コナンの世界に転生した少女の物語   作:エリンギどくだみ

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カラオケボックス殺人事件
前編――『運命の改変』


 現在の心境は、例えるなら戦場に出征する兵士といったところか。

 草陰に身を潜め、息を殺しながら全身の神経を尖らせる。今の私はそんな緊迫感に包まれているに違いない。

 

 「達也に会える!」とはしゃぎ通している蘭や園子とはどこまでも正反対の様相だった。

 

 指定のカラオケボックスに到着すると、レックスの面々は既に一堂に会していた。

 

 メンバー最年少でまだ幼さが残る目鼻立ちのギター担当、芝崎美江子(しばざきみえこ)

 バンダナにサングラスという独特の風貌のドラム担当、山田克己(やまだかつみ)

 裏方に置いておくにはもったいないほどの美人マネージャー、寺原麻理(てらはらまり)

 

 そして、レックスのリーダー的立場であり、アイドル顔負けのルックスを誇るボーカル、木村達也(きむらたつや)

 

 料理が全て出揃い、四人は「カンパーイ!」と各々のジョッキを突き合わせた。

 

「最高だったね、今日のライブ! 客のノリも良かったし!」

「ああ、みんな達也のボーカルのおかげだよ」

「飲み過ぎちゃダメよ、みんな。この後、トーク番組の収録が控えてるんだから」

 

 ライブはさぞ盛況のうちに終わったのだろう。

 充実感と達成感に満ち溢れた彼らの表情がそれを物語っている。

 

「最高……ねぇ……」

 

 ただひとり、木村さんだけが仏頂面でビールを煽っているのが気になった。

 ライブの出来に不満を抱いているのかもしれない。

 

「…………」

 

 沸き立つ彼らとは対照的に、蘭と園子は驚くほど大人しかった。

 あれほど舞い上がっていたのに、いざレックスのメンバーを目の前にすると、窮屈そうに肩を窄めて俯くばかりだ。一言も言葉を発しようとしない。

 

 緊張しているのが丸分かりだった。

 一応、マネージャーの寺原さんが気を利かせて一声掛けてくれたおかげで、だいぶ場の雰囲気に慣れたみたいだけど。

 

 一方、私は全く違う意味で緊張していた。

 

 その瞬間はいつ訪れるのか、被害者と加害者は一体誰なのか。専らこれから起こるであろう殺人のことばかり気にしている。

 有名人との交流を楽しんだり、彼らの歌う曲に耳を傾けていられる余裕は一切ない。私がすることは、ただひたすら思案と監視だけ。あれこれ考えを巡らせながら、さりげなく怪しまれないようにメンバーの一挙一動を注視しなければならない。

 

 気が滅入るなぁ――

 

 我ながら、とんだ大役を請け負ってしまったものだ。

 それほど暖房は効いていないはずなのに、じっとりと背中に汗を掻いているような気がする。

 

 上着を一枚脱ごうとすると、誰かに袖を引っ張られた。

 

「ねえねえ、瑠璃姉ちゃん」

 

 隣にちょこんと腰掛けているメガネの少年が一人。

 

 我らが主人公、江戸川コナンだった――

 

 思えば、工藤君が行方不明になったという報せを耳にした時は、随分と気を揉んだものだ。

 それからしばらくして、蘭を通じて彼から音沙汰があり、そんな時に前世の記憶を思い出したんだった。自然と、労せずして彼の正確な所在を把握することになったし、それどころか全ての秘密まで知る人間の一人となってしまった。

 

 目の前の少女に正体を知られているなんて、この子は夢にも思っていないんだろうな。

 

「なんだか元気ないね。身体の調子が悪いの?」

 

 憂わしげな顔でそう問い掛けられて、私は思わず自嘲気味に笑みを漏らした。

 

 このところ、他人に体調を気遣われてばかりだな。

 風邪でも何でもなく、心の底から意気軒高だっていうのに。

 

