ボクっ娘幼馴染に配信チャンネル乗っ取られたらバズり倒した   作:世嗣

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次回から二章と言いましたが少しその前に番外です。
時系列は木綿季がヒロの配信に乱入する一週間前くらいです。



幕間 藍子とヒロ

 

 

 

 ボク/私にとって『諦め』は日常だった。

 

「お前らビョーキ? なんだろ、近くに寄んなよ!」

 

「ひっ、触らないで……」

 

「紺野菌タッチー! 早く消毒しろよー」

 

「……紺野さん、その、周りがみんな怖がっていますから、ね」

 

 ボク/私が悪いんじゃないと、お医者さんは言ってくれた。

 科学は進歩している。しっかり治療を続けていけば元の生活にだって戻れる、と。

 

 でも、治療は辛くて、日に日にやつれていくママを見るのが悲しくて涙を流してしまうこともあった。

 

 でもそんなときママはボク/私にきまってこう言った。

 

「神様は耐えることのできない試練をお与えにならないの。だから、いつかまた一緒に笑える日が来るわ」

 

 本当にそうだったらいいな、と私は思った。

 

 ママの言葉で話して欲しい、とボクは思った。

 

 また笑える日なんて来るのかな、とボク/私は思った。

 

 そんな都合のいいこと、あるとは思えなかったから。

 

 でも、そんなボク/私の元に「ヒーロー」はやって来た。

 

 彼は全然凄くなかったし、賢くもなかったし、口は悪かったし、それでいてとてもカッコ悪かったけど。

 

 それでも、やって来た。

 

 ボク/私を、もう一度笑顔にするために。

 

 

 

 

 

 

 

 紺野藍子。

 カトリック教徒の母親と、少し忙しいビジネスマンの父親の元生まれた。

 2011年生まれの双子の姉妹。

 なんら特筆すべきステータスなんかない。

 別にすごいお金持ちでもないし、伝記にのってるなんとかとかいう人みたいに貧乏なわけでもない。

 

 それが、私。

 

 でも、ひとつだけ。たったひとつだけ、ほかの人と―――『普通の人』と違うところがあって、そしてその違いが、何よりも大きい。

 

 HIVウイルスキャリアー。

 日本語にするとヒト免疫不全ウイルス保持者。

 その、そこら辺の人に「不治の病といわれて思い浮かぶものは何ですか?」って聞けば癌の次くらいに名前が上がりそうな病気につながるウイルスに私は感染していた。

 ううん、正確には私だけじゃない。

 双子の妹の木綿季と、私たちを生んだママもそのウイルスに侵されていた。

 

 きっかけは私たちの出産のときだったらしい。

 ママは出産のときに双子の私たちを出産するために帝王切開を行った。その時に輸血も。

 そして、それが運悪くHIVウイルスに感染していたんだそうだ。

 

 お医者様を恨むつもりなんかこれっぽっちもない。

 運だ、運が悪かったとしか言えないと思う。

 

 幸い発見が早かったおかげでパパへの感染は防げたし、いい先生にかかれたおかげで治療も早く始められて、そのおかげで致命的な悪化は防げた。

 いま思えば、物心ついた時から続いたつらい治療を耐えられたのはママがいてくれたおかげだった。

 

 いつも笑顔で、神様についてのいろんなことを教えてくれたママ。

 神さまは私たちに乗り越えられない試練はお与えにならない。だから信じて祈っていればきっと普通に暮らしていけると。

 幸い私たちは薬のおかげである程度は悪化が抑えられた。

 お医者さまは「まだ油断はできないけど、普通に暮らす分には大丈夫だよ」と言ってくれた。

 

 神様に祈りが通じたと思った。ママのいうことは正しかったんだ!

 

 でも、それは私と妹に限った話でママへの試練は、続いた。

 

 日に日にやつれていくのがわかった。話せる時間もどんどん減っていった。

 私も妹の木綿季も必死にお祈りしたし、毎日お見舞いに行った。

 けど結局、私たちが小学二年生の夏に、ママは亡くなった。

 

 カトリックにおいて死は悪いことじゃない。

 次の、死んだ後の長い命の始まりなんだと、神父様は教えてくれた。

 

 ならママは、試練を乗り越えて、今は幸せになっているんだろうか。

 

 ママの告別式が終わると、木綿季は私にしがみついて大声で泣いた。

 髪が短くて男の子と間違われることもあった木綿季がぼろぼろ涙を流して。

 

 涙が止まらない大切な妹を抱きしめながら決めた。

 

 これからは私が強くなろう。泣かないようにしよう。

 死んでしまったママの代わりに私がなろう。

 

 だって、私はお姉ちゃんなんだから。

 

 

 ママがいなくなって、三人家族になって、私たちは引っ越すことになった。

 といっても、正しくは今まで通院のために病院の近くに引っ越していたのだけれど、通院の数が少なく済むようになり、もともと住んでいた家に戻ることになったのだ。

 

 まだママが元気だったころに家族で住んでいた真っ白の家。

 隣には古めかしい和風のおうちがあって、前まではおじいさんとおばあさんの二人暮らしだった。

 

 引っ越すにあたって三年生の春に転校することになった。

 前の学校は休みがちで友達もあまりいなかったし、うっすらと私たちの体のことも広まりかけていたし、あまり未練はなかった。

 

 HIVウイルスは恐ろしくはあるが、なにも日常生活の中で感染するほどの感染力はない。粘膜接触なんかでもすれば違うらしいけど、ジュースの回し飲み程度じゃ移る危険性なんてほとんどないらしかった。

 だから、パパと先生は転校した先ではHIVキャリアーであることは最低限、学校側に伝えるにとどめることを決めた。それが最善だと。

 

 その話を説明されたとき、かくしごとはよくないんじゃない? と首をかしげるユウの頭を、「君たちを守るためだ」とパパがやさしくなでていたのを思い出す。

 

 私たちの病に完治はない。

 薬を飲み、常に悪化を防ぐための対策をして、生きていく。

 それはか細い平均台の上を一歩一歩踏み外さないように歩いていくようなもので、その細い道を踏み外せば私たちは下に落ちてしまう。

 そこまでも深い、奈落の底に。

 

 新しい学校には三年生の春から通うことになった。

 

「う~、緊張するよ~!」

 

「ユウ、もうほら少しは落ち着いて。あんまりそわそわしてるとほかの人から変な目で見られちゃうよ」

 

「だって知らない人ばっかだし、それに姉ちゃんとも違うクラスになっちゃったし! それに、ボクらは……」

 

「心配性だなあ、ユウは。大丈夫だよ、倉橋先生もそう言ってたでしょ? 学校の先生も助けてくれるってそういってたし、ほらリラックスリラックス」

 

 空き教室で、先生が呼びに来るのを待つ間、ぽんぽんとユウの頭を撫でてやる。

 ユウの頬がへんにょりと緩む。

 

「へへ、なんか姉ちゃんの撫で方ママに似てるね」

 

「そう?」

 

「うん。やさしー感じ。すごいな、姉ちゃんは、こういうときも落ち着いてるし、家のことだってばっちりするし」

 

「ふふ、お姉ちゃんですから」

 

 そう、お姉ちゃんだから。

 だから私は頑張らなきゃ。頑張ろうと決めた。

 

 幸い転校した学校はいいところだった。

 転校生の私も疎むことなくクラスの輪に入れてくれたし、それはユウのクラスもそうみたいだった。

 ユウが毎日「今日はクラスの友達とさ~」って言って楽しそうに報告してくるのを聞いてパパも嬉しそうで。

 

