Lostbelt No.■ 無価値幸福論 ブロークンファンタズム 特異点Δi 作:ルシエド
ホームズには記憶がある。
それはあまりにも朧げで、何によって成る記憶なのか分からない。
シャーロック・ホームズという人間が現実に居て、本当にそういうことがあったのか?
"そういうサーヴァント"になるにあたり、欠落した生前の記憶なのか?
それとも、コナン・ドイルが書いて焼き捨てた没案の原稿の話か?
あるいはどこかで密かに強力な支持を得て本物だと信じられた二次創作か?
シャーロック・ホームズは、ジャック・ザ・リッパーと同様に、『誰かの創作』によって成り立つサーヴァントであるがゆえに、何も断言することはできない。
サーヴァントとは、そういうものだ。
その記憶の中で、ホームズは子供の手品を見ていた。
片方の子供が片方の子供を手品で驚かせて、「魔法だよ!」と言っている。
子供達がきゃっきゃと楽しそうに遊んでいるそこに、若き日のホームズが口を出す。
その魔法が手品であることを簡単に見抜き、指摘したホームズは子供の拙さを露呈させ、本人は望まずして子供を泣かせてしまった。
探偵は真実を暴く者である。
優しい嘘の対極に在る者だ。
"サンタクロースなんて夢みたいなものはこの世にいないよ。大人になろう"の究極系こそが、探偵の語る言葉であるとも言える。
泣いた子供の親は許してくれたが、無神経なホームズは一言しっかり嫌味を言われた。
『真実なら何を傷付けてもいいと思ってるんですか?』
ホームズの心に特には響かなかったが、頭の片隅には留めておくことにした。
シャーロック・ホームズは変わらない。……そんな一言で終わりにされそうな物語。
若き日のホームズは、気遣う理由が一つもなければ、子供達の夢を守る嘘や沈黙を選ぶのではなく、『人が嘘に騙されず真実を得る』ための選択を選ぶ男だった。
特異点Δiは優しい世界なのかもしれない。
しかし、名探偵というものは本来、優しい嘘も打ち砕いてしまうもの。
残酷な真実と優しい嘘なら、前者の味方をするのが名探偵というものだ。
たまに情をかけることもあるけれど、探偵とは無情に虚飾を暴いてこそ探偵なのだろう。
優しさと真実を求める意思は、本来対極にある。
優しさではなく真実をもってよりよい未来を目指すのが探偵である。
シャーロック・ホームズは、望んでこの世界の敵として在ろうとすれば、おそらくはどんなサーヴァントよりも恐るべき刃となれる男だった。
怪物が咆哮する。
膝まで海水に浸かっていたホームズは、何気なく色気の漏れる所作でずぶ濡れの髪をかき上げ、咆哮するジャバウォックに向け構える。
海水が、ただの咆哮で砕け散り、水蒸気のように細かく大気に舞っていた。
ジャバウォックの突撃が始まる前に、推理で突撃を予期し、ホームズは地面を踏むのではなく砂浜側に倒れ込むようにして転がって、ジャバウォックの全てを砕く突進を回避する。
嵐のような突撃だった。
進行方向の全てを巻き込む、怪物の形をした嵐だった。
ホームズは砂浜に転がった結果砂だらけになった体をぱんぱんとはたいた。
「……ふぅ」
ジャック・ザ・リッパーはアサシンのスキルにより、発見されずに接近できる。
接近されるまで気付けなかったのは納得だ。
ならばジャバウォックはどう気付かれずに接近したのか?
