「お先に失礼します」
そんな言葉が聞こえてきた気がする。寒空の下、雪の降る砂利道を裸足で歩くように貫く冬の厳しさに、あの頃ーー駆け出した夏のことを思い浮かべる。あれからどれだけの月日が流れただろうか。
若い頃は夢も希望もあった。夏の日差しをめいいっぱい受けた若葉のように生い茂る心の葉を広げて、未熟で幼い語彙力と脳に編み目のように根を張らせ、僕は僕の世界を創造する神となるべくこの旅を始めた。他の旅人もまたそれぞれ思い思いに大志を抱き、歩き続ける創作街道。各々のスタートラインがあり、また各々のゴールがある。マラソンではない気ままな旅路、ふと路肩で寝過ごす旅人あれば、二輪車を豪快に乗り回して爆走する旅人もあり。僕は夢と必要な荷物を背負い鞄にぎっしり詰め込んで、山の頂上を目指して登山家気分だ。雨の日は心に太陽を描き、灼熱の真夏日でも己に雷雨を叩きつけた。それほどまでに創作とは情熱的で、エネルギーに満ち溢れている素晴らしいものだと知ってしまったのだ。
「ありがとうございました」
いつぞや後ろから声をかけてきた同輩は願いを遂げた。なすべきことを成した。長い長い旅を終えてその身を休めるべく宿へと帰ったのだ。その後彼がどうするかは僕の知ったことではない。だが彼は確かに僕より後から歩き始めて、僕より先に目的地にたどり着いた。それだけのことだ。それだけが事実だ。
「お疲れ様でした」
心でそう思ったが、彼の旅路はまだ知らない。この言の葉を直接渡す前に、彼の足跡を追わなければ、旅に失礼というものだ。
「貴方はまだ、続けるのですか」
揺るがない事実につい足取りがふらついてしまう。季節は反転し、旅立つ時に履いていたサンダルは役に立たない。炭酸の抜け切ったサイダーはただの砂糖水で、一度溶けてから再び固まった氷菓子は齧ることも躊躇うほどだ。
「それでも」
「辞めないんですか」
それでも旅は終わらない、終わらせられない。たとえ僕がこの一年で1歩も進めていなくても、地面ばかり眺めていたとしても、彼が千歩、万歩進んだ1年で僕はカメの歩みより遅いほどノロマで臆病で困難に立ち向かわずに逃げてきたとしても、この旅はまだ終わってはいない。まだ僕はリタイアしていない。
宿には泊まらない。帰宅していない。諦めきれない。終わってはいない。始まってすらいない。旅を始めた僕はまだ、今もここに突っ立つている。
「それでも」
誰かの足跡の残る道をじっと睨む。そして、厳しい大地を踏みしめる。じゃく、という砂利と雪が混じる音がして、僕の足はゆっくりと動き出した。
「僕は僕のために、この背負った荷物を運ぶことを決めたんだ」
僕の旅は、旅であって旅ではない。これは手紙だ。背負い鞄にめいいっぱい詰め込んだ感情という名の荷物を、今の自分から過去の自分へ手紙を送る長い旅。どんどんインクが滲んでいって、何を伝えたいかわからなくなってきているのだけれど、確かに旅を始めた僕は、旅の終わりにいる僕に、何かを伝えたくて一歩目を踏み出したのだ。
「救われますように」
彼はそう言ってくれた。その言葉に救われた僕がいた。僕が僕を裏切ってしまうという悲しい終わりにしないように。過去の僕を救うために、今の僕を救うために。この旅はまだ続けようと思う。
雪の降る寒空の下で、彼はマッチ1本を差し出してくれた。それは僕の心を灯すには充分すぎるほど小さくて暖かい、優しい炎だった。