「瑠璃姉ちゃん?」

「ああ、大丈夫だよ、コナン君。テレビで見る人達ばかりだから、ちょっと緊張しちゃってさ」

「……ならいいけど」

 

 まだどこか釈然としない様子の工藤君、いや、コナン君に私はひたと視線を据えた。

 あのキザで自己顕示欲の強い生意気推理オタクにもこんな可愛らしい頃があったんだな、と物思いに耽ってしまう。

 

 眼前の少年が工藤新一であることも忘れて、私はぎゅう、とその華奢な身体を力いっぱい抱き締めた。

 肌に伝わる温もりと胸の中にスッポリ収まる抱き心地の良さが堪らない。荒れてささくれ立った心が洗われるようだった。

 

「コナンくーん」

「ちょ、オイ!? 瑠璃っ! ……ねーちゃん」

 

 私はニヤリとした。

 

 こやつめ、一瞬素が出掛けたな。

 突拍子もない行動に面食らって、思わず本来の自分に戻り掛けてしまったみたい。一瞬私を呼び捨てにしようとしたけど、すぐ様取り繕うように「ねーちゃん」を付け加えた。

 

 コナン君成分を十分に吸収した私は、彼を熱い抱擁から解き放ち、努めてにこやかに破顔して小さな頭にポンと手を置いた。

 

「アタシのことは心配しなくていいからさ。他のお姉さんやお兄さん達とお話しておいでよ、ね?」

「う、うん……」

 

 まだどこか後ろ髪が引かれる思いがするのか、コナン君は去り際にちらっと私を一瞥して、それから蘭達の談笑の輪の中に加わっていった。

 

 いけないな、他人にはっきり気遣われるくらい心身の不調が表に出てしまうなんて。

 もっとしっかりしないと。

 

 しかし、どうしたものかな――

 

 私は肩を落とした。

 情けない話だけど、現状打つ手がない。何の対策も方針も立てられず、打ち上げ当日を迎えたことは痛恨の極みと言わざるを得なかった。

 

 もちろん、ただ何もせず、無為に時間を浪費していたわけじゃない。

 自分なりに粉骨砕身して、レックスの内情を調べ上げたつもりだった。メンバー間の殺人と仮定するなら、不仲の噂は囁かれていないか、何らかのトラブルは持ち上がっていないか、等々――

 

 結局、何の成果も上げられず、徒労に終わった。

 まずそういったゴシップニュースとは無縁のようだったし、彼らは仲が悪いと声高らかに主張するネット上の書き込みもあるにはあったけど、なにせ誰が発信したかも分からない真偽不明の情報だ。著しく根拠や信憑性に欠けるため、そのまま鵜呑みにするのは憚られた。確実に裏付けを取る手段もない。

 

 分厚い情報網を張り巡らせる敏腕記者でもあるまいし、しがない高校生に過ぎない私の調査力なんてたかが知れている。それ以上できることは何もなく、今日という日を迎えたわけだ。

 

 だけど、僥倖(ぎょうこう)と言うべきか、意外な形で被害者と思しき人物が判明した。

 

「うるせえ、ドブス! 引っ込んでろ!」

 

 ボーカル、木村達也さんだ。

 

 多量のアルコールを摂取して酩酊状態にあるとはいえ、彼の横暴な振る舞いは目に余るものがあった。

 過剰な飲酒を咎めるマネージャーの寺原さんに対して、あろうことか「ブス」などと聞くに堪えない罵声を容赦なく浴びせる。罵倒の矛先は他のメンバーにも及び、ヘタクソ、俺がいなきゃ何もできない、など最早やりたい放題だ。

 

 歯噛みする寺原さん達を見ていると、憤懣(ふんまん)やるかたない、という内心の怒りがありありと見て取れる。それでも、三人は声を張り上げて言い返すことはなかった。

 

 私達子供の手前ということもあったんだろうけど、本当によく耐え忍んだと思う。

 

