昼を回って日が沈み始めた夕方頃。
赤く焼けた空を見上げながら、ユキは敷地外に置いてある小さな椅子に座っていた。
先程まで配っていたフルーツパイはとても好評で、あんなことを話してしまったレフィーヤであってもそれを少しも残すことなく食べ切ってしまった。
最初はファミリアのメンバーと交流を図るために行なっていた差し入れも、今やその楽しさを見出してきている。
自分の作ったものを喜んでくれるということはとても嬉しいことだと、最近では趣味のようにもなってきた。
……しかしそれでも、今日ばかりは何故かその嬉しさも少ない。
とても喜んでくれていたし、感謝もされた。
けれどそれでも、ユキの中のモヤモヤが晴れることはない。
朝まであれだけ調子よくしていたのにも関わらず、これは一体どうしたことだろうか。
自分の中のおかしな感情に、ユキ自身も戸惑いを隠せない。
きっと、お昼にレフィーヤに対して無意識に話してしまったアレが原因なのは間違いないだろう。
しかしあの事件のことは自分の中で既に整理がついており、今更気にすることなど無い筈だった。
にも関わらず、何故自分の心はこれほどに乱れてしまっているのか。
考えれば考えるほど頭は混乱していく。
「リヴェリアさん……」
ふと、そんな言葉が口から出た。
なぜこのタイミングで彼女の名前が口から出てしまったのか、自分でも驚いて口を手で覆う。
確かに待ち遠しくはあれど、自分の過去を振り返っている最中にどうして彼女の名前を呼んでしまう必要があったのか。
しかし、そんなことは少し考えれば簡単に分かってしまうものだった。
そして同時に、その理由は自分に嫌悪感を抱かせるようなものでもあって、思わず顔をしかめてしまう。
……要は、自分は決してあの事件のことを本当の意味で乗り越えられていたわけではなかったのだ。
ただそれまでは、近くに頼れる、依存できる人が居たからこそ、目を向けても平気でいられただけであり。
逆に言えば今自分が再びこうして動揺してしまうのは、近くに依存できる人間が居ない環境が長く続いてしまったからに他ならない。
そして今この瞬間、彼女がリヴェリアの名前を呟いてしまったということは……
(もしかして私は、今度はリヴェリアさんに依存しようとしている……?)
誠実で、清純でありたいユキにとって、その事実はあまりにも受け入れ難いことであった。
リヴェリア・リヨス・アールヴというエルフが自分をとても気にかけてくれていることはよく知っている。
自分が傷付いた時には真っ先に来てくれたし、大怪我をした自分に最後まで寄り添ってくれていたのも彼女だ。
彼女はとても美しい人で、それは外見だけではなく内面も同様であり、それ相応の苦労と経験を積み重ねて自分を研磨し続けた末に今を作り上げた、正に美の結晶とも言っていい存在だ。突然このファミリアに現れた自分の様な存在にも優しさを見せる彼女は、そんじょそこらの女神より女神をしていると言えるだろう。
……そんな彼女を愚かにも自分は、ただ依存の対象として見ていた?
そう考えると、途端に身を引き裂かれる様な痛みに襲われてしまう。
きっと、普通の人間ならばこの程度のことでここまで思い詰めることなどないだろう。しかし彼は女神アストレアと自身の母という、異常といってもいいほどに誠実過ぎる人格者達の下で育った。
そんな彼が自身の誠実でない部分に触れた時、過剰な反応をしてしまうのも仕方がない。
彼は極度の潔癖症なのだ。
自分の内面に関しては特に。
それこそ、それだけで破綻してしまう程の深刻な深度で。
「私は、別にリヴェリアさんに依存なんて……」
『私がどうかしたのか?ユキ』
「っ!!」
突如として後ろからかけられたその声に、
求めて求めて止まなかったその声に、
涙まで流しそうになっていたユキは意識もなく無意識に身体ごと動かして声の主の元へ振り向こうとした。
……しかしそうすることは叶わず、背後から襲ってきた大きな衝撃と拘束によって、ユキは逆に姿勢を固められてしまう。
身動きが取れないことよりも、後ろを振り向けないことよりも、今こうして味わっている感触への驚きの方が、ずっとユキを動揺させていた。
口をパクパクとさせ、大した反応も出来ずに身体が固まる。
「へっ?えっ、ええっ!?」
「ほう?お前がこれほど動揺してくれるとは思わなかったな。なかなかに恥ずかしくはあるが、やはり何事も試してみるものだ」
それはユキでさえも信じられない行動。
