ズ、ズ、ズ……。
南極は、一日中太陽が沈まない白夜の季節のはずだった。
だが、白く
空は、まるで焼け焦げたかのように、
延々と続く雪の大地は
ズ、ズ、ズ……。
濁った雪の上に足跡を残しながら、一人の男が歩いていた。
肩で大きく息をしながら、一歩、一歩、弱々しげな足取りで、氷雪を踏みしめ、足跡と血痕を残してゆく。
周囲には、
男の身体は、今にも膝から崩れ落ちそうだった。だが、彼は膝を雪の上に屈して、身体を休めようとはしなかった。両腕に小さな命を抱え、ただ、ただ、取り付かれたかのように歩き続けている。
男の腕には、小さな少女が抱かれていた。
少女の防寒着は真っ赤に染まり、グッタリとした様子で気を失っている。少女の吐く不規則な
やがて男は、まるで残骸のようになったキャンプ基地へとたどり着いた。壁の大部分が砕け散り、むき出しになった鉄骨が曲がり、引き千切れている。
男は、少女を傷つけないように、慎重に
カプセル型の救命ボート……それが四台ばかり、瓦礫の下に並んでいた。
男は、瓦礫を
そして、四つ目は……。
無事、カプセルが作動し、ハッチが開いた。その中に、抱いていた少女を横たえさせる。
男は、目を閉じ、少女に対して十字を切ると、震える手でカプセルの外側のキーを操作した。その手は、酷い凍傷におかされ、幾つかの指は既に
カプセルの中に横たわる少女の頬に、ポタリと一滴の血の
わずかに残る血の暖かさに、少女は目を覚ました。
「……」
衰弱した少女の視界はぼやけ、焦点がうまく合わなかった。辺りは薄暗く、目の前で何かのシルエットが動いていた。
だが、
「お父さん……?」
なぜか少女には、それが父である事が分かった。
かすんだ瞳に、暗いカプセルの中。見えないハズの父の表情。だが、少女には、父が笑顔を見せ、
指が欠けた父の手が、少女の小さな手に伸びる。少女は、自分の
「お父さ……」
少女がつぶやきながら、父へと手を伸ばそうとした途端、カプセルのハッチは閉じられてしまった。
数秒後、激しい爆音がカプセルの中に響いた。激しく振動し、何度も何度も身体が回転する。少女は恐怖感から、身を縮め、両耳をおおった。
今から思うと、それはほんの一瞬の出来事だったのかも知れない。だが、恐怖心が、その一瞬を長く長く感じさせていた。
どれほど経っただろうか……固く目を閉じ、両耳を強くおおっていた少女は、気付けば静寂の中にいた。そっと両耳から手を放す。何も響かず、何も聞こえない。
固く閉じていた
おそるおそる、少女は外の世界に顔を出した。
海上にポツリと浮かぶ一艘の救命カプセル……そこから見えたものは、二本の光の柱がそそり立つ……ほとんどの大地を消失した南極大陸だった。
少女は、震える手を強く握り締めた。手に固形物の感触を覚え、確かめる。
父から手渡された十字架のペンダント。今や父の形見となったそれが、少女の手の中にあった。
少女の瞳から、大粒の涙がこぼれた。
口を開き、叫ぼうとする。
「……!」
だが、手と共に震える彼女の喉からは、もはや言葉が発せられる事はなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※
一体、あれからどうやって救助されたのか、
あの頃は、まだショックが大きくて、周りの事が余り認識出来なかったのかも知れない。
でも、一つだけ鮮明に憶えている場面があるの。
どこかの病院の真っ白な個室。手元には、誰かがくれた少し大きめの熊さんのヌイグルミ。
それを抱きしめている時、扉の向こうからお医者さんたちが
「脳にも声帯にも異常はなかった……失語症ではなく、心因性失声症のようだ……しかも、重度のな」
「可哀そうに……よほどのショックだったんでしょうね……」
「ここに来てから、まだ一度も笑顔も見せてくれていませんよ」
「治るでしょうか……」