 こうしてみると、不仲説もあながち馬鹿にできないのかもしれない。

 

 わかりやすいなぁ――

 

 名探偵コナンに限らず、多方面に恨みを買っていそうな人物が事件の被害者、というのは推理物によくあるパターンだ。過信は禁物だけど、今回は木村さんが標的と見てまず間違いないだろう。

 

 問題は、加害者の方だ。

 

 被害者の予想が容易だった分、こちらはより特定が難しい。

 敵が多いということは、その分加害者の候補も多岐に渡るということだ。

 

 なんとか三人の中から候補者を絞る方法はないものか。

 

 そんな風に考えていた時だった。

 挙動不審な寺原さんの仕草が目に入ったのは。

 

 木村さんの当て付けで『赤鼻のトナカイ』を歌い終えた彼女は、席に戻るや否や、妙に忙しなくキョロキョロと辺りの様子を気にし始めた。じっくりと凝視していなければ、気付かないほどの慎ましい動きだったけれど。

 

 やがて、彼女は意を決したように曲を入力するための端末を拾い上げて、素早く操作し始めた。

 

 どんな些細なことも見逃すまいと腹に決めていた私は、無礼千万を承知で、そっと気付かれないように彼女の背後へ回り込んでみる。

 

 ディスプレイには、このような文字が表示されていた。

 

「……血塗れの女神(ブラッディ・ビーナス)?」

 

 思わず、声に出して読み上げてしまった。

 

「えっ!?」

 

 寺原さんは目に見えて動揺した。

 びくりと肩を跳ね上げて、驚愕の色に染まり切った顔をこちらに振り向ける。口から心臓が飛び出る、という比喩表現があるけれど、今の彼女がまさにそんな感じだった。

 

 こんなに驚かれるとは思っていなくて、逆に私の方がびっくりしてしまった。

 慌てて謝罪した。

 

「ごめんなさい。それって、木村さんのヒット曲ですよね? マネージャーさんが歌われるんですか? それとも、彼へのリクエスト?」

「……え……ええ、まあ。そんな感じ……かしら……」

 

 謝りついでに色々訊いてみた私は、すぐに引っ掛かりを覚えた。

 

 なんだろう、この狼狽ぶりは。

 いくら不意に後ろから声を掛けられたとはいえ、これほどまでに唖然茫然とするものかな。今の彼女はほとんど放心状態だった。しどろもどろでほとんど舌が回っていない。顔面蒼白で、目の前でパンと手を叩いた方が良いかと思ったくらいだ。

 

「本当にごめんなさい」

 

 私はもう一度謝って、踵を返した。

 戻る途中、茫然自失の寺原さんを肩越しに振り返って、彼女に対する疑念を深めていく。

 

 この人は、一応注意かな――?

 

 自分が元居た場所に戻ると、またしても隣の空席にコナン君が腰を下ろしていた。

 まるで私の帰還を待っていたかのように。

 

 彼は足の先をブラブラさせながら、こてんと首を傾げて私に尋ねてきた。

 

「あのマネージャーさんのことが気になるの?」

「うーん、まあ……そんなところかな」

 

 どのように答えていいか分からず、私は曖昧な返事をした。

 そういうコナン君は、やっぱり私のことが気になるみたい。

 

 彼に気付かれないように、私はそっと鼻を鳴らして笑った。

 具合が悪そうにじっとしているかと思ったら、今度は忍び足でコソコソ動き回ったり。

 

 アタシもアタシで挙動不審だものね――

 

 

 

 

 

 

 木村さんがリクエストした曲を芝崎さんが歌い切った時、次の曲のイントロが流れ出した。

 

 レックスの成り立ちだけでなく、メンバー個人の経歴や趣味嗜好まで調べ尽くした私にとって、曲名を当てることはもはや造作もないことだった。

 下手なファンより博識、という自負がある。

 

 滑り出しの序奏を聴いただけで、すぐにピンと来た。

 

 これは木村さん随一のヒット曲、血塗れの女神だ。彼はすぐに反応を示した。

 

「おっと、俺の曲じゃねーか! 誰だ、リクエストしたのは?」

 

 木村さんは反射的に立ち上がった。

 すっかり歌う気満々で、脇目も振らず壇上に上がろうとする。

 

 そんな時、思わぬ人物から「待った」の声が掛かった。

 

 マネージャーの寺原さんだった。

 

「達也、もう時間よ! 早くしないと、トークショーに間に合わないじゃない」

 

 えっ――?

