Lostbelt No.■ 無価値幸福論 ブロークンファンタズム 特異点Δi   作:ルシエド

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第一幕:正義の味方

 藤丸(ふじまる)立香(りつか)は、ごく普通の女の子だった。

 ただ、伝説の英雄達(サーヴァント)と共に別の世界に行くことにかけては、人よりもずっと才能があった。

 時代が時代なら、彼女は色んな世界を楽しく旅する笑顔の旅行者だったかもしれない。

 

 それがなんやかんやで巻き込まれ、人類最後のマスターに。

 デミ・サーヴァントなるものになった少女、マシュ・キリエライトと共に戦いの旅を始めた。

 全ては、大敵ゲーティアを倒し、焼却された人類史を取り戻すために。

 がむしゃらに進む旅だった。

 人を守り、人を救う旅だった。

 時には敵を傷付け、仲間を失い、分かり合えない敵を打ち砕く物語であった。

 

 かくして、藤丸立香は世界を救った。

 森晶刕惢と同じように。

 あるいは、彼が彼女と同じように世界を救った、と言うのが正しいのかもしれない。

 ゲーティア、ソロモンをこの世から消し去るという形で、燃え尽きた人理を修復した。

 

 されど彼女は普通の女の子には戻れなかった。

 世界に湧き出でて世界を脅かす亜種特異点。

 人類史の驚異たる人類、クリプター。彼らが従えるサーヴァント達。

 地球の表面を人類ごと白紙化した異星の神。

 そして、白紙化した地球を自分の歴史で塗り潰そうとする並行世界―――異聞帯。

 

 彼女が帰る家は、未だ消え去ったまま。

 

 普通の女の子として彼女が生きられる明日は、未だに訪れる気配もない。

 

 世界が消え去り、歴史が消え去り、自分の歳を数えることが不思議になった。

 四年、五年と戦い続ける内に、自分が成人しているかも怪しくなってきた。

 気付けば、幼い頃に漫画で読んでいた『10代後半の楽しい青春』の時間の全てを、血なまぐさい戦いの日々だけに全て費やしている自分に気付いた。

 それでも「ま、しょうがないよね」と自分に言い聞かせるように、進み続けた。

 

 彼女こそが、"本物のカルデア"とマーリンに呼び称された組織の代表。

 宇宙に選ばれた汎人類史、最後の守護者。

 地獄の頂点の強さと罪を一身に背負う者。

 ただただ生きるため、死にたくないから、彼女は戦う。

 

 その過程で、幾多の世界の無数の人間を虐殺するとしても。

 

 夜、寝る時、悪夢を見る日が増えた。

 

『異聞帯はもう一つの世界。可能性を失ったもしもの世界』

 

『残される世界は一つ。滅ぼされる世界はそれ以外全て』

 

『決断したのはお前だ』

 

『お前が殺した』

 

『お前が決めて、お前は進み、お前のその手で他の世界を滅びに導いた』

 

『どの世界にも人はいて、生きていたかったのに。それすら許されなかった』

 

『お前は許さなかった』

 

『彼らが生きることを許さなかった。なのに自分は許されたいのか?』

 

『己の罪を』

 

『生きていくことを』

 

『許されたいのか』

 

『自分勝手、傲慢、そんな言葉でも生温い』

 

 見たくない夢を見る日が増えた。

 

『ほらほら、立香、ママでちゅよー』

 

『パパだぞー』

 

『立香はいい子ねー。言うことが無いわ。でも、大切なことは知っておかないと』

 

『目の前の人には、優しくしなさい』

 

『自分がやられて嫌なことは、絶対に他人にしちゃダメよ』

 

『他の人を怪我させちゃダメ。死んじゃったら取り返しがつかないからね』

 

『自分のことだけ考えちゃダメよ。他の人のことを考えられる人になりなさい』

 

『相手が本当に困ってて、必死に見えたら、譲ってあげる優しい子に育ってね』

 

 床に入って、夢を見て、見たくないものを見て、飛び起きる。

 親の顔、殺した人々の顔を思い出して、それが脳裏にこびりつく。

 夜が来るたび、そんな苦痛を繰り返す。

 星明かりに照らされる一室。気付けば、少女の瞳から、透明な雫が溢れ落ちていた。

 

 戦いの日々に身を置いていた数年に、子供から大人へと移り変わっていく身体の、胸の谷間に涙が流れ落ちていく。

 

 こんな風に大人になっていく日々を、かつて想像していたわけではなかった。

 こんな風に大人になっていきたいだなんて、一度も思ったことはなかった。

 10代の青春はもっとふわっとしていて、楽しいものだと思っていた。

 子供から大人になっていく道筋は、もっと綺麗で優しいものだと思っていた。

 けれど、少女の人生がそうなることはなかった。

 