 このころからちょうど昇進して忙しくなってきたパパに代わって家事をするようになった。

 レシピはママが残してくれていたから、料理はそれを真似するだけでよかった。

 料理を作っている間は、死んだママがそばにいてくれるような気がしてさみしくなかった。

 

 ユウと分担して洗濯はユウの仕事に、料理は私の仕事になった。

 

 そういう生活がしばらく続いたころ、ある日ユウが初めて家に友達を連れてきた。

 

「姉ちゃん紹介するよ、この子隣の家の緋彩(ひいろ)くん!」

 

緋彩(ひいろ)英雄(ひろ)です。よろしく、紺野のねーちゃん」

 

「はあ、よろしくお願いします」

 

 隣の家、おじいちゃんとおばあちゃんだけじゃなかったんだ。

 

「すっげー! マジで紺野と同じ顔じゃん! 双子ってマジなんだな!」

 

「もー、だから姉ちゃんとボク似てるよって言ったじゃんか」

 

「いやそれでもここまでとは思わねえって。いやーすげえな、神秘だな。マジカルだな。そういやライダーにはあんま双子のキャラとかいねえな」

 

「らい……?」

 

「あー、なんでもないよ。気にしないでくれ」

 

「姉ちゃんテレビ借りるね。緋彩くんがゲーム持ってきてくれたんだ! 姉ちゃんもする?」

 

「んー、私はいいかな。借りてきた本読んじゃいたいし」

 

「そっか。じゃ、いこ緋彩くん」

 

「うん。じゃあお邪魔します!」

 

 黒髪の、いたずらっぽい笑顔の男の子。

 一回家に寄ってきたらしい彼は、大きなリュックサックからがちゃがちゃとゲーム機を取り出しながらうちのテレビに接続していく。

 

「つーか、紺野の家まーじでゲームなにもねえのな」

 

「あー、うん。ボクも欲しかったけど、あんまりわがまま言うのもよくないかなって」

 

「まじめだなあ紺野は。ま、その気持ちもわかんねえでもないけど。っしできた」

 

「わ、ついた! ついたよ緋彩くん!」

 

「ったりめえだろ。つかなかったら問題だっての」

 

「で、でもボクこういうの初めてで!」

 

「こんなとこで盛り上がってちゃゲームやり始めると紺野ワクワクで死んじまうぞ」

 

「―――っ、それは、やだな。死ぬのは、嫌だ」

 

「? だよな。ほら、リモコン持てよ」

 

「うん、おおー、すごい、ボタンがいっぱい……緋彩くんはこれが全部何かわかるの?!」

 

「紺野ほんといい反応するなー」

 

「そ、そうかな?」

 

「おうとも。くく、これなら俺が紺野に初勝利を飾るのも遠くないかもな……」

 

「ふふ、かけっことテストの点と、あとこの前のドッジボールに続いて四戦目だね!」

 

「見てろ! 俺はこれで紺野に勝ーつ!」

 

 テレビの前でワイワイとゲームをするユウと緋彩くんを、ソファに座ってぼんやりと見る。

 

「なんでさっきからボクのカービィばっかねらうの! ほかにもNPCいるじゃんかあ!」

 

「ククク……獅子は兎を狩るのにも全力なんだよ。ヴェハハハハ! いけえ俺のドンキーコング!」

 

「あー、やられるやられる! わああああっ!」

 

「クククそんな声出しても……ほぐっ! 紺野おま、リモコンと一緒に体を動かすな! いてっ、いてっ、当たってんだよさっきから!」

 

「わああああ、あれ、なんか緋彩くんのドンキーコングがNPCのマリオにやられてる」

 

「オ・マ・エ! お前の肘うちのせいなの!」

 

「え、えへへ、ご、ごめん?」

 

「ごめんでいいなら警察はいらないんだよなあ。ほらもうちょいちゃんと謝りなさいよ」

 

「ええと、ごめん……ボク緋彩くんがNPCに負けちゃうくらいの腕なんて思いもしてなくて……」

 

「なぜ突然あおった????」

 

「?」

 

「上等じゃねえか! もう一戦やってぼこしてやるよ!!」

 

「え、もう一回やれるの? やたっ」

 

 ユウのあんな顔、なんだか久しぶりに見るかも。

 ママが死んじゃってからは、どこか無理してる時もあったから、ああいう風に笑ってるのを見るだけで、なんだか私もうれしい。

 

 緋彩くんはそれからも時々私たちの家に遊びに来た。

 なんでもユウと緋彩くんはどっちがクラスで一番すごいかの競争をしてるらしく、四戦目の今はゲーム対決をしてるらしかった。

 

「ねえねえ、緋彩くん、なんでゲームこんなに付き合ってくれるの?」

 

「あん?」

 

「だって緋彩くんとボクいろいろゲームしてるけど、最近は遊んでるだけっていうか、勝負なら君の勝ちでついてるような……」

 

「なーにいってんだ、オマエ初心者。俺熟練者。そもそも勝負の土台に立ってねえよ、いままでのは全部練習だ」

 

「おお、結構フェアなんだね」

 

「当たり前だ。俺は仮面ライダーに……こほん、まあ正々堂々とした正義の男になりたいからな。弱い者いじめはしない」

 

「でも緋彩くんボクにまあまあの割合で負けてない?」

 

「うるせぇ! まだ俺全然本気じゃないだけだから。いまは紺野にゲーム教えてるターンだから! そのうち紺野が俺の持ってるゲーム全部クリアしたらそのうち戦いを挑むから! 覚えてろよ!」

 

「ぜ、ぜんぶぅ!? それって緋彩くんの家にあるあのたくさんのやつをひとつ残らずやった後てこと!?」

 

「あたりめーだろ。いろいろやらないと何が俺に有利で紺野に不利で俺が一番勝ちやすいゲームなのかわかんねえだろが!」

 

「いきなり人間が小さくなった……」

 

 緋彩くんといるユウは本当に楽しそうだった。

 それこそ、ゲームをやろうと思わないし、自分じゃ買おうとも思えない私が、ちょっぴりゲームに興味を持っちゃうくらいには。

 

「ふうん、これがユウたちがやってるぴこぴこかあ」

 

 つんつん、といつの間にかウチに置きっぱなしにされるようになったゲーム機を触る。

 電源つけるのってここを触ればいいのかな……。

 

「なに、したいんすか、ゲーム」

 

「ひゃああああっ!」

 

「うわあああああ!」

 

 え、だ、誰っ!? 

 

「って、緋彩くん? ユウは……」

 

「いまトイレに行きましたよ。あ、これそこのコンビニで買ったポテチです」

 

「ど、どうも」

 

 レジ袋を受け取って……なんか、じーっと見られてる。

 

「あの、なにか?」

 

「やりたいんすか、ゲーム」

 

「え、えと……」

 

 なんていえばいいんだろう。

 緋彩くんとは別に仲良くはない。うちに来るものだから挨拶くらいはするけど、雑談なんかしたこともない。

 というか私の呼び方まだ紺野のねーちゃんだし。

 

「おっまたせー、緋彩くん今日のゲーム……あれ、姉ちゃんどうかした?」

 

「ううん、なんでもないの。私お皿あらうから、二人は楽しんで」

 

「えと、姉ちゃんももしかしてゲーム」

 

「ううん。私のことは気にしないで。そういうの、よくわからないし」

 

 ユウは少し不思議そうにしてたけど、きっと気にしないだろう。それくらい緋彩くんと遊ぶのは楽しそうだったから。

 ほら、だから今だって私と緋彩くんをちらちらと見比べている。

 

「緋彩くん、あ、あのさっ」

 