 

 私は思わず驚きの声を上げてしまいそうになった。

 

 何を言っているんだ、彼女は。

 トーク番組の収録に間に合わないからもう歌っている暇はない、と声を荒げて抗議している()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()んじゃないか。

 

「うるせえ! 俺は歌いたい時に歌うんだよ!」

 

 当然、木村さんはにべもなく制止の声を撥ね付けた。

 これまで身勝手かつ粗野な言動を繰り返してきた彼が、今更素直に物言いを受け入れるはずがない。大量の酒が入ってへべれけに酔っているなら、尚更だ。

 

 寺原さんはさして食い下がることもなく、渋々といった感じで彼のわがままを容認した。

 

「しょうがないわね。スタジオに遅れる旨を伝えてくるわ」

 

 彼女は呆れながらそう言うと、スタッフジャンパーを脱いで、ポケットからケータイを取り出した。そのジャンパーを片手に抱えたまま、足早に部屋を後にしようとする。

 

 まるで逃げるように、そそくさと――

 

(あの人……)

 

 私は去っていく寺原さんの後ろ姿を射抜くような視線でじっと()め付けた。

 

「よっぽど気になるんだね。あのマネージャーさんのことが」

 

 また誰かに袖口の辺りを引っ張られて、私は隣に視線を移した。

 その誰かとは、言うまでもなく江戸川コナン君である。

 

「どうしたの? ものすごく怖い顔してたよ、瑠璃姉ちゃん」

 

 これまでの子供らしい純粋無垢な表情ではなく、口を真一文字に締めた凛々しい顔付きでコナン君は真剣に訊いてきた。

 『工藤新一』の部分が前面に出ているようだった。

 

 私は一瞬、逡巡した。

 いつもなら今までのように適当にはぐらかすところだけど、たった今覚えた違和感、深慮の一端を彼に打ち明けてみてもいいんじゃないか。そうと思った。なにせ現在の姿形こそ幼いけど、彼は日本警察の救世主と謳われるほどの名探偵だ。

 

 ひょっとしたら、望外の収穫を得られるかもしれない。

 

「いくぜ! 血塗れの女神!」

 

 マイクの前に立った木村さんもまた、イントロが終わると同時にスタッフジャンパーを高々と放り脱いだ。気炎を上げて、自身のヒット曲を熱唱する。

 

 私はそんな彼の姿を目に焼き付けながら、思い切って話してみることにした。

 

「あのマネージャーの人、なんでわざわざジャンパーを脱いだんだろうね」

「うん?」

「だってさ、ポケットからケータイを取り出すくらいなら、ジャンパーを着たままでも簡単にできるよね? ただ手を突っ込むだけなんだからさ」

 

 コナン君は「うーん」と唸った。

 

「部屋が暑かったから、ついでに脱いでいったんじゃない?」

「そうかもしれないけど、じゃあその脱いだジャンパーを手に持ったままなのは? ハンガーに掛けるか、そこら辺に放っておけばいいのに。片手が塞がって不便だと思わない?」

「……案外すぐ着るつもりなのかもしれないよ?」

 

 コナン君は訝しげに眉根を寄せた。

 「普通そんなこと気になるか?」とでも言いたげな顔付きだった。

 

 私も、普通だったら気にも留めていないはずだ。

 殺人が起こるかもしれないと分かっているから五感が過剰なほど働いているわけで、そうでなければ彼女の一連の動作にはそもそも気付いていない。重箱の隅を突くような細かい指摘であることは重々承知している。

