触れるだけで精神を汚染される化け物によって人類は滅亡の一途をたどる。
そんな世界で盲目の少女、夜宮さざめはとある一体の化け物と出会う。
その化け物は自身を、異世界からの転生者だと説明し、元は人であったと説明する。
これは化け物となった"彼"と盲目の少女との出会いの物語。
この世界に触手の化け物が現れたのは一年とほんの少し前だ。
暗闇よりあらわれるその触手は桃色のグロテスクな触手の塊で、剥き出しの目玉がいくつもついている。
この触手は人と接触しようとする習性があり、実際に触れられた人間は精神を汚染され、自我を失う。
最終的にはその形さえも変容し、同じ触手の化け物と成るのだ。
そうして人類は滅亡寸前となり、秩序を失った。さらには雨の降る日が極端に少なくなり、自然環境が破壊され……。
呆気なく世界は崩壊した。
【
少女、夜宮さざめの幼少の記憶は父親に殴られたものばかりだった。生まれつき目の見えないさざめにはその暴力に抵抗できるすべはなく、ただひたすら耐えるだけ、それが日常だった。
だが、それも一年前までだ。触手と目玉の化け物によって世界が壊れてから、父親の怒声がさざめに飛んでくることはなくなった。
だが、今でもさざめの耳にはこびり付いている。父親が狂ったような悲鳴を上げ、その後にぶじゅる、という何かを引きちぎる音が聞こえたことを。
その後のさざめの人生も決して楽なものとは言えなかった。秩序の崩壊した世界では、目の見えないさざめを保護してくれるような場所も、人もいなかった。
「……いたい……」
そして結局、さざめは一人になった。誰にも頼ることもできず、一人瓦礫の街を彷徨っていた。
見ることのできないさざめ一人では食べ物を得ることもできない。数日もすれば、さざめは衰弱して死ぬことになるだろう。
いや、どうやらそれよりも化け物となる方が早いようだ。
「スン……この、匂い……」
崩壊した瓦礫の裏からぬるりと粘着質な音が聞こえる。その直後、いくつもの太い触手が顔をのぞかせ、不用意に近づいたさざめを取り囲んだ。
「……あ、ああ……」
そして、自身の足首に絡みついてくる細い触手の感触に、さざめは顔を青くする。
親もおらず、頼れる人もいない。自分一人では生きていくこともできず、もはや死んだも同然だったさざめ。だから、死んでもいいと思っていた。
だが、実際に死が近づくとこんなにも臆病になるのかと、さざめはあまりの絶望に吐き気さえ覚えた。
だが、ここ数日何も食べていないさざめの口から出てくるのは弱弱しい悲鳴だけだ。
「ひっ」
ひときわ太くて大きい触手がさざめに近づき腰に巻きついた。そのまま掴みあげられたさざめは恐怖で一切抵抗できない。
たとえ抵抗したとしても、どうすることもできないと諦めてもいた。
さざめを拘束した触手は他の化け物と比べてもかなり巨大な個体だった。桃色と緋色の触手の塊は人の臓物を思わせ、その中に剥き出しの眼球がいくつも存在している様は、見ただけで人を発狂させるほどの狂気を含んでいた。
幸い目の見えないさざめが狂うことはなかった。……いや、不幸にも狂えなかったというべきだろうか。
「いやぁ……やめて……」
触手は無遠慮にさざめの腕や太ももに絡み付き、一切抵抗できないようにしていく。
その後、一本の触手がさざめを観察するかのように体のあちこちに触れ、最後に彼女の目元に接触した瞬間その動きを止めた。
「……お母さん……」
さざめは無意識に母を呼ぶ。物心ついた時にはもう居なくなっていた想像の中だけの、美しく優しい母親を求めるが、そんなものは存在していない。
動きを止めていた触手はさざめの額に接触する。やさしく、触れ合う程度の力加減で触手を感じるさざめ。
そしてさざめの意識は暗転した。
混濁する意識の中で、さざめは誰かの記憶を覗き見ていた。
ある男の記憶。その男は何でもない日常を生き、どこにでもある生活を送っていた。そして事故に遭い死んだ。
だが、気が付くと男は正常な意識を保ったまま、触手の化け物の体となっていた。
男はこの世界に、触手の化け物として転生したという。
転生した後、男はこの世界について様々なことを知った。世界が崩壊していること、自身のような化け物を
そして男は化け物ではなく、人として生きることを選んだ。