「……よし、紺野、今日のゲームだけどマリオパーティするぞ」

 

「え、パーティ? なんだっけ、双六みたいなやつだっけ?」

 

「おう。あれは割といろんな友達の家でもやるやつだからな。だが大変困ったことが一つある」

 

「困ったこと」

 

「このゲームさ、パーティゲームだからやーっぱ二人じゃ盛り上がらねえんだよなぁ~」

 

「そうなの?」

 

「ったりめえよ。ISSAのP.A.R.T.Yでも老若男女はシャッフルしろって言ってるしな。パーティはそういうものだ」

 

 一茶のパーティ……俳句とかよむのかな。

 

「まあそういうわけで、いるんだよな、今日のゲームには三人目」

 

「ああ、なるほどいるんだね、三人目が」

 

「そう、わかったな?」

 

「うん、バッチリ」

 

 二人が顔を見合わせて、ニヤッと笑った。

 そして、今度は示し合わせたように私に目を向ける。

 

「な、なんで私を見るの?」

 

「紺野いけ捕まえろーっ!」

 

「おっけー! 姉ちゃんそういうわけだから一緒に遊ぼうよー!」

 

「わ、私はそういうのわからないから……」

 

「くくく、残念だったな俺はお前の意見は求めん! へへ、スウォルツのセリフちょっと言ってみたかったんだよな」

 

「ほらほら姉ちゃんリモコンだよ、座って座って」

 

 ユウがニコニコ笑ってリモコンを私にもたせるとすとんと左に腰かけた。

 

「パーティゲームは基本三人以上で遊ぶんだ。なにせ、パーティだからな、二人じゃダメなんだよ、二人じゃコンビになっちまう」

 

 そのさらに左、ユウの隣にリモコンを持った緋彩くんが腰を下ろした。

 

「でも、私ゲームのこと何もわからないし」

 

「なあにいってんだそれがいい! 弱いやつが増えるとカモができて俺が勝ちやすい!」

 

「清々しいほどの器の小ささ! ボクちょっと驚いちゃったよ」

 

「やかましいわ。弱者は強者に食い物にされるもんだ、そうバロンもいってた」

 

「バロン……誰?」

 

「ん、あー、気にすんな! 大したことじゃねえ! ぶねえぶねえ、ついラネタ出すのはやめなきゃな

 

 もごもごと何かをごまかしつつ緋彩くんは、体を倒してユウ越しに私に向けて笑顔を見せる。

 鋭い犬歯がのぞく、ニヤッとしたいたずらっぽい笑顔。

 

「ま、そういうわけだ、大人しく俺と紺野に付き合ってくれや、紺野のねーちゃん」

 

 強引すぎる言い分だった。

 顔にはどうだやってやったぜとありありと書いてあって、私を巻き込んだことに勝ったとすら思ってそうだった。

 

 でも、わかる。

 彼は私がゲームを触ってるのを見たから、それで私を巻き込むことに決めたんだ

 

 別に友達ではない。互いに名前で呼び合うほどの中でもない。

 きっと学校であっても一緒に遊ぶことはないと思うし、きっと趣味も合わない。

 

 でも、なんとなく悪くはない人なんだろうなってことは、わかった。

 

 しばらく時間が過ぎて、緋彩くんが私たちの家に来るのが当たり前になったころ。

 私も時折二人のゲームに混ざるようになった。

 初めてのゲームのとき私の運が良かったのか流れるように一位になっちゃって、最下位の緋彩くんがムキになっちゃったんだ。

 

 二人といっしょにやるゲームには私にはよくわからないものもあった。なんかボタンをぽちぽちする格闘ゲームとか、戦闘機が飛び回ってるシューティングとか。

 

 でも、三人でやれば不思議と退屈じゃなかった。

 緋彩くんが自分の家からゲームを持ってきて、ユウがやり方を教えてってせがんで、教えてもらったことを私に自慢げに見せてくる。

 そういう時間は、楽しかった。そう、楽しかったんだ。

 

 いままでこんなことはなかった。

 前の学校では私たちが病気であると周囲に知れ渡ってたせいで、私たちに近づいてくるような人はいなかった。

 だから、ユウにも……私にとってもこういう「同じ歳くらいの子とゲームで遊ぶ」っていう当たり前は、初めての経験だったんだ。

 

 私と緋彩くんの関係をなんと言えばいいんだろう。

 ユウとは違って友だちというほど近くなく、かといって他のクラスメートたちと同じく知り合いというほど遠くない、そういう不思議な距離感。

 ママなら何かいい答えを知ってたのかな。

 

 緋彩くんがうちに通い始めて半年近くが経って、私たちは四年生になった。

 学年が変わっても、緋彩くんとユウのゲーム対決は続いていた。

 

「紺野もかなりゲーム上手くなってきたな」

 

「ふっふーん、これだけ毎日やってるしね。ガンガン上達してるの感じるよ!」

 

「まったくだよ。ったく、俺紺野が来るまでゲームも足の速さも一番だったのによ」

 

「二人とも、ゲームもいいけど適度に休んだ方がいいと思うよ。せっかくジュース買ってきてるんだし飲んだら?」

 

「のむー! ボクグレープのやつね!」

 

「あ、グレープはじゃんけんで決めるって話したじゃねえか!」

 

「はやいもの勝ちだもーん。それに今日はボクが勝ち越ししてるし文句は言わせないよ!」

 

「むむ……」

 

 冷蔵庫から紙パックのグレープジュースを手に取って笑うユウに、緋彩くんは言い返せないようだった。

 しばらくして仕方なさそうにりんごとオレンジの紙パックを取るとちらと私を見た。

 

「紺野のねーちゃんはなに飲む」

 

「じゃあ、りんごを」

 

「あいよ。ほら受け取って」

 

 ぽいっと彼がりんごのジュースを私に投げ渡す。

 危ないなぁ。とれるように投げてくれたのはわかるけど、でもこういうのはよくないと思う。わざわざ言いはしないけどさ。

 

 ストローを取って、あれ、うまく取れないや。

 こういう紙パックのジュースのストローってなんでこんなに取りにくいんだろう。

 

 かりかり。

 

「にしても、もうそろそろかもなあ」

 

「そろそろ、って何が。緋彩くん」

 

「あ? んなもん俺と紺野のゲーム対決に決まってるだろ。そもそも俺がここにきてるのそれが理由ってこと忘れてないか?」

 

「え……」

 

「えって、なあにおどろいてんだ。まったく紺野はどこか抜けてるよなあ」

 

「そ、そうかな。そう、だよね……緋彩くんがボクと遊んでるのはボクと決着をつけるためだもんね……」

 

 かりかり。

 まだ私はストローを開けれてないのに、ちう、とユウはジュースを飲む。

 

「なにぶつぶつ言ってんだよ」

 

「べつに、なんでもないし」

 

「そのセリフで本当に何もなかったやつはこの地球が始まって以来いないと思うが」

 

「なんでもないもん!」

 

「ふーん。じゃあ、そんな素直じゃねえやつのジュースは没収しちまうぜー」

 

「あ、ボクの!」

 

 もごもごいっていたユウの手からいつの間にか緋彩くんがジュースを取り上げていた。

 それはさっきまでユウが口をつけていたストローが刺さったまま。

 

「もー、返してよー!」

 

「やーだね。ほれ、何言いかけたのか言ってみろっての」

 

「やだ! もうかえしてってボクのジュース!」

 

「へっへーん、お前が言うまでこのままだぜ。お前があんまり頑固だと俺がジュース飲んじまうぞー」

 

「―――っ、それはだめっ! 返して緋彩くん!」

 

「なんだよムキになるなって。回し飲みくらい普通にするだろ。てかもともと俺今日グレープの気分だったんだ、一口もらうぜ」

 

 あ。

 回し飲みって、それ、ユウが口をつけた時のままで、それって―――それは、私たちの。

 

 口を開こうにももう遅い、緋彩くんはユウをからかおうとストローに口を近づけて―――。

 

や、やめてっ! 