 

 それでも、あの寺原麻理というマネージャーに対しては、どうも猜疑的な感情が拭えない――

 彼女には不審な点がいくつもある。

 

 類まれな歌唱力を披露する木村さんを引き続き凝視しながら、私は自分の脳に「キビキビ働け!」と鞭打った。

 

 あくまで寺原さんをこれから犯行に及ぼうとする下手人と仮定した上で考えを進めてみる。

 

 寺原さんは、どうしても彼に血塗れの女神を歌ってもらいたい。

 

 それが殺人の伏線なの――?

 そもそも、()()()()()()()()()()()()なんだろう――?

 

 まさか、こんな大勢の目が揃っている状況の中で堂々と()るわけが――

 

 そこではたと思考が止まった。数秒ほど空虚な間に入り込んでしまう。

 やがて、バチンと豪快な音を立ててスイッチが入った。再始動した途端に、全身の毛が一本残らず逆立ったような気がした。

 

 ちょっと待って――

 

 いや、そのまさかだ。

 寺原さんは本当に、私達の視線が集まっている中で木村さんを殺めるつもりだ。

 

 彼女は出払っていて、今この場にいない。

 

 そんな時に木村さんが犯人の毒牙に掛かれば、どうなる――?

 少なくとも、この場にいなかった彼女は真っ先に疑いの目から逃れることができる。

 

 ()()()()()()()()()()()()()

 証人は殺害の瞬間に立ち会っていた私達、全員だ。今がまさに、寺原さんにとっての最大の好機なんじゃないか。

 

 冷たい感覚がじわじわとシミのように、胸の中心から外へ広がっていく。

 

 やっぱり彼女は、血塗れの女神で何かを仕掛けようとしている。

 

 どうする、どうする――!

 

 慌てふためくとか落ち着きがないとか、そういった表現すらも生ぬるい。

 パニックを通り越して一種の恐慌状態だ。血の一滴まで沸騰するような感覚だった。

 

 たぶん、()()()()()()()()()()

 遅刻の連絡なんて、時間を要するほどのことでもない。彼女はすぐに戻ってくる。そして、木村さんは全てのキーである血塗れの女神をすでにかなりのところまで歌い切ってしまっている。

 

 クソッ――

 

 急に足元が揺れ動いたから、地震かと思った。

 違う、周りは何事もなく平然としている。私が平衡感覚を失っているだけだった。四肢に力が行き渡らない。それどころか、指先や足先の感覚さえ徐々に失われていく気さえした。いつの間にか、むさぼり食うように肩で息をしている。

 

 こんな時に――!

 

 過呼吸のせいか、少しずつ意識が遠のいていく。

 思えばここのところ、ろくに睡眠や食事を取れていなかった。実は自分が思う以上に体調が悪かったのかもしれない。そんな時に、精神に急激な負荷が掛かってしまえば――こうなるのはもはや必然か。

 

 結局、私は最後まで無力なのか。何もできないまま、みすみす木村さんを死なせてしまうのか。

 押し寄せる絶望と後悔。視界どころか心の奥底まで真っ黒に塗り潰されていく。

 

 もう、このまま何もかも投げ出してしまおうか――

 

 白旗を上げて闇の中に身を委ねようとした、その時だった。沈みゆく意識がなぜか不意に浮上した。明るい光が差す現実の世界に、あっという間に引き戻される。

 

 ハッとして顔を上げると、コナン君が私の手を握り締めていた。

 もう片方の手は背中に当てて、肩甲骨の辺りを優しく撫でている。彼がギリギリのところで私の意識を繋ぎ止めてくれたのだった。

 

「瑠璃姉ちゃん」

「コ、コナン、くん……」

 

 満足に舌が回らない。いや、それ以前に口がうまく開かない。

 上下の歯がぶつかり合ってカチカチと音を立てるほどに、唇が震えてしまっていた。

 

