Lostbelt No.■ 無価値幸福論 ブロークンファンタズム 特異点Δi 作:ルシエド
レオナルド・ダ・ヴィンチは、カルデア最後のマスターとマシュ・キリエライトが、『最も信頼する仲間達』の一人に必ず挙げるサーヴァントだ。
史実では男だが、カルデアでは女。
と、いうか、「自分が思う最も美しい者の姿」として、大人のモナ・リザの姿――あるいは想像した少女のモナ・リザの姿――を模したサーヴァントとして存在している。
カルデア召喚式による英霊召喚、その二号事例がサーヴァントと融合したマシュであり、三号事例がダ・ヴィンチである。
カルデアでも古参に数えられた彼女はマシュ、ひいては立香と、最初からずっと共に同じ道を進む――長い時間を共に過ごした――仲間であった。
彼女が主観的に蓄積した仲間への理解と、それを元にした仲間に関するメモがあれば、記憶の無い新たに召喚されたダ・ヴィンチですら、立香とマシュのよき仲間となれるだろう。
それほどまでに、ダ・ヴィンチは仲間を大事にし、仲間をよく見ていた。
ダ・ヴィンチは世紀の大天才として知られており、何でもできる万能性や発明品などが非常に有用なサーヴァントである。
だが、カルデアにおいて、彼女がどんな英霊より素晴らしかった部分はそこではない。
『寄り添うこと』。
ストレスを感じさせず、親しみを感じさせ、優しい言葉をかけてくれて、常に気遣ってくれる女性が居ること……それこそが、彼女の最も素晴らしい部分であった。
ダ・ヴィンチは時たま軽いノリ、軽い空気で立香に話しかけ、世間話のようなカウンセリングを行い、彼女のメンタルチェックを行っている。
幼い姿のダ・ヴィンチは、人懐っこい笑みを浮かべて、和やかに楽しげに、食堂で立香と並んで食事を摂っていた。
「さて立香君。君は明日日本の異聞帯に向かうわけだが、準備はいいかい?」
「うん、もうバッチリ! いっそ今日行ってもいいくらい元気もりもりって感じだね」
「よきかな、よきかな。
バイタル及び各種身体的異常は見られない。
あとはメンタルの状態次第かな。
メンタルの問題で負けてしまったら最悪だからね。延期も考えないと」
「えー、心配性だなあ。
大丈夫大丈夫!
不安になるのも分かるよ。
人間もサーヴァントも、負けたら全部消えてしまう。
世界ごと消えてしまう。
この戦いは負けたら何もかも消えてしまう戦い。
でも私、頑張るから。信じてもらえたらちゃんと応えるよ?」
「平気だと、そう言うんだね?」
「もっちろん。
皆の世界、私が守るよ。
カルデアの生き残った職員のみんなの世界。
マシュの、新所長の、ダ・ヴィンチちゃんの世界。
皆が守って皆が生きてるこの世界、ちゃんと守るから。どーんと構えてて、ね?」
ダ・ヴィンチは、この世で最も有名な微笑みの絵を書いた万能の天才である。
彼女から見れば、立香が無理をしながら浮かべる微笑みの形は、酷く不格好に見えた。
「人はね、繰り返せば上手くなるんだ。誰でも知っていることだね」
「あー、分かる。私も魔術礼装を何度も使ってる内に、大分上手く使えるようになったから」
「絵も、音楽も、戦闘も、あらゆることにこれは言える。
なにせ私は万能の天才、ダ・ヴィンチだからね。
手を出した分野、こなせる分野なら誰にも負けないさ」
「おおー、流石ダ・ヴィンチちゃん。それで、それがどうかしたの?」
「君の精神状態に気を使ってる人は何人か居るね。
これは私じゃなくて人間のカルデア職員によるチェック表。
第一特異点の頃が一番アウトが多い。
逆に一番新しいチェック表は、アウトが一つもない。
完璧に健全であることを示す、何も問題がないパーフェクトな結果だ」
「ふふん、人は成長するってことだね。この鉄心の立香ちゃんに何の心配も……」
「メンタルチェックの問診に引っかからないように会話するのが上手くなったね、マスター」
その言葉を聞いた立香の表情を見て、"ああ、失敗した"と、ダ・ヴィンチは思った。
本音を話させるつもりだった。
少しは吐き出させるつもりだった。
けれど結局上手く行かず、立香は曖昧な微笑みで話を蒸し返させなかった。
そのまま食事が終わるまで、立香はひたすら楽しい話題を話し続けた。
ダ・ヴィンチと立香はその後にもう一度話すことも叶わないまま、立香は幸福の異聞帯へと向かってしまった。
幼き姿のダ・ヴィンチは自分の職務をあらかた終わらせた後、割り当てられた自室にて、空に向けて祈った。
「無事で居てくれ」
