プロローグ 見知らぬ天井
チ、チ、チ、チ、チ、チ……・。
耳障りな時計の
耳を澄ませても、逆に、布団を
閉じた
でも、そこに広がるのは無機質な真っ白な景色だけだった。何度くり返しても、見慣れた木目の天井に戻る事はなかった。
少年は溜め息を付くと、起き上がった。
薄暗い辺りを見渡す。
白い天井に、同じく白い壁。そして、薄暗くて良く見えなかったが、おそらくベットの下にも、白い床が広がっているのだろう。
どうやらここは病室らしい。
「やっぱり、ボクの部屋じゃないんだ……」
少年がポツリとつぶやいた時、部屋のドアが、静かに横にスライドした。
「あら、お目覚め?」
自動ドアの向こう側から現れたのは、スーツ姿の女性だった。
センサーが感じ取ったのか、勝手に部屋の灯りが付き、彼女はツカツカと近づいてきた。
急に明るくなった景色に視覚が慣れるまで、ほんの少し時間が掛かった。耳障りな時計の音を十数回聴くくらいの時間が。
でも、ボンヤリとした視界の中ですら、その女性の美しさは察せられた。
キリリと引き締まった腰。ふくよかな胸。その身を引き締めるような赤い色のスーツ。
その背には、長い艶やかな髪が下ろされている。
確か、
「今、起きた所?」
ベットの
「いえ……さっき、食事を運んできてくれた時に、もう起きてました……」
言いながら、上げたはずの視線が自分の手元にまで落ちる。
「でも、もう少し眠れば起きた時に……全部、夢になってくれるように思えたんです」
少年は、視線の先の……自分の手を握り締めた。
「で、でも……何度耳を澄ませても、時計の音が聞き慣れた自分の時計の音に変わらなくて……何度天井を見上げても、自分の部屋の天井に戻らなくて……」
握り締めた少年の拳が震える。
「結局、起きても、時計の音も天井もみんなボクの部屋と違ってて……」
少年は、震える手で自分の体を抱きしめた。視線が虚空を見詰め、口元が引きつった笑みを浮かべる。
「はは……やっぱり夢じゃなかったんですね……あれと戦ったのは、本当だったんですね……」
ミサトは、うなずいた。
「そうよ。あなたは
ミサトは、少年の両肩をつかむと、自分の方を向かせた。“シンジ君”と彼の名を呼びながら。
「そして、あなたがこの街を救った事も……現実にあった事なの」
シンジと呼ばれた少年は、小さく、喉の奥から乾いた笑い声を上げた。
「ははは……お、おかしいな……き、急に、怖くなってきちゃった……」
定まらない視線を泳がせ、「な、なんだか、混乱しちゃって……」と、震える自分の拳を握りしめる。
「大丈夫よ。もう少し落ち着いたら、私たちが何者なのか、そして、アナタの使命が何なのか……全て話して上げるわ……」
そう告げると、ミサトは肩に添えた手を背に回し、少年を優しく抱き締めた。
彼の、少年の震えが静まるまで……。
この少年の名は、
この物語の主人公にして、少し臆病な、わずか14歳の少年だ……。
第3新東京の
この神のなせる奇跡の空間には、エデンより追放された人類の手によって、巨大建造物が築かれていた。
ピラミッド型の巨大建造物……これがネルフ本部施設だ。
情報局、作戦局などの各部署、エヴァ格納庫、整備室などの各施設が、その
テロ対策の為か、内部は複雑に入り組み、入り口から目的地にたどり着くには、
建設中の頃から活躍し、完成後も、そもまま用いられている幾つもの無骨な旧式エレベーター。
ピラミッドの上下を繋ぐ、長短のエスカレーター。
人々を迅速に運ぶ為に、各部署・各施設をつなぐ、長い長いオートウォーク。
少年は、保護者となった女性と共に、そのオートウォークに立っていた。
足元が勝手に移動し、たたずんでいるだけで、辺りの景色が変わって行く。
病棟を抜け、景色が開ける。視線を落とすと、自分が立っているオートウォークが高架にある事に気づいた。
下の方で、幾つもの格納庫らしきものが見える。整備服の人々が、機材を運んでいる姿も見受けられた。