 単純にそんな私の姿が痛ましいのか、コナン君は眉をひそめてより一層唇をキュッと固く引き結んだ。

 

「落ち着いて、ゆっくりでいいんだ。焦らず、呼吸して。今はいいから何も考えないで」

 

 そんなことをしている暇はないって言いたいところだけど、今は彼の助言に従うしかなさそうだった。

 今の私は歩くことも、喋ることすらもままならない赤子同然の存在だった。思考も覚束ない。

 

 賭けに等しかったけど、私は言う通りにした。

 まずはあらゆる事柄を意識の外に排除した。木村さんのことさえも。まずは自分。とにかく体調の改善に努めた。規則的なリズムを刻んで、ゆっくり吸った吐いたを繰り返す。慎重に、新鮮な空気を肺の中に取り入れる。

 

 その甲斐あってか、霞がかっていた景色が少しずつ鮮明になってきた。

 手足のしびれもだいぶ取り除かれてきた気がする。

 

 回復の兆しを見て取ったコナン君は、水の入ったグラスを私に差し出した。

 

「持てる? 飲みながら楽にして」

 

 それを受け取った私は、何を考えるでもなく一心不乱に飲み干した。干上がった喉に恵みの水を与えた。

 

 ひどい汗だった。

 全身がびっしょりと濡れている。下着が肌の上にぴったり張り付いていて、気持ちが悪い。寒空の中に無数の星が瞬く。そんな季節なのに、私だけが真夏の炎天下にいるみたいだった。

 

 コナン君が靴を脱いで椅子の上に立ち上がった。

 いきなりどうしたんだろう。不思議に思っていると、ほどなくしてその理由が分かった。目線を私の高さに合わせるためだ。彼はポケットからハンカチを取り出して、額や頬に浮かぶ汗の珠を丁寧に拭き取っていった。

 

 私は自分に冷笑を浴びせたくなった。

 

 まったく、なんてザマだ。

 コナン君が文字通り私の手足となって、一切の俗事を請け負ってくれる。彼が献身的に介抱してくれなかったら、今頃どうなっていたか。こうして笑う余裕ができたことは、良い傾向と言っていいのか――よくわからないな。

 

 あらかた拭き終わったはずなのに、コナン君はまだ私をじっと見つめていた。

 

 「なあに?」と訊くまでもなく、年相応の小さな手のひらが私の頬に伸びていく。

 顔の両側を掴まれた格好になった。

 

「ちょ、ちょっとコナンくん……?」

 

 私はどぎまぎした。

 あまりにも顔が近い。ともすれば、互いの鼻頭が触れ合ってしまうほどの距離で見つめ合っている。なにせ、ついさっきまでは汗だくの乙女だったわけだから――どうしても匂いを気にしてしまう。臭くないのかな、なんて恥じらってしまうのも無理はないはずだ。

 

 今度ばかりは何がしたいのか、皆目見当も付かない。

 困惑していると、二人のおでこがコツンと突き合った。どうやら熱を計ろうとしているみたい。「うーん」と探るようにして唸り続けている。

 

「熱はないみたいだけど……」

 

 コナン君はどこか釈然としない様子だった。

 

 結局、高熱に苦しんでいるわけじゃないと分かっても、彼はなかなか私を解放してくれなかった。今までと変わらぬ姿勢のまま、間近で互いの視線が交錯している。

 

「瑠璃姉ちゃん」

「は、はい!」

 

 この短期間に何回名前を呼ばれたことだろう。

 ただ、今回はこれまでと違って鋭くハッキリ言い放ったものだから、自然と素直な返事をしてしまった。まるで、これから子供を叱り付けるような雰囲気を纏っていた。心なしか、どこかムスッとした相貌にも見える。

 

 コナン君、怒ってる――?