神に祈って任せているわけではない。
大事なことを神に委ねるような性根は彼女にはない。
それでも、立香とマシュの無事を祈らずにはいられなかった。
運命そのものに祈るような、何の結果にも影響を及ぼさない、虚空の祈り。
「体だけじゃなく、心も無事なまま、帰って来てくれ」
帰りを待つしかないならば、空いた時間は祈るくらいにしか使えない。
できることをしよう、自分の職務を果たそう、援護のための準備をしよう……そう思って、やれることを全部して、全部終わってしまったら、もう祈るくらいしかすることがない。
祈らずにはいられない。
立香とマシュが敵地に居る時間に何もしないと、死んでいった人間達の顔が頭にちらついて、何もしていないがゆえの焦燥に潰されそうだった。
ゆえに、祈り、願う。
「そんな高望みしてるわけじゃない。このくらいの願いは、叶ってくれ」
幼い少女の体で、ダ・ヴィンチは二人の無事をひたすらに願った。
異聞帯には、空想樹なるものがある。
汎人類史の者達が勝利するには、この樹を切らねばならない。
逆説的にこれを切られれば異聞帯は終わりに向かうため、汎人類史・異聞帯両方の人間にとってこれこそが最も重要な戦略的目標となる。
樹を切れば異聞帯が消える。切らなければ、汎人類史が消える。
「この街は東西南北に聖杯を一つ融合させた『樹』が隠してある。
それを『内』から引っ張って
それを全部切って、本丸の『異聞帯の王』を倒せば君達の勝ち。
この世界は消えて、汎人類史は守られる……って、別世界の平安の男が言ってたらしい」
「……平安」
「俺は会ったことないんだよな。
マーリンがそいつから『樹の苗』をもらったと聞いた、そんくらい。
実際滅茶苦茶に怪しい奴だと思う。
でもその助力が無かったらこの世界は滅んでただろうし……俺は感謝してる」
「……」
その平安の男―――平安の悪なる陰陽師が誰なのか、立香は心当たりがあったが、あえて口を挟むことはしなかった。
「一つ、今回の聖杯戦争にあたって、主催の俺からルールの提案があります」
「どうぞ」
「サーヴァントでもない人間を殺すのは禁止。どうだ?」
「えっ」
「一般人を殺すのは禁止。
俺や俺の仲間を殺すのも禁止。
立香とマシュを殺すのも禁止。
ただこれだとサーヴァントが一方的にやられるから……
人間に襲われたりして防衛的に殺害するのはセーフとする」
「え、そうしてくれるなら嬉しいけど、どうして?」
「サーヴァントは、倒しても人間と同じ死は迎えない。
カルデアに退去したり、座に帰ったりするだけだ。
……世界ごと消えたなら、別だが。
だからこの方がどっちが勝っても痛みを抑えられるんじゃないかって」
「……ありがとね」
「立香のためだけじゃない。俺のためでもある」
負けた方が全て消えることは変わらない。
痛みを無くすことはできない。
敵味方全員の幸福はもう望めない。
けれどその中で、勝者の痛みを減らすためにできることはあって、刕惢は必死にそれを考えて提案していた。
人が死ぬことは悲しく、辛い……戦いの激化につれて、立香が耳にする機会が減っていったそれをちゃんと言ってくれたことが嬉しくて、少女の心に染み渡った。
この聖杯戦争は、ルールを守って勝利する限り、味方の誰とも死別しない。
あまっちょろいほどに優しい聖杯戦争だった。
勝者に「生きる」以外の褒美が無い、あまりにも得るもののない聖杯戦争だった。
「霊脈は整備してあるから好きなところ使ってくれ」
「え……いいの?」
「だって俺も君も召喚できないならジャー・ジャー・ビンクスじゃん」
「可愛いだけの役立たずってこと……? 遠回しな悪口?」
「立香は可愛いけどジャー・ジャー・ビンクス可愛いか……?」
「あらやだ口がお上手。ランスロットみたい」
「遠回しな悪口?」
二人はカルデアのマスターである。
二人が使う召喚式は完全に同一であり、霊脈に召喚サークルを設置し、召喚を実行さえすれば、とてつもなく強力なサーヴァントが仲間になってくれることさえある。
よって立香はこれまで、新しい世界に踏み入れた序盤、召喚ができない・味方がほとんどいない状態で、召喚可能な場所を見つけるまで死にかけながら四苦八苦することが多かった。
そこがするっと解決したものだから、ちょっと拍子抜けな気分もあった。
「いや、いいの? 本当に?」
「ああ」
立香の表情が、真面目なものへと変わる。
「……ねえ、勝つ気ある?
本当に分かってるの?