 仲間が戦いの中で消えるたび、歯を食いしばって誰かの命を刈り取るたび、少しずつ自分が大人になっていく実感があり、少女はその実感に溺れるような感覚を覚えた。

 誇れる成長の裏に、常に窒息するような成長があった。

 戦ったことのない幼い自分が消えて、泣き喚いて膝を折る幼い自分が消えて、甘えを持っていた幼い自分が消えて、人を殺したことのない幼い自分が消えて。

 そこに、窒息の苦しみに近い、成長の実感があった。

 

 「じゃあそんな生の旅路を悔いているのか」と問えば、立香は首を横に振るだろう。

 

 素晴らしい出会いがあった。

 笑いあった思い出があった。

 誇らしい共闘があった。

 貰った暖かな言葉があった。

 万金に勝る勝利があった。

 一生忘れることのない、輝きに溢れた物語があった。

 

 だから、藤丸立香が止まる理由はない。

 かつての日々を取り戻すため。

 自分の世界でまた生きるため。

 今日まで力を貸してくれた全ての人の想いを無駄にしないため。

 彼女は戦う。

 その結果として世界丸ごと殺す虐殺を行い、自分の心にヒビを入れるとしても、『生きたい』という気持ちを心の核にして、進んでいける。

 

 笑顔で居る人達だけの世界があったらいいな、と立香は思う。

 

 皆幸せな世界があったらいいな、と立香は思う。

 

 誰も傷付かない世界があったらいいな、と立香は思う。

 

 そうして、彼女は―――『そんな理想が叶った世界』に足を踏み入れた。

 

 

 

 

 

 "特異点"とは、間違った正常の歴史。

 汎人類史の一部が歴史改変を受けるなどして発生するもの。

 "異聞帯"とは、正しい異常の歴史。

 汎人類史からかけ離れた、過去改変など何もない、独立した異端の世界。

 二つは違うものの、まっとうな人類史を修復したいのであれば、どちらもカルデアが除去していかなければならないものである。

 

 汎人類史カルデアが観測したその世界は、特異点にして異聞帯と言うべきもの。

 分岐したのは2014年と非常に近い年代であり、特異点としての性質を強く持っている。

 しかし明確に汎人類史から遠くかけ離れた異聞帯であり、そこに疑いもない。

 あまりにも歴史の分岐点が近く、あまりにもかけ離れ方が急激で、なのに汎人類史との近似性を未だ保っており、汎人類史に()()()()()()だけのポテンシャルも維持している。

 汎人類史が生身の人間なら、その世界はサイボーグのような、そんな世界間近似性と世界間乖離性を併せ持っている世界である、と見られていた。

 

 カルデア経営顧問シャーロック・ホームズ曰く。

 

『我々の世界から見て最新最悪の異聞帯であることは間違いない。

 英霊に対する死徒、吸血鬼を思わせる。

 世界の悪質さではなく、汎人類史と既存人理を否定する力が非常に強い』

 

 と、語られている。

 

 最新最悪の異聞帯。

 汎人類史を否定する最も新しき歴史。

 誰の予想にも存在していなかった、突如現れた敵性世界。

 まるで、聖書に語られる悪魔の巣窟の如き世界にも見える恐ろしさだ。

 

 ……で、あるにもかかわらず、現在のカルデアが指針決定の頼りとする霊子演算装置『トリスメギストスII』は、奇妙な結論を出した。

 曰く、「藤丸立香とマシュ・キリエライトの二人で向かう分には完全に安全だ」と。

 

 トリスメギストスIIは超高性能な演算装置である。

 未来予測の過程はほとんど理解できないが、その結論だけは信頼できる。

 立香とマシュ、二人の少女だけを向かわせる限りは、安全は担保されるということだ。

 その先の選択肢で危険性は如何様にも変化するだろう。

 だが、とりあえず安全が確保されるなら他に選択の余地はない。

 

 藤丸立香とマシュ・キリエライトはかくして、通信のホットラインを維持しつつ、まだどう呼称するかも決められていないその世界へと飛び込んだ。

 

「……着いた? 到着? マシュ、ちゃんと居る?」

 

「はい、先輩。あなたのシールダーはここに。しかし、これは」

 

「うわ……日本だ。

 間違いない、見慣れた街の形。

 街を行き交う人も日本人だ。

 建物も、空気も、景色も……私の過ごしてた街みたい……」

 

