白海染まれ   作:ねをんゆう

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110.ワカレミチ

その日の夜、月は何処にも浮かんでいなかった。

雲に隠され、光は無く、ただ漆黒の闇だけが周囲を包み込んでいる。

彼女が請う様に見上げていたそれは、まるでそれを見上げる者が居なくなったからこそ姿を消した様で。

音もない。

陽もない。

力もない。

どれだけ望みを語ろうとも、どれだけ世界を恨もうとも、動かなければ何も変わらない。動いたとしても、変わるかどうかは分からない。

だから動く、動かなければならないのに。

分からない。

分かるはずもない。

何をすればいいのか。

どうすればいいのか。

まるでこの月の無い夜の様に。

前を見ても、後ろを見ても、視界に映るものは何もない。

 

「……どうした、リヴェリア」

「起きていてもいいのか、ユキ…………いや、クレア」

 

「眠れル、わけが、ナい」

 

「……すまない、分かっている。お前がその様な顔をする程に苦痛に蝕まれているという事など」

 

「それだケじゃあ、ナい……」

 

血臭と薬臭に満ちているリヴェリアの部屋で、上半身を起き上がらせつつも嗚咽と苦痛に苦しみ、悍しい程の汗を流しているのはユキだ。

だが、その内面は決して彼ではない。

むしろユキではその苦痛に耐えられなかった。

だから彼女が表に出て来た。

そうでもしなければ、ユキの心は粉々に砕け散っていたから。

 

「……ユキが、目覚メない」

 

「なに……!?」

 

「着実に、こノ身体の主導権が、私ニ移って来ている……このままでハ私とユキの立場が、完全に入れ替ワる」

 

「そうなればどうなる!?」

 

「私ノ引き受けている憎悪と願望が、ユキの元へ流れテしまう……スキルを発動シなければ、ユキが出てこれなくなる。ユキが本当に、壊れテしまう……」

 

「っ、一体どうすれば……!」

 

分かっている、分からないという事など。

そんな事はクレアが目覚めた時にもう何度も聞いた。

何度も聞いたのに、それは彼女でさえも分からなかった。どころか、まともな思考に割く身体の余裕さえも彼女には無かった。

だから調べている。

あらゆる神々に聞き回っている。

ウラノスにも、フレイヤにも、ヘスティアにでさえも頭を下げて相談した。

だがそれでも、何も分からなかった。

ヘルメスでさえも知らなかった。

全知無能の神々でさえも、答えを出せなかった。

前例もなく、ある筈も無いからだ。

ただの人間が反転した精霊ごと人々の憎悪と1人の人格を取り込み、その上で神の恩恵による十分な成長と定着を行い、更に精霊の胎児などという訳の分からないものを植え付けられるなど……そんな状況、神代以前にまで遡ったとしてもある筈がない。たとえ神々が生まれたその時から数えたとしても、本当に無いのだ。

完全なる未知。

新たなる既知。

知ったとしても、今後恐らく一度たりとも使う事のない、たった一度きりの知識。

 

だからリヴェリアは狼狽える。

だからリヴェリアは恐怖に震える。

神々すらも知らない様な未知が、自分の愛した人間を襲っているのだから。

他の誰かであれば良かったのに。

他でもない自分であれば良かったのに。

それがどうしてユキなのか。

どうして他の者ではいけなかったのか。

そう思ってしまうくらいに、リヴェリアは憔悴しきっていた。

誰の目にも分かるくらいに。

誰の手でも止められないくらいに。

激しく、絶望的に。

ユキが倒れてから、僅か3日というこの時間で。

ユキが見れば、心の底から心配になるくらいに。

 

「………リヴェリア」

 

「な、なんだ……」

 

「……お前はただ、信じテいれば、いい」

 

「どういう、ことだ」

 

「ユキは、必ず、私ガ連れ戻す……だからお前は、心配しナくても、いい……」

 

「お前は何を言って……!」

 

「元々、私が背負わセたもの、だからな……これは私とユキの、……いや、私だけノ、責任だ……」

 

その目に宿る炎を、リヴェリアは知っている。

その目に宿る光を、リヴェリアは見た事がある。

決意だ。

何かを守る為に自分を犠牲にする。

死の淵に立たされた冒険者達が瞳に宿す、死に際の命をも燃やす真っ赤な光。

 

「お前は……」

 

「私を信ジてくれ、リヴェリア……お前には今、別にヤるべき事が、ある筈、だ……」

 

そうだ、今のリヴェリアにはやるべき事が多くある。

地下への突入で失われた命は多くあり、新たに生まれた問題もまたフィンやガレスが病み上がりの身体を無理に起こしてまで始末している程に多くある。

それは確実にリヴェリアがこうして動けない状態にある事もまた、彼等の負担を増す事を助長しているのだ。

本来ならば今直ぐにでも仕事に戻るべきなのだ。

それこそが恋人では無く、ロキ・ファミリアの幹部としての彼女の役目なのだから。

 

「……どうしたらそうまで、強く、あれる。お前も私も、ユキを失う事を恐れているのには変わりないだろうに」

 

「単純に、お前ガ身動きが取れナくなる程に、ユキの事を、愛してクれた。それだケの、話だ。私ノ大切な弟を、愛しテ、くれた……」

 

「……前に聞いた時には、恋人と言っていなかったか?」

 

「くふふっ……それは無理だ。ユキは私ノ、弟だ。血は繋がっテ居なくとも、出会った時かラ、確信していた。あれは、私ノ、弟だと」

 

優しい目。

とてもでは無いが、港に居た時にあれほど恐ろしく暴れ回っていた人格とは思えない。

だが思い返せば、あの暴れ様すらもユキへの愛が成していたのかもしれない。

なぜならばクレアがああしてユキに害を為す連中を消していたのならば、ユキに当たる人間の悪意は減らせるのだから。

ああして悪人の前にクレアが出てくるのならば、ユキは悪人と対面し、その命を奪う苦しみを味合わなくてもいいのだから。

そして、たとえ無意識のうちにであったとしても、それをクレアのせいに出来るのだから。

 

「私は、姉だ……だから本当ハ、あの子を守らないと、いけなかった。それでモ今日まで、ずっと、守られテきた。だから今度こソ、私が、守り抜く。たとえこノ魂を、犠牲にしたとしても」

 

「…………」

 

「……リヴェリア、私はお前を認メる。弟の恋人として。だからユキが帰っテ来た時ハ、お前に、全てヲ任せたい。私ノ代わりに、ユキを、守って欲しい」

 

「……分かった、約束しよう。だからお前にも約束して欲しい。必ずやユキを救い出してみせると」

 

「……当然だ」

 

そうして会話を終えたリヴェリアは、一度仮眠を取る為に近くの椅子に座り込み、目を閉じた。

いくら身体はユキと言えど、中身が別の人間と眠所を共にする訳にはいかない。それはエルフとしての話ではなく、恋人を持つ女性としての、それだけの話。

 

 

 

……だが、リヴェリアが目を覚ました次の朝。

寝所からクレアの姿は消えていた。

ユキが持っていたはずの剣も、衣服も、何もかもを持ち出して。

門前に立っていた門番や、他の団員達も気付く事のない暗闇の内に、彼女は姿を消していた。


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