私が勝って、あなたが負けたら、この優しい世界は消えるんだよ?」
「そういうことをわざわざ言っちゃうのが、君の優しいところだと思う」
「この世界は、軽い気持ちで滅びを受け入れていいようなものじゃないよ。分かってる?」
「ああ」
「この戦い、私に有利すぎる。
こんなに有利な戦い、私は過去に一度もなかった。
だって私もマシュも殺されないんだもん。
じゃあ私達は、勝てるまで召喚を続ければいい。
この世界の霊脈を使い放題なら何度でも召喚を続けられる。
私が諦めない限り、私が絶対に勝つじゃん。……本当に、勝つ気があるの?」
「分かってる。
だって俺の世界なんだから、そりゃそうだよ。
心配は御無用。俺も負ける気も、滅びる気もない。
俺の世界は四つの聖杯、四つの樹で急速に"浸透度"を上げている。
君の汎人類史も、異性の神とかいう外野の異聞帯も、塗り潰すのに二週間かからない」
「!」
「時間は俺の味方だ。長引けば俺が勝つ」
刕惢は不敵に笑う。
まるで、絶望的状況を挑戦者へと告げるように。
立香の表情がもにょもにょする。
これでハッタリを効かせられているつもりなら向いてないよ、と言おうとしたがやめた。
皆が生きていて力を合わせているこの世界は、どんな世界より戦力過剰だ。
勝ちたいなら正攻法でいい。
それだけでいつもカツカツの汎人類史カルデアは瞬殺されてしまう。
事前の下調べをやっていたと自分で言っていた刕惢達なら、何も知らないということもなく、開幕瞬殺の戦法を選ぶことができただろう。
だが、そうしなかった。
その理由が『迷い』であることなど、聞くまでもない。
彼はまだ決められていないのだ。
死ぬか、殺すか、どちらかを選ぶしかない地獄の二択を、まだ選べていない。
言い方を変えれば、刕惢はまだ、目の前の立香を殺すことなんてできやしないのである。
他の誰かならごまかせたかもしれない。
しかし刕惢と立香の間に、こんなごまかしは挟めない。
なぜなら、藤丸立香は、森晶刕惢の理解者だからだ。
「だから、油断してると痛い目見るぞ。
お前に譲るつもりなら最初からそうしてる。
俺は……この世界のために……汎人類史を……」
その時、ぐらりと体が揺れて、テーブルにぶつかるような勢いで、刕惢が突っ伏した。
「大丈夫!? どうしたの!?」
「う、っと、大丈夫大丈夫、なんでもないから」
立香が反射的に席を立ち、刕惢に駆け寄って、寄り添って体調不良を確認し始める。
そして少女は驚き、何かの感情を噛み潰すように歯を食い縛って、表情を取り繕って、優しい微笑みを意識的に作った。
焦点がしっかり合っていない目。
目の下のクマ。
しっかりと姿勢を保てていない不安定さ。
指で触れると僅かに感触に違和感が残る肌荒れ。
至近距離まで寄ると僅かに鼻につく、胃酸過剰と嘔吐による酸性の臭い。
不安ゆえに隠しきれない手先の震え。
立香は気付いた。知識から来る判断ではなく、経験から来る共感ゆえに。
初めての異聞帯切除の後、立香はずっと眠れなかった。
自分がしたこととこれからすることに思考が行って、恐怖と罪悪感で眠れなかった。
眠れなくて目の焦点が合わなくなって、目の下にクマが出来たからカルデアの大人に習った化粧でクマを隠して、歩いてもフラフラとしてしまった。
座っていても、つい寝不足から眠りに落ち、テーブルに頭をぶつけてしまうこともあった。
無理に寝ようとしても悪夢を見て飛び起きて、普通に眠れないから肌が荒れて、食欲が無くなってるのに胃酸は出て、透明な胃液を何度も吐いた。
それで寝不足になって、寝不足が原因の吐き気が更に重なって、これから先の自分が怖くて怖くて仕方なくて、震える手先をぎゅっと握った。
立香は、それを知っていた。
"
その笑顔は、自分のためではなく、目の前の苦しんでいる一人の少年のために。
「走り込みとかして疲れ果てておくと、何も考えないでぐっすり眠れるよ」
「―――」
「ああ、あと、無理に寝ようとしない方がいいかも。
眠くないのにベッドに入ると余計なこと考えまくっちゃうからね。
楽しいこともした方がいいかも。
巴さんがゲームに誘ってくれて、いい気分転換になった覚えがあるから。
周りに相談しろなんて言えないけど、でもやっぱり考え込みすぎるとダメなんだよね」
「……立香、君は」
「いざとなればマシュの膝枕で大泣きするって手もあるよ?」
「……くくっ、なんじゃそりゃ。ありがとう、助かる」