「現在地、周辺状況を確認します。

 私達は現在、小高い山の山道脇の展望公園に居るようです。

 山道を先輩の足でゆっくり歩き降りても30分ほどで街に入ると試算します。

 私達の世界の時間軸は推定で西暦2019年から2020年に相当していました。

 ですが、この世界は西暦2017年……ほんの少しズレた年代であるようです」

 

「そっか、ありがとマシュ。ゲーティアを倒したちょっと後くらいかな?」

 

「はい」

 

 周囲の看板、掲示板、建造物、遠目に見える街から得られる情報から、マシュが確度の高い推測を述べる。

 流石にシャーロック・ホームズのような超能力じみた理論構築による推理はできないが、カルデアにて高度な訓練を受けたマシュ・キリエライトは、いついかなる時も頼れる相棒として十分すぎるほどの仕事をこなしてくれる。

 

 マシュの話を聞いて、立香は顎に手をあて少し考え込んだ。

 

「日本なら私とマシュは私服着てれば紛れ込めるかな……

 いや、ううん、どうだろ。

 私もこの服買ったの五年前とかだし……

 ちょっと流行遅れで浮く……?

 幸いこの時期は人理修復終わったばかりの頃で私はネットで流行の服とか調べてた時期……」

 

「先輩?」

 

「よし、マシュ、服買いに行こう服!

 とってもかわいい服着せてあげるからね、ふふふ」

 

「……私情混ざってませんか?」

 

「そんなことナイナイ。

 私達二人なら安全なんでしょ?

 じゃあバレないように紛れ込める服買って、まずはこっそり偵察じゃない?」

 

「………………そう、ですね。ちょっと引っかかりますが、先輩を信頼します」

 

 近場のお店に入り、キャスケットで髪や顔を自然に隠しやすくするコーデを考え、デニムワンピなどで地味めの装いに早変わり。

 今時の若い子が着ていても違和感がない、けれど目立つほど綺麗でも可愛くもない、悪目立ちしないこと特化の女子大生ファッション的な装いであった。

 目立ってクラスの人気者に目をつけられていじめられることもない、ダサい服を着てクラスメイトにバカにされることもない、元女子学生立香の神がかったバランスが為せる技である。

 

 二人は街をぶらりと歩き、人の会話に耳をそばだてながら、この世界を知り始めた。

 まずはこの世界を知らなければ、どうにもならない。

 幸いこの世界の今日は祝祭日にあたるようで、童顔な彼女らがサボり学生だと思われることもなく、誰も彼女らに違和感を持っていなかった。

 数人程度、服装で中和しきれない二人の魅力的な容姿に目を引かれた男性もいたようだが、それもすれ違う時にやや視線を引く程度に留まっていた。

 

「平和っぽいねえ、マシュ」

 

 どこを歩いても平和な街並みを見て、立香はぽつりと呟いた。

 

「……確かに、そうですね。

 これまでの異聞帯とは何かが違います。

 争いの匂いが薄いというか、物騒な空気がない感触です。

 神霊や英霊がそぐわない街並みです。本当に、ごく普通の街に見えます」

 

「でも、なんだろう、これ。違和感? いや、そういうのじゃないか……」

 

「分かりません。大気組成や魔力反応には異常は感じられません。

 でも何か……先輩が感じている何かを、私も感じていると思います」

 

 これまで彼女らは多くの特異点、多くの異聞帯を巡ってきた。

 そのどこにも『サーヴァントが居て然るべし』というような、伝説や神話の外伝が今ここで始まってもおかしくないような、独特な空気のようなものがあった。

 なのに、この世界にはそれがあるようでない。

 あるとも言えない。

 ないとも言えない。

 よく分からない何かがあって、二人には何故それがよく分からないのかも分からないのだ。

 

 むむむ、と立香は思案するが、答えに近付いている感覚すら生まれてこない。

 

「分かるのは、この世界が本当に平和で、皆幸せそうに笑ってることくらいだよね」

 

「はい。異常なことはなく、誰もが日常を謳歌しているように見受けられます」

 

 この世界に来てからずっと、立香とマシュはそれを感じていた。

 

 この世界は、皆幸福そうで、皆笑っていて、皆互いをいたわり合っている。

 そして、それがとても自然なのだ。

 "人間は誰もがこうなれる。そういうものなんだ"と、自然と心が思うような、そんな優しい光景で満ち溢れている。

 

 男と女が出会い、恋をして、子供が出来て、幸せそうに笑う瞬間のような。

 幼馴染と一緒に部活の大会に出て、優勝して、思わず抱き合った瞬間のような。

 年老いて歩くのに疲れた老婆が、家に帰ろうと息子に背負われた瞬間のような。

 迷子の幼子が、見ず知らずの大人に優しくしてもらい、家に辿り着いた瞬間のような。

 

 そういうものに類する、ごく自然な暖かい幸せで、この世界はいっぱいだった。

 

 その暖かさに立香は『既知』を感じる。

 こんな幸福が断片的にある世界の中で、彼女は生まれ育ったから。

 その暖かさにマシュは『未知』を感じる。

 こんな幸福が流れ行く世界の中を、マシュは生きたことがなかったから。

 

「なんて言うんだろう……『上手くいってる』?

