「で、最近どうなのよ?」
――というのが灰原さんの第一声だった。
私の側面に回って、肩を寄せ合う形で彼女もその場にぺたんと腰を下ろしている。
ふと門の方に目をやると、例の庭師っぽい人と博士がまだ激しくやり合っていた。
相当に気性が荒い御仁なのか、アホ面のジジイと遠慮なく強烈な罵声を浴びせていて、対する博士も「失敬な。ワシは高尚な科学者じゃぞ!」と声を張り上げている。
なるほど、これは事態の収拾までかなりの時間を要しそうだ。
「どうって――何が? ひょっとして灰原さん、アタシの学校生活に興味あったりする?」
「これっぽっちもないわ」
私と同じように向こうで繰り広げられている罵倒の応酬を呆れた様子で見つめながら、彼女は吐き捨てるようにしてそう言った。
本当に心底どうでもいい、というような口振りだった。
「つれないなぁ。他の女の子の恋愛事情にキョーミあったりしないの?」
瞬間、彼女は目を見開いて表情を凍り付かせた。
ぐるりと首を回して、まるでオバケにでも遭遇したような顔をこっちに振り向けてきた。ひどく狼狽している。
「えっ? そもそも、あなたが人に恋をするなんてことがあるの? 年がら年中、本が恋人です、とか気味の悪いこと言ってそうなんだけど……」
ひでえ、なんて言い草だ。
でも、たしかに言われてみれば、生まれてこの方色事にはまるで縁がない。
コナン君に対してはかなりデレデレなつもりだけど、これをいとも簡単に恋愛感情と決め付けていいものか、ちょっと判断が付かない。ただ単にショタコンの気が強いだけのような――いや、自分で何言ってんだ、アタシ。どっちにしろやべーヤツじゃん。
少なくとも、コナン君はともかく工藤君をそういう対象として見たことは一切ない。
改めて自分の軌跡を振り返ってみると、いささか不安にとらわれ始めてきた。
急な危機感と焦燥感に苛まれて、思考がどんどんネガティブの方へ流されていってしまう。
「人並みの恋、することあるのかなぁ? 年下の男の子に劣情を抱いて手を出すことはありそうだけど。近い将来、新聞紙上を賑わすとんでもない怪物が誕生する可能性が――」
「何言ってるのよ、あなたは」
鬱々と沈みゆく私をよそに、灰原さんは茜色に焼け始めた遠くの空をなんとなしに見上げている。彼女はプリプリしながら言った。
「あなたと話していると、なんでこうヨタバナの方に脱線していくのかしらね? こっちは真面目な話がしたいって言ってるのに」
それに関しては本当にごめんなさい。
話の腰を折るのが大体アタシだ。
勝手に分岐点でレバーを引いて、進路を切り替えてしまう。
「どうっていうのは、探偵業のことよ。そろそろ慣れてきた?」
探偵業っていうのは、ちょっと語弊がある気が。
当然のことながら高校生という身の上なので堂々と看板を掲げるわけにもいかず、また、将来的にそれを食い扶持のタネにするつもりもなかった。あくまでその場の成り行きで、普通の女子高生が付け焼き刃の探偵役を演じているに過ぎない。
工藤君と違って、好きでやっているわけでもなかった。
なんとも言えなかったので、私はそれらしい答え方をした。
「まあ、ぼちぼちってところかな」
便利で卑怯な言葉だ。自らの詳説を放棄して、相手に判断する労力を押し付ける。
どうぞ、好きなように想像してみてください。
要は可もなく不可もなくってことだけど、例えば作業の進捗を問われてこういう返答の仕方をすると、相手は大体不可寄りに受け取ってしまうことが多い気がする。
一般論の話だし、統計を取ったわけじゃないから実際のところはどうか分からないけど。
少なくとも、灰原さんはそのように捉えたみたいだった。
「なるほど。今も悪戦苦闘中ってわけね」
「わかる?」
「しわが増えてるわ。目尻とおでこに一本ずつ。お気の毒ね」
バッグを逆さまにして、中身を全てその場にぶちまけた。
こういう時に限って目当ての物が見つからない。ようやく手鏡を探り当てると、目を凝らして何度も該当箇所を確認した。
しわなんて一本も刻まれていない。
自分で言うのもなんだけど、指先で弾けばぷるんと波を打ちそうなほど瑞々しい肌で、劣化とは当分無縁な質感だった。