機械の海の上に渡された電動の道。それに並行するもう一本のオートウォークは逆方向に人々を運んでいる。
少年は、
「お、お早うございます……」
背の低い少年を
「ほら、今の子が例の……」
「サードチルドレンって奴か……」
「あの歳でなあ……」
職員たちが残してゆく言葉には、新しいパイロットに対する好奇の声や、過酷な運命を背負わされた少年への哀憫の声の他、時おり、女性職員の「可愛い」という黄色い声が混ざっていた。
だが、目立つことに不慣れな少年には、それは心地よいものではなかった。
すれ違い、遠ざかりながらも、背に浴びせられる職員たちの眼差し。点在する高所のラボの窓から、少年の存在に気付いた整備士たちから注がれる視線。
それが少し痛かった。
「へえ~、シャイな割には、ちゃんと挨拶はするのね」
大人しいシンジの事を心配していたミサトは、その意外な態度に感心していた。
「はい……その辺は、先生にしっかり教育されていましたから……」
「先生?」
学校の?とミサトが付け加える前に、シンジは答えた。
「父さんと別れてから、ずっとお世話になっていた人です……先生っていうのは、音楽家で、みんなからそう呼ばれてたから……」
ミサトは、彼の父親……碇司令が、息子は知人に預けていると言っていた事を思い出した。確か、チェロの奏者だと。
「そっか……
「はい」
「じゃあ、今までは、その先生が、シンジ君のお父さん代わりだったんだ」
「いえ……」
シンジは視線を落とした。
「そんなんじゃありません。先生は、あくまで先生です……」
同じ家で暮らしていても、先生は、シンジの事を「君」付けで呼び、いや、むしろ「碇君」と他人行儀に呼ぶ事の方が多かった。一度も「シンジ」と親しげに呼んでくれる事はなかった。そして、彼の方も、先生を「先生」という敬称以外で呼ぶ事はなかった。
どれほど月日が経とうとも、あくまで、お世話になっている先生と、世話をしている他所の子だった。
「ほら、シンジ君。こないだのお姉さん……赤木リツコ博士よ」
ミサトの声に、シンジは視線を上げる。対のオートウォールの向こうから、白衣姿の女性が近づいてきていた。その後ろに付き従うようにして、ネルフの制服をまとった女性がいる。
「あら、もう大丈夫なの?」
「ええ、外傷もないし、問題ないわ。今日は、司令室と訓練室を案内している所よ」
リツコとミサトが軽く言葉を交わす。
「お早うございます」
シンジは軽く
「お早うシンジ君」
白衣の女性は挨拶を返したが、付き従う女性は無言で会釈を返しただけだった。
保護者と一人の少年。博士と一人の後輩。
二組は、わずかな言葉と挨拶と交わしただけで、すれ違い、離れていった。
リツコに付き従う女性は、シンジの後姿を見詰めながら尋ねた。
「先輩。司令の息子さん……シンジ君って、第3新東京に越してきたんですよね?」
「もちろんよ」
「じゃあ、やっぱり司令と暮らすんですか?」
父子が一緒に暮らす事に、何も不思議はない。だが、息子に対して一片の愛情も見せなかった指令が、父親として息子を迎える事に違和感があった。
「いいえ」
少女の質問に、リツコは否定した。
「職務柄、同居してくれた方がいいんだけど……お互いにそれは望まなかったみたいなの」
「実の親子なのに?」
「実の親子だからこそ、職責にも義務にも
リツコの意味ありげな言葉に、少女は、初めて少年が訪れた日の事を思い出した。
数年ぶりに再開した実の子に対し、
そして、その父に向かって、自分を「捨てた」と主張した少年。
後でリツコに聞かされた話では、司令は、息子を十年以上も伯父に預けたまま、ほとんど連絡を取らなかったのだという。
子の存在を無視し続けた父と、捨てられたと思い込んできた少年。
その二人の間に生じた溝は、今更、“実の親子”という架け橋だけでは越える事はできないのだろう。
