「初号機、使徒を捕らえました!」
自動砲塔が火を噴いた瞬間、シンジは独自の判断で、突撃していたらしい。司令室のオペレーターたちから、安堵の息が漏れた。
「良くやったわ、シンジ君。そのまま、プログレッシブ・ナイフを出して」
ミサトの指示に従い、シンジは肩の装甲からナイフを取り出そうと、片手を上げた。だが、その腕が触手に絡められてしまう。
零号機を解放した使徒の四本の触手が、初号機の手足に絡みつく。
「レイ!シンジ君の援護を!」
ミサトの命令に、零号機が動こうとするが、よろめき直ぐに片膝を付いてしまった。
「ダメです。さっきのショックで、動ける状態じゃありません」
日向の報告に、ミサトは舌打ちすると、
「シンジ君、そのまま使徒を押し倒して!」
直ぐにシンジに指示を送った。使徒をガッチリと捕らえたシンジが、それに従い、使徒を強引にビルに押し付けた。
轟音が響き、ビルが崩れる。だが、使徒は触手を周辺のビルに絡め、転倒を逃れる。
「うおおおおおーーーーー!!!」
シンジが絶叫を上げた。
同時に、使徒の背後のビルが連続でなぎ倒され、使徒の触手が絡みついていたビルが崩壊する。
もう一度シンジが絶叫を上げた時、遂に使徒の体は、ビル群を抜け、小高い丘の麓に背中から倒れこんでいた。
司令室に歓声が上がった。
プログレッシブ・ナイフを取り出し、そのまま使徒に馬乗りになろうとする初号機。だが、その寸前で動きが途切れた。
背中のアンビリカルケーブルの長さが足りず、それ以上進めなくなったのだ。
「アンビリカルケーブルを解除!体内電源に切り替えて!」
「でも、それじゃ五分しか持ちません」
「五分あれば十分よ!」
間髪入れぬミサトの指示に、日向がアンビリカルケーブルを解除した。
邪魔なケーブルから解放された初号機が、使徒にのし掛かる。後は、プログレッシブ・ナイフの一撃をコアに振り下ろすだけだ。
(これで終わりだ!)
シンジが、まさに振り下ろそうとしたその時……彼の視界の隅に小さな光の
(……え?)
光に反応し、シンジは咄嗟に視線を向けた。使徒を押し倒した丘の中腹部。そこからまた、キラリと小さな反射光がちらつく。
(人がいる!?)
シンジが視線を向けたそこには、避難し遅れた二人の民間人がいた。一人は手にカメラを持っており、そのレンズが陽光を反射していた。
(逃げ遅れたのか!?)
シンジは、慌ててモニターをズームさせた。その途端、彼の表情は強張った。
忘れていたはずの頬の痛みがよみがえる。心臓が、大きく鼓動した。
ズームしたモニターに映し出された二人の民間人……。それはシンジを殴ったあの二人だった……。
(トウジ……ケンスケ……?)
頬の傷が
(どうして……あの二人がいるんだ……?)
ハンドルを握る手が震えた。
(なんで、カメラなんか持って、撮影してるんだ……?後で皆に見せて、笑うつもりなのか……?)
シンジは、ナイフを振り下ろす事も忘れ、呆然と二人を見詰めた。
心臓が激しく鼓動し、シンジの聴覚をおおった。
ナイフを握る感触も、使徒の触手に締め付けられた痛みも消え失せ、ただ小刻みな震えだけが手足に残った。
クリアだったはずの視覚が、二人の姿だけを捕らえたまま収縮する。
エヴァとシンクロし、エヴァと共にあったはずの五感が……、エヴァの視覚が……、エヴァの聴覚が……、エヴァの触感が……、シンジの体から離れ始める。
(どうして……?)
狭いコクピットの中で、全てのものがストップモーションのように、途切れ途切れに流れ出した。シンジの鼓動に合わせて……。
闘志に満ちていたはずのパイロットは、気付けば、ただコクピットに座るだけの無力な少年に戻っていた。
──また、ボクを殴りに来たのか……?