一杯食わされたことに気付いた私は、わなわなと震えながら灰原さんを見た。
ざまあみなさい、と愉快そうにケラケラ笑っている。
まったく、このイタズラ小悪魔め。
話が本筋から逸れがちなのは、たぶん灰原さんにも原因があるんだからね。
一応その自覚があるのか、彼女はコホンと気まずそうに空咳をした。
「で? 今回も事件が起きそうな予感がするのね。それでさっきから悶々と悩んでいる、と」
わぁお、やっぱり全部お見通しか――
そういう話になるだろうな、とあらかじめ覚悟はしていたつもりだったけど、あまりにも単刀直入に切り込んできたからすぐには言葉が出てこなかった。清々しいほどのど真ん中直球で、逆に手が出なかったようなものかもしれない。
どう答えたらいいものか――
思えば、こうして「事件が起きそう?」と問い掛けられたのは初めてのことだった。
コナン君はそれすらも徹底して避けてきた。色々と手一杯で余裕がない私のために。
思考を読み取ったわけじゃないんだろうけど、灰原さんはタイミングよく彼について言及した。
「あなたに余計な負担を掛けまいとする江戸川君の気持ちも分かるんだけどね」
博士の援護に回っているコナン君を顎で示しながら、彼女は続けた。
「ただ、このまま以心伝心とか暗黙の了解で触れずにやっていくのもどうなの?って思ってね。この際、色々とはっきりさせた方があなたも楽なんじゃないかしら。連携が取りやすいし、相談もしやすい。こっちから注意喚起しておきたいこともあるしね」
なるほど、それが灰原さんの主張か。
なんにせよ、ありがたいことだった。
意見や方針は異なれど、根底にある思いは私、雨谷瑠璃のためということで両者一致している。
彼女もまた、並々ならぬ覚悟で今回の『真面目な話』に臨んでいるのだろう。
あえてこういう難しい役を進んで買って出ているわけだから。感謝こそすれど、お節介に思う理由が何ひとつない。
まずは礼を述べるべきなのか、それとも先の疑問を肯定すべきなのか。
「うむー」
ただそれについて迷っていただけなんだけど、私が未だ難しい顔のままで唸っていると、灰原さんはやや焦った様子で手をひらひらと振った。
「別に身構える必要はないわ。ただの確認作業よ。私からどんどん喋っていくから、あなたは適当に相槌を打つだけでいい」
だいぶ私に気を使っているのが分かる。
慎重に、触れてはいけない線に接触しないように爆弾を解体しているようなものかもしれない。
「私も江戸川君も、大体のことは理解してるつもりよ。事件の『匂い』がなんとなく分かるんでしょ? 少なくとも、その嗅覚が私達の数倍優れてる」
私は黙って頷いた。もうそういうことにするしかなさそうだった。
ありのままの真実を告げるのは、あまりにもハードルが高い。
この世界が元々は人の手によって――創作によって生み出されたもので、前世である読者の『私』が最近目を覚ましたから、これから作中で起こることも事件が発生するパターンもある程度は把握している。
思わず鼻で笑いそうになってしまった。
三文小説にでも用いられてそうな設定だ。天からのお告げがあったとか、被害者の霊が目の前に現れて犯人を教えてくれたとか――まだそれらの方が現実味があるし、可愛げもある。
「彼は当初、得体の知れない誰かがあなたに接触して情報を流している可能性を危惧してたみたいだったけど」
他者からの情報提供、か――
まあ、あながち的外れな推察でもないよね。
『私』の顔がちらっと脳裏をよぎった。
ある意味、これほど鼻面を取って引き回す乱暴者もそうはいない。大いに翻弄されている。
「そういう風に鋭くなったのは、ごく最近のこと?」
「そう、ある日突然ね。なんだかオカルトな話だけど、信じる?」
灰原さんは意外なほどあっさりしていた。
「信じるわよ。私も同じクチだもの。まあ、
はて、何のことだろう?と内心で首を傾げたけど、そういえば『私』から渡された彼女に関するプロフィールの中に「例の組織に所属している、またはかつて所属していた者の匂いが分かる」という項目があって、ひょっとしたらそれのことかもしれないと思った。
彼女は顎の下をさすりながら、ふうむと思案した。
「でも、その感覚もわりとあてにはできないってわけね。ハズれることもままある、と」