目覚めたさざめは何やらやわらかいものの上で横になっていることに気が付いた。目が見えないさざめは手に触れる感触と匂いで、それが触手でできたベッドだと分かった。
「……わたしを、食べないの……?」
実際には捕食するのではなく同化させるのだが、さざめにはその違いは分からない。そもそも見えないので人が触手へと成る場面を見たことのないさざめには、触手との邂逅はイコール死である、という認識しかない。
「……ん、んぅ」
化け物……いや、彼はぎこちなくであるが触手を使い、さざめの頭に触れ、恐る恐るだが撫で始める。同時に別の触手を使って彼女の手の中に果物を渡す。匂いや触感からどうやらリンゴのようだとさざめは理解する。
「……あなたは、違うんだね……ありがとう」
人の心を持つ化け物と、盲目の少女はそうして出会った。
「しょくしゅさーん! こっち!こっちから匂いがしますよー!」
彼とさざめが行動を共にしてからすでに数週間は経っていた。食料をもらい、目の見えない自身を気にかけてくれる初めての存在に、さざめは半ば依存していた。対する彼も、化け物に転生してから初めて友好関係を気づけた人間として、さざめを大切にしている様子だった。
何もない、瓦礫と崩壊した大地しかない世界でも、彼とさざめは互いさえいればもうどうでもいいとさえ思っていた。
今日もふたりは崩壊した廃ビルから保存食や缶詰を掘り起し、それが終わると別の街へと移動するという工程を繰り返し、生活していた。
彼からすると、自身の姿を見られないように一か所にとどまらず移動するしかない状況に、さざめに申し訳なさを感じていたが、当のさざめはその工程を存分に楽しんでいた。
「ねえ、今度はどこにいこう……?」
さざめは彼の上に跨り落下しないようにのばされた触手を握りながら、次の街への思いを馳せるのだった。
「しょくしゅさん、わたしね、"風景"が好きなの……目は見えないんだけどね、いっぱい、いっぱい知らないことを体験して、驚いたり、感動するのが、すきなんだぁ」
目が見えなくとも移動するたびに変化する植物や土の香り、肌にあたる風の強さ、手に触れられる様々なものの移り変わりがまるで旅をしているようでわくわくする。それをさざめは総じて"風景"と称した。
「もっとわたしをたかいところにつれてってね? しょくしゅさん」
だから、そんな"風景"を最も感じられる場所として、さざめは訪れた街の一番高いところが好きだった。街につけば食料の探索よりも先に街一番の高層ビルへ上りたいと彼におねだりするくらいには。
そんなふたりがたどり着いたとある街、そこは今まで訪れた街とそん色ない、何の変哲もない瓦礫の街だった。だが、街に入り込んでしばらくすると、鼓膜を響かせる破裂音が轟いた。
「! なに、今の音っ……」
彼にまたがるさざめは思わず身を屈ませ、彼も触手でさざめを守るように動かす。
「ねえしょくしゅさん! 今のって……!」
焦るさざめ。先ほどの音はこの崩壊した街ではまず聞くことのない音、発砲音だった。さざめは先ほどのが発砲音だとは知らないが、何か危険なものの音だとは感じていた。
そして再度発砲音。
今度は彼の体のスミに、小さな風穴があいた。
「しょくしゅさん!!」
愚鈍そうな触手の塊とは思えないほどの俊敏さで彼はさざめをしっかりと抱え、崩壊した高層ビルを登っていく。彼を狙う何者かの狙撃は正確で、発砲音が鳴るたびに次々と彼の体が引きちぎられていく。
「なに!? どうしたのしょくしゅさん!?」
混乱するさざめの額に触手を触れさせ、彼は自身の記憶をさざめに見せる。
この世界は確かに崩壊し滅亡したが、それは人類が一人残らず死に絶えたわけではない。それはさざめの存在からも明らかだ。
そして生き残った人間は知恵を振り絞り、深淵抱きを斃す技術を確立させた。
人々にとって人類滅亡を食い止める最後の希望。まるでこの世界の主人公のような存在、それが今、彼を狙っている者の正体だ。
「っ逃げよう!? しょくしゅさん、いっしょににげようよ!?」
ビルを登る彼、このままでは逃げ道がなくなってしまう。にも拘わらず彼は上ることをやめようとしない。
再度、彼より記憶の共有が行われる。
彼は確かに生きようとしていた。さざめと出会い、人としての意思を再確認したことでその意志は強いものになったが、同時に自身の存在がこの世界にとって害悪であるとも自覚していた。
人として、人のために死ぬべきではないか……?
