姿を現す。全身に氷の鎧を身に纏い、永久凍土の中を自在に泳ぎ回る竜、凍戈竜アグナコトル亜種だ。

 その美しさとは裏腹にかなり好戦的で、氷の中を泳ぐという、耳を疑うような行為を実現できるだけの強さも秘めている。おかげでギルドから指定される危険度もかなり高い。

 

 いつもの自分であれば、掘削音が聞こえた時点で最大限に警戒し、閃光玉と音爆弾をいつでも手に取れるようにして身構えていただろう。

 しかし、今だけは違った。そもそも立ち上がることができないというのもあるが、ただかの竜を見つめ、自分に対する反応を窺う。

 凍戈竜は肉食だ。地下からの急襲でポポを狩って喰らう姿を何度か見てきた。こちらを獲物とみなしていて、その獲物が見て分かるほどに弱っていたとしたら、喜んで啄みに来るはずだが。

 

 凍戈竜がこちらを視認し、向き合ってじっと見つめてくる。

 そこに、いつもの好戦的な眼光は宿っていなかった。表情の読めない眼差しだけがそこにあった。

 

 やがて、かの竜は黙って身を翻し、がん、と氷の地面に直上から嘴を打ち付け、再び潜っていってしまった。

 

「……なん、だったんだ……」

 

 ただの冷やかしかとため息をつく。それ自体がふつうではないのだが。と、ふと、かの竜が潜っていった地面に穴が開いていることに気付いた。

 当たり前のようで、実はそうでもない。凍戈竜が潜行した穴は、先に砕かれた氷とかの竜の冷却液によってすぐに塞がれるはずなのだ。

 そうでないと、この凍土は穴だらけになってしまう。地盤も脆くなるだろう。それは凍戈竜自身も望むものではない。

 そんな生態を知っているからこそ、人ひとりが通れるかと言ったほどの、この穴が不可解だった。

 

 穴はずっと奥まで続いているようだった。今まさに凍戈竜が氷を掘り進めていく音が、先ほどよりも鮮明に、幾重にも重なって聞こえてくる。

 

 …………今、自分は何を考えた? 

 

 正気の沙汰ではない。深いクレバスに落ちた人がどうなるか、実際に見たことがあるはずだ。

 空気が通っている保証はない。途中で塞がっていようものなら、絶対に戻ってこれない。底に冷却液が溜まっていて、そのまま氷漬けになるかもしれない。そうなったら、この永久凍土の名の通り、永遠にも近しい時間、ここに閉じ込められることになるだろう。

 

 この穴に飛び込もうなどと────けれど、未だに立つことのできないこの身で、他にできることなど何があるというのだろう。

 ここまでこの身を運んできたギギネブラのことを思い出した。さらにその晩、共に眠ったファンゴたちのことを。

 アイルーとメラルーの道具を、氷刃のかけた橋を、ボルボロス亜種が拓いた道を。……初めに寄り添っていた、蝕龍蟲を。

 もし、この不思議な巡り合わせが、偶然にしては出来すぎていると感じていたそれが、本当に偶然でないとするなら。

 その全てが、繋がっているとするのなら。

 

 地面を這って進む。力を振り絞って前へと進み、凍戈竜が開けた穴まで辿り着く。

 

 そして、日の光の届かない暗闇へと、その身を滑り込ませた。

 

 

 

 

 

 いつだったか、そうだ。それは、ロックラックの訓練場で修練を終えて、専属ハンターとして凍土に向かう前の日のことだった。

 自分と同じで、辺境の村の専属ハンターに志願した訓練生がいた。自分と並んで、筋がいいと教官から見込まれていた人物だった。

 行先の村の名前は何だっただろうか。少なくとも、南方の温暖な地域だったことは確かだ。海に潜る機会も多いのだという。

 

 そんな彼女は、少し変わった趣味をしていた。偶然それを見かけてしまった、と言うべきか。

 何か猟奇的とか、そういう話ではない。その趣味とは、物語を読むこと。彼女は、おとぎ話が好きだった。

 五匹の竜の話のように、未知への好奇心をくすぐるものよりも。いや、あの話はそちら方面での解釈もできるが、どちらかと言えば、人と竜が互いに触れ合うような。互いに触れることのできる距離感を探しているような、そんな物語が好きらしかった。

 あまり世間に歓迎される類の本ではない。都市によっては検閲で没収されるかもしれない。ハンターやそれに連なる職の者たちを、動揺させかねないから。

 けれど、彼女は本当にそれを大切そうにしていて。

 

 一冊、本を貸してもらって、読んでみた。

 後日、読み終わって返すついでに感想を伝えると、少し困ったように彼女は笑った。

 

「知り合ってすぐの人にこんなこと言うのもなんだけど、君、ハンターに向いてないかもね」

「その言葉、そのまま返そうか」

「手厳しいな。分かってるよ。こんなにこの世界は甘くない。人と竜は相容れないし、こういう道を選んだ以上、この物語は胸にしまっておかなくちゃいけない」

 

 それはまるで、彼女が彼女自身へと言い聞かせているかのようだった。

 

「私たちは、狩って狩られる人たち、だからね」

「……あまり、気負うこともないと思うけどな」

 

 そう言うと、彼女はやんわりと首を振った。

 彼女の中ですでにその葛藤はあって、一区切りついている。そんな反応だった。

 

「こういうのを倒錯って言うのかもしれないけど、私はこんな物語が好きだから、あえてハンターの道を選んだんだ。いちばん、距離が近いから」

「しんどい選択をしたな、それは」

「そうかもね。でも君も、この本を読んでそんな感想を持つってことは、少し似た部分があるんじゃないかな。……この本のせいで考えさせられることになったとかだったら、ごめん」

