喫茶店のアンティークな柱時計から、小さなハトが顔を出した。無言で左右を向いた後、再び巣穴へと戻る。後、30分経てば、再びハトが顔を出し、今度は
それがこの店の九時の合図であり、同時に、マギに仕掛けられたウィルスのリミットだった。
「なるほど……さすがブラッディ・エンジェルといった所ですね……」
リツコから、まくし立てられるように事情を聞かされた後、自身のノートパソコンでマギにアクセスしたマヤは、既に、事の重大さを十分に理解していた。
「あと30分後に、メインコンピューター……そしてネルフの関連システム全てが破壊されますね」
「そう30分でね……」
リツコは頭を抱えていた。
焦るあまり、冷静な判断力も失ってしまっていたらしい。
「では、30分以内に取り除きますので、先輩はサポートをお願いしますね」
「……そう、わざわざ来てもらって申し訳ないんだけど、やっぱり30分じゃ無理よね……って、は?」
リツコが思わず聞き返そうとした時、既にリツコのノートパソコンには、マヤのリモートでコンソールが開かれていた。
「取り合えず、必要な認証は先輩が解除してください。それさえしていただければ……」
※ ※ ※ ※ ※ ※
マヤの軽快なタッチを聞き流しながら、リツコは
(あり得ないわ……)
信じられない速度でウィルスが解析されて行き、正規の認証コードを求められる度に、リツコが解除するよりも先に、マヤの方が勝手に解除して行く。
リツコは、ほとんど指を動かす間がなかった。
後輩たちから、大学にとんでもないスキルを持つ子がいるという話は聞いていた。OSを一か月で独自開発できるだの、大学のコンピューターに侵入してきたブラッディ・エンジェルを撃退しだの……眉唾だったが、大げさではなかったらしい。
「しかし、ブラッディ・エンジェルとかいうバカな名前に
仕方がないので、リツコは指の代わりに口を動かした。
「こんな
「いえ、男じゃないですね」
マヤは、コンソールから視線を放さずに、意外な事をいった。
「ブラッディ・エンジェルは、女だっていうの?」
「女性です。私は、彼女の顔も見たことがあります」
「本当に!?」
「ええ、思わず溜め息がでるくらい、可愛い子でした」
リツコは信じられないという風に、怪訝な表情を浮かべた。
確かに、大学に侵入したブラッディ・エンジェルを撃退したという話が事実なら、それを切っ掛けに、二人が交信する事も在り得るだろう。だが、そう簡単に相手に素顔をさらすものだろうか?
「可愛い女の子……そんな子が、どうして、こんなひどい悪戯をするのかしら?」
マヤは、キーを打つ手を止めた。
「解析は終わりました」
リツコのノートパソコンに、認証を求めるブラウザが表示された。だが、それは見覚えのないものだった。
「彼女は、ちゃんと、ウィルスを自壊させる為のパスワードが入力できる設定を仕掛けていたんです。きっと、本気で破壊するつもりはなかったんでしょうね」
マヤは、コンソールに落としていた視線を上げると、リツコを見つめた。
「彼女は、毎日、先輩のPCにアクセスしてきてたんですよね?」
「ええ、三月ほど前から、毎日、毎日ね」
「それは、ウィルスを仕掛けてしまった事に対する罪悪感からだと思います。きっと、何かの手違いで仕出かしてしまった事を伝えたくて……」
「そんな感じには見えなかったけど?どうして、そう思うのかしら?」
リミットまで15分の
「私の専攻は、「情報処理・心理学」というものです。私は、プログラミングの書き方をみるだけで、その時のプログラマーの心理状態が分かるんです」
「……まさか」
「本当です」
マヤは、解析したウィルスのデータを表示させながら説明を続けた。
「この書き方を見る限り、彼女は酔った勢いでやってしまっていますね。その証拠に、コードの並び順が千鳥足に似ています。しかも、かなりのヤケ酒……自暴自棄に陥って、たまたま目に付いたネルフに不正アクセスして、そのまま酔った勢いで仕掛けてしまったようです」
「本当に?そんな事が分かるの?」
「はい、分かるんです。間違いありません」