ここまで桁外れの、世界を揺らすような力を持った怪物の巨人が、どう気付かれずに隠密行動を取ったというのか。
その答えは、見れば分かる。
怪物の足が、ぎちぎちと折りたたまれて力を溜める。
巨体の足が砂浜に沈み込み、砂浜という力の入りにくい場所をものともせず、跳ぶ。
ホームズはまたしてもジャバウォックの動きを推理で読み切り、肉体スペックではなく類まれなる先読みで、突っ込んできたジャバウォックを回避する。
そして、遠方の積み上げられていたテトラポットの山が吹き飛んだ。
恐るべし、ジャバウォック。
知性なき怪物の全力突撃は、ただそれだけで小規模な宝具に匹敵する。
「これは、探偵には荷が重い相手ではないかね?」
ジャックは、忍び寄った。
気配を遮断して神速の接近を行った。
だがジャバウォックは違う。
この怪物は、
敏捷A++クラスのサーヴァントですら追いすがれない勢いで。そうして奇襲を成功させた。
「さて」
ホームズはその飛び抜けた観察眼と、汎人類史のカルデアで無数のサーヴァントを見てきた経験から、ジャバウォックの強さを査定する。
筋力、カウンターストップ。すなわちEX。
耐久、カウンターストップ。すなわちEX。
敏捷、カウンターストップ。すなわちEX。
魔力、カウンターストップ。すなわちEX。
知性、0。戦略も戦術も無い。
真名もホームズ視点では未だ不明である。
「……」
ホームズは動揺も困惑も顔には出さず、思わせぶりな笑みを浮かべる。
推理途中にホームズがよく見せごまかす、必殺のビューティフルスマイルだった。
戦闘特化の英霊でないホームズに勝てる相手ではない。
なので、ホームズはジャバウォック相手に時間稼ぎに回ることにした。
弱い駒が強い駒を引きつけていれば、集団戦では十分仕事をしたと言える。
流石にこれがまた奇襲すれば、その矛先がマシュの背中だった場合、本当に死にかねない。
堤防に飛び乗り、少々高い場所からジャバウォックを見下ろすホームズ。
何か思いつきそうになるが、今はまだその時ではないと、状況が変わってからでいいだろうと判断し、この一対一を継続する。
「しかし……このレベルでも『主戦力』ではなく。
『ジャックの友達の玩具』止まりか。
なんとも先行きを不安にさせてくれるじゃないか、幸福の異聞帯」
ホームズは堤防の上で構え、とん、とん、と路面を靴の底で叩く。
正体不明で消息不明。
火をふく竜とか雲つく巨人。
トリックアートは影絵の魔物。
けだし、大人の話はデマカセだらけ。
真相はドジスン教授の頭の中に。
「機会があれば、今後は調査の際には戦える助手を連れてくるべきかね?」
ジャバウォックが飛びかかり、ホームズが先読みして跳び、堤防がジャバウォックの体当たりで木っ端微塵に爆散した。
この怪物とシャーロック・ホームズは、
ルイス・キャロルの『スナーク狩り』には、ルイス・キャロルの別作品である『ジャバウォックの詩』にてジャバウォックと登場した生物が登場する。
この二つは世界観を共通する物語である。
そしてホームズの短編『ギリシャ語通訳』において、ホームズとその兄が目撃した者達こそが、スナーク狩りの登場人物である、と語る言説がある。
この
シャーロック・ホームズに最も近い所に居る、
想像上の世界を駆け抜けた名探偵と、想像上の世界を蹂躙した怪物。
真実を隠す夢を終わらせる解明者と、夢を覆い守る童謡。
ここには嘘と真がある。
マシュの喉元に迫るジャックのナイフは、横合いからの一声によって届かず終わった。
「"
敵の攻撃を観測し、計算し、対象に回避を行わせる補正魔術。
超高性能のスパコンが動かすCPUが選んだ最適解のように、マシュはジャックの一撃を避けた。
飛び退ったマシュの背後から、その肩に少女の手が乗せられた。
「マシュは人間だよ。誰よりも人間らしくて、誰よりも素敵な人間」
「せ……先輩!」
「いつだって、どこでだって、マシュは私を助けてくれた。