 

 乾いた音が響いた。

 それがユウが緋彩くんの頬を叩いた音だったと分かったのは、緋彩くんが目を丸くして手からジュースのパックを取り落としてからだった。

 

「あ、ぼ、ボク、そんなつもりじゃ……」

 

 ストローからこぼれたジュースが、じんわりとカーペットにしみを作っていく。

 

 叩いたのはユウなのに、一番自分の行為に驚いているのはユウみたいだった。

 わなわなと体が震えて、瞳がゆらゆらと揺れている。

 口は何かを言おうとしているが、それが意味ある文を作り出すことはない。

 

「ひ、緋彩くんボク」

 

「いや、ごめん。悪ノリが過ぎた。……とりあえず今日は帰るわ」

 

「そ、そんな、わ、悪いのは」

 

「俺だ。とりあえず頭冷やすよ」

 

 緋彩くんは頭をガシガシとかくとまた「ごめん」といってランドセルを手にもって私たちの家から立ち去った。

 ユウの弁明を聞かなかったのは、いまのユウの態度から自分が()()()()()()()()()()()()()()()のを感じ取ったからなのか。

 

「ユウ……」

 

「ね、ねえちゃん、ぼ、ボク……緋彩くんが、ボクのにふれそうで、それで」

 

「うん、わかってるから、わかってるから」

 

 ぎゅっと震えるユウを抱きしめ、頭を撫でる。

 

 私たちはHIVキャリアーだ。

 HIVウイルスは血液や、性的行為や、私たちのような母子間での感染を主とするが、実はイメージされているほどにその感染力は強くない。

 

 同じ服なんか着ても問題ないし、一緒に食事をしても大丈夫。鍋なんかも問題ないし、お風呂もプールも……キス、だってほとんど問題にならない。

 

 だから、ジュースの回し飲みだって本当は問題がない。

 

 でも、それでも、ユウは緋彩くんにあれを飲ませるわけにはいかなかった。

 どんなに危険はないと分かっていても、もしもを考えてしまう。

 もしも、もしも彼が口をつけて飲んで、なにか運悪く感染してしまったら。

 自分たちと同じになってしまったら。

 

 この学校で出会った、たくさんのはじめてを教えてくれた彼の未来を縛ることになったら。

 

 きっと、耐えられない。許せない。許してくれない。もう、会えない。話せない。

 もう、かつてのようには戻れない。

 私たちが「そういうもの」だと知った人は、きっと私たちには優しくしてくれない。

 

 それがわかってるから私たちの体のことは隠されている。

 

「う、うううう……ぐすっ、う、うう……」

 

 震えるユウの体はびっくりするくらい頼りない。

 きっと、後悔してる。でも、あの時のユウはそうせざるを得なかった。

 

 ならせめて、私は泣き止むまでそばにいてあげよう、だって私はお姉ちゃんなんだから。

 

 ああでも、カーペットのジュースのしみ、元に戻せるかな。

 

 休みが明けて、月曜になっていつものように放課後になった。

 でも、緋彩くんはうちに来なかった。

 別にもともと毎日来ていたわけじゃないし、でも、ああいうことが起きた後に来られないと、いろいろ心配になってしまう。

 

「……降ってきちゃったな」

 

 朝の降水確率は20%とかだったのに、やっぱり100%の天気予報って難しいんだ

 でも一応傘持ってきておいてよかった。ユウの靴はもうない。一応傘を持っていくように言っておいたし、たぶんクラスの誰かと帰ったのかもしれない。

 緋彩くんと帰ってるのなら、それが一番なんだけど。

 

「あれ、私の傘……」

 

 おかしい。ちゃんと持ってきたはずなのに。

 誰かに間違えて持って帰られたのだろうか。

 ……それなら誰かに入れてもらうしか、あ、佳代ちゃんがいる。

 佳代ちゃんは私の隣の席の女の子で、時々おすすめの本を紹介しあったりする。

 助かった、佳代ちゃんは同じ方向に帰るし、きっと入れてくれる。

 

「佳代ちゃん、いまから帰るの?」

 

「こ、紺野さん、えと……」

 

「? どうかした?」

 

「べ、別に何でもないよ。じゃ、じゃあねっ」

 

「あ、うん、ばいばい」

 

 なにか、変だ。佳代ちゃんは私と同じクラスの友達で、先週の体育だって一緒に準備体操をした。

 あんな風に私の話を聞かずに帰るなんて、なんだからしくなかった。

 

「……どーしよ」

 

 雨は、やまない。

 

 さあさあ降って。ぽつぽつ落ちて。ぽちゃんと跳ねる。

 

 雨は、嫌いだ。

 体冷えるとじっとりと嫌な靄が体に染みつくような気がするから。

 その冷たさと気持ち悪さは、たぶん、私の知ってる一番いやな感覚に近い。

 ひたひたと歩いてくる死の足音、ずっと身近にあって逃げて逃げて、逃げ続けても私はその足音を振り切れない。

 一生この足音との追いかけっこをするしかない。それが私の人生。

 

 雨は、そういう私のこれからのどうしようもなさを思い出させる。

 

 最後には一人ぼっちになって、冷たくなっていく未来を、いやでも思い知らせてくる。

 

 だから、嫌い。

 

 いつの日か一人になってしまうなんて、思い知りなくない。

 

「お、紺野のねーちゃんじゃん」

 

 ふと名前を呼ばれた。いや、私をこう呼ぶのは一人しかいない。

 

「緋彩くん、いま帰りなの?」

 

「だな。日直の仕事でいろいろ居残りしろーって先生に言われちゃってさ」

 

「そうなんだ。ひとり?」

 

「友だちはみんな先に帰りやがった。はくじょーなやつらだよなー」

 

 ぶつぶつ言いつつ緋彩くんはシューズから靴に履き替えると傘立てから真っ黒の大きい傘を引っ張り出した。

 子ども用のじゃなさそうだから、お父さんとかから借りたのかな。

 

「あの、緋彩くんユウは……」

 

 緋彩くんが顔をしかめる。

 

「友だちと先に帰ってたよ。今日は、なんつーか、俺もあっちも気まずくて話せてない」

 

「あの、ごめんなさい。ユウは」

 

「みなまで言うな。わかってる、俺の悪ノリがすぎた。まったく、自分のクズでカスさがいやになる」

 

「……緋彩くんが悪いわけじゃないよ」

 

「んなわけあるか。人に嫌がられることをした方が悪くないなんてことこの世にあるわけない」

 

「……そうかな」

 

「そうさ」

 

 さあさあ。ぽつぽつ。

 

「……カサ、ねえの?」

 

「え?」

 

「だってさっきからずっとここにいるじゃん。それにここ紺野のねーちゃんのクラスの下駄箱じゃねえし、紺野がまだいるか探しに来たんだろ」

 

 思ったより、人をよく見てるんだ。

 

「うん。実は誰かに間違って持った帰られちゃったみたい。あはは、お気に入りだったんだけどね、紫の、ライラックの柄でね」

 

 でも、誰かにもっていかれてしまったものは仕方ない。きっと明日には傘立てに戻るはずだ。そうでなければ先生にでも相談すればいい、うん、そうだ。

 

「ふーん、そうか」

 