 なんだか言葉にしにくい世界で……そういう表現しか思いつかないんだよね」

 

「私も同意見です。

 これをなんと表現すべきか……

 近い感覚は覚えがあるのですが、何故その感覚があるのか分かりません」

 

「え、マシュ、あるの? これに近い感覚」

 

「はい。最上級の難問の解答冊子を見た時にこの感覚がありました」

 

「んん?」

 

 よく分からないものを理解するためマシュの見解を聞こうとしたら、マシュから更によく分からない見解が出て来て、立香は思わずちょっと面白い顔で首をかしげてしまった。

 

「ごめん、考えてもよくわかんなかったから解説お願い」

 

「が、がんばります。分かりにくかったらごめんなさい」

 

 マシュは言葉にしにくい領域の印象を言葉にすべく、考えながら話し始める。

 

「これは、難問への答えだと思うんです。

 "どうしてみんなしあわせになれないんだろう"といった、難問への解答」

 

「……ああ、なるほど」

 

「"ああ、こういう答えがあるんだ"と見ていて思わされるもの。

 答えを提示されるまで、その答えに想像の指先が触れることすらないもの」

 

 ダンボールが破けて中身が転がり出した運送屋さんを、道行く人が助けている。

 むせこんで蹲ったお爺さんに、通りがかった女性が駆け寄っていく。

 学校のグラウンドで転んで怪我をした少年に、友人らしい少年が絆創膏を貼っている。

 マシュは人々を眺めながら、所感を口にしていた。

 

 立香もマシュに倣い、言葉にしにくい領域の印象を言葉にしていく。

 

「なんだか言葉にしにくいよね、ここ。

 ……『他人に優しくなれる世界』なのかな。

 優しさを強要されてるとか、それが習慣になってるわけじゃない。

 だから誰かに助けてほしい時、泣きたい時、誰かが隣に居てくれるんだ……」

 

 一人の時間を尊重されて、公園の草原に寝っ転がっている中学生らしき男子。

 二人きりの時間を尊重されて、屋上で愛を育んでいる恋人達。

 家族だけの時間を尊重されて、夫妻娘の三人で手を繋いで歩く家族達。

 立香もまた人々を眺めながら、所感を口にしていた。

 

「ホームズさんに通信を繋いで意見を拝聴するというのはどうでしょうか?」

 

「うーん、通信で潜伏がバレるのが怖い。

 あと『こんな序盤で結論を出すのはまだ早い』って言われそう」

 

「言われそうですね……」

 

「あと、これ言っていいのかな、そのね」

 

「?」

 

「かつてないくらい『非現実感』がない。

 かつてないくらい『現実感』がある。

 そういう異聞帯なので、その……

 ホームズが来たら普通の殺人事件が起きそう……」

 

「名探偵を死神扱いするのはタブーですよ先輩!」

 

 軽い冗談を交わしながら、二人はこの世界への思索を進めていく。

 

 立香とマシュは同年代だが、生まれから生い立ちまで正反対と言っていいほどに違う。

 立香は普通の家に生まれて普通に育った普通の女の子だった。

 対し、マシュはデザインベイビーとして『製造』され、研究施設で望まれた形に『加工』され、何もかもが普通でない女の子として生きてきた。

 ゆえに、二人は視点の置き場所から異なっている。

 

 マシュは世界の構造を見て、哲学に通ずる見解を口にした。

 立香は人々の在り方を見て、この世界の人間の心に対する感想を口にした。

 

 されど二人はまだ本質的な部分には全く理解が及んでいないだろう。

 彼女らはまだこの世界の表面に触れただけにすぎない。

 そこは立香もマシュも自覚を持っていた。

 

「なんだか皆優しいよね、ここ」

 

「スマートフォンのようなものかもしれません。

 あれも昔は無かったと聞きます。

 けれどいつからか誰もが持っていて当然のものになった。

 優しさ、気遣い、許し、寛容、共存……

 もっと相応しい言葉があるかもしれませんが……

 そういったものが『普及』して、『当然』になった世界……なんでしょうか」

 

「いい世界だね、マシュ」

 

「はい」

 

 完全に理解できたとは言えないものの、二人はこの世界に好感を持ち始めていた。

 異聞帯が異聞帯である理由は様々である。

 それを理解するには、その世界を理解する必要がある。

 既に二人はこの世界の剪定理由が、『誰もが幸せであること』だと気付き始めていた。

 

「空想樹が見当たりませんし、やはり隠されているのでしょうか?