超越者の視点でもなく、英雄の視点でもない言葉をくれた。
一人の女の子としてのその言葉が、私に何度勇気をくれたか分からないよ」
一人なら、立香は躊躇っていた。
一人なら、マシュは迷っていた。
けれど二人なら、立ち止まらないでいられる。
『今隣に居る彼女が生きる未来のために』と思えば、どんなに心に迷いがあっても、その場は戦うことを選べる。
いつだってずっとそうだった。
「行こう、マシュ!」
「はい、マスター! マシュ・キリエライト、ジャック・ザ・リッパーと戦闘を開始します!」
立香がカルデアからの魔力を回し、マシュのサーヴァントとしての能力が一気に上がる。
地面を踏み締めるように踏み込むはマシュ。
羽毛の如き軽快さで地面を踏み跳ぶはジャック。
黒板をナイフで引っ掻いたような、鋭いものと硬いものが鎬を削り合う戦いが始まった。
空気は切り裂かれ、舞い散る葉は一瞬で粉微塵となり、舞い上げられた砂や小石が吹っ飛ぶ。
カメラで撮ってスローにしても、おそらく一挙手一投足は追いきれまい。
絶え間ない攻防の音は大きく、鋭く、隙間なく、まるで数十のマシンガンが撃ち続けられる戦場のそれのようにすら感じられるものだった。
ジャックが攻め、マシュが受ける。
それだけで周囲の木々は揺れ、斬撃の余波が薄い葉を切り落とす。
人を殺す殺人鬼の殺人技巧を、マシュは人を守る防御技術で必死に受けて捌いていた。
力を失ったマシュを戦士として成立させるため、周囲の大人がゴテゴテと付けた機械達が、猛烈な勢いでマシュに電子観測情報を流し込んでいく。
「くっ」
立香はその後ろで援護のタイミングを測り、魔力をマシュに流し続ける。
そこに、二つの小石が飛んできた。
ジャックの踏み込みで舞い上がり、二者の攻防によって弾かれた小石である。
小石は立香の目の右下と左頬をかすめ、皮膚を引き裂き、血を流させた。
だが立香はまばたきすらしない。
視線はマシュとジャックを捉えたまま、次に来る流れ弾を恐れもしない。
目に当たれば失明するかも、という恐怖が顔にも出てこない。
ただただ、マシュを援護するタイミングを逃さないための最適解を選んでいる。
「ふー、怖いなあ」
これでまぶたを1mmも動かさない胆力は、天性のものでなく慣れによって出来たものだ。
戦いの中で普通の少女が得たもの、失ったものが、この一瞬に凝縮している。
"こうなった"からこそ、立香は今日まで生き残れた。
"こうならなかった"平行世界の立香は、きっとどこかで世界ごと死んだのだろう。
"当たり前"になり、立香もマシュも慣れきったために気付きもしない"それ"に、敵であるジャックだけが気付いていた。
「血が目に入らなければ大丈夫。ちゃんと見ないと……」
立香のこぼした呟きが、マシュのため、マシュを援護するため、マシュを生存させるための優しさゆえのものであることを、ジャックは理解できてしまう。
マシュの腕の皮膚を浅く切り裂いたナイフを振り、ジャックは付着した血を振り落とした。
「
顔にも態度にも言葉にも出さないように頑張ってるけど、それでも出ちゃう」
「……」
「優しい敵はきらい。
残酷な敵はきらい。
あなた達は両方。
だから、だいっきらい」
「!」
マシュの敏捷ランクはD。
ジャックの敏捷ランクはA。
ここには、気合いで埋めがたい決定的な差が存在する。
森林の中で、ジャックは全力で駆け回る。
木に身を隠し、葉に紛れ、音もなく駆け、気配なく跳ぶ。
ジャックの所持スキル『気配遮断』は、この夜の森の中で見失えば再発見を困難にする。
『霧夜の殺人』は夜間にジャックの先制攻撃を無条件で成功させる。
初手でジャックがマシュとの戦闘をここで展開したのは、このためだったのだ。
マシュは眼前の敵の脅威度を、脳内で二段階上に引き上げる。
振るわれる盾。
ナイフと盾の衝突音。
宙を舞う、吹き出たマシュの血潮。
マシュは機械的に後付増設されたセンサーの力で急所に刺さる一撃死を避けるが、ジャック対策は十全であるにもかかわらず、戦闘思考によって圧倒される。