 緋彩くんは私をしばらくじっと見ていたけど、やがて玄関から外に出て大きな傘を開いた。

 

「じゃあ俺帰るから」

 

「あ、うん。またね」

 

「……おう、じゃあ」

 

 雨の中、緋彩くんが一歩踏み出す。

 この時間、周りにはもう誰もいない。ただ雨のカーテンによる静謐だけがあたりを包んでる。

 

「あーーーーーくそ、ダッセェ」

 

 あれ、なんか緋彩くんが戻ってくる。

 

「ん、これ」

 

 差し出されたのは大きな黒い傘。さっきまで雨にぬれていたから滴る水滴が床を濡らしている。

 

「使えよ。帰れないんだろ」

 

「え、じゃあ緋彩くんはどうやって帰るの」

 

「俺は走る。男だし、そのくらい別に大したことじゃねえよ」

 

「だ、だめだよ。風邪ひいちゃうよ。それなら―――」

 

 ふたりでと言いそうになって、迷う。

 いいんだろうか、そんなことして。緋彩くんはユウの友だちで、私とは友達なんかじゃなくて。

 それにもし私なんかと帰ってるのを見られたせいで何か言われたりしたら。

 

 ……私は。

 

「それなら、緋彩くんが使ってよ。私はユウに電話して傘を持ってきてもらうし」

 

 そう、言うしかない。

 そうだ、だから緋彩くん―――。

 

「やかましい、お前の意見は求めん。俺のカサ渡すの決定事項だから」

 

「へ、な、なんで」

 

「俺に質問するな―――じゃない、コホン、質問は受け付けない。ほら、いいから!」

 

 緋彩くんが私の手を取って強引に傘を握らせた。

 

「じゃーな! 返すのはいつでもいいから!」

 

 緋彩くんが雨粒のカーテンに突っ込んでいく。

 よく聞こえないけど「アギトのオープニングみたいだ!」って言ってる気がするけど、何のことだろう。

 

「傘、もらっちゃった」

 

 開いてみると、ばさっといつもより大きな音がして視界一面が真っ黒になる。

 

「……やっぱり、悪い人じゃない、よね」

 

 降り続く雨の中、大きな傘を開いてもう見えなくなった背中の影を探しながら、手をすり合わせる。

 

「温かかったな」

 

 手にはまだ、握られたときに温かさが残っていた。

 

 

 なんとなく、あの人なら大丈夫かなって思った。

 

 不器用で口は悪いけど人のことはよく見てて、素直じゃないけど優しくて。

 いまはちょっと気まずくなってるけど、明日になればきっと元通りになる。

 だってユウが緋彩くんのことがすごく好きなのなんか見てたらわかる。

 すぐに話したくなって、二人は仲直りして元通り。

 

 そうなると思った。そうなるはずだった。

 そんな「あたりまえ」、ちょっとしたことで壊れるなんて嫌というほど知っていたはずなのに。

 

「おはよー」

 

 その日、朝から「なんか変だな」と思った。

 いつもならあいさつしたらクラスからはあいさつが返ってくるのに、今日はそれがなかった。

 学級目標に「きちんとあいさつをしましょう」と学年初めにみんなで決めた時から、みんなであいさつをしあおうというルールがあったのに。

 

「おはよ、佳代ちゃん。昨日は雨で大変だったねー」

 

「そ、そうだね」

 

 ランドセルを置いて、隣の席の佳代ちゃんに話しかけると、ひきつった顔を浮かべられた。

 

 おかしい。

 

「っぱ、紺野ってさ」

 

「ばか聞えんぞ」

 

「でも聞いてみてえよ。マジなんだろ?」

 

「それはそうだよ。お母さんが言ってたもん」

 

 おかしい。

 

「給食の時間ですよー、みんな班で食べてくださいね」

 

「あの先生、その、どうしても班じゃないとダメですか?」

 

「どういうこと?」

 

「その……だし」

 

「―――わかりました。じゃあ今日はみんなそれぞれで食べましょうか」

 

 やっぱり、おかしい。

 絶対に、なにか変だ。

 

 考えてもわからないじっとりとした不安に息が詰まる。

 そして、答えは、その日の昼休みにわかった。

 

「紺野さあ」

 

 給食が終わり、先生もいなくなって。私が一人になったとき、クラスメートの男子がにやにや笑いながら近づいてきた。

 

「お前、エイズとかいうビョーキなんだってな」

 

 当たり前の日常が、壊れていった音がした。

 

 その話が漏れたのはどこからだったのか、私にはよくわからない。

 あとでパパが学校に電話した時にわかったことだが、先生の誰か一人が保護者に漏らした私たちのことが、保護者を通して広まってしまったらしかった。

 

 でもその話は全然正確なんかじゃなくて、私たちが恐ろしい病気に感染してるって情報だけが独り歩きした。

 その結果、保護者たちから子どもたちへ「紺野さんの家の子には近づいちゃダメよ」って言われてしまうくらいまでになってしまった。

 

「ユウ、ユウ!」

 

 昼休み、逃げ出すようにクラスから出るとユウの教室に走った。

 不安と悲しさと怒りで訳が分からなくなって、まるで喉にやわらかい鉄を押し込まれたように、重くて、苦しい。

 

 でも、せめてユウだけならまだ、なんとかなるかもしれない。

 

「姉ちゃん……」

 

 でもユウのクラスに行って、まるで見えない檻に入れられてように教室の隅にいる妹を見てすべてを悟った。

 ユウも私と同じように、いやもしかしたら私より早く体のことを指摘されたんだろう。

 そうじゃないとこんな風にユウが今にも押しつぶされそうになってる理由の説明がつかない。

 

「いこうユウ」

 

 手をつかんでクラスからユウを連れ出す。

 ここに残したらダメだ。今はまずいったんどこかに行って、行って、それで。

 

「紺野と紺野のねーちゃん?」

 

 声が、聞こえた。

 

「おまえらなんでこんなとこにいんだよ」

 

 ユウの足が止まった。ユウの手がぶるぶると震える。

 背中の後ろにいる彼の声に、びっくりするくらい、心が波打っている。

 

「ひ、ひい―――」

 

「おいヒロなーにしてんだよ、もう昼休みだぜ。ドッジボールいくぞー」

 

 横合いから出てきた緋彩くんの友だちらしい男の子たちが、笑いながら緋彩くんと肩を組む。ついでのように、ユウの声をかき消して。

 

「いや、ちょっと待てって」

 

「いーや、またねえぞ。俺らのクラス2組に3連敗中だからな、そろそろやり返さなきゃ四年生としてのメンツにかかわる」

 

「そーだそーだヒロ、本なんか読む柄じゃねえじゃん」

 

「いや、でも紺野たちが」

 

「紺野? ああ」

 

 ちら、と友人たちの目が私たちに向けられる。それだけで体が凍り付いたように動かなくなった。

 知ってるんだ。あの目は、私たちのことを知っている。

 今に始まったことじゃない、もしかしたら、広まっていたのはずっと前で、それが表に出始めたのが今日だったというだけなんじゃ。

 

 にやっと、男の子たちが笑う。

 

「ほっとけよ、あんなビョーキ持ち。一緒にいたら移されるぞ」

 

「――っ」

 

「ちょ、紺野!」

 

 そのあとのことは、もうよく覚えてない。

 たぶん、その場からは逃げ出して、午後の授業は波風を立てないように受けて、それで家に帰ったはずだ。

 ランドセルを持ってユウと二人で家に帰ってたからたぶんそう。

 

「姉ちゃん……ぼ、ボク……」

 

「うん、わかってるから、わかってる」

 