「それは気に病まなくていい。借りたのはおれだからな」

 

 そう言うと、彼女は少しほっとしたようだった。

 確かに、荒くれ者の多いハンター業界でこの性格でやっていけるのか、少し心配になる。あるいは、それを自分でも分かっていたから、専属ハンターになることを決めたのかもしれない。

 

「……その本で、モンスターが何を思って生きるのか、考えるようになった」

 

 こちらから話を切り出すと、彼女は顔を上げた。続く言葉を待っている。

 

「モンスターにも性格がある。選択に対して判断もする。種ごとの傾向はあるだろうが、それはおれたちを人という種で括って語るくらい強引な話だ」

「うん」

「もしかするとその本みたいに、人と親しむ可能性……そういう個体がいるかもしれない」

「……そうだね」

「ただ、こっちが無遠慮にそれを信じ切って、押し付けても何にもならないだろう。所詮は人の妄想だからな。だけど……」

 

 うまく言葉がまとまらない。少し恥ずかしくもなってきた。

 言葉を探して、組み立てる。ここまで長く話したのは、本当に久しぶりだった。少し、悲しくなるほどに。

 

「だけど、待つことはできる」

 

 おとぎ話を垣間見る、その可能性を。

 その人が、その夢とも呼べるものを捨てたり、忘れたりしてしまわない限りは、心の中にある。

 なんたって、見たり聞いたりした記憶とは違うのだから────大切だった人の顔はいつか忘れてしまうけど。元から姿かたちがあやふやなものは、こういうときに強いのだ。

 

「だから、そうだな。おれたちみたいな専属ハンターにとっては、大切な視点なんじゃないか。これからお隣さんになる竜や獣たちが、モンスターとか飛竜種って枠に勝手に括られて、個を見てもらえないなんてことは、あちらにとっても心外かもしれないじゃないか」

 

 これで、言いたいことは言えた……だろうか。自分らしくないことをした。しっかりと伝えられたかも分からない。

 そんな胸中で黙り込んでいると、素直にこちらの話を聞いていた彼女は、くすりと笑った。

 

「さっき、君はハンターに向いてないって言っちゃったけど、撤回させてもらおうかな。君はもしかしたら、すごいハンターになれるよ」

「その言葉、そのまま返そうか。期待の新人ハンターさんよ」

「どうかなあ。世界は広いから……とにかく、あっけなく死なないようにがんばらないとね」

 

 その言葉に、ぎゅっと胸を絞めつけられた。

 咄嗟に表情に出さなかったのは、自分でもよくやったと思う。

 

 そうして、彼女は砂上船に乗って旅立っていった。自分もそれに続いた。

 行先は互いに真逆になる。北と南、さらに専属ハンターという役割を背負う以上、管轄の地域一帯から離れることも滅多にない。

 何か特別なことでもない限り、再会することはないだろう。再会するほどの間柄でもなかったし、会ってもあちらが覚えているかどうか。

 

 それでも、自分がこのことを覚えているのは。

 慕うとか、そういうのではなく、ただ、そのやり取りにだけは、色があったからだ。

 

 姉の訃報からまだ日も浅く、悲しみと得体のしれない黒い感情から目を逸らすために黙々と訓練に励んでいた、あまり色も味も感じないような日々の中で。

 あの物語と、彼女との語らいにだけは、確かな色彩があったのだ。

 

 

 

 

 

 気が狂いそうになるほどの、暗闇と音、そして閉塞感。

 延々と滑り降り続けて、ふと自分が滑り落ちていく音の響きが変わったと思った直後に、その身は雪原へと投げ出されていた。

 終点は横穴だったのか。幸い高さはなく、急な衝撃に呻く程度で済んだ。

 

 しばらく地に身を横たえて、痛みと眩暈が落ち着いてから目を開ける。空を見上げて、呆然とした。

 氷河のこちら側の麓だ。辿り着いている。

 先ほどまで眼下に広がる景色を見下ろしていたのが、今はその高所を目一杯見上げていた。

 

 あまりにも分の悪い賭けだった。実際、少しつかえるくらい幅が狭くなったところもあれば、ほぼ垂直に近い角度で落とされた区間もあった。打ち身は数知れず、骨も何か所かは折れたか罅が入っているかもしれない。

 けれど、最終的には抜け出せたのだ。正攻法で下れば、体が万全でも一日以上はかかっただろう道のりを、それよりも遥かに短い時間で下りきることができた。

 

 アグナコトル亜種の姿は見えない。ただ、横穴の傍から這いずっていったのだろう跡が雪原に残されていた。

 そして、この穴に入る前に思い浮かんでいた疑念は、ほぼ確信へと変わっていた。

 

 その確信を裏付けるように。

 まるで、ここに人が訪れることを分かっていたかのように、新たなモンスターが姿を現す。

 

 凍土の肉食モンスターとしては、最も繁栄しているだろう。凍土を象徴する存在のひとつ。

 前方に突き出た鶏冠に、氷河の深い蒼を保護色とした体色。眠狗竜ドスバギィは、何のためらいもなく近づいてきて、防具の首根っこの辺りを咥える。

 そして、そのままずりずりと引きずり始めた。周囲には子分であるバギィたちが群れていて、飛び跳ねながら周辺を警護している。

 

「どう、して……」

 

 抗いようもなく引きずられていく最中。

 口をついて出た言葉は、その一言だった。

 

「どうして、何の、ために……?」

 

 いよいよ否定できなくなった。彼らは、自分を助けようとしている。

 ウカムルバスとの交戦で負傷し、そのまま崩落に巻き込まれて帰る術がなくなった自分を、何とか集落まで返そうと行動している。

 あろうことか、そのためだけに、普段は縄張りを争っているような竜たちが互いに協力するような場面さえ見られた。

 