「これ、は……!」
目で追えるのは精々面影。
糸を巣と張る蜘蛛が如き、縦横無尽な立体戦闘。
この森は既に、ジャック・ザ・リッパーの惨殺空間だ。
月光を受けるナイフの銀光すら追いきれない。
ジャック・ザ・リッパーは殺人鬼だ。
その本質は殺すこと。
何をするにしろ、彼女は殺すことで何かを成していく。
なのに、このジャック・ザ・リッパーは、『殺すことよりも捉えられないこと』に徹底して注力している。
だからマシュは防戦一方で切り刻まれるしかない。
ジャックの攻撃を捉えられない。
このジャックは
数え切れないほどの人々を殺してきた結果、座に蓄積された殺人鬼の殺戮技術を、正当なる目標に向かう正当なる戦闘へ組み込み、昇華している。
まるで、正当なる英霊のように。
「この動き……! 人体への深い理解を元にした殺人技巧に、忍術のフェイントが……!?」
「わたしたちのししょー! が、ねっ!」
マシュの顔面を狙ってジャックが右腕でナイフを振り、マシュが顔を守るために盾の位置を上げてしまうと、ガードが無い足にジャックの左腕が振るナイフが刺さる。
「ぐっ」
「マシュ! "
立香がマシュの傷を一瞬で治し、殺人鬼のナイフ特有の僅かな呪いも拭い去る。
マシュは反撃しようとするが、強い痛みを感じてしまった以上間に合わない。
痛みで作った隙を使い、ジャックはまたしても森の闇に溶けてしまった。
ジャックが奇襲で攻めて、攻撃が当たればそこから追撃、あるいは逃げる。
防御されたらすぐ逃げる。
攻撃する、と見せかけ逃げて、マシュの予想を外して揺さぶりをかける。
そうしてまた奇襲を仕掛ける。
シンプルながらに、非常に強力に練り上げられた暗殺技法だ。
これは
誰がどう見ても、完成された
この聖杯戦争が人間殺害を禁じていなければ、藤丸立香はここで死んでいただろう。
ジャックはメスを三本投げ、マシュが超反応でそれを弾き、されど弾かれたメスをジャックが手にしたナイフで弾き、空中でメスが再度マシュへ向かう。
空中で弾かれたメスと、手に持つナイフの同時対処は困難だ。
両腕・両足・顎の下を切られつつもなんとか急所への一撃を避けたマシュは、またしても森と闇の中に消えたジャックに、呼吸を整えながら問いかけた。
「……ジャックさん」
「なぁに? 偽マシュ」
無視される、とは思わなかった。
マシュは会話に応じてくれるだろうという確信があった。
その間に息を整えられるだろうという打算があった。
ジャック・ザ・リッパーは娼婦たちが捨てた数万人の純粋無垢なる赤子、その怨念の集合体。
それが少女の形を取っているだけのサーヴァントだ。
赤子ゆえ、マスターの人格的影響を受けやすい。
善人のマスターに召喚されたジャック・ザ・リッパーが大まかどういう性格かは、マシュも汎人類史のジャックとの付き合いで理解しているつもりだった。
「何があなたをここまで強くしたのですか、ジャックさん。
いや、違う。
これは単純に強くなった、弱くなったの話ではない。
あなたが……根本的に何か、私の知らないジャックさんであるように感じます」
ジャックは闇の中、誰にも気付かれていない位置で、首を傾げる。
「何かを、彼に……あなたのマスターに、何かされたのですか?」
そして、質問の意図を理解し、闇の中でぶんぶんと首を縦に振る。
「
「名前……?」
「わたしたち全員に、一つ一つ、違う名前」
「―――え」
その意味を。
立香とマシュは、一瞬、まるで理解できなかった。
「うん。
わたしはわたしたちで、わたしたちはわたし。
5月に生まれた女の子だから、だって。
クリスマスに生まれた祝福された女の子、って意味があるって。
わたしたちは―――、わたしたちは―――、わたしたちは―――」
つらつらと、名付けに理由のある名前が口に出されていく。
高位のキャスターの力でも借りてそれぞれを調べたのだろうか?