「彼の事は、ミサトが保護者として、面倒を見てくれる事になったの」
少年に同情し始めていた少女は、リツコの言葉に顔色が変わった。
「え……それって、葛城さんと暮らすって事ですか?」
「そうよ」
「大丈夫なんですか……!?」
リツコの
そして、通り過ぎるのを確認してから、小声で続ける。
「だって葛城さんって……一尉の階級も作戦部長の地位も、全部、ドイツ支部にいた頃に、あのボディで手に入れたって噂ですよ」
そんな人に未成年を預けて大丈夫なのかと訴える少女に、リツコは苦笑した。
「大丈夫よ。ミサトだって、未成年にまでは手を出したりしないわよ」
階級も地位も体で得たという噂は、若くして出世した彼女への嫉妬から生まれたものに過ぎなかった。だが、リツコはわざと訂正しなかった。
そんな噂を真に受ける少女が、少し
遠ざかり、ほとんど見えなくなった少年の方を見詰めながら
「それにしても、良く似ているわね」
リツコはつぶやいた。
「それは、親子ですもの」
リツコは苦笑した。
「そうじゃないわよ。あなたに良く似てるって言ったの」
「は、私にですか……?」
「ええ、あなたが初めてここに来た時も、あんな雰囲気だったのよ」
あの
少女は、心外な顔付きで首をかしげた。
少女の名は、
ネルフの本部・技術局に所属するオペレーターだ。
彼女の職務は、エヴァのパイロットたちのモニターと補助を勤める事だ。
シンジとの間柄は、その職務以外には何ら繋がりはなく、二人の間には十歳という年齢の
だが、やがてこの少女と少年が、もっとも近い存在になろうとは、この時、誰が想像できえた事だろうか……。
ミサトとリツコの二組がすれ違った時、一人の男がポツリと吐き捨てていた。
「気にいらねえ……」
オートウォークを見降ろす位置に設置された作業用ゴンドラ。
そのゴンドラで身を屈めながら、作業服姿の男が、オートウォークを進むシンジを見下ろしていた。
溶接マスクを引き上げて
顔立ちは白人でも、吐き捨てた言葉は日本語だ。
海外支部から派遣された日本語が堪能な技師だろうか?
それとも日本生まれの二世か、あるいは、十五年前のセカンドインパクト(隕石の衝突)の時にやってきた移民の一人だろうか?
あの時は、世界の国境が一時的に破綻し、安全な場所を求めて日本から出ていく者も逆に入ってくる者も多かった。
白人風の男は、溶接マスクの下に、なぜかサングラスを掛けていた。そのグレーのグラスで、しかめっ面を抑えている。
「気にいらねえ……」
サングラスの男がもう一度つぶやいた時、
「おい、ミハイル!お前、サボってんじゃねえよ。そっち、さっさと繋げちまえよ!」
隣から怒声が飛んできた。
「ここは、オレだけ先に
怒声を浴びせるのは、隣で溶接作業を行っていた小太りの男だ。同じく白人風の顔立ちで、日本語を喋っている。
だが、サングラスの男はそれを無視すると、代わりに「見ろよハンゾル」と
「あん?なんだよ……」
相棒の
「ああ、サードチルドレンか……もう退院したのか」
小太りの男は溶接マスクを引き上げると、やはり白人らしき顔立ちを
「髪とまつ毛を伸ばせば、昔のアニメに出てた「ナディア」って
「オレッチが14の時は、170あったぜ。あんな軟弱そうなガキをエヴァに乗せるなんて、日本人は何考えてんだか……」
サングラスを
「なんだよ、お前。気にいらねえって……
「嫉妬だあ?」
「だってお前、戦自からこっちに来たのは、もともとエヴァのパイロットになりた……」
「そんなんじゃねえよ!」
ハンゾルの言葉が終わる前に、ミハイルは
そして、
「あんなガキに、オレッチが整備したエヴァを
不機嫌に否定する。
怒声で遮られたハンゾルは、
「はいはい、おっしゃる通りで。いいから、さっさと仕事に戻れよ」
相棒が呆れた様子で作業に戻り始めると、ミハイルも荒々しく溶接マスクをかぶりなおす。
そして、マスクの下で、もう一度吐き捨てるようにつぶやいた。
「気にいらねえ……」