「おまえ、たちに……おれを助ける理由なんて、ない、のに」

 

 返答はない。人の言葉が通じるはずもない。それは、問いかけというよりも独白に近かった。

 

「おれは、おまえたちを。殺して、殺して、それで……」

 

 獄狼竜を、一頭。

 氷砕竜を二頭。凍戈竜を一頭。毒怪竜を三頭。電怪竜を一頭。氷牙竜を三頭。大猪や眠狗竜は、その配下の小型モンスターを含めれば、優に百頭以上。

 余所者の轟竜や砕竜、恐暴竜を除いても、それだけの数をこの十年近くで狩っている。

 それは遭難した行商を助けるためであり、家畜のポポを守るためであり、凍土の縄張り争いに集落を巻き込ませないためであり、依頼主の指示であり、武器や防具に必要な素材を集めるためでもあった。

 

 そして、そんな理屈など、凍土に生きるモンスターたちにとっては心底どうでもよいものだ。

 彼らにとって自分とは『殺しにくるもの』以外の何物でもない。はずなのだ。

 

 そこから先に触れるのは、怖かった。

 

 無邪気に姉に甘えて、姉の責任感を駆り立てて、むざむざ死にに行かせたあの日から、自分のことを決して赦してはいけないと決めたのだ。

 誰かが自分のことを助けようとするとき、その手を振り払って一人で生きていこうと決めた。そうすれば、これ以上に悲しい想いはしなくて済む。

 新大陸の調査団の誘いを断ったのも、周囲の反対を押し切ってウカムルバスに一人で挑みに行ったのも、結局はそれが最も強い理由なのかもしれない。

 

 それでも、本当の一匹狼になりきれないところが、情けなかった。

 雪に閉ざされた集落で何年も過ごしていくうちに、少しずつ人との関わりができていく。いろいろなことを話し、絆されていく。

 モンスターや土地に対してもそうだ。いつの間にか興味を持ち、勝手に詳しくなっている。あのときの彼女のように物語を夢見ているわけではないと思うが、それに似た感性は持っていたのかもしれない。

 

 凍土で生きた十年で、ずっと考え続けて、客観的な見方や感情の整理ができるようになった。

 正直に告白すれば、そうだ。生き足掻こうとしていた。あまり考えないようにしていたけれど、崩れ去った氷山の中で目を覚まし、途中まで自力で歩いていたのは、きっとそういうことだ。

 装備や体力が絶対的に不足していることが分かっていてもなお、諦めきれなかったのだ。

 自分がこんな生き汚い人間になるなど、かつての自分は思いもしなかっただろう。

 

 だからこそなのか、その上でなのかは分からないが。

 自分がハンターとして生きていく上で、割り切らなければならないものとして踏んでいたモンスターが、自分を助けているという事実は受け入れ難いものがあった。

 人が助けに来るなら道理なのだ。心配性の先輩ハンター辺りが救助隊を組んでくれたというのなら、甘んじてその厚意を受け取ろう。その助けまで拒もうとは、もうとてもできない。

 

 しかし、実際に手を差し伸べたのはモンスターの側だった。

 いや、受け入れ難いという言葉には語弊があったかもしれない。彼らに対してそこまで強い言葉は使えない。彼らについて知っていくうち、気張った棘は丸くなってしまった。

 ただ単純に、戸惑いだけがある。

 

「おれは、お前たちのことが、分からない…………」

 

 優しくされるのは苦手だ。それに甘えてしまったことで、大切なものを失ったから。

 人と竜は割り切って考えるべきだ。互いに好き勝手に生き、理不尽に死に、互いのことは想わない。その関係性の上にハンターとは成り立つのだから。

 自分の根底にある、その二つの芯が、よりにもよって同時に揺さぶられている。

 だから、彼らの魂胆に気付いたとき、最初に浮かんだ感情が、怖さだったのだろう。

 自分の信じていたものが覆される瞬間は、誰だって怖くてたまらないだろうから。

 

 自分が数えきれないほどに手にかけてきた存在が、最も自分を赦さないだろう者たちが、自分の最も苦手とする優しさを滲ませてくるのが、こんなにも怖い。

 心の深層で、跳ね返りで最も欲していたのだろう、誰かの優しさというものを感じさせてくれた存在が、そこから最も遠いと思っていた者たちであるということが、こんなにも怖い。

 

 彼らに人の言葉が通じたらと、こんなに切実に思ったことはなかった。

 決して叶わないと分かっていても、強引に事を進めるのならば、その怖さを飲み込んででも、自分を助ける理由を教えてほしかった。

 

 防具を咥えて黙々と自分を引きずってきたドスバギィは、洞窟の中へと自分を運び入れた。彼らの寝床だろうか。

 バギィたちは未だに遠巻きにしている。そこまで警戒しなくても、弱り切っていることは分かりそうなものだが。この獄狼竜の防具が牽制になっているのかもしれない。

 しかしやがて、彼らが自分ではない何か別のものを気にしているらしいことに気付いた。ドスバギィに向けてでもない。その視線の先に、何かいるのか。

 

 手足の感覚がほとんどない中で顔だけをそこへと向けようとしたそのとき、ぼふっと水色の煙玉のようなものが顔の近くで弾けた。

 眠り毒、と認識したのが最後、強烈な眠気が思考を沈めさせる。かの竜の毒は恐ろしい程に効くのが早い。

 専用の薬も手元にない今、抗うことなどできるはずもない────。

 

 がくりと頭を落とし、瞼が閉じていく。その直前に。

 

 雪よりも白く眩しく、美しい稲妻を纏う獣を見た気がした。

 

 

 

 

 