「じゃあ、どうしてヤケ酒なんてしてたのかしら?」
マヤは、さらにデータに目を通し、推測する。
「どうやら当日、初めて合コンに誘われたようですね。でも、コミ障なものだから、男の人と一言も話せなくて……最後は独りだけ余っちゃった事が悔しかったんでしょう」
リツコの表情がひきつった。
「そんな下らない理由で、こんな、とんでもない事を
「下らない理由じゃありません!」
突然、マヤは声を上げて否定した。
「だって、ブスのくせに、押しの強い子たちが男の子たちと盛り上がってて……自分は隅っこでウーロン茶飲んでみてるだけなんて……
マヤは、ブラッディ・エンジェルを
「しかも、独りぼっちで帰った後、メールが来るんです。『マヤちゃん、今日は楽しかったね。また集まろうね~』とか、お持ち帰りしてくれた男の子とツーショットの画像付きで……そりゃ、ふざけんなって、なりますよ!」
「……それでヤケ酒した訳?」
「あ、でも、私、日ごろはそんなに飲まないんですよ。あの時は、本当にムカついて……ぐえ」
リツコの両手がマヤの首を
「あんたが、ブラッディ・エンジェルだったんかい!」
首を絞められながら、マヤは驚愕の表情を浮かべた。
「ど、どうしてそれを……先輩、もしかしてエスパー?」
「あんたが今、自白したんでしょうが!」
「ま、待って下さい……お、落ち着いて……」
マヤは、リツコの手から解放されると、咳込みながら弁明を始めた。
「ほ、本当にあの時は……日頃、飲まないお酒を飲んだものですから……ほとんど無意識にやっちゃったんです」
「だったら何で、直ぐにネルフに報告しなかったのよ!」
「も、もちろん、報告しようと思いましたよ……だから毎日、毎日、先輩のPCに訪問してたんじゃないですか……」
「毎日、私のパンツの色、聞きに来てただけでしょうが!」
「それはその……私、コミ障なものですから、話題の切っ掛け作りが苦手で……グエ」
また首を絞められた。
「大体、さっきの顔を見た事あるとか、溜め息がでるくらい可愛かったとかいう
「み、見たことあるのは本当です……今朝も洗面台の鏡の前で見ました。本当にため息がでるくらい可愛くて」
「ナルシストか!」
「あの、お客様……店内でもめ事は……」
二人のやり取りに、心配になった店員が声を掛けた。
「ああ、ごめんなさい。大学の後輩を注意してただけだから……」
リツコは声を落とすと、マヤの首から手を放して席に座りなおした。
マヤは、コンパクトを取り出して、うっ血して赤くなった自身の顔を確認した。
「やだわ、顔が真っ赤。これじゃ紅顔の美少年ならぬ、紅顔の美少……痛っ!」
テーブルの下で、リツコがマヤの足を踏んだ。
「さっさと、パスワード入力してウィルスを自壊させなさい……あと、五分しかないわよ!」
マヤも小声で返す。
「その前に先輩に質問が」
「何よ?」
「やっぱり、赤木っていうくらいだから、パンツの色は……痛っ!」
また足を踏まれた。
「さっさと、解除しなさい!」
しかし、リツコに急かされても、マヤはパスワードを入力しようとしなかった。
「それが、その……一つ問題が……」
「何よ?」
リツコは、マヤの足を踏む準備をしつつ聞き返す。
「このSSの作者、キーを打つ時は、ブラインドタッチどころか、ディスプレイすら見ないで打てるそうです。ややこしい文字変換の時だけ見るとか……」
「それが何?」
「でも、私ほどのレベルになると、ディスプレイを見ない所か、酔っぱらって寝ながら足の指でキーが打てちゃうんです」
「だから何?」
「無茶苦茶にキーを打ってたはずなのに、さすが天才のサガと申しますか……朝、気付いてたら、このウィルスを作成から仕込みまでやっちゃってた訳ですよ」
「だから?」
「そんな状態で作ったんですから、パスワードなんか覚えてるわけ……痛っ!」
今度は思いっきり蹴っ飛ばされた。
「ふざけんじゃないわよ!あと、二分よ。どうにかしなさい!」
「と、取り合えず、私に関するキーワードを一通り入力してみます」
マヤは慌てて、パスワードを打ち込み始めた。
『MAYACHAN KAWAII』(マヤちゃん 可愛い)