"ジャック・ザ・リッパー"を生み出した数万の胎児達が、それぞれのディティールに合わせた名前を付けられ、それぞれが自分の名前を自認している。
その上で、『ジャック・ザ・リッパー』を作っている。
名前を付けられていなかったからこそ、彼女達は一つの個体を成す群体だった。
名もなき堕胎児の集合体として成立する殺人鬼の英霊だった。
なのに、全てが固有の識別名を与えられた今もなお、ジャック・ザ・リッパーはジャック・ザ・リッパーのまま、汎人類史のそれと変わらぬ姿を保っている。
それは、意思統一がなされているから。
群にして一。このジャック・ザ・リッパーの意思は、全てが同じ方向を向いている。
かつて英霊の座に登録された時、混沌の極みであった怨霊の集合体は、復讐と虐殺というジャック・ザ・リッパーの基本の上に、新たな何かを築き上げていた。
「刕惢……なんで……
こんなに一生懸命に助けた仲間が居るのに……
私達と汎人類史を踏み躙ってまで生き残れない、なんて言ってんのよ……」
立香は服の胸元をぎゅぅっと握って、血を吐くように言葉を絞り出した。
この世界に積み上げられた優しさの思い出が、心に刺さる。
別にそれでジャックに新しいスキルが生えたわけではない。
ジャックは嬉しかった。
嬉しかったから頑張った。
頑張ったから強くなった。
ただ、それだけ。
それだけの話でしかなくて―――けれど、あまりにも桁が外れていた。
一人一人を調べて、名前を考えて、意味を持たせて、愛を込めて、名前を与える。
一回だけなら簡単だろう。しかし、それを数万回。一日に一人のペースでやっていたら、下手したら100年はかかるほどの膨大な作業だ。
キャスターに思考加速の魔術をかけてもらっても、完遂までに気が狂う。
それを"優しくしてあげたかったから"という気持ちで行える人間とは、どういうものなのか。
ジャックがその時に得た『愛されている実感』は、どれほどのものだっただろうか。
「……ジャックさん、あなたは」
マシュは目を伏せ、どこに居るかも分からないジャックに言葉をかける。
「愛されたのですね。とても、とても……嬉しそうです」
「うん!」
立香と同じくらい、マシュも苦しかった。
"一度一緒に旅をしてみたい"と心がふいに思うくらい、刕惢に好感を持っていた。
立香と刕惢が楽しげに話しているのを見て、マシュは不思議と暖かな気持ちになっていた。
刕惢は他人を踏みつけにすることが本当に苦手そうで、でもジャックに対して優しくしようとすることにはこんなにも全力で、そんな人を、マシュはその盾で守りたくて。
けれど。
汎人類史のマシュは、もう守っているだけの人間として生きられない。
「わたしたち、
とってもとっても大好き!
この世界が消えない限り、ずっとずっと残る私達の記憶と名前!」
この世界が消えない限り、ジャックが貰った名前と、貰った愛と、今日まで大切にされてきた思い出と、『愛に愛を返した』という事実は消えない。
愛をもって抱き締められた記憶も、その暖かさの感触も消えない。
この世界が、消えない限りは。
ごくたまに異聞帯の存在が汎人類史の記録に刻まれることはあっても、そのごく一部の新英霊の記録を除けば、全ての記録は世界と共に霞と消える。
「知らなかったんだ、わたしたち!
生んでくれた人が名前を付けてくれなかったこと!
名前を付けてくれなかったってことは、要らないものだったってこと!
捨てる予定のものだったから、名前を付けられなかったこと!
それこそが、わたしたち!