 二人で玄関で抱き合う。お互いにここにいることを確かめるように強く。

 

「ボクらが、なにしたの……」

 

 ぽつんと肩に涙のしずくが滴った。

 その涙は止まらない。次々に流れ、滴り、弾けて跳ねた。

 

「なにも、してないよ、私たちは。だから、だから」

 

 次の言葉は言えなかった。だって涙がこぼれないように耐えるので精いっぱいだったから。

 口を開いたらそのまま涙がこぼれそうだった。

 

 ダメだ、泣いちゃだめだ、私はお姉ちゃんなんだから。

 私まで泣いたらユウがつらくなる。ただでさえ緋彩くんともう話せないんだ。

 私より、ずっとつらいはずだ。

 

 だから、私だけは泣いちゃダメなんだ。

 

「お前らビョーキなんだろ。近くに寄んなよ!」

 

「ひっ、触らないで……」

 

「紺野菌タッチー! 早く消毒しろよー」

 

「……紺野さん、その、周りがみんな怖がっていますから、ね」

 

 パパに相談した。倉橋先生に相談した。

 二人とも何度も学校に電話をかけて、時には先生とも話し合いに行っていた。

 倉橋先生はHIVウイルスについて丁寧に学校側に語ってくれたそうだ。

 私たちが元通り学校に通えるように、必死に。

 

 それでも、変わらない。

 子ども同士のことだから、と腰が重くて、学校側でもどうするべきか扱いかねてる、なんて言って。

 

 それでも私もユウも学校には通い続けた。

 いつかみんな分かってくれるはずだと信じて。

 

 話しかけてくれる友達がいなくても、給食をずっと一人で食べることになっても、体育で私のふれたボールに誰も触れたがらなくても、学校に来たら私のシューズがごみ箱に捨てられてても、学校に通い続けた。

 

 でも、変わることはない。

 

 私はこんなことじゃ諦めない。せっかく普通に学校に通えるようになったんだ。

 ママの分まで生きるって決めたんだ。ユウと二人で病気に勝つって約束したんだ。パパとユウと私の三人で幸せになろうって笑いあったんだ。

 

 だから、泣かない。だって、私はお姉ちゃんなんだから。

 

「でも、すこし、つかれちゃった」

 

 放課後、その日の夕飯の買い物に行く途中、見かけた公園でなんとなくブランコに座った。

 なんでそんなことをしたのかわからなかったけど、ブランコをこいでたらだんだん思い出してきた。

 この公園、まだママが元気だったころに来たことがあったんだ。

 

 もう4年前とかかな。あの頃はママも元気で、幼稚園は楽しくて、今度の運動会には藍子と木綿季の好物作っちゃうよ、なんて言われて。パパは運動会のためにカメラ買っちゃったよ、なんて言って。

 木綿季もかけっこで一等賞になるってはりきってて。

 

「あの頃は楽しかったな」

 

 じんわりと視界がにじんだ。

 

「あ、だ、だめ」

 

 だめだ、泣いちゃだめだ。

 そう思うのに一人で楽しかったことなんか思い出したせいで、今まで必死に抑えてた涙が次から次にあふれてくる。

 

「だめ、ないちゃ、だめ、なの……」

 

 目が熱い。ひっくと喉の奥が勝手に音を出した。

 なんで泣いてるのかもう自分でもわからない。

 

 ただ、一度心の中に現れた雨雲はもう心の中から動こうとはせず、ただやまない涙を降らせ続けた。

 

「う、うう、うううう……」

 

 ぼろぼろ零れて。ぽつぽつおちて。ぴちょんと跳ねた。

 

 こんな姿、ユウにもパパにもお医者さまにも絶対に見せれない。

 だれにも、こんな姿見せちゃいけない。

 

「そこにいるの、紺野のねーちゃんか?」

 

 それなのに、なんであなたはこんなとこにいるの。

 

 彼は不思議そうにこちらに歩いてきたのに、私の顔を見た途端いっそ滑稽なほどにあわて始めた。

 

「大丈夫か? どっかいてえのか?! 俺バンソーコーくらいならもってるけど」

 

 そうか、緋彩くんの家は隣とかユウがいってた。だから活動範囲も、買い物に行く店も同じなんだ。

 だから偶然通りがかってしまったってことなんだろう。いやな偶然だ。こんなの誰にも見られたくなかったのに。

 

「紺野のねーちゃん、ほんとうに大丈夫か?」

 

「だい、じょうぶ。こんなの、なんでもないから」

 

「何でもないって、そんなことないだろ! そんなに泣いてるんだぞ!」

 

「なんでもないのっ! 関係ないじゃんそんなの!」

 

「そんなこと―――」

 

「あなただって私のこと病気で怖いって思ってるんでしょ! それなのに同情されたって嬉しくない!」

 

「―――っ」

 

 ほら、黙った。

 

 わかってるんだよ、私。

 私たちが怖いと思っている人たちの多くは、HIVウイルスのことを()()()()()()()()んだ。

 どんなふうに感染するかわからない。どんなふうに対策すればいいかわからない。

 だから遠ざけて、わからないままでもいていいようにしてるんだ。

 

 それは、緋彩くんもきっとそう。

 彼は私たちの病気のことなんてきっとよくわかってないだろう。だって私たちが教えなかったんだから。

 わからないから、怖い。

 それは誰にだってある感情で、だからこそなくならない。

 

「いいよ、私なんかに優しくしないで。あなたが怖いなら、それでいいんだよ。私は平気だから」

 

「で、でもっ! きみは泣いてただろ! それなのに平気なんて、それは、それは嘘だろ!」

 

「大丈夫だもん」

 

「嘘だ! ならなんで誰もいないとこで泣いてたんだよ! 本当に大丈夫な奴は、泣いてるのに大丈夫なんて言わないだろう!」

 

「ああもう大丈夫だって言ってるじゃん! 平気なの! 大丈夫! 大丈夫じゃなきゃいけないの! 私はお姉ちゃんだから!」

 

「お姉ちゃんだからってそんなの」

 

「うるさいうるさい聞きたくない! 約束したんだもん! ママを安心させるために! 私はお姉ちゃんだから、がんばる、って、ぇ……」

 

 視界がにじむ。声が震える。

 もうさっきみたいにぽろぽろ零れてきただけじゃない、あふれた感情と一緒に、止まらない雨が降り続ける。

 

「だいじょうぶ、なの、わたしは、わたしは、おねえちゃん、だか、ら、ぁ」

 

 寒い。やまない雨で、体が寒い。

 

 

「違う、きみは、『お姉ちゃん』じゃないだろ」

 

 

 雨の中、熱い手に触れられた。

 

「え、ちが、わたしは、おねえちゃんで……」

 

「違うよ。違うだろ」

 

 顔を上げると、目の前に苦しげな顔をした彼の顔がある。

 何か感情をかみしめるように、でも真剣に、私を見つめている。

 

「きみは『お姉ちゃん』である前に、ひとりの女の子だろ」

 

「あ……」

 

 やまない雨の向こうから、光が一筋差した。

 

「俺は、俺はクズでカスだ。みんながきみたち二人を無視して、いないものみたいに扱ってるのを気づいて、何もできなかった、ううん、しなかった。怖かった。俺は、どうすればいいのかわからなかったんだ。本当に、ごめん」

 

 彼は思いを吐き出す、懺悔するように、何かの決意を固めるように。

 

「俺はクズでカスだ。でも、いま目の前で泣いてる女の子を見なかったようにするような奴にだけはなりたくない」

 

 だから、と彼が、熱い手で私の両手を握った。

 