「いえいえ」
立香はにかっと笑って、その笑顔が、その言葉が、彼の心を少しばかり救ってくれた。
共に生きられないからって、優しくしない理由にはならない。
いずれ滅ぼすしかない異聞帯の人間を、雑になんて扱えない。
やがて消え去る世界の人間だとしても、救えるなら救いたい。
藤丸立香は、そう生きてきた。
その愚かしいまでの優しさが、人を救ってきたのだ。
「立香は、凄いな。
こんな重圧と罪悪感に耐えて、戦えたのか。
それで自分の世界を救う道を進んだのか。
"そこまでして生きていたくない"、なんて俺は思っちまいそうだ」
「そりゃ、私もちょっとは思ったけど……でもやっぱり、しないといけないことがあるから」
「殺したくない。
傷付けたくない。
だって俺も殺されたくない。
傷付けられたくないんだ。
特異点で人を殴ってしまったことがある。
拳に残る感触が気持ち悪くて……
痛がってる相手に、つい謝って……
殴られたその人が俺を恨めしく見てるのが、辛くて……」
「うん」
「ああ、反吐が出る。
自分を変えられない。それが嫌だ。
何も思わないで殺せたらいい。
俺が何も感じない奴ならこの世界も迷わず守れたんだ。
くそっ、分かってんだ、分かってんだけど、俺は、俺は……!」
「……分かるよ。こんなことしないでいいなら、私だって絶対にしなかったから」
マシュの前ではかっこいい先輩でいたい。
ダ・ヴィンチちゃんの前では平気なふりをしたい。
カルデアの皆の前では頼れるマスターでありたい。
サーヴァント達に恥ずかしくない自分になりたい。
ただのやせ我慢でも、彼も彼女も普通の人間だから、頑張り続ける。
口には出さない、出せない想いがある。
誰にも言うつもりは無かったのに、同じ旅路を駆け抜けた仲間を前にすると、すぐに理解されてしまって、共感で寄り添われてしまって、言うつもりのなかったことを言ってしまう。
「君みたいな普通の子が手を汚さないといけないと、ダメだったのか」
「あはは、ダメでした。
でもさ、誰かがやらないといけないことだったから、しょうがないんだよ」
しょうがない。
しょうがない。
しょうがない。
今日まで自分が何度この言葉を使ったのか、立香は数えるのも億劫だった。
「刕惢もなんというか、普通の子に見えるよ。
なんというか同じクラスに居そう。
すっごく懐かしい、普通の日本の同年代の男の子ってカンジ」
「褒められてんだか貶されてんだかわかんないな」
「LINE交換する? なんと私は同年代の男子に教えたこと無いんだよ。嬉しい?」
「使う機会ないだろ!」
もっとなんでもないつまんない場所で出会いたかったな、と少女は思う。
「刕惢がクラスメイトだったら……クラスの男子とオセロやってそう」
「……。立香は今日小テストだった! 忘れてた! ってしょっちゅう慌ててそうだ」
「む。そう言う刕惢は隣の席の私に教科書しょっちゅう見せてもらってそうじゃない?」
「なんだと……! ちょっと否定できないな」
「あははっ」
楽しい会話だった。これまでの幸せも不幸もまとめて忘れてしまうくらいに。
「何も無かったら今頃、殺すか死ぬかの二択じゃなくて受験の二択で悩んでたのかな、私達」
「かもなぁ」
「いいよね受験。面倒くさそうだけど、解答集あるもん」
「頑張ってたら絶対正解に辿り着けるって、尊いことだったんだな」
「センター試験ってどんなんだったんだろ? 私ニュースでしか見たことないんだよね」
「わかんねえ」
「センター試験で大勝利したかった気持ちが私の中になくもないのだ」
「誰に勝つんだよ……自分に勝て……勉強は自分との戦いだから……」
楽しいはずの軽快な会話に、どこか悲しい虚しさが宿っている。
「勝った、負けた、ってのも昔はすげー苦手だったんだよな、俺」
「え、そうなんだ。そういう人は珍しいね」
「闘病ってあるじゃん。
で、病死すると『病に負け』って言うじゃん。
『ガンには勝てなかった』とかもか。
あれが死ぬほど嫌だった。
じいちゃんが病気で死んだ時、そういうこと言ってる人達が居た。
戦ってたのは薬とかだろ?
じいちゃんを薬とか病院の機械とかが救えなかっただけだろ、って思ってた」
「おじいちゃん、亡くなられたの?」
「ん。
もっと頑張ってたら勝てたのか?
じいちゃんが病に負けたから死んだのか?
じいちゃんを救える薬や医者が居なかっただけじゃ?