 

 わけもわからずビクビクしていると、すぐさま二の句が飛んできた。

 

「話してよ――」

「えっ?」

 

 打って変わって、今度は切実に訴えるような弱々しい語調だった。

 表情も、物憂げに沈んでいる。

 

 そんな彼を目にしていると、大体のことは察せられる気がした。

 

 たぶん、コナン君はもう気付いているんだと思う。

 私が何か大変な困難に直面していて、それに立ち向かっていることに。

 

 その上で、彼はこう言いたいのだろう。

 

 オレを頼ってくれ、と――

 

 大して長い沈黙じゃなかった。

 やや間があって、それから私が口を開こうとしたその時に、曲を歌い終えた木村さんが鷹揚な足取りで私達部外者組の席に戻ってきた。

 

「どうだった? オレの歌」

 

 満足げに頬を緩めて、蘭達に感想を尋ねている。

 二人は「とっても良かったです!」と拍手喝采を浴びせた。どうやら三人とも、隅で密談を交わしている私達二人には気付いていないみたい。

 

 私は思わずコナン君を抱き上げて横にどかしながら、身を乗り出した。

 

 良かった。安堵から息を漏らした。

 とりあえず歌っている最中は特に何もなかったみたい。

 

「よお、克己! 俺にもそのオニギリ取ってくれよ」

 

 まだ腸が煮え返る思いなのか、山田さんはぞんざいな仕草で彼にオニギリを投げ渡した。

 

 私は注意深く彼の行動を追う一方で、目から脳に送られる視覚的情報を淡々と機械的に処理してみることにした。

 難しく考えようとするからドツボに嵌ってしまうんだ。もう時間はほとんど残されていないけど、いっそこれくらい大胆な方がいい。

 

 オニギリが欲しい、食事がしたい、()()()()()()()()――

 

 連想のように繋げていってそこまで辿り着いた時に、私は雷に打たれたような衝撃に襲われた。

 

 そうか――

 なんでもっと早くこんな単純な事実に思い至らなかったんだろう。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()

 

 数千通りのやり方があるわけじゃない。

 ナイフで頸動脈を切り裂く、銃で心臓を撃ち抜く、鈍器で頭部を打ち据える。そのいずれにしても、結局は「ターゲットの近くにいる必要がある」という制約が付き纏うわけだから、今の寺原さんには実践可能な手段がさらに限定されてしまう。

 

 木村さんを死に至らしめる、そのやり方がやっと分かった。

 

 寺原さんには打って付けの方法じゃないか。

 『刺す・撃つ・殴る』に共通して必要な技量と腕力がいらない。数十キロと離れた位置であっても仕留めることができる。

 

 『毒殺』だ――

 

 木村さんがオニギリを頬張ろうとしている。

 ()()()()が、今訪れようとしている。

 

 確証なんてあるわけがない。全て推測の域を出ない。

 それでも私は、もうそれしかないと決め付けて行動に移していた。

 

「ダメだ!」

 

 無意識に叫び声を上げながら、立ち上がった。

 

 最悪、ここで床を踏み抜いたような感覚に襲われて派手にもんどりを打ってしまったら、その時点でゲームオーバーだっただろう。さっきまであんな状態だったから、そこが心配だった。

 思いのほか、拍子抜けするほどしっかりしていた。全然膝が笑っていない。コナン君のおかげか。本当に、彼には幾千の言葉をもってしても礼に尽くせない感じがする。

 

 弾かれるような勢いで私は飛び出した。

 彼から最も遠い位置に座を占めていたことを、心底悔やんだ。間に合うだろうか。

 

 蘭や園子を突き飛ばすようにして脇に追いやり、彼の懐に飛び込んで腕を振り上げる。

 力加減なんて考慮する余裕はない。渾身の力で振り下ろされた平手は、彼の前腕部に命中した。パァンと乾いた音が響き渡る。

 

 木村さんを黄泉の国へ誘うはずだった悪魔のオニギリは、彼の口の先に触れる寸前で手のひらからこぼれ落ちた。

 

 床を転々と転がっていった――

 

 

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