自分の顔のすぐ横にその人の顔があって、その人の身体の感触が自分の背中で強く感じることができる。
けれど、他でもない彼女がこんなことをする筈もなく、きっと他の誰に言っても信じて貰えないような出来事だ。
エルフの王族たるハイエルフ。
エルフとしての誇りを誰よりも大切にし、その身の清純を何百年もの間守り続けてきた彼女。
いくら親しくさせて貰っているとは言え、男の身を持つ自分に対して、背後から抱きついてくるなど有り得るのだろうか。それも年頃の少女の様に勢いを付けて、はしゃぐ様に、頬を染めながらも、確かな笑顔で。
「りっりっりっ、リヴェリアさん!?い、いったいなにを!?」
「いやなに、帰ってくる最中にアイズがそれはもう盛大に見せつけてくれたのでな。私も密かな対抗意識を燃やしていたのだが、こんなことをできる者がお前以外に思い当たらなかった。人目のない所に居てくれて助かったぞ、ユキ」
そう言ったまま離すことなくユキの頭を撫で始めるリヴェリア。
しかしその顔にはやはりそれなりの照れも浮かんでおり、こういったことに慣れていないということは明らかであった。
……ただそれでも、彼女がこうして近くに居てくれる意味が分からないほどユキは愚かではない。
彼女がそれくらい自分を信頼してくれていて、自分がいつのまにか彼女にとってそれほどの存在になれていた。
それに対する嬉しさは勿論言葉では表せないほどに大きなものであったし、こうして抱き着かれているだけでも強い安心感と高揚感が感じられる。
「っ」
けれど一方で、だからこそ先程まで抱えていた自分への嫌悪感もまた増していた。
これだけ自分を信頼してくれている人を、単なる依存対象として見ていたということが堪らなく許せなくなる。
嬉しさと悔しさが相まって、感情が激しく荒れ狂う。
他でもない彼女の前でこんな無様な姿は見せたくないと必死になって感情を押し留めるが、それでも隠しきれない自分の弱さに、更に嫌悪感が増すのを止められない。
何をしようにも全ての考えが悪循環となって自分を襲い、溢れ出す涙と震え出す身体をリヴェリアにバレることのない様に必死に隠し通す。
笑顔で迎えたいと、嬉しさを伝えたいと、無理にでも笑顔を作ろうとしても、何故だか顔は醜く歪んでいく。
朝迎えられていたら、きっとこんなみっともない姿を見せられずに済んだのに、と。
そんな言い訳をする自分すらも許すことができず、自分のあらゆる行動を否定し始め、そうするにつれて自分の憧れた人達の姿からかけ離れていくことが理解できてしまって……それで……
「全く、お前は本当に世話がやけるな」
耳元で囁かれたそんな言葉に、心臓が跳ね上がった。
世話を焼かせるつもりはなかったのに……
そう言おうとした口元まで押さえられる。
まるでそれ以上を言わせるつもりはないぞ、と言わんばかりに。
「大方、私に依存し始めている自分が許せなくなったとか、そういう話だろう。全く、何を落ち込んでいるかと思えば。潔癖にも程があるぞ?大馬鹿者」
「うぅ」
先程の呟きが聞かれてしまっていたのか、すっかりと自分の考えを見透かされてしまっていたことが恥ずかしくなる。そして同時に、こんなにも醜い考えを知られてしまったというのが悲しく、辛い。
出来るならば一生知られたくはなかったし、こんなもの幻滅されてしまうに決まっている。胸の辺りに締め付けられる様な痛みが走り、段々と堰き止めていた感情が溢れ始める。
そして口元を押さえているリヴェリアの手を涙で濡らしてしまうことが、何よりも申し訳なかった。
「……なあユキ、少し昔話をしようか。私がロキに誘われてファミリアに入ったばかりの頃の話だ」
「……?」
突然そんな話をし始めたリヴェリアに、訳もわからず頷くユキ。
そんなユキの涙を拭きながらリヴェリアは話を続ける。
「当時の私はまだ故郷を出たばかりで視野が狭かった……と言えば優しく聞こえるが、それはもう身勝手なエルフだった。ガレスとは些細なことで毎日の様に口論し合い、フィンのことをその身に見合わぬ野望を持つ愚か者だと見下していたんだ。他にも、今思い出せば頭が痛くなることばかりしていたぞ?私の身勝手が原因で全滅しかけたことだってあるし、実際に大騒動になったことだってあった。100年や200年前のことではないぞ?ほんの数十年前の話だ」
「……意外、です。想像も、できないです」
「ふふ、この話をするとよく言われる。
……それで、どうだ?この話を聞いて、お前は私に幻滅したか?