 そこは、光の差し込まない洞窟の中。

 奥の方の壁に、一人の男が力無くもたれかかっている。身に纏う防具はぼろぼろで、頭は項垂れて、開かれた目に光はない。虚ろな抜け殻のようだった。

 

 そんな彼に向かって、歩く稲光がひとつ。人によってはそれを生物と呼ぶことを戸惑うかもしれないが、少なくともそれ以外の気配はない。

 それもそのはず、そこは現実とは呼べない場所だった。洞窟の外は存在せず、気温という概念もない。とても曖昧な空間だった。

 稲光は来訪者だった。彼のすぐ傍まで歩み寄った彼または彼女────幻獣キリンは、彼を見下ろして口を開く。

 

「あなたは ゆめをみています。これは あなたの ゆめのなかです」

 

 幻獣がそう声をかけても、男は何も反応を返さない。

 しかしそのことを気にも留めず、幻獣は言葉を続ける。

 

「あなたが いろいろと しりたがっている ようなので ここまで きました。ことばが つたないのは がまんなさい。まったく ひとのことばは ややこしい」

 

 最後に少しだけため息をついて、しかしその厳かな雰囲気を崩すことはせず、ひとつひとつ話す。

 それはどこの方言や訛りとも違う、全く違う音から重ねて人の声を創っているような、独特な抑揚を持っていた。あるいはそれこそ、言霊と呼べるものなのかもしれなかった。

 

「わたしは あるりゅうに たのまれて ここまできました。いろいろと ふなれな ことを するようだったので わたしが てつだいました。いろいろな りゅうに きょうりょくを たのんだのも わたしです」

 

 そして前置きも置かずに、率直に告げた。今回の出来事は、かの幻獣によって為されたことであると。

 あるいはそれは、古龍という未だに謎多き種族に連なる存在であるからこそ、為せることなのかもしれなかった。

 

「わたしの すみかから ここはとおい。あのりゅうは がんばって はしったのでしょう。かみなりは にがてだろうに よくはなしかけた ものです」

 

 幻獣は雷そのもののような古龍だ。それを苦手とする存在は、おのずと限られてくる。もし彼の意識があったのなら、すぐに思い至っただろう。

 

「なだれのりゅうに いどんだひとを たすけてほしいのだと。あの こおりのやまは きっと くずれてしまうからと。あのりゅうの いうとおりに なりましたね」

 

 竜の勘は人よりも鋭い。起こり得る事象を察知し、その竜は先回りして幻獣に助けを求めに行っていた。

 他の竜たちも一帯から逃げ去っていたので、惨劇は免れ、犠牲者は彼一人になるはずだった。それこそを、かの竜は救い出そうとしたのだ。

 

「わたしは あなたたちで いうところの つうやくのような ものでしたが みな あっさりと うなずいてくれました。わたしも そのひとり ということに なります」

 

 ここで初めて、僅かに男の指が動いた。反応はたったのそれだけだったが、かの幻獣の言葉が多少なりとも彼に届けられているということを示すには十分だった。

 それは、彼が最も気にしていた事柄らしかった。眠る前に彼がいくつか呟いていたことと繋がるのかもしれない。

 しかし、幻獣にとっては何をそんなに思い悩んでいるのだろうと首を傾げるしかなかった。それは、実に単純な理由なのに、それに気付かなかったのだろうか。

 

「みな あなたが このとちを すくってくれたのだ ということを こころのどこかで わかっていたのですよ。かくいうわたしも あのりゅうには てをやいて いましたから」

 

 幻獣の声音に少しだけ尊敬が混じる。

 それは、こうも弱い存在で在りながら、時に古龍ですら下手に手を出せないような存在を退ける、ハンターという特異な者たちに対しての賛辞だったのかもしれない。

 

「あなたに どうぞくを ころされた こも いたでしょう。あなたと あらそったことがあるこも いるでしょう。どうやら あなたは そのすべてで たいとうで あろうとした。だから かれらは こたえたのだと おもいます。とちゅうで たべられても わたしは おどろきませんでしたよ」

 

 最後に不穏なことを言う。幻獣は何も強制までしていない。そこまでの意図を伝えるのが難しい種族もいる。

 だからあくまで、提案をしただけだ。氷山の周辺へ避難していた竜たちに、ひとつひとつ、声をかけていっただけだ。

 結果論となるが、彼がここまで生きているということが、彼の愚直なまでの真面目さというか、この土地に対して誠実で在ろうとする姿勢を証明していた。

 そうでなければ、彼は竜たちの協力など得られず、むしろ仇となって死んでいたのだ。

 

「それでも あなたが なっとくできない というなら さいごに こう つたえましょう」

 

 幻獣はここに長く留まる気はないらしい。実際、そこはあまり長居していいようなところではなかった。

 だから幻獣は、伝えるべきことだけを、しっかりと伝わるように伝えようとする。

 

「わたしは ひとのことを あまりすかない。そもそも ひとのことを すきな りゅうなんてそうそう いるはずが ないでしょう」

 

 声音を下げる。

 その幻獣は人里から遠く離れた土地に生きていた。稀に気球が現れ、中にいる人が興味本位で近づくようなことがあれば、容赦なく雷で焼き尽くし墜とすような。苛烈さを持つ個体でもあった。

 

「そのうえで────あなたを すくうときめた。あなたが あらがえないなら もんくは いわせない」

 

 有無を言わせない強引な口調。それはある意味で、とても竜らしい。強いものが生き残る世界に生きる者たちの言葉だ。

 

「こんなことは こんかいだけだ。そもそも ほとんどの りゅうに かりも かしも ないのだから。こんかいは たまたま それを しっていた りゅうが いただけ。そのまわりの りゅうは きぶんで たすけた。つぎからは いつもどおり あなたにも ようしゃはしない」