「ええ……なに、これ!?」
司令室で、マヤが素っ頓狂な声を上げた。
「どうしたの、伊吹二尉?」
「シ、シンジ君の心拍数・脳波ともに、突然、乱れ出しました。シンクロ率が急速に低下しています!」
マヤは蒼白な顔を上司に向けた。
「シンクロ率……20%を切ってます!」
「なんですって!?」
シンジの異変に司令室はどよめいた。
マヤは、ヘッドマイクを抑えながら、懸命にシンジに呼びかけた。
「シンジ君!シンジ君!どうしちゃったの!!」
だが、応答はおろか、シンジの脳波すらも反応を示そうとはしなかった。
「まさか……」
リツコが顔色を変えて立ち上がった。そして、副司令を振り返る。
「あの時と同じじゃ……」
だが冬月は、応えず、眉間にシワを寄せたままエヴァの様子を見詰めていた。
親友の態度に、ミサトは怪訝な視線を向けた。
「リツコ……いいえ、赤木博士。どういう事なの?」
マヤの呼びかけが、司令室に響いた。
「シンジ君!」
シンジ君……!シンジ……!シン……
エントリープラグを満たす溶液の中に、
照明の明かりで満ちているはずのコクピットの中が、とても薄暗く感じられた。
透けているはずのLCLが、少し
人肌の温度に保たれているはずの水温が、冷たいような気がした。
いつしかシンジは、自分の意識の中へと沈んでいた。
シンジ……シン……。
そういえば、ネルフに来る前も、自分の事を「碇」じゃなくて「シンジ君」と呼ぶ人たちがいた。
保護者になってくれていた伯父さんと、その家族と……そして、大人たちだ。
『シンジ君、ずい分とチェロが上手くなったもんだね』
『シンジ君、その歳で、そこまで弾けるのは大したもんだ』
第三新東京に来る前、父さんの伯父……先生の所で暮らしていた時は、何かと大人たちと接する機会が多かった。
学校が終われば友達と遊ぶ暇もなく、直ぐに帰宅してチェロのレッスン。時たま、先生に
大人たちが「上手くなった」「大したもんだ」と
『いえ、全部、先生のお陰ですよ……』
『そんな、大した事ありませんよ……』
こういうのって、社交辞令っていうだっけ?それとも決まり文句?
もし、こういう台詞を決まり文句って言うんなら、ボクが
前の学校では、イジメとかそういうのは無かった。けれど、友達と過ごす時間よりもレッスンの時間の方が長くて、余り親しい子はできなかった。
同級生よりも、大人と話す機会の方が多かった気がする。でも、その大人相手に交わされる言葉で一番多かったのは、
『いえ、全部、先生のお陰ですよ……』
『そんな、大した事ありませんよ……』
そんな言葉ばかりだった。
先生の家に
いつ習い始めたのか、ボク自身は良く
五歳なら、少なくともボクの方から
チェロで奏でる古典音楽は、最後まで、それほど好きにはなれなかった。でも、チェロを弾くこと自体は嫌いじゃなかった。
だって、大人たち相手の社交場で、それが唯一できるボクの表現方法だったんだから。
人とは余り言葉を交わさなかったけれど、チェロを奏でれば、それが言葉代わりになるんだと思ってた。
挨拶をして、腕前を披露する。そして、いつもの決まり文句。
それが、大人を相手にした時の、ボクの言葉の大半だった。
ひととき、チェロに熱中した事もあった。
一生懸命練習して、将来はプロの奏者になるんだ……そう夢を描いた事だってあった。
いつか、どこかの会場で演奏し、観客から拍手を浴びる。
演奏会が終わった後、観客が一人二人と去ってゆく。でも、最後まで客席に残り続ける男の人がいるんだ。
一番、大きな拍手をしてくれた人だ。
ボクは、不思議に思って、その人を見詰める。すると、どことなく懐かしさを感じるんだ。
ボクは、その人に近づき、思い切って尋ねてみる。
「もしかして、父さんですか?」って……。
そしたら、その人は立ち上がって、大きく頷きながら言うんだ。
「シンジ、しばらく見ない間に立派になったな」って……。
「これからは一緒に暮らそう」って……。
そんなふうに夢を見ていた時期があった。
でも、ある演奏会で、ボクよりずっと年下の子が、ボクよりずっと上手にチェロを弾いている姿を見た時、何だかバカバカしくなった。
(ボクの腕前なんかで、プロになれる訳ないじゃないか……)
その時以来、ボクがチェロを弾く目的は、ただ先生に弾くように言われたから弾いてるだけ……そんなふうに変わってた。
学校で同級生たちと談笑。先生の
談笑しているつもりが、いつの間にかただ
学校でそこそこの成績を取って、同級生と少しだけ談笑して、帰ったら先生に言われるままにただチェロを弾くだけ。
いつの間にか、そんな日常の繰り返しになってた……。
中学校に入る時、少しドキドキした。漫画の世界みたいに、きっと色んな出会いや出来事が待ってるんだと思ってた。
平凡な日常の繰り返しが、変わるんだと思ってた。
でも、セカンドインパクトで人口が減少したせいか、中学校に入っても同級生の顔ぶれは同じだった。