それが彼の中にくすぶっていた疑問だった。
彼はいくつもある眼球を動かし、さざめを見る。彼女は出会ったころよりかなりたくましくなり、一人でも生きていけるだろうと思えた。
知識や話術を駆使すれば盲目であったとしても、生き延びることはできるだろう。
いや、もはや彼女は"盲目ではなくなる"。ならば、それこそ自身がいなくなっても、生きていけるだろう。
彼は触手を通してさざめに別れを告げる。自身が斃された後、斃した者たちに保護してもらうといい、と言って。
「い、いやだっ!! しょくしゅさんとはなれたくないっ!! なんで!? なんでそんなこというの!?」
光を移さない双眸に涙を浮かべ、いやいやと首を激しく振るさざめだが、彼はついにビルの屋上まで到達してしまう。
その瞬間、四方八方より飛来する弾丸によって彼の体は散り散りになり、さざめは触手の四散する勢いによって屋上の床に叩き付けられる。
「あ、あ……あ」
彼を撃った弾は当然さざめにも数多く命中していた。
まるでひき肉のようになった下半身を引きずり、さざめは彼だったものへと寄り添う。
「しょく、しゅさ……ごめ、ねぇ……」
瀕死のさざめの声に応えるように肉片となったはずの触手がさざめの額に触れた。
"これをあげる。だから、どうかキミの好きなように生きてほしい"
二度目の一斉斉射により、彼は跡形もなく破壊され、殺された。
触手に有効な特殊弾をライフルに装填しながら、とある人物はその光景に満足していた。
あれほど人類の天敵ともいえる破壊力と見た目のおぞましさを備えた化け物でも、この特殊弾さえあればどんな個体でも駆逐可能だと証明できたのだから。
周囲に展開している仲間もおそらく歓喜に沸いているだろう。アレは化け物の中でも規格外な大きさと知恵を備えており、そのうえ頑丈だった。最近はその背中に人を乗せているという報告もあったが、そんなわけがないとその人物は一蹴した。
化け物はしょせん化け物なのだから、と。
その人物はライフルのスコープを覗き込み、目標の存在していたビルの屋上を確認する。
予想通りなら、そこには気持の悪い内臓が散乱している。
……している、はずだった。
その人物のスコープにははっきりと人影が確認できた。自身の両足で立ち上がり、その両目ではっきりとこちらを見つめている、少女の姿が。
馬鹿な、とその人物は思った。あのビルの屋上からこちらのビルの屋上まではおよそ3kmは距離が離れている。仲間もその程度の距離をおいていた。
にも関わらず、少女はこちらを見、さらに仲間がいる方角へも視線を向ける。
たまらずその人物はライフルの引き金を引いた。おそらく仲間も同じだったのだろう。
三度目の一斉斉射が行われ、その弾丸すべてが少女の小さな体に殺到した。
だが、その弾は一つとして彼女に触れることはできなかった。彼女の下半身より伸びた、まるで尻尾のような巨大な触手が振られ、その衝撃によってすべての弾が弾き返されたのだ。
その人物と仲間が見たのは、自身に迫りくる弾き返された弾丸と、スコープから覗き見た、その少女のおぞましい輝きを放つ瞳だった。
さざめはその後、彼と一緒にいた時のように旅を始めた。今度はその美しい景色を眺め、絵にするために。
「今日もいい天気……青色の絵の具を探さないと……」
彼は死ぬ寸前、自身の体の一部をさざめへと与えた。射撃によって破壊された下半身に触手を宿らせ足を復元、両目に自身の眼球を与え、目を見えるようにした。
さざめは彼の最後の言葉に従い生きていた。旅が好きだったから旅を続け、風景が好きだから、絵を描くことを始めた。
最初の絵は彼と出会った場所のスケッチだ。なんの変哲もない崩壊した街。だが、さざめには彼と出会った思い出の場所だ。
廃墟から掘り起こしたスケッチブックと鉛筆や筆、歯抜けではあるがいくつかの絵の具などを手に入れ、さざめは絵を描いた。
描いて、描いて、また旅をして、目に見た風景を絵にしていった。
そうしているうちにさざめは彼の言っていた言葉の真意を理解した。
好きなように生きろ。これはつまり人としての自身を強くもて、ということなのだろう。
触手はどうしてもその人間の精神を汚染しようとする。触手が彼であったときは彼によって意識的に精神の汚染は防がれていたが、もう彼はいない。