 

「あなたも きっと それを のぞむでしょう?」

 

「だから いまは いきてかえす。ここまで したのだから いきて かえりなさい。……いきて。そう ねがう」

 

 押し付けるように投げかけた、言葉の最後だけが少し、ブレた。

 ほとほと、人とは複雑な生き物だと幻獣は思う。彼らのことは嫌いなはずなのに、こうして、関心を寄せてしまう個もいるのだから。他の種族ではそうそういない。

 故にこそ、自身は未熟なのだと幻獣は己を戒める。人のいない僻地での日々は、まだ長く続けなければならなさそうだ。

 

「……まだ よるが あけるのも あなたが めざめるのにも はやい。わたしは ここを さりますが うつつのほうで すこし よりそってあげると しましょう。ありがたく おもいなさい」

 

 人に寄り添って眠るなど、幻獣にとっても初めてのことだった。彼の身に着けている防具的に、雷を極力抑えなければならないことが難点だが、そのことに迷いはない。

 心身が限界に近い状態のまま何日も厳寒の地に曝され、今にも消えてしまいそうな彼の命の灯に。かの幻獣の生命を、ほんの少しでも分け与えることができたなら。

 最後に、幻獣は彼に向けて小さく呟いた。

 

「……あなたは ゆめを みています。この できごとは すべて ゆめのような ものです。そう おもうといい。あなたは がんばった。だから もうすこしだけ たゆたって いなさい」

 

 そうして、幻獣という稲光は洞窟の外へと歩き去っていった。

 結局、彼の反応らしい反応はあのひとつだけだった。壁にもたれかかって項垂れて、目を虚ろに開いたまま、一方的に言葉を受け取っていた。どれだけの言葉を拾えたかすら、怪しいものだった。

 しかし、よく見るともうひとつ。動いたところがある。

 

 彼の口元。力無く開いた口は。

 ごくわずかに。ほんの少しだけだけれど。

 確かな笑みを、浮かべていたのだ。

 

 

 

 

 

 ふつ、と。目を覚ます。意識は……はっきりしているようだ。

 手足の末端にも血が通っている感覚がある。また何かに暖めてもらえたのかと周囲を見渡すが、自分をここに連れてきたバギィたちも含め、辺りには誰もいなかった。

 

 状況を確認するために立ち上がろうとして、立ち上がれてしまったことに驚いた。

 バギィに強制的に眠らされたらしいことは憶えているが、その前はまともに身を起こすことすらできなかったのだ。

 何か食べたわけでもないのに、眠るだけで体力が回復するものだろうか。ここまで衰弱したことがないので、たとえ自分の身体でも未知数なところがある。

 

 足元を見ると、真っ白な体毛が数本か抜け落ちているのを見つけた。手に取ろうとすると、帯電していたのかぱちっと静電気が弾ける。それに、それ自身がうっすらと光っているようにも見えた。

 この色の体毛で咄嗟に思いつくのは二種。柔らかでしなやかそうなこの感触はどちらかといえば、いやどうだろうか、と考えていたところで、洞窟の外の方から音が聞こえてきた。

 

 断続的に、滑走する音。次第に大きくなっていくその音に、あ、これはまずいなと思った矢先、その音の正体が姿を現した。

 姿を現して────何もためらわず、こちらへと直進して直撃した。今の自分にそれを避けるだけの反応速度を期待してはいけなかった。

 

「ぐえっ……」

 

 腹部に重い衝撃が入る。ふつうにとても痛い。

 とても痛いが、それだけである程度の手加減はあったのだろうと思う。あれの本気の突進を受ければ、骨折や脱臼はまず免れない。

 その犯人は、白兎獣ウルクスス。強固な腹甲で氷上を滑って移動する牙獣だ。とても丸々としていて、泥で汚れていることも多いが白い毛並みをしている。

 先ほど見つけた毛はこの白兎獣のものだろうか。しかし、今の衝突で手に持っていたのを離してしまった。

 

 グウグウと甘え声のようなものを立てながら、白兎獣はこちらへのしかかって顔を埋めてくる。敵意は全くないようで、むしろ対応に困る。

 この白兎獣、数年前にやたらと懐いた個体だ。ドスバギィの群れに牽制を仕掛けに行ったときに、ちょうどバギィたちにちょっかいをかけられていた白兎獣を庇うようなかたちとなったらしく、それで懐いた。

 もともと白兎獣は雑食なので、人の死に繋がるような危険を及ぼすことはあまりない。それで強く拒めなかったのもあるのだろう。

 

 あのときはうまく縄張りを調整させ、あまり集落や自分との絡みがなさそうな区域へと落ち着かせた。

 慣れ合わないようにするための策だったが、自分のことはまだ覚えていたようだ。今はそれを叱る気分にもなれない。

 

 しばらくされるがままにしていたが、そのうちに白兎獣の方から離れると、どこに隠していたのか薬草や人参、トウガラシなどを押し付けてくる。食えということか。

 人参の生食いはさすがにできないが、トウガラシを薬草にくるんで食べる。独特の草の味から、かっとする辛さが突く。舌にも血が通ってくれているようだ。

 

 どの辺りまでがハンターとして許される範疇なのだろうか、と考えながらその身体を撫でる。

 距離を近づけすぎると、自分に会いに来て集落の大切な畑に被害が出たり家畜が怯えるかもしれない。理屈では拒絶するのがいいと分かってはいるが、なかなかそうはしづらいところが難しいものだ。

 

 そんな自分の葛藤を知らぬまま、返された人参をむしゃむしゃと食べていた白兎獣は自分に背を向けて四つん這いになる。そのまま、顔だけをこちらに向けて鳴いた。

 今までの流れからして、何を言っているかはだいたい分かる。乗れ、ということなのだろう。

 自分がそれにあっさりと頷いたことに、数秒経ってからまた驚いた。

 