『MAYACHAN BIJIN』(マヤちゃん 美人)
『MAYACHAN LOVELOEVE』(マヤちゃん ラブラブ)
『MAYACHAN DYNAMITE』(マヤちゃん ダイナマイト)
目にも止まらない速さで数十通りのパスワードを打ち込んだが、どれも認証しなかった。
「そんな、おかしいわ」
「さっさとしなさい!」
『MAYACHAN DAISUKI』(マヤちゃん 大好き)
『MAYACHAN BEAUTIFUL』(マヤちゃん 美しい)
『MAYACHAN SEXY』(マヤちゃん セクシー)
さらに、数十通り打ち込むが、どれも認証しない。
「さっさとしなさい!っていうか、なんぼどナルシストなのよ!」
喫茶店の柱時計から、ハトが顔を出した。
「もう30秒切ったわよ!」
「だって、これ以外思いつかないんです!」
マヤは、さらに何通りか打ち込んだが認証しない。
「あと、10秒よ!」
「先輩も何か打ち込んで下さい!」
リツコは舌打ちすると、やけくそになってキーを叩いた。
「もう、バカバカバカバカバカ!」
『BAKABAKABAKABAKABAKA』
『認証しました』
「へ……」
やけくそになって打ち込んだリツコのパスワードは、あっさりと認証された。
どうやらマヤは、合コンでの悔しさをそのままパスワードに設定していたらしい。
「せ、先輩、すごい!」
マヤは感歎の声を上げて席から立ち上がった。
「私ですら解けないパスを、一発で解いちゃうなんて!」
咳ばらいをするリツコ。
「ま、まあ……私に掛かれば、こんなものよ」
かくして、犯人の協力とリツコの気転により、ネルフの危機は救われたのだった……。
※ ※ ※ ※ ※ ※
マヤは、テーブルに両手をついて頭を下げると、自らの過ちを謝罪した。
「本当に、本当に……申し訳ありませんでした」
「私の顔も知ってたんでしょ?なんで、喫茶店に私が来た時点で声を掛けなかったの?」
「だからコミ障ですから……どう声を掛けてよいか分からなくて……」
「あの時、私があなたの名前を呼ばなかったら、そのままリミットまで黙ってるつもりだったの?」
「いえ、こっそり解除するつもりでした……でも」
「でも、最後は私がいなきゃ、解除出来てなかったわよね」
「……はい」
リツコは深々と嘆息した。
「どう、落とし前を付けてくれるつもりかしら?」
マヤは恐る恐る
「私を……ネルフで働かせて下さい!きっとお役に立って見せます!」
「あら、お
「いえ、出来れば……各種保険込み、初任給は手取りで二十万台からで、初年度からボーナスは半年分……あと、毎年一か月くらいのバカンスを取れる待遇で……」
「はあ……?」
マヤは照れ臭そうに、続けた。
「私、ピチピチの二十歳なんですけど、飛び級してるから今、四年生なんです。でも、就活さぼってたせいで、まだ内定なくて……ちょっとヤバいんですよね。テヘ」
今度はリツコの細指ではなく、両腕でガッチリとヘッドロックをかまされていた。
「ど・こ・ま・で、ふ・ざ・け・て・の・よ……」
「せ、先輩……こ、今度はマジで死にます……」
リツコは腕の力をゆるめると、もう一度深々と
「でも、確かに実力がある事は間違いないわね……」
「はい、だからVIP待遇で……ぐえ」
また腕に力がこもる。
「研修期間三か月!以降は各種保険ありで手取り15万から!ボーナスは初年度は無し!勤務はシフト制で、バカンスはないけど、月に10回保証するわ!もちろん、残業手当もしっかり」
「ね、年末年始とお盆休みは……」
「今は平穏だから交代で取れるようにするけど、異変が起きたら無しだと思いなさい!」
そこまでいうと、リツコはマヤを解放した。
「本日
「あ、ありがとうございます!あ、でも、授業もさぼってて単位がヤバイので、卒業できなかった時は……」
「とっとと中退してきなさい!」
かくして、伊吹マヤは無事に……厳密には、大学のコンピューターに不正アクセスして単位を改ざんし……大学を卒業すると、ネルフに入社したのだった。
赤木リツコ自らに推薦を受けた優秀なエンジニアとして……。