じいちゃんは苦しくても頑張ってたのに……負けただの、勝てなかっただの」
「……」
「『負けて死んだ』みたいなこと言うのは、なんか優しくない。
こうなんか……もうちょっとあるだろ! と幼い俺はめっちゃ泣いたのだった」
立香はこの世界に来てから一番に自然な、ごく自然に心から浮き上がる優しい微笑みを自分が浮かべている、そんな感覚を覚えていた。
「優しいね」
「からかうなよ」
「私、からかってないのにー。邪推はよくないよ、悪者になる入り口だよ」
会話を繰り返せば繰り返すほどに、この異聞帯の主であり『王』を従えるマスターである彼への理解が深まり、それがこの異聞帯への理解へと繋がっていく。
立香は一つ、世界の構造に気付いた。
「ああ、私ようやく分かった。この世界、そういう世界なんだ」
「ここまで話したら立香には分かっちゃうよな、そういうの」
「『全員勝者』なんだ、この世界。全員幸せになれるから」
「俺は最高に頭が良い解決だと思ってたんだ、この前まで」
「私は最高に優しい解決だと思うよ、今でも」
「……そう言ってくれるか。生存競争……しなければ、終わるんだよな」
「全員が勝者になれたらよかったのにね」
『あいつは負けたから死んだ』と、そう言うだけの結末が待つ。
「始まりは明日の夜、0時。
そこから俺達の聖杯戦争を開戦とする。
それまでは召喚して手駒を集めとくといい。
その時間になったら魔力持ちだけに聞こえる鐘の音を鳴らして合図にするから」
「明日の夜、鐘が鳴ったら、私達の聖杯戦争が始まる」
「始まってからいつでも来たい時に来ていいぞ。
人間は殺せないってルールだからな。
俺もお前も安全が保証されてる。
ルールの細かいところで分からない部分があれば聞きに来い」
「面倒見のいいゲームマスターだこれ」
森晶刕惢は、敵にしても味方にしても、近くに居るだけで妙に肩の力が抜ける男であった。
刕惢は拳を握って、目の前に突き出した。立香はよく分からなくても首を傾げる。
「な、子供の時、友達の間でこういうことしなかったか?」
「?」
「『どっちが勝っても、恨みっこなし』」
「……ああ」
懐かしさと優しさで涙が出そうで、立香は唇を噛んだ。
子供の頃、ドッチボールやサッカーをする前にこんなことをしていたことを思い出す。
もう、あの頃には戻れない。
"恨みっこなし"と言ってくれるのが優しくて、気遣われていることが分かって、この気持ちをどう消化すれば良いのか、藤丸立香には分からない。
拳を応じるように突き出し、二人の拳が突き合わされて、見つめ合って、笑い合って。
「恨みっこなし」
「恨みっこなしで」
とても優しい、地獄の中の約束をした。
常識的に考えればそんな約束が果たされるわけがない。
人が死ぬ。沢山死ぬ。世界ごと消え去る。それで恨みが出ないわけがない。
死の間際に怨嗟の罵倒が出ても何らおかしくはないだろう。
そんなことは二人共分かっていた。
それでもこれを口にしたのは、立香の彼への優しさであり、刕惢の彼女への優しさだった。
"もしもの時にこの人の罪悪感と苦しみが減りますように"―――そんな、優しさだった。
立香は戻ってきたマシュと合流し、中庭を出ていこうとする。
もう話すことはない。
必要なことは全て話した。
後はサーヴァントを召喚し、明日の夜0時、明後日に移り変わる時まで準備を重ねるのみ。
立香に背を向けて椅子に座ったままの刕惢が、刕惢に背を向けてドアノブに手を懸けた立香に向けて――あるいは、誰にも向けず――ぽつりと、呟いた。
「なあ、俺は、どうすればいいんだ?」
あまりにも小さく、か細い声。
誰にも聞こえなかったとしてもおかしくはない、小さな弱気。
刕惢の横に立っていたモードレッドには聞こえていて、騎士は顔を顰める。
立香の横に居たマシュには聞こえていなかった。
そして立香は、背を向けたまま言葉を紡いだ。
「ダメだよ、刕惢」
言いたくもない言葉を、言わなければならないから、彼女は言う。
「私達は、それを他人に聞いて、答えを求めちゃダメなんだよ」
二人はマスター。
カルデア最後のマスターにして世界を代表する一般人。
世界を守る最後の砦。
皆の生存権のために、己の手を汚さなければならない者達。
絶対に捨てられない責任がある。
「だって、誰のせいにもできないんだから。私達は、自分の意志でやるんだよ」