 眠っている間に何か心境の変化でもあったのか。自分のことだというのに分からない。しかし、心なしか気持ちは軽くなっているようだった。

 ふと、欠片のようなものを思い出しかける。

 自分は何かに出会っていなかったか。昨日の夜を共に越してくれたのは、目の前の白兎獣ではない、別のなにかだったような。そのときに、とても大切なことを聞かされた気がする……。

 

 急かすような白兎獣の鳴き声ではっとした。しばらくぼうっとしていたようだ。

 今は考え事をしている余裕はない。立ち上がって数歩歩くと、かなりふらふらした。いくらか体力は戻ったとはいえ、もともとが死にかけであることに変わりはない。それを白兎獣も分かっているのかもしれない。

 白兎獣の背中に乗るのは初めてだ。乗った人などほとんどいないだろうが。

 流石にその長い耳を掴むわけにもいかないので、申し訳ないが体毛を掴ませてもらう。幸い、束にして掴めるだけの長さはあった。

 

 自分の体勢が安定したことを確認してから、白兎獣は後ろ脚に力を溜め、一気に飛び出して滑走を始める。ぐいっと強く身体が引っ張られるが、何とか耐えた。

 これから先のことを考えると、ここにしがみ付いたままでいるのはかなり大変だった。しかし、やり遂げなくてはならない。もし振り落とされてしまえば、間違いなく笑い事では済まないだろうから。

 

 

 

 

 

 自分が想像していた通り、白兎獣に騎乗しての旅路はこれまでで最も過酷なものになった。

 まず寒い。少し顔を上げただけで容赦なく風がぶちあたり、皮膚が悲鳴を上げる。白兎獣の手腕を信じ、その体温に身体を預けるしかない。

 恐怖心もかなりのものだ。この獣、勢いづいているときには飛竜一頭分程度の幅の谷程度なら余裕で飛び越えていく。上に乗っている人の身にもなってほしい。心臓が豆粒のようになる感覚を何度味わったことか。

 多少の障害物は潰すか乗り越える方針のようで、上下左右に振られて何度も手を離しそうになった。普段乗る雪ぞりもお世辞にも乗り心地が良いとは言えない代物だが、これは悪い意味でそれ以上だ。

 

 しかし、乗り心地の悪さを補って余りあるのが、その速度だった。

 確か洞窟を出たときにはまだ日は昇ったばかりだったはず。その日が空の高い場所へ昇ってこようかというときには、既に集落に近い狩場まで辿り着いていた。

 あの氷河が立ち塞がる場所からここまでは、ガウシカに乗っても一日半はかかる。それをたったの数時間で。空を飛ぶという手法を除けば、いや、それにすら並び立つかもしれないほどの速さだった。

 実はこの白兎獣、身体能力としては上位の個体すら上回るのかもしれない。

 凍土ではなんだかんだと板挟みのような立ち位置にあるこの種族だが、この踏破性があるからこそ、今まで生き残ってきたのだろう。

 

 そのまま集落まで突っ走ってしまうのではないかという程の勢いだったが、針葉樹が疎らに生え始めた場所で滑るのを止め、降りるように促してきた。

 

「ああ、少し待ってくれ。お、っとと……はは、そりゃそうなるよな」

 

 ウルクススの背中から降りた途端、地面に膝を付いてしまう。きつい姿勢でずっと耐え続けていたから、相応に体力を消耗したらしい。手の感覚もほとんどない。

 手足に力が入らない。力を入れようとしても全くそれに応えてくれない。そんな自分に思わず笑ってしまう。

 この数日間、終始似たような状況だったから、いつもの自分の力というものを忘れてしまいそうになっていた。

 

 ウルクススはさすがに疲れた様子だったが、再びグウグウと鳴いて、別れを惜しむように鼻を押し付けてくる。

 しばらくして自分から離れると、木々の向こう側に顔を向ける。

 

 そこには、凍土の生物でも特に人とのかかわりが深い二頭の獣たち。

 集落で飼っているポポが鞍を身に着けて、隣にガウシカが連れ立って、静かに歩いてきた。

 

「そう、か」

 

 もう、余計な言葉はいらないだろう。

 不思議と湧いた悲しさを、笑みでごまかして呟く。

 

「お前たちが、最後の担い手か」

 

 

 

 

 

 これも、いつのことだっただろう。確か、轟竜の騒ぎに連なって獄狼竜まで現れ、苦労してこれを狩った、数か月後の話だ。

 獄狼竜の素材で防具を新調し、その慣らしのためにも少し遠出して探索をしていた、その最中のことだった。

 

 やや狭い谷の底を足早に通り過ぎようとしていたとき、小さな鳴き声が聞こえた。

 この辺で人の子はありえないが、気になって周辺を歩き回り、それを見つけてぎょっとした。

 自分と同じ背丈ほどの竜の幼体が、力無く身を横たえていたのだ。

 

 一目で獄狼竜の幼体だと分かった。成体に比べて体毛が多く、全体的にふさふさとしていたが、蝕龍蟲はまだほとんど身に纏っていないようだった。

 親と共に行動していたところを不測の事態に遭い、谷から落ちてしまったのだろう。他の竜に襲われたのかもしれないし、雪崩や落石に運悪く巻き込まれたのかもしれない。

 頭から落ちたのか、頭部に酷い傷跡があった。それで助けを呼べなくなってしまったのだ。人も頭を打つと、声がうまく出せなくなることがある。

 