「家族の協力を得ながら、長い長い月日が必要になるだろう。いつか彼女の笑い声が聞こえる時が来る事を信じて、治療を続けていくしかない……」
お医者さんがいった“失声症”……まだ14歳だった私は、それが何なのか知らなかった。
でも、言葉と笑顔を失ってしまった私の事を指してるんだろうって事は、何となく分かっていたわ。
あの時の私は、喉の奥から響くはずの音も、口元と目尻を緩ませる表情も……そして、この身体と命を守ってくれた父をも失っていた。
父さんは、家族よりも研究の方が大事な人だったわ。家にいない事の方が多くて、私は余り話した事はなかったし、抱きしめてもらった記憶もなかった。
一番良く
そんな父さんが、急に、私を南極行きの調査隊に同行させるって言いだした。
私の事なんて気にかけてこなかった父さんが、どうして、そんな事を言い出したのか分からない。でも、父さんの事を良く知る為の初めての機会だったから、私は付いてゆく事にした。
南極で過ごして数日後に起きた事故……いいえ、『あれ』が現れて、みんな燃やされて……、みんな吹き飛ばされて……、私も大怪我を負った時、私は父さんに抱きしめられた。熱風と土砂から私を守る為に。そして、父さんも怪我を負っていたはずなのに、私を抱きしめたまま、私を救命ボートまで運んでくれた。
今から思えば、父さんの暖かみを知ったのは、あの時が初めてだったのね。
カプセルに入れられた時、かすれる視界の中で、私を安心させる為に見せた父さんの笑顔……あれも初めてだった。
少し嬉しかった。でも、それっきり、私たちは引き離された。
氷山が溶けてできた海上に現れた……大きくて、白く輝く、あの化け物の手によって……。
母さんは、私の変わり果てた様子にショックだったみたい。何とか、私を元に戻そうと、ずい分と気遣ってくれたわ……。
「ミサトちゃん……ほら、お友達よ」
声も感情も失って、人付き合いが出来なくなっていた私の為に、沢山、ぬいぐるみを買ってきては、根気よく、私と遊ぼうとしてくれた。
でも、だんだん
だって、いくら自分の娘だからって……話しかけても何も返さず、何をして上げても無表情の子供なんて、誰だって嫌になるじゃない。私だって……。
「何か切っ掛けがあれば、この子が笑えるような切っ掛けがあれば……」
母さんは独りになると、お医者さんに聞かされた言葉を
でも、心因性の病気なんて、何が切っ掛けで治るか分からないものね。
あれだけ、お医者さんと母さんが手を尽くしてくれても、治せなかったのに……私の声は、ある日、たった一枚の写真を見ただけで取り戻せてしまったの……。
「なんでもいいんだ。彼の遺品の中に、書類らしきものやフロッピー……」
あの日の夜中……。寝れなくて、喉も乾いてて……キッチンに向った私は、応接間から聞こえる男の人の声に気づいた。
「いや、物じゃなくてもいい、何か言っていたか思い出して欲しいんだ」
応接間を覗くと、母さんと白髪の男の人がいて、母さんは困った顔をしていた。
「あの人は、研究所にこもりきりで、ろくに家にも帰って来なかったんです。研究については何も話そうとしなかったし……私たちだって興味は」
白髪で痩せてて、背の高い男の人……見覚えがあった。
父さんの調査船が出航する前に、基地で会ったことのある人。
調査隊では、皆から“冬月博士”って呼ばれてた人。
「おや……もしかして君は……」
入り口でたたずんでいる私に気づいた冬月博士は、
「おお、やっぱり、ミサトちゃんか!?君の父さんの研究について、聞きたい事があるんだ!」
ファイルを手に取って、私に近づいてきた。
「ミサトちゃん……大きくなったね。君の父さんについて……」
言いかけて、博士は思い出したように母さんの方を振り返った。首を横に振る母さんの様子に、冬月博士は、私が“失声症”だって事を思い出した。
「ああ、そうか……まだダメなのか……」
冬月博士が残念そうにうなだれた時、博士が持っていたファイルが滑り落ちて床に散乱した。博士は慌ててファイルを拾い、私もそれを手伝った。