「君の名前を教えてくれ。『お姉ちゃん』じゃない、君の名前を」

 

 心の中で降りやまない雨の日に、何よりも温かいその手から気持ちが伝わってくる。

 誰かのお姉ちゃんじゃなくて、『私』を見て頼む、彼の気持ちが。

 

「あい、こ。紺野(こんの)藍子(あいこ)。藍色の子どもで、藍子」

 

「藍子か。いい名前だな。俺のはちょっと変な名前だからうらやましいよ」

 

 彼が、私の涙を指で拭った。

 

「俺はヒロ。緋彩(ひいろ)英雄(ひろ)。緋色の彩りのひいろに、英雄でヒロ」

 

 ヒロ。緋色のヒロ。

 

「俺はクズでカスだ。それにガキだ。頭もいいわけじゃない。でも、それでも、いま泣いてる藍子を助けたい」

 

 助けたい、私を。彼が、助けてくれるの、私を。

 

「だから、こんな俺でも藍子を助けてもいいか」

 

 一人っきりの雨だった。

 ママが死んでから妹を守ろうとしてた。

 この世界には都合のいいことなんてなくて、すべてがうまくなんて行きっこなくて。

 やさしい人もやさしくない人もいて、それが当たり前で。

 

 私たちを助けてくれるヒーローなんて、いなかった。

 だって私たちは普通に暮らせるようになっても、いつか人より早く死ぬことが決まってて、でもここまでよくなったことが奇跡みたいなもので、だからこれ以上を望んじゃいけないって思ってた。

 

 でも、もしそうじゃないとしたら。

 これ以上を望んでいいとしたら。ずっと言えなかった、言っちゃいけなかった『その言葉』を言っていいんだとしたら。

 

 私は―――、私は。

 

 

「たすけて、ヒロ」

 

 

 彼が強くうなずく。

 

「わかった。なんとかする」

 

「なんとかするって、ほんとうに……?」

 

「ああ。きっと、俺の好きな仮面ライダーなら、そうする」

 

「かめん、らいだー?」

 

「ああ、言ってなかったけど、好きなんだよ、俺。今度、木綿季と一緒に見せてやるよ」

 

 彼が立ち上がって、私に手を差し出した。

 

「約束する。藍子の涙を、涙のままで終わらせない」

 

 雨の中差した一筋の光に、私は手を伸ばした。

 

 

 ヒロはそれから私たちのために走り回って、叫んだ。

 

「木綿季と藍子が俺たちに何をした! 何もしちゃねえだろうが! それなのに、わからないからって無視して、馬鹿にして、いじめてればそれでいいのかよ!」

 

 私たちは悪くないと、そう私のクラスにも、ユウのクラスにも、それどころか学年中に叫びまわった。

 

「わかんねえなら勉強すりゃいいだろ! 俺たちはそのために学校に来てんだろうが! 俺はこの前あの二人の担当のお医者様と話してきたぞ! 話してみりゃ感染力は弱いウイルスだってよ! なら無駄だろうが今やってる無視も全部!」

 

 ヒロが担任の先生を警察を呼ばれる寸前まで追いかけまわして、ついに根負けした先生に許可をもらって倉橋先生にHIVウイルスについて教えてもらう特別授業が行われた。

 

「楽しくねーだろーがよこんなの! お前木綿季と藍子の苦しそうな顔見て、それでも満足かよ! ちげーだろ! 少なくとも俺は一ミリも楽しくねえぞ! どうなんだはっきり言えやコラ!」

 

 走って、叫んで、私たちの隣でいつも目を光らせてて、何かがあれば狂犬のごとくかみついた。

 

 このころからヒロは私たちに自分が大好きだという仮面ライダーを見せてくるようになった。

 その熱量と言ったら驚くほどで、なんで今まで表に出してなかったのか不思議に思えたくらいだった。

 

 なんで今になって教えてくれたのって聞いたら、ヒロは頭をガシガシとかいて、恥ずかしそうに言った。

 

「木綿季と藍子は俺にすげー秘密を教えてくれたわけだろ。なら、俺も仮面ライダーと、それが好きになった理由を隠すのはフェアじゃないと思っただけ」

 

 変なところで真面目なんだねって、みんなで笑ったものだ。

 

「うるせえ! ……いまは、これだけだけど、ちゃんと全部話すから。全部さ」

 

 でも、そうした日々の中でも私たちを取り巻く環境は()()()()()()()()()()()

 ヒロが戦ってたのは私たちを取り巻く「世界そのもの」だったから。ヒロたった一人の声かけじゃ、大きくは変わらなかったんだ。

 

 でも、無意味なんかじゃなかった。

 

「藍子、ちゃん」

 

「佳代ちゃん」

 

「ごめんね、私、お母さんから藍子ちゃんとはもう仲良くしちゃだめだよって言われて、でも、本当は、まだお話したいことがあって」

 

「……それは」

 

「ゆ、ゆるして、もらえるとは、おもえないけど、で、でも、私もう一度、藍子ちゃんとお話ししたら、だめかな」

 

「うん。うん……! だめなわけ、ないよ……! だめなわけ……!」

 

 そうだ、無意味なんかじゃなかった。

 少しずつ空気の流れは変わっていった。

 前まで友だちだったみんなが、友達じゃなかったけど遠巻きに見ていた人たちが私たちに話しかけてくれるようになった。

 

 少しずつ少しずつ、そういう人は増えていった。

 

 学年が変わって五年生になるころには新任のやる気にあふれた若い先生が「君たちの力になります!」と意気込んで、クラスはずいぶんと過ごしやすくなった。

 

 

 きっとヒロのやり方は賢くなかったと思う。

 ヒロより賢い人は山ほどいる。ヒロよりみんなを納得させれて人もいただろう。

 

 でも、私たちを助けてくれたのはヒロだ。

 

 口が悪くて、素直じゃなくて、器が小さくて、不器用にやさしくて、ちょっと引いちゃうくらい仮面ライダーが好きな、犬歯がのぞくいたずらっぽい笑顔の、男の子。

 

 私のヒーロー。

 

 ありがとう。あなたに助けてもらって、良かった。

 

 私たちだけの、ヒーロー。

 

 

 

 

 

 夕飯の帰り道、急に雨が降り始めた。

 

「あらら、天気予報じゃ降らないって言ってたのに」

 

 傘を持ってき損ねてしまった。高校生になってこれは少し恥ずかしい。

 

「ユウに電話して傘を持ってきてもらうしかないかなあ」

 

 両手はエコバックでふさがってるから少し面倒だけど、どこかに一度荷物を下ろして……ああ、でももしかしたら、来てくれたりしないかな。

 何の根拠もないけど、なんとなく、ふらーっと、あの日みたいに。

 

「お、藍子やっぱここにいたな。急に雨が降り出したから途方に暮れてるんじゃないかって気はしてたんだ」

 

 雨の中、傘を両手に持ったヒロがやってきた。

 

「……さすがだね、私が傘持ってないのみてたの?」

 

「いんにゃ、急に降り始めたからな。一応傘立て確認しに行ったら、藍子の傘が残ってたからよ」

 

「なあんだ、そうなんだ。感心して損しちゃった」

 

「おいおい、わざわざ雨の中走ってきた幼なじみにそのセリフはねーだろ、そのセリフは」

 

「ふふ、ごめんごめん。ありがとう、嬉しいよ」

 

「ういうい、気にすんな。ほい」

 

 ヒロが傘を差し出してくる。

 あの日から変わらない、紫のライラックの私のお気に入り。

 

 ママが使ってたもので、小さい頃の私はそれがうらやましくてうらやましくて、薄紫の中に咲くライラックの花がかわいくて。

 そしたらママが私にプレゼントしてくれた、大切なもの。

 