これには驚いた。
「そこまで分かるの?」
「江戸川君が言ってたのよ。最後まで何も起きなかったら、意外そうにきょとんとしてる時が結構あるって」
コナン君が一緒。
見知らぬ人が大勢集まるイベントに赴く。
極端な話、この二つが揃っただけでいつもの警戒モードに入ってしまう。
当然のことながら、コナン君がいるからといって必ずしも事件が起きるとは限らない。そうしたら、本当に彼の行き着くところ死体の山ということになってしまう。
「それで? 今までの話を踏まえた上でもう一度聞くけど、今回はどうなのよ」
横から厳しい視線を肌に感じた。
下手にごまかしたりしないでちょうだい。そう言われているような気がした。
凄まれたからというわけでもなく、純粋に私自身の気持ちとして、ありのままの所感をはっきり伝えるべきだと思った。特にお茶を濁す意味もない。
「たぶん今回は的中すると思う。いつにも増して波動が強いというか。寒気がするくらい」
なんだか例の病気に罹患した中学生男子みたいなセリフだなぁ、とぼんやり頭の隅で考える。
灰原さんの顔に、わずかながら緊張が走った。ぴりっと口の端がヒクついた。
やがて、彼女は「やれやれ」と疲れたように一つ大きな息を吐いて、寄り掛かるようにして私の腕に華奢な頭を預けてきた。また私の手の甲に自身の手を重ね合わせている。
彼女はぽつりと呟いた。
「今更この家を避けようとしても、おそらく難しいでしょうね。向こうに拒絶されない限りは、の話だけど」
たしかに。
事情を伏せたまま「この家はやめておこう」と説得を試みても、あの子達は到底納得しない。
かといって事件の予感がするから、と正直に理由を話してみても、それはそれで厄介なことになる。きっと、今まで以上におだを上げるに違いない。少年探偵団としては、世間に名を上げる絶好のチャンスになるわけだから。喜んで敷居を跨ごうとするだろう。
そもそも一晩の宿にも困窮している有り様だ。選り好みしていられる立場でもない。
このままでは闇が広がりゆく森の中に我々は放り出されることになる。穴だらけで浸水すると分かってる船でも乗るしかなさそうだった。
「怖い? それとも、あの子達が無茶しないか心配?」
こんなことを訊いてみたのは、なんだか今の彼女が妙にしおらしく見えたからだ。
心細そうというか、不安げというか。ただ、無礼千万を承知であえてこういう言い方をさせてもらうなら、事件に臆するようなタマだったかな、とも思う。組織絡みの案件なら十分に理解できるんだけど。
灰原さんは肩を揺らして、フッと笑った。
「これでもそこそこ修羅場は潜り抜けてきたのよ。そこらへんのヤワな女とはわけが違うわ」
思わず私も笑いそうになってしまった。
ナリに似合わず、豪胆な口振りだ。
実際その通りなんだろうけど、彼女と話していると、例の薬で自分が幼児化してるって事実を忘れているんじゃないかって思う時がある。
「
「アタシ?」
すると、向こうから博士が大きく手を振って私達に呼び掛けてきた。
「おうい、二人とも何をしておるんじゃ? 中に入れてもらえることになったぞ」
灰原さんは軽く瞠目した。
「あらあら、これはびっくりね。文字通り門前払いの寸前だったっていうのに」
見ると、例の庭師の人が大層ご不満な様子で門の開放作業に当たっている。
どんなに旗色が悪くても結局は迎え入れられるシナリオだと分かっていたから、受けた衝撃は灰原さんよりは少ない。
それでも一体どんな手を使ったか、純粋に興味があった。博士の秘めたる交渉術がこの土壇場で発揮されたのか、はたまたコナン君の力添えのおかげか。あとで詳しく聞かねばならない。
「雨谷さん、待って」
「うん?」
立ち上がろうと腰を浮かしかけると、灰原さんが私の手を強く握った。
あっちへ向かうのを引き止めようとする。まだ何か話したいことがあるようだった。
「もう今の段階から徹底的に調べ上げるつもりね?」
私はこっくり頷いた。
そのつもりだった。
一切の感情移入や偏見を排除して、ただ情報を集めるだけの機械になり切る。単純に『知』を駆使するだけじゃなくて、直感やメタ読みも主要戦力として登用する。そうして早い段階から絞り込みを掛ける。可能ならば、悪い芽が顔を出す前に土ごと抉り取ってしまう。