 当時、自分はその姿を見てとても動揺してしまった。

 獄狼竜は個体数が少ない。この幼体の父親は、自分が数か月前に狩った個体でほぼ間違いなかった。

 かの竜に番と子どもができて行動範囲が広がった結果、人の集落が重なってしまったのがその理由だった。

 希少な種なのでなんとか衝突を回避できないかとギルドも模索したようだが、もともとの強さが凍土でも最高位に入ることに加えて、子育て中で縄張り意識がとても強くなっていたとくれば、手の打ちようがなかった。

 撃退すら叶わず、その番に人里がない区画へ去ってもらうには、父親を狩猟するしか道がなく。

 何人かのハンターの犠牲を成しながら、ようやく止めを刺したのが、自分だった。

 

 母親は必死に我が子のことを探しているだろう。

 しかし、そこは谷の上からではちょうど死角になる場所だった。谷そのものも獄狼竜の身体の幅より少し狭い程度で、低いので匂いも籠る。探しきれないのも無理はなかった。

 

 冷静に考えれば、放置する場面だった。むしろ、すぐにそこから離れるべきだった。

 幼体がここにいるということは、周辺に母親がいる可能性も非常に高い。もし母親に見つかれば、自分が身に纏っている防具が最悪の仇となる。有無を言わせない殺し合いになりかねない。

 この幼体は不憫だが……。

 そうして立ち去ろうとする足が、あのときは動かなかった。

 

 クンクンと寂しそうに幼体が泣く。それに同情するなど、その父親を狩った身分で最低の行いだと思った。

 それでも、もう長いこと、下手をすると何日間もひとりぼっちだろう幼体の哀れな姿が、姉の死を知らせる文を握り締めて、ひとりで泣いていた少年の頃の自分と重なってしまった。

 孤独は辛いのだ。それが自分の望んだものでなければ、さらにつらい。それは誰よりも、自分がよく知っていた。

 

 自分があのときにやったことを、今の自分なら止めるだろうか。いや、恐らく止めなかっただろう。

 客観的に見れば、正気の沙汰でないと言われるだろうことは間違いなかった。自分の防具や濡れ衣の可能性を考慮しても、自殺とほとんど同義だと。

 

 それでも────大きく息を吸った。

 

 空を見上げ、大きく大きく、高らかに吼える。かつて近くで聞いた咆哮を、できるかぎり再現する。それを何度か繰り返す。自分はここにいるぞ、と叫ぶように。

 ぱっと幼体が目を開いた。驚いたように目だけをきょろきょろと動かす。一瞬だけ目が合って、すぐにこちらの方から目を逸らした。

 幼体の体毛をいくつか太刀で切り取り、谷の入り口辺りの地面に撒いておく。少し血も混ぜておいた。これで見つけやすくはなるだろう。

 谷の狭さは母親にがんばってもらうしかない。何とか入れなくはなさそうだし、幼体をここまで運ぶのは自分一人の力では厳しそうだった。

 

 再びクンクンと泣き出した幼体の背中を一度だけ撫でて、生きろよ、と呟いた。

 閃光玉をいつでも手に取れるようにして、できる限りの全速力でその場から逃げた。途中で先ほどの声に応えるような咆哮が聞こえたが、聞き入っている暇はなかった。

 

 結局、あの後に母親から襲われることはなかったし、あれ以降に獄狼竜親子の姿を見かけることもなくなった。

 母親は自分よりも子どもの方を優先してくれたようだ。二頭の行方は追えていないが、ひょっとするとあの巨大な氷河と氷山を越えたのかもな、と当時の自分は思っていた。

 

 そして、話は現在まで戻る。

 崩壊した氷山の中で最初に目を覚ましたとき、自分を包み込むように纏わりついていた大量の蝕龍蟲。

 あれがもし、あのときの幼体が成長して、自分に分け与えてくれたものだとしたら。

 真相は分からない。都合のいい解釈なのかもしれない。ただ、そんな気がするだけだ。もしその通りだとしたら、自分はかの竜に命を救われたことになる。

 

 殺して、助けて、助けられる。

 何ともそれは不思議で、残酷で、優しい巡り合わせだな、と思った。

 

 ポポの背中に乗せられ、ガウシカが傍に寄り添う。

 自分が鞍からずり落ちそうになると、ガウシカが角で器用に押し戻してくれた。ほとんど介護のようなもので、ありがとうと気持ちを伝えるしかない。

 

 そう、素直にありがとうと伝えるしかないのだろう。例えその直後に牙を剥き、刃を交えるのだとしても、そのときだけは誠実で在れるように。

「あのときは、助けてくれてありがとう」

 と、いつか、きっと、伝えよう。

 

 そのために、生きよう。

 

 集落は、もうすぐそこだ。

 

 

 

 

 

 そして、その様子を遠くから、森を越え川を越え、遠くに見える山の頂付近から二頭と一人を見ていた年若い牙竜は、ふいと身を翻して駆けていく。

 一人のハンターの帰還を見届けて、走り去っていく。

 その後ろに、赤い蛍火たちを引き連れながら。

 

 

 

 

 

「…………ん。……ウドさん。──ビロウドさん!!」

 

 自分の名を何度も呼ぶ声で、目が覚めた。何日も名前を呼ばれていなかったから、少し驚いた。

 

「────ッ、こちらが見えますか!? 私のことが分かりますか!?」

「……シル、ヴィ」

「ぁ、ああ……っ。よかった……! 生きてる、生きてる……!!」

 

 自分を強く抱きしめる少女。周囲の景色には、柵や小屋などの人工物があった。それだけで、なんだか感慨深くなる。

 どうやら、また気を失ってしまっていたらしい。いや、眠っていたのか。ずっと張り詰めていた糸が僅かに緩んで、体の方が驚いたのかもしれない。

 