拾ったファイルの中にあった一枚の写真……それが私の目に留まった。
真っ白な光を放つ巨人の写真……海の上に浮かぶカプセルから見たあの光景……。
気づいた時、私は失ったはずの声を取り戻していた。でも、お医者さんや母さんが期待していた『笑い声と共に』じゃなく、悲痛な叫び声として……。
あの時の記憶が鮮明に
「お父さん……」
私の凍り付いていた声は、暖かい心によって解きほぐされるのではなく、それ以上に冷たい過去の記憶に叩き壊される形で解放されていた……。
※ ※ ※ ※ ※ ※
「まだPTSDのケアが必要ですが、もう失声症の心配はないでしょう」
病院のお医師から告げられた後、冬月博士は何度か私の元に訪れたわ。
でも、私が父の研究について何も知らない事が分かると、少し残念そうな様子で
「ミサトちゃん、せっかく取り戻せたんだ。二度と失わないように、前だけ向いて生きなさい。振り返れば、また何かを落としていってしまうかも知れない」
そういって別れて行った。
冬月博士とは、それっきり二度と会う事はないと思ってた。でも、それから一年も経たない内に、博士は再び現れたの。
今度は、何も知らなかった私に、父さんの研究を教える側として……。
「ミサト君……私はようやく、彼の研究の一端について知る事がでたんだ。私は、いや、私たちは、ゲルヒンという組織で、その研究を引き継いでいるんだ。もし、君が父さんが何をしようとし、何を研究しようとしていたのか知りたければ、我々の元に来たまえ。私たちは君を歓迎するだろう」
過去を振り返るなっていった張本人が、一緒に過去を掘り起こす作業をしようというの。
その時は、ただ首を横に振ることしか出来なかった。前を向いて進みたかったの。思い出したくない過去を振り返ってまで、父さんの研究を調べたいとは思わなかった。
でも、おかしなものね……。
気づけば私は、大学で冬月博士と同じ形而上生物学を専攻してて、四年生の時には就職活動もせずに、ゲルヒンから届いた招待状を握りしめていた。
ゲルヒンに入ってから、私は色んな事を知ったわ。
南極の消失、地軸の変動、世界規模の天変地異の発生……いわゆるセカンドインパクトの原因は、隕石の衝突によるものだといわれていた話が、実は、情報操作によって造り上げられたウソである事を。
使徒……父さんと私の言葉を奪ったあの化け物が、セカンドインパクトを引き起こした張本人だという事を。
そして、人類に災厄をもたらす為に、あの化け物が再び現れるという事も。
あの化け物を倒せる唯一の兵器は、ネルフが開発した人造人間・エヴァンゲリオンだけ。そして、そのエヴァを操縦できる適合者はたった一人だけ。
エヴァンゲリオン零号機・パイロット・綾波レイ……私は彼女と親しくなりたかったけど、ちょっと気が合わなかったみたい。レイの方は、同性の私よりも司令にベッタリだったし。
私や他の人の前では微笑まないのに、レイは、司令の前ではまるで本当の親子みたいに振舞ってたわ。
ちょっと、羨ましかった……。
司令の息子……シンジ君がエヴァの適合者だと分かり、この第三新東京に召還された時、私が彼を迎えに行くと申し出たの。
もう一人のエヴァのパイロットと、少しでも早く会いたかった。
そして、シンジ君を迎えに行ったその日……私は、15年ぶりに、かつての悪夢をみた。
いつか現れる事は覚悟していた。正直、過去のトラウマに、震え上がるんじゃないかと思ってた。
でも、使徒を見た時に湧き上がったものは、恐怖心なんかじゃなかった。
私の胸中から湧きあがった、たった一つの感情……それは怒りだった。
父さんを奪った使徒……。
父さんの温もりと笑顔を、最初で最後のものに変えてしまった使徒……。
許せない……。
絶対に許せない……。
「絶対に……!!」
夢の中にいたミサトは、思わず声を上げて目を覚ました。