私はお前が思い描いていた様な根っからの聖人ではない、心の内では今もそれなりに愚かな考えが巡ることがある。そんな私に、お前は失望するか?」
「そ、そんなことはしません!私はそんなことでリヴェリアさんを……!」
「私だって同じだ」
「っ……!」
ぐっと腕に込められる力が強くなる。
彼女の顔が自分の顔と接触するほどに近くなる。
己の認めた者以外の肌の接触を嫌う種族の、その王族である彼女のその行動に咄嗟に顔を背けてしまうが、無理矢理にでも引き寄せられ頬と頰が接触する。
いったい彼女がどんな顔をしているのか、そして自分がどんな顔をしているのかが分からない。
ただそれでも、そこに嬉しさがあることに変わりはない。
「……お前は本当に愛らしいな。ここまでしても一向に男らしい反応が出てこないのは少々気になるが、こんな些細なことでここまで悩むとは」
耳元で聞こえる優しげな声色にささくれ立った心の棘が溶かされていく。自分で自分を傷付けていた針が一つ一つ引き抜かれていく。
「少しくらい依存欲が出たところで、私がお前を見捨てる訳がないだろう。私がお前のことをどれだけ気に入っているのか、まだ分かっていないのか?」
「それ、は」
「むしろ私は嬉しいくらいだ、お前は少々白過ぎるからな。こうして人間らしい欲を見せてくれたこと、それを他ならぬ私に感じてくれたということには、あまりの嬉しさに歯の浮き様が抑えきれん」
「で、ですが、こんな不誠実な思いは……」
「私はお前に依存しているぞ?」
「へ……?」
そんな思いもよらない言葉にそれまでの暗い考えが吹き飛んでしまい、ユキは思わずあまりにも間抜けな表情を晒してしまった。
けれどそのユキの顔が面白くて、可愛らしくて、愛おしくて、リヴェリアは頬をふにふにと摘みながら言葉を紡ぐ。
「なに、この1週間お前と離れてダンジョンに潜り続けていたのだがな。どうにも気疲れと物足りなさが酷い。何かあるごとに気付けば目線がお前を探してしまうのだ、これを依存と言わずして何という?」
「え、あ、ぅ……」
「さて、もう一度聞こう。私はお前に依存している、それを聞いてお前はどう思った?幻滅したか?」
「……う、嬉し、い、です。リヴェリアさんが、私を、必要としてくれてるって、嬉し、くて」
「そういうことだ。私はお前を必要としている。そしてお前もまた私を必要としてくれるのならば、これ以上に素晴らしいことは無いだろう?確かにあまり過剰に求められても困るが……」
そうして、彼女はその豊潤な唇をユキの耳に当てる程に近くへと迫らせる。反対側の耳奥へはその華奢な指を滑り込ませることで防ぎこみ、静かにゆっくりと息を吸い込んだ。
……そして、熱と吐息をたっぷりと込めた一言を、二度と忘れることの無いように想いを込めた一言を、彼の意識の奥の奥へと注ぎ込むように、脳の全てに刻み込む様に、リヴェリアは密かに、けれどハッキリと、ユキの片耳に向けて囁いた。
『私はお前に依存されたい』
「ぴぁッ!?」
情欲を掻き立てる様なその言葉に、確かにユキの心は大きく跳ねた。
これまでに感じたことがないほどの熱が頭へと登り、恐ろしく感じるほどに顔が熱く、赤くなる。
きっとリヴェリアほどの美貌を持つ者にこんなことをされてしまえば、男だろうと女だろうと欲のままに襲いかかってしまうのも当然と言えるだろう。
しかしここでそうならなかったのは既にそういった感情が希薄なユキであったからこそで、そんなユキであっても自分の中にあった何かが吹き飛んでしまったほどに強烈な衝撃であったということが証明できる訳で。
「り、りりっ、りっ!りっ……!?」
「ほう、ここまでして漸く、ほんの僅かにだが男の顔が出てきたか?それでも相変わらず可愛らしいが……して欲しいことがあれば今のうちに言っておけよ、ユキ?今の私はアイズへの対抗心とお前への愛おしさで多少たがが外れている。少しくらい過激な内容でも受け入れられるかもしれんぞ?」
「なっななななっ!なっ!なっ!なっ!?」
「くっ、くく、流石に冗談だ。私とてこれ以上の接触は限界がある、今でさえ羞恥心で脳が爆発しそうなのだからな。これ以上を要求されると本当に気絶してしまいそうだ」
そう言って口元に手を当てながら笑う彼女の顔は確かに自分と同じ様に紅く染められていて、それを見てユキは更に自分の中から熱が込み上げてくるのを感じる。
感じたこともの無い様な感情に晒されて、同様に赤くなった自分の顔を隠す様に。
内股の間に両手を挟み込みながら俯くユキの姿は、先程のリヴェリアの言葉とは逆に完全に女性のそれではあるのだが、それでもこの様な反応を見せたのは初めてであった。
俯くユキの顔を、覗き込む様にしゃがみ込むリヴェリア。
それでもやはり顔を背けようとする彼の両手を取り出して、包み込む様に握り締める。
そんな少しの動作にもいちいちオロオロしてしまう彼を逃さぬよう、リヴェリアはしっかりと目線を合わせて、トドメを刺した。
「ただいま、ユキ」
「〜〜〜っ!……お、お帰りなさいです。り、リヴェリアさん」
少しだけ震えて涙目になりながらも、必死に目を合わして『おかえり』を言うその様子があまりにも可愛らしくて、ゾクゾクと背筋を走った感覚をリヴェリアはしばらくの間忘れられそうにない。