 自分はどうやら担架に乗せられているようだった。防具もいつの間にか脱がされている。

 集落の住民が何人も様子を見に来た。普段は見かけないギルドの制服を着た人もいた。随分と大事になってしまっていたらしく、少しいたたまれない気持ちになる。

 

「脈は……弱いですけど、ちゃんとあります。あぁ、夢じゃない……」

 

 応急処置を受けている間も、シルヴィと名を呼んだ少女は、自分の手を握って離さなかった。自らが触れているものが、現実に存在しているということを何度も確かめるように。

 ……確かに、人々にとっては驚愕もいいところだろう。生還はほぼ絶望的とまで言われて出発していったハンターが、ポポとガウシカに連れられて戻ってきたのだから。

 あ、あ、と声を出す。やはりかなり嗄れている。これで発する声が言葉の体を成していればいいが。

 

「シルヴィ、この声、ちゃんと聞こえるか……?」

「……はい。聞こえてます。ちゃんと聞こえてます!」

「ここは、あれからどうなった……?」

「えっと、ハンターズギルドの避難指示に従って荷造りはしていたんですけど、気球で観測してた人が、ビロウドさんが撃退に成功したって伝えてくれて……今は落ち着いてます」

「そうか……よかった」

「よく、ないですよ! 氷山が崩れて、ビロウドさんが行方不明になったって聞いて。トクサさんたちが探しに行こうとしても、今は危険だってなかなか許可が下りなくて……」

「──トクサは。すれ違ってないか」

「大丈夫です。さっき信号弾で交信しました。そんなことより、あなたはあなたの心配をしないとダメなんです! こんなにぼろぼろなのに……!」

 

 トクサは村の方で良くしてくれたあのハンターのことだ。彼はひょっとすると助けに行くかもしれないと思っていたが、やはり行動に移していた。なんとかすれ違いが大きくなる前に連絡が取れたらしい。

 それよりも、自分の手をなかなか離さない彼女──シルヴィの相手をしてやったほうがいいかもしれない。彼女はもうずっと泣きっぱなしだ。

 

「心配、かけたな。……無事を祈ってくれてたんだろ、ありがとうな」

「……そうです。本当に心配したんですから。ずっと、ずっと祈っていて……本当に、よかった」

 

 彼女とは、この集落で知り合った。はじめの数年間は互いに挨拶をする程度だったが、自分があまりにも他者との交流を図らないので、家に押し掛けてきたのだ。

 勝手に世話を焼いて、役に立ちたいからと書類仕事と料理を覚えて、いつの間にか家族のような関係になっていた。言うなれば────妹のような存在だった。

 ウカムルバスに挑むことに、最も反対していたのが彼女でもある。しかし、自分の意志が固いことを察して、涙を飲みながら送り出してくれた。

 

 帰ってくるまでの間、自分の仕事を片付けてはひたすらに祈っている彼女の姿が思い浮かぶ。

 そのことを思うと、こうしてずっと手を握られ続けるのも仕方のないことなのかもしれない。

 

「……あの、今聞くべきことじゃないかもしれないですけど」

「ん?」

「どうやって、ここまで戻ってこれたんだろうと思って。ギルドの人が、あそこから徒歩で戻って来るのはかなり厳しいって仰っていたので……」

 

 戸惑いがちに彼女が尋ねたのは、ここにいる人々であれば誰しもが抱くであろう疑問だ。

 凍土の奥地に接したあの氷山からこの集落まで、武器やまともな道具もなしにどうやって辿り着いたのか。

 ある地方では神隠しという怪異が伝えられているらしいが、それを疑われてもおかしくない。帰還というよりも、出現といった表現が適切かもしれないくらいだ。

 

「そうだな……」

 

 そこで、自分が笑みを浮かべていることに気付いた。なんというかその笑みは、嬉しさや可笑しさというよりも、何か壮大な龍の伝承を聞いてしまったときに浮かべるようなそれに近い。

 だって、どう説明すればいいのだ。

 モンスターが互いに連携して手助けしたり直に運んだり。ギギネブラに咥えられて崖を登ったなんて言っても誰も信じない。何せ、自分だって未だに信じられないのだから。

 

 だから、そう。そのときに、ふと誰かから言われたことを思い出した。

 それが誰だったのかも、そもそも何についての話だったのかも覚えていないが、それだけは確かに聞いた、と自分の記憶が言っている。

 

「────夢を、見ていたんだ」

「……夢、ですか?」

「ああ。ぜんぜん、答えになってないかもしれないが、そうなんだ」

 

 首を傾げた少女に対して、苦笑いをしながらそう答える。

 かつて本で読んだ、人と竜の物語。その世界に一瞬だけ飛び込んで、駆け抜けていったような、そんな数日間を。

 

 ある雪の日の微睡みに見るような、あやふやで現実に溶けていく、けれど暖かい物語を。

 

「長い長い────夢を、見ていたんだよ」

 

 

 

 

 






その後、復調したビロウドは訓練生時代以来初めて凍土から出て、付き添いのシルヴィと一緒にロックラックへ向かい、中途半端にしていた姉の供養をしっかりと済ませて、また凍土の集落に戻ったとか、なんとか。
あの日以来、彼はときどき蝕龍蟲を連れてくるようになり、警戒するシルヴィを「手紙のようなものだから」と変なことを言ってなだめているとか、なんとか。


……こんばんは。お久しぶりです。初めましての方は始めまして。Senritsuです。
まずは、読了をお疲れさまでした。本当に長かったかと思います。最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
今回は企画で書かせていただいたもののため、単発での投稿です。いろいろと詰め込みすぎてしまいました。小説とはやはり難しいものですね……。

評価や感想をいただけると、とても嬉しいです。
それでは、また。どこかで会えることがあれば。


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