それだけは絶対に。目を逸らしてはいけないことだった。
立香は、彼が握った拳が震えていたことに気付いていた。
彼女だけが理解できる気持ちがあった。
その手を両手で包んで、大丈夫、大丈夫と声をかけてやりたかった。
けれど、それだけはできなかった。
彼に絶望をもたらす自分にだけは絶対に、その資格がないと思っていたから。
罪は他の誰でもなく、立香の背に伸し掛かる。
"この世界を滅ぼして私の世界を守って"とサーヴァントに命じられるのは、立香だけだから。
「いつでも来ていいって言ってくれてありがとう。
うん、それじゃ、何か話したくなったら会いに来るよ」
理解者と出会えて、理解者と通じ合って、理解者と話して、少女の心は少しばかり救われた。
その理解者を、藤丸立香は殺す責任がある。
殺す願望などない。
殺したくなどない。
しかし背負った命と想いと世界の重みが、他の道など許さない。
世界諸共、彼女は唯一無二のこの理解者を殺さねばならない。
でなければ、ここまでの旅路は、何のためにあったというのか。
世界を救い、自分が生きる、そんな生き物として当たり前の願いのために。
少女は歯を食いしばり、掴んだ己の腕に爪を立てる。
そうでないと、今にも泣き出してしまいそうだったから。
刕惢が中庭前の廊下の長椅子に横になって休んでいると、気持ちがうとうととし始めた頃、少年の額を丸めた新聞紙が叩いた。
「休むなら自分の部屋で休みたまえ。もう18時になるぞ、レイスイ」
「……シロウさん」
「エミヤ、だ。外ではそう呼ぶことを徹底しろと言っただろう。
他のサーヴァントに示しがつかん。第一、どうにもこそばゆい」
「いいじゃん、他の人いないし。
へへっ、いい名前だよなシロウさん。
名前の最後を伸ばし棒にできる名前は呼びやすくて好きなんだ」
「まったく、君は年上の大人に対してはいつも人懐っこいな。ところで」
「ところで?」
「床に寝っ転がって大いびきをかいているこのモードレッドは……なんだ?」
「どこでも昼寝する猫みたいだ……外見は普通に金髪美少女なのに……生き方が雑……」
彼の名はエミヤ。クラスはアーチャー。
英霊となる前の名を、
刕惢とは長い付き合いで、双剣と長久を扱う非常に器用な弓兵である。
白く染まった髪をかき上げ、赤い外套をなびかせて、エミヤはため息を吐いた。
「で、どうしたのかね、今日は。
……いや、この際まとめて聞こう。
ここ最近の君は何かを隠している。そしてまともに眠れてないようだ」
「うっ」
「私は君の信頼を得ていたと思っていたが、どうやら勘違いだったようだ。
君が重要な秘密を打ち明ける相手として、私はまったく相応しくなかったらしい」
「え、いや、そんなことは!」
「ほう? なら今から話してくれるということか。これは静かにして聞かなければな」
「……最初からそのつもりで?」
「さてな。私は抱え込みがちなマスターに信頼される、一人の弓兵というだけの話だ」
クールを気取った人情派。斜に構えた優しき男。ニヒルに笑って真面目に戦う。
エミヤのこの在り方が刕惢を何度支えてくれたか分からない。
刕惢はエミヤを素直じゃない良い兄のように思っていて、エミヤは刕惢を素直すぎて危なかったしい弟のように思っていた。
「今日明日に皆に話すつもりだったけど、シロウさんならいいか」
「深刻な話のようだな。場所を移すか」
二人は屋上に移動し、刕惢はそこで全てを話した。
汎人類史、異聞帯、この世界の剪定、そして自分の迷いの全てを。
沈みかけた太陽が、会話によって経た時間を喰い、少しずつ沈んでいく。
それは絶望の話であったが、エミヤの心を折るには至らない。
「……なるほどな。さぞかし苦悩したことだろう、レイスイ」
「決断はまだできてない。苦悩しただけなんだ。ごめん」
「いや、それでいい。
そういう君を支えてここまでやってきたのだからな。
ならば命じるが良い、マスター。
この身は君を守る剣であり、君の敵を撃つ弓だ。
ひとたび君が命ずれば、如何なる敵も必ずやこの手で―――」
「あ、シロウさんは今回留守番で」
「なんだと!?」
エミヤは夕陽をバックに苦笑するレイスイの肩を掴み、焦りながら揺らす。
刕惢は前後に揺らされながらも苦笑い。
「オレを差し置いて誰を頼るというのだ!
あの言うことを聞かない狂犬のモードレッドか!?
引きこもりを極めた刑部姫か!?
あの危うい人類悪どもか!?