……だからね。
子供は、まず生まれてきた時に名前を貰う。
そしてとことん愛される。
かくして、親の期待に応えるために頑張って成長しようとする。
とてもとても当たり前のことで、けれどジャック・ザ・リッパーにだけは、それをすることがとても難しかった。
刕惢は「当たり前のことをしただけ」、と言うだろう。
それが当たり前でないことは、ジャックが一番よく知っている。
彼はジャックを愛し、ジャックもまた彼を愛した。
彼のその愛が、世界中全ての人へと向けられていることをジャックは知っている。
それが少し妬けるけれども、不満はない。
かつて自分を捨てた母親達への復讐に動いた、無数の子供達の怨念の集合体に、人々は恐怖と憎悪と好奇心から『ジャック・ザ・リッパー』と名を付けた。
愛など欠片もあるはずがない。
母親に名付けられなかった子供達は、最悪の名を付けられ、果てた。
だから、本当に嬉しかったのだ。
自分達一つ一つに、『愛された子供の名前』を付けてもらえたことが。
「大好きで、大好きで、大好きで。だから、
きっとジャックは、彼にどんな求められ方をしても応えるだろう。
どんな命令をされても応じるだろう。
そんなジャックに彼が与えた使命が、『みんなの幸せを守ってくれ』だったから、ジャックはもっともっと好きになって―――人の幸せを守る幸せを得て、こうなっている。
なのに、『お前の世界は皆が幸せすぎるから要らない』と、宇宙に告げられ。
今、その理不尽に抗わんとしている。
彼女の名は、ジャック・ザ・リッパー。
既に他者を殺し尽くす殺人鬼に非ず。
その刃は、楽園を侵す外敵を殺すために在る。
「だからね」
ジャック・ザ・リッパーは幼く、純粋無垢だ。
敵意はあれど悪意はない。
だから思ったことを言う。
「わたしたちを消そうとしてるあなたたちが『いい人です』みたいな顔してるの、こわいよ」
「―――」
「わたしたちは、すごくこわい。
ねえ……あなたたち、何を考えてるの?
わかるよ。
それ。
わかる。
うん。
『何を考えて殺そうとしてるのかわからない』……わたしたちと、おんなじだね」
幼き目には、幼き思考ゆえの納得があった。
かつて人々はジャックを恐れた。
『なんでお前は私達をそんな簡単に殺せるんだ、なんで』と。
その嘆きをジャックは知っている。
今、ジャックは立香とマシュ、汎人類史に対して思っている。
『なんでお前は私達をそんな簡単に殺せるんだ、なんで』と。
ジャックは自分の中にある"理解不能"という気持ちを、かつて自分に向けられた気持ちと同類であると解釈した。
ジャック・ザ・リッパーは、自分という存在が背負った罪を忘れない。
ゆえに不思議な共感があり、その共感がマシュには耐えられなかった。
理解し合うことを尊ぶマシュは、その誤解に悪い反応をしてしまった。
「ジャックさん! 聞いてください! わたしたちは―――」
「マシュ、駄目!」
その隙を、ジャックは無情に見逃さない。
霧が満ちる。
ジャックの展開した霧が。
ジャック・ザ・リッパーの宝具は発動条件が厳しく、『夜』『霧』『相手が女』という条件を揃えなければ十全に発動しない。
しかし今は夜で、相手はマシュで、ジャックは自分で霧を出すことができる。
ならば、使える。
その宝具は条件さえ揃っていれば、発動した瞬間に相手を即死させるもの。
「此よりは楽園」
ナイフを構え、魔力を練り上げ、ジャックは夜闇を駆ける。
ふと、楽しかった日々のことを、ジャックは思い出す。
彼が膝に自分を乗せて、本を読んでくれた日もあった。
"聖書に描かれているお話では、神様は回る炎や、全てを押し流す大雨で、楽園や清浄さを守る力を見せたりしたんだよ"―――と、彼が言っていたのを思い出して、ジャックは笑む。
幸せな日々が、今の自分の力であることを実感する。
誰かの幸せを願い、誰かを殺す、ジャック・ザ・リッパーらしくもない刃を握る。
「"わたしたち"は楽園を守る炎、雨、力」
脳裏に浮かぶは、愛してくれた大切なあなた。
「―――あなたを守る殺戮を此処に」
使用と同時に対象の死が確定するため、一撃必殺。
霧ある限り絶対に命中するため、回避不能。
物理攻撃ではなく死を与える呪いのため、防御不能。
ジャックのスキルが情報収集を妨害するため、対策不能。
振り上げられるは、聖杯戦争の最悪に数えられる絶殺の刃。
マシュの盾では、防げない。
「『
月の下。
霧の内。
森の中。
ジャック・ザ・リッパーの刃が、マシュに向けて放たれた。