だた変わったのは制服だけだった。また、同じ日常の繰り返し。
14歳になった時、急に父さんから手紙が届いた。
手紙には、ただ、「第三新東京に来い」って書かれてるだけだった。
電話一つも掛けずに、手紙一枚だけで、今更ボクを呼び出そうとする父さんの態度に少し腹が立った。
でも、少し腹が立った後、ふと思ったんだ。
あ、違う日常が始まるんだ……って。
同じことの繰り返しだった日常が、これで変わるんだって思えたんだ。
気づいた時、ボクは荷物をまとめてた。先生も、初めから承知してたらしく、反対せずにボクを送り出してくれた。
ネルフに来て……第三新東京に引っ越して……ミサトさんに面倒を見てもらって……新しい学校に通い出した。
学校で見る顔ぶれは、みんな違った。
周りが変わると、何だか少し自分も変わったような気がした。
でも、トウジとケンスケ……あの二人に呼び出されて、殴られた時にそれが勘違いだって事が分かったんだ。
その時は、ショックだった……。
え?そんなに痛かったのかって?いや、そうじゃないんだ……。
理不尽な理由で殴られた事が辛かったのかって?いや、そうじゃないんだ……。
ボクは、今まで人と殴り合った事がなかった。友達と過ごす時間が少なすぎて、喧嘩の仕方すら知らずにいたんだ。
第三新東京に来て、周りの顔ぶれも生活も変わった。だから、ボク自身も少し変わったような気でいた。
でも、殴られた時に気づいたんだ。ボクは、拳を固めて殴り返すって単純な事すらできない奴なんだって……。
(なんだ、ボクは前のまんまじゃないか……)
変わったのは周りだけで、ボク自身は先生の所にいた時のまんまで、何にも変わってなかったんだ。
それがショックだったんだ。
以前は、学校が終わったら、直ぐに帰宅してチェロのレッスン。
今は、学校が終わったら、直ぐに出勤してエヴァの訓練。
全然違う事のはずなのに、結局は、命じられるままに同じことを繰り返すだけじゃないか。
ただ、こっちに来てからは、そこに“痛み”と“恐怖心”がプラスされただけじゃないか。
(一体、ボクは何の為に新東京に来たんだっけ……?)
「エヴァは、適合者とシンクロする事によって動くわ」
司令室では、リツコがミサトに
「人造人間エヴァとシンクロする事によって、パイロットがエヴァの筋肉と神経と五感を自分と一体化させる……これはいわば、パイロットがエヴァを乗っ取るようなものね」
リツコは、司令を
「でも、その逆もありえるの……」
少しためらってから続ける。
「パイロットが何らかのストレスによって、精神状態を乱し、自らエヴァとのシンクロを放棄してしまった場合、エヴァの方がパイロットの肉体と心を取り込んでしまう可能性が……」
「そんな!それは理論上の話でしょ!」
リツコが言い終わる前に、ミサトは遮った。
「前回の戦闘でレイが昏倒した時、シンクロ率はゼロにまで落ち込んだわ。でも、あの時だって……」
だが、そのミサトの言葉も、段上から降り注ぐ
「前例はある」
という一言で遮られてしまった。
言葉を発したのは、司令席で手を組んだまま、今まで沈黙を続けていた碇司令だった。
「前例って……以前に取り込まれた人がいるんですか?」
驚く作戦本部長に、碇司令は応えた。
「私の妻が、そうだった……」
シンジ……シン……シン……。
また、誰かが誰かを呼ぶ声が聞こえる。
だが、それも直ぐに消え、
(もう、どうでもいいや……)
水温がさらに冷たく感じられた。
肌寒さに、少年は目と閉じ、自分の体を抱きしめた。
自分のか細い体を掌に感じる。だが、その感触が次第に
なんだか、LCLと肉体の境界が良く分からなくなっていた。まるで、自分の肉体が溶液の中に溶け始めたみたいに。
(寒い……寒いな……)
抱きしめる腕に力を込める。その度に、自分の体の感触が薄れて行った。やがて寒気も薄れ始め、段々と何も感じなくなる。
だが、薄れ行く感覚の中で、少年はあるものに気づいた。
(え……暖かい?)
感覚が失われつつある肉体……しかし、その一部に不思議な暖かさが生じていた。
(手……ボクの手?)
右手の甲に生じた暖かみ。それがユックリと広がり、失われかけていた……自分の体を抱きしめる腕の感覚が……よみがえる。
(ボクの手……右手に何か付いてる……?)
右手を包む暖かいもの……それは一枚のハンカチーフだった。
(ハンカチーフ?……誰の?)
ハンカチーフの存在に気付いた時、少年の手に、柔らかく優しいものが
その優しさと暖かさが、腕から全身へ、肉体から心へと広がってゆく。
(…………マヤさん?)
LCLが揺らぎ始めた。あの声が、沈み行くシンジの意識に届いた。
「シンジ君!」
突如、シンジの体に痛みが走った。
ビルが爆発炎上する騒音が聴覚を突く。
視界に、異形の化け物の姿が映し出される。
シンジは、我にかえった。