それが雨谷流のやり方だった。
「わかったわ」
灰原さんは立ち上がって、私の肩に手を置いた。
私達は無言のまま、間近でしばらく見つめ合った。
鋭い目付きだった。瞳の奥に強い意志や力が込められているのがはっきり見て取れる。
心なしか、肩に張り付く手にも力が入っているような気がした。置くというよりは掴むという感じだった。
やがて、灰原さんは口を開いた。
「だったら、これだけは約束してちょうだい。
彼女は続けた。
普段よりだいぶ早口で、声にいくらか抑揚を欠いていた。
「ある程度はあなたの裁量に任せる。自分のやり方で好きなようにやればいい。私も江戸川君も、しっかりサポートするつもりだから。ただ、何か重大な決断を迫られたり危険な領域に足を踏み入れる時は、必ず私達に相談しなさい。決して一人で行こうとしないこと。いい?」
厳しく言い付けるというよりは、ほとんど懇願に近かった。
まるで縋るようにして、強く訴え掛けている。お願いだから、と。
言われるまでもないことだと思った。
私は色々な意味で非力だ。蘭と違って武術の方はからっきし。肝心の推理面においても、力量不足から度々コナン君に厄介を掛ける始末。
私なんかよりも遥かに優秀な作品の二大巨頭がバックに付くと言うのだから、これをフル活用しない手はなかった。わからないことや迷ったことがあれば、遠慮なく教えを請おう、意見を仰ごう。不穏な空気を察知した時は、包み隠さず二人に報告しよう。元よりそうするつもりでいた。
だけど、この場合はどうだろう。前々から考えていたことだった。
コナン君や灰原さんの身に何らかの危機が迫る、という稀なエピソードの中にたまたま私も居合わせていたとしたら――?
その未来がはっきり視えていたとしたら、私はどう行動するだろう。
答えは明白だった。たぶん、単独で対処しようとする。
「来るな」とか「帰れ」とか、そんな強い言葉をぶつけてでも二人をはっきり拒絶する。
やや間があってから、私は「わかった」とだけ言った。
自分でもはっきり分かるくらい、感情のこもっていない声だった。事前にプログラムされた言葉を機械が喋っているみたいだった。
彼女自身が望む答えだったはずなのに、灰原さんは目に見えて落胆した。
まるで苦いものでも嚙み潰したように顔を歪めて、きゅっと唇を固く結んだ。
そして私から視線を外して、やや目を伏せた。
どことなく哀愁が漂うその横顔には、明らかに暗い影が落ちていた。
わかってないわけね――
そう言われているのと同じことだった。
灰原さんは気を取り直したように面を上げて、また私としっかり目を合わせた。
もう片方の手がするすると顔の片側に伸びてゆく。白魚のような指先がそっと頬を撫でた。
「とにかく慎重に行きましょ。くれぐれも無茶だけはしないように。ね?」
彼女は薄っすらと柔らかな笑みを浮かべて、消え入るようなか細い声でそう囁いた。
終わり際に私の肩を軽くポンと叩いて、くるりとこちらに背を向ける。そのままスタスタと皆のところへ歩き出していった。
途中、何かに気付いたように「あっ」と立ち止まって、肩越しに私を振り返った。
「今の話、江戸川君に共有してもいい?」
「うん、もちろん!」
やや遅れて、私もようやく腰を上げた。
どことなくギクシャクした足取りで、彼女の後に続いた。
私はそっと、長い間止めていた息を小出しにして吐いていった。
やれやれ、これは責任重大だ。自然と汗が一筋、頬を伝った。
ここまで堂々と灰原さんの意に背いたわけだ。生半な仕事ぶりは決して許されない。
改めて思った。ただ生き抜くだけじゃない。
コナン君や灰原さんを真に想うなら、無傷で――五体満足でやり遂げることだ。
毎回事件が終わった後は、ちゃんと二本の足で立って、皆の前で元気に笑って見せること。
それが私に課せられた最大の使命だ――
手は震えているというのに、不思議と笑ってさえいた。
難易度A級どころの話じゃないけど、やってやろうじゃないの――!
その手で自分の頬を強く叩いて、気合を入れ直した。
これから乗り込むことになる悪魔の城をキッと睨み据えた。