悪いことは言わん、君の願いを忠実に叶えるオレにしておけ!」
「あ、いや、そういう話じゃなくてさ」
「?」
「シロウさんに『世界のため』って理由で、たくさん人殺させたくないんだよ、もう」
「―――」
エミヤは密かに、息を呑んだ。
「今回はお休みで。大丈夫、シロウさん抜きでもどうにかしてくるから」
エミヤは英霊の中でも非常に珍しい、現代の英霊にして未来の英霊である。
彼は2004年以降の未来にて英霊となり、2004年の聖杯戦争に参加し、その後正規の英霊として2015年のカルデアに召喚された。
サーヴァントが登録される英霊の座に、時間の概念は無いからだ。
エミヤは、世界と契約して英霊に加わった男であった。
数え切れないほどの人々が死にそうになったその時、自らの死後を世界に預ける代わりに、人々を救うという結果を掴み取った。
結果、彼は死後、世界のための奴隷と成り果ててしまった。
生前の彼には優しさと使命感があり、報われなくとも人々を救えればいいという想いがあり、一生を人助けと正義のために費やした。
しかし死後の彼は人類の滅亡や世界の破滅を回避するため、ただひたすらその原因を殺す掃除屋にされてしまった。
救いたかっただけなのに、殺すだけのものに成り果ててしまった。
人を守りたかった信念はすり減り、長く長く続く地獄の中で自分を見失い、人を殺す度に心にヒビが入っていく。
エミヤとは、そういう英霊だった。
そして紆余曲折を経て、カルデアに召喚され『人を守り、世界を救う』という使命を与えられ、彼はかくして、本物の英雄としての物語を駆け抜けた。
誰も殺さなくていい、けれど誰もを守らなければならない刕惢の下での戦いは、エミヤにとって非常に苦労させられる、なのにとても楽しい旅路であったと言えるものだった。
そう。
かつてエミヤから過去の人生を聞いたことがあった刕惢は、ゆえに彼を気遣う。
「……」
「仲間外れにしたとかじゃないんだ。
だけどさ、ほら。
……俺がやる立場になって、分かったんだ。
悪人じゃない人をたくさん、世界のために殺すって、辛い」
「……ああ、そうだな。そうだとも」
「じゃあさ、もう十分それをやった人にはやらせられない。
俺が選んで、俺が命じて、俺が背負わないと。
……いけないんだけど、迷っちゃってて情けない。
少なくともシロウさんは関わらない方がいいと思うんだ。
だって辛かったんだから。
俺は世界のために人を殺せなんて、シロウさんには絶対に言えない」
「そうか」
エミヤはニヒルに笑って、腕を組む。
納得してもらったかな、と思って、刕惢も真似して腕を組む。
エミヤの内心など、彼が隠そうと思えば刕惢には見抜けないというのに。
「なら、おとなしくしているとしよう。夕飯の材料でも買いに行くとするかね」
「おおー、いいね。何か作る予定ある?」
「フッ……気遣いの例だ。リクエストを聞こう」
「分厚いハンバーグでお願いします!」
「了解した、マスター。では行ってくる」
エミヤは刕惢に手を振り背を向け、屋上から階段を降りていった。
その途中、エミヤは起きたらしいモードレッドとすれ違う。
モードレッドは、マスターの刕惢を探しているようだった。
「おい弓兵。今日の晩飯お前が作るんだってな、何作るんだ?」
「ハンバーグでも作ろうと思っている」
「お、マジ!?」
大喜びするモードレッド。
エミヤはふっ、と笑みをこぼす。
『自分の好きなものではなく他の誰かが好むもの』をついついリクエストしてしまうマスターの性情に、思わず笑みがこぼれてしまっていた。
そして、モードレッドは言う。
「じゃあ、ちゃんと帰ってこいよ」
動物的な直感がもたらす、本質を突くような一言だった。
モードレッドは分かっていない。
本能は分かっているが頭はまるで分かっていない。
ゆえに、ぽろりと口からこぼれ落ちるような一言に終わっていた。
エミヤは少し申し訳無さそうに、口を開く。
「モードレッド。君と最初に顔を合わせた時のことを覚えているか」
「ああ。『アーサー王であればよかったものを。その裏切者とはな』だろ? キレたわ」
「改めて謝らせてくれ。あの時は私があまりにも愚かなことを言っていた」
「おいおい、あの後謝ってたろ。いーよそんくらい、繰り返し謝らなくても」
「何かあれば後を頼む。
この案件は正道を往くアーサー王に向いているとは思わない。
手を汚す邪道と誇りを守る騎士道の両方を知る君こそが必要だ」
「……おい、赤い弓兵、お前……」
「何、心配することはない。ちゃんと帰ってくるさ」
エミヤは建物から離れ、夜になりつつある街の遥か高高度を駆けた。
エミヤは、汎人類史のマスターを探していた。
もちろん、襲撃するために。この戦いを最速で終わらせるための索敵であった。
「レイスイは人殺しを好まない。
かつ、それがルールに組み込まれている。
開始の合図の前の奇襲に意味はなく、それは無為となるだろう。
だがやりようはある。汎人類史のカルデアも、この世界のカルデアと同じなら……」
カルデア式の英霊召喚は、まず霊地にマシュの盾を設置し、召喚サークルを作るのが肝だ。
そこから霊基データ……セイントグラフなどを使い、召喚を行う。
それらが欠ければ、汎人類史側の英霊召喚の驚異は九割がた消え去ると言っていい。
セイントグラフのデータバンクか、マシュの盾。
どちらかを奪うか破壊することで、エミヤはこの戦いで生まれる傷を最小にしつつ、この世界を汎人類史の枠に押し上げることが可能であった。
今奇襲すれば、油断しきった藤丸立香達から奪い取れる可能性が非常に高い。
これはエミヤの完全なる独断であり、エミヤが考える最善の一手であった。
慣れないやり方だ、とエミヤは自嘲する。
誰も殺さないやり方。
難易度の高いやり方。
しかしながら、エミヤはそれを望んで選び取る。
それが最善であるという合理性を戦闘論理に持つがゆえに。
「!」
だが。
「その霊基。お前は……」
「空振りの可能性も考えていたが、当たりだったか。それがまさか私自身だとはな」
その思考ゆえに、エミヤは待ち伏せとかちあった。
広い公園の開けた草原、その中央で二人の男が対峙する。
「私のオルタ、か」
「エミヤ・オルタとでも呼ぶがいいさ。私からすれば……オレからすれば、貴様がオルタだが」
「そこをどけ。オレにはすべきことがある」
「どくはずがないだろう?