 そして、いまこの傘にある思い出はそれだけじゃない。

 

「どうした、何か面白いことでもあったか?」

 

「んーん。ただ、この傘探して持ってきてくれたのもヒロだったなーって思い出して」

 

「……あー、どんだけむかしのこと蒸し返してるんだよ。いちいちいうなよ、そういうこと。恥ずかしい」

 

「ふふ、忘れないよ。だって、すごーくうれしかったもん」

 

「……さよで。ほら荷物どっちも渡せよ、帰るぞ」

 

「これ結構重いし両方持つのきつくない?」

 

「俺は男だぞ。このくらいわけねえって」

 

「ふうん、そっか。なら任せてもいいけど、その時って傘どうやってさすの?」

 

「あ」

 

 完全に忘れてた、という顔のヒロ。

 やっぱり。かっこつけたがりだからこういうところ詰めが甘いんだよね。

 

「半分にしよ? その代わり傘はヒロが持ってよ、一緒に入って帰ろ」

 

「い、一緒に?! いや傘二本あるんだけど―――」

 

「正直片手じゃ持つにはこれ重くて、大変なんだ。だからヒロが傘持っててくれると助かるんだけど」

 

「いやでもここら辺高校のやつらも来るかもしれないし」

 

「毎朝一緒に登下校してるし今更だよ」

 

「木綿季と似たようなこと言いやがって。それでもだな」

 

「私たち幼なじみでしょ? なら、等分だよね」

 

「……わーったよ。重い方渡せよ」

 

「うん。はいどうぞ」

 

 本当は、片手でも持てるけど。うん、せっかくなんだもん。

 

「ん」

 

「ん」

 

 ヒロが私のライラックの傘を開たので一緒に傘の中に入る。

 

 さあさあ。ぽつぽつ。

 

「そういえばさ、ヒロってなんでこの私の傘探してくれたの?」

 

「……その話まだ続けるのかよぉ」

 

「む、ヒロにはどうだか知らないけど私には大事な思い出なんだから。

 だってヒロってばわざわざ傘を間違って持って帰ったかもしれない同学年の人たちに片っ端から間違って持って帰ってないか聞いて回ったんでしょ?」

 

「まだ藍子の見つかってなかったみたいだったから。まあ結局はやっぱり間違えて持って帰った子が……藍子たちの体のこともあって返しにくくなって持ってたってオチだったんだがな。ありゃそのうち自分でも返しに来てくれただろ」

 

「でも、探してくれたのはヒロだよ。ありがとうね」

 

「……だからもういいってば」

 

 傘って不思議だ。

 この小さな空間が雨のカーテンで区切られて、他人が入ってこれない世界に変わる。

 見えなくなったわけでも、私たちの声が聞こえなくなったわけでもない。

 空いた距離はてのひら一つ分。

 でも、いまこの世界には私とヒロの二人きり。

 

 なんか、いいな。こういうの。

 

「それで、ヒロは結局なんであの時傘を探してくれたの?」

 

「……」

 

 ヒロはしばらく黙り込んでいた。

 答えはあるけど、恥ずかしいから言いたくない、といった雰囲気。

 でも、私が根気強くじっと見上げていると、根負けしたように口を開いた。

 

「藍子が、あの傘を大切にしてるの、見たことあったから」

 

「私が?」

 

「ああそうだよ。別に雨なんてあの時だけじゃなかったろ。木綿季を訪ねて遊びに行ったとき、雨の日は毎回あの紫の傘はきれいに手入れされておいてあった。

 だから、藍子にとってあれは、すげー大切なもの……だったんじゃないか、とか」

 

「すごいね、そんなの見てたんだ。あれ、でもその頃って私たちまだそんなに仲良くなかったよね。それなのに覚えてくれてたんだ」

 

「あーーーーー、こういう話になるから言いたくなかったんだよ! ハイソウデス! 俺はまだ仲良くもない女の子の傘の柄覚えてそれがめっちゃ大事にされてるなあとかちょっと気持ち悪い覚え方してましたぁ~~! これで満足か!?」

 

「なんでそんなキレてるの。別に気持ち悪くなんかないよ、すこし、びっくりはしたけど。むしろヒロがあの頃から私のこと覚えてたんだって嬉しいかも」

 

「……さよで」

 

 ふと、気づく。

 ヒロの肩が濡れていた。よく見れば傘だってほんの少し私の方に傾いている。

 

 ああ、もうほんとうにヒロはさ。

 

 あなたはずっとそう。

 泣いてる私に「助けていいか」と聞いたあの時から、あなたは全然変わらない。

 かっこつけて、それでいていつも誰かのことを考えられる自分でいようとしている。

 

 私のヒーロー。

 

 きっと、あなたはだれに対してもそうあろうとしてて、その中での特別に私はたまたま入れてもらえた。

 でも、一番じゃない。

 

 だって、ヒロは一度も私の名前を先に呼ばないんだもん。

 いつだって呼ぶときは「木綿季、藍子」の順番。配信の時だって絶対に「ユウキ、ラン」だ。

 たぶん、意識してのことではない。そんな区別ができるほど器用なタイプじゃない。

 

 だから、私はきっと永遠にヒロの中で「二番目」なんだ。

 

 でもそれでいい。私のヒーロー。私の一番好きな人。

 

 あなたが幸せなら、それでいいの。

 

 私はその幸せを横から見てる、それだけで幸せだ。

 あなたの幸せは私みたいな女じゃなくて、もっと、本当に大切な人とつかんでほしい。

 

 それでいい。それで、私はいいの。

 

 ああでもウィザードだったかな。あのヒロが見せてくれた仮面ライダー。

 絶望を希望に変える魔法使いが主人公で、彼には何よりも大切な女の子がいて、女の子も彼のことが大切で。

 でも、その女の子は途中で死んでしまって、そして最後には主人公は彼女の思い出を宝石みたいに抱きしめて生きていく。

 そういう物語。

 

 それを見た時はうらやましいなって思った。

 

 あんな風に、死んだ後も自分のことを大切に思ってくれるって、ほんとうにきれいだった。

 

「……ヒロ」

 

「ん?」

 

「私、いま楽しいよ」

 

「……そうかい。そりゃあよかった」

 

 ずっとこんな風にいれたらいい。

 いつか私たちの関係が終わるとしても、いまは、いまだけはこの気持ちを宝石みたいに抱いていたかった。

 

「……濡れちゃうよ」

 

 そして私は、いまこの気持ちを雨のせいにして、空いてた距離をそっと詰めた。

 

 

 

 




 
《紺野木綿季》
エグゼイドが一番好き。
ゲームを片手に病気の子どもを助けるヒーローの姿が目に焼き付いてるから。

《紺野藍子》
ヒロとユウキに付き合ってみた中ではウィザードが好き。
もう会えない彼女のことを胸に生きる主人公の姿を本当に美しく思ったから。

《緋彩英雄》
昔は仮面ライダーが好きなのを隠していた。
だいたいなんでも好き。


藍子がヒロに厳しいけど見捨てないのは、ヒロのヒーローの背中を知ってるから。
あの背中を覚えている限り藍子はヒロに失望することはなく、どんなに炎上したとしても、「ほんとうのヒロ」を知ってるから、彼を支えようと思ってる。
ヒーローのヒロを知ってほしいと思いつつも、あのかっこいい彼は私たちだけのものにしたいと言う可愛い独占欲も抱いている。

仮面ライダーウィザードのオープニング「Life is show time」、ヒロも藍子も大好きないい歌です。

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