汚染を防ぐために、確りとした強い意志を持つべきで、それが人らしく好きに生きることで実行されているらしかった。
さざめならば、風景を楽しみ、絵を描くこと。
簡単に言ってしまえば、絵を書いていられる限り、さざめは自身の体のコントロールを保持したまま、触手に汚染されることがない。
「ふふ、しょくしゅさんにも見せたかったな……」
今日もさざめは旅を続けていた。今回やってきた街はさざめにとって思い入れのある場所、彼の殺された街だった。
最初は知らず、街に入ってようやく気が付いたさざめは早々に立ち去ろうと考えるが、その前に彼の死んだ場所をもう一度見に行くことにした。
彼の死んだ場所を、もう一度その瞳に焼き付けておきたかった。
「ここが、あの時の……」
さざめは廃ビルの屋上に立つと、変色した床を眺めた。ここで彼は殺された。そして、わたしの旅の始まりの場所。
「ここもかぁ……」
さざめは屋上から見える周囲の建物を確認して溜息をつく。この世界の建物のガラスはそのすべてが粉々に破壊されているのだ。それは例外なく、すべてがすべて、形が残らないほどに粉々になっていた。
だが、さざめはそのことにそれほど疑問を抱かない。こんな光景など、今まで飽きるほどに見ていたから。
「……ふう」
感慨深く床を眺めるさざめ。だが、そんなことばかり考えていては涙がこぼれそうになる。不意に正面を向いたさざめは、向かいのビルの屋上で、何かが光ったのを見た。
そして、胸に穴が開いた。狙撃だ。
「っ~~~!!? あ、があっ!?」
衝撃で床に叩き付けられたさざめにさらに二射目が撃ち込まれる。すでに触手によって構成されていた下半身は吹き飛び、自身を中心にして血だまりができ始めている。
「わ、わたしは……生きたい……人として……生きた……っ、ああああああああ!?!?!?」
三射目、さざめの利き腕が飛ぶ。
さざめは自覚した。自身はここで死ぬのだと。あの時の彼と同じように、ここで死ぬのだと。
「……でも、いい、かな…」
だが、さざめは幸せだった。
これまでの旅で、いつ自分は絵が描けなくなるのだろう。いつ化け物の心になってしまうのだろうと苦しみを抱いていた。化け物となり、人を襲い、退治されるくらいなら、人として死にたい。
そんなさざめの思いはここで死んだ彼と同質のものだった。
「……あ」
そんな時、一陣の風が屋上に吹く。吹き飛ばされていたさざめのスケッチブックがさざめの視界に入る。
風はスケッチブックのページをペラペラめくっていく。
「しょくしゅさん……わたしも……あなたと同じように……人として……」
ぺらぺらと……めくっていく。
「……え?」
風は最後にスケッチブックの最初のページをさざめに見せた。それはさざめが彼と出会った最初の場所を、鉛筆や筆を使ってリアルに描いた、さざめ自慢の絵だった。
それは、確かにそうだった。絵の素人であるさざめから見ても、その絵は確かに綺麗にできていた。
そう、彼女の目から見ては。
彼女は見てしまった。自身の血だまり、その水面に反射して見たスケッチブックを。
それは、スケッチブックなどではなかった。
それは、人の皮を張り合わせてできたおぞましいノートだった。その一面に、真っ赤な血が塗りたくられていた。
「おかしい、おかしい、おかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいいいいいい!??!?!」
彼女の目からは確かに風景が描かれたスケッチブックだ。だが、血だまりに移ったのはそれ。
鉛筆や筆だと思っていたものは人の指で、絵の具だと思っていたものは人の内臓だった。
「うそだ……うそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだ」
彼女はもっと早くに気がつくべきだった。なぜ触手の化け物が現れてから、水たまりができる雨が降らなくなったのか。
なぜ、建物のガラスや鏡が例外なく粉々にされていたのか。
そして、もっと早く考えなければいけなかった。触手が触れた人間の精神を汚染するなら、彼と出会った最初、あの時すでに、自分は狂っていたのではないかと。
「あ………――――――」
彼女に迫る弾丸。それは改良された特殊弾だった。化け物を殺す、人類が生み出した武器だ。
これが放たれる対象は、例外なく化け物と決まっている。