オレはこの地で最初に召喚された汎人類史の英霊。
その意味はおそらく、これだったということだろうな」
サーヴァント・オルタナティブ。
ありえたイフ。
もう一つの人生を生きたエミヤ。
それは、平行世界の自分と言って差し支えない、もう一人の自分。
立香達は既に召喚を実行し、エミヤ・オルタを召喚していたということだろう。
異聞帯のエミヤ。
汎人類史のエミヤ・オルタ。
二人の男は
「お前も同じエミヤなら分かるはずだ。この世界の意味が」
「わからんな。説明してくれ」
「ここには地獄がない。
いや、もう地獄が生まれない。
『エミヤ』が生まれた地獄も。
いいや、その前の、衛宮士郎が壊れた冬木の地獄も。
何も無いのだ、もう一人のオレ。
オレ達は衛宮士郎だからこそ、この世界の価値が分かるはずだ」
地獄があった。
助けてと、衛宮士郎は願った。
助けられて、自分もそうやって他人を救える人間になりたいと思った。
地獄は絶えなかった。
地獄の中で衛宮士郎は救って、救って、救って、救って。
世界と契約し、世界の奴隷になって。
そこからもまた無限の地獄があって。
そうやって、『エミヤ』は生まれた。
異聞帯のエミヤも、汎人類史のエミヤオルタも、地獄から生まれた。
地獄がない世界で『エミヤ』は生まれない。
『エミヤ』は地獄より生まれ、地獄なき世界を目指した男の成れの果てである。
「お前も来い、もう一人のオレ。
この世界には正義の味方はもう要らない。
正義の味方が要らないこの世界こそ、オレ達が求めたものだ。
もう二度と『エミヤ』のような者が生まれないこの世界を残してこそ―――」
手を伸ばし、仲間に誘うエミヤを。
エミヤオルタは、鼻で嗤った。
「お断りだ」
「なんだと?」
エミヤオルタが銃を抜く。
神速の抜き打ちにて、その銃弾はエミヤの髪をかすめる。
はらりと数本、エミヤの髪の毛がちぎれ落ちた。
「ああ、そうだな、オレは―――理想に溺れて溺死する自分を、初めて見せられたわけだ」
それは、衛宮士郎が考える中で、衛宮士郎を最も苛立たせる、衛宮士郎が最も言われたくない、
「思ったより嗤えるな。オレの無様な人生の原因の全てが、ここにある」
「……貴様。自分がなぜ、どんな地獄で、どう間違えたかを忘れたのか」
「さえずるな、愚者。オレの間違いはオレが一番よく知っている」
双銃を抜くエミヤオルタ。
双剣を抜くエミヤ。
エミヤオルタは不機嫌に嗤い、エミヤは冷たく眉を顰めた。
「『誰もが幸福な世界を目指す』―――そんな滑稽な夢を見ている自分は、酷く癇に障る」
「その目は飾りか? この世界が見えていないのか」
「だが、剪定されるのだろう?」
「―――っ」
「ならばゴミでしかない。
いや、ゴミは他人になど迷惑をかけないか。
ならばこの世界はゴミ以下だな。オレ達掃除屋の仕事場に相応しい」
「貴様……!」
「オレはオレの仕事をしよう。
オレは善いものを殺さなかった者ではない。
オレは悪だけを殺してきた者ではない。
己が世界の延命のために、善も悪も殺し尽くす―――そうだろう? 『エミヤ』」
銃声が響く。
銃弾を剣が切り落とした音がする。
正義の味方の残骸が、世界のために人殺しの道具を振るう。
二人は同じ人間、衛宮士郎から派生した二人で……ゆえに、相容れることはなかった。