 あれを伐採しなければ、いくら時間をかけても無駄骨になりかねません」

 

「なんかあまりにも平和な日本過ぎて植木屋にありそうな気がしてきた。どう思う?」

 

「大変失礼なことを言うようで申し訳ありませんが、虞美人さん並の推理だと思います」

 

「その発言がパイセンに対して死ぬほど失礼だと思う」

 

 だからこそ二人は、会話中にうっかり余計なことを言わないよう、頭の片隅で常に言葉に気をつけていた。

 

 口にしてはいけない言葉があった。

 口にするだけで隣に居る相棒を苛む言葉があった。

 口にしても何の意味もない言葉があった。

 だから、立香もマシュもその言葉を言わない。

 

 通信を繋がないでいてよかった、と言えるだろう。

 立香のカルデアの現所長なら、「こんな世界を滅ぼさないといけないのか?」と―――口にしてしまっていたかもしれないから。

 

 共存はない。

 歩み寄りもない。

 選べる選択肢は唯一無二。

 彼女らは、この世界を滅ぼさねばならない。

 

 笑顔で居る人達だけの世界があったらいいな、と立香は思う。

 皆幸せな世界があったらいいな、と立香は思う。

 誰も傷付かない世界があったらいいな、と立香は思う。

 彼女は『そんな理想が叶った世界』に足を踏み入れた。

 

 そしてこれから、それを滅ぼすのだ。

 

 少女の心の奥に残っていた、幼くも可愛らしく、純真で無垢なる願いが、あまりにも優しい愛のある理想の世界像が、この世界に重なって―――それを彼女は、己の手で滅ぼすのだ。

 

 自分の夢を自分で殺す。

 でなければ、汎人類史の方が消される。

 手心を加えてしまった藤丸立香は、理想に溺れて溺死するだろう。

 

「っ」

 

 藤丸立香の胸の奥が痛む。

 何度も世界を滅ぼす旅路を進み、慣れた痛みがあった。

 何度世界の滅びを越えても、慣れることのない痛みがあった。

 痛みに耐えて、苦しみを我慢して、立香は必死にそれを飲み込もうとする。

 心因性の苦痛に耐える立香。

 立香の苦痛を自分のものであるかのように感じ、寄り添うマシュ。

 ゆえに二人は、近付いてくる二人の男女に気が付いていなかった。

 

「やあ、いい朝だね。もう10時だけれども」

 

「!?」

 

「私は日本に来て日が浅いのだが、何時までがおはようございますなのだろう……?」

 

 驚いて、後ずさって、顔を上げて、近寄って来ていた男女の顔を見て。

 

 そこで、藤丸立香とマシュの思考が止まる。

 

 ただただ驚いて、驚きの後に泣きたい気持ちが来て、二人は感情をぐっと抑えた。

 

「初めましてでいいだろうか。

 私はキリシュタリア・ヴォーダイム。

 彼女はオフェリア・ファムルソローネ。

 友人の頼みでね。ラーメンを奢る代わりに、君達お客人を迎えに来たところさ」

 

「ヴォーダイム。無駄口ですよ」

 

御免(ソーリー)

 

「こいつ……!

 最近親交ができた忍者の真似を……!

 本当に申し訳ありません。彼に悪意は無いのです。

 ただこの世界の代表の一人という自覚が……どうかしましたか?」

 

 ここはハッピーエンドの袋小路。

 

 全てが幸福に終わった世界。

 

 皆が笑顔で皆が幸せな世界を森晶刕惢が望み、奇跡中の奇跡でそれが実現した世界。

 

 キリシュタリア・ヴォーダイムとオフェリア・ファムルソローネが笑顔で幸福な世界に価値はなく、未来はなく、そんな世界を残す意義はない。この宇宙が、そう決めた。

 

 オフェリアが目の前で死んだあの日を、マシュ・キリエライトは思い出す。

 キリシュタリアが目の前で死んだあの日を、藤丸立香は思い出す。

 冷たくなっていくオフェリアの体温を、マシュは忘れない。

 致命傷を受けながらも怯えの欠片も無いキリシュタリアの表情を、立香は忘れない。

 

 『この二人が幸せに楽しそうに生きている』ということが、この世界の存続が許されなかった理由であることに気付いて―――二人の少女の、心が軋んだ。

 

 

 


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